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 キオクノアトサキ

  Taika Yamani. 

番外編 
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  ショート番外編 「きおくのあとさき?」


 久我山家の二階で悲鳴のような声が響き渡った時、家主の久我山龍彦も、妻の亜美も、まだ眠りの中を漂っていた。
 時刻は朝の六時すぎ。学生は春休みのこの時期、外は少しずつ明るくなっている。
 「お姉ちゃん、お母さん! 誰か来て!」
 その二度目の甲高い声も、最初の悲鳴より大きな声だったが、一階の夫婦の寝室にはか細くしか届かない。
 それでも、龍彦の意識はゆっくりと浮上した。
 「お姉ちゃん! お母さん!」
 三度目の悲鳴。泣き叫んでいるような、次女、十三歳の娘の声。
 龍彦はそれに気付くなり、ばっと身体を起こした。
 龍彦にとって、眠っている時に娘の声で叩き起こされるのは、この半年で二度目のことだった。一度目は去年の十月下旬、原因は今十七歳の長女。その時は、龍彦が娘の元に向かった時、娘は娘自身を男だと思い込んでいた。いったい何が原因なのか、人格が変わってしまい、記憶まで飛んでしまっていた長女。
 一番辛いのは娘自身だとすぐにわかったから、龍彦は自分の不安や不満を押し殺して、じっと辛抱強く娘を見守ってきた。妻や次女、娘の友人たちのおかげもあって、今ではその娘の状態も安定しているし、父親である龍彦との関係も以前よりいい。しかし、いまだにその精神の問題は解決していない。龍彦も妻も、もう半ば諦めて長女の現状を受け入れているが、それでも半年前のあの騒動は二度と繰り返したくない類のものだった。
 だからこの時、龍彦は心臓をわしづかみにされるような不吉な予感を覚えた。
 妻の亜美は、次女の声など聞こえなかったかのように、心地よさそうに眠っている。龍彦は理不尽な不満を覚えて、妻を揺り動かして強引に覚醒させる。
 もうすぐ六時だからか、亜美はすぐに目を覚ましたが、彼女も不快げに唸った。
 「なぁに? どうしたのよ……?」
 「飛鳥に何かあったらしい。二階に行ってくる」
 「えぇ? 今何時なのよぉ?」
 亜美は寝ぼけたような声を出すが、龍彦はすでにベッドから降り立っていた。その動きで、亜美もゆっくりと意識を覚醒させる。そして不意に龍彦と同じことを考えたようで、鋭い悲鳴のような声を出した。
 「まさか飛鳥まで!?」
 「わからない」
 上着を引っ掛けた龍彦は、しかめっ面で一言だけ言うと、急いで二階に向かう。
 階段も二階の廊下も電気はついていなかったが、二階からは光が漏れていた。
 電気をつけて二階に上がると、長女の部屋も次女の部屋もドアが開けっ放しになっていて、次女の部屋からは泣き声が聞こえてくる。
 「お姉ちゃん……」
 「……大丈夫だよ、飛鳥。別に病気ってわけじゃないんだから」
 長女は一足先に次女の元に駆けつけていたらしい。龍彦にはよく聞き取れなかったが、なぜか疲れたような声が、次女の部屋から聞こえる。龍彦はその部屋に飛び込んだ。
 「何があった? 大丈夫なのか?」
 二人の娘は、反射的にドアの方に顔を動かしたが、次の瞬間の反応は龍彦の予測を裏切った。次女はかがみこみ、いきなり大きな悲鳴を張り上げたのだ。
 「い、いやぁ! お父さんはこないで! あっち行って!」
 床にぺたんと腰を落として、腰を隠すように腕を動かす下の娘。上の娘もさりげなく移動し、父親の視線から妹を遮る。
 が、その一瞬で、龍彦はしっかりとそれを目に入れてしまっていた。下の娘はワイシャツタイプのパジャマを着込んでいたが、ズボンをはいていず、それを手にもっていた。それだけならまだしも、はいているショーツが赤っぽく汚れていた。
 「な、何があったんだ?」
 さすがの龍彦も、動揺を隠せない。まさか暴漢が、などといった最悪の想像が頭に浮かび、顔が青ざめ、表情が怒りに強張りかける。
 「父さん、大丈夫だよ」
 スウェットパジャマにカーディガン姿の長女は、ため息をついて、父親をゆっくりと両手で制した。
 長女と次女は容姿も声もよく似ているのだが、まだ十三歳の妹と比べると、もう十八歳になる姉はすっかり女性らしい身体つきで、雰囲気も大人びている。こんな状況なのに、少なくとも表面上は、彼女は声も落ち着いていた。
 「飛鳥は生理がきただけだから」
 「わ〜! お姉ちゃん! お父さんには言わないでよぅ!」
 わっと、下の娘は両手で顔を覆ってまた泣き出してしまった。
 「…………」
 龍彦は数秒、言葉の意味を理解しそこねたが、理解するなり、どっと脱力した。上の娘は「自分から騒いだくせに」と、冷静に、だがどこか優しく妹に言葉を返す。
 「わ、わたしお父さんは呼んでないもん! お父さんはもう出て行ってよぉ!」
 男親に知られてしまった羞恥と、初めての体験による驚きとで、かなり混乱してしまっているのだろうか。下の娘が泣きながら、イヤイヤと首を振る。上の娘は少し真顔になって父親に向き直った。
 「父さん、母さんを呼んできてくれないかな?」
 「もういるわよ」
 不意に龍彦の後ろから、呆れたような、ほっとしたような、亜美の声。そんな母親の登場には、長女もかなり安堵した顔を見せた。
 「そういうわけみたいだから、飛鳥のことは母さんに任せるよ」
 「なにがそういうわけよ。あんたに任せるわ。あたしはまだ眠いのよ」
 「眠いって……、こういうのは母親の役目だと思うけど」
 「別に姉がやったっていいでしょ。ほら、あなた、後は翼に任せて、行きましょ」
 「あ、ああ」
 「ちょっと待った、母さん!」
 長女の非難の声を、亜美はきっぱりと無視した。龍彦は次女を気にしたが、次女はまだ泣いていて、父親とは目を合わせようともしない。妻がドアを閉じて、娘たちと龍彦との間に壁ができた。
 「まったく、生理って……。こういう心臓に悪いことは、もうこれっきりにして欲しいわね」
 「……飛鳥も、もうそんな年なんだな……」
 「十三だし、まあ、普通でしょう。あなた、今日は早く帰って来れそう? 夜はお赤飯にしないとね」
 「……少し無理しても、早く帰るようにするよ」
 「そうしてね。でも、飛鳥のあの様子だと、あなたは嫌がられるかもしれないわね?」
 少し意地悪く笑って、亜美は夫を見上げる。龍彦はただでさえ渋い顔を、もっと渋くした。「男親というものはこういう時はこんなものだ」と頭では考えつつも、釈然としない思いがあるらしい。長女の時も妻から事後報告を受けただけだったことを思い出して、つい「娘が息子なら楽だったのに」とまで、龍彦は思っていた。
 この意見は長女が聞けば、「父さんは息子でも同じだったよ」と思い、切なげに笑うかもしれない。仕事に忙しくしているせいで、父親と子供たちとのコミュニケーションは常に不足がちだった。子供たちが幼い頃からずっとそうで、龍彦自身も子供たちも、お互いにどう接していいのか迷う部分があり、子供たちが成長するにつれて距離ができていた。今は長女の一件で距離は近づいているが、無条件に甘え甘えられるような関係には程遠い。
 「……飛鳥が落ち着いたら、近いうちに旅行にでも行くか? 春休みにでも、ゴールデンウィークにでも」
 「……それもいいわね。翼も飛鳥も、いつまでも子供じゃないでしょうからね」
 突然の夫の提案に、「あなたも不器用よね」と口には出さないが、亜美の瞳はそう語って、笑みをたたえる。龍彦は「まだあの子たちは子供だ」と、強く呟いた。亜美はそんな夫が可笑しそうに笑う。
 夫婦で他愛もない話をしながら、寝室に戻り、またベッドに横になる。龍彦は後ろから妻をぎゅっと抱きしめた。
 「……もう朝よ?」
 「わかってる。しばらくこうしていたいだけだ」
 亜美は何も言わずに、目を閉じて、素直に夫に包まれる。
 そうしながら、亜美も娘たちのことを考えていた。
 下の娘にも一通り性教育はしてあるし、学校でその手の授業があったことは聞き知っていた。中学に上がってすぐ、いつかくるこの日のために、生理用ショーツやナプキンやポーチ類なども用意させて、使い方も学ばせている。だからこそ、長女はまだ自分が女であることに抵抗があるようだから、荒治療の意味もこめてあの場は思い切って任せてみたが、次女も同じように自分の娘だ。長女が上手く妹の世話をちゃんとできたかどうか、次女も姉の世話で初潮という現実をちゃんと受け入れることができたかどうか、母親として気にとめてあげたいことがたくさんある。
 と思いつつも、亜美も亜美で、それを表現する方法が少し素直ではないのだから、夫ともども不器用な夫婦ということなのだろう。
 亜美はそっと夫の腕に手を当てると、目覚まし時計が鳴るまで、夫のあたたかく力強い腕の中で、ゆったりとまどろみに浸った。



 朝、父親が仕事に出かけたのを計っていたかのようなタイミングで、二人の娘はダイニングにやってきた。下の娘はどこか恥ずかしそうにしていたが、充分落ち着いていて、姉と二人でゆっくりと食事をとる。亜美は余計な口を出さずに、仲がいい自分の娘たちを横目に、リビングでテレビを眺める。
 声をかけたのは食後だ。上の娘が先に席を立ち、後に続こうとした下の娘を、亜美は呼び止めた。母親が妹に声をかけたことに、上の娘も気付いたはずだが、気を利かせたのか逃げ出したのか、上の娘はさっさといなくなる。
 姉を追おうとした次女を無理矢理引き止めて、亜美は改めて正面から向かい合った。娘は何の話かわかっているようで、顔はうつむきがちで、その頬は微かに赤い。亜美はそんな娘を微笑ましく思いながら、娘の目を見つめてまっすぐに言葉を紡いだ。
 「まずはおめでとう、飛鳥」
 「…………」
 母親のその一言に、次女はまなこを大きく見開いて顔をあげた。そして母親の瞳にぶつかって、一瞬にして顔が真っ赤になった。
 「……う、うん……、ありがとう……」
 次女は小さな声でそう言ってから、もっと小さな声で、お母さん、と付け加える。
 亜美は優しく微笑んだが、こんな時でも彼女は彼女だった。その態度は無条件に甘くはならず、すぐに根掘り葉掘り、あの後のことを問いかける。
 次女によると、亜美たちが次女の部屋を出た後、姉は妹を宥めて泣き止ませてから、まずは経血の処理をさせようとしたらしい。その後はずいぶんと前に用意していた生理用品をなんとかひっぱりだしてきて、姉に改めて教わりながら手当てを済ませたようだ。
 さすがに、姉が自分からしっかりと抱きしめて励ましてくれたことまでは、次女は口に出さなかった。取り乱していた彼女は自分で血まみれのそこにさわるのを怖がり、姉にその世話までしてもらったことや、ナプキンを生理用ショーツにはるというようなことまで姉にさせたことも、母親に告げたりはしない。それでも、母親に一連の内容を告げる時、次女はずっと顔を赤くしていた。
 「でも、思ってたより辛くなくて、ちょっと安心した……。姉さんより楽みたい」
 「……それは比べるのが悪いのよ。今の翼は、過剰に反応しすぎなんだから」
 次女の早朝の大げさな反応は、寝ている時に突然来ていたことだけではなく、ここ数ヶ月の長女が、生理の時何日も部屋にこもることにも原因があったのかもしれない。亜美はそう気付いて、それを説明しようとしたが、その必要はなかった。亜美が一度言葉を切ったところで、娘がこくりと頷いたからだ。
 「姉さんもそう言ってた。飛鳥は大丈夫だよって」
 亜美は言いかけた言葉を飲み込み、「なんだかんだでやっぱりお姉ちゃんよね」と、内心長女をちょっと笑う。今の長女がいったいどんな顔で妹の面倒を見たのか、笑ってはいけないと思いつつも、想像するとなんとなく可笑しい。
 そんなことを考えながらも、口に出したことは甘くないのだから、やはり亜美は亜美だった。
 「まだわからないわよ、それは。最初から重いなんて滅多にないみたいだし、あんたはまだまだこれからなんだから」
 もちろん意地悪で言っているわけではなく、未来の可能性を見つめさせるために言っているのだが、娘はお気に召さなかったようだ。唇を尖らせて、少しの不安と、たくさんの不満を表情ににじませた。
 「わたしは大丈夫よ。お母さんの心配なんていらないわ」
 「だったらいいんだけどね」
 亜美は大人の余裕でもって軽く笑ってから、まだ精神的に子供である娘の髪を、そっと撫でた。
 長女は精神の問題の一件から両親とだいぶ打ち解けているが、次女は母親にはまだちょっと反抗的だ。亜美の性格のせいもあるのかもしれないが、姉には甘えているくせに、両親には素直になれないらしい。
 「あんまり翼にも負担をかけるんじゃないわよ?」
 「……お母さんが、姉さんに押し付けたくせに」
 「あんたは、あたしより翼の方が甘えやすいみたいだしね。ま、頼れるだけは頼ってみなさいな」
 今の長女は、自分でわからないことは素直に母親に尋ねてくる一面も持っている。ピルだとかなんだとか大胆なこともいきなり言ったりする娘だから油断はできないが、次女が長女に無理を言えば、間接的に亜美にまで伝わるだろう。
 次女は子供扱いされてまだ不満げな顔だったが、素直にこくんと頷いた。亜美も一言だけは素直に、母親としての言葉を告げる。
 「あたしにも、いくらでも頼っていいんだからね」
 「…………」
 次女は、今度は少し驚いたように母親の瞳を見上げた。
 亜美はその視線にちょっと照れてしまったが、本音だから訂正はしない。娘はもう一度、今度は小さく、だがしっかりと頷いた。
 数秒の沈黙。
 娘は急にまた彼女も恥ずかしくなったかのように、そっけない顔になった。
 「……もういいでしょ、わたし行くから」
 ぶっきらぼうな物言いだが、その頬は赤い。それだけ言うと、娘は亜美の視線を避けるようにその場から離れた。
 亜美はもう一声かけようとしたが、とっさに気の利いた言葉が思い浮かばず、黙って娘を見送った。不器用な自分を自覚して、これじゃあの人を笑えないわねと、内心苦笑する。やれやれと髪をかきあげて、朝食の後片付けに取りかかった。
 今はこんな、親子の関係。
 娘たちは一歩ずつ大人になり、亜美たちも一つずつ、年を取っていく。
 五年前はまだ小学校の低学年だった次女は、五年後には高校を卒業しているだろう。十年前はまだ幼稚園に通っていたのに、十年後には社会人になっているかもしれない。十五年前は存在すらしなかったが、十五年後はもしかしたら、その次女にも子供がいても不思議はない。
 亜美や夫も長女も、五年後、十年後、十五年後には、今とは何か大きく違っていたりもするかもしれない。
 良くも悪くも、少しずつ変わっていき、そして変わらないものもある、家族の関係。
 娘がまた一歩大人になったその日、亜美は少しだけ、過去と未来とに思いを馳せた。








 concluded. 

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初稿 2005/02/25
更新 2008/02/29