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Boy's Emotion -AFTER STORY-

  Taika Yamani. 

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  その三
   三 「ありふれた朝の風景」


 九月二十九日、木曜日の朝。
 いつも通り目覚ましが鳴る前に覚醒した穂積貴子は、しばしまどろんでから、ゆっくりと身体を起こした。目覚ましとしては役に立っていない時計のタイマーをオフにして、小さなあくびをこぼしながら、パジャマのまま素足にスリッパを引っかけて洗面所に向かう。
 前夜の不安定な気持ちをひきずっているのか、心地よい目覚めとは言い難かったが、貴子にとって充分「普通の朝」の範囲内だった。まどろんでいた時もトイレの最中も、顔を洗っている時も寝起きの歯磨き中も櫛で髪を簡単に整える時も、色々と鬱屈した心理が湧き上がるが、朝からネガティブな感情に捕われたくはない。くすぶりはどうしても胸の奥に残ってしまうが、余計な思考は強引に頭から追い出して、朝食の献立など、なるだけ他のことを意識して考える。
 昨夜泊まっていった身内同然のお客さまは、今日も早起きをしているのか、リビング側からテレビの音が漏れ聞こえてくる。洗面所を出た貴子は、普段ならパジャマのままキッチンに行くところを、着替えるために一度自室に戻った。
 電気をつけてパッと明るくなった室内で、貴子は出窓のカーテンは開けずに、タオルケットと夏用の薄い掛け布団をきちんとベッドの上にたたんで、着替えを用意して、無造作にパジャマのシャツを脱ぎ捨てた。
 昨日ほど肌寒くはなかったが、朝晩は涼しい季節になってきている。タンクトップも脱いで上半身裸になった貴子は、手早くいつも通りハーフトップブラを頭からかぶった。しっかりと胸部をおおうように引き下げると、肩やわきの布地を軽く引っ張って、背中方向に指を通すようにアンダーの伸縮も整えて、最近手馴れてきた手つきで乳房のおさまりを調節する。その上からTシャツを着ると、パジャマのズボンとトランクスも脱いでボックスショーツに穿きかえて、体操服のハーフパンツと制服のスカートを穿く。スカートのサイドホックをとめてファスナーをあげて、ウエストもきちんと整え、Tシャツの上から半袖のオーバーブラウスも羽織って四つのボタンを順にはめて、最後にデスクチェアに腰を下ろして白い靴下に足を通す。
 脱いだパジャマは今夜も着ることにして、たたんでベッドにおいておく。もろもろ準備が終わると、タンクトップとトランクスを洗面所の洗濯籠に放りに行き、そのまま一度マンションの一階へ。何事もなく新聞を確保して三階に戻ると、貴子は朝食の献立を考えながらダイニングキッチンに入った。
 貴子が電気をつけると、リビングでテレビを見ながらノートPCと携帯電話をいじっていた女性が、顔を向けてきた。そのウェーブヘアの女性は、昨夜はコンタクトだったようだが、今朝はメガネをかけていた。年の割にすっぴんでも充分若く見える彼女は、新聞をダイニングテーブルに置く貴子に、にこやかに朝の挨拶を投げかけてきた。
 「たーくん、おはよう」
 「おはようございます」
 母親の友人の神田芳乃に、貴子は自然な声音で、だが以前とはまったく違う繊細な澄んだ少女の声で、ごく普通に挨拶を返す。
 床に直座りしている芳乃はまだパジャマ姿だったが、いつものことだから貴子は慌てたりしない。その光沢のある絹地のパジャマは芳乃によく似合って、大人の女性の身体のラインがきわどかったりするのだが、昨晩同様、貴子にとってはもう何年も見慣れた姿だ。メガネをかけているとかなり知的な印象に見える芳乃に、貴子は挨拶だけをして、冷蔵庫の林檎ジュースで喉を潤し、淡いグリーンのエプロンを身に着けて、すぐに朝食の準備に取りかかった。
 少し距離があるから、特に会話は発展しなかった。
 海外市場や最新ニュースの確認などをしていた芳乃も、制服にエプロン姿で料理を始めた貴子を少し眺めたが、すぐにPCに注意を戻す。
 昨夜のテレビの天気予報によると、今日は曇り時々雨らしいが、夜に降り出した雨はいつのまにか止んでいた。芳乃が開けたベランダへと続く窓から、レースのカーテンと網戸越しに、薄く広がる灰色の空が見渡せた。
 雨上がりの秋の朝の匂いと、どこからともなく聞こえてくる鳥の鳴き声。時折下を通る車のエンジン音や、タイヤが路面の水を弾く音。テレビのバラエティ系ニュース番組の控えめな音声に、キッチンの換気扇と除湿モードのエアコンの静かな稼動音。タイマーで起動して最後の追い込みの蒸気を出していた炊飯器と、貴子がテキパキと朝ご飯を作る音や匂い。
 芳乃がいるため毎日とは少しだけ違うが、貴子にとっては珍しくもない、穂積家のごく自然な朝の風景。年に何度も泊まりにくる芳乃にとっても、昔から可愛がっていた男の子が女の子になっているのを除けば、毎度おなじみと言える光景。
 そんなありふれた朝だったが、この日はちょっと珍しいことも起こった。
 貴子が起こしに行く前に、リビング横の襖が開いて、いつもは寝ぼすけな貴子の母親が顔を出したのだ。
 「雪先輩。おはようございます」
 「……芳乃? おはよ、泊まってったのね……」
 「ええ、珍しく早いですね?」
 どこか寝惚けているような雪子に、芳乃は笑うような声で応じる。雪子は寝乱れた髪を無造作にかきあげながら、「シャワー浴びてくるわ」と眠そうにぞんざいに言って、そのままダイニングに歩いた。
 そんな二人の声は、貴子にも聞こえている。
 ちらりと振り向いた貴子は、おはようと言いかけた言葉を飲み込んで、ため息をついてしまった。
 「またそんな格好で……」
 「タカちゃん、おはよう〜」
 眠気のせいか友人には少しそっけなかった雪子だが、我が子に対しては甘い態度だった。娘の非難など聞こえないようなほわほわした表情で、雪子はにっこりと挨拶をする。
 昨夜酔って帰ってきた雪子は、中途半端に服を脱いだだけで眠っていたのか、ブラウスにショーツだけという格好だった。ボタンが全開なブラウスの中は裸で、胸の二つのふくらみが半分ずつきわどく顔を覗かせている。貴子はいまさら動じないが、思春期の男の子には少し刺激が強い格好かもしれない。
 「おはよう。もう夏じゃないんだから、さっさと着替えないと風邪引くよ」
 「うん、シャワー浴びてくるー」
 雪子はあくびをしながらそう言うと、そのまま廊下に移動する。
 と、不意に戻ってきて、ひょこっと顔だけを覗かせた。
 「ごめんね、昨日は酔って帰ってきて」
 「うん? なに? いいからさっさと行きなよ」
 「……うん、ありがと」
 雪子は小さく笑って廊下に消えるが、最初しか振り向かなかった貴子は見ていない。朝からだらしがない母親に愚痴を言いたい気分になりつつ、貴子はそのまま料理を続けた。お味噌汁のだしを取る匂いが、少しずつダイニングに広がっていく。
 PCをいじりつつそんな親子を笑って眺めていた神田芳乃は、雪子がシャワーを浴びに行ってすぐに一区切りつけた。
 電源を落とすまでの数秒間、PCの壁紙が全面に映し出され、芳乃は見るともなしにそれを見つめる。
 このノートPCは芳乃の持ち物ではなく、穂積親子が共用で使っているPCで、壁紙に今年の夏の写真が設定してあった。他の用事がなければ芳乃もご一緒したかった恒例の旅行の写真で、二枚の写真が、斜めに少し角が重なるような形に編集されて、壁紙になっている。
 一枚は、夕焼け空と異国の情緒をバックにした写真。スタイリッシュできれいな大人の女性と、シンプルなカジュアルをシックに着こなした十代半ばの少年とのツーショット。事情を知る芳乃から見れば、「明るく陽気な母親と、その母親のエスコートを無理矢理仰せつかっている息子」というのがもろわかりな印象で、少し笑える。楽しげな笑顔の母親と、写真を嫌がってはいないが特別好んでもいないという、どこかおすまし顔の少年。
 もう一枚は、別の背景と青空の下の、その少年一人だけの写真だった。
 斜め前方からのバストショット。上半身の胸から上と、さわやかに甘く自然に笑っている横顔。
 この写真のすぐ後に、不意にシャッターを押した母親に少年が不機嫌になったり、それを照れ隠しと判断して母親が楽しげに笑ったり、少年がわざとそっけない態度をとったりする一幕があったのだが、写真ではそこまではわからない。身内といる時にだけ見せていた、その少年のナチュラルな笑顔が、そこには残っている。
 芳乃の大学時代からの先輩が、PCの壁紙に子供の写真を設定するのはいつものことだが、新しい写真を撮ればすぐに切り替えることが多い。今までの習慣なら、写真屋さんで撮ってもらったという真新しい制服姿の写真や、先週の土曜日にみなで出かけた時の写真などに切り替わっていても不思議はない。
 それを思うと、『やっぱり雪先輩、女の子になったたーくんは前のたーくんとは違うって思ったり、男の子のままでいて欲しかったって、思ったりしてるのかしら?』と、芳乃はちらりと考える。
 一人息子の性転換病が発覚した時、雪子は子供の前ではわざと少しはしゃいで自然体を貫いたようだが、友人たちの前では露骨に重そうな顔も見せた。今は前向きに受け止めているような顔をしているが、息子が娘になった上に、見た目や声がまったく別人のように変化しているという現実は、母親にとって軽くはないだろう。芳乃にとっても、昔から可愛がっていた男の子が、まったく別人のような女の子になってしまったのは軽くはない。そしてまだ一月もたっていない今、本人にとっても軽くはないことが容易に推測できる。
 芳乃がPCを片付けてダイニングに移動すると、そこにあるのは、最近広く大きくなってきていた男の子の背中ではなく、可憐な女の子の華奢な後ろ姿。
 きれいな姿勢と手馴れた手つきで料理をする少女の動きに合わせて、背中でバツの字を描くエプロンの裾や、白黒チェックのプリーツスカートが軽やかに揺れている。髪が短いからうなじも小さな耳も剥き出しで、スカートから時折垣間見える膝裏や、半袖のブラウスから覗く二の腕とともに、雪のように白い素肌が眩しい。清潔なロークルーソックスに覆われているふくらはぎや細い足首のラインも鮮明で、シンプルなブルーのスリッパもそこはかとなく家庭的な印象を強調している。
 「たーくん、その格好もすっかり板についてきたわね」
 「……制服ですからね」
 芳乃のやたらと実感の篭った声に、その少女は料理の手を止めず、振り向きもしなかった。スライストマトとセロリのサラダを作りながら、容姿に見合った繊細な声で、返答になっていないような言葉だけを口にする。
 「なんだか変な感じよね、たーくんが女の子になってるなんて。似合ってるからなおさら変な感じだわ」
 「…………」
 男の子から女の子になって、同性の恋人まで作った、芳乃の昔なじみの「たーくん」。沈黙で応じる「彼」を軽く笑って、芳乃はダイニングの椅子に腰掛けた。
 「そのたーくんに恋人までできちゃったのよねぇ。おねーさん、なーんか寂しいなぁ」
 「子供はそうやって大人の知らないうちに成長するんですよ」
 からかわれていると感じた貴子は、すぐに気を取り直して強気に言い返した。
 「芳乃さんも、いい加減遊びの付き合いはやめて、身を固めたらどうです?」
 「いまさらなぁ」
 メガネをかけたままの芳乃は、『今のたーくんだと、声も可愛すぎてほんとに全然迫力ないわね』と感想を抱くが、口には出さない。『失恋も経験したみたいだし、もう一皮向けてあと何年かすればきっとイイ男になってたのにな』という感慨も態度には出さずに、芳乃はそんな貴子とのやりとりを楽しむ顔で、笑って貴子に応じる。
 「でも、そうね、子供は作っておけばよかったかしら」
 「作ればいいじゃないですか。その気になればすぐでしょう」
 「もう遅いわよ。四十超えての初産は辛いって言うし、一から子育てもやる気ないし、第一、子供は嫌いだしね」
 芳乃が子供嫌いと主張するのは、今に始まったことではない。料理を続ける貴子は『代理母とか手段はあるでしょうに』と思いつつ、『芳乃さんが自分で選んでるのならおれに言えることはなにもない』という態度になって、特に言葉を返さない。
 「たーくんみたいな子ならいいんだけどねー? 昔からたーくん、手がかからなかったから。七美先輩とこの二人はうるさいくらいだったのに、たーくんたら最初はちっとも懐いてくれなくて」
 「どうせなら、もっと人見知りして、懐かない方がよかったかもしれないですね」
 からかうような芳乃に、貴子は強気半分冗談半分だったが、芳乃の方が一枚上手だった。
 「あら、懐かれたおねーさんの勝ちだったのね?」
 茶化すように言い返されて、貴子はつい笑ってしまった。「そうですね、懐いちゃったおれの負けですね」と貴子は甘い声で軽く応じ、芳乃もいっそう顔をほころばせた。
 もともとうるさい子供が嫌いで「先輩の子供」にも構うつもりがなかった神田芳乃は、「貴之」の乳児期には積極的には近付いていなかった。ある意味今以上に人見知りが激しかった幼い「貴之」の方も、芳乃が傍にいても、芳乃の存在などないかのように振る舞うことが多かった。そんな子供だったから、芳乃も「貴之」があまり騒がない子供だということを少しずつ理解して、ゆっくりと「貴之」に構うようになっていった。
 初めて「貴之」を抱っこした時、少し身を固くして、じーっと自分を見つめてきた一歳の男の子の顔を、芳乃は今でも覚えている。ちょっと緊張していた芳乃は、甘いミルクの匂いがする彼とまっすぐに目を合わせて、笑顔を作って「貴之くん、よろしくね」と、まるで初対面のような挨拶をした。芳乃は今にして思い出すと、一歳児相手に緊張していた自分が少し可笑しいが、約十五年前のその時は大真面目だった。
 対する男の子は、初めて芳乃に露骨な興味を見せて、無言で手を伸ばして、ぺち、と芳乃の顔に触れてきた。その小さな手がくすぐったくて、あどけないしぐさが可愛らしくて、「こら、女の顔をそんなに簡単にさわっちゃダメよ?」と、一歳児相手に冗談を言って、その男の子をそっと抱きしめた芳乃だ。そのとたんに、露骨にむずがられてしまったが、それも今となってはいい思い出だった。
 「懐かしいなぁ。たーくん、三歳にもなるとけっこう重いのに、高い高いとか好きだったよね。普段大人しいから、その分笑うと余計に可愛くて。いつもやると喜んでくれてたのに、なのになんでこんなに今は逃げちゃうのかしら?」
 「早く忘れてください。子供なんてそんなものでしょう」
 料理を続ける貴子と、椅子に座ってテーブルに腕を乗せて笑っている芳乃、しばらく昔話に花が咲く。
 笑顔の芳乃は、からかうというよりは懐かしそうに純粋に楽しんでいるふうに言葉を紡ぐが、貴子にとっては恥ずかしい話も少なくない。「これだから自分の子供時代を知っている大人というものはたちが悪い」と思わされる。が、そこに不快感が伴わないのだから、貴子の内心の愚痴も本心ではなかった。
 途中、母親のシャワーの時間を見計らって料理の手を調整しつつ、貴子はマイペースに芳乃に付き合う。たまに言葉につまったり少し赤くなったりもしたが、貴子も遠慮なく言い返して、時々自然な笑みもこぼれていた。



 白身魚の切り身を焼きながら、お味噌汁のだしが充分とれて火力を弱めて味噌を溶かしたあたりで、貴子の母親もバスルームから戻ってくる。
 「朝から楽しそうね」
 雪子はそう言うが、芳乃たちが泊まっていくと賑やかな朝になりがちなのはいつものことだ。「わたしとたーくんの仲ですから」と胸を張る芳乃に、貴子も軽く笑って、「もうご飯できるよ」と明るく振り向く。
 とたんに、貴子は笑みを引っ込めて、半分お説教モードになった。母親の格好が、裸にバスタオルを巻いただけという姿だったからだ。
 「さっきからなんて格好してるのさ。芳乃さんもいるのにみっともない」
 「えー、いいじゃない、この間は一緒にお風呂だって入ってくれたくせにー」
 可愛い声と顔で叱ってくる娘に、雪子は拗ねたようにそんなことを言い、芳乃はその言葉に少し驚いて騒ぎ出す。
 「そういう問題じゃない」
 貴子は強気に言い返したが、なまじ事実なだけに立場は弱かった。「お母さんと一緒にお風呂なんて、たーくんまだまだ甘えん坊さんね」「今度おねーさんとも一緒に入る?」などなどと賑やかな芳乃も芳乃だが、調子にのって自慢しだす母親も始末に負えない。貴子は上手く言い返せず、ちょっとだけ頬を桃色に染めて、強い口調でいつもの脅し文句を口に出した。
 「二人とも、それ以上騒ぐとご飯抜きにするよ。ほら母さん、さっさと服着てきなよ」
 「え、おねーさんも?」
 「ひどいわ、タカちゃんのご飯がないとお母さん生きていけないのに」
 「いいからさっさと着替えてくる!」
 繊細で愛らしい声を精一杯張り上げて、貴子は包丁ごとビシっと、華奢な腕を母親の部屋の方に向ける。今の小柄な貴子に、樟栄高校の女子の制服と黄緑色のエプロンはとてもよく似合っているのだが、包丁の鈍い光りは少しデンジャラスだ。
 「う〜、タカちゃんが意地悪だわ、そんな子に育てた覚えはないのに。しくしく」
 雪子はわざとらしく嘆いたが、素直に自室の方に消える。芳乃も「たーくん、それちょっと怖いわよ」と口では言いつつ、メガネ越しの瞳は笑っていた。
 「相変わらず、これじゃどっちが子供かわからないわね〜」
 「世話が焼ける母さんですからね。家の中だからってだらしない母親を持つと、子供は苦労するんですよ」
 「その分、たーくんも世話を焼いてもらってるのかしら?」
 貴子は否定をせずに、軽く笑って料理に戻った。絹ごしの豆腐を片手に持って賽の目に切り、そっと鍋の中に投下する。
 「家の中なんだから、少しくらいいいんじゃないかなーと、おねーさん、思うわよ?」
 「芳乃さんが家でどんな格好しようと勝手ですけどね、おれの前ではやめてください」
 「んもぉ〜、たーくんお固いなぁ」
 「身内に反面教師がいますから」
 悪びれもせずに言う貴子に、芳乃はくすくす笑う。
 「そろそろできる? おねーさんも手伝うわ」
 「あ、じゃあ、茶碗お願いします」
 「いつもありがと。やっぱり、たーくんがうちにも一人欲しいなぁ」
 「いいですよ、おれが二人いたら一人あげます」
 ありえないとわかっているから、貴子はどうとでも言える。「たーくん少し性格悪くなったかしら?」と笑う芳乃に、貴子も「それもきっと、まわりにいる大人の影響ですね」と澄まして笑って言い返した。
 芳乃と他愛もない会話を交わしながら、貴子はお茶の準備もする。今日は和食だから、三人分の緑茶だ。
 「うーん、いい匂い。タカちゃん、おなかすいたー」
 すぐに雪子も着替えて戻ってきた。お椀によそったお味噌汁に薬味のねぎを添えていた貴子は、「あ、卵とかどうする? 今日は山芋もあるよ」と振り向きつつ気軽に応じたが、母親の姿にまたため息をつきたくなった。なぜか雪子はパジャマ姿だ。母親たちが出勤するまでまだ時間はあるから、スーツになれとは言わないが、せめて普段着で出てきて欲しかった貴子だ。
 パジャマ姿の大人たちがお茶を飲んで歓談するうちに、制服にエプロン姿の子供がテキパキと動いて、できたての料理をテーブルに広げる。
 白米にお味噌汁、焼き魚と白菜の漬物、トマトのサラダと、時々母親の実家から送られてくるあさり類の海産佃煮。海苔や卵や納豆や山芋のとろろは、リクエストに応じて個別に出す。貴子がエプロンを脱いで食卓につくのを待って、三人そろっていただきますだ。
 昨日の今日だから、貴子の話題になりがちだったが、知り合いの話や昨今のニュースの話も飛び交った。
 こういう話の間は貴子も気楽で、時々自分から会話に参加する。毎朝こんなに賑やかだと付き合いきれないが、そう頻繁にあるわけでもないから、貴子も笑っていられた。
 公認会計士の大人二人は、上半期の決算で忙しい時期で、雪子は今日も遅くなるらしい。「タカちゃんの夜ご飯がまた食べられないわ、しくしく」と雪子がいじけ、芳乃も一緒になって嘆きつつ「余裕ができたらたーくんにご馳走作ってもらうことにして、一緒に店屋物で我慢しましょう!」と、強引に貴子に約束を取り付けていた。
 母親たちがこの時期忙しいのは毎年のことだから、貴子も特に反対はしない。独身者向けの高級マンション住まいの芳乃は、月に何度かハウスキーパーを呼んで掃除は任せているようだが、食事の世話までは頼んでいないらしい。その分外食が多いようで、貴子の料理を楽しみにしてくれるから、貴子も作り甲斐がある。「材料費は芳乃さんがもってくださいね」と貴子は冗談で軽く言い返して、あれこれとリクエストを貰った。こういう面は母親たちに甘い子供だった。
 会話は自然に移ろい、最近評判のお店や料理人の話になったりもする。「たーくん、また土曜あたり一緒に行かない?」と芳乃は誘ってきたが、雪子が「だめよ、タカちゃん土日は彼女とでーとするとか言ってるんだから」と急にまた拗ねたような顔になって、芳乃が面白がる一幕もあったりした。
 雪子から見れば「息子から娘になった我が子」の初デートで、芳乃から見ても「幼い頃から知っている、女の子になってしまった男の子」の初デート。芳乃は少し不満そうな雪子と一緒にあーだこーだ騒ぎつつ、高校生にも使える最新のオススメデートスポットをあれこれと列挙していた。
 貴子の母親やその友人は、外では大人の顔を使いこなすくせに、身内だけの空間ではいくつになっても振る舞いが若い。貴子はさすがに付き合いきれずにちょっと閉口したが、頭の片隅ではちゃっかりとメモをとっていた。学校が終わって家に帰ってきてから、ネットで少し調べて、日曜日のデートプランをあれこれと考えてみたりする貴子だった。
 いつもより賑やかなそんな朝の食卓も、料理が減って、おなかも膨れていくと共に終わりを告げる。
 一番おしゃべりに口を使っていたわりには、真っ先に食べ終えたのは芳乃だ。貴子は二番手で、まだパジャマ姿の大人たちは食後のお茶を楽しめるほど時間があるが、無駄話に興じていたせいか、子供の方は普段より余裕がなかった。母親が食べ終わる前に立ち上がった貴子は、自分とお客さんが使った食器を片付けて、いつもの電車に間に合うようにさっさと出かける準備をする。
 「たーくん、ハンカチ持った?」
 貴子が準備を終えてリビングに顔を出すと、芳乃はそんな冗談を言う。
 芳乃に言われなくとも、男だった時から使っている財布もハンカチも家のカギも、そして母親に言われて忍ばせている小さな護身スプレーや携帯電話なども、貴子のスカートの左右のポケットにちゃんと入っている。貴子は「七美さんといい芳乃さんといい、いつまでたってもおれのこと子供扱いなんですね」という顔で苦笑気味に笑って――本人の意図に関わりなく、恋人が見るとちょっと芳乃たちに嫉妬しそうなくらいに可愛らしい自然な微笑みを浮かべて――、ポケットから清潔なハンカチを取り出して見せた。
 さらにやいのやいのと朝から賑やかな母親とその友人に、貴子もどこか笑みを含んだ素直な声で、行ってきますの言葉を口にする。二つの行ってらっしゃいという声をもらって、貴子は学校へと出発した。
 色々と思い悩むことは多いし、鬱になることも辛いこともあるが、ちゃんと楽しいと思える時間もある。貴子本人はまったく自覚していなかったが、家族のなんでもない時間は、貴子の心に、どこかゆとりを作ってくれる。
 外の天気はいいとは言えなかったが、貴子の心の天気は悪くはなかった。








 concluded. 

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初稿 2008/05/05
更新 2009/05/08