prev next


 ショートショート

  Taika Yamani. 

index 
後編 
  「とある高校生の平凡な一日」 -前-


 四月に十八歳になってから約一ヶ月、彼の一日は目覚し時計のアラームの音と共に始まる。
 いつも深く熟睡する彼だが、外界からの刺激に対する反応は鋭い。七時十五分にセットされたアラームが鳴り出すとピクっと反応し、即座に手を布団の上に伸ばしアラームを停止させる。
 そしてそのまま手を戻すと、むにゃむにゃと毛布の中で身体を丸くする。
 心地よい眠りを手放したない、起きたくない。だが学校があるから起きなくてはいけない。
 だからせめて後五分。
 そんな思いが込められた貴重な時間。夢見心地な数分間。
 きっかり五分、時間はいつも通りの速さで流れて、今度は勉強机の上の携帯電話が、セットされた時間通りに軽妙なモーニングコールを奏でる。
 半覚醒状態でまどろんでいた彼は、ゆっくりと意識を現実に集中させた。畳の上に敷かれた布団の中でもぞもぞと動いて、寝返りを打って仰向けになる。
 ぼんやりと目を開きながら、彼は布団から両手を出して、胸の上に乗せた。
 「……ねむ……」
 唇を動かすだけの、声にならない呟き。
 数秒そのままぼうっとしたが、天井とにらめっこしていても時間が無駄に過ぎ去るだけだった。鳴り止まない携帯電話のメロディーに押されるように、彼は二度寝したい気分を抑えて、そっと身体を起こした。
 無意識に両手を頭の上に持っていき、片手ずつ動かして、寝癖を確かめるように微かに髪に触れる。簡単に撫で付けて前髪を左右に払うと、彼はしかたなささげに立ち上がった。小さなあくびをこぼしながら、勉強机の前に移動し、携帯電話のモーニングコールを解除する。
 毎朝、このまま布団の中に引き返したい誘惑に抗うのは一苦労だ。
 あくびで涙が滲んでしまった眠気まなこをちょっと乱暴にこすると、彼は少しだけ気合を入れるように、両手を組んで大きく伸びをした。微かに爪先立ちになり、背が反り返り、胸を張るように深く息を吸う。
 「んっく」
 スウェットのパジャマに包まれた身体を左右にひねって、さらに思いっきり両手を上へ。
 学校なんか行かずに、昼まで眠って家でテレビゲームでもやっていたいところだが、彼は仮にも高校三年の受験生だ。朝の億劫さになど負けてはいられない。よしっ、と声に出すことはしないが、吐息と共に力を抜いて腕をおろすと、彼は着実な足取りで自分の部屋を出た。
 まっすぐに洗面所に向かうと、父親が顔を洗っていた。
 「おはよ」
 彼が父親の背中に向かって挨拶の言葉を投げかけると、父親は顔を洗っている最中にもかかわらず、モガモガと言葉を返してきた。「ああ、おはようさん」と言ったらしいが、彼にはよく聞き取れなかった。もともと挨拶をしただけで返事を待っていなかった彼は、そのまま大小兼用の洋式トイレに入った。
 ドアを閉め、便座が上がっているのを確認しながらその正面に立つと、トランクスごとズボンの前を押し下げる。朝の生理現象で元気な男性シンボルも下向きになるように少し強く押さえ、力を抜いて用を足す。
 毎朝の行為とはいえ、生理的欲求の解消は、どことなくほっとするものがある。雫が止まったところで、再び出そうになったあくびをかみ殺し、彼はちょっと身体を揺らしてから、パンツとズボンを元に戻した。
 水を流してトイレを出ると、父親はすでに洗面所を離れていた。彼は手を洗い、しっかりと顔も洗い、清潔への欲求を満たすと共に、冷たい水の刺激で眠りの残滓を払った。
 まだ眠気は残っているが、また一歩意識がはっきりとする。少し濡れてしまった前髪を気にしながら、愛用のヘアブラシを手に取り、短めの髪を梳いて改めて髪を整える。
 そうしながら、鏡に向かってニッコリ笑顔を作ってみたり、キリリと真面目な顔を作ってみたり。
 百面相、とまでは言えないが、色々な表情を作って、今日の自分を確かめる。色々と思うところはあるが、自分の顔だから充分愛着はある。それなりに納得がいくところでブラシを置くと、彼は着替えるために一度自分の部屋へと戻った。
 部屋に戻ると、着替えを手元に用意してから、パジャマを脱ぎ捨てて下着姿になる。脱ぎ捨てたパジャマは布団の上に雑に放り投げたが、これは後で布団と一緒にたたむのがいつもの習慣だ。特に寝汗をかいたとかいう場合を除き、三日は同じパジャマを着る彼だから、パジャマには彼の匂いが染み付いているかもしれない。
 ともあれ、トランクス一枚という格好になると、まずは下着代わりの白いTシャツを着込んでから長袖のワイシャツを羽織った。右側のボタンを左側の穴に上から順にはめると、次いで制服のズボンに手を伸ばし、身をかがめて片方ずつ足を通す。きちんとズボンを腰まで引き上げるとシャツの裾を押し込んで整えて、俗に社会の窓と呼ばれる股間のチャックを閉め、フックもしっかりと止めてベルトを引き締めた。
 白いソックスを手にとって一度デスクチェアに腰をおろすと、上体を折って膝を持ち上げるようにして、片足ずつ靴下をはく。後は、青白縞模様のネクタイを首に回して手馴れた仕草でさっと巻き、左胸に校章の入ったダブルのブレザーを羽織ると準備は完了だ。
 布団は、母親には毎日ちゃんと押し入れにしまえと怒られるが、たたむだけで部屋の隅に。パジャマもたたみ終えて布団の上に置くと、携帯電話の横に置いていた財布とハンカチをポケットに入れ、高校入学時に祖父母に買ってもらったお気に入りの腕時計を左手首に巻く。そのシックな腕時計を確認すると、ほぼいつも通りの時間。
 教科書類の用意は前夜に済ませておく方だから、持っていくものの準備はできている。彼は携帯電話をマナーモードにして学生カバンの中に放ると、そのカバンを持ってゆっくりと部屋を出た。



 食卓では、彼の父親が少しお行儀悪く、ごはんを食べながら新聞を読んでいた。お茶を飲みながらテレビを眺めていた彼の母親は、彼がおはようと言うと、同じ言葉を返してから、熱いお茶をいれてくれた。
 荷物を床に置いて自分の席についた彼は、母親から受け取った湯飲みを両手で包み込んで、父親がこの日は職場の飲み会で遅くなるというようなことを言うのを聞き流しながら、見るともなしにテレビを見る。
 やがて母親が彼の前に朝食を並べ、彼はいただきますを言って、お箸を手にとった。食べながら、なんとなくリモコンでテレビのチャンネルを適当に回す。と、母親に怒られてリモコンを取り上げられてしまった。
 気分によって注意したりしなかったりする母親に不満を抱くが、彼は別に母親のことは嫌いではない。が、ちょっとうざったいと思ってしまったりする十八歳の彼である。すでに家を出て一人暮らしをしている大学生の兄と同様、早く家を出たいと思ったりした。
 そんな朝食の時間が終わると、彼はもう一度トイレに行く。
 快眠、快食、快便。
 今日も朝から健康な彼だった。
 手を洗うと、食後の歯磨きをする。歯ブラシを手にとって、しゃこしゃこと。上も下も、右も左も、裏も表も、しっかりときれいに磨く。途中途中で舌で歯をさわって、ざらざらしていたり気になるところがないことを確認する。最後にきちんとうがいをして、歯ブラシを洗って洗面所を離れた。
 今日も一日、これから学校だった。



 彼の学校生活は、客観的に言ってありふれていた。
 家から電車を使って三十分強、本鈴の五分前、予鈴が鳴り終わるようなタイミングで教室に到着すると、クラスメートに挨拶をして席につく。彼は積極的に自分から馬鹿を言うよりは、どちらかというと横で笑っているようなマイペースなタイプだからか、当り障りのない友達は少なくない。休み時間ごとに何人かの友達と無駄話に興じて、今プレイ中のゲームソフトの話をしたり、あまり実がない話題で盛り上がる。
 各授業も必要悪的に受け入れて、授業の前後にみなと愚痴を言い合ったりしつつも、毎時間真面目にノートを取る。昼休みも、他人が振ってくるテレビ番組の話題などに付き合ったり、級友が持ってきたマンガ雑誌の回し読みをしたりして過ごし、つつがなく帰りのショートホームルームまで本日の日程を消化した。
 放課後、彼は基本的にいつも一人での帰宅だが、たまに誘われて遊びに行くこともあれば、同じ中学校出身の二人の友人と一緒に帰ることもある。
 彼と同じ学年の男子生徒と女子生徒。この学校で、彼の一番親しい友人たち。
 クラスが違うその二人と、帰りに遭遇する確率は一割五分程度だ。去年幼馴染という関係を卒業して付き合い始めたその二人は、彼を見つけると無造作に声をかけてきて、彼の横に並ぶ。
 ちょっと無口でぶっきらぼうな男子と、ちょっと積極的で賑やかな女子で、もっぱら彼に話しかけてくるのは女の子の方だ。彼は今その子から借りたゲームソフトをプレイ中で、すでにクリアしているその子は、ネタバレな発言をしようとしてちょっとうるさかった。男友達の方は、ネタバレされそうになっている友人にご愁傷様という顔をするだけで、援護射撃をしてくれないのだから、多少冷たい友情だった。
 正直、愛想のないその友人とおしゃべりなその子がどう折り合いをつけて付き合っているのか、彼には少し不可解なのだが、他人の恋愛なんて傍から見て理解できるものでもないのだろう。彼はいつも通り深く考えないことにして、三人で駅に向かい、電車に乗って地元に帰った。
 駅を出ると、男の家で受験勉強をするという恋人たちと別れて、彼は一人で家路につく。
 一人で歩きながら、最初は恋愛やら恋人やら女やら男やらの色々なことを考えていたが、すぐにやりかけのゲームソフトの方に思考が流れていったのは、今の彼の興味の中心がどこにあるのかを物語っているのかもしれない。夜にゲームをすると母親がうるさいから、プレイ時間は昼の間しかない。最後は少し早足になって、彼は自宅に到着した。
 母親は午後からパートで働きにでているし、地元の役所に勤めている父親も普段帰ってくるのは定時すぎだ。彼はだれもいないと承知しつつ「ただいま」と声を出して中に入り、自分の部屋に戻って、荷物を置いてさっさと着替えにかかった。
 まず財布やハンカチをポケットから取り出し、腕時計を外し、机の上に置く。次いで靴下を脱ぐと、ブレザーも脱ぎ、ネクタイもほどいて布団の上に放り、ワイシャツのボタンを上から順に外しながら、裾をズボンの中から引っ張り出す。シャツを脱ぎ捨てて上半身Tシャツ姿になると、ズボンのベルトを解いてフックを外し、チャックも下げて、ズボンも脱ぎ捨てる。
 トランクスと半袖のTシャツだけという格好になった彼は、Tシャツも脱いだ。素肌の上からカジュアルな長袖Tシャツと褐色のチノパンとを身に付け、脱ぎ捨てた制服をきちんとハンガーにかける。
 靴下やハンカチなどの洗濯物を持って洗面所に行き、それらを洗濯籠に放り込むと、手洗いうがいを済ませて、台所に向かう。
 冷蔵庫から一リットルパックの牛乳を取り出すと、立ったまま片手で持って、直接口付けで飲む。
 気がすむまで喉を潤すと、牛乳を冷蔵庫に戻してお菓子を用意し、居間でテレビとゲームのスイッチをオン。
 それからの二、三時間、彼はテレビゲームに熱中した。



 五時をまわり、六時をまわり、母親が家に帰ってくる。帰ってくるなり、ゲームばっかりしている息子にお小言をぶつけてくるのはいつものことだ。それでも、夜にはちゃんと勉強をするという条件で夕食時まではゲームを許可しているから、母親もぶつぶつ言うだけで、無理矢理ゲームの電源を切ったりはしない。
 母親が洗濯物を整理したり、お風呂の準備をしたり、夕食の準備をしたりと、忙しく動き回っているのを、ほとんど気にもせずに彼はゲームを続ける。
 七時前になると、母親がご飯ができたと彼を呼ぶ。
 いつものことながらしぶしぶ、ゲームを中断して彼も食卓についた。この分ではゲームクリアはいつになるのやらという感じだった。
 母と次男と二人での食事は、テレビがつけっぱなしなせいもあって、会話はあまり多くはない。まだ食べ盛りの彼は三十分とかからずに食事を終え、この日はテレビもあまり面白くなかったから、すぐに席を立って自室に戻った。
 部屋に戻ると携帯電話を取り上げ、ざっと履歴を確認する。彼に親密な友達は多くないし、電話での無駄話も好まないから、たまにメールが飛んでくる程度だ。マナーモードを解除すると、充電用のプラグを突き刺して机の上に放った。
 三十分ほど、部屋で雑誌を眺めたり、ノートパソコンでサイト巡りをしたり、腹ごなしをして過ごす。
 このままおなかいっぱいで寝てしまいたい心理もあるが、その率直すぎる欲求に簡単に負けてはいられない。たまに負けてしまうのはお愛嬌だが、この日は負けなかった。
 八時を過ぎるといつも通り衣服をその場で脱ぎ捨てて、トランクス一枚という姿で柔軟体操とストレッチをする。中学の時に運動部に入って体育会系のノリにうんざりした彼は、高校では部活をやっていない。堕落するのは簡単だが、それに抗って、むしろ根性を鍛える。
 腕立て伏せや、背筋運動、腹筋運動などなど、多少鈍りがちな身体に刺激を与えるように、ちょっとした筋トレ。
 決まった回数だけこなすと、一息ついてから、立ち上がる。
 なんとなく意味もなく、筋肉マッチョのボーズを取ってみたりする。腕に力瘤を作って、ムキムキッ、と格好だけつけてみたり。胸の筋肉に力をこめて、厚い胸板を演出しようとしてみたり。
 第三者が見れば、滑稽に見えるかもしれない彼の動きだが、彼は見られても慌てたりはしないかもしれない。むしろ人のプライベートな時間と空間を覗き見るような相手には、容赦のない軽蔑の眼差しを向けるだろう。
 毎日の運動のおかげで貧弱ではないが、筋肉質とも言えない。それでも、女っぽい柔和さとは無縁で、それなりに年相当の男の逞しさを感じさせる。
 なんだかんだで自分の身体を嫌っていない彼は、一頻り満足したところで、換えの下着とパジャマを用意して、トランクス一枚でお風呂場に向かった。途中で母親に遭遇するとその格好に文句を言われるが、この日は誰にも会わずに洗面所と同じ場所にある脱衣所についた。
 着替えを置くと、洗面所でうがいをしてから、脱衣所の棚からバスタオルとタオルを取り出す。トランクスを脱いで全裸になって、浴室に入る。
 浴槽の蓋をとって、まずお湯をちょっとさわって温度を確かめる。彼が一番風呂だと母親がわかっていたためか、お湯は適温だった。彼は桶にお湯を汲むと、身体にざっとかけてから、湯船に入った。
 ちょっとぼんやりしながら、つらつらと色々なことを考える。
 この後の勉強のことだったり、ゲームのことだったり、テレビやマンガのことだったり、恋愛のことだったり。
 身体が温まってきたところで湯船を出て、お風呂用の椅子に座って、鏡の前に陣取る。
 一度顔をお湯で濡らすと、まずは石鹸とT字カミソリを手に取った。T字カミソリをお湯につけると、髭を剃るために両手で石鹸をよく泡立てて、鼻の下にその泡を広げる。
 彼の髭はかなり薄く、放っておいても目立つほどにはならないのだが、彼は自分に髭が生えるのはなんとなくみっともなく感じる。彼にとって髭は処理して当然なものだった。学校の級友の会話をそれとなく聞いたところでは、朝剃っても夜には気になるほど伸びる者もいるようだから、五日に一度お風呂場で処理するくらいたいした手間でもない。
 本当は、入浴時は毛穴が開いてしまいやすい状態だから、この場での髭剃りなどは望ましい行為とはいえない。特にカミソリなどを使う場合皮膚を痛めやすい。のだが、面倒だから彼はあまり気にしていなかった。
 真正面の鏡を見ながら、泡立てた顔にT字カミソリを近づけて、ゆっくりと動かす。
 丁寧に髭を剃ると、手の平で撫でて剃り残しを確かめてから、お湯で顔を洗って、彼はT字カミソリも洗って髭剃りを終えた。
 髭剃りの後は、洗顔とシャンプーとリンスまですませ、頭を振って濡れた髪の水気を払う。両手でかきあげて一度オールバック気味にして、今度は身体を洗いにかかる。
 お風呂用のボディタオルと石鹸を手にとって、両方を一度湿らせると、胸の中央に押し付けるようにして泡立てていく。タオルがしっかりと泡立ったところで石鹸を置き、そのまま胸にタオルを滑らせる。真ん中、左、右と動いて、何度も行きつ戻りつしながら、寄り道もしながらお腹の方へ下降。ウエスト部分から左脇にそれると、今度は上昇して、脇の下を洗い、左肩、左腕へ。
 どんどん泡まみれになりながら反対側も洗うと、肩や首まわり、背中、お尻の上の方も洗って、タオルを前へ。淡く毛が生えている下腹部を泡立たせて、男の大事な部分は特に念入りに洗っておく。ボディタオルを直接当てると刺激が強すぎる部分は、手を使って丹念に洗う。
 太ももの付け根や股関節部分も洗うと、太ももの内側から外側、裏側へとタオルを動かす。太ももの後は、少し身をかがめて、左右交互に膝と膝裏、ふくらはぎとすね、足首まで。薄いが目に見えてわかる程に生えているすね毛もシャボンにまみれた。
 ここで一転して、足首から先を洗う前に、お尻を洗いにかかる。腰を浮かせて、お尻の右側と左側、そして真ん中。ちゃんと丁寧に洗うと、足に戻って、最後に足の甲に足の指先、指の間、足の裏まで左右洗って終了だった。
 タオルを置くと桶のお湯で手の泡を落とし、桶にお湯を汲みなおして、身体に何回かに分けてお湯をかけてゆく。首の裏など泡が残らないように全身にお湯を浴びると、ボディタオルを洗って専用の置き場にひっかけて、彼はまた湯船に入りなおした。
 湯船のお湯が少なくなっていたから、ちょっと熱めのお湯を出し、彼は湯船に肩までつかる。
 傍から見るとぼんやりとしているような顔で、彼は虚空を見つめる。「極楽極楽……」と年よりじみた台詞は出さないが、いつそう言いだしても不思議ではないような表情だった。
 多少ふやけそうになるくらいまでお風呂でのんびりしてから、彼は湯船から出て、最後は頭から冷たいシャワーを浴びる。最初の一撃につい情けない声が出そうになるのはいつものことだった。
 冷水で身体を引き締めて、シャワーを止めると、頭をぶんぶんを振って水気を払いながら、彼は浴室を出た。
 脱衣所でバスタオルを取ると、まずはたたんだままのバスタオルを顔に当てる。ぽんぽんと軽く叩くようにすると、次は頭の上に乗せて、髪の水気も吸い取る。
 バスタオルを半分だけ広げた状態にすると、胸に押し当て、お腹に押し当て、下腹部にまで押し当てて、順にタオルに水気を吸収させる。改めてバスタオルを広げて、濡れっぱなしの身体に肩からバスタオルを羽織るように、両手で引っ張るようにして肩と背中に押し当てた。
 首まわり、肩、腕、胸、脇の下、背中の水気をふき取っていくと、そのままバスタオルを下げてお腹も拭い、腰に巻くようにして、お尻や下腹部や股間をもう一度丹念に。上体を折り曲げるようにして、股関節や太ももの内側もバスタオルで撫でて、太ももから下へと滑らせる。
 一通り拭ったところで、バスタオルを腰に巻きなおすと、彼は別のタオルを取って、改めて髪に当てた。ちょっと乱暴に押し当てるようにかき混ぜて、そのまま頭にタオルを巻いて、着替えに取り掛かる。
 バスタオルを解いて脱衣所のバスタオルかけにかけて、用意していたグレーのチェックのトランクスを広げて、足を通してはく。
 パンツの中の男のモノのおさまりをちょっと整え、まだ寝ないが昨夜と同じスウェットパジャマのズボンと、セットの長袖のスウェットシャツも着込むと、タオルでまた髪の水気をとりながら彼は脱衣所を出た。



 夜はまだまだ長い。
 彼は台所に行くとジュースを飲んで、居間の母親と一言二言会話を交わして、部屋に戻った。
 やはりここでもまただらだらと遊んでいたい誘惑にかられるが、受験や先のことを考えると、彼は自分が何をするのがよりベターなのか、自分でもよくわかっていた。勉強をサボっていることを母親に知られると、夕方のゲームですら禁止になる可能性もあった。
 手櫛で髪を整えると、彼はある種の諦念を持って、机に向かって予習と受験勉強に取りかかった。
 途中携帯にメールが飛んできたりするがチェックはせずに黙々と作業をすすめ、十時前になってから集中力が途切れてきたところで、彼は勉強を中断する。携帯を手にとって友達からのメールを眺めて、どうでもいいような内容の、顔文字がやたらと多いメールにちょっと笑ってから、手短に返事を出す。
 そのまま休憩に入ることにして、洗面所に行ってトイレに立ち寄り、手を洗ってタオルを洗濯籠に放り、ヘアブラシで髪を軽く整える。
 また居間に向かうと、いつのまにか帰ってきていた父親が、「今日も勉強か、がんばっとるな」などと酔った赤ら顔でご機嫌そうに話しかけてきた。酒臭い父親の息に顔をしかめつつ、彼は適当に父親をあしらって、テレビを見ていた母親にコーヒーを頼む。笑って父親の相手をしていたらしい母親は、手馴れた仕草でコーヒーをいれにいってくれた。
 父親をあしらいながら、テレビを横目に、二週間分のテレビ番組情報の載った雑誌を手に取る。たまに気になる映画があったり、学校で話題のバラエティ番組などを見ることもあるが、今の彼はあまりテレビは見ない方だ。見る場合も、たいてい録画して土日などに見ることが多い。
 よほど興味のある番組でもない限り、テレビとゲーム、どっちを取るかと言われれば、ゲームを取る彼である。
 母親がコーヒーとリンゴを持ってきてくれたから、彼は礼を言ってそれを持って部屋に戻った。リンゴを食べてコーヒーを飲みながら、それからさらに二時間ほど、みっちりと勉強をして過ごす。途中ダラダラした気分になったりもし、最後の方は煮詰まって悶々としてきたりしたが、なんとか予定のところまで勉強を進める。
 終わった頃には、もう十二時近くだ。彼は後片付けをすると、汚れた食器を台所に運んで、洗面所に歯磨きをしに行った。
 両親はこの時間になれば、すでに寝室にいることが多い。
 どうでもいい話だが、両親の寝室にもテレビがあるのが、ちょっとずるいと思ったりもする彼である。
 なお、両親は次男まで一人暮らしをさせるのは金銭的負担があまり嬉しくないようで、彼が自宅から通える大学へ進むことを希望している。彼本人としては、志望校的にはそれもありなのだが、家を出たいという心理もある。そのため両親は「通える大学なら、もう大学生だし部屋にテレビを置いていい」などと彼に揺さぶりをかけている。部屋を借りて暮らすことに比べれば金銭的にも楽だから、入学祝いに高性能のテレビを買ってもいい、とも。
 実に即物的な誘惑だが、もともと志望校の一つが通えるところだから、それもありかなと、誘惑にちょっと負けそうになっている彼だった。
 ともあれ、たたんであった自分の洗濯物を持って部屋に戻ってくると、やっとやるべきことから開放されている時間だった。
 夜更かしは明日に差し障りがあるとわかっているが、この日は少しムラムラとしていた。三日に一度は、こういう日がある。
 とりあえず洗濯物をしまい、明日の教科書の用意をする。明日は体育があるから、体育服――長袖トレーナーと長ズボンと短パン――と着替えのTシャツも用意して、タオルなどと一緒にバッグに放り込む。朝の着替えも準備して布団を敷くと、ノートパソコンを布団の上に置いて寝転がった。
 ゆっくりと、お気に入りのサイトを順に巡っていく。今プレイ中のゲームの情報交換を行なっている掲示板など、覗いてみたい誘惑にかられるが、ネタバレされると楽しくなくなるから、ゲーム関連は当り障りのないものを眺めていく。九月下旬に発売される期待の新作の情報が更新されていないかチェックして、発売延期になったら暴動だ、などと他愛もない冗談を考えたりする。冬などに発売されたら、受験が押し迫ってくる時期なだけに、泣くに泣けない。
 そういう情報系のサイトの後は、照れも気負いもなく、十八禁のえっち系サイトを一巡り。どちらかというと、動画や文章よりは、画像系のサイトが彼のお気に入りだった。
 見ていくうちに、予定通りだんだんとそんな気分になってくる。
 彼は興奮を抑えながら一通りサイトを見終えると、パソコンの電源を落として、机の上に戻した。部屋の電気を消し、目覚し時計をセットして布団に横になると、布団の上のティッシュボックスから何枚かのティッシュを抜き、手元に持ってくる。
 毛布を被ると、毛布の中でごそごそと。まずはトランクスごと、パジャマのズボンをずり下げる。
 先ほどまで見ていた画像が、独自の妄想と合わさって脳裏を駆け巡る中、彼は自分を慰めるように、自分に触れる。
 こういう時は彼も、「恋人が欲しいな……」と、ついついいつもそう思う。が、今の彼はまだ、ピンとくる相手に出会っていない。
 しばらくの間、真っ暗な室内で、彼の呼吸の音と、かすかな布ずれの音だけが響く。
 誰にも知られることのない、彼だけのひそやかな時間。
 ゆっくりと時は流れ、やがてかすかな声と共に動きを止めた彼は、脱力したように大きな吐息をもらした。
 肉体的快感と、少しの虚しさと、ちょっとの人恋しさと。
 ぐったりと横になると、頭の中を色々なことが勝手に浮かんでは消えていく。
 将来のことや受験のこと、ゲームソフトのことやマンガやテレビのこと。
 そしていつか出会う、もしかしたらもう出会っているかもしれない、未来の恋人のこと。
 全身の力が抜けてしまったような気分のまま、彼はなんとか後始末をして着衣を整えると、色々なことをつらつらと思いながら、さざなみのように押し寄せてくる睡魔に身をゆだねた。









 昨日、今日、明日。
 一日ずつ過ぎ去っていく、同じようでいて、少しずつ違う毎日。
 そんな日々がゆっくりと流れる。
 高校三年の一学期の前半、特に大きな問題もなく、彼は平凡な日常を繰り返していた。
 学校で友達と遊んで、家でゲームをして、ちゃんと勉強もして、いやらしいことも考えて。
 だが六月も終わりかけの季節、彼はこの時代最もよく知られている病気の一つにかかった。
 俗に性転換病と言われる病気。
 男は女へ、女は男へと肉体が変化してしまう病気。
 その結果、八月が始まる頃には、彼の身体は完全に女になっていた。
 女になってすぐの頃は、勝手も違い、戸惑うことも少なくなかった。が、誰しもいつかかってしまうかわからない病気なだけに、時間が解決してくれる部分も多かった。
 要はまわりも本人も慣れただけとも言えるが、さらに二ヶ月が過ぎる頃には、彼女はすっかり平穏を取り戻していた。





つづく。 

index prev next

初稿 2005/09/09
更新 2014/09/15