キオクノアトサキ
Taika Yamani.
番外編 「夏の夜」 <後編>
夏休みが始まったばかりの一日、翼の部屋に泊まりに来ている陽奈と文月と、翼の妹の飛鳥。
いつもは大人びている翼が、この時少し子供っぽく見えるのは、飛鳥が持ってきたリボンを髪につけているせいだろうか。
リボンと一口で言っても色々な種類があり、その言葉に人が抱くイメージもそれぞれだろうが、本来は「細長くテープ状に織った装飾用の布」の総称で、飛鳥が自分の部屋から持ってきたのもそれである。飛鳥のそれは基本的に髪飾り用だが、装飾としては帽子や小物、時には身体を飾ることにも使える、いくらでも応用の効くアイテムだ。
翼は当然のごとく、最初はリボンをつける事を渋った。
「姉さん、わたしが嫌いなの?」「寝るまでだけでいいから」と泣き落としをかけてきた飛鳥、「付き合ってくれないと寝る時ベッドに乱入しちゃうよ?」と、ため息をつきたくなるような脅しをかけてきた文月、「わたしたちだけなんだし、少しくらい付き合ってよ」と笑顔の陽奈。
なんだかんだ言い返しつつ、そんな三人に翼が負けるのは、三人が単に一緒に遊びたがっているだけだと思えるからだろうか。お互いにそれ以上を求めるのなら、今のままの関係ではいられないのかもしれないが、自然に笑っていられる間は不幸ではないのだろう。
「ほらほら、つばさ、そんな顔してないで、笑って笑って! 笑顔はケチるなって言うでしょっ」
「ですです! 珍しく文月さんの言うとおり、怒ってたってつまらないわ!」
「うんうん、だれにでも安売りしたらダメだけど、わたしたちには安売りしないとダメだよね」
そんなわけのわからない言葉に、結局翼は笑わされてしまった。
楽しげな三人を前に、一人だけムキになってもかなり馬鹿らしい。翼本人が楽しめないなら拒絶する余地はいくらでもあるが、賑やかに明るく楽しんでいる陽奈たちと一緒にいることが、翼は嫌ではない。たまにひどく落ち込むとしても、自分に笑いかけてくれる陽奈たちを本気で邪険にすることは難しかった。
たかがリボンで陽奈たちが楽しいのなら、適当に付き合うくらい些細な問題だと考えるのも翼で、結局勝てずに、今にいたる。
客用の布団が出してはあるが、敷かれてはいない。まだパジャマにも着替えていず、お菓子なども広げられて、寝る準備もできていない。
そんな夜の、十時半すぎ。
翼の頭のリボンは、リボン結びと言った時に真っ先に思い浮かぶような、蝶々結びになっている。いつも髪で隠れがちな耳に髪がかからないように、耳の後ろで髪を押さえるように通すように巻いて、頭の上で結んである。結んだのは陽奈だが、青と桃色の二つのリボンを組み合わせて使っている辺り、なかなか芸が細かい。かなり幼く見える大きな蝶々結びが、いつもは大人びた翼に、翼の妹とよく似たアンバランスな魅力を与えていた。
陽奈も二つのリボンをつけている。少し癖のある長い髪を一房に束ねるように、赤と水色のリボンを交互にゆったりと斜めに巻きつけて、肩から前に流していた。翼には子供っぽく飾りつけたのに、自分は大人びた形にまとめている陽奈で、二色のリボンが艶のある黒髪を引き立て、陽奈にきれいに似合っていた。特等席にいる翼は、自分の髪をいじられた時はともかく、楽しげに髪にリボンを巻きつけている陽奈たちを見て、鬱屈交じりに無駄にドキドキさせられたものだった。
ショートカットの文月は、ヘアバンドのように額の上方でリボンを通していた。前髪が前に流れないようにリボンで押さえておでこ剥き出しで、頭の横側、耳の少し上でリボン結びにしているのが快活な印象だ。翼たちと違ってリボンには模様入りで、黄色の生地に色々な果物の絵が入ったリボンが、文月を明るく飾っていた。
最近髪が伸びてきている飛鳥は、頭の左右で二つお団子を作って、ツインテールっぽい髪型になっている。本人は子供っぽいと思ったようだが、陽奈にきっと似合うよと誘導されて、顔を赤くしつつもされるがままに髪を整えられていた。リボンは裏表で色が違うもので、四つの色が、カラフルに飛鳥の髪を彩っている。少し長めのリボンで、髪と一緒に背中にまで流れているのも華やかな印象だ。文月におもちゃにされかけた時は頬を膨らませていたが、仕上がりはまんざらでもなさそうだった飛鳥である。
そんな四人、夕食後のお風呂上りは遊んでいたが、先ほどは飛鳥が夏休みの宿題を持ち出してきて、少し真面目な雰囲気にもなっていた。「私が作る憲法前文」という、高三であってもなかなか難解なテーマの文章を、どう書けばいいのか中二の飛鳥が意見を求めてきたからである。
憲法が存在する限り存在し続けるであろう憲法改正の問題を、翼と陽奈はたまに話したりすることもあるが、文月はその手の話をあまり面白いと思うタイプではない。文月は飛鳥の宿題の内容に大いに同情し、いかに手を抜いて文章を書くかを伝授しようとして、飛鳥には睨まれて、陽奈には少し笑われていた。
翼は最初は、直接意見を述べずに飛鳥の持っている憲法の概念を問いかけて、できるだけ飛鳥自身の現時点での意見を引き出しすように促そうとしたが、飛鳥が少したどたどしく意見を述べるうちに文月が口を挟み、結局翼も陽奈も問われるままに自分の考えを口に出してしまった。権利義務に対する理念が翼と陽奈とでは食い違って意見が衝突したりもして、飛鳥は興味深そうな顔で話を聞いていたが、「飛鳥の現時点での考えを引き出す」という観点では、翼たちはでしゃばりすぎと言える。途中から翼と陽奈の話は細かい方向にも走り、飛鳥は一生懸命ついていこうとしていたが、文月は最初からついていく気など皆無で、笑って翼の雑誌を手にとって眺めていた。そうしながら時々言葉尻をとらえて妙に鋭いつっこみをして、話を良くも悪くもかき混ぜたりしていた文月である。
ともあれ、飛鳥が後日書き上げた文章がかなり姉たちの影響を受けたものになってしまったことを考えると、飛鳥自身がこの件について自分の確固たる考えを持つのは、まだもう少し先になるのだろう。
そんなちょっとかたい話をしたりもする四人だが、飛鳥が自室にノートを置きに行ってすぐに、文月が恋愛がらみの話題を持ち出していた。
「陽奈さー、三年になってから何人コクられたー?」
文月は翼のベッドに寝転がって、お行儀悪くごろごろしている。陽奈は床のジャンボクッションの上に座って、ベッドにもたれかかっていた。デスクチェアに座って空になったコップを弄んでいた翼は、「そろそろいい加減にリボンも取って、お菓子も片付けて、歯磨きして寝る準備したいな」などと思っていたが、文月の持ち出した話題に、少し耳をそばだてた。
文月がそんな話題を持ち出したのは、終業式の後、同級生の男子に二人きりのデートらしきものに誘われたせいもあった。その彼は多人数でなら何度か遊んだことがある比較的仲がいい男子で、真剣さを押し隠すようにして誘ってきたが、文月はちょっとおちゃらけたように「ごめんねー」と笑って、バスケや免許取得などで忙しいことを理由に誘いを断っていた。みなでわいわい騒ぎながら教室に戻る途中の出来事で、翼も陽奈も現場に居合わせなかったが、もしその場にいたら、謝る文月のその瞳がどこか真剣味を帯びていたことに気付いただろう。文月も相手もそのまま冗談めかしていたが、ふった方も色々と思うところがあるらしい。
「ん、一人、かな」
陽奈はあまり好まない話題だということを隠そうともせずに、返答も短い。文月は気にした風もなく、「やっぱり」などと訳知り顔で頷いた。
「今年になってから、陽奈にコクってくるオトコ減ってるよね。やっぱりあの噂のせいかな?」
「……上がいなくなったからじゃない? もともと大抵の男から見ると、陽奈は高嶺の花だから」
二、三年はいい加減諦めてそうだし、一年は気後れする奴も多いだろし。と続けようとした翼を、陽奈は眉をひそめて遮った。
「え、何それ。翼までそんなこと言うの?」
「単なる客観的認識だよ」
「陽奈キレーになってるからね〜。女のわたしから見ても、たまに持って帰りたくなっちゃうし」
「……持って帰って何する気?」
「え、やだなぁ、つばさ、そんなの決まってるじゃん。ねえ、陽奈」
「ん、ゲームとか?」
「あは、ないすボケ! って冗談はともかく、選り好みしてると相手いなくなっちゃうよ? 陽奈だけじゃなくてつばさも。いま全然、男子の相手してないし。二人ともほんとにこのままでいーの?」
「問題ないよ。したくないことをやるほど暇じゃないし」
「……自然に行くだけ、だよね。好きになって欲しい人以外に、好きになってもらっても意味ないから」
「むー、二人とも、そんなだからレズな噂とか流れちゃうんだよ。わたしまで一緒扱いされるんだから、ちょっとは考えなきゃだめだよ」
「文月のは文月のせいだろ」
「うん、文月はアレだからね」
「む! アレってナニヨ!」
「言って欲しいのか?」
「言って欲しいの?」
「い、言わなくていい! そういう息があってるところが、怪しい!」
「文月には負けるよ」
「うん、ほんとのことは自分がわかってればいいよね。こういうの、他人は関係ないし」
「ひてーしないの?」
「否定しても、信じない人は信じないだろうし。他人なんてどうでもいいよ。ね、翼」
「やっぱり怪しい!」
「そう言う文月はどうなんだ?」
「うん、わたしたちのことより、純さんとはどうなってるの?」
「な、なんでここでにーさんがでてくるのよ! わたしはバスケで忙しいから、まだ恋愛どころじゃないの!」
身体を起こしてムキになる文月に、陽奈は「無理には聞かないけどね」と瞳で語って、やんわりと微笑む。翼は深く考えずに、さらりと一歩踏み込んだ。
「文月がそう言うなら、そういうことにしとくけどな。本気なら大抵のことは味方するし、後悔してもいいくらいまでやってみるのもありかもね」
「…………」
「…………」
無造作に言い切った翼に、文月と陽奈は思わず絶句した。二人の視線は驚きが大きかったが、翼が意味がわかっていて言ったのかどうか、うかがうような色があった。
「な、何変なこと言ってるの! 別にそんなんじゃないんだから! つばさに味方してもらってもぜんっぜん嬉しくないもん!」
数秒、微妙な空気が流れかけたが、文月がすぐにはっと我に返って、慌てたように言う。陽奈はその文月の態度に曖昧に笑ったが、声には真剣味が混じっていた。
「それって、やらないで後悔するくらいなら、やって後悔しろってこと?」
「いや。そんなケースバイケースの話じゃなくて、話したいことがあるならなんでも聞くって言っただけだよ」
ちょっと笑いながら、ごく普通の声で、ごく自然に言葉を紡ぐ翼。
また文月は一瞬言葉をなくしたが、翼に気持ちを見透かされたと感じたのかどうか、カッと顔が赤くなっていた。
「む、む〜! つばさがなんか恥ずかしいこと言ってる〜!」
「どこがだよ」
予想外の文月の反撃だった。大人の余裕を漂わせていた翼は、少しむっとしたように文月を見返す。
「……確かに、よく考えるとちょっと恥ずかしいかも」
「な、陽奈まで」
「むちゃくちゃ恥ずかしーよ! つばさってばやっぱり甘ちゃんだ〜!」
翼の枕を抱きしめながら、文月はどこか嬉しそうに照れたように、わざとからかうような言葉を投げる。「真面目だけど面倒くさがりで、甘いけど冷たくて、でも優しいんだよね……」などと言うと自分もさらに恥ずかしくなるから、頭では思っても口にはださない文月である。翼の表情の変化に、少し驚いたような顔をしたのは陽奈だ。
「翼、もしかして照れてる? 顔赤い」
「くっ……」
うるさいいちいち茶化すなよ、などと文月に言い返そうとした翼だが、陽奈の言葉で声が詰まった。深く考えずに言った本音の台詞を茶化されたせいか、とっさに顔に片手を当てると、翼の頬は少し熱を持っていた。
「え、姉さん? え、どうしたの?」
ここで飛鳥が戻ってきて、さらに事態が混迷する。飛鳥が戻ってくるのが後数分遅かったら、文月は勢いに任せて自分の気持ちを暴露していたかもしれない。だがその機会は、良くも悪くも、この時は失われた。
顔を火照らせてその頬を片手で押さえている姉を、飛鳥はびっくりしたように見て、目をぱちくりしている。そんな飛鳥と翼に、陽奈は吹き出すように笑い出し、文月もまだ顔が赤いままだったが満面の笑顔だった。
「おっかえりー、つばさって可愛いって話してたんだよーん! さっすが、飛鳥チンのオネーチャンだよねっ!」
「な、さっきからなに言ってる! 陽奈も笑うな!」
「だって、翼、可愛い」
「うんうん、つばさってば、怒った顔も可愛いよねっ!」
「ね、姉さん、どうしたんですか?」
状況がよく飲み込めないのか、滅多にない姉の態度に、飛鳥まで取り乱しかけている。陽奈たちが余計なことを言う前に即座に翼が反応したが、「どうもしてない!」という台詞には、説得力が全然なかった。
「飛鳥がいちいち気にすることじゃないよ。誰もたいしたこと言ってないから」
「嘘つけ〜。恥ずかしいこと言ったじゃん。何があっても絶対わたしに味方するってね!」
その引用は正確ではないが、文月の解釈ではそうなっているのかどうか、少し照れながらも文月は明るく言い放った。
「つばさって、たまに平気な顔で恥ずかしいこと言うよね!」
「文月うるさい!」
「うん、文月、いくら照れくさいからって、翼の気持ちを茶化しちゃダメだよ? 翼も、そんな恥らうことないのに」
「陽奈も黙れ」
少しきつい翼の言葉だが、間接的に翼に追い討ちをかけた陽奈は、物凄く楽しそうな顔で小さく舌をだして見せる。飛鳥はなんとなく事情がわかってきたのか、明るい笑顔になった。
「姉さんのそんな顔、初めて見たかも。照れてる姉さん、ほんとに可愛い」
「…………」
陽奈たちに言われるのも充分屈辱的だが、よりにもよって飛鳥にまで言われるのは精神的ダメージが大きかった。
「いっつもこおならいいのにね! つばさって時々いぢわるだからな〜」
「あは、いつもこうだと、ありがたみないよ?」
飛鳥の言葉を受けて文月がふざけて、陽奈も笑いながら、アリガタミなどと、わけのわからないことを言い出す。
……武蔵、文也、今ここにおまえらがいてくれたら……。
かなり唐突に、翼の脳裏を現実逃避ぎみな思考がよぎるが、おそらく武蔵や文也がいても、同じような状況では同じように翼をからかったであろうことが、翼の考慮からは抜け落ちている。人の記憶というものは、こうやって美化されていくものらしい。
「でも姉さん、文月さんには甘くしなくていいのに」
「お、飛鳥チン、やきもち〜?」
「だ、だれが文月さんなんかに。文月さんなんて、アウト・オブ・眼中! ですっ」
少し古臭いが一部地域三日間限定くらいで流行りそうな表現を用いて、飛鳥が強気に言い切る。続く陽奈の声は、さっきからやたらと楽しげだった。
「翼は飛鳥にもわたしにも甘いよ。ね、翼?」
「……なんなら冷たくしようか?」
「え、ダメよそんなの」
「うんうん。どうせできないくせに」
「そーだそーだ、つばさは甘ちゃんでいーの!」
即座に反発する飛鳥はまだしも、妙に確信を持って頷く陽奈と、また同じことを言う文月は無駄にハイテンションである。
わざと冷たくいこうとした翼だが、目の縁はほんのりと赤いままで、羞恥が滲んでいるから迫力が欠ける。おまけに、頭に子供っぽい大きなリボンをつけているのに本人がそれを忘れているのも、翼から迫力を奪っていた。
しかも飛鳥は文月の言葉が気に障ったのか、「姉さんは文月さんと違って優しいんですっ」ときっぱりと口にして、翼の羞恥心をまた刺激してくれる。
「あは、翼はただ優しいのとは少し違うと思うよ?」
「飛鳥チン、わたしのヤサシサがわかんないなんて、まだまだ未熟だね〜」
「でもでも姉さん、いじわるしても、今はすぐ優しくしてくれるし!」
なぜかムキになったように言う飛鳥に、普段の翼ならいついじわるなんてしたんだとつっこんだかもしれないが、置かれた状況はいつも通りには程遠かった。
翼は重いため息をつき、まだ熱を持ったままの頬を手の平で軽く叩くと、今取れるベストと思われる行動に出ることにした。笑って受け流して反撃するほどの精神的余裕はないし、怒るのも照れ隠しだと宣言するようなものだから、手っ取り早く一度逃げ出すことにしたのである。
「あ、翼、逃げるの?」
コップを持って立ち上がった翼を見て、咎める、というよりは翼の気持ちを見透かすように、陽奈が笑う。「それって飛鳥チンがワガママ言うからじゃない?」と飛鳥をからかおうとしていた文月も、「あ、こら、つばさニゲルナ!」とふざけて翼に言葉を投げてきた。
もちろん、逃げるという行為に抵抗がない翼は逃げる気満々である。それでも、何か言いかけた飛鳥を遮るように「逃げても行くとこなんてないよ」と答えたのは、半ば話をそらすための計算ずくだが、本音混じりだった。
「三人とも、そろそろ寝る準備するよ」
「えー、まだいいじゃん」
「あ、そうだね、そろそろ歯磨きとかしないとね。文月、夜は長いよ」
前半だけ聞けば陽奈は翼の味方にも思えるが、後半部分を聞く限り、必ずしもそうとは言えない。ベッドボートに置かれた文月のコップやテーブルの上のコップを回収する翼に倣って、陽奈も立ち上がり、空になったお菓子の袋などを片付けにかかる。
「わたし、テーブル片付けてお布団敷きますね」
まだちょっと何か言いたげながら飛鳥も動いたが、文月は一人むーむー言いながらごろごろしていた。
「つまんないー。つばさをもっといぢめようよー」
「翼で遊ぶのは後でもできるよ。ほら、後片付けして、歯磨きしに行くよ」
「…………」
微妙に、陽奈の発言が不穏当に聞こえたのは、翼の聞き間違いなのだろうか。
「あは、姉さんで遊ぶんですねっ」
聞き間違いではなかったらしい。飛鳥の声がなぜかやたらと弾んでいる。文月も笑ってふざけたことを言い出した。
「あ、なんならつばさを着せ替え人形にしてみる? つばさのタンスにまだ前の服あるよね?」
「……本気で、追い出していいかな?」
放っておくとどこまでも調子に乗る三人に、翼はせいぜい冷たく言おうとしたが、その声にはやはり迫力がなかった。怒れないなら笑うしかないよな、と考えたわけではないが、翼の表情からはいつのまにか気が抜けていた。
そして当然、そんな生ぬるい声で三人が怯むはずもなく、三人は即座に言い返してきた。
「ダメよ、そんなの。今日はずっと一緒だもん」
「ダメって言ったって居座るもんね〜」
「うんうん、夏休みだし、今日は遅くまで平気だよね」
「そだ、陽奈がさっき着てたワンピとかつばさに着せてみたくない?」
「あ、いいね、翼ならわたしより似合うかも」
「陽奈さんも似合うけど、姉さんにも似合いそうですよね」
ベッドから身体を起こす文月に、後片付けをしながら陽奈は笑い、飛鳥もテーブルの上の雑誌を片付けながらニコニコしている。
「ったくもう……」
翼は疲れたように呆れたように呟くが、声にもその表情にも険はなかった。冷たくでもなくきつくでもなく、諦めた、というよりはどこか開き直ったような態度で、翼は今度こそ本当に逃げ出した。
「着せるなら飛鳥にしといて。コップ置いて歯磨きしてくる」
「え、え、あ、姉さん待って、わたしも行く」
「にゅ、わ、こら、置いてくなー!」
「あ、ずるい。わたし途中なのに」
文月はすぐに、飛鳥も作業を中断して翼の後に続くが、陽奈は手がふさがっていてスタートが遅れた。階段を下りながら、文月は翼に文句を言い、そんな文月に飛鳥が色々と言い返すが、部屋に残った陽奈には翼の反応までは聞こえてこない。
「だいたい、陽奈の服、飛鳥チンだと胸とかお尻とか余っちゃうよ。成長期だけどまだまだ小さいもんね」
「な、身体しか育ってない文月さんには言われたくないです!」
そんな文月と飛鳥の声も、すぐに遠くなっていく。
ここで母親のような顔をして笑って後片付けができるほど、陽奈もまだ大人ではない。
「翼、置いてくなんてひどい」
陽奈は急いですべてのゴミを回収してゴミ箱に放り込むと、部屋の電気もつけっぱなしで、すぐに三人を追いかけ……ようとして回れ右をして、自分のバッグの傍にかがみこんだ。がさごそと素早く歯磨きセットを取り出し、ちょっと文句を言いながらついでに文月のそれも用意して、改めて三人を追いかける。
文月は翼がコップを置きにキッチンに立ち寄る間に、歯ブラシを持ってくるのを忘れたことに気付いたようで、階段の途中で陽奈と鉢合わせした。「さっすが陽奈!」などと調子がいい文月に文月の歯磨きセットを放り投げて、ちょっと機嫌を損ねてますという態度を見せつけたりした陽奈である。ここで陽奈の機嫌を損ねたことと、この後の騒ぎで陽奈が翼の敵に回ったこととの因果関係は謎だった。
そう広くない洗面所に四人、お互いを少し邪魔者扱いしながら歯磨きを始めたのは数分後。
ちょうど久我山家のお父さんが仕事から帰ってきたのはそんな時で、スーツ姿の彼は賑やかな娘たち四人にちょっと怯み、子供っぽい可愛いリボンをつけていた長女には特に驚いたようだが、顔に出さないあたりはさすが翼の父親だった。陽奈はごく普通に挨拶をしていたが、文月は歯ブラシをくわえたまま慌てて翼の後ろに隠れ、飛鳥は笑って意地悪を言い、当然のごとく後で文月に仕返しをされていた。
パジャマに着替えた後、無理矢理ワンピースを着せようとする文月たちに抵抗して、翼がぐったりとベッドに倒れこんだのは、そのさらに数十分後。
そのワンピースが陽奈が夕方着ていたワンピースでなければ、翼はリボンと同じようにそう抵抗せずに受け入れたかもしれないが、つい拘って意地になってしまった。それが不満な三人はくすぐり攻撃にでて、三人がかりの無駄に抜群の連携で翼の動きを封じて、翼の気持ちを無視してかなり好き放題楽しげに騒ぐ。
「翼、ほどよくお肉がついてきてるね」
「あは、前より柔らかいかもね〜」
「あ、姉さん、水色だ」
本気で涙目になるくらい物理的に笑わされつつ、翼は最後までじたばたと抵抗しきったが、息も絶え絶えでかなりあられもない姿になっていた。
陽奈たちはそれで気が済んだらしいが、翼としては陽奈たちに痛い思いをさせてしまうような本気の抵抗をするわけにもいかないし、理不尽な三人である。後半歩くらいで翼は本気で怒るところだったし、本気で気分が悪くなるところだった。笑わされすぎて怒るタイミングを逸してしまい、三人が最後まで強行しなかったこともあって怒りそこねたが、本人も気づかないうちに少しずつ鬱憤もたまっていた。時々翼の気持ちを無視するような三人に、そう遠くない日に翼は本気で冷たく怒ってしまうのだが、それはまだもう少し先の話だ。
翼はぐったりしながら、いっそ三人を着せ替え人形にしてやろうかな、などと反撃を考えたが、翼が立ち直る前に、陽奈たちは自分たちから勝手に遊び始めていたから、翼のその考えは逆襲にも仕返しにもなっていなかった。
三人は勝手に翼のタンスを漁り、今の翼がまず着ないような元のツバサの服も引っ張り出して楽しむ。
「つばさの服、やっぱりサイズが合わないなぁ。無理に着ると胸もお尻もきつそ」
「ついでにウエストもきつそうだね。飛鳥が着るには、まだちょっと大きいかな?」
文月は翼の服を物色し、陽奈も物色しつつ飛鳥にあてがって遊んでいたが、飛鳥は姉の服や陽奈のサマーワンピースを着てみたのはいいものの、案の定、胸とお尻――特に胸――がしっかりと余っていて、ちょっと落ち込んでいた。が、「つばさの妹なんだし、後二、三年もすれば大丈夫っしょ」などと文月に慰められて、すぐに立ち直るあたり、なかなか現金かもしれない。
はっきり言って、人の服を着て喜ぶという神経も、翼にはイマイチよくわからない。もうそのまま寝てしまいたくなった翼は、一人ベッドでタオルケットをかぶったが、三人はそのタオルケットをはいで翼を引っ張り出し、いちいち意見を求めてくるから始末に終えなかった。目の前で下着姿を堂々と見せて着替えて遊ぶ三人に、翼が男のままだったらかなり得した気持ちになったのかもしれないが、この時の翼の感情は矛盾の塊だった。
クールな傍観者に徹するには感情が屈折しまくるし、精神的にも疲れてしまうし鬱な気分にもなるが、マイナスの感情だけというわけでもなく。半ば開き直って堂々と眺めて、「飛鳥には大人っぽいのより、やっぱりまだ可愛いのが似合うよ」などと笑うその笑顔に嘘はないが、かと言って心に余裕があるわけでもなく。
「ほんとにいったい何がそんなに嬉しいんだか」と翼がつっこみたくなるほど、楽しんでいる三人。翼に構いたがり、構われたがる三人。
そこには三人の翼に対する気持ちが透けていて、その感情は時々翼を辛くする。だがそれでも、翼も翼でどんなに鬱屈した思いがあっても、結局は自然に笑っていられるのだから、翼の三人に対する気持ちも見え透いているのだろうか。そして三人も、無意識にでもそれを感じているから、翼の前でも自然体でいる。
翼の感情がどんなにかき乱されていたとしても、それが悪い意味だけにはならないのは、だからなのかもしれない。もしも久我山家のお母さんがこの場を覗きにきたりすれば、長女もなんだかんだで楽しそうだと断言してしまうのだろう。
客観的に見れば、実に平和な光景。
そんな夏の夜。
concluded.
index next
初稿 2005/07/01
更新 2008/02/29