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 夢の続き

  Taika Yamani. 

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  第七話 「素顔」


 四月の新学期、葉山月学園高等部の校舎外の掲示板には、新しいクラス割が書かれた用紙が貼り付けられていた。朝登校してきた生徒たちは、賑やかにおのおのの名前を探し、友人と同じクラスでは喜び、別のクラスだと嘆き悲しむ。例年繰り返される、悲喜こもごものお祭り騒ぎだ。
 高等部二年に進級した此花希は、正直こんな集団は好きではないのだが、今は見てきてと頼める友達もいなければ、向こうから教えてくれる友達もいない。とりあえず自分のクラスを確認するために、その人の群れに近づいた。
 掲示板に近づくと、なぜか人だかりがじろじろと希を見て、モーゼを前にした紅海のように道をあける。希は少しハテナ顔をしたが、とりあえず深く考えずに掲示板の前に立って、一組から順番に自分の名前を探した。
 各クラス男女入り乱れた名前順なのだが、いきなり怜悧の名前を見つけた。二年一組出席番号一番、朝宮怜悧。おまけに嬉しくない名前が二番目にあった。麻生有紀。希をいじめていた三馬鹿トリオの一人。
 「怜悧は一組か……」
 声は出さずに小さく呟いて、自分の名前はありませんように、と祈りつつ視線を下へ。
 「……がーん」
 二年一組出席番号五番、此花希。あっさりと見つかってしまった。しかもその次の六番は篠塚舞の名前がある。さらに一組の他の名前を流し見ると、十一番に立花春奈の名前まであった。
 「なんてクラスに……」
 「お、おい、だれだよあれ」
 「うちにあんな女子いたか?」
 「いったいどこの子?」
 「一年じゃない?」
 「でもリボンは二年だぞ」
 「可愛いわね。転校生かしら?」
 「足細い〜白い〜長い〜」
 「羨ましいくらい髪もキレイねっ!」
 「く〜、ほれそう!」
 なにやら外野が騒がしいが、人ゴミが嫌いな希は深く気にしなかった。また人ゴミが割れてできた道を、内心がっくりと落ち込みつつも無表情を保って、掲示板の前を離れる。
 校舎に入ると、シューズケースから下履きを取り出して、下駄箱の自分の場所に靴を放り込む。そのまま二年生の教室がある二階へ。それなりの時間だから、人の流れもほどほどにある。希の見知った顔があっても挨拶をする相手はいないし、向こうもなぜか希の顔を見て怯むだけで、挨拶をしてくることはない。慌てずゆっくりと落ち着いて、希は二年一組の中に入った。
 席は半分以上埋まっていた。
 席順は出席番号順らしく、すぐ目の前の席に怜悧がいる。麻生有紀、篠塚舞、立花春奈の三馬鹿トリオと話をしていたらしい怜悧と、ばっちり目があった。
 怜悧の顔が、嬉しそうに満面の笑顔になる。唇が動き、そして寸前でとまった。
 希は思わず笑う。
 次の希の誕生日までは、怜悧から話しかけてくれば絶交だという約束を、怜悧は律儀に守り続けている。そんな素直な怜悧は可愛くて好きだ。
 「……あなた、だれだっけ?」
 怜悧の横から麻生有紀の声。希は一瞬きょとんとした。
 「……わたしが、わからない?」
 三馬鹿トリオは、じろじろと視線の集中砲火を食らわせてきた。
 「どこかで会ったことがあるわよね?」
 「あなたみたいな子、忘れるはずないけど……だれだっけ?」
 「たしかにどこかで見た顔かも」
 ケンカを売っているのではなく、本当にわからないようで、三人は不思議そうに希を見る。笑い出したのは怜悧だ。
 「この子はキミたちもよく知ってる子だよ」
 「え、え、怜悧くんの知り合い?」
 「え、そうなの?」
 「それもこの子のことは、おれの次にキミたちがよく知ってる」
 「あたしも知ってるんですか?」
 「うーん、そう言われれば誰かに似ているような……」
 「三つ編みと黒ブチめがね」
 「三つ編み?」
 「メガネ?」
 「黒ブチ?」
 「…………」
 数秒の沈黙の後、三人の声がはもった。
 「まさか?」
 「え〜!?」
 「う、う、うそ〜!」
 「ほ、ほんとにあの此花希!?」
 「し、信じられな〜い!」
 「失礼だね、相変わらず」
 希は言いながら、後ろに無造作に流した髪を、ちょっと触ってみる。この半年で、たしかに両親にもびっくりされたくらい可愛くなったという自覚はしっかりとあったが、自分の姿を毎日見ていた希は、前の自分と区別がつかないくらいかわったという自覚はなかった。昔も今も希は希だし、あの頃と比べても、ただ単に体重が増えて肉付きがよくなって健康的になったくらいだ。
 メガネをはずし髪を流すことによって、希の素顔が明らかになっただけのはずなのだが。
 「なにか変?」
 この発言を自分にむけられたものと都合よく解釈したらしい。怜悧は手を伸ばしてくる。
 「いや、可愛いよ。メガネで三つ編みも可愛かったけど、今の希もとても可愛い」
 実際、希のことをずっと不細工という印象を抱いていた同級生たちにとって、この希の姿はかなりインパクトがあった。この春休みの間に希の顔から異様な白さがぬけたこともあるが、刷り込まれた印象とメガネと髪型のせいもあって、彼らは三月までは希のことをちゃんと見ていなかったのだ。漏れ聞こえた声に、教室中がざわついていた。
 「こうしてみると幼稚舎の時の面影があるな、やっぱり。ほっぺなんかつつきたくなる」
 「やめなさい」
 本当につついてきた怜悧の手を払う希。
 この半年で希の身長は四センチも伸びた。まだまだ百四十五センチくらいで小柄だが、すっかりと体重も増えて、女の子らしい柔らかみもでてきている。白い頬は微かに血の気を透いて健康的に桃色だし、パッチリとしたまなこも愛らしく、鼻梁のラインも絶妙。キレイな漆黒の長い髪はつやめいて天使のワッカを作って腰まで流れて、もう女の子らしさ全開といった風情だ。
 「それより、同じクラスで話しかけるなというのは、ムチャだと思わないか?」
 「……用があるときならいいけど、それ以外はやっぱりダメ」
 「じゃあせめて一日十回にするとか」
 多すぎだろうそれは。希はくすくすと笑う。
 「暇な時は相手してあげるよ」
 二人、とても親しげな空気が漂う。が、そんな希を気に入らない人間もいる。にこやかに怜悧と会話する希に、三馬鹿は懲りずに突っかかってくる。
 「あ、相変わらずあなた怜悧くんに馴れ馴れしいわね!」
 「調子にのってるんじゃないわよ」
 「怜悧クンだって迷惑してるんだから!」
 「迷惑してるの?」
 「いや、全然。そっちの三馬鹿の方がいい迷惑」
 「れ、怜悧くん、その言い方ってひどい!」
 「馬鹿なのはこの乱暴な女の方よ!」
 「あたしたち怜悧くんのことを思って言ってるんですよ!」
 怜悧の瞳が鋭くなる。一昔前の怜悧なら、女の子三人にこんな態度をとることはなかっただろう。あきらかにこれは怜華の性格。
 「おれは、キミたちが迷惑だ、と、言ったんだよ」
 三人は目に見えて怯む。希はちょっとだけ三人に同情だ。
 「怜悧、そんなにいじめたら可哀想だよ」
 「希との仲を邪魔しないならなにも言わないさ。でも、邪魔するようなら容赦はしない」
 「だからそんな怖い目で女の子を睨まないように」
 「ま、希がそう言うなら。おまえも甘いよな、相変わらず」
 希は笑って肩をすくめた。しかし、よりにもよって希にかばわれることが、三馬鹿トリオは気に入らなかったらしい。しっかりとターゲットを希にかえてくる。
 「あ、あなた、怜悧くんの好意に甘えるんじゃないわよ!」
 「そ、そうよ。身のほどを知りなさいよ」
 「あなたと怜悧くんとは身分が違うんだからね」
 「そういう台詞は全部怜悧に言ってほしい」
 「おれがきつくすると怒るくせにこっちにふるな」
 「あはは」
 「と、とにかく、あんまり怜悧くんにつきまとうんじゃないわよ!? わかった!?」
 「はいはい、わかったよ。そのかわり、キミたちがわたしと仲良くしてくれる?」
 「ふ、ふざけるんじゃないわよ!」
 「なーんであなたなんかと仲良くしないといけないのよ!」
 「野良の泥棒猫のくせに!」
 希としてはけっこう本気で言ったのだが、こっちの三馬鹿と友情を育むことはどうやら難しいらしい。ちょっと寂しく思いながらも、希は笑って頷く。
 「そちらが気に入らないなら無理にとは言わないよ。できるだけキミたちにも怜悧にも、話しかけないようにします」
 「いや、おれにはいつでもいいぞ。むしろいつでも傍にいろ」
 「それもやめとく。この子たちを刺激したくないしね」
 「…………」
 眉をひそめる怜悧。希は軽く笑って、とりあえず廊下側の席の一番後ろの自分の席へと向かう。
 五つずつ六つの列があるのだが、出席番号一番の怜悧の後ろは二番の麻生有紀、怜悧の真横は六番の篠塚舞らしい。十一番の立花春奈はさらにその舞の隣だ。彼女たちはかなり近い席に集まっていることになる。
 希が席についても、三人は怜悧の席でなにやら言い合っていた。
 「ちょっと怜悧くん、そんなのあんまりです!」
 「どうしてあたしたちが!」
 三人の声が大きいから、途切れ途切れに内容が把握できる。どうやら怜悧は、三人に希と仲良くしろといっているようだ。でないと希が怜悧の傍に行かないようなことを言ってしまったからだろうか。単純というかなんというか、希は半分は三人に同情しつつ、残り半分はくすくすと笑ってしまった。
 「こ、此花さん、おはよう」
 前の席の男子に声をかけられた。確か名前は……おそらくア行かカ行の名字だ。希は少しだけ微笑んで見せる。
 「おはよう」
 「此花さん、おはよう! おれは蘇我敦也、一年間よろしくな!」
 今度は隣の男子だ。
 「おはよ。よろしく」
 「おれは前は一組だ。で、こいつは瀬川で一年の時は三組、此花さんと同じだな」
 「よ、よろしく……」
 近くの三つの席は全部男子らしい。蘇我敦也の前の席で、希の斜め前の席の瀬川くんは、少し控えめに頭を下げてくる。そういえばそういう子もいたなぁ、という程度しか思い出せないあたり、希の人間関係の薄さがしのばれる。
 「あ、ぼくは神崎翔」
 前の席の男の子が改めて、他の二人につられたように名乗ってきた。
 「一年の時は五組。よろしく、此花さん」
 「よろしく」
 「此花さんってさ、メガネはずして髪形かえるとずいぶん印象が変わるよな。そんなに可愛いなんて知らなかったよ」
 蘇我敦也は軽い男の子だった。初対面なのにいけしゃあしゃあとそんなことを言う。
 「……メガネは、コンタクトにしたの?」
 これは、瀬川くんの細い声。少し引っ込み思案のようだが、興味はある、という顔だ。希は「もともとあれは伊達メガネだから」と素直に事実を伝える。
 「へ〜、なんであんなダサいメガネしてたの?」
 「お、おい、蘇我くん、その言い方はないだろ」
 これはかなり良識派らしい神崎くんの発言。希はさらりと受け流す。
 「あれはあれで気に入ってたから」
 「朝宮になんか言われたから変えたのか? やっぱ朝宮と付き合ってるの?」
 「そ、蘇我くん、いきなりそういうの訊くのって………」
 瀬川くん、咎めるならもっとちゃんと咎めようよ。そんな心の中での希のつっこみは、当然誰にも聞こえない。
 「だって気になるじゃん。もし付き合ってないならおれ立候補したいなー」
 「いきなりずうずうしいね」
 希は少し、表情を消して視線を鋭くした。三人は怯む。
 「今はだれとも付き合っていないけど、蘇我くんと付き合うつもりもないよ」
 「そ、そうか。ちぇ、だれか好きなやつでもいんの?」
 去年まではこんなふうに希に声をかけてくる男子はいなかったのに、ちょっと髪形を変えたりメガネをはずしたりするだけでこれ。容姿でしか女を見ない男がいかに多いかわかって、希はなんとなく不快になった。自然と声もそっけなくなる。
 「キミには関係ないよ」
 「そうだな、おまえらには関係のない話だな」
 不意に、上から声。いったいいつやってきたのか、怜悧がそこにいる。
 「おまえらさ、言っとくけど、希はおれのだから手を出すなよ」
 冷たい怜悧の視線。やはりこれも、一年の十月までなら、絶対にしなかったような顔。
 「な、手、手を出すって別に」
 蘇我は露骨に狼狽する。残り二人も息をのんだ。
 「だいたい希が地味にしてた時は目もくれなかったくせに、ちょっとイメチェンしただけで何だよ、その態度。そんな見た目だけで掌を返すようなやつらを気に入るわけないだろ。わかったらおれの希には話しかけるな」
 「怜悧、だれがだれのなの。人の交友関係に口を出すのはやめて」
 「おれはおまえのためを思って言ってやってるんだぞ」
 嘘つけ。心の中で決め付けておいて、希はきっぱりと言い切る。
 「キミのメンタリティは、あの三人と同じなの? わたしにはわたしの自由意志があるよ」
 「おまえ、こんなやつらがいいのか? おまえだって迷惑だろ?」
 「それとこれとは話が別。付き合う相手は自分で選ぶ。頼んでもないのに余計な口を挟むなと言ってる」
 「なっ」
 「だいたいそんなに自分に自信がないの? 男なんだからもっとどんとかまえてればいいのに。嫉妬深い男なんて今時流行らないよ」
 「…………」
 怜悧の視線が怖いくらいにきつい。希は座ったまま、その視線を真っ向から受け止める。
 なぜか教室がシーンとしていた。
 こういうときに都合よくゴングがなってくれると楽なのだが、もう少し時間があるようだ。怜悧はふてくされたまま、希の方に手を伸ばしてきて、髪を少しくしゃくしゃに撫でた。
 「……いきなりなにするの」
 「ふんだ」
 さらに撫でまわしてくる。その表情はぶすっとしているが、手の動きは優しい。希はまったくもう、という顔になる。
 「朝宮、おまえマジで性格変わったよな」
 蘇我が横から口を挟んでくる。怜悧はそっけなく彼を見た。
 「まあな。本性が現れたというところかな」
 「知り合いなの?」
 「去年同じクラスだったからな。神崎とも前に同じクラスになったことがあるよ。久しぶり、神崎」
 「あ、ああ。朝宮がそんなに情熱的だとは知らなかったよ。此花さんと付き合いだしたっていう話は聞いてたけど、本当だったんだな」
 「まあね」
 「嘘をつかないで。まだ付き合ってないよ」
 「ま、今はお試し期間なわけだ。時間の問題だけどな」
 「さっきのはかなりアウトだったと思うけど?」
 「おれは希には話しかけてないだろ」
 「…………」
 「で、そっちの大人しいのはだれだ? 中等部で見てないから、入試組だろ?」
 「ん、ああ、こいつの名前は瀬川。去年は三組だってさ」
 「よ、よろしく」
 「ああ、適当によろしく。三組ってことは希の知り合い?」
 「去年までのわたしに友達なんていないよ。今もいないけど」
 「ま、おれだけで充分だもんな」
 「寝言は寝てから言って」
 ここで、やっとゴングが鳴り響いた。ホームルーム開始を告げるチャイムの音だ。
 「ちぇ」
 「ほら、さっさと戻りなさい」
 「はいはい。またな」
 軽く声をかけて、怜悧は自分の席に戻る。
 「なんだか、噂よりすごい人だね」
 ぼそっと呟いた瀬川くんの感想に、希は思わず笑ってしまった。



 なかなかにざわついた第二学年の幕開けだったが、すぐにある程度落ち着いた。希自身意図的に口数を減らし男子にそっけなくしたからというのもあるし、男子も怜悧を恐れて変なちょっかいは出してこなくなったというのもある。女子の方はまだ希にどう対応していいかわからない部分があるようで、ほとんど黙殺状態。三馬鹿トリオの動向を気にしている気配もあって、三馬鹿と和解しない限り女子との交友関係も作れないのかもしれない。
 そんな中で迎えた、五月の連休前のお昼時間。
 希は怜悧と一緒に中庭の芝生に座っていた。希が怜悧のおねだりに負けて二人分のお弁当を作ってきたのだ。さすがに教室で手渡したり食べたりするのは目立ちすぎるので、中庭での昼食だ。
 友達同士が多いという屋上と違って、中庭にはカップルが多い。だからこそ二人でいてもあまり目立たないとも言えるが、ある意味関係を公言しているとも言える。希としてはまだカップルなつもりはないのでちょっと複雑な心境なのだが、怜悧は逆に浮かれていた。まったく能天気で幸せな男の子である。
 「おまえほんとにいい嫁になるよ、うんうん」
 「相手がキミでないことを心から祈ってるよ」
 「またまた心にもないことを」
 美味い美味いと言ってご飯を平らげた後、怜悧は芝生に寝転がる。希のその小さなお弁当箱の中身はまだけっこうな量が残っていて、量が何倍も違うのにこの速度差は、希としてはちょっと憮然、だ。いまだに量を受け付けず、さらに急いで食べると戻しそうになるこの身体が切なかった。
 「希ってさあ、女子の身体を見て欲情するのか?」
 芝生にまで届いている希の髪を、怜悧は寝転がりながら引っ張る。お箸を小さな口にくわえて、希は嘆息した。
 「キミって子は……またいきなり」
 「あ、でも、怜華のナイスバディに迫られても手を出さなかったからな。もしかして最初からそっちのケだったのか?」
 「な、なにをおぞましいことを」
 しかも最初からってなんだ、と、希としてはつっこみたい。
 「ふーん、じゃ、あの時欲情してた?」
 「……ノーコメント」
 「へ〜」
 怜悧の顔がニヤニヤと歪んだ。
 「そっかそっか。嬉しいな」
 「……高一の健全な男子なんだから、して当たり前だよ。もうこの話は終わり!」
 「その夜はおかずにした?」
 「……だから、キミって子は……」
 「お、その様子だと、本当にしたな? しただろ?」
 「この話は終わり!」
 「はっはっは。ま、安心しろ、おれもそうだから」
 もう嫌だ。希が怜悧を好きになれないのはこんなところだ。本当にデリカシーをもっと持って欲しい。ぱくぱくと希はご飯をかきこんだ。
 「って、ちょっと待て。なにがソウなわけ?」
 「だから、怜華は怜華でいつも望のことを思って一人でシテたし、おれもおれで毎日希のことを想って自家発電してるってことだ」
 「…………」
 希の瞳は極圏の永久氷土より冷たかったかもしれない。
 「な、なんだよその目は」
 「……何度も言うけど、今のわたしは女だよ」
 「当たり前だ。希はおれの可愛い彼女だ」
 突込みどころが満載だが、あえて希は聞かなかったことにした。
 「もしキミが女として、男から自分をネタに猥談をされたらどう思う?」
 「相手が望なら喜んで聞く。もちろん実践もノープロブレム」
 無駄にさわやかな笑顔で、怜悧はきっぱりと言い切る。希の怒りは持続しなかった。がっくりとうなだれる。
 「……どこまで本気なの……」
 「まあ、実際そういう状況がなかったからなぁ。少なくとも今は本気だけど」
 「わたし、やっぱりキミと付き合っていく自信ない……」
 「すぐ慣れるよ」
 「それもそれで嫌だ」
 「ま、純な希も可愛いけどな。おまえって男にも女にも理想が高いだろう?」
 「……どうしてそう思う?」
 「その立ち居振舞い。望もいい男一直線だったし、希もいい女一直線。だから相手にもそれを求める。自分ができるからって他人もできるとは思わない方がいいぞ」
 「…………」
 一瞬、そうなのか、と、希は同意しかけた。が、それが本当だとしても、どこか間違ってる気もした。
 「だからといって妥協するのは全然違うと思う。理想が高いとしても、絶対妥協なんてしたくないから」
 「そーくる」
 「……何度も言ってるよね、昔も今も。キミの強引なところは嫌だし、昔の高飛車なところも嫌だし、今の軽いところも嫌」
 「それがおれだよ。自然に変わることもあるだろうけど、無理におまえに合わせるのは間違ってるだろ」
 「だとしたら、やっぱりわたしはキミを好きになれないかもしれない」
 「大丈夫だって。希は絶対こんなおれも好きになるから」
 「だからその根拠のない自信はどこから持ってくるの?」
 「ん、おまえの笑顔?」
 にかっと、怜悧は笑う。
 「……く」
 見惚れてない。見惚れてなんかいないぞと希は自分に言い聞かせた。
 「く?」
 「くさい台詞言うな」
 「あはは。おまえの顔、赤いぞ。白いから目立つのな」
 「…………」
 言われてみれば頬が熱いような気もする希。怜悧は笑いながら希の髪を弄んだ。
 「今のおれ、けっこう余裕がでてきてるだろ」
 「…………」
 「望がモテすぎたからだな。怜華はいつも焦ってた。望が他の女に手を出すんじゃないかって」
 「…………」
 「でも、三月までの希の魅力に、他の男は全然気付かなかったからな。今言い寄ってくる男も、おまえ相手にしないし。だからかもな」
 「……つまり、怜華のあの性急さは望のせいだったと?」
 「と、今となっては思うけど、ただ単におれが成長しただけかも。あと、怜悧の十六年分の記憶があるからな。優男だけど、ま、悪いやつじゃなかったよ」
 一晩の夢だったはずだけど、体感的には十六年間すべての感覚を共有していたから、ある意味それも自分の記憶。
 「……それってわたしは嫌だな」
 「案外融合説が正しいのかもな」
 もしもこれがパラレルワールドだとしたら、では元の人格はどこに行ったのか。入れ替わったのか、消え去ったのか、融合したのか、または心の中のどこかにいるのか。
 「それなら、二人もおれたちの中で生きてる」
 「……やっぱり嫌だな。わたしも、希の記憶に引きずられてる? 怜悧を好きだと思っても、そのせいかもしれない?」
 「それでもいいじゃないか。嘘じゃないなら」
 「…………」
 「前の希は前のおれをやっぱり好きだったのか?」
 「……恋愛感情に近かったけど、憧れみたいな気持ちだった。恋に恋してただけ。それに、怜悧が気付いて守ってやらない限り、どうしようもなかったと思う」
 「怜悧」の方に「希」への恋愛感情があったとも思えないから、二人が結ばれる可能性は「望」と「怜華」以上に低かったかもしれない。
 「おまえは前の怜悧をどう思う?」
 「ただの優しいだけの甘い男。世間知らずのぼんぼん」
 「手厳しいな」
 「キミだって似たようなこと思ってるくせに」
 「はは。まーな」
 「……結局なんなんだろうね、これ」
 「さあね。でも、この状況のせいもあるかもな。おれがかわったのだとしたら」
 この状況。二人の世界が一変したというこの状況。
 「…………」
 希は無言で怜悧を見やった。怜悧は身体を起こして、笑いかけた。
 「こんな状況でも希と一緒だから。おまえだけいてくれればなにもいらない」
 怜悧の顔が近づいてくる。
 「ちょ、ちょっとこんなところで」
 また強引なんだもんなぁ、と思いつつ、希は避けなかった。唇に、怜悧の唇を感じた。
 「……まだご飯の途中なのに」
 「うん、ご飯の味がした」
 「…………」
 「希もかわったよな。優しくなった」
 すぐに怜悧は離れた。また芝生に寝転がる。
 「……だとしたら、怜悧がかわったからだよ」
 強引なのは嫌だが、一緒に気持ちを育てるのは悪くない。
 「好きと言っちゃえば楽になるぞ」
 「絶対言わない」
 言いながら笑い出す。そう、昔はこういう話でお互い本気になってケンカをした。でも、今は笑える。
 「絶対いつか言わせる」
 「あはは」
 希はこの時間を楽しみながらゆっくりと、残りのお弁当を片付けた。





 to be continued... 

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初稿 2003/11/22
更新 2014/09/15