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Boy's Emotion -AFTER STORY-

  Taika Yamani. 

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  その四
   二 「体育と英語と休み時間」


 駅から徒歩でも楽に間に合う時間だから、自転車だと余裕がある。朝の予鈴が鳴るよりもだいぶ早く、貴子とほのかは二年二組の教室にたどり着いた。
 ほのかは自分の席に荷物を置くと、昨日や一昨日同様、すぐ貴子の傍にやってくる。貴子は後ろの棚に体操服の入ったバックパックを放りに行こうとしていたが、そんな彼女が嬉しくて、棚は後回しにして椅子に座りなおした。緊張混じりながらも、無意識に微かに頬を緩ませて彼女と向き直る。
 ほのかもほのかで、ご機嫌そうに、貴子に他愛もない話をふってくる。
 話をしながら、ほのかは時々貴子の頬に手を伸ばしたり、髪を触ったり、腕を撫でるように引っ張ったり。相変わらずスキンシップもいっぱいで、貴子はまだまだドギマギさせられっぱなしだった。
 しかも、ほのかはここでいきなり、何を考えているのか、ほのか自身の髪型を変えることを貴子にせがんできた。昨日部活で言っていたことを、さっそく実践するつもりらしい。貴子は慌ててしまったが、「やりたくない」とか「嫌だ」と言うと嘘になる。冷静な時なら、貴子は自分でも、そんな自分の心理が始末に負えないと思ったかもしれない。
 「い、いいけど、どう、すればいいの?」
 「貴子の好きにしていいよ?」
 貴子ががんばって尋ねると、ほのかは笑顔で一番困る返答をして、貴子は言葉につまった。
 恋は盲目、という要素もあるのかどうか、貴子の目には、どんなほのかも魅力的に見える。いつものストレートな髪も自然で似合うし、体育の時のポニーテールも可愛いし、昨日のゆったりとした三つ編みのほのかもきれいだった。好きにしてもいいと言われても、簡単には選べない。
 困ってしまってあたふたする貴子の手を、ほのかは軽く笑って引っ張って、貴子を立ち上がらせた。
 「そうだなぁ、じゃあ、今日は昨日みたいな三つ編みにしてもらおうかな? 体育あるから、ちょっときつめにお願いね」
 ほのかはそう言いながら、入れ替わりに貴子の椅子に横座りをする。後ろ向きになって、後ろ髪をやや持ち上げた。シャンプーらしき清潔な香りが漂い、貴子の目の前にほのかのきれいなうなじが飛び込んでくる。
 「み、三つ編み……。やりかた、よくわからないよ」
 「え、そうなの? 簡単だよ?」
 どぎまぎしっぱなしの貴子に、ほのかは笑顔で振り向き、自身の髪を使って手順を教える。基本的には、ほのかの言う通り簡単で、三つの束を作って順に交差させていくだけだ。ほのかは「ね、簡単でしょ?」と確認をとると、再度貴子に背中を見せた。
 ほのかに再度促されて、貴子は手を伸ばした。おずおずと、ガールフレンドの艶やかで柔らかい髪を持ち上げる。
 貴子が髪に触れると、ほのかはくすぐったそうに身じろぎをする。
 そのせいもあってちょっと余計に時間がかかったが、貴子にとって嫌な時間ではなかった。人目もいっぱいなのに、貴子は根本的に、恋人といちゃつくのは楽しくて嬉しいと感じてしまうらしい。「彼女の髪をきれいに整える役目」と考えると変なプレッシャーまでかかってしまうが、「髪だけとはいえ彼女を好きに弄ぶ」というのは、なかなか心躍るものも、無意識のうちに感じていた。貴子は深く考える余裕などなく、戸惑う気分とともに浮き足立った気分で、どきどきしながら、ほのかが昨日やっていたように、首のあたりから、シンプルに太めに一本だけ編んでいった。
 貴子は髪を編むなんて、女の子の髪を編むなんて、それも好きな女の子の髪を編むなんて初めてで、上手くやれた自信はなかったが、編み終わってから「ありがとっ」と立ち上がる恋人の姿は、貴子の目にはとてもきれいにうつった。『おれのへたくそな三つ編みでも、脇坂さんはもともと可愛いから……』と一人で勝手に納得して、貴子はガールフレンドに見惚れる。そんな貴子の視線に、ほのかもちょっと照れたように、恋人に編んでもらった自分の髪をさわっていた。
 ほのかはすぐに、貴子を椅子に座らせて、自分は机にお尻を乗せる。照れ隠しなのか「貴子も今度カチューシャとかつけてみない?」と貴子の髪をつまむように撫でて、貴子をまたすぐにあたふたさせてくれた。
 多少時間がかかったから、どんどん教室に生徒がやってきていて、少し照れながらも楽しげにじゃれあう二人は、また今日も目立っていた。
 ほのかはほとんど人目を気にしていなかったようだが、貴子は恋人に夢中になりつつも、そんな外野の視線にしっかりと気付いていた。以前なら敏感に気付いても他人なんてどうでもよかったのに、特に男子の中には新鮮な髪型のほのかに見惚れているものもいるように思えて、貴子の胸はざわついた。
 ほのかが振り回してくれるから深く考えずにいられたが、過去の自分を振り返るまでもなく、ほのかを気にしている男が何人いても不思議はないと、貴子はよくわかっている。かつての「貴之」自身、どうしても好きな女の子のことを意識して、その姿を自然と目で追ってしまっていた。そんな自分の経験から、他の男の気持ちもわからなくもないのだが、むしろわかる分だけ、それがひどく気に障る。ほのかと恋人同士になった今となってはなおさらで、「おれの脇坂さんを見るな」とつい思ってしまう。自分にだけ向けられる彼女の笑顔も魅力的だが、他の笑顔も独占したい。単にまだ恋愛慣れしていないだけとも言えるが、貴子の独占欲は、多少偏狭的なくらいに強いとも言えるのかもしれない。
 しかも二限の体育が、昨夜の雨のせいで男子も体育館で、彼らの視線が貴子自身に向いているように感じたのも、また苛立たされた。ほのかが終始貴子の傍を離れなかったせいもあるから、単に自意識過剰なだけだったのかもしれないが、どう間違っても好意的な感情は抱けない。「二限の体育かったりー」という顔をして、女子など全然気にしていないような態度の男子もいるが、そんな連中も内心では何を考えているかわかったものではないことを、貴子はこれも自分の経験からよく知っている。それを悪いと言うつもりはないが、その対象が自分や自分の彼女であれば話が別だ。今の自分たちの性別と容姿では、ある程度はしかたがないと割り切るべきなのかもしれないが、男に性的な目で見られるのは、はっきり言って気色悪い。おかげで、貴子は夏の体操服の上にジャージまで着て、上下とも完全武装の冬の体操服だった。事前に更衣室で中のTシャツは脱いでいたが、運動の最中は少し暑かった。
 そういう意識は、他の女子にも少しはあるのだろうか。単に暑さが和らいでいるからかもしれないが、一昨日よりも冬の体操服を着込んでいる女子は多かった。
 が、女子は女子で、男子の方を見てあれこれ話をしたり、なにやら笑って言い合ったりしていたのだから、明らかに貴子とは感じ方が違う女子の方が多そうだった。彼女たちにとっては、自分たちが女子で男子が男子なのはもう幼い頃からずっと当たり前のことで、仮に少しは抵抗があるとしても、貴子のような嫌悪というよりは、思春期特有の照れや気恥ずかしさという感じで、やはり貴子が意識しすぎなだけなのだろう。授業の前後には男女一塊になってふざけあう一角もあって、共学校のどこにでも転がっていそうな、平凡と言えば平凡な光景が広がっていた。
 ちなみに貴子の恋人も、トップは夏服のままだったが、ボトムは冬のズボンをはいていた。貴子の知る限り、ほのかはこれまで特に男子を気にしていなかったはずだが、恋人ができたことで他人の目を少しは気にするようになったのだろうか。それとも単に気温に合わせているだけなのか、もしかしたら前回の経験から貴子の目を意識したのか。いずれにせよ、貴子にはほのかの気持ちはよくわからなかったが、『冬服の脇坂さんもやっぱり可愛い……』と相変わらずなことを思いつつ、間近でこっそりどきどきと彼女の姿を堪能した。他の男子たちを不快に思っておきながら、やっていることは彼らとあまり違っていない貴子だった。
 なお、前後の更衣の時間は、貴子はこの日もかなりドキドキしていたし、ほのかもじゃれつきたい心理もあったようだが、二人とも見て見ぬふりをするという、暗黙の了解が出来上がっていた。スカートを穿いたまま冬のズボンを着込む貴子の横で、ほのかも真似をしたのか、この日はスカートを脱がずにズボンへの着替えを済ませていた。傍から見ると意識しあっているのが露骨な二人で、かえって妖しい雰囲気と感じたものもいたようだが、一昨日の一件は、ほのかにもちゃんと教訓になっていたらしい。
 貴子は内心ちょっとがっかりしたが、なぜかほのかが隠したのはボトムだけで、トップの方は隠さずに着替えていた。
 『……脇坂さん、今日はしましまもようだ……』
 ここでもこっそりと横目で見て、しっかりとその姿を記憶に焼き付けた貴子である。貴子自身も、身体を熱くしつつ素直にTシャツも脱いで、短い時間とはいえまたハーフトップの下着姿を彼女にさらした。
 体育の授業自体は、比較的平穏に過ぎ去った。
 バレーボールは次回で終わりらしく、火曜日は基礎的なテストをすることと、その後は創作ダンスになることを開始時に教師から告げられて、貴子はちょっと遠い目をしたくなったが、すぐに試合になだれ込んだし、恋人が明るく構ってくるから不安定な気持ちも長続きはしない。
 「貴子、トスしてっ!」
 「う、うんっ」
 「てりゃ!」
 貴子がトスをあげたボールに、ほのかは変なかけ声を出して、しなやかな身体をいっぱいに使って、アタックをぶちかます。
 見事決まると、ほのかは「よし、やったねっ」とハイタッチの構え。息を弾ませて胸を上下させていた貴子は、自然に頬を緩ませて、手を伸ばして彼女のハイタッチを受ける。
 貴子の身体は、男だった時と比べると運動能力も全体的に低下していたが、女子としては平均以上で、充分にほのかのサポートができた。無意識のうちに以前の身体のつもりで動いてポカをしてしまうこともあったし、以前とは違いすぎる肉体感覚に今日も鬱っぽくなったりもしたが、貴子は少しでも彼女にカッコいいところを見せようと、真剣にがんばって身体を動かした。
 試合途中、貴子のやり方が悪かったのかほのかの三つ編みがほどけて、ほのかが手早くいつものポニーテールにしたりという場面もあったが、あたふたと謝る貴子と対照的に、ほのかはずっと楽しげな笑顔だった。
 女子の一部、特に一組の女子の一部は、露骨に貴子を嫌っている感じだったが、貴子に言わせれば人の好き嫌いはあって当然のことだ。ほのかの存在のおかげもあるのか、実害はなかったから、黙殺してすませた。相手にしてみればそんな態度も気に入らないらしいが、そんなの貴子の知ったことではない。気に入らないのはお互い様で、貴子の方も、先日の更衣室での出来事のように一方的に非難してくるような輩は好きにはなれない。
 二組の女子は、ずっとほのかの傍にいる貴子に、一部はやはりいい顔をしていなかったようだが、ここでもほのかのおかげか好意的中立以上という態度の生徒もいつのまにか増えていた。今風な女子である十番の長瀬あきこを中心としたグループなども、貴子が一緒にいる時でもほのかに気さくに茶化すように話を振ってくるようになっていたし、貴子やほのかと同じチームだった菊地愛梨も、一番貴子に険を持っていたが、その割には、試合中は貴子を普通にチームメイトとして扱っていた。まじめに一生懸命に身体を動かしているように見える貴子に、少しは騙されたのだろうか。貴子が充分いい戦力になるということも理解したのか、体育の時間だけは目をつぶって多少譲歩したらしい。何かと口調はきつかったが。
 そんな体育の授業も、前後の更衣の時間も、ほのかに振り回されるうちに、貴子の時間はあっという間に流れる。
 まだ付き合い始めということもあるのだろうが、ほのかはどこまでも話がつきないようで、些細なことから重いことまで話題にして、人前なのに堂々といちゃいちゃする。着替えの後には、ほのかは貴子にリクエストをせがんで再び髪形を変え、首のあたりで左右二つ結びにして、また貴子をドキドキさせてくれた。
 そんな彼女が内心嬉しい貴子は、彼女と一緒にいる時は彼女以外眼中にないと言える状態だったが、授業が始まるとさすがに少しは冷静になっていた。
 自分の斜め後方の席のガールフレンドのことはどうしても気になるし、あれこれ思い悩むことも多いが、そんなことばかりに気をとられていたら授業にもついていけなくなる。体育の後で多少だれやすいが、なんとかがんばって意識を切り替えて、授業に集中する。
 三限の英語の授業、この日は貴子の列が教師に指名される順番だという、現実的理由もあった。
 滅多に冗談を言わない堅物男性の担当教師は、毎回列単位で生徒を指名して、教科書を読ませたり問題に答えさせたりする。ベランダ側から二列目、前から二番目の席の貴子は、授業の前半に、教科書の朗読を指名された。
 「では、ミス・ホヅミ」
 ミスターではなくミスと呼ばれて、貴子の心はマイナス方向に動いたが、いちいち顔や態度には出さない。無造作に返事をして立ち上がり、教科書の指定された範囲を読み始める。
 仕事や海外旅行のために英会話を覚えたという母親たちに鍛えられているおかげで、貴子は英語は得意な方だし、嫌いでもない。時々、正確な発音に迷う単語にぶつかるとテンポが遅くなるが、貴子は母親のとある友人から、英語についての心得を教わったことがある。
 『いい、たーくん。英語を話す時は、発音とか抑揚が恥ずかしいとか言ってないで、少しくらい間違ってても勢いで押し通すのがいいのよ。押し通してから、ちゃんと通じているか念を押して、逆に話を聞く時とかも、自分も相手も正確に理解できるまで何度でも聞き返すの。たいていはなまりってことですむのに、変にためらうのが一番いけないんだから』
 英語の流麗な発音というものは、日本語の趣とはあまり相性がよくない。彼女に言わせると、日本人が英語が苦手な最大の要因は、完璧な発音や完璧な文法に拘ったり、誤りに対して羞恥を覚えたりするせいだということになるらしい。
 この教えはどちらかというと日常会話での心得と言えるが、おおむねそういうものだと思い込んでいる貴子は、多少間違った発音であっても、教え通りに文字通り勢いで押し通した。
 他国語を話す時は、母国語の時と違う声音になりがちだが、その勢いのおかげか、昨夜試した歌声ほどには気にならない。貴子は今の自分の声にもまだ情けなさや鬱っぽさも感じてしまうから、抵抗がないわけではないが、少なくとも他の授業であてられた時よりはましだった。好きな女の子の前と考えれば緊張もしてしまうが、以前はこういう時が彼女にアピールできる数少ない機会だった。体育の時間に引き続いて、貴子はここでも彼女にいいところを見せようとばかり、こっそり気合を入れて、落ち着いた口調で、なるだけ大きな声で英文を読み上げた。
 透明感のある華奢な貴子の声が、ゆったりと教室中に響き渡る。
 外は雲っているが、雨雲と言うよりは白に近い、薄い灰色の雲が空を覆っている。予報通り雨が降っても、このまま少しずつ晴れていっても、どう転んでもおかしくはないような空模様。電灯とともに外からの光もあって、三十二人の生徒が詰め込まれている教室は充分に明るい。やや湿度は高いが、気温は穏やかに落ち着いている。
 そんな教室の中で、一人起立して、すらりと背筋を伸ばしたきれいな姿勢で、胸の正面に教科書を広げ持って、丁寧な口調で英語の教科書を読んでいる生徒。可憐な桜色の唇を動かして、繊細な甘い声で、はっきりとした発音で、異国の言葉を紡ぐ一人の女子生徒。
 やっていることは男だった時と何もかわりがないのに、まわりに与える印象、まわりが受ける印象がまったく違うのは、これはもう人のサガとでも言うべきなのだろうか。
 服装、装飾、髪型。口調、姿勢、仕草、表情。声、容姿、スタイル。そして性別。
 その表層的な印象が人の本質を示しているとは限らないのだが、その印象を完全に無視して人を判断することは難しい。
 普段の貴子のように他人にあまり関心を払わない生徒もいるだろうから、貴子のことを気にもしていない生徒もいるはずだが、貴子が教科書を読み始めるなり、教室の雰囲気は微妙に変化していた。今の貴子は、確実に目立っているし、少し浮いている。貴子が男だった時はほとんど気にもしていなかったであろう脇坂ほのかも、恋人のきれいな後ろ姿を見つめて、その甘い声の響きにじっと耳を傾けていた。



 「グッド、次からはもっと大きな声で読むように」
 文章の区切りで、教師はそう言って、貴子を止める。
 声は訓練や経験によって鍛えられていき、人は高低いくつかの声を自然に使い分けるものだが、もしかしたら貴子は、今の自分の声のあり方や出し方をまだよくわかっていないのかもしれない。
 もっと大きな声で、という言葉に、貴子はわずかに瞳に暗い影を浮かべつつ、無言で椅子に腰掛けなおした。
 教師は貴子が一部強引に押し通した発音の間違いを指摘し、実際に発音して聞かせてから、順番に貴子の後ろの生徒に翻訳を指定した。経営がしっかりしている学校だけあって、教師陣も優秀な人材がそろっている。わかりやすいが面白味はない、という評価の英語の授業が、いつも通りのペースですすむ。
 教師は時間いっぱい授業を行ない、チャイムが鳴る寸前でやっとチョークの手を止めた。次回の予定の範囲などを告げて、チャイムが鳴り出すと同時に、日直の号令を待たずに、一方的に挨拶をして教室を出て行く。
 教師がいなくなると、みな気を抜いて賑やかになるが、まだ半数以上はノートを取っている最中だった。いつもぎりぎりまで授業をする英語の教師に、愚痴めいた言葉も飛びかう。
 貴子もノートを取っていたが、心はそわそわして全然落ち着いていなかった。砕けた空気になる他の生徒たちと対照的に、貴子は休み時間の方が緊張してしまっていた。
 昨日も一昨日も一限の後も、ほのかは授業が終わるなり貴子のところにやってきた。何度か後ろから抱きつかれたりもしていて、それが嫌なはずがない貴子としては、どうしても感情が高ぶってしまう。
 「わ、こら、柳、消すの早いぞ!」
 「はは、さっとと書かないと全部消すよ」
 日直の十五番の男子生徒が黒板の文字を前半の方から消し始め、まだ途中の生徒たちが少し騒ぐ。
 手早くノートを取り終えた貴子は、ゆっくりとペンケースに筆記用具をしまい、ノートと教科書を閉じて、机の中の次の授業のものと入れ替えた。
 もういつ、恋人がやってきてもおかしくはない。
 貴子の心臓は痛いくらいに高鳴る。
 なのに、ほのかは全然やってこなかった。
 五秒経ち、十秒経ち、どきどきしすぎて胸が痛くなってきた貴子は、待ちきれなくなった。「恋愛もクールにスマートにカッコよく」なんて言っていられずに、少し背伸びをするように後ろを振り返った。
 貴子の恋人の席は、一つ右横の二つ後ろの席。
 のはずなのだが、その席は無人になっていた。
 「え……?」
 貴子は慌てて、そんな自分が他人にどう見えるのかなんて気にする余裕もなく、さっと教室を見回す。
 いつのまにか、ほのかは教室を出たらしい。休み時間の喧騒に溢れている教室内の、どこにも彼女の姿がなかった。
 ここで貴子に自信があれば彼女に不満を抱いたのかもしれないし、余裕があれば休み時間に恋人が別行動を取るくらい気にならないのだろうが、貴子が襲われたのは強い不安だった。唐突に「え、もう飽きられた?」と、かなり一足飛びな考えが貴子の脳裏をよぎる。そんな貴子を母親やその友人たちが見たら、あまりの余裕のなさに、笑ったり呆れたりする前に驚いたことだろう。
 『いや、なにか用事があっただけかもしれないし、単にトイレかも。きっと待ってればすぐ戻ってくる』
 貴子はすぐに自分にそう言い聞かせたが、トイレならトイレで昨日のほのかなら強引に誘ってきたし、用事があるならあるで一言なにかあるはずだった。数秒前とは違った意味で、貴子の鼓動が暴れだす。
 貴子は元から色白な顔をやや青白くして、机の中から読みかけの小説を取り出した。大人しく待つことにしたとも、体裁を繕ったとも言えるが、「自分から探しに行く」という選択肢を思いつきもしなかったのだから、貴子は積極には程遠かった。
 本を広げたが、全然文章を追えない。
 ぐるぐると、ネガティブな思考だけが渦巻く。
 「大丈夫、すぐ戻ってくる」と、心の中で何度も何度も自分に言い聞かせたが、強い不安が、じんわりと貴子の心を苛んでいく。
 そんな貴子の耳に、教室後方の入り口側から、不意にほのかの名前を呼ぶ声が飛び込んできた。
 貴子の位置だとよく聞き取れなかったが、「あら、ほのかさんはいないのかしら?」というような発言で、続いて「あれ、穂積さんと一緒じゃないの?」「あ、授業終わってすぐでてったよ」とクラスメートたちの声も流れる。自分の恋人を話題にされて、貴子は振り向いて後方の入り口を見やった。
 ほのかが学校の有名人なせいもあって、ほのかの知り合いも、貴子が顔は知っているという存在が少なくない。入り口に立っていた別のクラスのその女子二人は、ほのかを生徒会長に担ぎ上げた、新生徒会の女子の副会長の鳥羽瑞希と、同じく会計の寿奈央だった。
 ここ三日の昼休みの生徒会のことは、貴子はほのかから話を聞かされているが、新生徒会は色々と忙しくしているらしい。昨日までは昼休みに集まっていたが、今日からはそれがなくなっているから、二人はなにか用事があって新生徒会長のほのかに会いに来たのだろうか。
 『脇坂さんも、なにか生徒会の用事があって、鳥羽さんたちとすれ違いになったのかな……?』
 貴子は顔を本に戻しながら自分を慰めるようなことを考えて、ちょっとだけ気を抜いた。
 「おれに一言もなく」と思えば胸がずきりと痛むが、いくら恋人同士だからといって、休み時間の行動まで報告を求めるのは行きすぎだ。恋人への独占欲それ自体は、ある程度までは自然なものかもしれないが、度がすぎると鬱陶しい類のものになる。貴子は強く意識して、気持ちを強引に切り替えようと試みた。
 が、そう簡単に気持ちが切り替われば苦労はしない。
 不安に苛まれながら、貴子は本を眺める。
 「穂積さんって、あの本を読んでる大人しそうな子よね?」
 「うん。鳥羽さん、見るの初めて?」
 「いいえ、遠くからならあるわ。さすがにこれだけ目立つ子だし、おまけに、昨日一昨日と脇坂さんとずっと一緒だしね」
 「はは、あの二人、ところ構わずべたべたしてるからなぁ」
 「ええ、でもほのかさんもそうだったけど、男だったって、あの子もやっぱり見ただけでは全然わからないわね」
 教室の入り口の傍で、鳥羽瑞希たちは同じ中学出身の松任谷千秋や傍にいた男子たちと雑談に興じるが、教室の他の会話に混じって、貴子の席では細かい話の内容までは聞き取れない。
 しばらくして、ほのかを待たずに瑞希たちはいなくなった。
 貴子はそれに気付いていたが、他人のことはどうでもいいことだった。本を眺めて、そわそわと恋人だけを待つ。
 じれったく、貴子の時間が流れる。
 賑やかに休み時間を楽しんでいるクラスメートたちの声が、なんだか妙に耳障りだ。ほのかといる時はあっという間なのに、ほのかに置いてけぼりにされたほんの数分間が、とてつもなく長い。
 「お、脇坂さん、さっき副会長が来てたぜ」
 「え、小嶋先輩がわざわざ? なんだって?」
 十分間の休み時間が半分ほど過ぎたところで、ようやくほのかは戻ってきた。
 クラスメートの声と、それに返事をする彼女の声と。
 神経が過敏になっていた貴子は、即座に反応して顔を上げた。すぐにさっと、彼女の声がした方を振り向く。
 瞬間、貴子の鼓動は跳ねた。
 なんの用事でどこに行っていたのか、後方のドアから入ってきたほのかは、しっかりと貴子を気にしてくれていた。振り向いた貴子とばっちり目が合い、彼女はなぜか一瞬ちょっとはにかむようなしぐさを見せたが、すぐににっこりと明るい笑みを向けてくる。貴子はなんだか泣きそうになるくらいほっとして、全身から力が抜けてしまった。
 「あ、新生徒会の方だよ。鳥羽さんと寿さん」
 「ああ、鳥羽さんたちか」
 彼女の存在に一喜一憂し、彼女の笑顔一つで、貴子の心は簡単に浮き立つ。
 貴子はすぐに耐え切れなくなって、視線を本に戻した。
 飽きられたりしてないという安堵と、ぶり返してきた緊張と、自分から彼女の元に駆け寄りたくなるような衝動と。
 「鳥羽さん、なんの用か言ってた?」
 貴子は当然ほのかを無視したわけではないが、その貴子の動きは、露骨に視線を外したように、ほのかには見えたらしい。貴子の態度を緊張や衝動とは受け取らずに、ほのかは貴子の背中の向こう側で、少し不満げな顔をした。
 「いや、脇坂さんいなかったから、昼休みにまた来るってさ。急ぎじゃなかったみたいだな」
 「そっか、後で確認してみるね。ありがとう」
 声をかけてきたクラスメートたちとそれだけ言葉を交わして、ほのかは教室を歩く。
 体育の後に髪を二つ結びにして少し幼い印象になっている彼女は、自分の席をあっさりと素通りする。そのまままっすぐに貴子の席に突撃し、そしていきなり、斜め後ろから貴子に抱きついてきた。
 「貴子、お腹空いたー! 一人で本読んでて楽しい? お腹空かない? ぼくもうお腹ぺこぺこだよっ」
 充分予想の範囲内のほのかの行動だったが、貴子が素直に喜ぶには、ほのかの口調はどこかきつくて一方的だった。おまけに話題も脈絡がない。
 貴子は喜ぶより先に慌ててしまった。なんとか本を閉じて顔を上げて「う、うん、もう四限だからね」と応じたが、ただでさえか細い声はかすれて上ずった。
 「あ、脇坂さんたちも食べる?」
 そんな貴子をさっきから気にしていたのか、ほのかの言葉に、貴子の左隣の席の女子生徒たちが反応した。
 貴子の隣席で副学級委員の奥野杏那と、調理部員の清水春華と、去年「貴之」と同じクラスだった芹沢瞳の三人で、彼女たちの前には市販のエアチョコの箱が広げられていた。次の四限が終わればランチタイムだが、二限に体育もあっただけに、みなもお腹が空いていたらしい。
 「わ、いいの? 食べる食べる〜!」
 「杏那、いいよね?」
 ほのかに声をかけた清水春華は、お菓子を持ってきた奥野杏那に確認を取る。副学級委員の奥野さんは笑って頷いて、チョコの箱を持ち上げた。
 「どうぞどうぞ。あ、でも、二個ずつくらいにしておいてね」
 「って、チョコか! ごめん、ぼく甘いのアウト」
 貴子から身体を離して喜びかけたほのかは、チョコの絵柄の箱にがっかりな顔をして、人差し指と人差し指で小さなバツの字を作った。
 「あ、そうなの?」
 「脇坂さんって、甘いのダメなの?」
 奥野杏那と芹沢瞳がそう口にする横で、清水春華が「これ、そんなに甘くないよ?」と言葉を添えるが、ほのかは笑って首を横に振った。
 「お腹空いてるけど、今はチョコって気分じゃないから止めておく、ごめんね。あ、貴子の分だけもらっていいかな? 貴子、食べるよね?」
 「え? んと……」
 「うん、どうぞ。穂積さんは甘いの平気なの?」
 「穂積さん、甘いの好きみたいだよ」
 奥野杏那の問いに清水春華が答え、ほのかは「貴子、お腹空いてない? いらない?」と貴子をせっつく。
 「ん、ちょっとは空いてる、けど……」
 恋人の機嫌がよくわからない貴子は、あたふたしながら「でも昼まではもつよ」と続けかけたが、ほのかは最後まで言わせてくれなかった。
 「うん、じゃ、奥野さん、一個もらうね。ありがとう」
 ほのかは奥野さんの手の中の箱から、一口サイズのチョコを一個つまんで、にこりと礼を言う。奥野さんも「どういたしまして」と笑って応じる。
 そんなほのかに、さらに後方の男子生徒たちまで反応した。
 「脇坂! 腹減ってるならおにぎりせんべいあるぜ! 食うかい?」
 「わ、食う食う!」
 ほのかの声が大きすぎたのか、それとも彼らが聞き耳を立てていたのか。ほのかはその男子に「ありがとう、ちょっと待ってて!」と言葉を投げてから、貴子に向き直った。
 「貴子、あーん」
 「…………。え?」
 「ほら、あーんして?」
 ほのかはここでも、また昨日の再現をしたいらしい。
 貴子は男連中の目が少し気になったが、やっぱり嬉しくないと言ったら嘘になる。さっきの不安の反動もあるのだろう、素直な気持ちに従って、貴子は小さく「あーん……」と言って、口を開いた。
 ほのかは昨日のしかえしは後日にとっておくことにしたようで、ひょいとよけたりはせずに、にっこり笑って、貴子の口の中に、指ごとチョコを放り込んだ。ほのかの指が、微かに貴子の唇にまで触れる。
 チョコを放して指を引くと、ほのかはちろりと自分の指先を舐めた。
 「…………」
 いつのまにか、周囲の面々はシーンと静まり返っていた。昨日部活で散々目撃している清水春華も含めて、外野はうわぁという顔でそんな二人を見やったり、赤くなったり、気に食わなそうな顔をしたり、目を逸らしたりしていた。廊下の後ろ側の席でも、宮村静香が羨ましそうに笑っていたり、藍川志穂が苦笑したり、松任谷千秋が天井を見上げたりしている。
 「美味しい?」
 「ん……」
 貴子は頬の熱さを自覚しつつ、素直にコクンと頷く。
 ただでさえ、こうやって食べさせてもらうと、甘い気持ちで胸がいっぱいになる。そうでなくとも、空腹という名前の調味料もあって充分に美味しい。運動もしているし勉強で頭も使っているせいか、身体も糖分の摂取を喜んでいる。
 「貴子からも、ちゃんと奥野さんたちにお礼言わなきゃダメだよ」とほのかは笑って、声をかけてきた男子たちの方へと移動した。
 「桜井くん、お待たせー」
 「お、おう」
 貴子は恋人を気にしつつ、まだ口の中に半分チョコを入れたまま、身体半分で奥野杏那たちに向き直った。照れもせずにまっすぐに、貴子は華奢な声で率直に言葉を紡ぐ。
 「奥野さん、ありがとう」
 「あ、ああ、うん、気に入ったみたいでなによりよ。まだもう一、二個ならいいけど、いる?」
 「いや、もういいよ」
 「そんなに甘くなかったでしょ?」という清水春華の問いに、貴子はチョコを味わいながら「そうだね」と短く答えたが、『もっと甘ければもっといいのに』という自分好みの感想までは、相変わらず付け加えたりはしない。もう春華たちとの会話はそこで終わりというふうに、ほのかの方に身体ごと視線を投げた。
 「おにぎりせんべい」というお菓子は、ほのかのお気に入りの一つで、関西の方では珍しくないらしいが、非常に残念ながら関東の方では取り扱っている店が少ない。声をかけてきた男子に「またわざわざ買いに行ったんだね」と明るく話しかけたほのかは、すぐにお菓子を袋ごと受け取って、「これ全部いいの?」と彼らと向かい合っていた。
 「ああ、余るなら、穂積――さんたちにも分けてやりなよ」
 「ん、そうだね、ありがとう」
 愛嬌があって可愛い女子は、ほっといてもチヤホヤされる傾向がある。見た目がきれいなほのかは、黙って立っていれば近寄り難い雰囲気にもなるのだが、いつもよく笑って男子にも気さくだから、男友達も少なくはない。ほのかはそのデメリットも知っているのかもしれないが、メリットも充分に知っているらしかった。先日の暴露話があるせいか男子生徒たちはどこか少しぎこちなかったが、ほのかは明るい笑顔でお礼を言う。
 一学期の頃から、「貴之」とは無関係に何度も繰り返されていたような、ありふれた光景。
 自分以外の男に簡単に笑顔を見せるほのかに、貴子はまたざわざわと狭量な嫉妬を覚えるが、嫉妬深い男は嫌われると無意識に考えて、感情を押し殺す。
 まわりの男子はまだ何かほのかに構いたそうな様子だったが、ほのかは戦利品を覗き込みながら、すぐに貴子の元に戻ってきた。ちなみに、残された男子たちの方では、女子の十番の長瀬さんなどが「桜井、脇坂たちだけなの? あたしたちの分は?」とニヤニヤと騒いだりしていたが、もう貴子の眼中には入っていない。
 「一人一枚、には、ちょっと足りないけど、奥野さんたちも食べる?」
 「わたしはいいよ。チョコで充分お腹の足しになったし」
 「わたしも、もう充分。脇坂さんの分、なくなっちゃうでしょ」
 ほのかに問われて、春華たち三人は笑って口々に答える。ほのかは「貴子は? まだ足りないよね?」と貴子にも問いかけながら、貴子の前の空席の椅子に横座りした。
 「ん、じゃあ、一枚だけ……」
 「よし、また食べさせてあげるね」
 「…………」
 一日一回の約束のはず。
 と貴子はちらりと思ったが、あっさりと誘惑に負けた。笑顔のほのかにせっつかれて、貴子は素直に「あーん……」と、小さな口を開く。三角形の形をしたしょうゆ味のおにぎりせんべいを、ほのかは手で小さく割ってから、貴子の口の中に運んだ。
 ただでさえ目立つ二人なのに、相変わらず人前でやるにはちょっと親密すぎる二人の態度。
 頬を薄桃色に染めた貴子は、照れも混じっているようだが傍から見ると露骨に嬉しそうで、おまけにとても幸せそうにもえて、本人たちよりも、またまわりの方がなんだか照れくさそうな雰囲気になった。二人とも見目が麗しいために、「この二人が元男……」と遠い目をしたり、女子でも見惚れるものがいたり、嫉妬や羨望を感じるものも混じっていた。男子の中には、やさぐれたり、逆によからぬ妄想をかきたてられたものもいたらしい。
 貴子に食べさせたほのかは、自分もパリッと無造作におせんべいをかじる。
 ほのかの艶やかな唇が動いて、白くきれいな前歯が垣間見える。
 「…………」
 本来あまり色気があるとは言いがたいはずの行動なのに、そんな彼女に一瞬色気を感じてしまうのは、貴子の感性や思考の方に問題があるのだろうか。だが貴子の目には、そういうほのかもとても可愛く映る。
 「ちょっとお茶が欲しくなるね」
 「う、うん」
 貴子がドギマギしながら口の中のものを飲み込と、ほのかはおせんべいの半分をまた貴子に食べさせくれる。
 「はい、あーん」
 「……あーん……」
 周囲の視線を完全に無視した二人の世界を作って、本日三度目のやりとり。
 貴子に食べさせてあげたほのかは、笑ってまたおせんべいをかじって、それからチロッと指を舐めた。お菓子の袋を貴子の机に置くと、何気ない仕草で、貴子が読んでいた本を取り上げる。
 「貴子って、暇あるといつも本読んでるよね」
 貴子がかけていた近所の本屋さんのブックカバーを外して、ほのかは表紙を覗き込む。
 「あっぷふぇるらんとものがたり。面白い?」
 ほのかはタイトルを読み上げた後、何気なく本を裏返して、樟栄高校図書室のバーコードシールを見つけた。
 「あ、学校のなんだ」
 「う、うん……。まだ途中だけど、わたし、には、当たりの方」
 「ふーん、どんな内容?」
 「どう、言えばいいのかな……。勇敢な男の子と健気な女の子の、冒険小説……?」
 貴子は少し悩みつつ、本文の中の言葉を引用して、やや自信なさげにか細い声で答える。
 舞台は二十世紀初頭の中央ヨーロッパ、大国に囲まれたアップフェルラントという架空の小国での物語。孤児でスリの少年が悪漢に捕まっている少女に出会い、大人たちの力も借りて彼女を助け、大国を巻き込む陰謀に立ち向かっていくという冒険活劇で、こういう状況でなければ、貴子は一日で読み終えていたかもしれない。
 「勇敢な男の子と健気な女の子?」
 貴子の口から飛び出した声が可愛らしく聞こえたのか、ほのかは反復して軽く笑った。
 「貴子ってそういうのが好きなの? ジャンルで言えば、ボーイ・ミーツ・ガールの冒険物みたいな?」
 「え、あ、特に、そういうわけでもないよ。たまたま、今読んでるのがそんなのなだけで」
 「あれれ、じゃあどういうのが好き? そうだな、ぼくが知ってそうなの、なにかある?」
 貴子は問われるままに、少し考えてから、国内外の作家や作品の名前をいくつか挙げる。意図的にメジャーな名前を選んだから、半分以上ほのかに通じたが、織り交ぜてみたマイナー系の作家の名前はやっぱり通じなくて、貴子はちょっとがっかりだ。
 「いっぱい読んでるんだなぁ、マンガと実用書しか読まないぼくとは大違いだね。読書の秋だし、ぼくもなにか読んでみようかな? なにかオススメある?」
 「あ、どういうのが読みたい?」
 「面白い奴!」
 「…………」
 貴子が反応に困ると、ほのかは軽く笑って、貴子の読みかけの本をぱらぱらとめくった。
 「これはどう? アクション系で面白いんでしょ?」
 「え、えと、アクション、というわけでもないよ、マーク・トウェインのトム・ソーヤの冒険とか、たぶんそっち系統」
 「ふーん? 貴子が読み終わったら借りてみようかな?」
 「あ、うん。じゃあ、急いで読むね」
 貴子はちょっと嬉しさを滲ませた表情で頷き、ほのかは「いいよ、急がないから、ゆっくりで」と笑って、本を置いて、もう一枚おせんべいをかじった。
 しばらく二人、お互いが過去に読んだ本の話をする。
 貴子もそれとなく問いかけると、ほのかはマンガと実用書しか読まないと言いながらも、SF小説なら多少は読んでいるらしい。機械設計関係の仕事をしているという父親の影響もあるのだろうか、「中学の時、毎朝強制で読書の時間があったからね」と笑うほのかは、その時にH・G・ウェルズやジュール・ベルヌ、アイザック・アシモフなどの古典的作品をいくつか読みかじったという。
 「あ、アイザック・アシモフは、黒後家蜘蛛の会シリーズは面白いよね……」
 「ん、なにそれ。ぼくが読んだのロボットの奴だよ。くろごけぐものかい? シリーズって、なに?」
 「え、えっと、知らない……? いろんな分野の専門家と給仕が、ご飯を食べたりしながら謎解きをするっていう、短編の推理もの」
 世界初のタイムマシン小説の作者と言われるH・G・ウェルズの名前は、貴子も聞いたことはあるが、あいにくと読んだことはない。ジュール・ベルヌも、いつか一通り手を出してみようと思いつつ、今のところ「十五少年漂流記」を読んだことがあるくらいだ。
 ロボット三原則で知られるアイザック・アシモフの作品は、貴子も読んだことがあるし本を持っていたりするが、貴子にとってアイザック・アシモフはSF作家ではなく、推理小説作家だった。ロボット物も読んだことがあるが、好みにあわなかったのか読んだ時期が悪かったのか、貴子の記憶にはあまり残っていない。
 「ご飯食べながら推理するの?」
 貴子の表現は、嘘ではないのだが、またどこかほのかのツボに触れたらしい。ほのかはなんだか可笑しそうに笑う。笑いながら詳しいところを問いかけてきて、貴子はあたふたしながらもう少し詳細に答えた。
 黒後家蜘蛛の会――the Black Widowers――という名前の、女人禁制の月例の夕食会。毎回違うゲストが持ち込む謎を会のメンバーが推理し、最後に給仕のヘンリーが正解を指摘していくという筋の短編小説だ。正確には、食べながらというよりは、食後にお酒を飲んだりしながら謎解きをする。貴子は現代のミステリー物は愛憎どろどろと感じてあまり食指が動かないのだが、この作品は、今時の推理小説と違って毎回殺人事件が起こったりはしない。一本一本が短いから気軽にも読みやすい、貴子好みのシリーズだ。
 「貴子のオススメなら、ぼくもちょっと読んでみようかな?」
 「あ、読みたい?」
 ほのかの言葉に、貴子の頬は甘く緩んだ。
 「たぶん図書室にもあるけど、なかったら貸すね」
 「持ってるんだ? 持ってるんなら、あっても貸してよ」
 「あ、そうだね。じゃあ、明日、持って来るね」
 彼女が社交辞令なのか本気で興味を持ったのかよくわからないが、貴子は真剣に真面目に受け答えをする。
 「急がなくていいけどね」
 ほのかは軽く笑って、自然な動作で、ゴミとなったお菓子の袋を持って立ち上がった。
 「そろそろゴミ捨ててくるね」
 「え……? あ」
 貴子は一瞬、そんなのどうでもいいのに、と思った後、時間に気付いた。教室正面の時計を見ると、休み時間がもう終わろうとしている。
 貴子はとっさに、またねを言いかけた恋人の手を強くつかんだ。
 「さっき!」
 「わ? なに?」
 ほのかは足を止めて、少し驚いたような笑顔を貴子に見せる。
 「さっき、どこ、行ってたの?」
 「ん? さっきって、授業の後? トイレだけど?」
 ほのかは笑顔のまま、微かに首を斜めにして、あっさりと事実を言う。貴子はほっとして、安堵と不満のまぜこぜになったような心理を味わった。
 「あっ、ご、ごめん……」
 自分がほのかの手をとったことに気付いて、貴子は慌てて彼女から手を放した。彼女はあまり気にしていないようだが、自分がデリカシーのない発言をしたことにも気付いて、貴子はまたあたふたしてしまう。この日の彼女がアノ日の一日目だということに気付いていたら、貴子はいっそうあたふたしただろうが、貴子が気付かされるのは明日の話だった。
 そんな貴子の態度に、ほのかは急に、ニコニコとニヤニヤの中間のような、少し人の悪い表情を浮かべた。
 「なぁに、貴子、昨日嫌がってたくせに、一緒に行きたかったの〜? もしかして、ぼくいなくて寂しかったとか〜?」
 ほのかは貴子から解放された手を貴子の方にのばして、つんつんと頬をつつく。
 貴子は少しのけぞったが、逃げない。図星をつかれて頬をさっと桃色に染めて、冷静になれずに馬鹿正直な言葉を口走った。
 「わ、脇坂さんが、黙っていなくなるから……」
 「えー、それって、どこ行くにも貴子に教えろってこと〜?」
 多少相手を束縛するような貴子の言葉なのに、楽しげに笑いながら、ほのかは言う。まだ付き合い始めたばかりだから、鬱陶しいと感じるより先に、嬉しいと感じるのだろうか。
 「そうは、言ってない、けど……!」
 「ぼくは別にいいけどね〜? でもそれって、貴子もどこに行くにも全部教えてくれるってことかな〜?」
 「え、いいよ。お、わたし、は、それでも」
 「うわ、いいの? 貴子って、もしかしてちょっと痛い女の子?」
 「…………」
 「あは、うそうそ。冗談だよ! 貴子が痛い子ならぼくも痛い子でいいや」
 ここでチャイムが鳴り出す中、ほのかは笑いながら、貴子の小さな鼻をぷにっと押して手を離した。
 ちょっと痛くて、貴子は反射的に片手を鼻に当てる。あまり冗談になっていないほのかの言葉に、つっこみを入れる余裕もない。
 手で鼻を押さえて微かに潤んだ瞳で見上げてきた貴子に、ほのかもかなり誘惑を感じたようだが、もう時間がない。ほのかは、ぽんぽんと、優しく貴子の頭に二度触れて、「じゃ、また後でね」と、名残惜しそうに歩き出した。
 貴子はまたとっさに手を頭に移動させるが、すでにほのかの手は離れていた。
 「う、うん、また後で……!」
 貴子が急いで振り向いて言うと、ほのかは二つ結びにした長い髪を揺らして、彼女も身体ごと振り返った。
 貴子の胸が、ドキンと高鳴る。
 ほのかは、貴子以外に向けることのないような、きれいな微笑みを、貴子に向けてくれる。
 そのまま、ほのかはなにも言わずに、笑顔でくるりと身を翻した。
 『……休み時間が、もっと長ければいいのに……』
 痛い女の子呼ばわりされて鬱屈しかけた貴子の気分は、いつのまにか高揚していた。ほのかの背中を見送りながら、最近いつも思ってしまうことを、貴子は今日もまた思う。不思議な切なさの混じった胸のドキドキがおさまらない。
 たった今、好きな女の子に撫でられたばかりの髪も、ちょっと痛かった鼻も、なんだかくすぐったい。
 その分、これから授業があるのが凄くもったいない。
 すぐに教師が教室に入ってきた。みな慌しく自分の席に散っていく。
 「きりーつ」
 教師が教壇に立ち、男子の日直が起立礼着席の号令をかける。
 それに従った後、貴子は座りながら、ちらりと後ろを振り向いた。
 と、ゴミを捨てて無事に席に戻っている恋人と、またばっちり目があった。
 机の中から教科書とノートを取り出そうとしていた彼女は、貴子に気付いて笑みを見せて、人差し指でちょいちょいと、教師の方を指差した。
 『お、こ、ら、れ、る、よ』
 彼女の艶やかな唇が、ゆっくりと動く。
 貴子はなぜか胸が熱くなって、小さな頷きを返して、視線を正面に戻した。その頬はまた少し熱を帯びていた。
 そんな二人をさっきから目撃させられていた外野は、また色々な感想を抱いていたが、やはり貴子の眼中には入っていない。貴子はがんばって意識を切り替えて、少しでも勉強に集中しようと試みた。








 to be continued. 

※ 「おにぎりせんべい」
 株式会社マスヤの商品。

※ 「アップフェルラント物語」
 田中芳樹(1952-)著。1990年徳間書店。1995年徳間文庫、2003年光文社文庫など。

※ 「黒後家蜘蛛の会」
 アイザック・アシモフ(1920-1992)著。1972年から1992年に渡って発表された計六十六編の短編シリーズ。邦訳は創元推理文庫「黒後家蜘蛛の会1〜5」(訳:池央耿。一巻十二編、計六十編で、六編が未収録)。

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初稿 2008/05/05
更新 2008/06/08