キオクノアトサキ
Taika Yamani.
番外編 「ありふれた休み時間」
毎日の授業と部活動、来年の大学受験に向けた勉強に、三学期の間だけ通ってみることにした精神科のカウンセリング。仲のいい友達との付き合いや、趣味に娯楽、日常的な用事に時間を使えば、高校生の一日は簡単に埋まる。
やるべきだと考えることはたくさんあるが、今の翼は自分が人生に何を望んでいるのか、それすらも半ば見失っているし、悩むこともあれば、苦しいこともある。学校では無駄に気を張っているから、ストレスもたまる。
それでも、楽しめる時間もあれば、くつろげる時間がないわけでもない。
そんな久我山翼が高校二年生でいられる時間も、もう残すところ後二ヶ月になろうとしていた。
この時期、三年生はセンター試験や高校生活最後の期末試験を終えて、自由登校となっている。それでも相変わらず、毎朝校舎への道は賑やかだ。全校生徒の三分の一近くが登校していないはずなのだが、朝夕の混雑が解消しているようには見えない。
最近の翼は、同じ部活の友人たちと一緒に、女子バスケット部の部室方面からその流れへと合流することが多い。一月に入ってから部活動に復帰した翼は、授業前の朝練にも参加しているからだ。レギュラーと準レギュラー以外は自由参加が建前なのだが、補欠であるはずの翼は松本文月キャプテンの命令によって半強制的に参加させられていた。放課後の練習も徐々に激しさを増し、最近は疲れ果てて夜もよく眠れる。
これは、来年は受験という立場を考えると、あまり都合がよい状況とは言えなかった。身体の疲労や睡魔を感じながら勉強をしていると、将来の為の行為に、理不尽な虚脱感を覚えてしまうことがある。元々翼の学校の成績は悪くはないから、家での勉強は受験の先を見据えた勉強という色合いが強く、だからなおさら思ってしまうのだろう。
「この身体で迎えることになる将来のことを、真剣に考えた上でやっているのか? 今の状況での未来を真剣に考えるのが嫌だから、身近な物に逃避しているだけ、過去の目標に固執しているだけなんじゃないのか?」
それが無条件に悪いとは翼は考えないし、無駄に思い悩んで何もできずにいるよりはましだとも思うが、それでも、数ヶ月前とは置かれている立場が違うせいもあって、余計な悩みも尽きなかった。
前夜にそんなことを考えていたからではないだろうが、その日、翼は軽い失敗をしてしまっていた。
二時間目の授業が終わった後、トイレに行く前に次の時間の授業、英語の教科書とノートを用意しようとしたのだが、その教科書が机の中にも鞄の中にも見当たらなかったのだ。家に忘れてきてしまったらしく、翼としては珍しいミス。
休み時間で賑やかな教室で、机の中を漁っていた翼は身体を起こし、前に流れてきた髪を面倒くさげに払った。
選択肢はいくつかあるが、さすがにさぼったり仮病を使ったりするほど大きな問題ではない。妥当な選択としては、教師に自己申告して近隣の席の生徒に見せてもらうか、他のクラスの生徒から借りてくるか。
月に一度席替えが行なわれるため、今の翼の席は、廊下側から二列目の真ん中あたりだ。先月のままなら親しい友人が隣の席にいたのだが、今その友人は廊下側の最後尾という比較的美味しい席をゲットして、あいにくと離れてしまっている。右隣はほとんどしゃべったことがない男子生徒で、左隣の女子生徒も、用がないのに話すほど仲がいいわけではない。
翼は元々他人に積極的に話しかける方ではなかったが、今は輪にかけて他人に距離を取っている。学校では言葉遣いや物腰に気を遣っているせいもあって、親友と言える蓮見陽奈や松本文月に対してすらも、用がない限り滅多に自分からは近づかない。
それでも、この身体で学校に通うようになって、もう二ヶ月。クラスメートの名前も一通り覚えなおして、学校での人間関係もずいぶんと落ち着いている。この件については、同じクラスにいざとなれば仲介を頼める親しい友人がいたことが、クラスメートたちにとっても翼にとっても、やはり大きかった。大半の生徒は用がないのに話しかけてくることはまずないが、用があればお互いに普通に話せる程度の関係にはなっていた。
一部、翼を嫌っているような女子生徒たちもいるが、万人に好かれようなどと思っていない翼は、実害がないからほとんど気にしていない。逆に別の一部の女子が親しくしてくれているせいもあって、むしろ時々そちらの馴れ馴れしさの方が気になるほどだった。
男子生徒の方は、翼が文月たちといる時に会話に混ざってくる生徒がわずかにいるが、翼が一人でいる時に、用もないのに話しかけてくるような生徒は今のところいない。翼は今の自分の身体が女だということは嫌でも自覚しているが、男に性愛の対象として見られることへの不快感も根強く、無意識的にも強い警戒感がある。一人でいる時は近寄るなと言わんばかりに本を読んでいることが多いこともあって、男子生徒たちには前よりいっそう近寄り難いと思われているらしかった。
翼はうすうす自覚しているが、これは相手に性別を気にしない関係を求めるという以前に、むしろ翼の方が性別を強く意識していることを示していた。意識していなければ、性別に拘らずに男女どちらとも付き合えるとも言える。意識しているからこそ、態度に差が出る。本来なら、意識していたとしても、性差を踏まえた上で、人間関係を築いてくべきなのだろうが。
なんにせよ、今の翼は、女性の方も強く意識してしまっている。陽奈や文月たち相手でも、いきなり踏み込まれてしまわなければ、親しく付き合いたいとは思わずに遠ざけていただろう。そんな親しい付き合いでさえ色々思い悩むのに、見知らぬ男との付き合いまでやってられるかという心理も多かった。
「あれ、つばさ、どっかいくの? 飴いる? トイレなら付き合うよーん?」
立ち上がった翼が後方のドアに向かうと、ドアのすぐ傍に席がある文月が目をつけてきた。机の上に飴の入った袋があって、周囲の生徒に配給しながら雑談していたらしい。文月と話をしていた他の生徒たちも、翼に目を向けてくる。
「教科書忘れたから、陽奈に借りに行ってくる」
余所のクラスの生徒から教科書を借りることができるなら、それが一番問題は少ない。幸い翼には、隣のクラスにとても親しい友人がいる。
「あは、珍しーね、つばさが忘れ物なんて」
「そうかな」
通りすがりに文月とだけ簡単に言葉を交わし、翼は一人で教室を出る。文月はトイレと言ったわりに動かなかったようで、そのまま雑談を続けていた。
翼は二年C組から廊下に出て、隣のD組に向かう。
D組のドアからは、ちょうど人が出てくるところだった。廊下に出て行ったその生徒は、翼をちらりと見て、翼がD組に用があると判断したのか、そのままドアを閉めずに立ち去る。
翼は入り口から中を見回した。
陽奈がC組の翼の元にくることはしょっちゅうだが、翼が一人でD組を訪れることは滅多にない。それでも文月と一緒に何度か来たことがあるから、陽奈の席はわかっていた。真ん中付近の校庭側寄りで、後ろから二番目。
この時期、大半の生徒は男子も女子も、標準服に指定されているクリーム色のセーターを着込んでいる。男子はさらにその上から学ランを羽織る生徒が多いため、黒色の勢力が優勢だが、女子はセーラー服の上にセーターを着るため、逆に白色の勢力が優勢だ。女子のこの格好は、ノーカラージャケットを着込んだ時と同様に、クリーム色のセーラー服といった印象だった。セーラー服特有の大きな襟の黒と、三角ネクタイの赤とが、三色できれいにバランスを取っている。翼や文月、陽奈も大半の女子と同じそんな格好だが、それぞれ印象が違うのは、本人たちの個性の表れかもしれない。
陽奈はこの時、自分の席の、自分の椅子に座っていた。
廊下側に顔を向ける形で横向きに座って、隣の男子生徒と向きあっている。傍に他の男子生徒や女子生徒もいて、数人で楽しげに話をしていた。
クラスメートの数人の男女が、談笑を楽しんでいる。
学校の教室という場で、ありふれた、全国どこにでも見られるような光景。
「…………」
翼は無意識に、左手で自分の右腕を掴んでいた。
翼がよく知らない連中と、自然に笑っている陽奈が、そこにはいた。
元のツバサなら、まだ今の翼よりは陽奈のことを多く把握しているのだろうが、今の翼が陽奈と知り合ってから、まだほんの数ヶ月。クラスだって違うし、四六時中一緒にいるわけではない。
陽奈には翼の知らない友達がいて、翼の知らない付き合いがある。
ごくごく、当たり前のこと。
この一月で、お互いの趣味ことや将来のこと、考え方のこと、いろいろなことを話すようにはなっている。陽奈は度が過ぎると思えるほど、翼を気にしてくれている。翼の中でも、陽奈たちの存在は大きくなっている。翼は彼女たちに救われている部分も多いし、彼女たちのためならできるだけのことはしたいと思う。
だが、陽奈には陽奈の世界があって。
友達として、陽奈が理由もなく翼を邪険に扱うことはない。その自信はある。
だとしても、そう思っていても、この時、翼は動けなかった。
不意に、陽奈の視線が、翼の方を向いた。
翼に気付いて、陽奈の笑顔の質が変わる。明るく柔らかく輝くその瞳。
翼は陽奈のその瞳を直視できず、そのまま身を翻した。
足早に歩き、C組を素通りして、女子トイレに向かう。
「何をやってるのかな、おれは……」
小さなため息をついて、翼は頭を軽く振ると、他のクラスの女子生徒が鏡の前でおしゃべりをしているのを横目に、個室に入って鍵を閉めた。
自分の心理が、翼はよくわかっていなかった。自分がいったい何を気にしているのか、よくわからない。
陽奈のテリトリーで、楽しげな陽奈に真っ向から近づいて、ほんの少しじゃまをして、翼が次の時間に使う教科書を持っているか訊いて、持っていたら借りる。ただそれだけのことなのに。
……翼はいつも以上に鬱屈した気分で用を済ませると、ゆっくりと手を洗ってから、トイレを出る。
C組に戻りながら、「やっぱり隣の子に見せてもらおうかな」と、後ろ向きなことを考える。お互いに気を遣う、あまり楽しくない授業になる可能性が大きい考えだ。
翼がそんなことを考えながらC組のドアに差し掛かると、D組のドアから、トイレなのかどこに行くのか、タイミングよく陽奈が出てきた。
先に見つけたのは陽奈の方で、手を後ろで組むようにして、まっすぐに翼に近づいてくる。C組に入るかまたD組に向かうか悩んでいた翼も、すぐに陽奈に気付き、陽奈が一人ということに無意識にほっとして、歩み寄った。
翼は少しぎこちなくなってしまったが、C組の教室の前後のドアの中間あたりまで、二人距離を縮める。陽奈はわざと無表情を作っているような、翼の心を見透かすような顔だった。翼はそれに気付かず、陽奈の内心を気にする余裕もなく、「ちょうどよかった」と少し芝居がかった言葉を口にしようとする。
そんな翼を、先制攻撃が襲った。
「ていっ」
ぽかっ、と、いい音はしなかったが。
あまりにも予想外のその行動に、驚いて思わず身をすくめた翼は、妹とよく似た少し幼い表情をさらしてしまった。急に翼を睨んだ陽奈が、後ろに隠し持っていた教科書で翼の頭を叩いたのだ。
「教科書、借りに来てたんでしょう? どうして何も言わないで行っちゃうの?」
「……なんで……」
とっさに、翼は状況が把握できない。なぜ陽奈が知っているのか。
陽奈は簡単に謎解きをしてくれたが、少しきつい表情だった。
「翼が顔だけ出してどっか行っちゃうから、文月に聞いたんだよ。声かけてくれればいいのに」
「……話してたみたいだから。じゃまするほどのことじゃないし」
「もう、そんなの」
陽奈はきっぱりと言い切った。
「翼がじゃまになる用なんてないよ。変な遠慮しないで」
「……遠慮、したのかな?」
正直、自分で自分の気持ちがよくわからない翼である。陽奈はその翼の言葉に、二度瞬きをして、いっそう翼を睨むような視線になった。
「遠慮じゃないなら、じゃあ何?」
まっすぐに真剣な、陽奈の表情。他人に対して見せる顔とは少し違う、感情を隠さない陽奈の瞳。
まだ本気のケンカができるほど、お互いに思い切ることはできていない。それでも、少しずつ感情を隠さないようになっていた。特に陽奈は、翼に無防備な表情を見せてくれる。
翼が思わずドキッとさせられてしまう、陽奈の真剣な眼差し。
「…………」
とっさに翼の脳裏に浮かんだ言葉。「……歪んだ独占欲、なのかな」という言葉を、翼は口にしない。
「さあ、なんだろうね。教科書、借りていい?」
込み上げそうになった感情を即座に押し殺すと、翼は家にいる時よりは柔らかい言葉遣いを使って、陽奈に笑いかける。陽奈はじっと翼を見て、まだ少し怒ったままだったが、教科書を差し出してきた。
「教科書くらいいつでも貸すよ。わたしも使うから、終わったらすぐ返しにきてよ。もう変な遠慮しないで」
「ありがと。ちゃんと返しに行くよ。――Dって、今どの辺まで進んでる?」
「……Cはどう?」
当り障りのない話題を持ち出した翼に、陽奈の声と表情はまだきつさを残していたが、深くつっこんではこなかった。逆に問い返してきて、露骨な話題の転換に乗ってくれた。翼は内心ほっとして、受け取った教科書をぱらぱらとめくりながら、前回の授業内容を口する。
友達にも無条件に甘えたりしない翼に、陽奈は不満をぶつけるが、翼が自分から無理をしなくなるのを待っているのか、強制するようなことはしない。その分、最近の陽奈は自分から、積極的に翼との距離を縮める。
この時も、陽奈は翼の声を聞きながら、無造作に翼に身体を近づけてきた。翼が持つ教科書を、翼と一緒に覗き込む動作。
セーターに包まれた腕と腕が触れ合い、陽奈の身体の甘い香りが、翼の嗅覚を刺激する。翼の顔のすぐ傍に、陽奈の顔がある。
無防備すぎる陽奈の態度に、翼はまた感情を揺さぶられるが、このくらいで取り乱すような可愛げのある性格はしていない。陽奈と二人、少し真面目に授業の進行具合を話し合う。
肌寒い廊下の壁際で、身を寄せ合って教科書を覗き込んで、おしゃべりに興じる二人。客観的に見れば、とても親しげに見える二人。
通りすがりの生徒が視線を向けてくるが、陽奈が気にしていないようなので、翼も必要以上には気にしない。「これが男子と女子だったら、結構誤解されそうな状況だな」と頭の隅で思うが、身体は女同士である以上、そんな誤解はありえないはずだった。その事実が、また翼の胸を突き刺すが。
「陽奈? こんなとこで何やってんの?」
数分そうやっていると、突然、文月の声が響いた。後ろのドアから廊下に出てきた文月は、早足で急いでいるような風情だったが、なぜか彼女まで声が少し怒っていた。
「って、つばさドコイッテタノ! 帰ってくるの遅いっ!」
陽奈の話相手が翼であることにもすぐに気付いたようで、文月はさらに怒ったような顔になって近づいてくる。
「陽奈に教科書借りに行くって言ったはずだけど?」
「ソウだけど、わたし待ってたのにっ! 陽奈もすぐ戻ってこないし!」
「誰も待ってろなんて言ってないと思うけど」
「ごめんね、廊下で見つけたから」
「さっきトイレいっしょにって言ったじゃんっ! だいたい、陽奈んとこにも行かなかったんでしょ?」
なにやらやたらと不機嫌になっている文月に睨まれながら、「トイレくらい一人で行けるだろ」と翼は心の中で言い返す。文月はさらに文句を言おうとしたようだが、陽奈が腕時計を確認しながらそれを遮った。
「トイレ行くなら、急がないと時間なくなるんじゃない? もう授業始まるよ?」
「もー! つばさが遅いからだもん! 遅刻したらつばさのせーだかんね!」
「だからなんでおれのせいなんだよ」と思う翼だが、これも口に出すことはしない。学校では余計な言葉遣いに気を配っているため、思考が声になるタイミングが時々ワンテンポずれる。結果言いそびれる言葉も多く、学校では露骨に口数が減っている翼である。
騒ぐだけ騒いだ文月は、言うだけ言って、廊下を駆けていった。
「文月、遅刻しそうだね」
「自業自得だね」
慌しい文月の背中を見送りながらの陽奈の言葉に、翼は他人事のように言う。陽奈は何が可笑しかったのか、少し吹き出すように笑った。
「それ、かわいそうだよ。翼を待ってたんでしょう? 翼がどこか行ってるから」
「トイレに付き合うとも、すぐ戻るとも言ってないんだけどな」
「ん、じゃあどこに行ってたの?」
「……いや、トイレに行ってたんだけどね」
翼のその返答に、陽奈はまたくすくすと笑う。
そんな笑顔の陽奈と一緒にいると、翼の気持ちも勝手に緩む。
――時には意識させられて苦しくなっても、楽しめる時はできるだけ素直に楽しみたい。どんなに大きな問題があっても、それだけに囚われてしまいたくはない。
それが今の、翼の姿勢。
翼も笑って、軽く肩をすくめて見せた。
文月はチャイムがなった後、教師とタッチの差で、教室に飛び込んできた。ここでも睨まれてしまった翼は、少し人が悪いと思いながらも、瞳だけで「よく間に合ったな」と伝える。陽奈に事情を伝えてくれていた文月へ感謝の気持ちもあるのだが、遠慮のなさの方が表に出てしまうのは、お互いにとっていいのか悪いのか、さてどちらなのだろう。
文月は「むーむー、つばさのせいだー!」という顔をしたが、すぐに授業が始まって、うやむやになる。ここで翼と文月の付き合いが浅かったら、後ろから消しゴムが飛んできたりするのかもしれないが、それをやるとツバサが本気で冷たくなることを経験で知っている文月は、呪いの視線を投げるだけで我慢していた。もっとも、ムキになるのもすぐだが機嫌が治るのも早い文月なだけに、途中から呪いの対象を退屈な英語の授業の方に変えていたが。
「やっとおわったー」
授業が終わるなり、文月は翼の席まで聞こえるような声を出して、大きく伸びをする。近隣の生徒に笑われて色々言い返しながら、文月はすぐに翼の元に歩いてきた。
「陽奈んとこ行くんでしょ? わたしも行くよ」
机を覗き込んで残りの時間の教科書を確認していた翼は、ちらりと「お好きなように」という視線を向けてから、陽奈の教科書を持って立ち上がった。文月はそんな翼の後ろからくっついて歩く。
「つばさ、飴いる?」
「普通のならもらうよ」
「すーぱーミント、いらない?」
「いらない」
「ちぇっ、おいしいのに。じゃ、オレンジとレモンとユズと、グレープフルーツとあと夏みかん、どれがいい? あ、レモンは陽奈がとるかも」
「じゃあ、グレープフルーツで」
翼の男としての記憶では、男友達の松本文也が学校に嗜好品を持ってくることはまずなかったが、文月は時には手作りのお菓子までしょっちゅう持ってくる。この日も、眠気覚まし用の強烈なミント飴とは別に、柑橘類の飴セットを持ってきているらしい。教室を出ながら翼が希望を伝えると、文月は「このグレープフルーツは、ちょーっと甘ったるい味だけど、ま、いーよね」などと言いながら、スカートのポケットから数個の飴を取り出し、種類を確認して、翼に一個手渡した。
「ありがと」
翼は礼を言って受け取ったが、すぐには食べずにポケットに入れる。文月はうんと頷いて、話題を変えた。
「ねえ、さっき、なんで陽奈のとこ行かなかったの?」
「……行ったよ。じゃましたら悪いと思ったから、声をかけなかっただけ」
「じゃま? 陽奈なにやってたの?」
クラスの奴らと楽しそうに話をしてた。
言葉にすれば、たったのそれだけのこと。翼は正直に半ば投げやりにそう言いかけて、表現を少しだけ柔らかくした。
「他の子と話してただけかな。こっちは急ぎの用でもなかったから」
「む〜? 休み時間短いのに。またなんか変な遠慮したんでしょ?」
「さあ、どうなのかな」
話の途中でD組に到着した。陽奈はまた他の生徒と話をしていたようだが、入り口に注意を払っていたらしく、ドアを開けた翼に即座に笑顔を向けてくる。
陽奈のクラスメートの存在が、さっきほど翼の気にならないのは、余所のクラスでもマイペースな文月がいるせいなのか、それとも前の時間の陽奈の態度のおかげなのか。翼も陽奈に柔らかい視線を向けて、まっすぐに彼女の元に向かう。
「まったくもー。陽奈もつばさに甘すぎるよね。もっとがつんって言ってやればいいのに」
「陽奈にはさっき教科書で叩かれたよ」
「え? 陽奈が? あはは、ほら、陽奈だってそうでしょ? つばさも、もっとわたしを見習えばいいのに」
「……文月を見習うのは、それはそれでどうなのかな?」
「む! すぐそーゆーこと言う」
「文月もね」
D組の教室を縦断しながら、翼は軽く笑って文月を見やる。その翼の笑顔に文月も一緒になって笑うと、「わたしのはほんとのことでしょっ!」と騒いで、後ろから翼の首に腕を巻きつけて、軽くしがみついてきた。
「……重い」
「どこがオモイの!」
翼が正直な気持ちの一つを告げると、文月は笑いながらきつく首をしめつけて、さらにのしかかってくる。文月のなかなかに豊かな胸が、翼の華奢な背中にいっそう強く押し付けられた。文月も文月で、男とは絶対的に違う甘い匂いが、翼の鼻腔をくすぐる。
男だったら喜べたかもしれないが、今の翼の立場では感情がかき乱されるだけの、マイナスの刺激が襲ってくるスキンシップ。性的な色とは程遠い雰囲気の、遊び半分のじゃれあいでなければ、翼は耐え切れなかったかもしれない。
「ほら、ほんとに重いって! 離れて!」
言葉遣いだけは気をつけつつ、翼は少し強引に、文月の腕を振り解く。
翼にとって、楽しげな文月を嫌うことは難しいが、それとこれとは話が別だ。実際、色々な問題を無視しても、身長差が十センチ以上あるから、のしかかって首をしめられるとそれだけで充分本気で重苦しい。
文月は冗談半分だったようで、楽しげに笑って翼の首から腕を放した。翼の非難などどこ吹く風とばかり、先行して歩く。本気で嫌がった翼のことを全然気にしていないかのような文月に、翼は内心ちょっとため息だ。
そんな文月と翼の接近に、気を利かせたのか敬遠したのか単に用が済んだのか、いつのまにか陽奈と話していたクラスメートは距離を取っていた。他のクラスなのに騒がしくふざけていたからか、少し注目を集めていたらしい。文月はそれを気にした風もなく、あっけらかんと陽奈に突撃した。
「文月も何か用?」
「わ、冷たいお言葉。せっかくお土産持って遊びに来たのに。陽奈も飴いるでしょ? オレンジとレモンと、ユズと夏みかんがあるよー」
「ん、飴? レモンがいいな」
文月は笑ってまたポケットから飴を取り出し、「レモンはちょちすっぱいよー」と言いながら種類を確かめて、陽奈が差し出した手の平の上に一個のせる。文月に礼を言う陽奈に、翼も教科書を差し出した。
「教科書、ありがとう」
「うん、どういたしまして」
陽奈は翼ににっこり笑顔を向けて、教科書を受け取った。
「また忘れたら、いつでも言ってね」
「でもつばさが忘れ物なんて、ほんと珍しーよね」
余った飴の一つを口に放りながら、文月は陽奈の机に座って、さっきも口にしたことを繰り返す。椅子に座ったままの陽奈は、文月を見上げて「そうだね」と頷いてから、少しからかうようなことを口に出した。
「文月なんて、たまに持って帰るとすぐ忘れてくるのにね」
「キョーカショなんておきっぱだからね〜」
「ちゃんと持って帰らないとだめだよ」
「やよ、荷物になるし」
「文月の場合、どうせ持って帰っても勉強なんてしないから、一緒なんだろうけどね」
「あは、さっすがつばさ、よくわかってる!」
経験則に基づく翼の言葉に、文月は怒るどころか、明るく笑って意味もなく胸を張った。翼は「全然誉めてないから」とわざとそっけなく応じ、陽奈も「うん、威張るようなことじゃないよね」とまた軽く意地悪を言う。
「む〜! 二人していぢめる〜」
「昨日は遅くまで起きてたの?」
ふざけて泣きまねをする文月を笑って、陽奈が翼の目を見て、話の角度を変える。忘れ物をした理由は何? という意味も含んだ問いかけだが、昨日の翼は特別普段と違うことをしたわけでもない。「飛鳥チンと夜遊びでもしてたの?」と、もう復活して笑っている文月の声と重なるように、翼は「いつもの時間に寝たよ」と正直に答えてから、本音を付け加えた。
「少し疲れがたまってるのかな。最近部活とか忙しいし。たまには朝もゆっくり寝てたいんだけど」
「そうだよね、文月ももっと手を抜いてくれればいいのにね」
「もー、二人までぐちぐち言わないでよ。ただでさえみんなうるさいんだからさー」
翼と陽奈の発言は本音だが、二人とも瞳は笑っているから、別に非難しているわけではない。どこまで今の自分が戦力になれるのか疑問だが、翼はそれでも文月に協力したい気持ちを持っていた。陽奈も部活の優先順位が以前より低くなっているが、三人で一緒に頑張りたい気持ちをちゃんと持っていた。
「どうせ愚痴なだけだよ。本気で嫌なら付き合ってないし。文月は充分よくやってるよ」
相手が男友達ならもっとからかったのかもしれないが、翼はすぐに甘い本音も言葉にする。そんな翼をちらりと見て、陽奈も「うん、なんだかんだで、みんな毎朝ちゃんと出てくるからね」とくすりと笑う。
文月はどこか照れたような顔をしたが、その瞳は嬉しそうだった。「じゃあもっとキビシクしてもいーい?」という発言まで飛び出して、翼も陽奈もヤメテとお願いする羽目になった。
そうやっていると、陽奈と同じD組の女子バスケ部員、佐原美里も会話に参加してきて、さらに話が四方に転がる。
「あ、サトっち、今日から少しずつハードにするから、覚悟しといてねっ!」と明るく宣言する文月に、美里は「だれ、文月をたきつけたのは?」とジト目を飛ばしたり、「久我山さん、やめてよねー、下手に文月を調子付かせるのはさぁ」と泣き言を漏らしたり。
翼は嫌な話題に付き合うつもりはないが、そうでなければ問題は少なく、美里が加わっても自然に受け答えだ。
賑やかな休み時間の教室に溶け込んで、翼たちも時間ぎりぎりまで、他愛もない話を弾ませた。
concluded.
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初稿 2005/01/03
更新 2008/02/29