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 ガールフレンド

  Taika Yamani. 

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  第二話 「性転換病」
   I


 特発性性転換症候群。俗に性転換病やTS病と言われる病気がある。
 男性は女性へ、女性は男性へと身体が変化する、約三十年ほど前から広まり出した病気。今の十代は、四十歳までに約三パーセントが発病すると言われている病気。
 男子高校生の高槻初瀬が、医者にその病名を告げられたのは、十七歳の誕生日の数日後、四月の大型連休直前の木曜日のことだった。
 高校の第二学年へと進級した初瀬は、それまで特に大きな問題のない毎日を送っていた。
 一年の時は別々のクラスだった一番仲のいい女子、佐藤美朝と春日井エリナと同じクラスで、同じ部活の男友達の柏木陽光や他の友達数名も同じクラスで、新しい友達もできて、一年の時より賑やかになる要因はあったものの、それは歓迎すべき要因で、充実した日々を過ごしていた。
 五月下旬に行くニュージーランドへの修学旅行の話題で盛り上がって、新学期早々の実力テストで一喜一憂して、進路希望調査の用紙にどう書くか少し真面目に思い悩んで。本年度から制服のバリエーションに加わったポロシャツを着て行ってそれについて改めて論評し合ったり、部活で新しくできた後輩に威張ってみたり、三年のTS少女である生徒会長とその同性の恋人がいちゃついているのを見かけてその噂話をしたり。春休みにモデルデビューしたというよそのクラスの女子や、新入生で可愛いと評判のTS少女を見に行ったり、新入生の中にいるらしいTS少年探しをする友人たちを悪趣味だなと笑ったり――本人が隠し通しているのか、単なる毎年恒例の噂なのか真偽は謎である――。
 美朝とエリナの二人と頻繁に一緒にいると、なんでもかんでも恋愛に結び付けたがる青春真っ盛り思考の級友たちに、「どっちが本命なんだよ」と冷やかされることもあったが、初瀬は素直に堂々と「両方に決まってるだろ」と笑って答えてやりすごしていた。本人たちに問われるならともかく、「高槻って女ったらしよねー」「このリア充野郎め」などと面白半分でからかってくるような悪友たちの相手を真面目にする気にはならない。
 少しは上達して面白くなってきた弓道部も励んで、毎日欠かさず筋トレをして、四月下旬の体育大会もみんなでがんばって。四月中旬には誕生日のお祝いをしてもらって、美朝とエリナの二人から去年のお返しで合同でおしゃれなシルバーのペンダントをプレゼントされて、船の錨がモチーフの小さな飾りの付いたペンダントをさっそく首にかけて「これはもっと落ち着けって言いたいのか?」と笑ってじゃれあって。ご馳走とケーキを食べて、毎年恒例で子供の日を待たずに家の柱に背丈の十七本目の傷を刻んで、いつも今を楽しんで。
 不平不満がまったくないわけではないし、まだ明確な将来の目標がないから漠然とした不安も少しはあったが、特別苛つくほどでも焦るほどでもなく。
 前向きに自分を磨いて一歩ずつ大人になって、そんなふうに毎日を過ごして、二年目の高校生活のスタートを、順調に切っていたはずだった。
 それが急転直下。
 やたらとお腹が空くようになって、それが数日続いて悪化して、満腹感も得にくくなって睡眠も不安定になって、体重が徐々に増えてきて。
 そしてまさかなと思いつつ訪れた病院で、医者に告げられた病名。
 特発性性転換症候群。
 発病から数十日で、肉体が異性へと変化してしまう病気。
 覆せない現実を前に、まず初瀬が考えたのは、ゴールデンウィークや修学旅行が吹っ飛ぶことへの落胆だった。これから自分の身体が男ではなくなって女になるなんて、最初は全然ピンとこなかったし実感もわかなかった。
 初瀬が次に考えたのは、友人たちに病名を隠すことだった。
 数パーセントの確率があることは広く知られている病気だから、学校の性教育の授業などで詳しく学ぶ機会があるし、初瀬も何度か真面目に考えたことがある。友人たちと「もしも女になったら」「もしも男になったら」と言い合ったこともある。が、その時は冗談混じりにふざけて笑っていたが、いざ当事者になると冗談ではすまない。
 だんだんと真剣に受け止めた初瀬は、しばらく病名を伏せてもらうように、両親に頼んだ。
 さすがに自分の気持ちの整理で手がいっぱいで、友人たちのフォローまで気が回らない。友人への報告という余計な神経を使いそうなことは、事後の一回ですませたいという身勝手な理由もあった。
 男のままでいたかったが、女になんかなりたくなかったが、どんなに泣き叫んだところで、現実は覆らない。
 これから自分が男ではなくなって、女になるなんて、どういう顔をして告げればいいのか。
 特に、初瀬にとって特別な二人の女の子に、どう言えばいいのか。
 彼女たちの反応も、どう受け止めればいいのか。真顔で受け入れられても、戸惑われても、嫌悪されるのも、どれもこれも嬉しくはない。
 だから初瀬は、彼女たちにはちょっと体調が良くないだけだと言い続けた。
 親戚や美朝の両親と兄の彼女にだけは病名を明かして、明るく励まされて思わず泣きそうになったが、なんとか気持ちを堪えて、それでも美朝とエリナの二人を無意識に避けて、父親が急遽計画した連休前半の温泉旅行にも率先して乗った。
 親子四人で家族風呂に入って、いっぱい美味しいものを食べて、異様な食欲とそれに伴う体重の増加と睡眠の不安定化が少しずつ進行していく中、初瀬は自分の未来や大切な二人の女の子のことを思って感情が乱れることも多かったが、兄の前では涙も見せてしまったが、男としての最後の旅行を、父と母と兄と楽しんだ。
 そして帰宅後、入院前に最後に美朝とエリナに会った時も、「なんとかって病気で一ヶ月くらい入院するはめになっちまった」「とりあえずまだ検査とかあるけど、入院すれば問題なく治るってさ」「まあ、おれもたいへんなんだから、あんまうだうだ言うなよ」「修学旅行にも行けなくなっちまったしさぁ、話は退院したらきいてやるよ。土産買ってくんの忘れんなよ?」などなどと、半ばごまかすような軽い態度を貫き通した。
 そんなあっけらかんとした初瀬に、露骨に不安そうな心配そうな顔をした美朝。
 不機嫌そうにぶっきらぼうに、だが真剣に、本当に重い病気でないのか何度もしつこく念を押してきたエリナ。
 美朝もエリナも、もしかしたら薄々疑っていたのかもしれないが、本当になるのが怖かったのか、病名を本気で問いつめてはこなかった。
 二人が初瀬の病名を知ってどういう顔をしたのか、初瀬は知らない。



 異常な食欲の増加から始まる性転換病の進行は、お世辞にも美しいとは言えない過程をたどる。数週間に渡る食欲と体重の急増からくる生活リズムの激変も、精神への影響を免れない。
 徐々に症状が進んでいく中、初瀬のメンタルもフラットではなかった。特に自分がぶくぶくと醜く太っていく姿は、さすがの初瀬も耐えられないものがあった。
 親に見られるのも嫌で、初瀬は一度ならず八つ当たり気味に感情をぶつけてしまった。とにかくだれにも会いたくないと、入院中のお見舞いも最低限度だけにしてもらったが、共働きの両親にも社会人三年目の兄にも、ずいぶんと迷惑をかけた。
 なによりも、こんな自分を美朝とエリナがどう思うのか、これから性別まで変わってしまう自分を二人がどう思うのか、初瀬は考えたくなくて、感情がぐちゃぐちゃだった。
 いつも当たり前に一緒にいた、初瀬にとって特別な大切な二人。
 女になんかなりたくなくて、自分が変わってしまうことが嫌で嫌でたまらなくて、今の太った姿もこれからの姿も二人にさらしたくなくて、でも二人に会いたくて、傍にいて欲しくて。
 こんなに長い間二人の顔を見ないのも、二人と出会ってから初めてのことで。会えない時間の長さに、今まで味わったことのない切なさも募っていく。
 そんな中で始まった性別の変化は、一般に知られているように激しい肉体的苦痛を伴った。すぐに意識を失ったが、十代での発病にしては長引いて、二十日ほどの時間がかかった。
 身体が安定して通常の睡眠状態に移行して、初瀬が意識を取り戻した時には、一学期の中間試験も、楽しみにしていた修学旅行も終わって、カレンダーは六月、梅雨の季節に入ろうとしていた。
 目を覚ました初瀬の身体は、男ではなくなっていた。
 目を覚ました初瀬は、女の身体になっていた。



   ◆  ◆  ◆  ◆  ◆



 さて、高槻初瀬は基本的に前向きな性格である。
 ある重大な物事に面した際、重く考えるよりは、基本的に気楽に、よく言うと柔軟に考える方である。受け入れるまでに時間がかかることもあるが、一度腹を括ってしまえば、状況に応じて動くしなやかさを持ち合わせていた。
 結果を先に言えば、初瀬にとってつらく苦しかった時間は、身体がぶくぶくと太り出してから、性転換後の数日までの間だった。
 もともと現代の医学ではどうしようもない、万人に発病の可能性のある病気だし、命にかかわることはまずないのだから、どんな形であれ覚悟を決めて受け入れるしかない。性転換を頭から嫌悪する人間や、物事を重く受け止めるタイプの人間には、TS病は心身ともにかなりきつい出来事なのだろうが、初瀬の精神はポジティブで柔軟だった。
 身体が完全に女になって、意識を取り戻してからの初瀬は、現実を受け入れるのに二日、諦めるのに二日かかった。
 言い換えると、初瀬は正味四日で開き直った。
 最初の二日は、強烈な違和感と、「自分の身体」を思うように動かせないことの方が大きな問題だったが、その間も初瀬の感情は豊かだった。その二日を含む四日間のことは、初瀬自身、後になって思い返しても、もう笑うことしかできない。
 自分の自由にならない自分の身体にあがいて、二ヶ月前までとは違いすぎる自分の肉体に気持ち悪さと喪失感を覚えて、「自分の身体のすべて」が、「男」ではなくなっていることを、「女」になっていることを、見なくともさわらなくとも嫌でも体感させられて、感情がぐじゃぐじゃで。
 一回りも二回りも小柄になって、生まれた時からずっと当たり前にあった男の性器がなくなって、女の性器が存在する、初瀬の新しい身体。
 全体的に華奢になっているのにまろみがあって柔らかで、腹筋が割れて筋肉質だった腹部はなめらかに細く、引き締まって硬さのあった臀部もまろやかに豊かで。日々の筋トレで鍛えて胸板が厚かった胸部もひ弱になって、なのにふくよかな質量がそこにはあって、柔らかな脂肪の塊が二房の丸いふくらみを作っている。
 こんな自分を美朝とエリナがどう思うのか、初瀬はやはり考えたくなくて、だがどうしても二人のことばかり考えて、彼女たちを想えば想うほど胸が苦しくなって、感情が壊れそうだった。
 それでも、初瀬は自分で自分を追い詰めることしかできなかった。堂々と胸を張って大好きな二人に会うために、どんなに身体が変わっても何も変わらない自分で彼女たちの前に立つために、初瀬は意地になってあがいて無理矢理にでも前を向く。
 なんとか人前では強がって、最初の二日泊り込んで世話を焼いてくれた母親も疎ましがって、お見舞いにきた父も兄も邪険にして。医者や看護師にもしばらく距離を取ってもらって、できるだけ一人にしてもらって。
 この年になってオムツの世話になる恥辱に耐えて、母親が用意していた女物の下着が似合う「自分」を暗く嘲笑って。録画しておいてもらっていたテレビのお笑い番組を流しっぱなしにして現実逃避をして、膝まで届く長い髪をウザイと思うことで身体への不満を少しでもごまかして。
 「女の身体」になっている「今の自分の新しい肉体」を、隅から隅まで、鏡にも映して念入りに確認して、必要最低限の診察や食事やトイレや入浴や睡眠や身分証明書用の写真撮影などを挟みつつ、たまに衝動に任せて思いっきり泣いて。
 鬱と、躁と、空虚な絶望感と、暴れ出したくなるような激情と。
 そして、思春期になると無視して通るのが難しい、性愛の問題。
 初瀬は奥手ではないが、女ならだれでもいいと思うほど性に奔放ではない。むしろだれでもいいという発想は嫌悪するし、すぐ傍にいくらでも好き勝手できる「異性の身体」があっても、だれかれ構わず手を出すほど節操なしでもない。
 だが、さすがにその「異性の身体」が「自分の身体」で、「生身の女性の肉体」を身近すぎるくらい身近に、文字通り「自分のもの」として常時リアルに感じさせられる状況は、男のままなら絶対にありえない体験だった。まだ歩くことすら億劫だったが、「スケベな男」を自認する初瀬は、自分の衝動に逆らわなかった。
 「女性の身体」に対する欲望と、「異性の身体になった自分の身体」への性的な意味での好奇心と、「女の性」を持つ「自分の新しい身体」の、未知の性的快感。
 大切な二人の女の子のことを深く思い悩んで、「自分の肉体」に触発されて彼女たちの肉体を妄想して、無意識に二人のすべてを求めて、熱い吐息とともに何度も二人の名前を口に出して。
 慣れの問題なのか簡単には頂点が見えなくて、筋力や体力ももたなくて、時々強いじれったさを抱えながら、「今の自分の身体」を散々弄んで、現実逃避するように没頭して一人で身体を慰めて。
 だがやはりどうやってももう求めるものではありえなくて、今の自分の身体を感じれば感じるほど泣きたくなって。行為の前後や最中に、虚しさや羞恥や情けなさよりも、反発や嫌悪や喪失感から、時には堪え切れずに涙をこぼして。
 そうやって初瀬がとりあえず開き直った頃には、前述の通り、四日の時間が流れていた。
 自分の身体のすべてが大きく変わってしまったことを、男ではなくなって女の身体になってしまったことを、初瀬は嫌というほど自覚させられたが、衝動と欲望と諦めと絶望にまみれたその時間は、初瀬にとって必要なプロセスだった。まだ完全に開き直ったとは言い切れないが、それも含めて、初瀬は今の自分の身体の現実を受け入れた。
 そして五日目の朝。
 初瀬は日付と曜日の感覚がなくなっていたが、六月十一日、日曜日。
 早い時間に目が覚めて、また情欲がくすぶって、それを行動に移して鎮めた後。
 この日も寝起きから自分の身体を再認識して、一日が鬱屈から始まったが、ようやく本格的に落ち着きを取り戻した初瀬は、意識して自分を律して冷静に動いた。
 まだぎこちない身体を動かして病室を出てトイレや洗顔をすませ、朝食を運んできてくれた看護婦さんに朝の挨拶をして、太ももまで覆う長い髪にも鬱陶しさを覚えつつ朝食をとって。
 それから改めて、初瀬は携帯電話の使用許可区域の一つである待合室の一角に足を運んで、約一ヶ月ぶりに、携帯のメールを確認した。
 やけに大量のメールが来ていて、初瀬は一瞬面食らったが、ほとんど同一人物からのメールだった。
 約一ヶ月前、初瀬がしばらく携帯も使えなくなるとメールを入れたその日のうちから、毎日送られてきていた、佐藤美朝のメール。
 そして、初瀬が特別に気にしたのは、美朝ともう一人。
 初瀬が面会謝絶になった時期から数日後の、たった一通だけの、春日井エリナのメール。
 他の友達などからのメールもあったが全部後回しで、初瀬は覚悟を決めて、特別な二人の女の子からのメールを読んだ。
 美朝のメールは、初瀬が面会謝絶になる前のメールと内容は一貫していた。いつも通り絵文字や顔文字交じりに、毎日の出来事の他愛もない報告と、初瀬を心配してくれている気持ち。そして、早くよくなってまた一緒に毎日を過ごしたいという、未来への願望。
 『初瀬くんが女の子になっても、わたしは絶対に変わらないから』
 初瀬の母親から病名を聞かされたという日の、美朝のメール。
 性転換病を隠していたことを責める言葉の後に、最後に書かれていた言葉。以降のメールで、『早く会いたい』『初瀬くんがいないとさみしいよ』『早く元気な初瀬くんを見たい』というまっすぐな言葉とともに、何度も繰り返し出てきた言葉。初瀬の胸をきゅっと締め付けてくれた、美朝の言葉。
 エリナのメールはシンプルだった。
 『連絡できるようになったらすぐ連絡して』
 たったそれだけの、短い一通のメール。
 エリナは普段から頻繁にメールをする方ではないが、美朝の長いメールと比べると短すぎるメールで、彼女の内面はまったくうかがい知れない。彼女の性格からあれこれ推測することはできるが、その真意や本音までは全然読み取れない。
 その一通のメールに込められたエリナの気持ちを思って、初瀬はぎゅっと携帯を握りしめた。



 その日その後は、初瀬は自分の身体と二人の女の子のことばかりを考えながら、一日を過ごした。
 まだ感情の起伏が不安定な部分もあったが、朝から世話を焼きに来た母親と雑事をすませて、担当の女性看護師に改めて礼を言って今後のリハビリや診察やらのスケジュールの話をして、今まで延び延びになっていた身体測定をして、さっそく軽くリハビリをして。すぐに眠だるくなったから、我が子にも控えめな性格の母親と、気になる二人の女の子たちのことなどについてぽつぽつと話をしながら、お昼までうとうとして。
 昼食をとると、病院推奨のTS女性向けのハウツー本を改めてパラパラと流し読んで、父と兄と一緒にお見舞いに来た、母方の祖母と伯母と大学生の従姉とに、女の身体での初顔合わせをして。一人一人の反応を気にする余裕はないから、開き直ってがんばってマイペースに応じてやりすごして――父親にはニヤニヤとからかわれたが、従姉と祖母がたしなめてかばってくれて、初瀬とよく似た性格の父親は「初瀬は初瀬なんだからこのくらいでちょうどいいんですよ」と強気に言い返しつつ、妻の母と姪に叱られて少しバツの悪そうな顔をしていた――。初瀬はできるだけ冷静に対応して、すぐ疲れてきたからおやつ時には帰ってもらい、一人きりのベッドの中であれこれしつつまた一眠りして。
 目覚めた後は、色々と思考を渦巻かせながら、買い置きしてもらっていた雑誌をぼんやりと読んで。
 そして、夕食も入浴もすませた後。
 初瀬は華奢で繊細になった指をぎこちなく動かして、覚悟を決めて、二人の女の子にメールを出した。

 『もう言うまでもないだろうけど、TS病にかかっちまった。隠してて悪かったな。もうすっかり女の身体になっちまった。まだリハビリとかあるけど、順調に回復中だ。見舞いに来たいなら来てもいいぞ。』

 念のために、病院の名前と病室番号と面会許可時間を添えて、初瀬にしては長いメール。
 初瀬はむしょうに二人の顔が見たかった。こんなにも長い時間、美朝とエリナと会っていないのは、二人と出会ってから初めてのことで。どんな対面になろうとも、早く二人に会いたかった。



   ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



 翌日、六月十二日、月曜日。
 この時期を象徴するような雨が降っていたが、梅雨時にしては涼しい一日だった。前線がやや南側にあるらしく、北からの大気の影響か、湿度もそれほど高くはない。
 そんな平日の、午後四時になる時刻。
 約一ヶ月半の入院生活中の高槻初瀬は、病院の個室のベッドの上で、母親が買ってきた明るい緑色のスウェットの半袖パジャマ姿で、黒地に赤のメンズの大きな長袖カーディガンを羽織って、膝まである長い黒い髪をお腹の前でいじりながら、ぼーっとテレビを眺めていた。
 初瀬が「女の身体」になってから、まだほんの数日。
 まだまだ初瀬の中には、変わってしまった「自分の身体」への違和感が、根強くくすぶっている。
 見なくてもさわらなくてもわかる、自分自身の身体の感覚。
 ただ座っているだけでも、肩から胸まわりの筋肉にかけて無視できない重みがあって、呼吸に合わせてその部分の柔らかな質量が震える。自然にベッドに押し付けられている臀部の豊かな質感も、脚と脚の間のデリケートな部分の感触も、以前とは違う。体臭までも違って感じられるし、身体全体が柔軟だが華奢でひ弱だし、ここ一年部屋着として愛用していたカーディガンもだぶだぶだし、もう自分の身体が「男」ではないことを、今の自分の身体が「女」であることを、初瀬は常に意識させられている。
 外見もどこからどう見ても十代の女の子にしか見えず、その肌はきめ細やかで瑞々しく白く、血色のよい頬はほのかに淡く桃色に透き通って、端整な容貌を明るく彩っている。太ももまで覆う長い艶やかな髪は少し古風なワンレングス――フロントもサイドもバックもすべて同じ一つの長さ――で、細くしなやかにさらさらと肩や背中や胸に流れて、小さなおでこが丸くむき出しになって、きれいな雰囲気の中に微かな幼さをにじませている。
 幸か不幸か特別初瀬好みではないがナチュラルに整っているそんな小ぶりな顔立ちも、嫌になるくらい高く透明感のある澄んだ声も。喉に隆起がない首のなめらかな細さも、ほっそりとしているのにまろみがあって柔らかい二の腕も、二十センチ以上背が低くなって全体的に華奢になっているのに部分部分がふくよかな体型も、男性のシンボルがなくなって別の形になっている、ふっくらとなだらかな下腹部も。
 すべてが、もう元の男の身体ではありえない。
 今の初瀬の身体は、二ヶ月前までとは完全に違う、女性の身体。
 だが、最初の数日間のように極端に反発したり安直に性衝動に繋がることは、もうなかった。まったく繋がらないわけではないが、過度の嫌悪を引きずることもなく、初瀬は軽く自制するだけの余裕を取り戻していた。
 が、こうやってぼーっとしていると、また話は別だった。やることがないと気持ちが不安定に乱れて、ついつい「新しい自分の身体」に向ける意識が強くなって、こんな真昼間からまたむらむらうずうずしてきてしまう。
 『……なんでこんなに、女の身体ってエロく思えるのかなぁ……』
 そう感じてしまう初瀬が人一倍スケベなのか、男の身体で十七年間培われてきた感性からすればごく自然なことなのか、単にまだ「新しい身体」に慣れていないせいなのか。
 それとも、生まれつきの女子も、少しは、自分で自分の身体をそんなふうに思ったりするのだろうか。
 「…………」
 初瀬は余計な妄想をしながら、すぐずりさがって指先まで隠れるカーディガンの袖を腕まくりして、そのまま、以前とは違いすぎる自分の左胸に、パジャマが内側から盛り上がっている部分に、左の手のひらを軽くあてがった。
 柔らかな重みのある、まろやかに膨らんで、女性の乳房を形成している、今の自分の胸。
 慣れないレディースの下着に包まれて、なんとなく窮屈で、ふくよかに弾力的に息づいている、自分の乳房。
 そっと押すように手に力を込めると、スウェットのパジャマとジュニアブラのようなハーフトップの下着の感触ごしに、その内側のまろやかな質量が、今の初瀬のしとやかな指と手のひらを優しく押し返す。直接さわる時の吸い付くようななめらかさはないが、呼吸に合わせて震えるように息づいて、しっとりとしたぬくもりと張りのある柔らかさが、繊細に敏感に手のひらへと伝わる。
 同時に、手のひらから自分の乳房へと伝わる、くすぐったいような、うずくような優しい感触。直に触れ合うのとはまた感触が違って、乳房の表面へのソフトな下着の圧力も柔らかくて、パジャマごしでも心地よい。手が胸に触れているだけなのに、身体全体へと広がる、甘く温かな刺激。腕を少し動かすだけでも、まわりの筋肉も反応して、内側からも柔らかく震える。
 たおやかな手のひらに包まれたそのふくらみの奥に、とくん、とくん、と心臓の鼓動が感じられる。じんわりと、手のひらのぬくもりと乳房のぬくもりが相互に溶け合って、身体全体へと熱く浸透する。だんだんと、先端が小さな存在感を自己主張して、触れていない方の乳房まで、淡く震える。
 少しずつ高鳴る鼓動に押されるように、自然に、初瀬のもう一方の手が、華奢なウエストから下の方へと伸びる。
 『……昨日の夜にも、昼前にもしたのに……』
 初瀬としては、今はあまり性欲的なことは意識したくないのだが、なんの障害もなくすぐ手が出せる位置に「異性の肉体」があるのが問題だった。強いやるせなさも湧き上がるが、「対象」の同意を求める必要もなく、好き勝手にどう扱おうとすべて自分次第で、基本的に止める理由が見つからないのも問題だった。
 「自分の身体」なのに、どこをさわっても、もう以前とは違う、男ではありえない感触。
 さわる側とさわられる側、二つの新鮮な感触を味わえる肉体。
 男だった時と比べると華奢で小柄で、それでいて、十七歳という年齢相当にオンナとして発育しているカラダ。
 まだ体力的な問題もあるし、慣れの問題もあるのか時間がかかるし簡単には頂点も見えないが、別にそれを目指さなくとも充分に心地よい。男の身体だった時は理解も体感もできなかった感覚。無理に強い刺激を必要としない、ゆるやかな上昇と、必ずしも先に進む必要のない、全身に広がる甘やかな快感。一昨日までは最後まで突っ走りたくなるような衝動が大きかったが、強い衝動は今はおさまっている
 やはりどうやっても、求めるものとは違うという感覚が付きまとって、ネガティブな情動にも苛まれるが、おそらくもう永遠に、それは初瀬の手に入らない。心はまだ簡単に軋むが、ある種の逃避であろうと、女の身体の快感を甘受する言い訳だとしても、例え強がりであったとしても、初瀬は開き直って前を向く。
 そんな秘め事をしている時にだれか来たりすると困るが、家族は平日はみな仕事だから、様子を見に来るとしても朝の出勤前か夕方の遅い時間だ。病院側も、性転換病の患者であれば余計に気をまわしてくれるのか、毎回きちんとノックをしてくれる。「新しい性」に早く慣れて適応を進めるという意味もあるのか、リハビリの医学的な観点から、肉体面、神経面、精神面のどの面でも、むしろ初期のソレは推奨する説もあるらしい。
 この後に予定がなければ、初瀬はまた自然な昂ぶりに身を任せてしまったかもしれない。
 が、今日は予定があった。
 朝ご飯と診察の後、確認した携帯電話に届いていたメール。
 『放課後お見舞い行くね』
 そんな件名のついた、ガールフレンドの佐藤美朝からのメール。
 昨日の夜、初瀬のメールを受信してすぐに、美朝は返事を書いたらしい。初瀬の母親から頻繁に様子は聞いていたようだが、メールの本文は初瀬の無事を喜び、初瀬の体調を心配し、学校が終わったらすぐお見舞いに行くという内容だった。その文章に変換ミスがあったりしたのは、約一ヶ月ぶりの初瀬のメールで美朝が感情的になった証だろうか。
 『見舞いはコンビニのバニラアイスで我慢してやる』
 初瀬は美朝からのメールを喜びつつ、以前通り深く考えずに、偉そうなメールを返した。
 これが午前九時頃のことで、一時間ほどリハビリをした初瀬は、今日もテレビの録画を見ながら雑誌を読み始めた。が、眠だるかったから、すぐに軽く二度寝をした。ついつい「自分の身体」のあの部分やこの部分を撫でてしとやかな指で弄んで、濡れた吐息を漏らして、『これがみあとエリナの身体だったら……』『みあもエリナも、少しはこういうことしてるかな……』といけない妄想にも浸ってしまったが、そのせいかとてもよく眠れた。鬱屈や虚しさも入り混じっているが、自分の服の中に手をさし入れて気持ちよくさわっているうちに、そのまま自然に眠りに落ちてしまうなんて、男だった時は知らなかったような体験だった。
 その後は、お昼に看護婦さんに起こされて昼食を食べて、細々とした検査をして、再び携帯電話を確認して。
 美朝は学校からすぐに返事を出していたようで、『もうなんでも食べていいの?』という主旨のメールが来ていた。
 美朝の指摘の通り、まだ少し食事制限がある。が、こういうのはノリが大事だと思っている初瀬は、美朝とのいつも通りのようなやりとりも嬉しくて、『食事制限なんて気にするな。おれは気にしない』と、また適当なことを書いて送信した。普段は毎日会ってなんでも直接言い合っていたから、初瀬は真面目に長いメールを書くのは苦手なのだ。
 その後の自由時間には、無理に自主的なリハビリをする気になれなくて、病室に戻ってまた雑誌を読んで。
 そして、ついさっき買い置きの分をざっと読み終えた初瀬は、念のためにサイドテーブルにTS病用の公的な身分証明書を用意して、現在、胸の奥にくすぶる鬱屈と欲情を抑えて、手持ち無沙汰にぼーっとテレビを眺めている。
 身体は本調子には程遠いから、結構眠だるい。今のこの時間は、ここ数日なら、身体を弄んで眠っていた時間だ。医者の説明によると、十代であれば一、二週間ほどで日常生活に戻れて、さらに一、二週間すれば激しい運動も問題がなくなるらしく、経過は順調とのことだが、まだ身体が重い。自己認識とのズレのせいか思うように動かせない時があるし、身体の重心やバランス感覚も変だし、元の身体と比べると泣けてくるくらい非力でひ弱だし、そのくせやたらと柔らかいし変にくにゃっと曲がるし、神経が過敏になっている部分もあるし、すぐ疲れる。
 これから美朝がお見舞いに来てくれると思うと、初瀬はあまり落ち着かない。早く会いたくて待ち遠しい。成り行きに任せるしかないと開き直っているから、いまさらどういう顔で会うかなんて悩んだりはしないが、そわそわしてしまうのをとめられない。
 しばらくして受付から内線で連絡が入った時、パジャマのズボンの上から自分のなめらかな内太ももを撫でていた初瀬は、胸がどきんと跳ねた。
 『同級生のお友達がお二人、佐藤さんと春日井さんという方がお見舞いにいらしてますよ』という言葉に、初瀬は『やっぱりエリナも一緒か』と思いつつ了承の言葉を返した。内線が切れると、初瀬はこみ上げてくる不安と抵抗と緊張を押し殺して、テレビを消して、二人がやってくるのをドキドキと待った。





 第二話-II 

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初稿 2012/03/05
更新 2012/03/05