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 ショートショート

  Taika Yamani. 

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  「TSシンドローム」


 特発性性転換症候群、俗にいう性転換病が社会的に認知されてから約三十年。
 幡ヶ谷千歳の二十六歳の夏、その病気で入院した女友達のお見舞いに行くと、友人は顔を輝かせて、ベッドからばっと上体を起こした。
 「千歳! もう来てくれたんだね!」
 「……りこ?」
 大人びた、というよりはどこか可愛らしい、微かに緊張の混じった声音で、千歳は問いかける。清潔に短い黒髪にレディースのビジネススーツ姿の千歳は、某企業に勤めているOLである。バリバリのキャリアウーマンに見える容姿はとても女性的だが、その性格はなかなか狷介だ。
 「うん、私、こんなになっちゃった」
 そう言って笑う友人は、まだ体力は完全には戻っていないようだが、その見た目は健康そうに見えた。千歳と同い年の女ではなく、男として。
 千歳の大学時代からの一番の友人である、北見理子。数週間前までは気さくで色気のある女性だった理子は、今ではすっかりさわやかそうな逞しい男性になっていた。物言いには女っぽさが色濃く残っているが、声も相当に甘く低い。
 「わざわざ午後休とってきたの? 来るの夕方って思ってたからびっくりした」
 「……気になって、落ち着かなかったから」
 親しい友人である理子でありながら、まったく見知らぬ初対面としか思えない男のまっすぐな笑顔に、千歳は思わず視線をそらせた。見舞いの果物をサイドテーブルに置きながら、少し切なげに呟く。
 「……ほんとに、前とは想像もつかない身体になったね。見た目も、声も……」
 どことなく元の女の理子の面影はあるが、千歳の目にはやはり別人にしか見えない。
 「自分で言うのもあれだけど、けっこうカッコイイって思わない?」
 「……それでいいの……?」
 「だってもうどうしようもないから。千歳だって普通にやれてるんだし、私だってやれるよ」
 「……お気楽だね……」
 千歳も性転換病の経験者である。千歳が男から女になったのは約十年前、高校二年生の頃だ。その頃は高卒時点で性転換病を経験している人間は0.5%未満という数で、そのさらに十数年前に比べれば性転換病もかなり受け入れられていたが、千歳はまさか自分がと真剣に考えたことがなかっただけに大きなショックを受けたものだ。女の身体と立場に慣れるまでけっこうな葛藤があった。
 「子供が産めなくなったとか考えると、やっぱりちょっと惜しいけどね」
 「…………」
 「あ、やだ、そんなに暗い顔しないでよ。私が産むんじゃなくて、だれかに産んでもらえばいいだけなんだから。あ、なんなら千歳が産んでみる?」
 「……あほ。人がさんざん心配してたっていうのに」
 男になった後、初めて会った女友達に言う台詞がそれなのか。
 「あは、ごめんね。お見舞い、ありがとう」
 女心をとろけさせそうな甘いマスクで、理子はにっこりと微笑む。千歳は目の前のこの男性が親しい友人の理子であることにやはり強い違和感を覚えながらも、理子が深刻な様子ではないことには少しほっとした。小さく頷いて椅子に腰掛ける。
 数週間前、自分が性転換病だと知った時、千歳の胸にすがって泣きじゃくった理子。千歳も、男になる理子との関係がどう変わってしまうのか怖くて、その時ばかりは不安を堪えるのに苦労した。
 千歳の年齢である二十六歳世代は、すでに0.8%超の人間が性転換病の経験者だ。まだ未経験の者も、四十歳までに千人に一人程は発病するだろうと言われている。高くはないが低くもない数字で、だから理子だって発病する可能性は考慮していたし、冗談で話題にしたこともある。だが、実際に発病してしまうと冗談ではすまない。身体が変化してしまうことに不安を感じないことは難しいし、発病前後で人間関係が変わったという例は、マスメディアによって多数紹介されている。もちろん発病後もなんら問題なく過ごすという例もあるのだが、妊娠出産に不安を覚える女性がいなくならないのと同様に、性転換に不安を覚えるものもいなくはならない。
 入院前、泣いた後励ましあって、千歳と理子は現実的な話もしたが、ずっと友達でいたいと本音を口に出し、甘い言葉も交わした。無理をすることはお互いに良くないから、身体が変わったことで言いたい事は言い合おうと約束し、遠慮はしないで、嫌なことでも本音を言い合おうと、感情的に話した。
 理子が発病してからの数週間、理子は最後の十日ほどは肉体変化に伴う物理的苦痛の中ですごしたが、お互いに覚悟を決めるだけの時間は充分にあった。
 それでも、不安を消せなかった千歳。
 だが、この日理子と会って、千歳はかなり安堵させられていた。理子本人がいつも通り振る舞っているのも大きいのだろう、入院前の約束をどこまで守れるか千歳は正直自信がなかったのだが、理子は外見こそ違っていても、中身は千歳が知る理子のままだ。その見た目や声に慣れるのは時間がかかりそうだが、普通に接することは想像していたよりも容易かった。
 健康状態や新しい名前、家族の反応、退院や会社への復帰の時期などについての会話をかわし、入院中のあれこれを、お互いにいろいろと話して聞かせる。違和感はどうしても消せないが、話しているうちに、千歳が抱えていた当初の不安は少しずつ消えていく。
 「やっぱり、千歳がいてくれてよかった」
 そしてそれは理子も同じだったのかもしれない。だんだんとリラックスしていく千歳に、理子もかなりほっとしたのか、いつもより余計に甘えるような態度になっていた。
 「なに、突然?」
 「だって経験者だから。他の男に、ほら、男のあれこれ聞きにくいし。女のあれこれも話しにくいでしょう?」
 「男になるのと女になるのとは、だいぶ違うと思うけどね。今って経験者のカウンセラーが来ていろいろ教えてくれるんじゃなかった?」
 「そうだけど、しょせん他人だし。千歳の時はどうだった?」
 「普通のカウンセラーだったから、返ってもめそうになったかな。かなり取り乱してたから、そのせいもあるんだろうけど」
 「たいへんだったんだね」
 「まだ今より少なかったから」
 「ちょうど十年くらい前だよね。千歳の高校って、何人くらいいた?」
 「学校に一人。おかげですごく目立った。なかなか嫌な思い出だな」
 「あは、ただでさえ千歳はきれいで可愛いから。モテモテで困ったんだね」
 「友達がいなくなったよ」
 「あはは!」
 「……笑い事じゃないんだけどな」
 千歳は一緒になって軽く笑ったが、その声には少し苦いものが混じっていた。
 「今って、千歳の時と比べると増えてるんだよね。高校生でどのくらいなんだろうね」
 「確か、去年の高校生が、年間で0.2とか0.3%くらいじゃなかったかな」
 「学年が二百人とすれば、三年間で一人か二人?」
 「だね。中学まででやっちゃう子を入れても、高卒の時点で1.5%とかみたいだよ」
 「二百人なら、三人くらいってとこ? まだそんなものなんだね」
 「でも確実に増えてるって言うから。この先、もうどうなるんだろうね」
 「私たちの子供の世代だとすごい確率になるかもね。ちゃんと経験しておくといいお母さんになれるね。――って、私お父さんだ!」
 理子は自分の発言に、自分でつっこむ。
 比較的強い結婚願望を持っているせいで、三年間付き合っていた彼氏と去年ケンカ別れしたような理子。顔は笑っているが、一瞬、その瞳に切なげな色が見えたのは、千歳の気のせいだろうか。
 「そんなのまだ先の話でしょ。相談にはいくらでものるから、まずはちゃんとリハビリ済ませて、早く退院しなさい」
 「そうだね、ありがと。じゃあ、さっそくだけどね?」
 「うん?」
 「男って、パンツ穿く時なんだかおさまり悪くて落ち着かないんだけど、アレってどっち向きにすればいいのかな?」
 十七歳の秋まで男として生きてきた千歳だが、男だった時もだれかとそんな話をしたことはない。「アレってなに?」と問うほどウブではないが、理子の男の身体を変に意識させられそうで、少し身構えた。
 「……いきなりそういう話をするんだね」
 「あは、だってなんでも相談のってくれるんでしょ? そんなこと言うと大事な相談できなくなっちゃうよ? 男の一人えっちってどのくらいの間隔でやっていいの? とか」
 「…………」
 千歳は思わず、思いっきり冷たい目で理子を見返した。
 理子にしてみれば女同士の猥談の感覚なのかもしれないが、少しあけすけすぎだった。普段の千歳が男に対する女の欲望を匂わせることはまずないため、だから理子は男になっても千歳には気を許せるのかもしれないが、千歳の方が理子を意識しすぎてしまいそうだった。
 「あ、あはは、な、なんてね、冗談だよっ」
 理子は千歳の冷たい視線に、ちょっと慌てて取り繕う。
 「千歳って、ほんと、その手の話ダメだよね。あ! もしかして私、初セクハラしちゃった?」
 「……そうやって友達はいなくなるわけだ」
 「う、う、そ、そうなの? 千歳はそうだったの?」
 「……どっちかっていうと、男からしかけられてうんざりした方だけどね。最低限のことはちゃんと気にした方がいいよ」
 「それ、お医者さんにも言われた。自分は元のままのつもりでいても、どうしても意識されちゃうって」
 「するなっていう方が無理だから」
 「千歳もしてる?」
 「……してるよ。相手が理子でなければ、絶対二人きりなんてならない」
 「って、そっか、今男と女で二人きり?」
 「……そういうことになるね」
 「私、どうなんだろう。すぐ女が好きになるのかな?」
 「…………」
 「ずっと男好きのままなら同性愛だよね。ボーイズラブは悪くないけど、でも後ろにされちゃうのは嫌だよね。あ、私はもうする立場にもなれるんだった」
 「…………」
 「うーん、でもそれもぴんとこないなぁ。女と恋愛するのも変な感じだし、男を寄せ付けない千歳の気持ち、今なら少しはわかるかも」
 千歳は異性とも同性とも恋愛は避けてきたが、統計的には、性転換病経験者の性指向はさまざまだ。偏見は根強いが同性間の結婚も認められて、各種の法整備も進んでいる。性転換前に卵子や精子を保存しておくことで同性間での妊娠出産への道も開けていて――男同士の場合は母体の問題があるが――、性転換前の性指向をそのまま引き継ぐ例も少なくはない。
 「……ごめんね、千歳。私、こんなになっちゃって」
 黙りこんでしまった千歳に、急に、静かな真剣な理子の声。千歳は強く、男になってしまった友人を睨んだ。
 「あほ。謝るようなことじゃないでしょ」
 「……こんな私でも、友達で、いてくれる?」
 「嫌って言っても、友達だよ」
 千歳は少し頬を赤くして、理子と視線を合わせずに、だがきっぱりと言葉を紡ぐ。ここにきて初めて不安を滲ませていた理子は、心から嬉しそうに笑みを浮かべ、ベッドから身を乗り出した。
 椅子に座る千歳を、そっと抱きしめる。
 千歳としては、油断、だった。外見は初対面の男でも、中身は理子。だが中身は理子でも、外見は初対面の男。
 「ありがとう、千歳。ほんとに、千歳がいてくれてよかった」
 甘く優しい、嬉しげな男の声。
 不意打ち的に抱きしめられた千歳は、今までの理子とは違いすぎる男の匂いを感じて、とっさに無意識のうちに動いていた。逞しい理子の肩を押しやると同時に、握りこぶしを作って、思いっきり男の胸にパンチを放つ。
 「ぎゅっ!?」
 「あ!」
 千歳はその男が理子であることに慌てて、すぐに立ち上がった。
 「ごめん! 大丈夫?」
 「うぅ、いたい! この間は優しく抱きしめてくれたのに……!」
 胸を押さえながら、半分涙目で、理子は嘆く。身体はハンサムな男のそれなのに、少し情けない姿だ。
 「だ、だから今の理子は男でしょう! いきなり男に抱きつかれたらだれだって殴る!」
 「ひどい……、私とは身体あっての付き合いだったのね……」
 多少誤解されそうな表現だが、これは一面の真理をついているのかもしれない。肉体のありかたは、良くも悪くも個人のパーソナリティの一部だ。それが変化してしまえば、本人も周囲も、多かれ少なかれまったく同じようにはいられない。
 「……泣き真似はやめなさい」
 千歳は困ったようにため息をついて、椅子に座りなおす。
 「まだ今の理子に慣れないからだよ。そのうち慣れれば、ちょっとくらいならスキンシップもなんとかなる……かもしれなくもなくもない、かもしれない?」
 「なにそれ?」
 理子は落ち込んだ顔を作ろうとしたようだが、吹き出すように笑い出した。
 「どっちかよくわからないよ?」
 「そうだね」
 千歳はほっとして、一緒になってあったかく笑う。
 「とにかく、まずはちゃんとリハビリを済ませて、早く社会復帰しなさい。いつまでも休んでると、仕事の後始末も大変でしょ」
 「う、またヤなこと思い出させるのね……」
 「ハードな残業にも耐えられる身体になったと思えば嬉しいんじゃない?」
 「それ、ハードな残業をしなきゃいけなくなったと思えば悲しい……」
 「でも男の方が昇進もまだ有利だよ。理子に管理職はあんまり似合わないけど」
 「そうだよ、私も玉の輿で寿退社がよかったのに」
 どこまで本気なのか、笑いながら理子はぼやき続ける。千歳も冗談めかして、励ましているのか貶しているのかわからないようなことを言い連ねる。
 女と女だった関係が、女と男に。
 そのまま友情が続けられるのか、距離ができてしまうのか、別の形に変わってしまうのか、壊れてしまうのか、この先もうどうなってしまうのか、千歳にもわからない。千歳の不安も根強いが、千歳も経験したことだからわかるが、どんなにいつも通りに見えても、その不安は理子の方が大きいだろう。
 大事な友達だから、関係を壊したくはない。だが理子と約束した通り、だからと言って無理をするのも間違っている。今はできるだけ自然に、もちろん前向きに協力する気持ちで、理子と接してみるだけだ。
 面会終了時間まで明るく素直に、千歳は理子の傍に居座った。








おしまい。 

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初稿 2005/07/30
更新 2008/02/29