キオクノアトサキ
Taika Yamani.
番外編 「姉妹」
「くしゅんっ」
テレビの音で賑やかなリビングに、もう半歩で「くちゅんっ」とも聞こるような、小さなくしゃみが響いた。
とっさに口を押さえつつ妙に可愛いくしゃみをした姉に、久我山家の次女はちらりと視線を向けて、「まだ寒いね」とごく自然な声で言葉を紡ぐ。くしゃみをした久我山家の長女は、「そうだな」と、可愛い声に似合わない口調で妹に答えたが、しっかりと暖房が効いているし、単に鼻がむずむずしただけである。そのまま雑誌から目を外さない。
まだまだ冬の寒さは残っているが、徐々に春が近づく季節、二月の下旬。
平日の夜八時過ぎ、久我山家の四人家族は、高校二年生と中学一年生の姉妹だけが在宅だった。父親はいつも通り仕事で遅く、母親も娘たちの夕食を用意した後、この日は友人たちと夜遊びに出かけている。よくあることなので、姉妹は羽を伸ばして、テレビの歌番組を見ながら、食後を二人きりで過ごしていた。
長女の翼は、ソファーに座って音楽雑誌を眺めながら、気になるアーティストが出ている時だけ、テレビに目を向けている。次女の飛鳥は、姉の斜め向かいのソファーにごろんとうつ伏せに寝転がって、少しお行儀悪く肘をついて、両手で顔を支えてテレビを見ていた。普段着の長ズボンにつつまれた細い足が、膝で後ろに折り曲がって、空中で交互にぶらぶらしていた。
「お姉ちゃん、お風呂、どうする?」
「先に入りたいなら、入っていいよ」
「終わったらすぐ入るの?」
「飛鳥が入らないなら、入ろうかな」
「ん〜、じゃあ、わたし、後でいい」
「りょうかい」
飛鳥はたまに司会者と出演者とのトークに笑い、時折つまらなそうな顔をし、よく姉に他愛もない話をふってくる。今見ているテレビの話題のこともあるが、まったく脈絡のない話題の時もあるのは、それだけ飛鳥が自分を取り繕わずに、気楽に言葉を紡いでいるせいだろうか。翼は内容は結構適当に、だが声は自然に優しく受け答えだ。
「今日お母さん、狭霧さんも一緒かな?」
「じゃないかな。さっきも電話してたみたいだし」
「狭霧さん、お正月から全然来てないね。お仕事、忙しいのかな?」
「……母さんと夜遊びする時間はあるみたいだけどな」
「あは、お母さん、今日は取材って言ってたよ?」
もちろん、それが半分建前であることは、翼も飛鳥もよくわかっている。飛鳥はくすくす笑っていた。
出版関係の仕事をしている母親には、古くからの友人が多い。翼としては好んで付き合うには少し難しい人物ばかりで、翼の女性に対する免疫は、彼女たちでかなり鍛えられた部分がある。
狭霧さん、というのは、そんな母親の友人たちの中でも、特に母親に親しい人だ。母親とは学生時代からの友人らしく、翼の男としての記憶では、いい思い出もあれば悪い思い出もある女性で、正直翼は彼女のことが嫌いではないが苦手だった。自分たちを赤ん坊時代から知っているためにたちが悪く、兄弟そろっておもちゃにされかけていたのだから、無理もないと言えば無理もない。
が、翼の男としての記憶ではそうなのだが、女である元の人格のツバサや妹の飛鳥は、狭霧に苦手意識を持ちつつも、ずいぶんと懐いていたらしい。
このことの影響はさりげなく大きかった。翼は退院後、心配して訪ねてきてくれた狭霧と対面したのだが、強い違和感を感じさせられた。翼が下手に自分を偽らなかったのも一因なのだろう。自分の見知っているその女性の存在に、翼は安堵の気持ちも抱いたが、彼女の態度も明らかに翼が知る彼女と違っていたからだ。
翼を息子であっても娘であっても、精神病を疑われていても、すぐに以前とほとんど同じように扱ってくれるようになった両親とは、また違う狭霧の態度。幸い、狭霧が大人の態度を取ってくれたから昔馴染みの関係は維持できたが、彼女は少し寂しげな様子だった。翼は理不尽な罪悪感に苛まれたものの、原因自体が不明で自分でもどうしようもないだけに、狭霧との関係もどう転ぶにしても一歩ずつ少しずつ、というのが現状だった。
「お姉ちゃん、デザート食べる? 何かあるかな?」
「うん、何かあるかな?」
「見てくるわね」
八時半をすぎてCMになると、飛鳥はそんなことを言って、パタパタと隣のダイニングキッチンに駆けていく。夕食の後、少ししてからデザートがでてくるのは、久我山家の昔からの習慣だ。デザートといっても大げさな物ではなく、単に果物であることが多い。すぐに飛鳥は、トレイに乗ったりんごと果物ナイフと、一枚の皿とフィークを持って、明るく戻ってきた。
「りんごがあった。りんごでいい?」
「うん、サンキュー」
飛鳥はカーペットの上に直に座り込むと、テーブルの前でせっせせっせと、ナイフを使う。経験不足のせいかちょっと手つきがぎこちないが、翼もあまり人のことは言えないから――さすがに怪我をするほど子供でも不器用でもないが――、ちらちらと眺めて見守るだけだ。
飛鳥は一個のりんごを四等分した後皮をむき、最後にそれを倍に増やして、皿に乗せる。その中の一つにフォークを突き刺すと、翼の前に皿を押しやった。
「はい、どうぞ」
「ありがと」
「うん」
にっこり笑顔の飛鳥は、手づかみでりんごを取って、一口サイズのりんごを半分口に入れて、しゃりっとかじる。「フォークなんていらないのに」と翼は思ったが、雑誌を読んでいて手が汚れていないとは言えないから、素直にフォークを使ってりんごを食べた。
「ちょっとすっぱいな」
「ふふ、うん、もうちょっと甘味があってもいいわね」
飛鳥はくすくす笑って、またりんごをかじる。
二人果物を食べて、ゆったりと時間を過ごす。食べ終わった飛鳥は、またソファーに寝そべってテレビを眺めていた。
家の電話が鳴ったのは、歌番組で最後の歌手が紹介されてからだった。相手の電話番号に応じて流れる着信音は、翼の二人の友達用に登録しているメロディーだ。
「陽奈さんかな?」
翼はこの日の放課後、部活を休んで病院のカウンセリングに通っている。そんな日に陽奈が電話してくるのはよくあることだから、飛鳥の推測はかなり大きな的への攻撃だった。翼は「さあ、どうかな」と軽く応じてテーブルに雑誌を置き、場所を移動してコードレスの電話を取る。ディスプレイに表示されている番号は、飛鳥の推測通り、翼の同い年の友人の自宅だった。
「はい、もしもし、久我山です」と、翼が定番の言葉を返すと、堅苦しい言葉が返ってきた。
『夜分遅くに恐れ入ります。蓮見と申しますが、翼さんはご在宅でしょうか?』
まだ九時前で夜分遅くもないだろうに、と翼は思ったが、そのへんはマナーとしてさらりと流して、普段どおりに陽奈に応じる。
「陽奈? おれだよ」
陽奈は翼の家族全員と顔馴染なのに、家の電話にかけてくる時、毎回律儀に他人行儀な言葉を使う。家の躾が行き届いているのか、翼の男友達だった武蔵も小学生の頃からそうだった。以前翼は陽奈に、「おれが出た時くらい、声でわからないかな?」と尋ねたことがあるが、陽奈は「翼の声って、亜美さんとも飛鳥とも似てるから」と、少し困った顔をして笑ったものだ。
姉妹で声が似ているらしいことはよく指摘されるが、翼自身の感覚としては、今の自分の声と妹の可愛い声が似ているというのは、いまいちピンとこない。「電話だと特にね」と陽奈は答えていたから、そういうものなのかもしれないと思うことにしていたが、母親とも間違えるほど似ているようにはなおさら思えないから、少しわかりづらい感覚だ。
『こんばんは。いま電話、平気? テレビ見てた?』
「せいかい。もう終わるし大丈夫だよ」
電話を持ったまま、翼はソファーに戻って座りなおす。飛鳥はちらりと姉に視線を向けるが、電話のジャマをしたりはしない。逆に気を利かせたのかリモコンでテレビの音量を下げ、どこかつまらなそうに最後の歌手と司会者のトークを眺めやる。
翼の友人が電話の向こうで何を言っているのか、飛鳥には聞こえないが、電話をかけてきた目的は特にないらしかった。翼は今テレビに出ている歌手を、さりげなく貶す言葉など口にする。普段なら翼の友人たちはテレビの時間を考えて電話してくるのだが、最後の歌手は翼があまり興味がない歌手だったから、それをわかっていて番組が終わるのを待たずにかけてきたのかもしれない。飛鳥の目から見て、他愛もないことを口にする姉は、柔らかい表情で楽しげだった。
じきに歌番組が終了し、手持ち無沙汰になった飛鳥は身体を起こし、テーブルの上の食器を片付けてダイニングキッチンに持っていく。戻ってくると、ソファーに座って、姉が読んでいた音楽雑誌を手に取った。
飛鳥も姉の影響か歌は好きで、音楽雑誌なども結構読む方だが、この時は文章を読むというよりは、ぱらぱらとページをめくって眺めるだけだった。雑誌を読むフリをしながら、こっそりと姉の会話に聞き耳を立てる。
翼はそんな妹に少し微笑むが、まだ電話は片手だった。陽奈がふってくる話題に応じてマイペースに、どちらかというと受身の姿勢だが、結構言いたい放題に自分の主張を織り交ぜる。
傍で聞いていた飛鳥は九時になると雑誌を置き、テレビのリモコンを取って適当にチャンネル回しを始めた。が、特に興味を惹かれる番組はなかったようで、ニュース番組に固定すると、飽きたようにリモコンをテーブルに放ってソファーに突っ伏す。時折電話中の姉の言葉に口を挟みたそうな顔をするが、電話の向こうからの声は聞こえないから、少しじれったそうな顔をするだけだった。
そんな飛鳥が目を閉じたことに気付いて、翼は会話の切れ目に、短く妹に声をかけた。
「飛鳥? 眠いなら先にお風呂済ませちゃいな?」
「……別に、眠くないもん」
まだ九時を回ったばかりだからか、飛鳥の声には確かに眠気はない。翼はそれでも、「先に入っていいよ」と、優しく言葉を紡ぐ。
飛鳥は数秒じっと姉を見て、素直に従いかけたが、続いた翼の言葉がそれのジャマをした。電話の向こうの相手に何を言われたのか、翼は小さく笑って「――ああ、飛鳥がね。ごろごろしてるから」と、飛鳥の羞恥心を刺激することを口にしたからだ。
飛鳥は赤らめた頬を少し膨らませて、姉を睨む。翼はその視線も真っ向から受け止めて、「おれも今日はまだだよ。陽奈は?」と、電話の相手と会話のキャッチボールをしている。
飛鳥は理不尽に悔しい思いを抱いたのか、むす〜っと怒ったような顔になると、大きな動作でソファーから立ち上がった。
「部屋に戻ってる。お風呂、先入っていいから」
「うん? ああ、りょうかい」
「あんまり長電話すると、お母さんに怒られるんだから!」
なぜか不機嫌になってパタパタとリビングを出て行く妹を、翼は笑って見送り、電話の相手とそんな妹の話題で少し盛り上がってしまった。飛鳥が聞いていたら、さらに膨れっ面になったかもしれない。
陽奈から翼への用がない電話は、そう頻繁にあるわけではないが、珍しいことでもない。毎日学校で会っているのにこうして電話で話すとまた趣が違い、話題が尽きないのだから不思議だった。話題によっては顔を見ない方が話しやすいこともあるとは言え、音楽や趣味の話をしたかと思えば昨今のニュースや時事ネタが飛び交い、当り障りのないお天気や学校の話になったり、政治経済や思想哲学方面のことにまで話題が飛び火したりもする。セクシャルな話題になると翼は露骨に身構えるが、陽奈もあまりその手の話題を好んでする方ではないから、そう大きな問題になることもない。カウンセリングの話題などはさすがに少し真面目になり、かつ、陽奈が元のツバサを思い出すのか際どい雰囲気にもなるが、ちょっと硬い話題も自然にできるのは、翼と武蔵、元のツバサと陽奈、その二つの関係が根底にあるせいだろうか。
翼は男だった時は、女の子相手にこんなふうに長電話をすることはまずなかった。以前付き合っていた彼女などとも、すぐ翼の方が言葉が尽きてしまい、気まずい沈黙に陥ってさっさと電話を切っていた。
だが、陽奈との会話は、時折訪れる沈黙すら悪くなかった。会話が途切れて沈黙に陥ることがあっても、お互いに自然に話題を思いついて、すぐに話が続いていってしまう。男友達の武蔵が相手だった時は、そんな会話の切れ目ですぐに翼の方から電話を切っていたのだが。
それでも、この日はあまり長くならないうちに、翼は陽奈に電話の終了を切り出した。
あまり遅くなると、飛鳥のお風呂が遅くなる。まだ中学生の妹には早寝早起きをさせたいという、ちょっと過保護気味な翼だった。
『ん、もうちょっと、だめかな?』
「飛鳥がお風呂の順番待ちしてるから。さっさと入らないと飛鳥が寝るのが遅くなる」
名残惜しそうな陽奈だったが、事情を聞くと「やっぱり飛鳥に甘いよね」と言いたげに笑う。
翼は陽奈のその笑みに少し複雑な気持ちを抱きつつ――シスコン、と言われて怒っていた男友達の松本文也の気持ちが、最近わかるようになってきた気もする翼であった――、別れの挨拶をした。
『じゃ、また明日だね』
「ああ、また明日。おやすみ」
『うん、おやすみなさい』
そんな挨拶の後電話を切ったが、陽奈の声は最後まで笑みを含んでいた。
電話機を戻し、翼は脱衣所を覗きにいく。
浴室まで中は真っ暗で、飛鳥が入浴中という気配もない。翼は二階に上がると、飛鳥にもう一度先に入るか訊こうかと思ったが、自分が先に入ってさっさと上がる方を選択した。一度部屋に戻って着替えを用意すると、飛鳥が早く入れるようにいつも以上手短にしようと思いながら、お風呂に入った。
浴室に入ると、湯船に浸かる前に身体などを手早く洗い、それからゆったりと、ぬるめのお湯に浸る。
さすがに翼も少しくらいはくつろぎたいし、しっかりとあたたまりたいから、ここからは少しのんびりと時間を使う。部活の朝練や授業、カウンセリングで疲れた身体と心を、湯船の中でゆっくりと癒す。
「冬休みはここで乱入されたんだよな」と、翼が予知能力を持っていたら思ったかもしれない。
だが予知能力など持っていないから、他愛もないことから重いことまで、つらつらと色々なことを考えていた翼は、いきなり浴室のガラス戸が開いた時、またかなり驚かされた。
とっさに翼は身体を起こし、顔を戸の方に向けて、無意識に天を仰ぐ。
さっきの不機嫌さはいったいどこにいったのか、そこに立っていた飛鳥は、衣服を一枚も身に着けていなかった。最近伸ばし始めているらしい髪はアップにするようにして、頭にタオルを巻いている。どこか恥ずかしそうに別のタオルを持って胸元で押さえて、頬を赤く染めていた。
露出度は高いが凹凸も肉付きも控えめで、まだまだ子供っぽさの方が強い飛鳥は、少しおっかなびっくりという態度で後ろ手にガラス戸を閉めると、てけてけと近づいてくる。翼は湯船の中から、覚悟を決めて全裸の妹に視線を向けた。
「なんのつもり?」
ぬるめのお湯と室内の熱気のせいもあって、翼の頬もうっすらと上気している。きつく言ったつもりだったが、困惑が隠せない声になった。
「お風呂、一緒するの」
「お風呂はだめだって言っただろ」
「だめがだめだもん。風邪引いちゃう」
「…………」
翼の態度に拒絶されていないと感じたのか、飛鳥は子供っぽく笑うと一気に近づいてきた。床に膝をつけるような姿勢でおけを手にとって、身体にお湯をかける。タオルは太ももの上に置かれて、飛鳥の白い肢体がさらにあらわになった。飛鳥の幼いあの部分とかこの部分が目に飛び込んできて、翼は少し目をそらした。
「今日もぬるめ?」
「……熱くするのは上がり際だけだよ。本気で入るつもりなんだな」
「うん、いいでしょう? たまには」
「もう兄妹で一緒にって年じゃないだろ」
「キョウダイじゃなくてシマイだもの。たまには一緒してもいいと思うわ」
飛鳥は子供っぽい笑みを浮かべると、タオルは丸めて浴槽のふちに置いて、少し手で身体を隠すようにしながら、翼の足の方から湯船に入ってくる。頑張れば大人二人に子供一人くらいは入れるサイズの浴槽だから、身を縮めていれば身体が接触することはない。だが飛鳥はあまり頓着していないようで、お湯の中で飛鳥のふくらはぎが翼のそれと接触した。
翼はとっさに足を引っ込めて身体の向きを変えて、そう広くはない湯船に妹を迎える。翼の方を向いて座った飛鳥は、少しはにかみながら、四歳年上の姉を見た。
「一緒にお風呂、ほんとに久しぶり」
「勝手に入ってきたら、一週間口きかないって約束だっけ?」
「それもだめだもん。わたし、泣くから」
「……一回くらい、ちゃんと泣かせてみたい気もするな」
「お姉ちゃん、何度もわたしを泣かせてるもん。お姉ちゃんは、その分もたくさん優しくしないとダメなのよ」
「…………」
翼は頭の中で言葉を捜したが、上手い台詞が見付からない。結局、時々わずらわしさを感じても、翼は飛鳥にはきつくできないということだろうか。
「ったく、もう。わがままな妹だな」
軽くため息をつくと、翼は飛鳥とまっすぐに視線を合わせる。とたんに、飛鳥はほっとしたような笑顔になった。
「だってわたしはお姉ちゃんの妹だもんっ」
嬉しそうに、明るく言い放つ飛鳥。暗に翼もわがままだと言っているらしい。さすがに、翼も微苦笑だ。
逃げ出すのは簡単だ。すでに身体は洗い終えているが、仮に洗い終えていなくとも、本気で嫌なら自分からさっさと外に出ればいい。だから今、飛鳥を受け入れるのは、翼自身の選択。それが無意識の選択だったとしても、どんなに複雑で屈折した感情があっても、翼自身の意志。
「お姉ちゃん、後でわたしの背中洗ってね?」
「……甘えん坊」
「せっかく一緒してるんだもの。いいでしょう?」
「いいけどさ」
「やったっ。じゃあ少しあったまってからね」
「そんなに喜ぶようなことでもないだろうに」と翼は思ったが、些細なことで喜べたり楽しめたり嬉しかったりするのは、何も悪いことではない。むしろとても幸せなことなのかもしれないと思えて、翼も飛鳥と一緒に少しだけ笑った。
入浴剤が混じっているが透過性の色だから、お互いの身体は水に透けて見える。
飛鳥の身体は、白くてなめらかそうで柔らかそうで、いくら小学生みたいとは言え、男の子の身体とは根本的に違っていた。が、飛鳥も徐々に大人に近づきつつあるが、精神面も体型も、今の翼と比べるとまだまだお子様だった。さすがに初めてまともに見る飛鳥の全裸だし、感覚的には飛鳥は「妹みたいな女の子」だから翼も変にドキドキしてしまうが、飛鳥は子供だと思う心理が強いせいだろうか。わがままな妹に困ったものだという気持ちはあるが、可愛く思える飛鳥に慕ってもらうのは純粋に嬉しくもある。
お互いに、単に普段の付き合いの延長線上。飛鳥が相手であれば、深く考えずに可愛いとかきれいだとか思っていられた。陽奈や文月が相手なら、とてもそうは思えなかっただろうが。
「飛鳥って、今身長いくつ? 百四十くらい?」
「そんなにちっちゃくない。今はきっと百四十五にはなってるわ」
「あんまり変わらない気がするけどな」
「……お姉ちゃん」
翼の素直な感想は飛鳥のお気に召さなかったらしい。拗ねた声を出して、飛鳥は翼を睨む。翼は「冗談だよ」と飛鳥を見返す。
「飛鳥もちゃんと成長してるよ。四月には中二だもんな」
「お姉ちゃんは高校三年生よね。大学、もう決めたの?」
来年は受験の姉に、飛鳥は少し上目遣いで視線を向けてくる。翼は「いや、まだ決めてないよ」と優しく微笑んだ。
「わたし、お姉ちゃんが家を出るの、ヤダ」
「……そうだな。通えるところが楽ではあるね」
早くから学部も受験校も絞ってはいたが、問題は山済みだった。男だった時は電車通学だろうが気にしなかったし、一人暮らしもむしろ望むところだったが、この身体では余計なことまで考慮しなくてはいけない。翼と一緒の大学に行くことも考慮していた武蔵は「遠いなら二人で部屋を借りるのもいいね」と笑っていたし、陽奈も同じことを言うが、今となっては武蔵はいないし、陽奈とそれをやるとなると色々複雑な気持ちもある。
何事も一歩ずつではあるが、登りかけていた山から一度蹴落とされた上に崖下にまで転がり落ちたような状況だけに、考え直さなければいけないことも多い。
「飛鳥も、そろそろ高校受験の準備なのかな? うちを受けるのか?」
「うん、でもわたしは平気よ。まだ二年もあるし、あの文月さんだって受かったんだもの。問題ないわ」
「文月が聞くと膨れそうだな」
「ほんとのことだもん」
ご機嫌そうに、飛鳥は笑う。
「陽奈さん、さっき電話、なんだったの?」
「特に用はなかったよ。そういう気分だったみたいだな」
「お姉ちゃんたち、いつも学校で一緒のくせに」
「陽奈とはクラス違うし、そうしょっちゅう一緒なわけじゃないよ」
「でも、朝も帰りも一緒でしょう?」
「そうだけどね」
「わたし、後二年早く生まれてたら、お姉ちゃんと一緒に学校通えたのに」
どうせなら同い年に、と言わないあたり、翼から見た妹の心理は複雑である。タオルを巻いている飛鳥の頭を、翼は軽く拳でつついた。
「飛鳥が二個上なら、間違いなく今日もたたき出してるよ」
「…………」
どちらがいいのか、思いっきり悩む瞳になる飛鳥。翼は軽く笑ってから、話題を変えた。
「少し熱くしてもいいかな?」
「あ、うん。でも、わたし、熱いの苦手」
「おれも得意じゃないけどな。上がる前はあったまりたいから」
「え、もう上がるの?」
「長湯は好きじゃないから」
「身体洗わないの?」
「もう終わってるよ」
「え〜! お姉ちゃん、早い!」
「そうかもね」
翼は半ば立ち上がると身を乗り出して、飛鳥の方にある蛇口に手を伸ばす。
翼の女として年相当に成長しているふくらみが、なめらかに艶やかに光を反射し、その上をお湯が滑って雫を作った。飛鳥は熱いお湯が直接かからないように移動しながら、目前に迫ってきた姉の上半身をじっと見る。
翼はそれをほとんど意識せずに、お湯を出してから元の位置に戻った。
熱湯を避けるために移動した飛鳥の身体が、少し翼に密着する。互い違いに向き合う体勢になって、膝の外側同士がぶつかった。飛鳥のつま先は、翼の丸いお尻をつつきそうな位置だ。
翼は飛鳥の身体から少し窮屈な姿勢で逃げながら、前に流れていた濡れた髪を、両手でかきあげるようにして後ろに流す。数瞬、背筋が伸びて、翼の胸のふくらみが突き出すように強調される。
「お姉ちゃんは、陽奈さんと同じなのよね」
「うん?」
思わず問い返した後、翼は飛鳥の視線に気付いて、複雑に表情を動かした。翼の瞳が、ほんの一瞬だけ、鋭く冷たく暗い光を宿す。
「らしいな」
「わたしね、最近、ちょっと痛いの」
どこが何が、と訊くのは愚問だった。飛鳥は、そっと包み込むように、両手を自分の胸部にあてた。ほのかなふくらみがあるが、まだまだ発展途上のささやかなサイズだ。
翼はため息をつきたい気分になった。
「飛鳥も成長してる証拠じゃない?」
「あ、やっぱりそうなのかな? だったらちょっと嬉しい」
でも痛いのはヤダ、と、子供っぽく笑って、飛鳥はまた話の角度を変える。
「文月さんっていくつなんだろう? 見た目はおっきいけど、身長が高いし鍛えてるから、アンダーもけっこうありそうよね。カップはDとかあるのかな?」
「どうだろうな」
「聞いたことないの?」
「そういう話は避けてるから」
「そうなの? お姉ちゃん、前より奥手になったみたい」
奥手と言うよりも、余計な話を聞けばマイナスの刺激になることもあるし、女の子がそんな話をしているのに付き合いきれないし、さらに言えば下手をすると妄想が爆発しそうになるから避けているだけなのだが、さすがに飛鳥にバカ正直に言う度胸はない。そうかもな、とだけ翼は口数少なく例の微笑を浮かべ、軽くお湯をかき回した。
飛鳥はそんな翼に気付いているのかいないのか、楽しげに話題を続けてくる。
「ね、お姉ちゃんは、ブラ、前で止めるのと、後ろで止めるの、どっちがいい? 前は、どっちがいいか、陽奈さんたちと言い合ったりしてたわよね」
「…………」
思わず、陽奈や文月がその話題で盛り上がっている姿を想像しそうになった翼は、この場ではなんとかぎりぎり思いとどまった。
「それ、いつの話?」
「お姉ちゃんたちが中学の頃よ。夜騒いでたの、聞こえたの。わたしうるさくて眠れなかったんだから」
翼の男としての記憶では、そんな言い合いをしたことはない。女物の下着の話題を友達とするような性格ではなかったし、そもそも男物の下着の話も滅多にすることがなかった。せいぜい、中学の一時期、男連中の間でブリーフがいいかトランクスがいいかという他愛もない論争が沸き起こった時に少し口を挟んだくらいだ。
が、それを考えると、女の子のこの話題も、似たようなものなのだろうか。翼から見ると女は気にしすぎだと思える部分は多いが、女の子が下着の話題で一時期盛り上がったとしても、男と五十歩百歩なのだろうか。
体育の時の男子更衣室で、男同士で「お、今日は派手なパンツだのー」などとたまに騒ぐ友達が――それが誰だとは言わないが――いなかったわけでもない。翼は下世話な話題を好まないから、その手の話題に口を出すことは少なかったが、修学旅行の時などもお風呂場で冗談混じりにお互いの身体をあれやこれやと言い合う連中もいた。男同士であっても女同士であっても、時にはそんな話題が自然に飛び出す。
今、飛鳥は思春期真っ只中と言える年齢に差し掛かっている。女として先輩であるはずの姉に、無邪気に意見を求める。飛鳥からすれば、ただのそれだけでしかない。
翼が本当に生まれた時からの女なら、飛鳥の問いかけも深く考えずに、姉妹の会話として自然にやりとりできたかもしれない。逆に男のままだったとしても、また違った形になっただろう。
だが今の翼は、男としての記憶しか持っていない女。
本来は他人事であったはずのことが、自分のこととして、そこに存在する。やはり、今の翼にとっては、例の微笑でも浮かべてしまうしかないような状況だった。
「ね、お姉ちゃんは、どっちがいい?」
「……かぶるのでいいかな」
「あ、お姉ちゃん、最近ずっとスポーツブラばっかりでしょう。せっかくきれいなのに、もったいないわ」
夏服でない限り透けないはずだし、飛鳥の前で下着姿になったことはあまりないのだが、なぜ飛鳥がそれを知っているのか。翼は一瞬疑問に思ったが、深く追求しないことにした。
さらに思わず脳裏に、半裸の飛鳥がなぜか一生懸命両手を背中に回し、なぜか悪戦苦闘しながらブラジャーを着けている姿が思い浮かんでしまっていたが、翼はこれも深く考えないことにする。ちなみに、いざ実践する場合、悪戦苦闘しかねないのはむしろ翼の方かもしれない。
「飛鳥はどっちがいいの?」
「え? わたし? わたしは、まだちっちゃいから、後ろで止めるのの方が好き。ハーフトップとかの方が、楽なんだけど」
「……そーなのか」
ちっちゃいのと後ろが好きなのと、どういう因果関係があるのか翼には謎だが、とりあえずそう応じておく翼である。飛鳥は楽しげに笑う。
「前で止めるの、楽なんだけど、後ろの方が可愛いと思わない?」
「はずすのは前の方が楽だね」
「あは、そうよね。わたし、最初つけかた、よくわからなかったし。でも、後ろだと薄着するとちょっと変に見えちゃうから、恥ずかしい。夏って透けるの、いやよね。男子冷やかすし、男子ってどうしてああなのかな?」
さすがに透けた下着にドキッとすることはあっても、わざわざホックの位置まで凝視して確認する男は少ないと思うのだが、それは翼の偏見なのだろうか。少なくとも、翼はこれまで見る側で気にしたことはなかったのだが、飛鳥が繊細なだけなのかどうか、言われてしまえば、なんとなく翼まで気にしてしまいそうで怖い飛鳥の発言だった。
「男にはそういうお年頃があるんだよ」
「……お姉ちゃんって、やっぱり経験あるの?」
また突然、飛鳥はちょっと不快げに危険球を放ってくる。翼は何の経験だ、と問い返すことはせず、例の微笑を浮かべていた。怒るようなことでもなく、逃げ出すのも不自然で、翼だけ我慢すればそれで飛鳥が楽しいのなら、この程度の会話でいちいち反応していたら身が持たない。
「どうなんだろうな。飛鳥は気になる男でもできたのか?」
「今はいないわ。わたしは、まだ付き合うとかより、んと、自分を磨く? 方が大事だもの」
「……意外にしっかりしてるんだな」
「意外じゃないもん。だって、まわりに反面教師が二人もいるから」
「学校の友達?」
「違うわ。お姉ちゃんと文月さんよ」
「…………」
翼が反応に困ると、飛鳥は楽しげに笑った。
「なーんてね。お姉ちゃんと陽奈さんは、わたしの目標よ。文月さんはちょっとアレだけど」
翼もつられたように軽く笑ったが、その笑みは形だけのものだった。
「それは、今のおれ?」
裸の付き合いが、いつもは飲み込むその言葉を言わせたのかもしれない。さらりと重い、翼の問いかけ。
「前のお姉ちゃんも、今のお姉ちゃんもおんなじよ。お母さんたちもそう思ってるわ。ただちょっと、優しくなっただけで」
飛鳥は翼の気持ちがわかっているのかいないのか、ペースをかえずに笑顔で応じる。翼はもう一歩踏み込んだ。
「男っぽくの間違いじゃない?」
「それもあるけど、でも、お姉ちゃんはお姉ちゃんだもん。わたしわかるもん」
明るい飛鳥の笑み。
甘えているようではあるが、嘘をつくふうでもなく、強がるふうでもなく、素直な飛鳥の言葉。
翼は否定するだけの材料を持っていないし、この笑みに逆らう理由も持っていなかった。
「……飛鳥がそう言うなら、それでいいのかな」
少なくとも、飛鳥にとってそれが実感なら、飛鳥にはそれで正しいのかもしれない。翼も、飛鳥の前でも自分なりにやるだけだ。今この瞬間のように、時々それで苦しむことがあるとしても。
「うんっ! 冷たいお姉ちゃんは嫌。優しくして」
「……ほんとに、甘えん坊だな」
「お姉ちゃんのせいだもん。わたし怖かったんだから。お姉ちゃんが怖かった」
「……それって、前のおれのこと?」
「違うわ、入院した時よ。わたし、ちゃんと甘えておけばよかったって思った。高校に入ってからお姉ちゃん優しくなってくれてたのに、わたし意地張ってばっかりで、もう二度と優しくしてもらえないって思ったら、怖かった」
飛鳥の瞳は真剣に切なげに揺れて、それから明るく笑顔になった。
「だから嬉しいの。甘えられるうちは、たくさん甘えたい」
微かな羞恥を含んでいるが、飛鳥の素直な笑顔。
「……そうだな、飛鳥はまだ子供だもんな」
「わたしそんなに子供じゃないもん」
言葉と裏腹に子供っぽく笑って膨れて、飛鳥はなめらかな足を翼の足に摺り寄せてくる。
その動作は強すぎる刺激だった。
優しく笑っていた翼の身体が、一瞬強張る。
これまで服越しなら何度もさわられたことがあるが、直接的な接触は翼の感覚をマイナス方向に刺激した。翼は飛鳥がそれに気付く前に、微かに身体を震わせつつも、わざと大げさにばっと立ち上がった。
「そろそろ洗ってあげるよ。おいで」
「えー、もう?」
「じゃ、何もしないで上がっていい?」
「え、だめだめ!」
翼の軽い言葉に、飛鳥は慌てたように立ち上がり、翼に続いて湯船を出た。タオルを手にとって前を隠すようにしながら、椅子を引っ張って、ちょこんと座りこむ。
「ちゃんと洗ってくれるまで、上がっちゃダメなのよ」
言いながら飛鳥は、タオルを広げて両太ももに乗せて、自然に身体の一部分を隠す。
「はいはい」
翼は笑ってお湯を止めて、浴室を動いて浴用のスポンジと石鹸を取り、飛鳥の後ろに移動してから、おけにお湯を汲む。身体を隠しもせずに堂々と動く翼に、飛鳥は急に、彼女の方が恥ずかしそうな顔をした。
「……お姉ちゃんって、前は恥ずかしいって言ってたのに、恥ずかしくないの?」
「勝手に入ってきておいて何を言うかな。飛鳥は恥ずかしいのか?」
「うん、なんとなく」
「前は平気だって言ってたくせに」
「だって、わたしちっちゃいし、まだ全然だし……」
「飛鳥は可愛いよ」
胸のささやかな発育具合に比べると、お尻の成長の方は多少進んでいるように思えるが、あえてそれは口に出さない翼である。だからというわけではないだろうが、飛鳥はほっぺを膨らませた。
「それ、また子供だって言うの?」
そう言う飛鳥の頬は、少し赤くなっていた。両膝を床につくようにかがみこんだ翼は、笑ってそっと飛鳥の肩に片手を置く。
「あ、痛くしないでね」
「わかってるよ」
翼はスポンジに石鹸を塗りたくって、よく泡立ててから、飛鳥の背に触れさせた。
飛鳥の肩や背中は、なめらかで柔らかい。タオルに包まれた髪の下に顔を覗かせているきれいなうなじと、ほっそりとした肩甲骨のラインが可愛らしかった。湯につかっていたおかげか温かく、その肌はうっすらと桃色に染まっている。
「洗う時って、いつも痛いくらい洗ってるのか?」
ごしごし洗うのは、皮膚への負担を重くするだけで、洗浄的にはあまり意味がない。こするよりは撫でるに近い感覚で、翼は泡を広げるようにスポンジを動かす。
「え、うんん。ちゃんと泡一杯にして、肌の上で転がすようにって、教えてくれたのお姉ちゃんじゃない。覚えてないの?」
「……おれの記憶にはないかな」
過去の話題を持ち出されると、翼はいまだに精神的に少し身構えるのだが、飛鳥はすでに気にしていないらしい。背中がちょっとくすぐったそうに、心地よさそうに笑う。
「お姉ちゃんは、お母さんに習ったって言ってたわ。わたしがまだ幼稚園の時よ」
「女の子はちゃんと母親に教わるものなんだな」
なんとなく翼の脳裏に、十歳くらいの元のツバサと幼稚園児の飛鳥とが、お風呂で戯れている図が思い浮かぶ。が、その頃は男だった翼もよく弟の飛鳥と一緒に入っていたものだが、幼い女の自分と妹の飛鳥という構図は、なかなかに想像し難いものがあった。
「お姉ちゃんも女の子のくせに」
飛鳥は楽しげな笑顔で、少しだけ翼を振り返る。
「でも、知らない子も一杯いたわ。六年生の修学旅行、みんなで洗いっこしたら、一杯痛くされた」
ということは母さんは意外にしっかりと娘の女親してるんだな、と、母親に対してかなり失礼な感想を抱く翼。男だった時の記憶では、両親は最低限の躾には厳しかったが、必要なことは自分で身につけろというような部分があった。翼は父親に身体の洗い方など習った記憶はないが、息子と娘とでは、やはり何かと教えることも違ってしまうということなのだろうか。もっとも、男だった時の翼は小学校に上がる頃には母親とは入浴しなくなっていたから、ただ単に機会がなかっただけかもしれないが。
「あ、後でお姉ちゃんの背中、わたしも洗ってあげるね」
「いらないよ、もう終わってるし」
「じゃあ今度、最初から一緒に入る。お姉ちゃん、今お風呂短いから」
「今度黙って入ってきたら怒るよ」
「…………」
「今日は特別。陽奈たちにも内緒だからな」
「……どうして? お風呂くらい、なんでもないのに」
「一人でゆっくり入りたいんだよ。それに、おれは気持ち的には飛鳥のお兄ちゃんでもあるからな。だんだん大人になってく飛鳥にはドキドキするんだ」
「何それ、変よ。お姉ちゃんはお姉ちゃんだもん」
「そうだな、変なのかもな」
「……お姉ちゃんと陽奈さんって、やっぱりそうなの? ――ひゃっ!」
翼の手が大きく滑った。飛鳥の背中を、斜めにスポンジが一気に横切り、飛鳥が変な声を出す。
「……もしかして、とんでもない勘違いしてない?」
「だって、お姉ちゃんたち、仲良すぎるもの」
「飛鳥も、かなり甘えすぎてると思うけど」
「わたしは妹だからいいの!」
どういう理屈なのかはわからないが、翼は聞き流すことにして、体勢を立て直した。「陽奈の方がそんなの気持ち悪いって思うだろうな」とは思っても口にせず、翼は改めて、飛鳥の背を優しく洗う。
「陽奈は友達だよ」
「じゃあ、またわたしと一緒に入って」
「何がじゃあなんだ。全然脈絡ないぞ」
飛鳥はぶすっと頬を膨らませた。
「ほら、そんな膨れっ面してると、文月みたいになっちゃうぞ?」
「え、それはやだっ」
この言葉に対する飛鳥の反応はやたらと早い。翼は笑って、力を少し抜く。飛鳥はまたちょっとだけ後ろを振り向いた。
「お姉ちゃん、今度の休み、一緒に下着買いにいこ?」
「またその話か」
「だって約束したのに」
「気が向いたらって言ったと思うけど」
「じゃあ、今度の休みに、気が向いて」
「むちゃくちゃ言うんだな」
翼はつい笑ってしまった。
「ね、ね? 約束だからね?」
「ほんとにわがままな妹だな、まったく」
「やった! 今度のお休みにね!」
翼の言葉を都合よく解釈して、楽しげに笑う飛鳥。翼は諦め混じりに、だが素直に笑顔を見せる。
「いいよ。じゃあ、飛鳥に似合いそうな、大人なやつでも選んであげようか?」
「え、やだ、そんなのわたし、まだ似合わないもの」
微かに顔を赤くして、飛鳥ははにかむ。兄妹なら「お兄ちゃん!」とでも顔を真っ赤にして声をあげそうだが、姉妹ならでは言葉を続けてきた。
「お姉ちゃんとおそろいなら、してもいいけど」
「……そーくる」
文月が聞けば、「つばさに似合う大人な奴は、飛鳥チンにはまだ早いんじゃない〜?」などと言いそうな飛鳥の台詞だ。陽奈なら、「飛鳥に似合う下着なら、翼にもちゃんと似合うよね」くらいのことを言うかもしれない。
「おれはシンプルなのでいいよ。着飾る理由もないし」
「わたし、お姉ちゃんがきれいだと嬉しい」
「ありがと。おれも飛鳥が可愛いと嬉しいよ」
飛鳥の言葉を、翼はあっさりと軽く流す。最後に飛鳥の肩を手の平で一撫ですると、翼はぽんと飛鳥の背を軽く叩いた。
「はい、おしまい」
「え、もう?」
飛鳥の背中は小さいし、洗うのも時間はかからない。むしろ時間をかけすぎたくらいだ。妹の背中をゆっくりと満遍なく洗い終えた翼は、飛鳥の肩にスポンジを乗せて立ち上がった。
「後は自分でやりな」
「う〜、あ、もう上がっちゃうの?」
「もうちょっとあったまってからかな」
翼は言いながらおけにお湯をくんで自分の身体についた泡を落とし、湯船につかる。飛鳥はスポンジを手に取ったが、視線はじっと翼を追っていた。肩までお湯の中に入った翼は、顔を横に向けて、そんな飛鳥を横からちらりと見やる。
「ほら、早く洗わないと、風邪引くよ」
「……うん」
つんと唇を尖らせる飛鳥。幼い可愛い顔で、背中が泡だらけの全裸なのが、かえって子供っぽく見える。翼は笑って、視線を天井に向けた。
ちょうどいい温度になっているお風呂に、大きく息を吐き出す。いつもならもっと熱めにして、一気にあたたまってさっさと外に出るのだが、もう少し長湯してもいいかなという気分になっていた。好きだと思える飛鳥と一緒の時間は、翼にとってもやはり悪い時間ではない。
翼がぼっと天井を見上げていると、飛鳥の気配が傍に近づいていた。
横を見ると、飛鳥が手の平に丸いシャボン玉を乗せて、ふーふーっと息を吹きかけているところだった。そのシャボン玉の向こうでは、飛鳥が幼い身体を隠すことなく、翼を見て笑っていた。
「……何やってるかな」
「遊んでるの」
飛鳥の手から飛び立ったシャボン玉は、最初は翼の方に飛んできたが、すぐに下にふわりと落ちていく。床に届く前に、シャボン玉は弾けて消えた。
「やっぱりシャボン玉セットでないとダメね。どうして上に飛ばないのかな?」
「……石鹸を手で混ぜるだけだと、膜が重くなりすぎるからじゃないかな?」
「そうなの? でも、重いっていうなら、シャボン玉セットで作ったシャボン玉だって、空気より重いと思うわ。どうして上に行くの?」
「んー、成分的に薄くて軽くて割れにくくなるようにはしてあるとして、後は息を吹き込むから?」
「え、息って、えっと二酸化炭素が多いのよね。それって、空気より重いんでしょう?」
「いや、二酸化炭素の影響なんて微々たる物だと思うよ。でも確かに変だな、なんで上に行くんだろう? 上昇気流に乗るからかな?」
空気中に含まれている酸素は約二十一%で、息に含まれているのは酸素が約十六%、二酸化炭素が約五%ほどである。どちらも残りはほとんど窒素で、酸素よりも二酸化炭素の方が重いために確かに吐き出す息の方が重くなるが、そう大きな差ではない。
「あは、お姉ちゃんもやってみよう?」
「そうだな。……あったかくなったら、外でシャボン玉でも飛ばしてみようか」
「え、うん! いいの? 約束?」
「うん、これなら約束してもいいよ」
翼たちは、春休みになったらみなでピクニックに行こうと予定を立てている。その時に持っていくのもいいかもしれないな、と翼は少し思った。
「やった! どうして上に飛ぶか、その時までの宿題ね!」
「はいはい。遊んでないでさっさと洗っちゃいな」
「はーい」
飛鳥は素直に返事をして、楽しげに身体を洗い始める。翼は苦笑してあれこれ考えてみたが、結局答えは出なかった。
ちなみに、翼が後で調べたところでは、息を吹き込んで作ったシャボン玉が上昇するのは、息が暖かいことと息の中に含まれている水蒸気のせいらしい。水蒸気は空気よりも軽いし、暖かい空気は上昇する。ゆえに、ひたすら上昇するシャボン玉というのは、途中で割れないと仮定しても、相当条件がよくない限り難しいと言うことになる。ヘリウムやメタンを吹き込んで作るというのなら話は別だが。
「ちっちゃい頃のシャボン玉セット、どこ行ったのかな?」
「さあ、捨てたんじゃないかな」
「そっか、じゃあ、買ってこないとね」
「そうだな。あれば原液だけ作ればいいんだろうけど」
「あ、シャボン玉液作れば、お風呂でもシャボン玉できる?」
「その気になれば簡単だと思うよ」
「じゃあ、わたし、泡風呂してみたい。シャボン玉がふわふわしてるお風呂」
「……泡風呂に入って、シャボン玉飛ばすのか?」
「うん、たまにテレビとかであるわよね。一回やってみたい」
「見る分には楽しそうだけど、やるのはどうなんだろうな」
「やるのもきっと楽しいわ」
「おれは見るだけでいいかな」
できれば可愛い子とかきれいな人がやってるのを、と心の中で余計なことを付け加えながら、翼は立ち上がった。
「あ、もう上がっちゃうの?」
「長風呂は好きじゃないって言ったろ」
飛鳥は少し唇を尖らせて、泡ビームをしちゃいたい、という顔をしたが、翼にとって幸いなことに思いとどまってくれた。不満を口にする飛鳥に笑って受け答えしつつ、最後に冷たい水を浴びてから、翼は脱衣所に向かう。
「お姉ちゃん」
翼が浴室を出る寸前に、飛鳥は全裸の姉を呼び止めた。
「うん?」
浴室のガラス戸を開けた翼は、上体だけ少しひねって振り返る。翼の濡れた髪がゆれて、白いうなじから背中、くびれたウエストから丸いヒップへのラインが、斜めに強調される。
そんな翼に、飛鳥の真剣な、柔らかい声。
「今日、一緒にお風呂できて、嬉しかった。ありがとう」
「…………」
この言葉は不意打ちに近かった。陽奈も文月もだが、普段好き放題やっているようでいて、ピンポイントで翼の急所を攻めてくる。にっこりと素直に、少しだけ照れたような、飛鳥の笑顔。
飛鳥の照れが伝染したかのように、翼の頬もほのかに赤くなる。
それでいながら、翼の表情は、今の翼が滅多に見せないような、とても優しい表情になった。
「ばか。姉妹なんだろ。礼なんていらないよ」
柔らかく澄んだ声で、翼は妹に甘く言葉を返す。
飛鳥は子供っぽく、嬉しそうに笑った。
「うんっ! また一緒してね?」
「それはだめ」
元気な飛鳥の言葉に、素早い翼の返答。
飛鳥がぷくっと頬を膨らませ、翼は明るく笑い出す。「ちゃんと洗って、よくあったまりなよ」と年長らしいことを言うと、飛鳥もすぐに笑顔で返事をしてくれた。
賑やかで明るい、妹との裸の付き合い。
脱衣所に出てバスタオルで身体を拭きながら、「相手が飛鳥なら、一回くらいなら悪くはなかったのかな」と、翼は終わってみればそう思えた。
が、これから先、飛鳥はたびたび乱入してくることになり、翼はため息をつくことになる。
それでも、なんだかんだ言いつつ、結局本気で怒ったり追い出したりしないのだから、翼はやはり飛鳥には甘いということなのだろう。
素直に姉に甘える妹と、そんな妹に厳しくできずについつい甘やかす姉、ある意味どっちもどっちな久我山家の姉妹であった。
concluded.
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初稿 2005/01/03
更新 2014/09/15