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 キオクノアトサキ

  Taika Yamani. 

番外編 
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  番外編 「久我山家のとある土曜日」


 六月中旬の土曜日、その日は梅雨を象徴するような雨が降り続け、蒸し暑い一日だった。
 午後五時半前、母親に言われてお風呂の掃除をした翼は、そのままお風呂に入る準備に取りかかった。湯船にどぼどぼとお湯を出して、一度部屋に戻って着替えを用意する。その後はお湯がたまるまでのんびりしようとしたが、ちょっと伸びている爪が気になって、翼は着替えを持って一階に下りた。
 両親の寝室の方からは、母親が掃除をしているのか、微かに掃除機の音がしている。リビングでも、翼が知らないうちに、妹の飛鳥も家のお手伝いをさせられていた。乾いた洗濯物をリビングに持ち込んで、入り口付近の床に直接座り込んで、せっせせっせとたたんでいる。翼がリビングに入ると、飛鳥はすぐに視線を向けてきた。
 この日の飛鳥は、袖口を絞った白い半袖のブラウスと、胸から下を覆う形のエプロンのようなスカートという服装だった。スカートは多彩な色の桜の花びらが散りばめられた柄で、遠目には桜色のスカートといったふうに見える。ウエストの後ろで結ぶ大きな帯紐は、肩紐にある飾りに合わせてリボン結びにして、少し幼い印象ながらも可愛らしいアクセントになっていた。
 対する翼は、お風呂掃除の時のそのままの格好である。白黒ストライプの長袖シャツにジーンズというラフな服装なのだが、シャツは腕まくりをして、ジーンズの裾も膝近くまで折り曲げていた。シャツは男女兼用といったデザインだが、その身体のラインは男ではありえない柔らかい曲線を描いている。二の腕とふくらはぎを剥き出しにしているのも、男であれば武骨な印象になったかもしれないが、今の翼には柔らかい印象でどことなく艶っぽさを与えていた。
 「もうお風呂入るの?」
 「お湯がたまったらね」
 妹の横を通り過ぎた翼はソファーに着替えを置き、つけっぱなしのテレビ横の小物棚から、爪切りを取り出した。ティッシュボックスからもティッシュを二枚ほど抜いて、妹のように床に直座りをする。
 「洗濯物、たたみ終わったらお姉ちゃんの分、部屋に持っていってね」
 飛鳥は姉を見たり手元を見たりしながら、洗濯物をたたむ手を止めずに、翼にとって言うまでもないことを口に出す。翼は「りょうかい」と、いつものように軽く応答だ。
 翼は床にティッシュを広げると右手で爪切りを持ち、片膝立ちの姿勢で、左手の人差し指に爪切りを当てた。
 男の指とは繊細さが違う、年頃の女らしさをもった、白く柔らかい女の指。
 いまだに自分のものだというには違和感があるが、トイレやお風呂や着替えや爪切りのたびに、いちいち気にしていたら身が持たない。自分の身体の女を感じるたびに鬱な気分になるが、それに囚われていたら生きていくのも辛い。
 日常的な場面では、自分が男だとか女だとか深く考えないようにしている翼は、小さい頃に母親に躾られた通りに、ゆっくりと丁寧に爪を切った。白い部分をほんのわずかに残し、ごくオーソドックスに、爪の先端をなだらかに丸くするような切り方だ。
 「お母さん、明日はスーパー行くかな?」
 「ん?」
 「今日は行かなかったから。わたし行きたかったのに」
 飛鳥のその言葉に、翼は小さく笑うだけの反応で、飛鳥に応じた。
 母親が食料品の買出しに行くことは日常事だが、飛鳥は時々くっついて行って、母親の持つ買い物篭にさりげなくお菓子の類を放り込むという真似をしている。お小遣いを少しでも節約しようという、子供のささやかな行動だった。
 もっとも、飛鳥がそんな真似をしなくともある程度はお菓子を買い置きしてくれている母親だから、母親は笑って黙認して、むしろ飛鳥の選ぶお菓子を娘たちの好みの参考にしたりもしているらしかった。
 飛鳥が振ってくる他愛もない話題に結構適当に受け答えしながら、翼は一本ずつ指の爪を切り、左手の次は右手、右手の次は左足にとりかかる。
 やはり、男だった時とは違いすぎる、翼の身体。爪先から足の甲、くるぶしや細い足首からふくらはぎへのラインも、なめらかに白い。
 翼は片膝立ちのまま、かかとを床につけて爪先を持ち上げ、身長を考えると小さめな足を左手で支え、前かがみに胸を太ももに近づけて、右手で足指の爪も切る。
 途中で、飛鳥が「ね、今日はお風呂一緒に入っていい?」と訊いてきたりもするが、翼はまたかと思いつつ態度を変えない。「ゆっくり入りたいから、今日はやめといて」と穏便な言葉を返した。
 「うー、いっつもそればっかり」
 「一人で入るのが好きだから」
 飛鳥は不満げに唇を尖らせるが、すでに先日にも乱入しているせいか、この日は強行には主張しない。わがままを言うようにまた別の話題を振ってきて、翼は少し笑って、そんな妹との会話に付き合った。
 爪切りがすむと、翼は耳掃除まですませたが、それでもそんなに時間はかからない。
 「あ、お姉ちゃん、洗濯物」
 後片付けをして着替えを回収した姉に、飛鳥は声をかけるが、飛鳥の作業はまだ途中だった。今も、姉妹か母親か、だれのものなのか、白いショーツを丸めているところだった。
 「ゆっくりやっていいよ。お風呂上がったらもらうから」
 「あ、じゃあ手伝って。手伝ってくれると早く終わるわ」
 「飛鳥が頼まれたんだろ? 一人で頑張りな」
 「うー、お姉ちゃん冷たいっ」
 「自分の分はもうすませてるからな。お湯も出しっぱなしだし」
 翼は飛鳥の横を通り過ぎながら、その頭を、ぽんぽん、と二度撫でるように触ると、妹を残してリビングを出た。飛鳥は後ろでなにやら不満を声にしたが、声はそう大きくはなく、翼には意味までは聞き取れない。翼はなんとなく笑って、脱衣所に向かった。
 脱衣所に到着すると、浴室でお湯のたまり具合を確認してから、タオルとバスタオルも用意した。上着を脱ぎ、ジーンズを脱ぎ、相変わらずのスポーツブラを脱ぎ、ショーツも脱ぎ捨てて、お風呂に入る。
 ちょっとだけ飛鳥の乱入のことを考えたが、飛鳥次第と割り切って、成り行きに任せることにする。すぐに身体を洗ってさっぱりと清潔になると、考えない方がいいような余計なことを考えたりしつつも、湯船に浸かって普通にくつろいだ。
 幸い、この日は飛鳥の乱入はなかった。
 お風呂から上がると、翼は用意していた服、カジュアルなワイシャツと膝丈の半ズボンに着替えて、まだ濡れている髪にタオルを乗せて脱衣所を出る。まずリビングに向かったが、すでに妹の姿はそこにはなく、持って行けと言われていたはずの洗濯物も消えていた。ダイニングキッチンに水分を補給しに行くと、母親が椅子に座って休憩をしていた。
 「あら、もうお風呂入ったのね」
 「うん。飛鳥は?」
 「さあ、自分の部屋じゃないの」
 翼はコップを確保しながら、なんとなく「ごはんなに?」と問いかけ、母親と有り触れた日常会話を交わす。娘に今夜の献立を告げた母親は、そのままマイペースに話を続けた。
 「陽奈ちゃんたちと後輩のライブ見に行くとか言ってたのって、明日の夜だっけ? 夜ごはんどうするの? 結局食べてくるの?」
 「の予定だったけど、文月の懐が寂しいみたいだから。帰ってきてから食べるよ」
 おれの懐も暖かいとは言えないし、という現実もあるのだが、翼はその言葉は付け加えない。母親は翼が「おれ」という一人称を使うことを、未だに嫌っている。学校などでは「わたし」という一人称を使うことをためらわない翼だが、身内に対してまで下手な演技をしたくないから、口数を減らすことで対応していた。
 もっとも、母親も眉をひそめる程度で文句までは言わないから、使う時は迷わず使うが。
 「あんまり遅くなるんじゃないわよ」
 「うん、ただでさえ飛鳥が拗ねるしね」
 「はは、それはあんたたちが連れてってあげないからでしょ」
 「飛鳥にはまだ早いから」
 喉を潤した翼は、最後に母親から「今日はお父さんも早いから、帰ってきたらすぐご飯にするわよ」という言葉をもらって、ダイニングを出て自分の部屋に戻った。
 部屋に入ると、さっきまで飛鳥がたたんでいた洗濯物の翼の分が、ベッドの上に置かれていた。どうやら飛鳥が気を利かせて、部屋まで持ってきてくれたらしい。翼は無意識に微笑んで、洗濯物をタンスに仕舞う。
 仕舞っていると、隣室のドアの開閉音と、人が廊下に出て階段を下りていく足音がした。飛鳥が自分の部屋を出て一階に下りたようだが、翼はそれを知覚しただけで特に意識はせずに、やるべきことをすませた。
 洗濯物を仕舞い終えると、本棚の中ほどに置いている卓上鏡の前に移動し、頭に乗せたままのタオルで、改めて髪の毛の水気を取る。まだ半乾きといった感じだったが、徐々に暑くなってきているこの季節、ほっといてもすぐに乾く。翼は櫛を取って軽く整えると、最後に頭を軽く振って、前髪を払う。
 男だった時と同じストレートの癖のない髪質で、細かくセットなんかしなくても適度にまとまってくれるから楽だった。同じ髪質の妹は、姉の友人のようにウェーブがかった髪にしたりしたいようなのだが、逆になかなか癖がつきにくくて、悪戦苦闘したりしているらしい。ストレートの髪もそれはそれでお気に入りなようなのだが、色々遊びたいお年頃ということなのだろうか。最近は、きつい三つ編みで髪に癖をつけようとする飛鳥の姿が、夜は見られたりする久我山家だ。
 髪を整えると翼はリビングに戻ったが、さっき一階に下りたはずの飛鳥は、お風呂なのかトイレなのか、リビングにはいない。夕食にももう少し間があるようだから、翼は溜め込んでいるビデオを見ることにした。



 翼が見始めたビデオは、アメリカのプロバスケットボールリーグであるNBAのビデオだった。
 NBAはこの時期、今シーズンの王者を決めるNBAファイナルと言われる最終戦が行なわれている。先に四勝した方が勝つ七戦勝負で、あいにくと翼のひいきのチームは例年どおりプレイオフにすら残っていなかったが、それでも翼としては興味深い試合だ。結果はすでにニュースで知っているが、ゲームを見るのはそれはそれで翼には面白い。
 途中で、父親が仕事から帰ってきたらしい気配が玄関や廊下の方でしたが、翼はビデオに熱中して、テレビから目をそらさない。
 そんなふうにNBAも最後の盛り上がりを見せる季節だが、高校バスケットボールも、先月から今月にかけて、インターハイの予選大会が行なわれている。翼たちの地区ではこの大会は冬の全国大会であるウィンターカップの予選も兼ねていて、上位に残れなければ、三年生の翼たちは引退という大会だ。
 なのに翼がこの日こうやってのんびりしているのは、大会の合間の骨休め……というわけではなく、すでに負けて部活を引退しているからだった。あいにくと早い段階で強豪校とぶつかってしまい、ウィンターカップへの挑戦権も得られなかった。松本文月キャプテンの活躍でかなりいい勝負を展開しただけに、もしももっと後でその強豪校とぶつかっていれば、翼たちの未来はまた少し変わっていたかもしれない。
 幸い、その文月は大学の関係者の目にとまったようで、文月の怪しげな計画通り大学の推薦入学の話が持ち上がっている。秋の国体の地区代表候補に選ばれる可能性もあって――翼はよく知らないが、正式候補が決まるのはもう少し先で、候補に選ばれても代表になるまでに合宿など行なわれるらしい――、文月の高校バスケはまだ終わっていない。翼ともう一人の友人の蓮見陽奈は一足先に引退したが、この先たまには文月の練習に付き合う予定だった。
 「ただいま」
 翼がビデオに熱中していると、先ほど仕事から帰ってきたばかりの父親がリビングに入ってきた。荷物を置いて着替えてきた父親に、翼は自然に「おかえり」と言葉を返すが、ちらりと視線を向けただけで、すぐにテレビに目を戻した。
 父親は、「ああ」とも「うん」ともつかぬような返事をすると、そのまま隣のダイニングに足を運ぶ。夕食の準備中の母親と言葉を交わしたようで、すぐにその母親の声が飛んできた。
 「翼ー、もうすぐご飯よー。飛鳥呼んできなさーい」
 時計を見ると、午後六時三十分を過ぎている。妹が翼と入れ違いにお風呂に入ったのなら、もう上っているであろう時間だ。翼は面倒くさげに言い返した。
 「まだ途中。飛鳥もほっといても下りてくるよ」
 「どうせビデオなんでしょ、あんたも手を洗ってきなさい!」
 「…………」
 イヤイヤながらも、翼はビデオを止めて立ち上がった。ぶつぶつ文句を言いたくなるが、扶養されている身であることは自覚しているから、無駄なところで無駄に母親に逆らうことはしない。
 ほぼ同時に、自宅の電話が鳴り出した。未登録だが非通知ではないことを示す、電話の呼び出し音。また母親の声が飛んでくる。
 「あ、電話もでといてー!」
 「…………」
 なんとなく嫌な気分になる母親の連続攻撃だが、翼は無言で指示に従った。電話の元に歩き、ディスプレイに表示されている番号が見知らぬものであることを見て取りながら、コードレスの電話機を持ち上げて受信ボタンを押す。
 「はい、もしもし」
 多少そっけない対応だが、セキュリティ上、素性の知れない電話にこちらから名乗ることはしない。翼の短い言葉に、電話の向こう側からは、少しほっとしたような吐息が漏れたかと思うと、明るい甲高い声が返ってきた。
 『よかったです〜、飛鳥先輩ですか〜? わたし、弓奈です〜。えへへ、おうちにでんわしてみちゃいました! どきどきしました〜! いまだいじょうぶですかぁ〜?』
 翼の聞き覚えのない声と、聞き覚えのある名前。四月になって新しく親しくなったという、妹の後輩の名前。
 翼が知る限りユミナと名乗る女の子が電話をしてきたのは初めてだから、よく似ているという飛鳥と翼との声を間違えたらしい。翼は落ち着いて柔らかく言葉を返した。
 「妹に用なんだね。すぐ呼んでくるよ」
 『…………』
 電話の向こうで、数秒の沈黙。
 『……え。え? え!?』
 何やら叫び声が上がるが、その時すでに翼は受話器から耳を離していた。『え、え、妹って……、え、わ、あわわ、飛鳥先輩のお姉さん!? え、わー、きゃー、どうしよう〜!?』などという声も漏れてきた気がするが、翼は言葉を返さないことにして、保留ボタンを押す。
 元気で明るい部活の後輩ができたとは聞いていたが、本当に賑やかなタイプらしい。翼は少し笑ってしまった。
 「電話、飛鳥になのか? 友達?」
 翼の傍に、いつのまにか父親がやってきていた。生真面目な顔で娘を見る父親に、翼は簡単に答える。
 「うん。たぶん、部活の後輩」
 「手短にな。もうご飯だぞ」
 「わかってる。呼んでくる」
 父親と二言三言会話を交わすと、翼は電話を持ってその場を離れた。一階から大声で呼ぶことはせずに直接二階の妹の部屋に向かい、ドアをノックして、ドア越しに声をかける。
 「飛鳥? 電話だよ」
 「お姉ちゃん? 開けていいわよ」
 飛鳥の返事を待ってから、翼はドアを開けた。が、翼はすぐに用件を言いかけたが、最初の単語も出ないうちに言葉を飲み込んでしまった。
 「わたしに電話? だれからなの?」
 「……なんて格好してるかな」
 「え? 何が?」
 飛鳥はきょとんとして、姉を見返す。
 飛鳥は半袖の白いTシャツに、下着一枚という格好だった。机の上の卓上鏡を前に、デスクチェアに座って、ヘアブラシを片手にしている。今年に入って少しずつ伸ばしている艶やかな髪を、きれいに梳いている真っ最中だった。まだ小学生っぽさも残っているが、そんな様子はすっかりお年頃の女の子といった感じだ。
 「その格好。だらしないよ。自分の部屋でも、服くらいちゃんとしなよ」
 「えー、自分の部屋でくらい、どんな格好だっていいじゃない。裸じゃないんだし、ちゃんとシャツ着てるもん」
 「…………」
 翼はさらに色々言いたいことがあったが、ぎりぎりのところで飲み込んだ。飛鳥の発言が正論なのか、それとも翼が自分の好みを押し付けているだけなのか、よくわからくなったからだ。飛鳥が弟であれば、暑い日に自室で半裸だったとしても、翼はうるさいことは言わないだろう。弟になら注意しないことを妹になら注意するというのは、もちろんすべき時もあるのだろうが、このケースがそうなのか、去年まで妹がいなかった翼にはちょっと自信がない。
 さらに言えば、翼自身、暑い季節になればどんなにだらしない格好をしたくなるか、自分に自信がない。
 「せめて人前ではやめときなよ」
 結局、翼が口にしたのはそんな言葉だった。飛鳥は「当たり前よ」と明るい笑みを見せた。
 「お姉ちゃんの前だけだもん」
 それもそれでどうかと思う翼の前で、飛鳥は「あ、そうだ」と表情をさらに明るくした。
 「ミウチの前でだけ、なの。うん、ミウチは特別扱いだから」
 今の翼がたまに言う言葉を真似して、飛鳥はいったい何が嬉しいのか、うんうんと楽しそうに笑う。
 「…………」
 翼はとっさに言い返す言葉が見付からずに、小さくため息をついてしまった。まったくもうという態度で、飛鳥に歩み寄り、無造作に電話を差し出す。
 「電話だよ。今保留になってる。ユミナっていう子」
 「弓奈から?」
 飛鳥はゆっくりと電話を受け取って、耳に当てる。
 「もうご飯だから、手短にしてさっさと着替えなよ。父さんも帰ってきてるから」
 「あ、うん、ありがとう」
 飛鳥は保留になっていることを確認したのか、一度耳から話して、ボタンを操作して、再び電話を耳と口元に運んだ。
 「もしもし、弓奈?」
 『え、あ、は、はい! な、なんでしょう!?』
 飛鳥の言葉に、電話の向こうからは、翼にまで聞こえるやたらと混乱した大きな声。
 飛鳥は少し眉をひそめて思わず耳から受話器を離し、またちょっと、わけがわからないという顔をした。先ほどのきょとんとした顔と違って、少し鋭い、状況を冷静に考え込むような視線だった。
 「わたし、飛鳥よ。どうかしたの?」
 姉に対するのとは違う、家族や姉の友人に対するものとも違う、大人びた落ち着いた飛鳥の口調。部屋を出て行こうとしていた翼は、少し珍しいものを見た心境になって、振り返る。
 「え、ああ、そうね、よく言われるわ。あ、もしかして間違えたのね?」
 飛鳥の声に、少し嬉しそうな色が混じる。が、飛鳥はすぐに翼の視線に気付いたようで、急に顔を赤らめた。電話の送信口を押さえて、小声で言う。
 「姉さんはもう行ってよ。わたしもすぐ行くから」
 呼び方が余所行きモードになっているが、表情は子供っぽい。翼はなんとなく可笑しくなって、笑みが零れてしまった。
 「――あ、うん、なんでもないわ。それで、今日はどうしたの?」
 電話の相手をしながら、飛鳥は赤い顔で、笑っている姉に睨むような視線を送ってくる。どこか羞恥まみれの視線で、薄着すぎる格好のせいもあってか、妙にコケティッシュにも見える。
 「飛鳥は可愛いな」
 「お、お姉ちゃん!?」
 本音を無造作に口にした翼に、飛鳥はますます顔を赤くしてしまった。そんな態度も見た目も、翼の贔屓目で見るとやはり可愛い。翼は軽く笑うと、「先に行ってるよ」と片手をひらひら振って、外に歩いた。
 「え、あ! う〜……!」
 飛鳥は唸るような声を出すが、電話の向こう側から何か言われたようで、「え、あ、ち、違わ……ないけど、違うわ!」などと、わけがわからないことを言っている。姉のことを人前では「姉さん」と呼ぶのに、二人きりの時は「お姉ちゃん」と呼んでいることが、電話の相手にばれてしまったらしい。飛鳥は最初は少し慌てていたが、だんだんと態度が冷たくそっけなくなっていく。
 翼同様、これは飛鳥が本気で怒りかけている時の兆候だった。
 翼はこの時すでに飛鳥の部屋を出ていたが、もし飛鳥のその態度を見ていたら、自分たちが肉親だということをまた少し実感したかもしれない。
 幸い、電話の相手は飛鳥の機嫌を敏感に察して和解に至ったようだが、電話を切って服を着てから一階に下りてきた飛鳥は、不機嫌を絵にかいたような態度だった。別に姉の呼び方など、傍から見たらどっちも同じだろうにと翼は思うのだが、飛鳥としては色々違うらしい。飛鳥は相手にしっかりと緘口令を敷いたようだが、その相手はあまり口の堅さが信用できず、学校の他の友人にからかわれたりする可能性もあるからかもしれない。
 夕食中、父親はそんな娘たちをしっかりと気にしたようだが、あえて干渉しないのだから、その態度は良し悪しである。去年の飛鳥は、不機嫌な時でも無表情に近かったから、露骨に感情を見せている分、今の方がましという認識があるのかどうか。彼は姉妹ゲンカには触れずに、「ご飯時に電話なんて、何か大事な用だったのか?」と話題をふって、「お父さんには関係ないわ」と、とばっちりで冷たい反応をもらっていた。
 一方母親はどこかからかうように、翼に向かって「あんた、またなんかやったの?」と、人聞きの悪いことを言った。微苦笑を浮かべて「別に何も」とだけ答えておく翼である。
 飛鳥はそんな姉が不満なようだったが、翼は経験上、自然に接していれば飛鳥の機嫌はそのうち戻るとわかっていたから、いつも通りの態度で、あえて妹のご機嫌を取ろうとはしない。一方通行な冷戦状態でご飯を食べて、飛鳥は部屋に引っ込み、翼もビデオの続きを見て果物を食べてから部屋に戻った。
 が、この日はそれを逆手に取られてしまった。寝る頃になると、飛鳥は枕を持って翼の部屋に侵入してきたのだ。
 飛鳥の機嫌をそこねたことをすっかり忘れていた翼は、少し面食らったが、飛鳥のわがままには慣れているからそう慌てたりはしない。飛鳥も飛鳥で最初はまだ不機嫌を装っていたが、翼がいつも通りの態度だったせいせいだろう、問答するうちに大胆に強気になる。
 「お姉ちゃん、ひどいことしたから、今日はわたしの言うこと一つきかないとダメなのよ」
 非常に理屈の通らない発言だが、翼はやはり妹には甘かった。そして最近ではすっかりそれをわかっているから、飛鳥も無茶を言うのだろう。一緒に寝るという飛鳥を拒絶せず、翼は早めに勉強を切り上げると、寝る準備をすませて、同じベッドに横になった。
 「甘えん坊」
 布団に入るなり腕を取ってくる飛鳥の額を、翼はそう言って軽く小突く。自分から甘やかすことはしないが、甘えられたらそれを受け入れてしまうのだから、なんだかんだで翼も飛鳥とのスキンシップが好きだということなのだろうか。さっきまでの不機嫌さはどこへやら、飛鳥は少し照れながらも、嬉しそうに笑っていた。
 二人、仲良く並んで横になって、飛鳥の友人たちことや学校のこと、色々なことを話しながらのんびりと過ごす。六月の土曜日の夜、二人で仲良く夜更かしをする、久我山家の姉妹であった。






 ――後日談。
 翌朝、翼が目を覚ました時、なぜか翼のシャツの胸元が大きくはだけて、露出したふくらみに顔をうずめるようにして飛鳥が眠っていた。しかも飛鳥は横向きの姿勢の翼に密着し、翼のパジャマを握り締めて、身体を丸めるように片足を翼の足に絡めている。
 翼は飛鳥の手を振りほどくことはしなかったが、すぐにしっかりと飛鳥の身体は引き剥がした。汗ばんでいた脇の下や胸の谷間部分をパジャマでぬぐい、そのまま着衣を整え、仰向けになって片腕で目を覆う。
 飛鳥の微かな寝息をかき消すように、昨日から降り続いている雨音だけが、室内に響く。
 飛鳥がこの時目を覚ましていれば、滅多に見ることができないような翼の表情を見るはめになっていただろう。そしてその表情を見ていれば、飛鳥は不安な思いをしたかもしれない。
 翼はしばらくじっと動かなったが、飛鳥にまた身体を寄せられて、感情を押し殺して目を開いた。
 飛鳥が起きたのかと思った翼だが、飛鳥はまだ夢の中だった。きゅっと翼のパジャマを握りしめたまま、微かな寝息を立てて眠っている。
 翼から見た飛鳥の寝顔は、年齢を考えても、それ以上に幼く見える。
 無防備な、だが安らかで幸せそうな、妹の寝顔。
 翼は小さな吐息を漏らしたが、無意識にその表情はやわらいでいた。
 そっと、翼は、飛鳥の髪を撫でる。
 もしも飛鳥がこの時目を覚まして、翼のその表情を見れば、飛鳥はそのまま寝惚けまなこでニッコリ笑って、翼に甘えて二度寝したかもしれない。
 日曜日の朝の光が、カーテン越しに優しく、そんな二人を照らしていた。








 concluded. 

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初稿 2005/04/02
更新 2008/02/29