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Boy's Emotion -AFTER STORY-

  Taika Yamani. 

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  その四 「彼女にくびったけ」-前編-
   一 「朝の通学路」


 唐突だが、幼児や小中学生向けの児童書の中には、著名な作品を平易にリメイクしたものが数多く存在する。字が大きくて、漢字が少なくて、ページも少なめで、子供が読むには厳しい描写が削除されて、時々大人に都合よく編集されている、「整形」された文章。
 乳幼児期の絵本から始まり、幼児向けの童話や小学校の図書室のそんな児童文学全集などを経て、高学年の頃にはオリジナルにも手を出すようになっていった穂積貴子は、「どうせなら先入観なしで最初からオリジナルを見たかったな」と、そう思う部分がある。もちろん、有名な作品はそれだけで先入観が入るものだし、翻訳本やリメイク版に先に接することも一つの楽しみ方だが、中には原書の雰囲気とかけ離れたような作品もあって、その弊害が大きい場合もある。本というものは読む時期が違えば感じ方が違うことも多く、幼い頃から著名な作品に触れておくのは悪いことではないのかもしれないが、引き換えに別の楽しみ方を失っているとも言える。
 地元の図書館や学校の図書室にある本を乱読していたそんな貴子の選書傾向は、本人の性格を現わすかのように、多少お堅いものが多い。高校に上がってからは現代の作家に手を出すことも増えて、流行の本を読んでみたりもしているが、どちらかというと、近代やそれ以前の古典的作品の方が、貴子の嗜好に合うらしい。もともと、学校の図書室に置かれる本自体がお堅い傾向があるから、その影響も少しは受けているのだろうか。
 もっとも、古典的作品と一口に言っても、古今東西の書物の質量を考えれば、その幅は異様に広い。あまりジャンルを問わずに気ままに手を出している貴子は、その分見切りも早く、気に入らなければ途中で読むのを止めたり、ページを飛ばして結末部分だけを読んだり、途中から読んで最初に戻ったりもする。こういう点は、CDなど大人買いするが気に入らない曲は飛ばしまくる母親と似ているかもしれない。「年に一冊くらいは本を最後まで読め」と教師などに言われても読まない子供も多い中で、好き勝手にマイペースに読書を楽しんでいる貴子だった。
 九月二十九日、九月も残すところ後二日になった、木曜日の朝。
 樟栄高校二年二組三十三番の穂積貴子は、この日も本を広げて、通学の電車に揺られていた。
 貴子が今読んでいるのは、先週学校の図書室から借りた中の一冊だが、月曜日の朝から読み始めたのに、やっと四分の三をすぎた辺りだった。いつもなら一日に一冊読み終えたりするのに、今週はコトが多すぎた。貴子的には当たり外れのある作家の、けっこう当たりの作品だったのだが、集中できないために全然ページが進まない。気付くと別のことを考えていたりするから、同じページを何度も読み返すはめになる。
 もうすぐ好きな女の子と会うと考えるだけで、そわそわして心が浮き立つ。それでいて、彼女の前での自分の言動を思い返して、彼女の前でどういう顔をすればいいのか悩んだりもする。「今日こそクールにスマートに」と懲りずに思うが、自信がまるっきり欠けていた。「冷静に落ち着いて」と思えば思うほど、なんだか落ち着かなくなる。
 そんなふうに、本を広げるが集中できないまま過ごすこと、約三十分。
 電車は時刻表通りの速さで、学校最寄の駅へと到着した。本をスクールバッグにしまった貴子は、体育服の入ったバックパックを片方の肩にかけて、途中から増えてきていた他の学生たちに混じって、駅の二階のホームを改札に向かって歩いた。
 今日も駅前で恋人が待っていること思って、歩いていくうちに貴子の緊張は強まる。
 「お姉ちゃん、わたし先に行くから!」
 一階への階段に差しかかる前、そんな貴子の耳に、聞き覚えのある声が飛びこんできた。
 小さいが鋭い声の後、貴子と同じ制服を身に着けた背の高い少女が、凜としたポニーテールを揺らして、貴子を駆け足で追い抜いていく。一瞬ちらりと貴子を見たその少女が、強く睨んできた気がするのは、おそらく貴子の気のせいではなかった。
 睨まれる覚えはあると言えばあるが、一方的に睨まれるのはいい気はしない。『おれも福山妹を嫌ってもいいかな』と考えながら、貴子は少し横を向いた。
 「穂積さん」
 貴子に追いついてきた別の少女が、自然な笑顔で、貴子に挨拶の言葉を投げかけてきた。
 「おはようございます。同じ電車だったんですね」
 「みたいだね。おはよう」
 貴子は歩みを止めずに、繊細な澄んだ声音で、穏便に挨拶を返す。まだろくに知らない相手だから、なれなれしくするつもりはないが、普通に接してくるなら「恋人の従妹」を邪険にする理由はない。
 貴子の恋人の脇坂ほのかの、従妹の二人。同学年の福山あかりと、一学年下の福山かなえ。姉のあかりが貴子に気付いて声をかけようとし、妹のかなえはそれを嫌って先行した、という状況だろうか。
 『昨日の昼休みといい今日といい、二日連続で会うなんて、もしかしてわざと狙ったのかな?』
 一瞬そんなひらめきが貴子の脳裏をよぎったが、貴子はすぐに勘ぐりすぎだと思い直した。これまでは同じ空間に居合わせても気にも留めなかっただけで、単純に貴子の立場が変わっただけの話なのだろう。
 あかりは何か言いかけて一度口を閉ざしたが、階段を下りながら、ナチュラルに話をふってきた。
 「穂積さんは、いつもこの時間なんですか?」
 「たいていはね」
 バスを使うのならもう二本後の電車でも間に合うようだが、徒歩で行くなら、もう一本後の電車でぎりぎりだ。この電車で、ちょうどのんびり歩いて行ける。
 「朝に強いんですね。わたしもいつもこのくらいの電車に乗りたいんですけど、たまにしか間に合わないんです。かなえは早起きだから、毎朝起こしに来てくれるんですけど、わたしが朝に弱くて」
 貴子は「ふーん」とも「そう」とも言わずに、人の流れに混じって階段を歩く。『ということは福山さんたちは普段はバスなのかな』『脇坂さんは朝に強いのかな、弱いのかな? 強そうだな』『福山さんが朝に弱いのも、あの妹さんが早起きなのもちょっと第一印象とは違うな』などなどと考えたが、特に口に出したりはしない。
 貴子が積極的に会話のキャッチボールをしないから、しばらく間が空く。
 「穂積さん、昨日は調理部、いかがでしたか?」
 貴子と知り合って間もないあかりだが、貴子が無口な方だとわかっているのか、階段を下り終えた頃、彼女からまた話題をふってきた。
 「……普通、かな」
 「普通、ですか」
 あかりは小さく笑って、視線をちらりと、自分よりも数センチ背が低い貴子の横顔に向ける。
 「アレで普通なんですね」
 「…………」
 貴子は率直に答えたのだが、あかりはそうは受け取らなかったらしい。貴子はその誤解に気付いたが、いちいち誤解を解こうとはせずに、傍からは大人しそうにしか見えないいつもの無表情を維持した。
 もし貴子の恋人がこの場にいたら、少し吹き出して笑ったかもしれない。
 昨日の帰り道、恋人に「部活楽しかった?」と同じようなことを問われた時、「脇坂さんと、一緒だったから……」と、頬を染めて頷いたのと同一人物とは思えないような貴子の態度だ。
 が、貴子の答えは何も嘘ではなかった。恋人の存在を差し引いて考えると、貴子にとって調理部はいい意味で普通だった。時々嫉妬めいた視線も感じたが、悪意という風ではなく。多少賑やかすぎたが、料理については真面目で、和気あいあいとして雰囲気も明るい。恋人と一緒でなければ、女子の群れの中に貴子一人になってもっと居心地は悪かったのかもしれないが、恋人がアットホームと評したのもわかる印象で、彼女に影響されている貴子は「一線を置いて付き合う分には悪くはないのかもしれないな」と、そう評価していた。
 それを口に出せばあかりとの会話も少しは弾むのだろうが、貴子の口数は相手と状況に大きく左右される。
 またちらりと貴子を見たあかりは、大人しそうな顔で押し黙っている貴子をどう解釈したのか、穏便な表情で言葉を紡いだ。
 「あんなにはしゃいで誰かとべたべたするほのかって、わたしも初めて見ました。昨日はみんなも笑ってましたけど、あんまり甘やかさないでくださいね。ほのか、穂積さんに夢中になってるみたいだから、穂積さんが止めてくれないと手におえません。穂積さんが男子だったら、きっとほのか、白い目で見られてましたよ」
 「…………」
 女子部ではないのに女子しかいない調理部だから、ボーイフレンドを連れてきて思いっきりイチャイチャしていたら、確かに同性の反感を買いそうだった。女同士でも充分反感を買いそうだが、そうなっていないのは、女同士だから許容されているのか、それとも貴子の恋人の人徳のおかげなのか。
 恋人が本当に自分に夢中になってくれているなら貴子としては嬉しいが、やんわりと声を出しているあかりの指摘は、どことなく貴子の胸をつく。
 貴子が男である場合と女である場合で、確実に大きく違っている、今の貴子の現実。
 「でも、ほのかはとても楽しそうでしたね」
 あかりは「同じくらい穂積さんも」と言いたげに、だが口には出さずに、「穂積さんのこと、羨ましがってる子も多かったですよ」と言葉を続ける。改札口が近付いてきて、定期券を取り出しながら、あかりは柔らかく微笑んだ。
 「穂積さん、ほのかと一緒の時でいいので、よろしければまたいらしてくださいね。みんな期待してますから」
 「……福山さんは、いい顔してなかったように見えたけど」
 「それは、そうです。そうですね、さすがに、見ている方が恥ずかしかったですから」
 「…………」
 どこが、とつっこむには、貴子は昨日の自分の振る舞いを自覚しすぎていた。無理もないあかりの発言に、貴子は何も言い返せない。
 あかりは貴子の様子を気にしながら改札を抜け、貴子は二歩後ろからあかりに続く。
 「今日も待ち合わせしてるんですね」
 改札を数歩離れたところで、駅前広場の一角を見やりながら、あかりが言う。
 定期券をしまった貴子は、肯定の返事をしようとして、視界に入ってきた光景に、無意識に胸の奥をざわつかせた。
 貴子の通う高校の新生徒会長で、貴子の同級生で、今の貴子と同性で、三日前から貴子の恋人になった脇坂ほのか。
 貴子と違ってブラウスの上からベストを着込んでいるほのかは、毎朝の喧騒に溢れている駅前広場で、貴子が知らない生徒を含む数人の男女と話をしていた。彼女は今日も改札を見張っていたようで、即座に貴子に気付いて、笑って彼らになにやら言って、自転車を押して貴子の方に向かってくる。
 同じように恋人に歩み寄る貴子の鼓動は、彼女と視線が合ったとたんにすぐに跳ねてしまったが、胸のざわめきはそう簡単には消えてくれなかった。ほのかが男女問わずに比較的気さくなのは今に始まったことではないが、自分以外の男に笑顔を見せる彼女に、貴子の感情は一方的にざわめく。
 「貴子、おはようっ!」
 「う、うん、おはよぅ……!」
 今日もほのかは朝から元気だ。
 距離が縮まると、ほのかは明るく声をかけてきて、貴子も華奢な声でぎこちなく同じ言葉を返す。
 ほのかは貴子の狭量な嫉妬心に気付かなかったようで、相変わらず緊張気味な貴子を笑って、すぐに従妹にも朝の挨拶をした。
 「あかりもおはよ。電車、貴子と一緒だったの? 珍しく早起きしたんだね」
 「ええ、おはようございます。さっきホームで一緒になったんです」
 「あ、ホームでなんだ。カナが走って出てきたけど、もしかしてなにかあった?」
 ほのかはそう言って、少し離れたところにあるスクールバスの停留所に視線を投げる。
 その瞬間、バスの列に並んでいたかなえの身体が強張ってポニーテールが揺れたのは、かなえがほのかを意識していた証なのか、単なる偶然なのか。
 あかりはそんな妹を見て、ちらりと貴子を見て、ほのかを見た。
 「特になにかあったわけではないんですけど、ちょっと機嫌が悪いみたいです」
 「ふーん? “お兄ちゃんを無視するなんて悲しいなぁ”とか言って後ろから抱きついたら、やっぱり怒られるかな?」
 「やめておいてください。一歩間違うと泣きますよ」
 「いくらならんでも、泣きはしないでしょ」
 少し呆れたような顔で言うあかりに、ほのかは軽く笑って貴子に視線を戻す。そして笑みを深くした。
 正直福山姉妹にあまり興味が持てない貴子は、ほのかたちの話を黙って聞いて緊張混じり余計なことを考えながら、ほのかを気にしている外野――少なくとも貴子にはそう感じられる男連中――に不快感を刺激されたり、ほのかを見つめたり見惚れたりしていた。
 貴子本人の気持ちと無関係に、ほのかの目には可愛く映る落ち着きのない貴子の態度で、おまけに目が合うと貴子は慌ててうつむきがちになったりするのだから、ほのかの頬は勝手に緩んでしまう。
 「カナも、もう四年もたつんだから、いい加減割り切ってくれていいはずなんだけどなぁ」
 言いながら、ほのかは貴子のスクールバッグに手を伸ばした。貴子は「ぁっ」と少し驚いてあたふたしたが、ほのかは気にせずにバッグを強引に奪う。
 あかりはそんな二人をどう思っているのか、少し真面目に、ほのかに言葉を返した。
 「ずるい言い方するんですね。かなえの気持ちを知っているから、今まで放っておいたくせに」
 「……そうだね、気付いてなければ、もっと気楽だったんだろうね」
 貴子のバッグを自転車の籠に乗せながら、ほのかは微かにほろ苦い表情で笑う。
 「今日のこと、カナには話した?」
 「……いえ、あの子にはまだ伝えてません。先週までならともかく、今教えると逃げてしまいそうですから。肝心のあの子がいないと意味がないでしょう?」
 「そうだね、ありがと。予定通り夜に行くから、よろしくね」
 「ええ、お母さんたちには伝えておきましたから」
 あかりはそう言うと、また貴子をちらりと見て、そのまま話を切り上げにかかった。
 「わたしはかなえとバスで行きますね。穂積さんのこと、仲がいいのは結構ですけど、人前ではほどほどにした方がいいですよ」
 「充分ほどほどだよ」
 にっこり笑うほのかに、あかりは「どこがですか」という目を向けつつ、貴子にはやんわりとした微笑を向けて、小さく会釈をした。
 「では、穂積さんも、失礼しますね」
 一瞬「ああ」と返事をしかけた貴子は、ほのかの前だから寸前で声を殺して、小さく頷くに留める。ほのかは笑って「また夜にね」とあかりに言って、貴子の肩のバックパックにも手を伸ばしてきた。
 「貴子、バックパックも持つよ」
 「ぇ、あ……、もう、籠、いっぱいじゃないかな……?」
 ほのかのスクールバッグとバックパックもあるから、荷物三つですでに自転車の籠は山盛りだった。
 貴子のバックパックを引っ張りかけたほのかは、「む」と少し眉を寄せて籠を見て、さっきからそわそわしっぱなしの貴子を見た。
 「そのまま貴子が持つ? 自転車後ろだけど平気?」
 「う、うん。ありがとう、へいき」
 ほのかの前ではすぐ取り乱してしまう貴子は、肩からずり落ちそうなバックパックを支えつつ、小さく頷く。重さという意味でもバランスという意味でも、体操服しか入っていないからたいしたことはない。
 ほのかはちょっと笑って、「でも気をつけてね」と貴子のバックパックから手を離した。貴子は急いで、女子が持つには少し無骨な印象のバックパックを、珍しく両肩にきちんと背負う。
 「じゃ、行こう。乗って」
 「う、うん……」
 スカートをお尻の下に敷いて横座りしながら、貴子は『もしかして、これから毎日こうなのかな……?』と冷静には程遠い理性で考えたりしたが、基本的には嬉しいからやはり文句を言う立場ではない。自分が後ろなのはなんとなく情けないし複雑な気持ちになるし、交通安全や法律の観点からも困るが、貴子は素直にほのかの腰に片腕を回して、ガールフレンドのぬくもりと柔らかさと甘い香りとを、今日もドキドキと満喫した。
 「じゃ、行くよ〜?」
 ほのかの掛け声とともに出発した自転車は、荷物のせいもあって昨日のように少しふらふらしたが、速度が乗るとすぐに安定した。安定したところで、ほのかは少し大きな声を出す。
 「今日ねー、学校終わったら、福山のおばあちゃんのとこに泊まりに行くんだー」
 さっきの会話から、なんとなくそうなのかなと思っていた貴子は、ほのかの背中で曖昧に頷く。
 「学校でももうばらしちゃったし、貴子のこともあるし、いい機会だから、いい加減カナと本気で話しておこうと思ってね」
 「……脇坂さんは、福山さんの妹さんのこと、大事、なんだね」
 「大事っていうか、まあ、うん、そうだね。カナはぼくにとっても妹みたいなものだから」
 『……脇坂さんにとって妹みたいなら、おれにとっても妹みたいなものになる、のかな……?』
 貴子はとっさにまた気の早いことを考えたが、今の福山かなえとうまく付き合う自信はない。態度の選択に迷いつつ、率直に応援の言葉だけを口に出した。
 「仲直り、うまくできるといいね」
 貴子のその声は、ほのかの耳にはとても可愛く響いたらしい。ほのかは急にくすぐったそうに笑いだした。
 「え〜? 別にケンカはしてないよ〜?」
 「え、あ、ケンカ、じゃなくても、仲直り、なんじゃないの?」
 彼女に笑われて、貴子はあたふたしながら、がんばって言い返す。
 そんな貴子と対照的に、ほのかは余裕に溢れていた。片手を自転車のハンドルから離し、自分の腰に回っている貴子の腕を、つかむように少し撫でる。
 「そうなのかなぁ? 嫌われてない自信はあるけど、逆に今日ケンカになっちゃいそうな気もするなぁ。貴子みたいに素直な方が可愛いのに、カナって意地っ張りだからねー」
 「…………」
 剥き出しの腕を撫でられて、貴子は身体を震わせ、ほのかを抱きしめる腕に少しだけ力を込める。
 同時に、内心は少し複雑な気持ちだった。素直と評されるのはまだしも、彼女に可愛いと評されるのは、元の男のままでも喜べないし、やはり嬉しくない。ほのかがそう言って喜んでくれるのを生かすべきだと思うが、今の自分の身体や容姿への確執もある。
 「貴子はさ、一人っ子だよね。兄弟みたいな人とかいない?」
 「え、ぁ、ん……。……いない、かな」
 突然話の角度が変わって、貴子はとっさに数人の顔を思い浮べつつ、正直に答えた。
 真っ先に思い浮かんだのは、自称「おねーさん」の神田芳乃だが、母親と同年代の芳乃は、キョウダイというには年が離れすぎている。小さい頃は「よしのおねえさん」と言っていたこともあるが、貴子にとって、なんとなく「芳乃さんは芳乃さん」だ。無理に親戚にあてはめるなら、「叔母」という感覚が一番近いかもしれない。
 次に思い浮かんだのは、母親の友人の門倉亜衣子の子供三人で、そのちびっこたちは「貴之」のことを「貴之お兄ちゃん」と呼んでいたし、先日の入院時に会った時も、はにかみながらおずおずと、貴子を「貴子お姉ちゃん」呼ばわりしてくれた。が、三人とも貴子とは違う意味で人見知りが激しいし、「貴之」も子供だからといって無条件に特別扱いはしないから、キョウダイみたいな関係というほど親密ではない。
 最後に思い浮かんだのは、田舎の従兄二人と、母親の友人の新庄七美の子供二人――貴子より五つ年上の息子と三つ年上の娘――だが、こちらは亜衣子の子供たちよりももっと距離がある。一回り年が離れている従兄たちは、二人ともそれなりに「従弟」を可愛がってくれていたが、「貴之」の方が打ち解ける数歩手前という感じで、懐くには会う回数が絶対的に足りなかった。七美の子供たちも、母親の友人である雪子との関係はそれなりに良好なようだが、「貴之」とは仲良くなれなかった。出会った時期や周囲の状況や相性の問題だったのか、今は会えば礼儀正しく挨拶くらいはするが、他人行儀な関係にとどまっている。
 「親戚とか、知り合いとかでもいいけど、全然いない? 貴子ってイトコもいないの?」
 「んっと、イトコは、二人いるけど、十個くらい離れてるから」
 「ああ、今六歳くらいなら、まだ全然子供だね」
 「え、あ、違うよ、逆だよ。イトコ、たしかもう二十五すぎてる」
 「あ、貴子の方が妹なんだ」
 「…………」
 「十個差だとやっぱりけっこうおっきい? あんまり仲良くないの?」
 「……うん。近くないし、年に一回くらいしか、田舎行かないから」
 「そか、遠いのもあるんだね。田舎ってどこ?」
 貴子は素直に、母親の実家のある地名をあげ、問われるままに母方の親戚関係を口に出す。母方の親戚は、祖父母と伯父夫婦と従兄二人の他は、曾祖母も存命だったが、「貴之」が幼い時に亡くなっている。後は、祖父母の兄弟姉妹の家系にあたる、母親のオジやオバやイトコなどがいるが、貴子としてはもう遠い親戚という感じだ。
 「んー、変に気を遣いたくないからずばっと聞いちゃうけど、パパの方はどうなの? イトコとか、もしかしたらママ違いの兄弟とか、いないの?」
 「……どう、なんだろ?」
 父方の親戚なんてまったく頭になかった貴子は、一瞬きょとんとした後、その存在の可能性を思い出して、微かに首を斜めにした。
 「付き合いないし、全然知らない」
 「う、付き合いないんだ。って、パパとはそんな話したことないの?」
 「ん、父親とは、会ったことないよ。母に聞けば、連絡先はわかるかもしれないけど」
 「え!?」
 ほのかは大きく振り向きたそうな仕草を見せて、自転車が少しよろめいた。貴子は慌てて、とっさにぎゅっと、ほのかの腰に両腕を回して力をこめてしがみつく。
 「会ったことないって……、パパと全然会ったことないの!?」
 「う、うん。離婚したの、わたし、が、一歳の時みたいだし……」
 「だからって! えー! それどうなのー? なんかひどくない!?」
 「ん……、別に珍しくはないと思うけど……。母が会わせないようにしたのかもしれないし、相手の方で会う気がなかったのかもしれないし、どうなんだろうね」
 両親が離婚した場合、引き取られなかった方の親とも付き合いがあるのが普通なのか、まったく会わないのが普通なのか、それとも単にケースバイケースなのか。
 貴子としては「あの母さんが一度は愛して結婚して子供を産む気になった相手」という意味での興味はないではないが――なんとなく不愉快な気分になるからあまり考えたくないが――、「自分の父親」としての興味は、とうの昔に失っている。母親の友人たちの発言ではないが、「母さん」だけで充分だったし、中二の頃までは他に夢中になるものもあった。少しは成長した今となっては、一口に「父親」と言っても結局は相手の人格次第だということを、貴子は当然のこととして知っている。血の繋がりや父親という肩書きだけで人を評価するほど、今の貴子は単純ではなかった。
 「え〜? なんかヒトゴトみたいだね。会ってみたいとか思わないの?」
 「別に、いまさらだし……。脇坂さんのお父さんの方が、よっぽど会ってみたいな……。会うの怖いけど」
 貴子が可愛い声でポロリと本音を漏らすと、ほのかは驚いたように、また振り向きたそうな仕草を見せた。
 「…………」
 「…………」
 数秒、ほのかは沈黙を作る。貴子は自分が何を口走ったかに気付いてはっとしたが、時すでに遅い。ほのかはちゃんと前を向いて勢いをつけて自転車をこぎながら、笑って声を張り上げた。
 「あは、貴子もしかして、もうお父さんに紹介して欲しいのー? ちょっとそれ、まだぼくの方が照れくさいなぁ」
 「そ、そういう意味じゃないよ……!」
 「お父さんたち、お正月はたぶん帰ってくると思うけど、貴子会う? 会うなら今からもう予約いれちゃうよー?」
 「ぇ、ぁ、ぅ……」
 イヤというわけではないし、いつかは避けて通れないのだろうが、「彼女の父親」に会うというのは、なかなか覚悟がいる。楽しげに笑ってくれる彼女に、貴子は言葉につまってまたあたふたした。
 「でもお正月はまだ先だから、ぼくが貴子のうちに遊びに行くのが先かな? 貴子のママと会うのは、ちょっと怖いけどねー?」
 「え、来る? いつがいい? 来月の土曜なら、たぶん母も忙しくていないよ」
 貴子の真似をして笑うほのかに、貴子は思考がまとまらなくて、本音のままにまた先走ったことを口にする。別にそれほど疚しい気持ちがあるわけではないが――全くないわけでもないが――、まだ付き合い始めて一週間もたっていないのに、「親が留守の時に彼女を家に連れ込む」気満々の貴子だった。
 ほのかから見れば「彼女の家族が留守の時に彼女の家に上がり込む」ということになるはずなのだが、ほのかはそれをどこまで意識しているのか、さっきからずっと笑顔だった。「貴子のママって、十月忙しいんだ?」と何気なく問いかけてくる彼女に、貴子は相変わらず勢いで素直な気持ちをあれこれと口走った。
 ほのかは「恋人の母親」に興味があるようで、少しずつ的を絞る質問をしてきて、貴子は母親の前ではまず言わないようなことまで馬鹿正直に話す。
 貴子が男のままであれば、ほのかは「マザコン」という単語を想像したかもしれないが、「母と息子」ではなく「母と娘」であれば印象は違ってくる。「ママと仲いいんだね」と、ちょっと嫉妬混じりに笑うほのかに、貴子は否定をせずに頷いて「ずっと、二人だったから」と、素直に付け加えた。――貴子にとって、良くも悪くも母親が特別な存在なのは確かだから、貴子は他人にマザコンと言われても無視して済ませるだろうが、ほのかに言われたら少し複雑な心理になったかもしれない――。
 徒歩の生徒をどんどん追い越しながら、二人、お互いの家族のことについて色々な会話を交わす。
 ほのかは「変に気を遣いたくない」という言葉の通り、普通なら聞きにくそうなこともずばずばと話題にするが、貴子も貴子で隠し事をする気がない。貴子はやはり緊張してあたふたしていたが、笑顔を絶やさないほのかに釣られるように、時々小さな笑みもこぼれていた。
 話が別の方向に流れたり、貴子の家の昨夜の来客の話になったり、ほのかの従妹の話に戻ったり。
 軽い話からちょっと重い話まで色々と話題にしながら、二人の乗った自転車はゆっくりと学校へと進んでいった。





 to be continued. 

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初稿 2008/05/03
更新 2008/05/03