夢の続き
Taika Yamani.
第八話 「もう一つの条件」
まだ梅雨には早いはずだが、ぐずついた天気で、小雨が降っている。こんな日にベランダにでる物好きは希だけのようで、昼休みに一人、希は壁に背を預けてぼんやりと外を見つめていた。
一年から二年になり、一階から二階に上がったことで、ベランダからの景色もまた少し変わったが、広がる街並みはそう大きくは変わらない。「希」が生まれ育った街。「望」の世界とは、違うところも少なくないその街並み。
そんな雨に揺れる街並みから、希はそのまま、真横に視線を流した。
「……黙って立ってるのは悪趣味だと思うな」
怜悧は実に嬉しそうに近づいてくる。
「話しかけるのがダメなら、それしかないだろ」
「ほんと、律儀だね」
「希がおれのものになるからな。後五ヶ月の辛抱だ」
「……もうそんなになるんだね」
「まだそんなにあるのかとおれは嘆きたいぞ」
その言葉は本気らしく、怜悧の表情はちょっと真剣だ。希はくすりと笑う。
「もうすぐ体育祭だね」
六月の第一週の日曜日が、葉山月学園高等部の体育祭にあたる。怜悧は「そうだな」と気を取り直したように、彼も壁に背を預けた。
「希はなんにでるんだ?」
「んー、補欠でいいな」
「なんだよ、せっかくだからなにかやろうぜ。そうだ、おれと二人三脚なんてどうだ?」
「転びそうだから嫌」
「むか」
「あはは」
他愛もない会話が楽しい。穏やかな日常。穏やかすぎる日常。
しばらく体育祭の話題で盛り上がった後、ゆっくりと怜悧が話題を変えた。
「なに黄昏てたんだ?」
「ん〜? そんなふうに見えた?」
「憂いのある美少女の図だな。並の男なら一発でノックアウトだ」
「あんまり誉められてる気がしない言い方だね」
「おれが並の男じゃないからだな」
もう怜悧が何を言ってるのかさっぱり意味不明だ。希はくすくすと笑いだす。
「怜悧は、この先どうするの?」
「ん、ああ、その件か」
二学期制の葉山月学園では、おおよそ一月半から二ヶ月おきにテストが行われる。期末試験さえパスすれば進級できるこの学園だから、成績を左右するテストではないが、期末試験の成績が危ない生徒にとっては救済をかねることもあるテストだけあって、みなそれなりに熱心だ。大学受験を睨んだ模擬テスト形式なのも盛り上がる原因かもしれない。
「望」の成績は「希」の知識を加える前からかなりよかったが、「希」の知識も加わった今はかなりのハイスコアをたたき出す。はずだが、「希」の過去からの習慣に従って希は意図的に手を抜いていた。五月下旬に行われた今回のテストも、可もなく不可もなくという成績だ。今の希は勉強にはあまり重きを置いていないくせに優秀な成績という、できないものから見ると実に嫌味な存在だった。
そんな試験後のこの日、二年生には進路希望調査用の用紙が配られていた。提出は来週の月曜日までだが、希がこんな天気の日にこんなところにいるのも、それが一因ではないとは言い切れない。
「希はどうするんだ?」
「怜悧は、大学はやっぱりこのまま葉山月?」
「それもありだけど、受験してよそにいくのもいいな。おまえは?」
「就職はどうするの?」
「だからおまえは? もう決めたのか?」
「……大学は、どうしようかな。葉山月でもいいけど、医学部を受けるかもしれない。もしくは、弁護士を目指すなら法学部かな」
「え? おまえが? 医者か弁護士? いつからそんなこと考えてたんだ?」
「高等部に入ってから少しずつ、ね。どちらもそれなりにお金になって、自分や、自分が好きな人を護る手段にもなる。医者も弁護士もテクニカルな仕事だし、仕事としてやってみたいというのもある」
「どっちも上に行けば行くほど忙しい職業だな」
「そうだね。でも、能力的には上を目指したいけど、経済的にはそんなにはいらないから、忙しすぎるのはイヤだな」
「そうだな。おまえは旦那のおれが稼ぐからな」
「だれがだれの旦那?」
「おれがおまえの」
「…………」
さあどう言い返してやろうか、と希が数秒思案すると、怜悧は話を戻した。少し、優しい顔になっている。
「童話作家にはならないのか?」
「…………」
希は怜悧から視線をはずし、また外を眺める。
「……それを目指すべきなのかなぁ」
それは、「希」の夢。
記憶はすべてあるから、「希」がやろうとしていたこと、やりたいことを目指すのは可能だ。だが、色々な意味で問題がある。第一に、「希」ならそれを実現できたかどうか。才能があったのかどうか。第二に、仮に「希」にその才能があったとしても、それが「今の希」にまで受け継がれているのかどうか。第三に、やれるとしてもやれないにしても、今の希がそれをやりたいのかどうか。
「やりたくないのか?」
「……やってもいいけど、面白そうだけど、たぶん本気にはなれない」
「ま、おれも怜悧みたいにまじめに家業を支える気なんてないしな。やりたいことをやる気満々だ」
「……お気楽だね」
希は少しだけ笑ったが、重要な問題がある。
「また入れ替わったら、どうする?」
「それは困るな。もうこっちでいいぞ」
「……願えばなんでも叶うのなら、話は楽なんだろうけどね」
入れ替わる、という現象なのかどうかは不明なままだが、今の希としては、もうどちらでもいいから安定してほしいと真剣に思う。まだ十代だからいいものの、これが四十代くらいで、社会的に安定している状態で入れ替わったらかなりいやらしい。
例えば、このまま大人になって「医者の希」が、いきなり「童話作家の望」の身体に放り込まれた場合。当然「童話作家の望」に医師免許などないだろうから、医者を続けることは不可能になるだろう。それどころか童話作家として成功しているなら、いきなりその地位を捨てるのも問題がでてくる。さらに言えば、一方が愛せても一方が愛せない人間と結婚していたりもするかもしれない。
考えれば考えるだけ問題がでてくる。このままでは人生設計もへったくれもない。学生時代はともかく、先に行けば行くほど、生きにくくなる。
「いつ入れ替わってもいいようにすべきだとは思わない?」
「向こうも同じことを考えるとは限らないぞ。それにやりたいことをやらないのは間違ってるだろ」
「やりたいことをやることが将来の問題に繋がるのなら、時には我慢も必要だと思うよ」
「一生我慢しろって? どうなるかわからん以上は、やりたいようにやって後悔する方がましだ」
「……やっぱりお気楽だなぁ」
原因を追求して対策を練るべきなのかもしれないが、希はそれはリスクが高いものとみなして、人任せにしてすでに考慮からはずしている。情報次第では気がかわることもあるかもしれないが、その方面に無駄な労力をさくつもりは、今の希にはない。となると怜悧の言うとおり、この件についても開き直るべきなのだろうが。
「それで悩んで黄昏てたのか?」
「……悩むというより、ちょっと考えてた。先のことを色々と」
「結婚して子供を産んでお母さんになって?」
「結婚しないで一人で生きて一人で死ぬのもいいんだけどね」
「おいおい、また物騒な」
「キミの発言は偏ってるからね」
軽く笑って、希は一般常識からかけ離れたこの現象のことを、一時頭から追いやった。再度怜悧に話をふる。
「怜悧はどう?」
「どこが偏ってるんだよ」
「いいから教えてよ。知りたいな、怜悧の進路。将来どうするの?」
軽く、女の武器を希は使った。にっこりと怜悧に甘えた視線を送る。
「……おまえ、可愛すぎ」
この日の怜悧はたじたじにはならなかった。そのかわり、希の肩を抱いてきた。ちょっと効き過ぎた効果に、希は内心嘆息だ。
「教えてよ」
「そうだな、あんまり真剣に考えたことはないな」
「……家は、毅さんが継ぐんだよね」
「ああ。凛華姉様にはその気はなさそうだし」
「……今の怜悧が姉様なんていうの、すごい違和感があるね」
「失礼なやつだな。まあ、自分でもそう思うが」
肩を抱いたまま、怜悧は笑って前を向く。希も、肩を抱かれたまま、また外を眺めた。
「二人とも性別は同じだよね。相変わらず?」
「ん、ああ、そうか、こっちではまだ会ったことないんだな。相変わらずだよ」
「そっか」
「今度遊びにくるか?」
「そうだね、久しぶりに会ってみたいかな」
「でも、凛華姉様はともかく、毅兄様にはまだあんまり会わせたくないな」
「どうして?」
「希に手を出しそうだから」
「……またそういうことを」
「ま、兄様も滅多に帰ってこないから大丈夫だろ。今度遊びに来いよ」
「……それもそれで怜悧に襲われそうだね」
「はっはっは」
「……その笑いはなに?」
希は冷たい目でつっこむ。怜悧は軽く笑って目をそらした。
「毅兄様たちの性別もそうだけど、おれたちより上の年代にいけばいくほど性別は同じみたいだよな」
「ごまかしたね……」
「十も離れればほとんどの人間が同じだし」
このやろ、と呟いたが、希も本気ではない。表情を緩めた。
「横とか下はもう完全にひっくり返ってるしね」
「笑えるやつも多いよなー。あれがこうなるのか、という」
「怜悧だってわたしだって、客観的にはすごい違いだと思うよ」
「まじめで優しい優等生に、暗いいじめられっ子、か」
本当の「怜悧」と「希」。怜悧に続いて、希も「怜華」と「望」の主観的評価を言ってみる。
「もう一方は、高飛車でわがままなお嬢様に、無気力で適当な男」
「笑っていいところか?」
「どちらでもどうぞ」
「じゃあ、怒ることにしよう」
希の肩にあった怜悧の手が、首に巻きついてくる。なんでそうなるの、と、希は笑って腕の中から離れた。怜悧は残念、という顔をしたが、笑顔を絶やさない。
「おれは何か作りたいな」
「ん?」
希はきょとんとした。
「おいおい、おまえが訊いてきたんだろ。将来どうするのかって」
珍しく怜悧が本気で脱力した。希は少し慌てる。
「ああ、その話ね。何かって何?」
「なんかまじめにいうのが馬鹿らしくなってくるじゃないか」
「ごめんごめん」
「本気で悪いと思ってるか?」
怜悧の手が再び肩に伸びてくる。またか、と希は怜悧を睨んだが、逆らわなかった。
「うん。だから教えて」
「……なんか、今日の希は素直だな」
「いいから、教えてよ」
「教えるもなにもな」
もう一方の手で、怜悧は希の髪を撫でる。
「とりあえず自由に使える金は多いからな。ただお金を増やすだけもつまらんから、何か作りたいなと漠然と思ってるだけだ」
「クリエイティブなことをやりたい、と?」
「無理に横文字で言わなくてもいいと思うが、まあそんな感じだ」
「何を作りたいの?」
「だからまだわからんってば。ま、人をびびらせるようなのか、面白いのか、役に立つのか、そのへんがいいな」
「けっこう適当だね」
「まだ先は長いしな。そろそろおれもオトモダチとやらを見つけるべきかな?」
「……たまに、キミの話題の展開についていけないのは、わたしのせいかな?」
「あはは。充分話の流れにそった話題だぞ。おれは金を出せるから、面白いアイデアを持つやつを見つけて一緒にやるわけだ。さすがに、そっち方向のインスピレーションまで溢れてるなんて思い込むほど自信過剰じゃないからな」
「…………」
らしい発言とらしくない発言が入り乱れていて、希は一瞬、どう反応していいのか態度に困った。
「ちょっとだけ見直したかも」
「お、惚れ直したか?」
「もともと惚れてないけどね」
「じゃあ惚れたか?」
すぐそういう話ばっかりする。希はくすくすと笑った。
「一人で何でもできるとはさすがに思ってなかったんだね。もっと自信満々だと思ってた」
「自分でできることと、できないことと、できるかどうかわからないことを知ってるからこそ、自信満々なんだよ」
「……またびっくり」
「おまえはおれを何だと思ってるんだ?」
希はじっと怜悧を見た。
もう何年も一緒にいるのに、お互い見せていない顔、見ていない顔も多いことに、今更気付く。
「……わたし、知らないこと、多いね」
「そうか? ちゃんと見てくれてなかっただけじゃないか?」
「……ま、キミを敬遠してたからね。半分はキミのせいだよ」
「なんでそうなるかな」
不満げな声だが、怜悧は笑っていた。
「ま、いいさ。これからだしな」
「ちょ、ちょっと」
いきいなり怜悧の顔が自分の顔に近づいてきて、希は少しじたばたした。
「ここ校舎だよ!」
それも昼休みの教室外のベランダだ。壁で影になっているが、中の窓から見えないこともない。
「気にするな」
「気にするに決まってる!」
一度許してしまってから、怜悧は隙あれば調子にのってくる。一度許した以上、二度も三度もあまりかわらないから本気で怒ることは滅多にないが、ところかまわず迫ってくるのはなんとかして欲しい。
怜悧はこの時本気なようで、腕の力が強い。希もさすがにこのTPOではかなりイヤなのだが、すでに学校で許してしまったこともあるから、その抵抗は弱い。
その声が飛んできたのは唇が触れる寸前だった。
「こんなところでなにをやっているのです!?」
怜悧の幼馴染みの三馬鹿トリオの一人、立花春奈の声だ。すぐに残る二人の声も響いた。
「い、いくらなんでも、破廉恥すぎよ!」
「学校でそんなこと、信じられない!」
「くそ、いいとこなのに」
怜悧は小さく呟き、顔を離す。希は「なにがいいとこだ」と思いすぐに離れようとしたが、怜悧の腕の力はそのままだった。肘か膝か出せば逃げられるのだが、さすがにそこまでするつもりはない。内心嘆息しつつ、希は三人に背を向けて怜悧に抱かれたまま、四人の反応を待った。
「キミたち、おれに話しかけるなと言っといたはずだけど?」
「な、れ、怜悧くん、そんなのあんまりよ!」
「あたしたちが何をしたって言うんです!?」
思いっきりしただろ、と、希は黙ったままちょっと思う。怜悧は反対のことを言った。
「キミたちがなにもしてないからさ。おれの条件を忘れたとは言わせないよ」
怜悧の言葉に三人は押し黙る。希は顔を上げて、ちょっと強く身体を動かした。怜悧はそれを察したようだが、これ以上行動を制限したりしない。腕の力が抜けて、希の身体が自由になる。
振り向くと、希の視線は、まっすぐに睨みつけてくるトリオの視線にぶつかった。
「ほら、わかったらいきなよ」
沈黙をどう思ったのか、希の後ろから、また無造作な怜悧の声。希はちょっと三人に同情したが、ここで状況が一変した。
真っ先に動いたのは篠塚舞だった。
「希さん、いきましょっ」
「え?」
片手がとられる。麻生有紀も続いた。
「ちょっとお話があるのっ」
笑顔で、もう一方の腕を。立花春奈が素早く、怜悧と希の間に入る。
「こっちで話しましょっ」
はっきり言って三人の笑顔が怖いのだが、希は逆らわなかった。
「お、おい!?」
怜悧が少し狼狽した声。三人は、怜悧を一睨みした。
「これから、約束を果たしてくるわ」
「怜悧くんは邪魔しないでください」
「もともと、怜悧くんが言い出したことなんだからね」
希は、なんとなく笑い出してしまった。即座に、「なんであなたは笑ってるのよ!」とでもいうような視線が飛んできたが、それもまたよしだ。
希は三人に連れられて教室に入り、そのまま女子トイレに連れ込まれる。
「また定番の場所だね」
呟くと、やはり怖い視線。ごめん、と笑って、希は小さく両手を上げる。
沈黙が長い。トイレの個室にだれか入っていたようで、あまり描写しにくい音と、水が流れる音が響く。その彼女は外にでてきて、ちょっとびっくりしたような顔になった。慌てたように手を洗って、トイレを出て行く。
そんな雰囲気の中、長い長い沈黙を破ったのは三人の方だった。
「あなたと仲良くしてあげてもいいわ」
「もちろん、いやいやだけどね!」
「光栄に思いなさいよ!」
笑ってはいけない。と思ったが、とまらなかった。希は笑い出していた。
「わたしが、キミたちと仲良くする理由はないと思うけど?」
「な……!」
「此花のくせに!」
「な、ナマイキよ!」
希の発言も四人の過去を考えれば至極もっともなはずだが、三人の気持ちもわかる。希はしみじみと笑った。
かつて希をいじめていた三人の幼馴染みに対して、怜悧がだした条件。「希と仲良くしなければもう絶交だ」という条件。
「キミたちもたいへんだね」
また、数秒の間。
今度の沈黙は、三人にとって屈辱を表していたらしい。三人、いきなりわめき出した。
「ど、どーしてこんなやつと仲良くしないといけないのよ!」
「怜悧くんひどいよ!」
「わたしもういや!」
希の知らないところで、色々と感情が鬱積していたのかもしれない。
「だいたいあなたが」「あたしたちが一番近かったのに」「あんなに不細工だったのに」「優しかったのに」「怜悧くんにちょっかい出すから」「こんなにも相手にしてくれなくなるし」「いつもべたべたして」「性格まで変になるし」「可愛くなるし」「どうしてあなただけ」「冷たくなるし」「可愛くなる前から目をつけてるし」「壊れてるし」「あたしだって」「怜悧くんの馬鹿!」「羨ましいわよ!」
もう何がなんだか、希は苦笑してトイレのドアにもたれかかっていた。
「な、何とか言いなさいよ!」
「さぞいい気味でしょうね!?」
「あたしたちの怜悧くんを奪えたんですものね!」
「うーんと、その件については、ごめんね。怜悧は返せないかもしれない」
「やっぱり!」
「本当はあなたから言い寄ってるんでしょ!?」
「いつも怜悧くんあなたに話しかけないもの!」
「それは賭けをしてるから。次の誕生日まで怜悧から話しかけてきたら、わたしと怜悧の仲はそれまで」
ぴたりと、なぜか三人とも一瞬押し黙った。
「どうしてそんな賭けなんかしてるのよ?」
「あなた、バカ?」
「ひどい言われよう」
思わず希は笑ってしまう。三人の視線は胡散臭げになっていた。
「怜悧くんはあなたが本当に好きなの?」
「それは本人に訊いて」
「あなたは怜悧くんが好きなの?」
「……嫌いじゃないよ」
「なによそれ、あんなにベタベタしてたくせに」
「まさか弄んでるんじゃないでしょうね?」
「むしろわたしが弄ばれてる気もする」
希は素直に応えているのだが、三人の不審の視線は相変わらずだ。その日は残りの時間ずっと、根掘り葉掘り希は質問攻めにあった。
途中トイレに来た女子生徒もいたが、四人の様子にすぐにぐ回れ右をして別のトイレへと逃げ出していた……。
昼休みが終わる寸前になって教室に戻った希を、怜悧はじろじろと見つめてきた。希はちょっと微苦笑でそれに応えたが、時間もないし自分からは声をかけには行かない。怜悧はすぐにターゲットを三馬鹿トリオに変えたようで、三人はなにやらにこやかに怜悧に対応する。
怜悧の顔が怪しげなのは、三人が希と仲良くなったとでも嘘をついたためだろうか。希はくすりと笑って、のんびり読書にいそしんだ。
五時間目の休み時間にも、怜悧は希に話を聞きたがったようだが、希は自分からは動かない。怜悧も怜悧でまたトリオに話しかけられたようで、ちょっと不機嫌そうながらも、普通に相手にする。そのうちどういう流れになったのか、希の席に麻生有紀がやってきた。
「希さん」
「ん?」
希は本から顔を上げた。有紀の笑顔が、やっぱり、なんとなく怖い。
「読書のおじゃまよね?」
「うん?」
「じゃまよね、ならいいの」
希がなにも言わないうちに有紀は勝手に結論を出すと、怜悧のところに戻っていく。なんとなく怜悧に頼まれて来たのかなと察したが、有紀たちの気持ちもわかるから、希は軽く笑っただけですぐ読書に戻った。怜悧はぶすっとしていたようだが、そうそう毎時間毎時間相手なんかしていられない。
これは半分は読書など、他にも色々やりたいことがあるからというのもあるが、もう半分は怜悧のためだった。そうでもしないと、怜悧は男友達とももろくに口をきかないからだ。みな怜悧に一目置いているが、怜悧には特別親しいと言える人間がいない。「怜悧」だった昔は八方美人すぎたゆえに、今は希しか見ていないがために。少しは、怜悧にも普通の友達づきあいをして欲しいと思っている希だった。
もっとも、怜悧が不機嫌だと周りにも影響があるから、さすがに放課後は希は自分から立ち上がった。
「怜悧、今日は部活だよね」
「サボってほしいのか? 雨だしいくらでもさぼるぞ」
「あんまりサボったらダメだよ」
「なあ、おまえ、ほんとにあいつらと仲良くなったのか?」
やはり気になっていたのだろう、少し真顔の怜悧。
「それなりにね」という希の言葉と、三馬鹿トリオの声がはもった。
「希さん、今日はちょっと寄り道していかない?」
「いいわよね」
「いきましょ」
腕に強引に抱きついてくる。もしかしたら、徹底的に希を怜悧に近づかせないという作戦にでもでるつもりなのだろうか。希はそれを理解して、むしろまた笑った。
「と言うわけみたいだから、じゃあね、怜悧」
「お、おい!」
「怜悧くん、またね!」
「失礼しますねっ」
「ばいばーい!」
教室の他の生徒たちも少し呆気にとられる中、四人すぐに教室をでる。
「あなたって、徒歩通学だっけ?」
「うん、そう」
「じゃ、校門前まで付き合うわ」
「それで寄り道なんだね」
くすくすと笑う希。三人の声は既にそっけなくなっている。
「あたしたちは車だからね」
「それに、部活もあるし」
「怜悧に気付かれるんじゃない?」
怜悧にくっついてテニス部所属の三人だ。寄り道と言っていたのに部活にでたら、さすがに怪しまれるのではないだろうか。
「そんな心配をされる筋合いはないわ」
「あなた、どうしてそんなに楽しそうなの?」
「わかってないわけじゃないわよね?」
緩んでいた顔を見咎めたらしい。いきなり言われて、希はまたまた笑った。
「同級生のお友達なんてはじめてだから。それが嘘でも、ちょっと嬉しい」
希の素直な本音。
この三人が打算で話しかけてきているというのはよくわかっているが、イヤではなかった。「望」だった時の三人を思い出すというのもある。「怜華」が絡まなければいい友達でいられた三人。怜悧がからまなければ、こちらの三人も悪くないはずという思いもあった。
三人は一瞬絶句した。が、次の言葉はさすが三馬鹿トリオだった。
「あなた、ばかね!」
「いくらなんでも能天気すぎじゃない?」
「そんなだからいじめられたりするのよ!」
キミたちにそれを言われたくないなぁ、と、希は笑う。今の希は強いから、この程度の余裕はいくらでも持っていられる。
三人はそんな希の素顔にペースを崩されっぱなしのようだったが、何とか踏みとどまって、情報収集のような希を貶しているような会話を続けてくる。下駄箱で、希はそんな三人と別れた。
「外は雨だし、ここまででいいよ、ありがとう」
「な、何礼なんて言ってるのよ!」
「さっさと帰りなさい!」
「うろちょろするんじゃないわよ!」
「あはは。じゃ、またね」
「希」なら、たぶん絶対に受け入れることのできなかった関係。だが今の希なら違う。きつくされたら反発するが、そうでなければ普通に付き合うだけだ。
これ以上さらに仲がよくなるのか、それともこのまま打算だけで終わるのか、すぐにすっぱり縁が切れるのか。
希は傘をくるくると回しながら、雨の校庭をランランランと鼻歌を歌いながら帰途についた。
……もちろん、下手に目立っていたことは言うまでもない。
index
初稿 2003/12/18
更新 2008/02/29