キオクノアトサキ
Taika Yamani.
番外編 「初夏」
高校生活最後の一年を過ごしている久我山翼と蓮見陽奈は、普段気分によって、バス通学をしたり自転車通学をしたりしている。
まず第一の選択権は陽奈にある。陽奈は毎朝ご近所に住む翼を迎えに行くのだが、その時に徒歩であれば、バス通学で確定だ。陽奈が自転車の時は翼に選択権が行き、翼の気分によっては陽奈の自転車を置いてバスで通ったりする。
もっとも、翼が自分の選択権を行使することは稀で、陽奈も陽奈で、最初からバス通学のつもりで翼の家までは自転車で行くことも少なくはない。
六月下旬、一学期の期末試験も間近に迫った朝、この日はバス通学だった。時間ぎりぎりのバスは混みやすいため、そんな時は自転車を選ぶことが多いが、今朝はいつも通り、一本早いバスに余裕で乗れるという時間だった。陽奈は自転車で翼を迎えにきていたが、バスで行こうと翼を促して、二人並んでゆっくりと歩いていた。
六月の衣替えを済ませているから、二人とも夏の標準服姿だ。
黒い襟を持った半袖の白いセーラー服に、赤い三角ネクタイ、黒のプリーツスカート。足元は、陽奈は三つ折ソックスと学校標準指定のコインローファーで、翼は陽奈よりは長めのソックスと動き易そうなスニーカー。季節に合わせて生地が薄いセーラーブラウスの胸元は、陽奈は暑い季節なのにちゃんと胸当てをつけているが、翼は取り外していて、陽奈よりは少し余計に素肌をさらしていた。
「今日も朝から暑いね」
家を出てすぐ、陽奈は目を細めて空を見上げて、些細な愚痴を零す。まだ六月なのに、快晴の日差しが焼けるように暑い。つい先日までは、男女共通のクリーム色のベストや長袖の白いセーラーブラウスを着たりしていたが、もうそれらの出番は秋までお預けになりそうだった。
「予報ではこの夏一番らしいよ」
「それって、昨日も言ってなかった?」
鞄を両手で持ち直して、陽奈は翼に視線を移す。今日は体育がないため、二人とも荷物は学校指定の通学鞄だけである。翼はごく普通に片手で鞄の取っ手を握っていたが、陽奈は鞄の底部を手で持って、時々小脇に挟むようにしたり、両手で支えて前に回したりしていた。
「連日の更新って奴かな。まだ夏はこれからだし」
「夏って嫌だな。暑いから」
「陽奈って冬派だっけ? っ、ふぁ……」
言いながら、翼はとっさに手で口を抑えて、小さなあくびをした。目に涙が滲み、翼は眠たげにちょっと目をこすった。
「ん、夏よりは冬だけど、寒いのも嫌だから好きなのは春だよ。翼は秋だよね」
「強いて言えばね。っく、んっ」
翼は鞄を持ったまま両腕を軽く上げて、身をひねるように小さく伸びをする。白いセーラーブラウスの裾が持ち上がり、数瞬スカートのウエスト部分が顔を出す。ローアングルから見上げていれば、翼のお腹の素肌も、多少覗くことができたかもしれない。
「翼って、暑い時も寒い時も平気な顔してるもんね」
そんな翼を陽奈はちょっと笑ったが、翼が朝に眠たげなのはよくあることだった。学校につくまでの間に翼がシャキっとなることを知っている陽奈は、笑顔になって言葉を続ける。
「あ、でも、今いつも短パンはいてるんだよね。暑いと気にならない?」
「……そうでもないよ。みんなやってることだし」
二人の学校の夏の女子用体育服は半袖シャツと短パンで、普段からスカートの中にその短パンをはいている女子も、多くはないが翼の知る限り特別珍しくもない。スカート丈を極端に短くしている女子も、さすがに気になるのかスパッツ類の着用が少なくないことも、翼はここ数ヶ月の経験で知っていた。
そんなふうに外から見えないようなところに色々な配慮があるのは、翼の記憶の中の男連中と同様、女であっても同じと言える。が、同時に、女性にも異性には見せないだけでかなりだらしない部分が存在していることも、翼は当然のように学ばされていた。男も男で似たような部分があると知っているから非難はしないが、翼としては正直、女のだらしなさは知りたくなかった部分である。自分の認識が男の勝手な幻想に基づいていただけだという自覚はあるし、今の自分を棚に上げているが、それでもだ。
もちろん、すべての女子がそうだというわけではない。例えば陽奈などは、翼を含む女子だけの時でも、目に見えてだらしない、という格好をまず見せない――余談だが、そのせいかどうか、陽奈は一部の同性の受けが翼以上に極端に悪い――。
陽奈のその態度は、自然に振る舞っているだけなのか、それとも人前では常に気を抜けないのか。後者なら楽な生き方とは言えず、翼としては好意的に捉えつつもそんな陽奈が多少気になっていた。もっとも、陽奈に言わせれば、むしろ翼の方がいつも気を抜けずにいるように見えるから、翼もあまり人のことは言えない。
「陽奈は気になるんだ?」
「うん、やっぱり夏は暑いから。短パンだけでもだいぶ違うでしょ」
「そう言う割には、冬もはいてなかったと思うけど」
「どうしてそれを知ってるの」とは陽奈は言わない。更衣室での観察の成果だが、問われたら翼は少し困ったことだろう。
「ん、寒い時はストッキングだし」
「気にならない?」
「なにが?」
「……スカートの中が見えるとか見えないとか」
「え、そんなの、普通にしてれば平気だよ」
陽奈は可笑しそうに笑った。
「小学生みたいなこと言うんだね。翼は気にしてるの?」
「気にしてるって言うより、気にしたくないから」
気にしたくないから、最初から見えてもいいように手を打っている翼だった。
「あは、大丈夫だよ。翼もちゃんとしてるよ。わたし、数えるくらいしか見たことないよ」
陽奈のその言葉は、「それが短パンやスクールタイツであっても、数えるくらいは見たことがある」という意味を持っていた。少し眉をひそめる翼に、陽奈は「ちょっとだけだよ」と笑う。
「最初の、頃。自転車に乗る時とか、ちらっと見えたりしてただけだよ。最近はないよ」
「…………」
なんの最初で、いつのことなのか。翼はしっかりと認識したが、陽奈は強がりなのか、過去の思い出にしてしまっているのか、笑みを絶やさない。ふと思いついたように、話題の角度を変えた。
「翼って、自転車に乗る時、今はスカート挟まない派だよね」
「……何それ?」
「だから、自転車のサドルとぱんつの間に、スカートを挟むかどうか」
「…………」
ぱんつ、という言葉を、照れもなく平気な顔で口にする陽奈。女同士の気安さなのだろうが、翼はまたちょっとため息をつきたくなった。
おれにそんな話をするなよ、と露骨に避けるほど今の翼はそっけなくもなれない。元のツバサがこういう時にどう陽奈と付き合っていたのかは知らないが、男の身体と男の立場で女とそんな話をするのならともかく、女の身体と女の立場で付き合わされるのは、未だにかなりやるせないものがあった。
「そんなの考えたことないよ。どっちだっけ」
「いつも挟んでないよ。スカートがしわになるとか、気にしてるの? 汚れるとか、ぱんつ一枚でサドルに座るのとか、気にならない?」
「だから考えてないって。短パンはいてるし」
「あ、そっか。でも、ひらひらしてるのは可愛いけど、わたしはあんまり好きじゃないな。わたしたちの前だけならいいけど、人前でやるのは」
どう解釈すればいいのか、少し微妙な陽奈の言葉である。色々つっこみどころも多い気もしたが、翼は頑張って何気なく受け流した。
「はいはい、気をつけるよ」
「うん。でも、夏場はちょっと気持ちいい時あるよね、ぱんつで直接椅子とか座ると」
「……ふぅ」
「あ、ひどいな、なに、そのため息」
少し照れたように、陽奈が翼の肩にトンと肩をぶつける。翼はドキッとさせられたが、これもわざと軽く言い返した。
「いや、可愛いと思えばいいのか、もっと慎みを持てと言うべきなのか、ちょっと悩んだだけ」
「自分だけいい子ぶるんだね。翼だって前は言ってたくせに」
「前は前、今は今」
「ん……、そうだけど、ね。……前もそうだったけど、今の翼って、もっと潔癖だよね。女同士でもそういう話避けてるし」
「陽奈もあんまりしないだろ」
「ん、別に喜んでするような話でもないし。わたしが男の子だったらよかったのかな?」
「…………」
非常に脈絡がない、陽奈の発言。表情が消えた翼に、陽奈は笑って視線を流した。
「今の翼って、なんだか可愛いから。わたしが男だったら、翼のこと絶対ほっとかないんだけどな」
「……それはこっちの台詞だな」
「ん、翼って、男だったら女に理想を押し付けそうだから、女でいいよ」
「全然よくない」
しかも「女に理想を押し付けそう」という評価はなんだと、翼としてはつっこみたい。陽奈は翼の一連の返答に、笑いながらも、どこか鋭い視線になった。
「もしわたしたちのどちらかが男だったら、どうなってたんだろうね?」
「……さあな。でも、今のおれのままで陽奈が男なら、たぶんこんなに近づけてないよ」
「ん。じゃあ、女でよかったのかな?」
「それもどうかな」
「今の翼って、男の理想も高そうだよね」
「またいきなり。そんなの考えたくもない」
「まだ恋愛とか、ダメなんだ?」
「一生ダメでも困らないよ」
「もったいないとか一人は寂しいとか、思わない?」
「陽奈だって人のこと言えないだろ」
「ん、そうだけど、ね」
陽奈は数瞬横目でじっと翼を見つめてから、一転、表情を明るく変えた。
「そうだね、翼が恋愛しないなら、わたしもまだしなくていいかな。今は翼と遊んでれば、それで楽しいし」
「……また文月にガキンチョ扱いされそうだけどな」
「ん、翼が子供なら、別にわたしも子供でいいよ?」
陽奈の屈託のない笑顔に、ちょっとドキッとしながらも、翼は「いいんだか悪いんだか」とわざと軽い笑みを見せる。
ここでバス停に到着した。スーツ姿の男性の後ろに並びながら、陽奈は翼に斜め正面から向き直る。
「意外に、一番大人なのは文月なのかもね?」
「意外にとか言うと膨れっ面されそうだな」と思いつつ、翼は陽奈の発言の言外の含みを察した。同級生の松本文月とその兄を思い浮かべながら、素朴な疑問を口にしてみる。
「文月のアレは、どこまで本気なんだろうね」
「ん、どう、なのかな。わたしは、結構本気で本気なんじゃないかなって思ったりもするけど。文月、あんまり話してくれないから」
「自分だけの問題ならいいけど、相手の迷惑もあるだろうから」
間近に他人がいるから、二人とも声は抑え気味だった。翼の言葉遣いや口調も、多少柔らかい。
「ん、うん……、そう、だね。本気なら本気なほど、話しにくい、よね。嫌われちゃうと怖いし」
文月を思い遣ったのかどうか、なぜか陽奈の声が少し沈む。翼はまたわざと軽く言葉を紡いだ。
「あの文月がそこまで考えてるかな?」
「あは、ひどいね。でも、うん、文月、そういうとこは強いからね」
「陽奈がうじうじ悩むようなことも、直観で蹴飛ばしてくタイプだからね」
「あ、またひどいこと言うし。翼だって人のこと言えないくせに」
「こんな時自分を棚に上げるのは基本中の基本かな」
「なんの基本なの」
陽奈は明るく笑って、翼を軽くぶつまねをする。斜め前方からの攻撃に少し身を竦めつつ、翼も一緒になって笑顔を見せた。
「お盆は、今年も田舎行くの?」
また唐突に、陽奈は話題を変えた。
「うん? ああ、一応、そういう話が出てる」
翼の父方の田舎は新幹線を使っても半日以上かかるような場所で、母方の田舎も電車で数時間、日帰りは辛い場所にある。お正月が父方の田舎だったから、というわけでもないが、今年の夏は母方の田舎に行く予定になっていた。母親の田舎は冬場に行けばただでスキーができるから、翼としては冬に行く方が好みなのだが、別に夏に行くのも嫌ってはいない。
ちなみに、陽奈は父方の実家に住んでいるが、陽奈の母方の実家は電車で一時間ほどの距離にある。翼の知る男友達の蓮見武蔵は、翼が田舎に旅行に行くのを、小学生の頃はかなり羨ましがったり寂しがったりしていた。翼にとっては切なくも懐かしい記憶だ。が、翼の記憶は陽奈の記憶と重なるが、陽奈は顔に出さないだけで今も同じ感慨を抱くだけに、翼と違って懐かしさはあまり感じないらしかった。
「今のところ、予定ってそれだけ?」
「後は、父さんがどっか旅行に行くかとか言ってたかな。飛鳥は遊園地行きたいって、まだ先なのにすっかり乗り気になってたよ」
久我山家のお父さんは春休みやゴールデンウィークに行きたかったらしいが、その頃は翼が部活で忙しかった。ゴールデンウィークは、家族四人でデパートに買い物など行って美味しいものを食べてきたが、家族四人で出かけたのはその時くらいで、以降、機会がなかなか作れずにいる。
「あは、いいね。龍彦さん、お休み取れそうなんだね」
「どうなのかな。お盆を休むだけでもきつそうだし、日曜とかに日帰りで行くことになるかもね。夏休みの休日の遊園地なんて、考えただけで気が遠くなりそうだけど」
「混んでても、みんな一緒なら楽しいと思うよ?」
「そう達観できればいいんだけどね。陽奈のとこは?」
「え、あ、うん、今年もお父さんが旅行の計画立ててる。あ、今年は翼も一緒に行かない?」
「家族旅行のじゃまをするほど、あつかましくはないよ」
「じゃまなんかじゃないよ。翼ならお父さんたちも喜ぶよ」
「じゃあ、陽奈も遊園地、一緒に行く? 父さんも、顔には出さないだろうけど絶対喜ぶよ」
「ん……、ん、そう、だね。行きたいけど、やめておくよ。家族でおでかけのじゃま、できないし」
翼は「陽奈だってやっぱりそうだろ」とでも言いたげな瞳で笑い、陽奈は少し不満げに翼を見返した。
「翼って、こういう時なんだかずるいよね」
翼は今度は少し、声に出して笑った。
「今年はどこ行くの? また海外?」
「え、ん、まだ決まってない。ね、翼の予定ってそのくらいだよね。高校最後の夏なんだし、どこか旅行とか行きたいな。家族旅行とは別に、文月と三人で、できれば三泊くらいで」
「……泊まりは厳しいかな。期末終わったら免許取りに行きたいし、文月も合宿とかで忙しいだろうし」
「え、免許、って車の免許? 今この時期に?」
「この時期だからだよ。受験終わってからでもいいけど、春の方が混むみたいだから」
「受験生なのに、余裕だね」
「余裕ってほどでもないけどね」
部活を引退して体力を持て余すようになっているから、今の翼にとっては、多少忙しいくらいの方が余計なことを考えなくてすむ。「車が運転できれば事故に見せかけた自殺がかなりしやすくなるかも」などということも、あくまでも冗談としてだが、翼は考えたりしたこともある。陽奈たちが聞けば、冗談だとしてもそのたちの悪さに、本気で怒ったかもしれない。
バスを待ちながら、二人、免許や車のことについてあれこれ意見を交わす。翼が車の免許取得を考えていたことに、陽奈はかなり意外だという様子を見せたが、すぐに「翼が免許取りに行くなら、わたしも一緒に行こうかな?」と翼の影響をもろに受けた発言をして、翼を少し笑わせた。陽奈は翼に笑われて、ちょっとむっとしたような照れたような顔で、わたしも十八だしね、と笑っていた。
やがてバスがやってきて、待っていた人たちとともに、二人も中に乗り込む。
まだ学校までは距離があるのに、この日はいつもより混雑していた。この時間は学生が多いが、複数の学校を経由して最終的には大きな駅まで行くバスだから、大人の姿も少なくはない。冷房の効きが悪い車内に、蒸すような熱気がこもっていた。
翼が先行して、人ごみを縫うようにして中ほどまで移動し、つり革をつかむ。翼の後に続いた陽奈は、翼の身体に身を寄せてきた。揺れる車内で、まるで翼の身体を手すりがわりにするかのような至近距離。
相手が見知らぬ他人だったり、まったく興味もない女性だったりすれば翼もさほど意識しないのだが、陽奈は翼に対して無防備すぎだった。翼が男のままなら、自分に気があるのかと勘違いしたくなったかもしれない。
混みあう車内で、翼は半歩さがろうとして、人の圧力で押し戻される。反動で、夏の白いセーラー服ごしに翼の身体と陽奈の身体とが密着し、剥き出しになっている腕の素肌同士が接触した。一瞬、胸のふくらみ同士も強く押し付けられ、翼も陽奈も微かに身じろぎをした。
とっさに翼はなんとか体勢を整えたが、それでも、距離の近さは変わらない。
まだセーラー服同士が触れ合っている。身長がほとんどかわらないなせいもあって、お互いの間近に、お互いの顔がある。正面を向きあって言葉を交わすと、お互いの吐く息も、お互いに届く。暑い季節、身体も熱せられて、温もりのこもったお互いの香りも、お互いに身近に漂う。
「翼って、今何もつけてないよね」と、陽奈が翼に言ったのは、高校三年に進級してすぐの頃だっただろうか。翼の首元に顔を寄せて、「石鹸の匂いがする」と呟いた陽奈からは、いつもの清潔感のある香りがして、翼の方が少しドキドキした。
陽奈がよくつけているコロンは、以前、元のツバサと一緒に選んだ物らしい。元のツバサも、その時に陽奈と選んだ別のコロンをよく使っていたらしく、「もう捨てちゃったかな? 今度一緒に買いに行く?」と笑った陽奈の瞳は、どこか切なげだった。
何週間も前のその日、翼はどうして化粧なんてするのかというような素朴な疑問を陽奈や文月にぶつけてみたが、クラスの女子たちを巻き込んで、一日中その手の話題になってしまったのは、ちょっと失敗だった。
元々翼は男だった時から、清潔さや物腰には気を遣っても、服装や髪型は適当にセンスだけで選び、後はTPOに見合った格好というくらいしか気にしていなかった。「気になる相手を意識して着飾る」という心理は、男心であっても女心であっても翼にもわかりやすいが、男子と比べると女子の方がその態度も露骨だと思える。着飾ることを純粋に楽しんでいるのだとしても、男子より女子の方が大げさに扱っているように、また扱われているように見える。
翼自身、見る側の立場では人の見た目を無視できないし、外観から来る印象をすべて無視することが正しいとも思わない。打算的に言って「より可愛いきれいな女性を、まわりはよりチヤホヤする傾向がある」とも思うし、見る側の立場では、翼はなんだかんだでその傾向に荷担している。だとしても、見られる側の立場では正直付き合いきれないし、化粧品の種類や化粧の仕方にまで話が発展してしまうと、もうお手上げだった。「別に止めないから巻き込むのだけはやめて勝手にやってくれ」という感じである。
それでも、今の翼は、外観を装うことの意味を理論的に考えるようにもなっている。
男であっても女であっても、外観を装うことは、使い方次第で剣にも盾にもなる。翼は外観を取り繕うことそのものを目的にすることはないが、服装や物腰は、言葉遣いや態度も含めて、手段としては有効なものも多い。
人に真っ先に見えるのは、人の表面。人は道具を使うことによって、実態を、素顔を、表情を、強調しようとすることもできれば、偽ろうとすることも、隠そうとすることもできる。意図的に化粧をしたり着飾ったりした時、またしなかった時、他人の目に映るのは、その外観であると同時に、その外観を選択した本人の意志。
家族にふっちゃんと呼ばれているとある友人に聞かれれば笑われてしまうだろうが、少なくとも翼は、少し理屈っぽくそう考える。この先翼が化粧の類を使いこなすとしたら、可愛くきれいに見せることなどよりは、他人に一定の距離を作るような、仮面として使いこなすことになるのかもしれない。「たかが外見」「たかが服装」「たかが化粧」「たかが言葉遣い」「たかが振る舞い」と冷笑して、打算的に些細な問題として扱いたい気持ちもある。
もっとも、妹や友人たちには甘い翼だから、せがまれればどう転ぶかわからないが。
なんにせよ、手段としての化粧を覚えることを、メリットの方が大きいならためらうべきではないと今の翼は思う。が、そう思いつつも、ひたすら男に拘るのもありだということも、翼はよく知っていた。
場合によっては、薬物投与と手術で男に近い身体になることも、選択肢の一つ。
そこまでしないにしても、化粧も女の格好もしない、男っぽい女でいるのも選択肢の一つ。
あえて男っぽく振る舞わないまでも、いつも化粧っ気などない女でいるのも選択肢の一つ。
表面だけ大人の女になって、世間にとりあえず迎合しておくのも選択肢の一つ。
今の翼には無理だが、自分から積極的に女の立場を利用し楽しむことも選択肢の一つ。
そして、これも今の翼には決断できないが、自ら命を絶って生きるのをやめるのも選択肢の一つ。
選択肢はまだまだたくさんあるだろうが、今の翼のスタンスは、家では二番目と三番目の中間あたりで、学校では三番目と四番目の中間に近いだろうか。
性格や振る舞いの改善は、やろうと決めても簡単に実現できるものではないが、今の翼は自然に流れているだけで、いまだに何も決めていない。致命的な問題にぶつかっていないから選ぶ必要性に迫られていないとはいえ、流れていられる時間は無限ではない。流れることそれ自体に問題はないが、一歩間違うと、流されてしまうことにも繋がる。
自分の望むままにただ流れることができるほど、翼は万能でもなければ、まだ大人でもない。
感情的に、どの選択を好みどの選択を嫌い、何を望み何を望まないか。
打算的に、どの選択が自分にとって都合がよく、どの選択が都合が悪いか。
現実的に、どの選択なら実現可能で、どの選択なら実現不可能なのか。
それらを踏まえて総合的に、どうあろうとするか。
自分を知り、自分で決めて、自分で動く。
口で言うほど簡単なことではないが、どんなに嫌なことがあっても、できるだけ強くありたい、強くなりたい翼だった。
バスはいつも通りの速さで進み、二つ目の停留所を経由する。
学校か駅に到着するまでは、降りる人よりは乗る人の方が多く、徐々に混雑が増していく。そんな車内の熱気に当てられたのか、陽奈が小さく呟いた。
「暑い……」
「……今日は混んでるね」
自分の首筋に汗を感じながら、翼もささやくような小声で応じる。
「自転車にすればよかったかな」
空いているとバスの方が涼しくていいのだが、混んでしまうと自転車の方がましになる。自転車も自転車で、夏の日差しの下で二十分もこぐことになるから一長一短だが、この日のバスは少し辛かった。部活の引退前、朝練に参加する時間帯のバスはいつも空いていたのだが、この時間は運次第で混んでしまう。
「せっかくいい天気なんだから、みんな自転車でいけばいいのに」
「人のこと言えないんじゃない?」
「わたしたちはいつも通りだよ」
翼の指摘に、陽奈はなぜか翼に非難の視線を向ける。翼が小さく笑うと、陽奈はちょっと苛立たしそうに身じろぎをして、いきなりごつんと、自分のおでこで翼に頭突きを食らわせた。
「痛い……」
そう呟いたのは陽奈だ。「それはこっちの台詞」と、翼はあきれたように言ってつり革を放し、頭を下げて自分のおでこを撫でる。
「翼も痛かった?」
「……痛かった」
「暑いの、気が紛れた?」
暑いと愚痴っていたのは陽奈だけなのに、陽奈はまるで翼が頼んだかのようなことを言う。翼はまったくもうと笑って、つり革に手を戻した。
「陽奈は?」
「ん、紛れてない」
陽奈は小声のままだが、きっぱりと言い切った。
「早く着けばいいのに。こういう時、文月が羨ましいよね」
「文月も中学の時は自転車で苦労しただろうから、おあいこじゃないかな?」
「歩いて通ってたわたしたちの方が苦労したよ。文月はバス通学もしてないし」
翼たちが通っていた地元の中学校は、家まで一定距離以上離れていなければ、自転車通学の許可が貰えなかった。陽奈や翼の家は、比較的ぎりぎりのところで自転車通学不許可の範囲内で、近いとは言い難い中学校まで歩いて通わなくてはいけなかった。通学時間が自転車通学の友人よりも長かったくらいだから、翼も当時一度は愚痴ったことがある。今その中学に通っている妹の飛鳥も、ごくたまに愚痴る。
「陽奈も無理にする必要はないはずだけどね」
「……翼、正論は時として人を傷つけるんだよ」
いきなり格言チックなことを言う陽奈である。翼は少し吹き出してしまった。
その声が少し大きかったのか、周囲の視線を、翼は感じた。
とたんに、自然で楽しげだった翼の笑みが、無意識に例の微笑に近くなる。
今の翼と陽奈は、客観的に見ると、混雑した熱気のこもるバスの車内で身を寄せ合って、朝から内緒話でもするような小声で話をしている、白いセーラー服姿の二人の女子高生。どこにでも転がっていそうな光景のはずだとしても、自分がその立場にいるという客観的な自己認識は、翼をどうしても鬱屈した心理に追い込む。
幸い、ジト目で翼を睨んだ陽奈は、翼の感情に気付かずにいてくれた。翼が微笑んで見返すと、陽奈は不満の対象を翼から暑さへと戻した。
「毎日プールがあるといいのに」
「週に二回でも多いって」
六月に入って体育で水泳の授業も行なわれているが、体育の授業は二クラス合同で男女別ということもあって、この時期でも体育の時間のすべてが水泳になるわけではない。遊べない水泳の授業なんて嫌だという声が過半数だから――と言う割には自由時間には皆はしゃぎまくっているが――、陽奈の意見は学校で言えば非難ごうごうかもしれない。ちなみに、翼は基本的に多数派だが、今は他の女子の着替えや水着を堂々と鑑賞できる立場にあるために、その気持ちも色々と複雑である。
「じゃあ、遊べるならいい? 海とか」
「行ってらっしゃい」
「翼も一緒にだよ」
陽奈がまた翼を少し睨む。翼は肩をすくめて、軽く笑う。
「冗談は抜きにしても、海は嫌だな」
「どうして? 前は嫌いじゃなかったでしょ?」
「水着は下着みたいなものだから」
厳密にはそこまで思っているわけではないが、着飾ることに特別な楽しさを感じないし、不特定多数の男の前で自分がやるのは止めておきたい翼だ。翼は深く考えていないが、女の性を強調するような格好を男の前ではしたくない、ということかもしれない。いちいち気にしてたら非常に疲れるが、夏になって他人の視線がさらに気に障るようになっている。自意識過剰だとわかっているが、自分が女性の身体をそういう目で見ているから、なおさら男からそういう目で見られることが気になる、という部分も少なからずある翼だった。
警戒するだけですめば、面倒ながらもまだましなのだが、男とはそういうものだと認識――より正確には自覚と言うべきか――していても、どうしても自分がそういう目で見られることには嫌悪に近い感情が浮かんでしまう。
とはいえ、陽奈の指摘どおり、翼も海で遊ぶのは嫌いではない。翼にとっては、陽奈たちとの初めての夏でもある。「楽しむためなら、人目なんて気にしすぎないのが本当は賢いんだろうな」という認識もあるし、陽奈たちの遊び用の水着姿を生で見てみたいという正直すぎる欲求もある。頭の片隅には、アルバムで見た去年の夏の陽奈たちの水着姿が思い浮かんだりもする。
――水色のシンプルなワンピースの水着に、明るい色彩のパレオをオプションにつけて、楚々としながらも華やかな印象だった陽奈。
色合いはトロピカルだが競泳タイプに近い水着を着て、スタイルのいい身体のラインを惜しげもなくさらしていた文月。
赤と白のマーブル模様のスポーティなセパレートの水着姿で、元気一杯におへそ丸出しで、子供っぽく可愛かった飛鳥。
そしてもう一人。
翼的にはその写真を見て屈折した心理になったものだが、長いストレートの髪をした少女。青から紫へと淡くグラデーションを描くチューブトップワンピースの水着を着て、年頃の少女の色っぽさを身にまとった、元のツバサ――。
「……翼って、やっぱり潔癖になってる」
「……かもね」
潔癖という単語をそのまま受け止めるつもりはないが、陽奈が言いたい事は翼にもなんとなくわかる。だから否定はしないが、男だったらこんな余計なことは考えずにすんだことを思えば、ちょっとうんざりして鬱になりかけたりもする翼である。
「どっちにしろ、夏の海はどこ行っても混むだろうから。遊びに行くなら空いてるところがいいな」
「温泉とか?」
「温泉?」
山川でキャンプだとか言うならともかく、予想外の陽奈の言葉だった。翼はこれもまたちょっと笑ってしまった。
「温泉って、夏は空いてるのかな?」
「ん、なんとなく、秋とか冬ってイメージ、ない?」
「そうかな、そうかもね。夏だと汗だくになりそうだし」
「夏の温泉も気持ちよさそうだよ? 露天風呂で、夏の星座を見てゆっくりするとか」
「ちょっと年寄りくさい意見だね」
「翼もそういうの嫌いじゃないくせに」
「まあね」
「ほらね。夏休み、温泉行く?」
「だから今年は忙しいって」
「二日くらい、あくでしょう?」
「あくかもしれないけど、やめとくよ」
「付き合い悪いよ」
陽奈のその言葉に、「言い返せないね」というふうに、翼はまた肩をすくめる。陽奈は不満げに考え込んでから、意見を少し変えた。
「じゃあ、夏じゃないならいい? 受験が終わってから、卒業旅行とか」
「……そうだね。受験終わったら、一回くらい、旅行もいいのかな」
泊まりや温泉は考えものだと思うが、まだ半年以上も先の話だから撤回する余地もいくらでもある。陽奈と翼は同じ大学を受験する予定だが、文月とは確実に別々の学校になるし、翼はこの場では、素直な気持ちで陽奈に同意しておいた。
「よし、じゃ、決まりだね。夏休みはどうする? 日帰りならいいんだよね。やっぱり海かな? 去年みたいに部活のみんなで行くのもいいけど、今年はわたしたちだけで行きたいな」
「やけに海に拘るなぁ」
「だって夏だし。翼の方が拘ってるよ。わがままだよ」
「嫌なことをするつもりはないから。それに。女だけで海なんか行ったら、何かと面倒くさくない?」
「ん、わたしは、翼と一緒ならそんなの全然気にしないけど。お父さんたちに連れてってもらってもいいし。翼は気になるの? ナンパされたくて海に来たとか、誤解されるのが嫌だとか?」
翼は一瞬、虚をつかれた。翼は女だけのグループを見たからと言って、ナンパされるのが目的、などと深く考えたことはないが、そういう見方もあるのだろうか。
「別に、そんな誤解は気にしないけど」
「じゃ、問題ないよね。人目なんか気にしないで、楽しんだ者勝ちだよ」
陽奈は翼の身体にいっそう身を寄せて、鞄を持っていない方の手で、翼の剥き出しの腕をつかんだ。逃げ場がない翼は、刹那の狼狽を瞬時に押し殺し、例の微笑を浮かべる。
「楽しむことについては、賛成なんだけどね」
「一緒に行こうよ、海。高三の夏は一度きりなんだから、楽しまなきゃ損だよ」
「一度きりなのは高三の夏だけじゃないよ」
「だったらなおさらだよ。今はいつも一度きりなんだから」
陽奈は至近距離から、まっすぐに翼を見つめる。
翼はその陽奈の瞳に吸い込まれそうになって、視線をそらしながら、大きく息を吸った。
少し汗の匂いの混じった陽奈の香りが深く飛び込んできて、ちょっとくらっとくる。
ゆっくりと、そっと細く、翼は息を吐き出した。
「……泳がなくていいなら。海、付き合うよ」
「え、泳がないで何やるの? 水着で日光浴?」
「水着は着ないよ。ピープルウォッチングと、露天で買い食いとか? あと、スイカ割りとかもいいな」
「砂遊びとビーチバレーが抜けてる」
翼が列挙した項目に、陽奈はちょっと笑って冗談を返したが、水着にならないという翼に不満半分という感じだった。
それでも、陽奈はそれが翼の譲歩の限界であるということを理解したようで、すぐに攻める方向を少し変えた。相手の気持ちを思い遣れずに、陽奈がここで強引に押し通したりするような性格なら、翼と親しい関係ではいられなかったかもしれない。
それとも、数ヶ月前ならまだしも、今ならたまにはそんな衝突をしても、たいした問題にはならないのだろうか。
「どっちにしろ、今度はちゃんと水着買いに行かないとね。翼も付き合ってくれるよね?」
「遠慮しとくよ」
「ちょっと選ぶくらい、いいでしょう?」
「ちょっとですむのならいいんだけどね」
「今度は水着だけだし、気にいるのがあればすぐすむよ」
「それが見付かるまでが長いくせに」
「ん、それはそれだよ」
「なにがどれなんだか」
「あ、浴衣も欲しいかも」
最近の陽奈は、翼の知る男友達の武蔵よりもはるかに口数が多かった。バスの熱気を紛らわせる気もあるのか、陽奈は一人でどんどん話を進めて、声量は抑えつつも明るく話題を振ってくる。
翼はやれやれという態度で結構言いたい放題受け答えだが、その口調がきつくなることは少ない。楽しげな陽奈に、時々笑いながら、柔らかい表情で応じる。
自覚はないとしても、無意識だとしても、それでも翼も、今は今を楽しめる。
十八歳の夏は、まだ始まったばかりだった。
concluded.
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初稿 2005/05/28
更新 2008/02/29