Boy's Emotion -AFTER STORY-
Taika Yamani.
その五 「彼女にくびったけ」-後編-
一 「当番のある昼休み」
四限が終わると、一日で一番賑やかな時間になる。
先日恋人ができたばかりの穂積貴子にとっても、この時間は恋人と一緒に昼食を楽しみたい時間だったが、今日の貴子は先週からの予定通り図書委員の当番だった。貴子は授業が終わると、教科書類を机に片付けて、歯磨きセットと文庫本を取り出して立ち上がった。
そして、さっきはいつ彼女がいなくなったのか全然気付かなかったが、今度は気付いた。
すぐ後ろに、恋人の気配。
いつもなら彼女から声をかけてくるのに、なぜか彼女は声をかけてこない。賑やかな教室内で、二人の間に変な沈黙ができる。
その沈黙の理由がわからなければ、貴子はまた慌ててしまったのだろうが、敏感に理由を察していた。貴子がこのまま彼女と一緒にいたいと思うように、彼女も、少しはそう思ってくれているということに。
それを嬉しいと思う自分と、彼女と別行動になる現実に対して愚痴りたい気分になる自分と、そんな彼女にどう応じていいのか困って冷静さを失っていく自分と。
彼女が「図書委員がんばってきてね」と快く送り出してくれたら、なんの問題もないのだが――それはそれで少し不満に似た寂しさを感じただろうが――、彼女はそんな雰囲気ではない。文庫本と歯磨きセットをスカートのポケットに入れた貴子は、沈黙に耐え切れなくなってゆっくりと振り向き、今の自分より数センチ背の高い、ちょっと不満顔をした可愛い恋人の姿を、そこに見つけた。
「え、えっと、脇坂さん」
「また後でって言ったくせに、ぼくを置いて行っちゃうんだね」
貴子が口を開くのを待っていたかのように、脇坂ほのかはそんなことを言う。
貴子がもう少し彼女の前でも冷静でいられれば、彼女の言葉が、本音混じりではあっても、わざと恋人の気を引こうとするものだと気付いたかもしれない。慣れるのはいったいいつになるのか、貴子はあっさりと、実にあっさりと取り乱した。
「ご、ごめん……! でも当番だから……!」
「それは昨日聞いたよ。いいよいいよ、貴子はぼくといるより当番の方が大事なんだね」
「なんで! そんなわけないよ」
「じゃあサボる?」
「それは……!」
「……それは?」
「……ごめん、……サボらない」
ちょっとうつむいて、だが最後はちゃんと彼女の目を見て、貴子は言う。
図書委員の仕事なんて放棄したい誘惑は強い。だが前にもほのかに言ったように、一度誘惑に屈してしまうと、この先ずっと我慢できなくなりそうだった。誘惑に負けるのは簡単だが、貴子はこの先もずっとずっとほのかと付き合っていきたいから、その時その時の日常も大事にしたい。その大切さを、貴子は漠然と知っていた。
なのに、というべきか、だから、というべきか。貴子はじっと見つめてくるほのかの瞳を長く直視できなくて、すぐに彼女から視線を逸らした。
そんな貴子に対して、ほのかは何を思っているのか、無造作に貴子に頬を両手を伸ばしてきた。
「ぃゅっ」
両頬をむきゅっと左右つままれて、貴子は変な声を出して、反射的にほのかの腕に手をそえる。
「貴子、ぼくを意識しすぎだよ」
急に、ほのかは小さく笑って、表情を和らげた。
「そんなんだと、すぐ疲れちゃうよ?」
「え、え……?」
ほのかはつまむ手を緩めて、わたわたする貴子の両頬を包み込むように手のひらをあてがう。
「いいよ、早く行くっておいで。ごめんね、困らせて」
「え、いいの……?」
ほのかは笑顔を見せてくれるが、彼女の態度の急変がよくわからなくて、貴子の動揺は止まらない。
「ダメって言いたいけどね。言ったら貴子、困るでしょ」
『ぼくが好きになった子は、こんな女の子なんだよね……』と、ほのかが心の中でも微笑んでいることを知ったら、貴子はまた様々な感想を抱かされたことだろう。
もともと、ほのかだって昨日一昨日と貴子を置いていったのだから、あまり人のことは言えないのだ。引き止めたいし名残惜しいが、ほのかも恋人を本気で困らせるつもりはなかった。
「でも明日は絶対一緒に食べようね? なるだけ早く帰ってきてね?」
「う、うん……、がんばってみる……」
貴子は身体を震わせて、わけがわからないながらもしっかりと頷き、か細い声でほのかに応える。
いつのまにか薄桃色に染まっている貴子の頬を、ほのかは優しく撫で、その肌のなめらかさを堪能してから、そっと手を離した。
「うん。じゃ、行ってらっしゃい」
「うん……、行って、きます……」
笑顔のほのかに促されて、貴子は後ろ髪を引かれながら、一歩足を踏み出す。が、視線はほのかを向いたままで、すぐにためらうように足が止まってしまうあたり、少し未練がましい。
ほのかはそんな貴子を笑って、スカート越しに貴子のお尻を軽く叩いた。
「ほら、早く行かないと怒られちゃうよ」
「う、うん。行ってくる」
貴子は一瞬ビクンと身体を揺らした後、未練を振り切って、さっと歩いた。このままずっと彼女の傍にいたいが、誘惑に負けるのはもっと別の機会に取っておくべきだった。叩かれたお尻と彼女の視線を意識して、瞳を暗く切なく揺らしながら、貴子はまっすぐに教室を出る。
「あれ? 穂積さん、今日は脇坂さんと一緒じゃないの〜?」
「図書委員の当番だから」
出る寸前にクラスメートの宮村静香の声が飛んできたが、貴子は目と顔を少し動かして、恋人に対するのとは大違いのそっけなさで短く答えるだけで、足を止めなかった。
「あらら、脇坂さん悔しがってそうね」
「穂積もなんじゃない?」
静香と一緒にいた松任谷千秋と藍川志穂もそう言って笑うが、貴子はもう聞いていない。好きな人のことばかり考えながら、教室を出てまっすぐに図書室に向かう。
貴子がいなくなった後、宮村静香は「ちょっと脇坂さんをご飯に誘ってみたいなぁ」と言い出したが、すでに他の女子がほのかに声をかけていた。貴子に前後して移動を始めている学食組に混じって、ほのかたちはなにやら笑って話をしながら、みなでお手洗いに行こうとしている。
「あ、脇坂さんは菊地さんたちと一緒か、ちょっと残念」
少し本気でがっかりする静香を笑って、千秋たち三人も昼食の前に手を洗いに行く。
いつ雨が降り出しても不思議ではない天気なせいか、昨日同様、室内でお昼をとる生徒が多い。教室の中も廊下も、昼休みの喧騒に包まれていた。
かなり余談だが、樟栄高校の制服のボトムのポケット、男子のスラックスや女子のスカートのポケットは意外に深い。だから、貴子がスカートのポケットに携帯や財布や文庫本や歯磨きセットをつっこんでも、外からの見た目はほとんど変わっていない。女子生徒のそんな部分を熱心に注視するものがいれば、少しだけ膨らんでいることに気付くかもしれないが、女子はプリーツスカートだから襞で隠れるし、気のせいですむレベルだ。夏の制服のスカートはやや薄手だから、貴子本人は内側で太ももにぶつかる感触が気になると言えば少し気になっていたが、財布に小銭が増えた時に急に重みを感じるような感覚にも似ている。気にし始めれば際限がなくなるとわかっているから、廊下を歩く貴子は意図的に本の存在を無視していた。
そもそも、そんなことよりも、別行動になっている恋人のことが、貴子の頭から離れない。
『やっぱり図書委員なんてならなければよかった』と、昨日と同じようなことを、昨日より強く思いながら、貴子は三階の連絡通路を通って、三号館二階の図書室に辿り着いた。
樟栄高校の図書委員の当番は、基本的に各学年男女一人ずつの六人で一班だが、たいていの班はさらに昼休みと放課後で担当を分けている。その慣例に従って貴子の班も一応昼休みと放課後で担当分けをしてあるが、少し変則的だった。何かと忙しいらしい三年生の女子が放課後専任で、一年生の二人も部活のために昼休み専任になっているのはいいとしても、三年生の男子が当番をさぼってばかりだかから、残る帰宅部の二年生二人が昼と放課後の両方をフォローするという形になっている。
他の班でも似たような状況は存在して、それを不公平と感じる委員もいるようだが、委員は無理矢理選ばれることもあるし、そのあたりは班を作る時に折込済みだった。貴子も、学校の各種委員なんてボランティアのようなものだと思っているから、そこまで他人に期待をしていない。頻繁にサボるような輩に対する評価を下げるだけの話で、割り切って昼休みも放課後も当番に参加していた。
この日、貴子が図書室に到着した時、すでに別の図書委員がやってきていた。
二年六組の女子生徒。
「貴之」の一年時のクラスメートの、広崎紗南。
先週貴子に二度目の告白をしてくれて、貴子がふってしまった女子生徒。
おっとりした中年女性の司書先生も一緒にいたが、紗南は受付カウンター内の椅子に座って、さっそく返却に来ている生徒の相手をしていた。貴子が図書室に入ると、紗南はどこか緊張した様子で貴子に視線を向けてきた。
女子に「よっ」などと声をかけるのは貴子の柄ではないし、そんな習慣も存在しない。以前通り自然に動いて、目があった紗南に、「久しぶり」とも「お待たせ」ともとれるふうに、目礼のように頷きのように、貴子は小さく頭を動かした。今ごろ広崎紗南のことを思い出して、少々気まずい思いを抱いたが、貴子が怯むべき理由はない。
紗南も、彼女は硬い表情で小さく頷いたが、先週自分をふって今週恋人を作った貴子をどう思っているのか、目の前の仕事もあるから声をかけてはこなかった。声をかけてきたのは、中年女性の司書先生だ。
「こんにちは、穂積さん。いつも早いですね」
「こんにちは」
短く挨拶を返した貴子は、紗南が自分を意識していることを敏感に察しながら、ブックポスト――図書室が施錠されている際の無人返却用――をチェックして、紗南の横に並び、二つある専用のPCの一方に陣取った。それと前後して、一般の生徒が二人図書室に入ってきて、貴子と紗南とで、それぞれ一人ずつ生徒の相手をする。
「貸し出しですか、返却ですか」
「あ、返却です」
入り口から入ってきて本を差し出してきた男子生徒に、貴子が華奢な声で、見ればわかるような定型文を口にすると、その彼はなぜか少し慌てたように返事をした。
ここで貴子がにっこりと笑顔を浮かべれば、図書室の天使とかなんとか恥ずかしいベタな二つ名を頂戴したかもしれないが、貴子は以前も今も、図書委員の仕事で0円スマイルを売りにするつもりはない。利用者を不快にさせる理由もないから、慇懃にならない程度の礼儀正しさは心がけるが、それどまりだ。
事務的に本を手に取ると、貴子は裏に貼り付けてあるバーコードを読み込み機で読み取った。それを本の数だけ手早く繰り返して、最後に「現在貸し出し中の本はありません。五冊まで貸し出しできます」と繊細な声で決り文句を付け加える。予約されている本があれば、PCが小さな音を出して教えてくれるから、その本は別に確保だ。
「では、穂積さんも来たことですし、ここはお任せしますね」
受付用のPCは二つしかないから、二人いれば窓口は埋まる。司書先生はそう言うと、カウンター端の司書席に座って、なにやら事務作業を始めた。
樟栄高校の図書室には、カウンターの入り口側に司書席というものが存在して、昼休みや放課後は、司書先生が気軽に相談などを受け付けますという体制を取っている。傍から見たら何をやっているのかわかりにくい学校司書という仕事だが、色々と気を配ることも多いらしい。と、図書委員になってから少しだけ知った貴子である。
返却処理が終わると、貴子は返却された本を、紗南が処理した分までぱらぱらとページをめくって変ないたずら書きなどがないか簡単にチェックして――これはほとんど形骸化している行為だが――、傍の返却用の本棚へと持っていく。
「あ、ありがとう」
慌てたように礼を言う紗南の言葉を、貴子は「おやすい御用だよ」とも何も言わずに聞き流し、黙って本を並べて、そのまま少しその棚を眺めた。図書室に来た時、なんとなくここを眺めるのはいつの頃からかの貴子の習慣だ。返却本コーナーには、生徒たちの最近の読書傾向がある程度表れ、貴子が自分からは探さないが興味を覚えるような本もたまに混じっている。
この日は特にめぼしい本はなく、貴子は一通り眺めるだけで紗南の横に戻った。特に用事を言いつけられない限りは比較的暇だから、ポケットから本を取り出し、椅子に座ってゆっくりと広げる。
基本的に、図書委員の当番の主な仕事は、カウンターでの受付業務――貸し出し、返却、予約、質問を受けた際の本の位置検索などなど――と、期限切れ未返却の生徒の確認、本棚や蔵書の整理点検、司書先生のお手伝いなどになる。列挙すると大変そうに見えるが、六人の当番が毎日ちゃんと少しずつやっていればそれほど大変でもない。いざという時には司書先生や司書教諭の先生もいるし、利用者が少ない時や当番がそろっている時はカウンターに座って本を読む余裕もある。小声でおしゃべりをしたり、月に一度任意で提出することになっている書評を書いたり、本棚のチェックと称して本を物色しに行ったりもできる。
当番と無関係に、宣伝用のポスター作ったり、司書先生の図書室便りの作成を手助けしたりするのも図書委員の仕事だが、こちらは自発的に協力する委員で充分に間に合っているらしい。貴子は当番の仕事以外は、特別な指示がある時しか手を出していなかった。
「ほ、穂積くん! 今、なに読んでるの?」
いつもは広崎紗南も、手が空いている時は本を広げることが多いのだが、貴子が本を広げると横から声をかけてきた。
普段は控えめな大人しいタイプなのに、少し大きな紗南の声。
紗南をよく知るものであれば、無理をしているとわかる露骨な態度だったが、貴子はそれを気にするほど紗南と親しくはなかった。ちらりと紗南を見やって、抑えた華奢な声で、無造作に本の著者名と題名を口にする。と、紗南は「あ、その人の、わたしも読んだことあるよ」と、明るい表情をした。
「それは読んだことないけど……面白い?」
「まだ途中だけど、当たりな方かな」
「そうなんだ。穂積くん、その人の、よく読むの?」
「そうでもない」
今の貴子は声も繊細で可愛いのに、言葉は相変わらず短い。おまけにすぐには本から目を離さないから、かなりそっけない。
貴子がそんな態度だから、以前の紗南ならこのあたりで口篭もって引き下がるのだが、今日の紗南は引き下がらなかった。貴子と友達付き合いする場合は、それが貴子の自然体だと割り切るべきなのだろうが、割り切っていたらよくて友達止まりだ。それをわかっているのかどうか、紗南は一生懸命に話題をふってくる。
熱心に話しかけられて、さすがに、貴子も本から目を離した。
貴子の自惚れでなければ、そんな紗南の態度にはいまだに彼女の気持ちが滲んでいた。が、そう感じる分だけなおさら、貴子は半ば意図的に、以前とまったく同じように振る舞う。
お互いが最近読んだ本のことなど、しばらく他愛もない話をする。
「こんにちは……! 遅れました、すみません……!」
「…………」
そうこうするうちに、後輩の二人もやってきた。
女子の子は謝りながら急いで、男子の子は無言で頭を下げてぎこちなく、カウンターの中に入ってくる。
竹内景斗という名前の男子の方は、嫌々図書委員をやっているというのが露骨で、必要最低限の言われたことしかしない生徒だった。「貴之」としてはそれで充分だったが、かと言ってプラス評価をする理由もないから、親しくはしていない。彼はいつもは「めんどくさい」という顔をしているのだが、この日はどこか緊張した様子だった。
光田雅美という名前の女子の方は真面目な大人しい子で、広崎紗南とは比較的馬があっているようだが、こちらも「貴之」とは事務的な話くらいしかしたことがない。本好きらしく、今週や先週など、貴子は図書室で何度か見かけたが、お互いに声はかけていない。二人とも、「貴之」とは単に図書委員の先輩後輩というだけの間柄だった。
「雅美ちゃん、竹内くん、こんにちは」
「……こんにちは」
椅子に座ったままの紗南に挨拶をされて、さすがに竹内景斗も挨拶を返す。「お二人ともこんにちは。竹内くんは、今日は早かったですね」と、司書先生が司書席から少し笑って言った後に、貴子も本をカウンターの影に置いて立ち上がった。
「二人とも久しぶり、何回か休んで悪かったね」
「あ、い、いいえ……! お久しぶり、です……!」
「お、お久しぶり、です」
貴子がいくら以前と同じように振る舞っても、今の繊細な声や容姿では、人に与える印象は大きく違う。さほど「貴之」と親しくなかった一年生二人は、彼らが知る「二年生男子の穂積先輩」と、「目の前の見慣れぬ可愛い女子の先輩」とが同一人物だと、やはり簡単には思えないらしい。貴子の簡単な挨拶に、光田雅美は少し慌てたように、竹内景斗もぎこちなく言葉を返してきた。
立ち上がった貴子は、そんな下級生たちの態度に深く頓着せずに、そのまま以前からの習慣通りに動く。
「ここは任せるよ。返却本を戻してくる」
「あ、穂積くん、わたしも手伝う!」
以前なら「貴之」が本を戻している間に食事にとっていた広崎紗南も、急に立ち上がった。
壁に立てかけてある台車の方に動きかけていた貴子は、無造作に紗南を見る。
「いや、一人で充分だよ。先にご飯行ってきなよ」
「で、でも」
「二人でやるのはもったいないから。広崎さんがやるなら、おれが先にご飯行くけど?」
「え、あ……」
今の貴子の華奢な声にこの言葉遣いは相当のギャップが漂うが、感情が篭らないと、どこか人形めいた雰囲気も帯びる。紗南は怯んだように、言葉をつまらせた。
「ご、ごめんなさい……」
紗南が何を謝ったのか、貴子にはよくわからないが、別に謝られるようなことではない。紗南のこれまでの態度は、前向きにがんばろうという彼女の意志を表していたのだが、それを理解するほど、貴子は紗南のことをやはり考えていないし、考えるつもりもなかった。貴子は紗南の謝罪を聞き流し、たたんであった小さな台車を広げて、その上にケースを載せて棚の方に移動する。
「広崎さん、穂積さんもこう言っていることですし、お言葉に甘えたらどうです?」
「……はい。そう、します。雅美ちゃん、受付、お願いね」
「あ、は、はい」
司書先生に言われて、紗南は露骨に辛そうな顔で、床に置いていたバッグを持って、カウンター奥の図書事務室へと消えていく。
「……あの人が、やっぱり、あの穂積先輩、なんだよな……?」
「う、うん、そうみたい、だよね……」
一年生の二人はなにやら小声でひそひそ言い合うが、貴子にとっては、いまさら他人にどう言われようと大きな問題ではなかった。
貴子の女としての学校生活が始まって、まだ二週間もたっていない。いつまで他人に意識させられるのか、自分でも意識してしまうのか、まだまだ簡単に鬱屈した気持ちになってしまうが、時間が解決してくれる部分も多いはずだった。他人がどう思おうとどう思われようと、貴子は貴子なりに動くだけだ。漏れ聞こえてくる声を黙殺して、貴子は淡々と作業を始める。
さすがにこの時間、貴子もちょっと本格的にお腹が空いている。つい「広崎さんに任せて先にご飯行けばよかったかな」などと考えてしまう貴子の内心を知れば、紗南の友達なら、貴子を非難するか、または未練がましいと紗南を叱って、さっさと貴子のことなんて忘れた方がいいと忠告したくなったかもしれない。
もしもまだ紗南の気持ちが貴子に向いているのなら、貴子が紗南をふったことや、貴子に恋人ができたこと、そして貴子の態度が相変わらずそっけないことは、やはり紗南にとっては辛いことなのだろう。貴子は自惚れてると思いつつも、自分も失恋の経験がしっかりとあるだけに、紗南の気持ちを考えると胸が少し痛む。
だが、貴子としては、自然に振る舞っているつもりでしかない。結局貴子にとっては、図書委員のただの知り合いのことよりも、自分の問題のことや好きな人のことの方が何倍も大事だった。貴子はやはり紗南に特別な感情を抱けないし、彼女を特別扱いする気にもなれない。
人を好きになることが悪いわけではない。ふる側に罪があるわけでもない。ただ単に、今の貴子が、紗南ではない別の女の子が好きなだけ。
一つの恋が成就する影で、別の恋が散っていく。
世界中、いつの時代にでも、どこででも起こっていることだが、恋はやはり、非情な一面も持っていた。
『脇坂さんは、今日もお弁当だったのかな。どこでだれと食べてるんだろ……』
自然と恋人のことを考えながら、貴子は台車を押して図書室を巡る。
昼休み序盤なのに、もう書架で本を選んだり、椅子に座って読書を始めたり、インターネットコーナーでPCをいじっている生徒がいるが、まだまだ人は多くはない。すでにやってきている生徒は、速攻で食べ終えたのか、昼は食べないのか、学食が空くのを待っているのか。なんにせよ、人が増えないうちに、貴子はテキパキと本を本棚へと戻していく。
図書室に返却された本は、まずはカウンター傍の本棚の「今日の返却本」の棚に貯められていき、放課後の遅い時間に「昨日の返却本」「一昨日の返却本」「古い返却本」のそれぞれの棚へと一日ずつ移動させて、「古い返却本」を、翌日の当番が暇を見て所定の本棚へと戻すことになっている。樟栄高校の図書室は、蔵書が充実しているせいか利用者も少なくはなく、一日の返却本もそこそこの量になる。
それを本棚に戻す作業はそれなりに手間なのだが、貴子はこの作業が嫌いではなかった。単にカウンター担当が好きではないだけとも言えるが、だから、いつも率先してこちらを担当する。のだが、以前の「貴之」がこの作業を率先して担当していた理由は、実はもう一つ存在した。
返却本を戻している途中で、貴子はそれを思い出した。正確には、無理矢理思い知らされるはめになった。
図書室の本棚は、背が低い生徒のことも考慮されているが、スペースの都合上、どうしても本棚の高い位置が使用されることもある。その高い位置には利用率の低い本が置かれているのだが、返却本の中に、そこに戻すべき本――しかもやたらと厚くて重い――が混じっていたのだ。
身長の二十センチの差は小さくはない。身長の差だけではなく、腕や指の長さや足のサイズの違いも地味に大きい。
以前なら届いたのに、身長が百五十五センチにも満たない今の貴子では、本棚に身体をできるだけ近付けて、思いっきり手を伸ばしても届かなかった。重い本を片手で持ち上げて、爪先立ちして一生懸命に背伸びをしてがんばってみたのに、上半身のふくよかな部分が本棚にぶつかっただけの結果に終わってしまった。
そんな貴子の後ろから、ひょいと本を取り上げて、あっさりと本棚に戻す背の高い男子生徒が現れる……というようなベタなイベントが発生することもなく、貴子は鬱っぽさを押し殺して、手の甲で制服の胸の表面を軽く払った。
『だれだよ、こんな本借りたのは』
暗い瞳で八つ当たり気味にそう思いつつ、貴子は図書室の隅に用意されている脚立を取りに行く。やや重く感じる脚立を運んで使用して、すんなりと作業は済んだが、ちょっと苛立つとともに、重苦しい気分になってしまった。
そんな余計な感情を抱きながら、本をすべて本棚に戻して、貴子はカウンターへと戻る。
広崎紗南はまだ食事中らしかった。カウンターに座っていた一年生二人は、貴子が視界に入ると、なぜか緊張した様子で視線を向けてきた。
「二人とも、手があいてるならご飯行っていいよ」
カウンターの中にまわりこんだ貴子は、後輩二人に無造作にそう言って、台車をたたんで壁に立てかけた。「まだ暇だし、広崎さんもそのうち戻ってくるだろうし」とは付け加えないが、この順番でご飯を食べに行くは以前からの習慣だ。
「あ、は、はい」
甘く優しくも聞こえる上級生の繊細な声に、一年生の二人はどこか慌てたように、ぎこちなく返事をして立ち上がる。
いつもパンが多い竹内景斗はそのまま図書室の外へ、光田雅美はお弁当が入っているらしい可愛い包みを持って、小さく「休憩、もらいますね」と言って、司書先生の「はい、行ってらっしゃい」という言葉を背に、カウンター奥の図書事務室へと向かう。
貴子は一年生が空けた席の一つに腰を下ろして、カウンターの影に置いていた本を手に取った。
図書事務室は半ばガラス張りになっているが、カウンターに座っていると中は見えない。広崎紗南と光田雅美はそれなりに仲がいいから、何か話をしたりしているかもしれないが、ドアで仕切られているし、声も聞こえてこない。
それからしばらく、貴子は本を広げてのんびりした。
恋人が読んでみようかなと言ってくれた本を、少しハイペースに読んでいく。邪な動機が混じっているせいか、熟読には程遠い多少飛ばしぎみな雑な読み方だった。特に用事を言いつけられることもなかったから、時々利用者の相手をする程度で、黙々と読書を進めることができた。
だんだんと、昼食を終えて図書室にやってくる生徒が増えてきて、やがて食事を終えた広崎紗南も事務室から出てくる。
彼女はかなり暗い表情だったが、貴子の目は背中にはついていない。紗南は「休憩、終わりました」というふうに司書先生と貴子の背中に小さく頭を下げ、「おかえりなさい」と司書先生に穏やかに応じられて、「あ、はい、ただいまです」と受け答えをしてから、おずおずと、貴子の横の席にやってきた。
「あの、穂積くんも、お昼、どうぞ」
どこか硬く強張った、広崎紗南の声。
貴子は深く気にせずに、顔を上げて図書室の時計を確認し、本を閉じて立ち上がった。
「じゃ、行ってくる」
「うん……」
「行ってらっしゃい」
「はい、行ってきます」
混んでいる時や司書先生に用事を言い付かっている時なら、一年生が食べ終わるのを待つのだが、暇な時は問題がない。貴子は司書先生に返事をして、本をスカートのポケットにしまって、図書室の外へと動く。
広崎紗南の視線を無視して、貴子はゆっくり図書室を出て、お手洗いに立ち寄ってから下の階の学食へと向かった。
図書委員の当番の昼食は、図書室外で食べてきてもいいのだが、みな図書事務室で食べることが多い。何かしら理由があるのかどうか貴子は知らないが、暗黙のルールや長年の慣習といった類のものらしい。昔は食事をしつつ手伝う必要があるほど混雑していたとか、当番をサボる生徒が多くて手が足りなかったとか、そういう時代があったのかどうか。特別逆らう理由もなかったから、「貴之」もいつも図書事務室で食事を取るようにしていた。
今の貴子は逆らいたい理由を持っているが、当番の人数的にあまり食事に時間をかけるわけにはいかないし、人と食事の約束をするのも時間が中途半端だ。明日のお楽しみと自分に言い聞かせて、貴子は学食に入った。
学食はまだ食事中の生徒で賑わっているが、ランチのカウンターも、購買のパン類のカウンターも混雑のピークを過ぎている。当番の時はサンドイッチで済ませるのが習慣の貴子は、短い列に並んで、貴子の中での定番の品――トマトレタスサンドとツナハムサンドのセットと、生クリームと旬の果物を挟んだフルーツサンド――を買い込んだ。
学食に入ってすぐ、なんとなく恋人を探したが、彼女は教室で食べているのか、学食にその姿はない。かわりに目に止まったのは友人の槙原護くらいだが、彼は貴子に気付いた様子もなく――実際は今の貴子は目立っているからすぐにしっかりと護も気付いていたが――、賑やかに男友達と食事を取っていた。
『槙原は、いつも松任谷さんと一緒に食べたいとか思わないのかな?』
一年の頃から月に何度か、護が彼女と二人でご飯と食べていることは、貴子もそれとなく知っている。護の恋人の松任谷千秋の方は抵抗があるらしいが、カップルでお昼を一緒に食べる生徒はちらほらと見かけるから、特別目立つことはない。多少やっかみが混じることはあっても、基本的には好意的なからかいだ。
貴子は自分のことを思いっきり棚に上げて、「度をすぎて人前でイチャイチャしているカップルはみっともない」と思うが、度をわきまえていれば、いつも仲良く一緒にいるカップルは平和の象徴のようなものだ。片想いを続けていた頃は、そんな恋人たちにちょっとやっかみや羨ましさも感じていたが、今の貴子はその楽しさを自分の体験として実感しつつある。
『松任谷さんも、変に恥ずかしがることなんてないだろうに』
だから貴子はそんなふうに思うが、護の方が積極的なようだから、乙女心は色々と複雑なのだろうか。それとも、付き合いが長い分、まだ付き合い始めたばかりの貴子たちのようにいつもべったりではなく、離れていてもお互いに想いあえて信頼しあって、お互いの友達関係も尊重しあうような、成熟した関係なのか。
一分一秒でも長く彼女と一緒にいたいと考えてしまう貴子には、護たちのことはよくわからない。が、うまくいっているようだから、大きな問題はないのだろう。
護が聞けば過大評価だと笑いそうなことを考えながら――同じく松任谷千秋が聞けば「気にしなさすぎる穂積さんたちの方が変なのよ」と即座に言い返されそうなことを考えながら――、貴子はパックの牛乳も買って、図書室に戻った。
図書室は、通常の一般入り口と別に、事務室への出入り口が存在する。サンドイッチと牛乳を手に、貴子はそちらから図書事務室へと入った。
いつのまにかパンを買ってきたらしい一年の男子も戻っていて、一年生の二人が食事を取っていた。食べながら雑談をしていたらしい二人は、もしかしたら貴子の噂話をしていたのかどうか、貴子が姿を見せるとぴたりと話を止めて、貴子に視線を送ってきた。
貴子はその視線に気付いたが、特に関わることはしない。適当な席に座って、買ってきたものを机の上に広げた。牛乳のパックにストローを突き刺し、片手に持ち上げて、桜色の唇にストローをくわえる。
やや唇をすぼめて軽く吸い、少し喉を潤すと、貴子はサンドイッチの袋を破り、心の中でいただきますを言って、ゆっくりと食事に取りかかる。
ガラス越しに透けて見えるカウンターは、空いているようだから、特に急ぐ必要もない。貴子はまたスカートのポケットから本を取り出し、サンドイッチを食べながら、少しお行儀悪く本を広げる。
一年生の二人もなぜか無言になって、黙々と食事が進んだ。
以前なら、「貴之」の無関心さは寛大さと思われていたようで――もしくは暗いとでも思われていたのか――、「貴之」がいてもいなくても、二人の態度はあまり変らなかった。なのに今は、二人は貴子を意識しているらしい。
『後輩を気詰まりにさせるのは、あんまりいい先輩じゃないな』
貴子はちらりとそう思ったが、以前と同じペースで振る舞っているつもりだった。不必要に先輩風を吹かせて厳しくするつもりも、無駄に馴れ合うつもりもない。「以前とまったく同じように振る舞ってもまったく違う印象にしか見えない」という自覚はあるが、だからといって特別な配慮をするつもりはない。やはり単なる自意識過剰で実際は相手も気にしていないかもしれないし、二人とも声もかけて来なかったから、黙殺してすませた。
じきに光田雅美が食べ終えて出て行き、貴子のように惣菜パンを買ってきて食べていた竹内景斗も後に続く。
特に急ぎはしなかったが、のんびりもしなかったから、貴子も比較的すぐに食べ終えた。最後に甘いフルーツサンドを食べて、牛乳を飲み干すと、本をまたスカートのポケットにしまって立ち上がる。ゴミをゴミ箱に捨てて、お手洗いに歯磨きをしに行ってから、図書室に戻る。
一年男子の竹内景斗は、本棚の整理点検という名目の図書室散策にでているのか、カウンターにその姿はない。受付用の席に座っている残る女子二人は、小声でなにやら話をしていた。
「ああ、穂積さん、おかえりなさい」
「あ、お、おかえりなさい」
「…………」
貴子に気付いた司書先生の言葉に、ぎこちなく広崎紗南が続き、一年生の光田雅美は無言でぺこりと頭を下げる。貴子は「休憩終わります」と事務的に言って、司書先生とは反対側の席に歩いた。と、司書先生が貴子を引きとめた。
「穂積さん、土曜日の放課後に模様替えをしますが、参加できそうですか?」
「……遅くならないなら、大丈夫です」
「そんなに時間はかかりませんよ。食後に事務室に集まってくださいね。ああ、それと、来週の委員会は、読書週間の企画と、樟栄祭のことも話し合う予定ですので、アイデアを考えておいてください」
貴子は「土曜も空けといてね」と言っていた恋人のことを気にしたが、土曜日は彼女も部活があるから、部活の終了に間に合えば問題ないはずだった。了承の返事をして、奥の席に座る。
入り口側から、司書先生、光田雅美、広崎紗南、貴子、という席順で、紗南は隣に座った貴子をかなり気にしていたようだが、すぐに後輩との話に戻った。
紗南と雅美の二人は、秋の模様替えや月頭の定例委員会、十一月の樟栄際のことを話していたらしい。司書先生が貴子に土曜の事を言い出したのも、その流れがあるのだろうか。貴子は漏れ聞こえてくる声に事務的なことを考えながら、紗南の方のPCを少し借りて、返却遅延者のチェックなどを行ない、暇をつぶした。
貴子の座った席は、本の有無や場所の質問、コピー機の使用許可、授業の参考資料の案内などの問い合わせ用の席で、貴子も利用者がくれば相手をする。が、検索用のPCは別に用意されて、利用者は勝手に使用できるから――たまにそのPCの使い方がわからないという生徒もいるが――、お呼びがかかることはあまりない。
月末なのにそれほど忙しくないのか、司書先生も特に用件を押し付けてこなかったから、貴子は恋人のことを考えたりしつつ、また本を広げて読み始めた。時々利用者がくると、広崎紗南たちも話を止めて相手をしていたが、みなそのまましばらくゆったりと過ごす。
雨が降りそうな天気の影響か、図書室も普段よりやや人は多めだったが、混雑というほどではない。落ち着いた昼休みだった。
状況が動いたのは、昼休み終了の予鈴が鳴るまで後十分という頃だ。
急に貴子の隣で、紗南の身体が強張った。
貴子は紗南のことをほとんど気にしていなかったが、自分の前に誰かが近付いてきたことにはすぐに気付いた。仕事をするつもりで、貴子は事務的な態度で顔を上げる。
そして貴子もいきなり緊張した。
貴子がこの状況を想定していなかったのは、貴子に対する「彼女」の感情を、過小評価しているせいだろうか。
貴子の目の前に立った二年二組三十二番の女子生徒は、声を抑えて、貴子に笑いかけてきた。
「図書委員って、結構暇そうだね」
とっさに、貴子は言葉が返せない。「なんで脇坂さんがこんなところに」と乱れかける頭で考えるが、答えなんて出てこない。昼休みの図書室は出入り自由だから、少し考えれば予測できたことなのに、貴子にしてみれば予想外すぎだった。冷静にスマートに行きたいのに、心は勝手に暴れてしまう。
「わ、脇坂さん、なにしに、きたの?」
「うわ、ひどいこと言うんだね。ぼくが図書室にくるの、そんなに変?」
「え、ぁ、変じゃ、ないけど……!」
貴子は華奢な声で慌てて言い返し、本を置いてあたふたと立ち上がる。体育の後からずっと髪を二つ結びにしたままの脇坂ほのかは、くすくす笑って貴子に手を伸ばした。
「なーんて、図書室なんて滅多に来ないもんね。ぼくがここにきた理由、言うまでもないでしょ」
「ぇ、ぁ。ぅ……」
彼女に髪を撫でるようにつままれて、貴子はくすぐったくて身を竦める。自惚れてもいいのなら、彼女は自分に会うためだけにここにきたと言っているわけで、貴子の頬は微かに熱を帯びた。まったく考えていなかったから、その分余計に、じんわりと不思議な嬉しさも込み上げてくる。
「せっかくお昼一緒にできるって思ってたのに、貴子サボってくれないんだもん」
「そ、それは……」
「うん、わかってるよ。ぼくがわがままなだけだね。でも、貴子も少しは寂しいって思ってくれてた?」
「う、うん……。お、わたし、も、つまんなかった……」
人前で話すにはかなり恥ずかしいようなことをほのかは言うが、貴子も貴子で人目を気にする余裕がない。頬を桃色に染めて「わたし」という一人称で可愛い声で甘い言葉を言う「穂積くん」に、隣でぴくんと広崎紗南が身体を揺らしたが、貴子は全然気付かなかった。
ほのかは貴子の頬を一撫ですると、手を離した。カウンターにお尻を乗せて座り込もうかと一瞬考えたようだが、さすがに思いとどまって、カウンターに両肘を乗せて身を乗り出す。
「うちの学校の図書室って、昼休み結構人いるんだね」
「え、あ、うん。そう、だね」
「図書委員って、本読んでてもいいの? あ、貴子座ってていいよ」
「う、うん……、暇な時なら、なにしててもいいから」
貴子が座ると、二人の視線の高低差が大きくなる。緊張感いっぱいの貴子は少しうつむきがちにほのかを見上げ、ほのかはにこにことそんな貴子を見返す。身を乗り出しているほのかのスカートから伸びる足の片方は、後方から眺めると、爪先で床を蹴るように楽しげに揺れていた。
「貴子ももうご飯すんでるよね? 今日なに食べたの?」
「んっと、購買の、サンドイッチ。――脇坂さんは、お弁当?」
「ああ、うちの購買のサンドイッチっていけるよね。ぼくはどっちかって言うと、焼きそばロールとかが好きだけど。ミニ照り焼きハンバーグのやつとか」
貴子の母親は食べ物に対する冒険心が旺盛だが、貴子は一度気に入るものを見つけると、あまり冒険をしない。のだが、彼女に言われると話が別で、貴子は、今度食べてみよう、と頭に刻み込んだ。
「ぼくは今日もお弁当だよ。ホントはもっと早く来ようと思ったんだけど、鳥羽さんたちと話してたら遅くなっちゃった」
「あ、生徒会の、もうすんだの?」
「すんだというか、押し付けてきたというか。貴子に早く会いたかったから、任せてきちゃった」
「え、押し付けてきたって、いいの?」
「鳥羽さんたちに任せてればたいていのことは大丈夫だからね。ぼくはここぞという、美味しいとこだけ持っていく感じ?」
冗談めかして言うほのかに、貴子は冷静な時なら「それでいいのか生徒会長」と心の中でつっこんだかもしれないが、貴子には生徒会の事情はよくわからないし、相手がほのかではまだあまりつっこめない。曖昧な表情になって、ほのかに笑われてしまった。
ほのかはそのまま笑顔で、声だけ多少抑えて、あれこれと生徒会のことを貴子に話して聞かせてくれる。なんだかんだでやるべきことはちゃんとやっているらしい恋人の話に、貴子はたまに口を挟みながら、熱心に耳を傾ける。彼女の楽しげな明るい声が貴子の耳には心地よく、まだ緊張いっぱいだが、貴子の頬も時々自然に緩む。
「と、図書室では! 静かにして下さい……!」
二人の声はそう大きくなかったはずだが、横から注意の言葉が飛んできた。
むしろ広崎紗南のその声の方が大きく、ただでさえ新生徒会長とその同性の恋人に対して集まっていた視線が、よりいっそう集まる。
貴子は少し視線を鋭くして横を見たが、ほのかは悪びれなかった。「あ、ごめんなさい」と素直に謝って、声だけを少し小さくする。
「お隣の二人は図書委員? なんていう人?」
「あ、うん。んと、二年の広崎さんと、一年の光田。後一人、一年の男がいる」
「四人体制なんだ。手前の人が広崎さん? 仲いいの?」
「ん、普通、かな」
「…………」
露骨に貴子たちを気にしていた紗南は、貴子のその発言に傷ついたようだが、実際、悪くはないが特別よいとも言えない。
ちらりと横を見たほのかと紗南の視線がぶつかって、紗南はただでさえ強張っていた表情をますます強張らせて、目を逸らした。
紗南が貴子をいまだに「男」として見ているなら、ほのかの前での今の「貴之」の態度は、百年の恋も一発で冷めるような要素もあるはずで、いっそ愛想をつかすことができれば紗南も楽なのだろうが、色々と割り切れないのだろうか。
そんな紗南の硬い態度とは違い、ほのかの態度には余裕がある。ほのかは軽く笑って身体を起こした。
「怒られちゃったし、じゃましちゃ悪いから、そろそろ行くね」
「ぁ……」
貴子はちょっとがっかりしたが、「じゃ、貴子がんばってね」と笑ったほのかは、図書室を出るわけではなかった。うんと頷いた貴子が目で追いかけると、ほのかは図書室内をうろちょろし始める。
そうしながら彼女は貴子を見学することにしたようで、貴子と目が合うとニコニコ笑って、手を上げて指をひらひらと揺らしてくれる。貴子はすぐにそれに気付いて、ぎこちなく笑って小さく手を振り返したが、もう読書どころではなくなって、目でずっと彼女を追ってしまった。
しかも、ほのかはすぐに戻ってきて、さっきの休み時間に話題になった本の場所を尋ねてきたりする。これは今の貴子の職務だから、紗南も文句は言えない。貴子は直接案内するという手段を選びたかったが、PCで簡単に検索して口頭で間に合ってしまって、またがっかりして、ほのかに少し笑われた。
貴子の横で、広崎紗南はそんな「穂積くん」を苦しげな表情でちらちらと見やっていたが、貴子は紗南のことをまったくと言っていいほど意識していない。ほのかの前での貴子の態度や、余裕に溢れているほのかの存在が、紗南にどれほど重くのしかかっていても、紗南の問題は貴子の問題ではなかった。
貴子にとって、じれったくもちょっとだけ楽しい時間が、ゆっくりと流れる。
途中、ほのかは知り合いらしき女子生徒に声をかけられて、なにやら貴子の方を見やりながら笑顔で言葉を交わしていたが、あいにくとカウンターからでは聞き取れない。内容は他愛もない雑談で、特に意味のある会話ではなかったのだが――当然のごとく貴子のことは主要な話題になっていたが――、恋人が何を話しているのかわからない貴子は、いっそうじれったい気持ちになったりした。
そろそろ予鈴が鳴るというあたりで、カウンターは少しだけ混雑する。貴子は恋人を気にしつつ、できる範囲で、隣の二人を手伝う。
予鈴が鳴ると五限まで後五分という時間で、建前上はここで図書委員の仕事はおしまいだ。ぎりぎりに本を持ってくる生徒もいるから、予鈴後も仕事が残ることもあるが、司書先生が仕事を引き受けて生徒たちを追い出しにかかって、図書委員もすぐに解放される。
「貴子、おつかれさま」
当番の四人が司書先生に挨拶をして図書室を出ると、「外で待ってるよ」と一足先に図書室を出ていたほのかが、貴子に笑いかけてきた。
「う、うん……。脇坂さん、なにも借りてないけど、気に入るの、なかった?」
「ん、暇潰しになりそうなのはあったけどね。明日貴子が持ってきてくれるなら、今借りても読みきれないから」
「あ、そうだね」
貴子とほのか、二人肩を並べて歩き出し、ほのかはすぐに、いつものように貴子の手を握ってくる。貴子はまだまだ慣れずにドキドキしながらも、その手をそっと握り返す。
後ろでは、一年の光田雅美が「落ち着いた男子から可愛い女子になった図書委員の先輩」とその同性の恋人である「下級生の憧れの的の新生徒会長」との後ろ姿を緊張して眺めていたり、竹内景斗が「噂は本当だったのか」というふうに落ち着かなげにしていたり、広崎紗南がやや青ざめた顔をしていたりと、三者三様だったが、やはり貴子は気にしていない。
ほのかはそんな図書委員たちをどこまで意識しているのか、貴子に他愛もない話をふりながら、ちらりと後ろを見て、貴子と手を繋ぐだけではなく、そのまま腕を絡めてきた。
ほのかの身体の柔らかい部分が横から貴子の腕にぶつかって、貴子の同じ部分もほのかの腕にぶつかって、貴子は鼓動を跳ねさせたが、嫌ではないから、抵抗はしない。彼女の身体の柔らかさやあたたかさや甘い香りを感じて、貴子はどきまぎしながら、彼女と一緒に廊下を歩く。
「図書委員って、当番四人ずつなら二週間に一回くらい? 昼も放課後も拘束されるとけっこう手間だね」
「あ、六人ずつで八日に一回だけど、そんな手間でもないよ。たいていの班は、昼と放課後で担当分けてるから」
「あれれ、貴子は放課後も出るんじゃないの? もしかしてこき使われてるとか?」
「ん……、別に、こき使われてるって程でもないよ。部活がある人もいるから、わたし、が放課後も手伝ってるだけで」
「えー、それ充分こき使われてない? 貴子っていい子ちゃんすぎなんじゃない?」
「……そんなことないよ」
いい子ちゃん呼ばわりされて、貴子はちょっと複雑な顔をしつつ、正直な気持ちを口にする。
「自分で決めたことを、やってるだけだから」
「えー、貴子真面目すぎだよ〜」
ほのかはそう言いつつも、どこか楽しげに笑っていた。
そんな話をしながら、二階の連絡通路を通って主校舎に入り、ここで一年生二人と別れて、二年生の三人は三階へと向かう。すぐに二年二組に到着して、貴子とほのかはそのまま中に入ろうとする。
「ほ、穂積くん……! また放課後に……!」
「ああ、また後で」
恋人のことばかりを意識して、紗南の存在をほとんど忘れていた貴子は、良くも悪くも自分の気持ちに正直だった。がんばって口を開いた紗南と対照的に、貴子は少し振り向いて華奢な声でそっけなくそれだけ言って、すぐに恋人に注意を戻した。さっきからずっと彼女の腕が貴子の腕に絡んだままで、貴子はどきどきしっぱなしだった。
「貴子って、結構冷たいよね」
そんな貴子と紗南の様子をしっかりと窺っていたほのかは、教室に入りながら、少し苦笑いのような表情を浮かべていた。
「好きの反対は嫌いじゃなくて無関心って言うけど、貴子見てると、ホント、よくわかって面白いね」
「え、え……?」
「いいんだけどね、それで。ぼくだけが好きってことだもんね?」
冷たいと言われた貴子は、わけがわからなくてちょっと慌てかけたが、ほのかの言葉にそんな狼狽は吹っ飛んだ。馬鹿正直に頷いて、真顔で言う。
「うん、好きなのは、脇坂さんだけだよ」
反射的に言った後、貴子はなんだか急激に照れくさくなってしまったが、本音だから否定はしない。少しだけ自分から、彼女と繋いでいる手に力をこめる。
頬を桃色に染めた貴子のその反応に、ほのかの目の縁もほんのりと赤くなった。
自分から言い出しておきながら、こんな直球を返されると、さすがにほのかも照れてしまうらしい。教室の前方をゆっくりと歩きながら、ほのかは照れを隠すように、わざと茶化すように貴子にもたれかかった。
「貴子ってやっぱり恥ずかしい子だよね〜。もうぼく溶けちゃいそうだよ〜」
「わ、脇坂さんだって、さっき恥ずかしいこと言ってたよ」
いっそう密着する恋人の心地よい重みにあたふたしつつ、貴子はまた反射的に言い返す。ほのかは腕を絡めたまま明るく笑って、前から抱きつくように、もう一方の腕を貴子の身体に回した。
「それはほら、ぼくのは素直な気持ちってヤツだから」
「お、わたし、のも、そうだよ」
「あは、うんっ、じゃあ、問題なしだねっ」
「え、ぁ、うん……、そう、なのかな……?」
『いやいや、よくわかんないけど問題ありまくりでしょ!』というクラスメートたちの心の声は、ほのかにも貴子にも届かない。二人そろって自爆しているように見えて、不思議と自爆にはなっていなかった。むしろ無差別爆雷という感じで、見せつけられる教室の面々の方がダメージを負っていた。
ほのかはとてもご機嫌な様子で、くるりと、貴子の反対側の腕を抱きしめ直すように動いて、五限の授業のことに話題を変える。貴子も浮き足立った気分で、ほのかの話についていく。
五限も六限も、木曜日のみの七限の間も、二年二組の一部はもうずっと春めいていた。
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初稿 2008/05/03
更新 2014/09/15