キオクノアトサキ
Taika Yamani.
番外編 「夏の夜」 <前編>
久我山翼の高校三年の一学期は平穏だった。無視できないような出来事も少なくはなかったが、突然入院したり一ヶ月以上学校を休む羽目になった昨年の二学期と比べれば、時は穏やかに流れた。
学校全体で見ても、ここ数年と比べて極端に大きな事件もなく、五月の体育祭や二回の定期試験といった日程をつつがなく消化した。翼の一年の時のクラスメートが妊娠騒ぎを起したり、教育実習生が一部の男子生徒を文字通りノックアウトして去っていったり、女子バドミントン部の二年生がインターハイ出場まで後一歩というところまでいって盛り上がったりと、大小様々な出来事があったりはしたが、全体としては可もなく不可もない数ヶ月だったと言える。
七月も半ばを過ぎてそんな一学期が終わると、学生にとって夏本番の季節がやってくる。
夏休みが始まったばかりのその日、もう何度目になるのか、翼の部屋に同い年の友人である蓮見陽奈と松本文月とが泊まりにきていた。
夕食後、陽奈と文月は翼の妹と三人でお風呂に入り――三人だと結構狭くなって辛いはずなのだが――、夕食前に一人で入浴を済ませた翼は、控えめに空調の効いた自室でCDをかけてくつろいでいた。椅子に座ってアルバイト情報誌を眺めている翼は、いつものごとくラフな姿で、Vネックのカットソーに柔らかいチノパンという飾らない格好だ。この日のカットソーはメンズにはあまり存在しない七分袖の服で、顔を覗かせている細い手首から腕へのラインが、夏らしい、というよりは春や秋を思わせる涼やかさを演出している。
『何気ないジョークに笑い転げた、こんな毎日が続くといいね』
そんな歌詞のCDを聞きながら、翼がそうやってのんびりしていると、ドアの外から文月の陽気な歌声が聞こえてきた。
「くっがやまさんチぃの、あっすかチン〜。このごろ少しーヘンよ〜、どーしたのっかーナ〜」
文月は二階への階段を上りながら歌っているのか、声は徐々に大きくなって近づいてくる。
「お風呂で遊ぼって言っても〜、洗ってあげるって言っても〜。いつも答えはお、な、じ。ちょーっぴーり、つまんないゾ〜」
「…………」
「たっだいま〜」
人の家で恥ずかしげもなく、いったいなんという歌を歌っているのか。翼はため息混じりに振り向き、そして部屋に入ってきた文月を見て、さらに重々しくため息をついた。
「……おかえり」
「いい湯だったよ〜。またバイト探してるの〜?」
「……文月さ、前から言いたかったんだけど」
「にゅ、なに?」
着替えを手に持っていた文月は、床のバッグの上にそれを放りながら翼を見る。翼は机の上の雑誌から手を離して、そんな文月をじっと眺めた。
「泊まりに来る時、なんでいつもそんなにスカート短い? 外では結構大人しい服なのに」
文月は「なんだそんなことかっ」という顔をすると、両サイドからスカートをつまんで、翼ににっこりと笑顔を見せた。
「カワイイでしょ?」
「……見えてるよ」
「やぁん、つばさのちゅけべ〜」
「…………」
ひらひらとスカートを翻し、文月は明るく笑って、翼のベッドにお尻からダイブした。
文月の格好もいつも通りと言えばいつも通りなのだが、胸の谷間が顔を覗かせているスクエアネックのシャツにミニ丈のひらひらしたスカートという、素肌をかなり大胆にさらしている服装だった。膝丈のスパッツとセットだったりしたら可愛く落ち着くのだろうが、スカートをつまむと中の下着がちらちらと顔を出したし、ふくよかな太ももも全開だ。半袖のシャツもゆとりが大きなつくりで、文月がかがみこめば、谷間どころかふくらみがまるまる覗き込めてしまえそうだった。背が高くスタイルがいい文月だから、健全な同年代の男であればよほど堅物でもない限り、その脚線美や豊かに強調されたバストなどに、ついつい目が行ってしまうだろう。微かに日焼けしている手足とコントラストを描くように、水着の形に元の白さもくっきりと強調されて、健康的な色気を振りまいていた。
「前からこうだったでしょっ。つばさんチは家とおんなじなのだ」
「父さんに見られると逃げるくせに」
「そ、それはそれなのっ!」
文月はちょっとどもって、意味もなく翼の枕を手に取って慌てる。ちゅけべ呼ばわりされた翼は、「なにがどれなんだかな」とはつっこまずに、横向きに椅子に座りなおした。
「それって、他人に見られるのを気にしてるってこと?」
夕方、翼の家にやってきた文月はもっと露出の少ない格好――この日は、ぱりっとしたチェックの半袖開襟シャツに、少しタイトな膝丈のスカート――だったし、寝る前はパジャマに着替えることを考えると、わざわざ余計に服を持ってきているということになる。陽奈は着てきた服とパジャマしか持ってこないことが多く、一泊ならそれで充分間に合うのだが。
「そっ。だって外だとじろじろ見る奴がいるしね。変な人に見られるの嫌だから」
ブラコンな文月のことだから、家でだけそういう格好なのは、まさか兄の気を引く目的でもあるのだろうか。だとすればやっぱり文月は侮れないなと思う翼である。本人は単に好きな格好だから、周りを気にしなくてもいい場所でだけ好きにしているつもりかもしれず、無自覚かもしれないのが、かえって怖い。
「ならなんで制服は短い?」
「制服はベツなのっ」
これも翼にはわかりづらい理屈だ。同じ露出だとしても、水着と下着の関係のようなものなのだろうか。それとも、学校という場を意識しているということなのか。
翼は男だった時はさほど意識していなかったが、女の立場で女友達と付き合っていると、彼女たちはどうも同性の目を意識して服装に気を配っているのではと思われるケースが多々あった。同性愛傾向という意味ではなく、センスを競ったり、仲間意識だったり、自己顕示欲だったり、背伸びをだったりと、色々な要素も絡むのだろうが、恋愛とか男とかそっちのけで、しょっちゅう女同士でわいわい騒いでいる。もちろん、中には我が道を行きまくったり、男の目ばかり意識しているような子もいるようだが、傾向的に女性の方がファッションにうるさい分、同性の目の方がかえって気になる部分もあるということらしい。
「つばさも短くしてみるの、どー? つばさなら似合うよ〜?」
「そういうのは文月に任せるよ」
「むー、つばさって、お高くとまっちゃってるよね。もっと可愛いの着ればいいのに」
「そういうのは陽奈や飛鳥に任せる。あ、飛鳥が何か変なのか?」
「飛鳥チン? え、なんで? なんかあったの?」
「さっきの変な歌」
「歌? ああ、あは、なんだ、びっくりした。適当に歌っただけよ。似合うでしょ、久我山さんチの飛鳥チン、だとさ」
「……松本さんちの文月ちゃんでも似合いそうだけどな」
「それ言うなら、久我山さんチのつばさチンもありだね。蓮見さんチの陽奈チンだと、ちょっとゴロ悪いかな?」
「……なんだかなぁ」
「あはは。でもさつばさ、大人になっちゃうと可愛いの着にくくなるよ? 陽奈がたまにするみたいなお嬢様ルックもしてみればいいのに」
「ああいうのは陽奈だから似合うんだよ。飛鳥も似合いそうだけど」
「つばさも絶対似合うって。前はたまに着てたし。タンスにまだある? あ、ないなら今度陽奈の借りてみる? サイズ同じくらいだから、着れるよね?」
「いらない。陽奈たちにも余計なこと言うなよ」
「うんっ! と、口では言っておく文月ちゃんであった」
「……ふぅ」
翼はいちいちつっこむかわりに、一つため息をついた。そのせいかどうか、遅くなってからタンスの中を漁られたりするのだが、それは後の話である。なぜか飛鳥が自分の部屋からたくさんのリボンを持ってきて、四人の髪が華やかになったりするのも、また後の話だ。
「文月こそ、そういうのはどうなんだ? あんまり着ないみたいだけど」
「んー、わたし、お嬢様系はあんまり似合わないもん。背があるし」
「そうかな? 文月にも似合うと思うよ。黙って立ってれば」
「つばさ、一言多い〜」
文月は笑顔で膨れっ面をする。
「でもやっぱり少しは人目を気にしてたんだな。かなり意外かも」
「む、わたしをナンだと思ってるのよ?」
「誉めてるんだから気にするな」
「全然誉められてないよ!」
笑いながら、文月は枕を翼に放ってきた。手で顔をカバーして枕を受け止めた翼も、軽く笑って見せる。
「どうせならさ、飛鳥チンと陽奈に派手なの着せてみたくない? 陽奈は大人しいのとかが多いし、飛鳥チンもつばさの真似してカッコイイ系ばっかりだし」
二人の共通の友人である蓮見陽奈は、お嬢様然とした容姿と裏腹に、比較的動きやすいシンプルな服装を好む。祖母や母が服を買ってくることも多いようで、そんな服や学校の制服の時は大人しめの印象だが、本人が選ぶ服はユニセックスで活動的な明るいものが多い。
翼の妹である中学二年生の飛鳥は、女の子女の子した格好も好きなようだが、背伸びをしたいお年頃なのか、シンプルな大人びた服装を選ぶことも多い。が、本人は大人っぽさを狙っているつもりらしいが、まだまだアンバランスだ。同級生相手ならともかく、翼たちから見るとかえって幼く見える。それはそれで翼の主観では可愛いから、翼としては別に文句はないが。
「わたしが今着てるみたいのとか、飛鳥チンも陽奈も、あんまり着ないよね。あ、今のつばさも」
文月はそう言いながら、ごろんとベッドにうつ伏せに寝転がった。腕の上に頬をのせて、少し横向きに翼を見る。
瞬間、胸元が大きく開いてしまう体勢になった文月から、翼は強引に目をそらした。
「さすがに今の文月の格好はやりすぎだな。男なら彼女には人前で着てほしくない類の服だと思うよ」
学校で水着の着替えのシーンまで充分すでに見まくっているから、多少いまさらの感もあるが、距離が近すぎるし、自分の部屋で二人きりなのだから、意識し始めれば際限なく気になってしまう。男のままだったら、あえてわざと文月を恥しがらせるくらいに堂々と眺めたりするのだが、見ても感情の持って行き場がない今が少し辛い翼だった。
「別にこのくらい普通じゃん。それに男って、彼女は見せびらかしたいんじゃないの?」
「……また偏った意見だな」
翼は自分の意見が偏っていることを自覚しているが、文月の意見も逆方向に偏っていた。
「ま、どっちでもいいけどねっ。飛鳥チンにはさ、ろりろりな服も着せてみたくない?」
「ろりろりって……」
「飛鳥チンも最近成長してるしさ、今のうちに着せ替え人形とかにしてみたいよね」
「速攻でケンカになりそうだな」
「でもきっと楽しいよ〜?」
「それは否定しないけどな。陽奈がやるんならともかく、文月がやれば膨れそうだ」
「む〜、飛鳥チンのこと、コンナにもアイシテルのに〜」
「直接言ってみれば? 冷たい視線が飛んできそうだけど」
「つばさのアクエイキョーだ!」
「そんな飛鳥もおれは好きだよ」
「わたしも好きだけどさっ。で、バイト、いいのあった?」
文月は笑いながら身体を起こし、いきなりぴゅんと話題を戻した。一緒に笑っていた翼は、思わず「うん?」と問い返した後、ああと頷いて、さっきまで眺めていた雑誌を持ち上げた。
「今のところイマイチ。高卒以上っていうのがやっぱり多いし、夏休み限定でもけっこう厳しい」
「つばさ選り好みが激しいからねー。やっぱバイトなんてやめとけば? 免許に受験に、身体も持たないっしょ?」
「文月を置いて先に免許とっていいんなら、バイトはやめとくんだけど」
「む、べ、べつに、待ってなくてもいいよ、そこまで言うなら」
文月は口ではそう言っているが、顔は思いっきり不満げだった。翼は「冗談だよ」と、軽い笑みを見せる。
「急ぐ理由もないし、ちゃんと待ってるよ。だからあんまり無理するなよ」
「つ、つばさじゃないんだから、無理なんてしないもーんだ」
翼が自動車教習所に通う話をした時、文月もわたしも一緒に行きたいと騒いで、陽奈と文月と三人で学校に申告して、先日から教習所通いを始めている。その時に相談して、短期集中という選択肢を捨てて、文月の都合にできるだけ合わせる方向で話を決めていた。文月はバスケで秋の国体の代表候補だから、まだ練習から解放されていないためだ。翼と陽奈は最悪でも年内に免許を取れればいいと考えているが、文月は多少ハードスケジュールになる可能性があった。
「だったらいいんだけどな。文月は自覚なしで無茶するから」
「自覚ありで無茶するつばさに言われたくないよーだ」
少し照れたような怒ったような顔で、文月は言う。言った後、ふと何かに気付いたかのように、ニコニコと翼を見やった。
「つばさってば甘ちゃんだよねー」
「なんだよ、いきなり」
「ふふ、さーねー。なんでもないよっ」
なぜかご機嫌な顔で笑って、文月は「わたしにも見せて」と翼に両手を伸ばす。翼は放り投げるようにして文月に雑誌を手渡した。
「バイトなんてやってる余裕あるのか?」
「ないけどさー。わたしもバイトちょっとはしてみたいよ」
親の影響か将来料理人になることを検討している文月は、「やるなら飲食関係かなー」とページをぱらぱらとめくる。「大学の推薦が決まってからなら少しは余裕もでるかも」というようなことも言い合いつつ、アルバイトについてあれこれ意見を交わす。時給がやけに高い、大人の女性のみ募集の夜のお仕事のページも見たりして、変な方向にも話は流れた。
翼は男だった時は「女はその気になれば楽に稼げるのがあるからいいよな」などと深く考えずに思ったこともあるが、実際自分がやる立場となると話は別だった。他人がやる分にはとやかく言うつもりはないが、女を売りにするような職業で愛想を振り撒く気にはとてもなれない。逆に今では、「男の方が体力だけで稼げるのがあるからいいよな」などと、暗い気分で思うこともよくあった。純粋に力だけを求められるような労働は、女の身体では厳しい。建前はどうであれ、男が有利な職種もあれば女が有利な職種もあり、職業選択は良くも悪くも男女差が付きまとう分野だった。
そうこうするうちに、飛鳥と陽奈もお風呂から上がって、翼の部屋にやってくる。
二人はこの時髪型がどうこうと話をしていたようだが、すぐに翼と文月との会話に混ざってきた。あーだこーだ盛り上がる中、陽奈は夏季限定募集のアイスクリームショップのバイトに少し気を引かれていたようだが、飛鳥は時給目当てなのか「大学生になったら家庭教師をやってみたい」などと気の早いことを言って、姉たちに笑われていた。
なぜ素直な気持ちを言っただけで笑われなくてはいけないのか、本人はかなり理不尽に思ったようだが、翼にしてみればそんな妹も可愛く見えるだけである。陽奈も「飛鳥みたいな生徒だったら、家庭教師も楽しそうだね」と、飛鳥の味方なのかからかっているのか、どちらともとれるような発言をして、不満を口にしようとした飛鳥の反応を楽しんでいた。
多少余談だが、この時の陽奈の服装は、夏のリゾートウェアといった印象のフレンチスリーブのシャツにホットパンツという軽装だった。夕方はシンプルなサマーワンピース姿だったから、陽奈もパジャマとは別に、またはパジャマがわりに、この服を持ってきたらしい。文月の悪影響というには潜伏期間が長すぎるから、単に季節に合わせているだけなのかもしれないが、肩には下着のストラップも顔を覗かせていて、白くすっきりとした首周りも涼しげな印象だった。
女は男の視線に敏感、と例えていいのかどうか、陽奈は翼の視線に気付くと、ちょっと照れたような顔で、「何か変かな?」とそのストラップをさわっていた。その様子からすると、最初から外で見られてもいいファッションストラップの類なのだろうが、あまりその手のものに詳しくない翼にしてみれば、普通の下着との違いはよくわからない。「陽奈がそんなカッコ、珍しいね」と、文月も興味を引かれたのか陽奈の服を引っ張ったりまくりあげたりして騒ぎ、陽奈も陽奈で反撃に出て文月の服も乱れて、タンクトップ――というよりはランニングシャツ――にジョギングパンツという格好の飛鳥も巻き込んで、この場に学校の男子がいればかなりドキッとしたであろう光景が展開されたりもした。
なんとなくベッドに突っ伏したい気分になったりもした翼だが、当然のごとく、三人はそんな翼を放っておいてくれない。四人でアルバイトの話や夏休みの予定を言いあって、大学生になったらというような話をしたり、中二の十月下旬の修学旅行の話題になったり、なぜか下着の話題になったりもしつつ、賑やかに姦しく、夜はふけていく。
※ 『何気ないジョークに笑い転げた、こんな毎日が続くといいね』
谷村有美、「ずっと」(1997年発売のアルバム「daybreak」に収録)より。
※ 「くっがやまさんチぃの ≪中略≫ ちょーっぴーり、つまんないゾ〜」
みなみらんぼう作詞作曲、「山口さんちのツトム君」(1976年「NHKみんなのうた」)より、替歌。
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初稿 2005/07/01
更新 2014/09/15