Boy's Emotion -AFTER STORY-
Taika Yamani.
その三
二 「母親の友人」
もうすぐ今日が終わる時間。
心も身体も疲労を感じているが、どこか神経がささくれだっているのか、「だるい」という感じで、「眠い」という感じではない。貴子は眠くなるまで適当に本でも読もうと考えながら、洗面所を出ようとした。
その寸前、玄関の方で物音がした。
母さんが帰ってきた、と貴子は自然に判断したが、聞こえてきた声はただいまではなかった。
「タカくん、もう寝てるかな?」
「どうでしょうね? いつもならまだ起きてそうですけど」
母親ではない大人の女性の声が二つ。どちらも貴子がよく知る声だった。
母親の穂積雪子の友人の、新庄七美と神田芳乃の声。
「ほら雪、靴脱いで?」
「ぅ〜、七美、脱がせて〜……」
「おじゃましま〜す」
落ち着いた七美の声と、どこか寝ぼけているらしい雪子の声と、その雪子を笑うような芳乃の明るい声と。
母親が友人を連れてきたことを察して、貴子はさっきまでとは別の意味でちょっとため息をつきたくなったが、母親の友人の来訪はよくあることだ。誰かと会いたい気分でもないのだが、彼女たちの件に対してはとっくの昔に達観している。「もっと早く寝てればよかったかな」と思いつつ、貴子は廊下に出た。
できれば自分の部屋に逃げこみたかったが、洗面所や自室は玄関に近い。すぐに貴子は予想通り、ビジネススーツ姿の女性と遭遇した。
神田芳乃。
母親の大学時代の一つ年下の後輩にして、事務所の共同経営者。貴子の母親も若く見える方だが、この年でも未婚のせいか、貴子の母親以上に若く見える女性。
一歩間違うと派手になりそうなお化粧は少し色気が過剰だが、瞳に妖艶さを与えるアイシャドーと赤いルージュがよく似合って、知的な大人の女性を巧みに演出している。シックなセルリアンブルーのタイトスカートと、その下に覗く脚の質感が艶っぽく、バリっとした半袖の白いブラウスに見える身体のラインは、活き活きとした躍動感に満ちている。貴子の母親よりもやや長いウェーブヘアが活動的で、スカートと揃いのジャケットと一緒に書類ケースを持っているのも、やり手な女性の印象を抱かせる。
『貴之くん、お久しぶりね。元気だったかしら?』
襟がやや深いブラウスのボタンを一つ外して歩いてきた神田芳乃は、そう言って鋭く艶やかに笑うのが似合いそうだが、この女性がいくつもの顔を持っていることを、貴子はよく知っていた。貴子の母親も似た傾向があるが、見た目は「できる女」という雰囲気で大人の魅力を持っているのに、芳乃は身内だけの空間ではその第一印象を裏切る振る舞いを見せる。
貴子の母親よりも背が高い彼女は、小柄なパジャマ姿の貴子を見かけるなりパッと表情を明るくして、いきなり貴子に抱きついてきた。
「きゃー! たーくん、久しぶり〜!」
母親とは違う香水の香りが貴子の鼻腔をくすぐるが、ここで慌てるほど貴子と芳乃の付き合いは浅くなかった。毎度おなじみの芳乃の行動に、貴子はひょいと一歩下がって芳乃の抱きしめ攻撃を避けた。「大学時代からの先輩の子供」を無責任に猫可愛がりしようとする芳乃に、「貴之」も幼い頃はまだ素直に抱きしめられていたものだが、思春期に入った頃からそう簡単にはつかまらない。
「土曜にも会ったじゃないですか。こんばんは」
「やーん、もぉ、こんな可愛くなったのに、たーくんイケズね〜」
芳乃は笑って非難の声を上げるが、そんな芳乃に慣れている貴子は、あっさりとそれも受け流す。
「こんな時間に来るのは珍しいですね。今日も泊まっていくんですか?」
長い付き合いの芳乃たちに対して、貴子は変わり果てた今の姿や声で接することにまだ少し抵抗があるのだが、芳乃たちがこんな態度だから、マイペースでいることができた。貴子は逃げるのを諦めて、落ち着いた態度で芳乃と向かい合う。
芳乃も芳乃で、そんな貴子には慣れっこだ。『見た目も声もすっかり変わってるのに、やっぱりたーくんはたーくんだなぁ』という顔で笑って、神田芳乃は言う。
「うん、帰ろうかとも思ったんだけど、たーくんの顔が見たくなっちゃってね?」
「…………」
芳乃たちにとって、今の貴子の顔は、幼い頃から見知っている男の子の顔ではなく、まだ数えるほどしか会っていない見慣れぬ女の子の顔。
さっきまでの鬱屈した心理の影響もあるのだろうか、冗談めかした芳乃に、貴子はとっさに言葉を返せない。
そんな貴子の気持ちをやわらげる意図があるのかどうか、芳乃はニコニコと貴子の身体に視線を這わせた。
「たーくん、こうして見るとやっぱりスタイルもいいわね。私服も制服も可愛かったけど、パジャマもとっても可愛いわ。おねーさん、もう食べちゃいたくなるかも」
「芳乃ったら、また品のないこと言って」
ふざけたことを言い出す芳乃に貴子が暗く反発するより早く、笑うような声でつっこみが入った。
かなり泥酔しているらしい雪子を支えながら、雪子と同い年の女性が近付いてくる。
雪子の大学時代からの友人の、新庄七美。
スリムなスラックスのビジネススーツ姿の雪子と違い、やや小柄な七美はカジュアルな私服姿だった。きれいな花模様のロングスカートに、身体に柔らかくフィットした七分袖のニット、その上から長袖のサマーカーディガン。元都議会議員の父親と、政治家秘書の夫と、大学生の子供二人を持つ専業主婦な七美だが、お嬢様育ちの彼女は、あまり主婦っぽさを感じさせない。必ずしもずば抜けた美人ではないが、背に流れる長い髪がきれいで、優しげな雰囲気を持っている女性だった。
「雪先輩、大丈夫そうです?」
七美のつっこみに、芳乃は笑いながら振り向く。
貴子は滅多にない泥酔状態の母親に少し眉をひそめて、七美に物問いたげな視線を向けた。
「ダメみたい。タカくんこんばんは、おじゃまするね。雪に水もらえる?」
「あ、はい、こんばんは。とってきます」
母親を支えてくれている七美の言葉に、貴子は疑念を脇において、すぐに回れ右をしようとする。
その瞬間に、雪子が動いた。
「タカちゃんたらいまー!」
芳乃の「あ、たーくんわたしも水ちょーだい?」という台詞にかぶさるように、雪子が急に大きな声を上げた。貴子の方に両手を差し出して、身体を投げ出してくる。
「あ」
七美が少し慌てるが、間に合わない。
貴子は普段なら避けるところだが、泥酔している雪子は、貴子が避けるとそのまま倒れこんでしまいそうだった。貴子は慌てて体勢を整え、赤ら顔の母親に真正面からのしかかるように抱きつかれた。
母親のぬくもりが貴子を包み込み、甘いアルコールとデリケートな香水の匂いが、微かにパッと漂う。
「ごめんね、こんなお母さんで……」
え? と疑問を感じる暇すらない。
そう呟いた雪子の身体から、不意に力が抜けて、ぐったりと全体重が貴子にかかってきた。
「く」
重い、という言葉が、貴子の喉の奥につまる。
雪子の体重は平均と比べて特に重いわけではないから、二ヶ月前なら余裕で支えたのだが、今の貴子には少し辛かった。貴子はよろけつつ、なんとか壁に背中を預けて、母親と自分の身体を支える。
「こら、雪! タカくん、大丈夫?」
「はい、だいじょうぶです……」
華奢な声をかすれさせてうめく貴子に、急いで七美が雪子の身体を引っ張る。
意外にすんなりと雪子は離れたが、そのまま廊下に倒れそうになる。貴子はまた慌てて、とっさに手を出した。そんな娘の腰に、雪子は無意識にしがみつくように片腕を回す。
「ぁぅ、タカちゃんが柔らかい……、いい匂いする……」
「ちょ、ああもう母さん、なんでこんなに飲んでるのさ! しゃんとしなよ!」
「タカくん、まずは運びましょう?」
「あ、はい。すみません」
「タカくんが謝ることじゃないでしょ」
友人を反対側から支える友人の子供を見て、七美は優しく笑う。芳乃も笑って、三人に先行した。
「そうそう、雪先輩が悪いんだから、たーくんが謝ることなんてないわ」
「うん、今日はちょっと飲みすぎね」
「わたしは全然酔ってます!」
雪子は一瞬だけシャキッとなってそう言うが、微妙に意味が不明だった。傾向的に、自覚のない酔っ払いはたちが悪いものだが、自覚があればいいというものでもない。
大人二人は笑って雪子の相手をするが、その雪子の子供である貴子としては、人前でこういう醜態を見せられると、少し母親が憎らしくなる。身内の恥は、時として自分の恥より恥ずかしい。いくら芳乃や七美が気心の知れた相手だとしても、貴子としてはこういう状況では割り切れない。さっき謝ったということは、自覚があるということなのかもしれないが、あまり子供に恥をかかせないで欲しかった。
それから数分かけて、貴子は七美と協力して母親を寝かせにかかった。
「今日は三人で飲んできたんですか?」
「ううん、亜衣ちゃんも一緒よ。明日も早いからって、先に帰ったの」
「亜衣子、たーくんによろしくって言ってたわよ。ちびっこたちも“貴子お姉ちゃん”にまた会いたいみたい。今度遊びに行ってあげないとね?」
母親たちの他の友人やその子供について言葉を交わしながら、まずは酔っ払いをリビングに運び、ソファーに寝かせる。貴子はすぐにおしぼりを作って七美に渡し、七美に言われるままに母親の部屋に布団を敷きに行く。七美はその間に、自分で動く気がない友人に水を飲ませたりお化粧を落としてあげたりと、あれこれと世話を焼いていた。母親が迷惑をかけっぱなしで、貴子としてはかなり恐縮だ。
神田芳乃は、最初に貴子のかわりに三人分の水の用意をしただけで、後は傍観者だった。さっきまで穿いていた薄いストッキングを脱いで、ブラウスにタイトスカートという格好で、足を組んでソファーに深く腰掛けてくつろいでいた。ボタンを一つ外したブラウスの隙間から、今の貴子よりも豊かな胸の谷間と刺繍の入った下着が顔を覗かせているが、それを気にすることもなく、背もたれに片腕を預けて、もう一方の手で氷とミネラルウォーターの入ったグラスを弄んでいた。
そんな芳乃に笑われながら、貴子は七美と二人で母親を隣の和室に運びなおすと、後は七美に任せてリビングに戻った。母親は歯磨きをしたいとかシャワーを浴びたいとぐずっていたが、そこまで面倒は見切れない。リビングに入って襖を閉め、貴子はちょっと一息吐いた。
「たーくん、ご苦労さま」
「そう思うのなら芳乃さんも手伝ってくれればいいのに」
母親と同世代の神田芳乃たちは、貴子からは「おばさん」と言える年齢だが、幼い頃からの習慣で貴子はその言葉を使わない。笑っている芳乃に、貴子は無防備な声で少し子供っぽく反論する。
本人の意図に関わりなく、そんな態度は今の貴子の繊細な声音によく似合って、可愛く拗ねているような響きが芳乃に伝わる。なんとなく「貴之」の幼い頃でも思い出すのか、芳乃は笑みを深くした。
「三人も手はいらないでしょう?」
「まあ、そうですけど」
「たーくんって、ほんと、かいがいしいよね〜」
「親が親ですからね」
テーブルの上の母親が使ったグラスを確保しながら、貴子はすぐに言い返す。からかうような芳乃に、うろたえたりすると遊ばれるだけだとわかっているから、貴子の態度には遠慮がない。それでいて無視したりしない辺りに、二人の関係は表れているのかもしれない。
芳乃は笑って、毎度おなじみの冗談を言った。
「あーあ、雪先輩が羨ましいなぁ。たーくん、やっぱりおねーさんのところにお婿に来ない? あ、今ならお嫁かしら? って、よく考えたら、たーくん十六だから、女の子ならもう結婚もできるのね」
「……いつから趣旨換えしたんです?」
「あは、そうね、今のたーくんに会ってからかしら? 前のたーくんも可愛くてカッコよかったけど、今のたーくんも、なんか青い果実って感じで美味しそうよね」
「…………」
「今のたーくん見てると、おじさん連中が女子高生に騒ぐ気持ちもわかるなぁ。今度おねーさんと援交してみる?」
「勝手に一人で捕まってください」
「え、捕まるようなことしていいの?」
「どんな解釈ですかそれは」
「じゃあ、援助はなしで、交際だけどう?」
「しません」
「んもぉ、たーくんってば相変わらずイケズね〜」
「そんなこと言ってると、なんかおばさんくさいですよ」
「あら、実際、おねーさんはもうとっくにおばさんだもの」
グラス片手に壁にもたれかかった貴子は、意識して腕組みをするように片腕を胸のふくらみの下にまわし、少し目を細めてすごんで見せたが、もともと男だった時から芳乃たちには通用しない。その上、今は小柄な少女の姿で、声も繊細で、おまけにパジャマ姿で、まったく迫力がなかった。もっと今の自分の顔や表情のありかた理解すれば、もう少しは怖い顔もできるのだろうが、まだまだ貴子は今の自分を理解できていなかった。
「たーくん、なんていうか、下手な男の前でそんな目したらだめよ」
「……なにがです?」
「前は冷たい目するとすごくサマになってたのになぁ。それ、もしかしていつものキツイ視線のつもりなんでしょう?」
「…………」
くすくす笑いながら言う芳乃に、貴子は言葉につまった。ここで反発できればまだ気が楽なのかもしれないが、どうしてもネガティブになって、鬱っぽさや落ち込みの方が強く襲ってくる。
「あ、そんな顔もだめよ。憂いがありすぎて、そこらの男ならころっと騙せそうだわ」
「そんなことより、今日は母さん、なんであんなに飲んでるんです?」
からかわれるのも真剣に落ち込むのも、どちらも望むところではない。貴子は中身の残っている母親のグラスの水を少し飲んで、話を強引に転換させた。
「あは、それってたーくんのせいでしょ」
急に、芳乃の笑みの質が変わった。明るく楽しそうな、ちょっとニヤニヤした、人の悪い大人の微笑。
「たーくん、カノジョできたんですって?」
「…………」
母親が友人に子供のことを話すのはよくあることだから、非難はしない。非難はしないが、貴子はまた言葉につまった。
芳乃たちは雪子と親友同士と言える間柄だが、「貴之」とも長い付き合いで、乳幼児期にはオムツやお風呂の世話までされたこともあり、幼い頃のあれこれを色々と知られている。昔のこととはいえ恋人には知られたくないような弱みも握られていて、貴子にとって、芳乃たちは良くも悪くも、母親の次くらいに親しい相手だ。
が、だからと言って、色恋沙汰が知られてしまうのはまた別格だった。隠すようなことではないし隠すつもりもないが、貴子の中に妙な気恥ずかしさが湧き上がってくる。
「聞かされた時、おねーさん、もうすごくびっくりしたわよ? 同級生で、去年から好きで、一昨日放課後に告白されて、もうさっそくキスまですませちゃったって? 告白されてやっぱり嬉しかった?」
「…………」
貴子は壁につっぷしたくなった。
母親はいったい、どこまで友人たちに貴子のことを話したのか。
一昨日の夜、貴子は調子に乗って、好きな女の子のことをあれこれと母親に話してしまった記憶はある。記憶はあるが、それを芳乃から聞かされるのはかなりクルものがった。急激に顔が熱くなるのを嫌でも自覚してしまう。
「大丈夫よ、まだそんなにたくさんは聞いてないから」
芳乃はそんな「たーくん」を眺めて、本当に楽しげに笑みを零す。
「雪先輩の方にも問題があるみたいだしね。あんなに荒れてた雪先輩は久しぶりに見たわ。たーくんが女の子になるってわかった時でも、ここまでは荒れなかったのに」
妙な羞恥に襲われていた貴子は、反射的に、微妙な話題の変化に飛びついた。
「それって、母さんが反対してるってことですか? 納得してくれたはずなんですけど?」
「まさかぁ、無理に決まってるじゃない。よりにもよって、一度たーくんのことふってるんでしょ、その子。たーくんが女の子になったからって手のひらを返して一目惚れだなんて、おねーさんでも納得したくないのに。そんなどこの馬の骨ともわからない女にたーくんを取られそうになって、雪先輩がそう簡単に納得するわけないわ。――ですよね、七美先輩?」
芳乃は笑顔のまま、襖の方に視線を投げる。
雪子のスーツを脱がせて寝かせてきた新庄七美は、襖を閉め、少し困ったような顔で、だが優しい瞳で貴子を見て、そうね、と頷いた。
「雪にとって、タカくんは特別だから」
「…………」
七美も、芳乃と同じだけ、雪子から貴子のことを聞かされているのだろうか。
あたたかい七美の視線に、貴子はなぜかやたらと恥ずかしくなって、彼女から目を逸らした。顔が赤くなっているのが自分でもわかる。自分の恋人を「どこの馬の骨」扱いされたことに反発する余裕もなく、貴子は手元のグラスに残っていた水を一気にあおった。
「こほっ」
小さな氷が喉にひっかかって水が気管に流れ、貴子は少しむせる。
「あ、タカくん、安心してね? 雪も、一応、反対はしてないみたいだから」
七美はすぐにそう言うが、「一応」という単語がついている辺り、状況は単純ではない。芳乃は咳き込んだ貴子を可笑しげに笑いつつ、七美の台詞に言葉を付け足した。
「本音では反対したいみたいだけどね。なのに、いい母親ぶりたい雪先輩としては、反対するわけにもいかないから荒れたくもなる、と」
少し取り乱した貴子は、あれこれ言われても頭がよくまわらない。無意識に羞恥をごまかすように、深く考えずに適当な台詞を口に出した。
「母さんは単に親馬鹿なだけですよ。子供よりガキな人なんだから」
「こら、タカくん? 自分のお母さんをそんなふうに言ったらダメよ?」
「あ、ぅ、はい、すみません……」
芳乃に対してはまだ気軽でいられる貴子だが、七美には頭が上がらない。七美に軽く叱られて、貴子はまたちょっと慌ててしまった。
多少余談になるが、幼い頃の「貴之」は、近所に住んでいる新庄七美の家にしょっしゅう預けられて食事の世話をしてもらったり、幼稚園の送り迎えをしてもらったりしていた。「貴之」がスケートにのめりこんだのも七美が最初のきっかけで、七美は過去の自分と同じ夢を抱いてくれた「貴之」の練習に、忙しい雪子にかわって付き添ったりもしてくれていた。七美の子供たちが、スケートに興味を持たなかったのも大きかったのかもしれない。大人と子供の関係は、自分の子供に対する方が難しい場合もあるから、七美のその態度は、素直な「タカくん」相手の方が自然体でいられるという部分も、もしかしたらあったのだろうか。
それらの理由もあって、「貴之」としてはどうしても、七美にはお世話になりっぱなしだという意識が強く存在する。双方向的な母子の関係とは違う、「貴之」と七美との関係。七美は全然気にしていないようなのだが、母親が七美に迷惑をかけまくっているように見えるのも、幼心に影響を与えていた。
七美はどちらかというと小柄な女性なのに、子供にそれを感じさせない大人の包容力が、彼女にはある。友人の子供でしかないはずの「貴之」を可愛がってくれて、時には優しく叱って、時にはあたたかく包み込んでくれる大人の女性。貴子にとって七美は、今のところ絶対に頭が上がらない相手だった。
「タカくんだって、わかってるでしょう? 雪がどれだけタカくんを大切に思ってるか」
「……はい」
頭が上がらないのはまだいいとしても、七美はとても優しい顔でそんなことを言うから、貴子としてはたまらない。芳乃はくすくす笑って面白がっていた。
「たーくん、ほっぺ真っ赤だ」
貴子は「芳乃さんうるさいです」というふうに横目で睨むが、やはり迫力はない。もう少し成長して大人の魅力を兼ね備えるようになればまた違った印象になるのだろうが、芳乃にいっそう楽しげに笑われてしまった。
「まあ、雪先輩が過保護なのはほんとですよね。少しは子離れするいい機会かもしれないですね」
「ん、そうね。でも雪にタカくん離れなんてできるかな?」
「あは、さっきもさんざんいじけてましたからね〜。たーくん、カノジョ連れてくる時って、覚悟しておいた方がいわよ? 雪先輩、たーくんと付き合いたければ蓬莱の玉の枝を持ってこいとか言い出しそうだし」
「あら、タカくん、かぐや姫ね?」
「いつか雪先輩を置いて月に帰っちゃう?」
ソファーに座りながら七美が笑い、芳乃もそう言って貴子をからかう。
まだ顔が赤いままの貴子は、釈然としない表情で、ぶすっとして言い返した。ただでさえ愛らしい印象の声が、またどこか拗ねているような印象になって、貴子の口から飛び出す。
「別におれに彼女できたって、母さんがおれの母さんなのはなにも変わらないじゃないですか。なにわけのわからないこと言ってるんですか」
「それ、雪先輩に真面目に言ってあげると喜ぶわよ。でももうちょっとはっきりと言った方が、もっと喜ぶかな?」
さっきからからかうようなことばかり言う芳乃だ。七美も、テーブルの上の自分のグラスを両手で包み込みながら、そっと微笑んだ。
「雪もね、頭ではわかってるのよ。でもやっぱり、タカくんが心配だし、タカくんを取られたみたいで、簡単には割り切れないのね」
「たーくんだって、雪先輩にカレシできたかもしれないって時、拗ねてたじゃない?」
「な、いつの話を……! あれは! まだ子供だったし、いきなり新しい父親がどうとか言い出すから!」
「じゃあ、今、もし雪先輩が再婚したいとか言ったら、簡単に納得する?」
「それは……!」
笑っているがまっすぐな芳乃の瞳に、貴子は強く言い返そうとして、また言葉につまった。母親が本気で望むのなら反対するようなことではないと、少しは成長した今では貴子も頭ではわかっているが、簡単に祝福できるかどうかは感情の問題だった。
もう七年ほど前になるが、雪子は息子に男親が必要かもしれないと、真剣にそう思ったことがあったらしい。当時言い寄られていた男性との夕食に、小学生の息子を連れて行ったことがあった。
その頃から「貴之」は無理なわがままを言わない子供だったから、騒いだりはしなかったが、その男性に対する態度は、外部の人間にも露骨にわかるほどに冷たかった。それから数日間、母親が事情を説明するまでは、母親に対してもそっけなさ全開だった。雪子からそれとなく息子の本音の確認を頼まれた芳乃たちは、普段は年齢不相当に落ち着いて少しおませな男の子の不満と愚痴を、内心笑いを堪えつつ拝聴したものだ。
『だいたい、いまさらぼくに父親なんていらないのに、そんなこともわからないなんて』
『タカくんは、お母さんだけいればいいのよね?』
優しくそう言った七美に顔を赤らめて、少しそっぽを向いた九歳の男の子だ。
芳乃が「たーくんはママを独り占めしてたいのね」とからかうように笑うと、男の子は珍しくムキになって反論してきて、その分かえって感情が透けて見えて、芳乃は雪子に「たーくん、相手がどんな男でも反対しそうでしたよ」と、笑って報告することになる。
息子がそんな態度だったから、もともと子供のためだけに再婚を考えていた雪子は、自分の気持ちに正直に行動した。もしも雪子が、再びだれかと恋に落ちていたら、また違った未来になっていたのだろうが、良くも悪くもそれは仮定の話でしかなかった。母親も子供も、それで充分納得して、自分の気持ちに素直に、ずっと二人で生きてきた。
それが今、息子から娘になった子供の方に、同性の恋人ができた。
望んで恋人を作った子供の方はともかく、母親の方は、この状況をどう思っているのか。
自分に対する母親の愛情について、貴子は無意識に盲信している部分があるが、母親の細かい心理はよくわからない。「応援はしたいけど、簡単には納得もできない」という母親の心理は、貴子にとっては、わかるようでいて、納得しにくいものだった。芳乃が持ち出したような過去の経験を考えると、母も子もお互い様とも言えるかもしれないが、親と子供ではやはり立場も違う。
「雪先輩とたーくんって、やっぱり親子よね〜。今日の雪先輩見て、おねーさんしみじみと感じっちゃったわ」
「芳乃、あんまりいじめないの」
とっさに言葉が出てこない貴子をからかった芳乃は、七美に制されて、顔は笑ったまま軽く両手を上げる。七美は壁際の貴子に、優しい微笑を向けた。
「タカくん、雪のことなら本当に大丈夫よ。タカくんたちが本気なら、時間が解決してくれるわ」
「その分、雪先輩、たーくんのハートを射止めたお相手が、とぉ〜っても気になってるみたいだけどね? お相手の写真とかないの? 明るくて元気で可愛くてきれい、なんて、たーくんがべた褒めするくらいだから、見た目も相当いいのよね?」
「あ、わたしも、写真、あるなら見てみたいな」
芳乃だけではなく七美も興味深げになって、貴子を見やる。
貴子はなんだかどっと一日分の疲れが襲ってきたような心理になって、もう逃げ出して寝たくなった。七美たちの前ではどうしても大人になれない自分を感じるせいもあってか、まだ顔も熱い。可愛い声をまたぶっきらぼうにして言葉を返す。
「芳乃さんたちに見せる写真なんてないです」
「えー、たーくん、冷た〜い」
「ふふ、雪にもまだ見せてないのよね。じゃあ、見せてくれるの、楽しみにしておくね」
「でも、見た目が良くて、生徒会長で成績も学年で一番で、陸上部でスポーツも得意って、それだけ聞けばなんだが凄そうな子ですよね。しっかりと引っ張ってくれるタイプなのかしら?」
「タカくんって、ちょっとクールぶってるところがあるから、引っ張ってくれる子なら、ちょうどいいのかもしれないわね?」
「おねーさんとしては、たーくんを優しく支えてくれる大人しい子とか、たーくんに上手く甘えられる子とか、逆にたーくんを振り回せるような子がたーくんには似合うって思ってたから、ちょっと意外ですけどね」
「そう? 真面目な子なら、タカくんには似合うと思うけど」
「似合わなくはないですけど、たーくんも真面目だから、それだと面白味ないですよ」
「面白味とかそういうのは違うでしょ。それに、よく笑う子なら、真面目一辺倒っていうわけでもないんじゃないかな? タカくん、そうなのよね?」
「あ、そうそうそうそう。雪先輩がどんなとこが好きなのか聞いたら、たーくん、“よく笑うところが好きなんだ”とかなんとか答えたんですって〜?」
またニヤニヤと、途中で一部口調を変えて低音な声で妙にキザに「貴之」のモノマネをして、芳乃は笑う。
本当に、母親は余計なことまで芳乃たちに話しているらしい。勝手にあれこれと「親友の子供の彼女」について想像を膨らませる芳乃たちに、貴子は穴があったら、芳乃たちを自分の母親ごとその中に放り込んであげたかった。厳密には貴子の発言は芳乃の言葉通りではないが、似たようなことを口に出した記憶が貴子にもある。人の色恋沙汰ほど面白いものはない、ということなのかもしれないが、本人の目の前で好き放題言いすぎだった。
「もう勝手に騒いでください。もう寝ます」
まだ顔が赤いままの貴子は、本気で逃げ出すことにして、壁から背を離した。
「えー、まだ全然話し足りないのに、たーくんつまんなーい」
「あ、タカくん、わたしも今日はお暇するね」
芳乃は残念がったが、ここで七美が立ち上がった。貴子は、え、という顔で、歩きかけた足を止める。
「七美さんは泊まっていかないんですか?」
「今日はそのつもりじゃなかったから、また今度ゆっくり遊びにくるわ」
「雪先輩がここまで酔ったのは予定外でしたからね」
そうね、と七美は微笑のまま頷いて、貴子に持っていたグラスを渡す。芳乃も立ち上がって、貴子にグラスを差し出した。
「たーくん、わたしのも。七美先輩、お疲れ様でした」
「うん、芳乃もまたね。あんまりタカくんを困らせたらダメよ?」
「やだなぁ、困らされるのはわたしの方ですよ。こんなに頼れるおねーさんなのに、たーくんいじわるですから」
「気を遣って欲しいならもっと態度を改めてください」
「ほら、すぐこれだもの」
テンポよく言い合う貴子と芳乃に、七美は小さく笑うと、ソファーに置いていたハンドバッグを持って廊下の方に移動した。芳乃は雪子の部屋に動く。
「たーくん、お風呂借りるね〜」
「ええ、勝手にどうぞ」
芳乃は雪子の部屋にお泊りセットを常備していて、彼女が泊まって行く時に好きにお風呂を使うのは、これもいつものことだ。貴子はそう返事をすると、キッチンの流しにグラスを置いて、七美に続いた。
「ねえ、タカくん?」
「……はい?」
四年ほど前に逆転していたはずの二人の背丈は、今となっては貴子の方がやや小さい。
七美は廊下を歩きながら、ちらりと後ろを見て、女の子になってしまった友人の子供に、穏やかに話しかける。
「ついこの間まで、タカくんよちよち歩きして雪に抱っこされてたのに、もう恋人ができる年齢になったって、なんだか不思議な感じよね?」
「……それ、何年前の話です」
そんな幼児期の話をされても、素直には頷けない。貴子はどこか羞恥を感じて、少し反発するように子供っぽく言い返す。
七美は優しく笑って頷いた。
「彼女ができたって、タカくん、本気なのよね?」
「当たり前です」
即座に、貴子はきっぱりと言い切った。
「うん、だったら、わたしはなにも言わないわ」
七美の声が、とても優しく、貴子の耳に響く。
「ほんとは、タカくんがだれを好きになっても味方するって、言ってあげたいんだけど」
柔らかく笑った七美は、ちょっと冗談めかすように言葉を続けた。
「雪がああだから、わたしも、タカくんの彼女と会うまでは保留かな?」
これが芳乃相手なら、貴子は「芳乃さんに認めてもらう必要はないですけどね」とでも言い返すところだが、七美相手には軽口は叩けない。とっさに、芳乃あたりに聞かれれば「やっぱりたーくんってお母さん想いよね〜」と笑われそうな台詞が、貴子の口を飛び出した。
「七美さん、母さんのこと、よろしくお願いします」
七美は半身で振り向き、幼い頃からよく知る「タカくん」を見やって、くすりと笑った。
「タカくん、ダメよ? 自分のお母さんのことを、わたしに押し付けようとしたら」
「…………」
七美が「もちろん」と頷いてくれると思っていた貴子は、思わず言葉につまった。
「タカくんにとっても、雪は特別でしょう?」
「それは……当たり前です。母さんは、おれの母さんですから」
雪子は貴子の母親であり、たった一人の家族。
素直に貴子は答えたが、なんだか恥ずかしい台詞を言わされた気がして、落ち着かなくなる。
「うん、だから大丈夫よ」
七美はそんな貴子の反応を楽しげに笑って、「もちろん、わたしも友達として、雪のこと、できるだけのことはするね」と言葉を付け足す。
貴子は見透かされているように感じて、また強い羞恥に襲われたが、玄関の前で足を止めた七美は、さらに追い討ちをかけてきた。
「その友達の大切な子供のことも、わたしも気にしてるの、覚えておいてね? その子にも、できるだけのことをしてあげたいから」
「…………」
もう貴子は返事もできない。
そんな七美の率直な好意が、嫌ではないし、むしろ嬉しいのだが、貴子の顔はいっそう熱を帯びた。
七美は優しく笑って、まっすぐに貴子を見つめている。
貴子はその七美の目を見て、つい視線を逸らしてしまった。
「貴之」が幼い頃から全くかわらないような、七美の瞳のあたたかさ。
顔がやたらと熱い。真っ赤になっているのが自分でもわかる。
「タカくん、返事はしてくれないの?」
からかうような、それでいてどこまでも優しい、七美の声。
瞬間、その七美の声の優しさに、貴子は顔の熱さを感じながらも、無意識に肩の力を抜いていた。
『……ほんとに……、七美さんにはかなわないなぁ……』
全身の気が緩んで、ごく自然に、そんな気持ちが湧き上がってくる。
心は落ち着かないし、激しい羞恥も消えてくれないが、素直な気持ちで、貴子は顔を上げた。頬を桃色に染めたまま、まっすぐに七美を見つめる。
「はい、ありがとう、七美さん」
もしも貴子の恋人がこの場にいれば、強い羞恥を滲ませながらもとても素直な笑顔を浮かべる貴子に、息を飲んで見惚れて、そして七美への嫉妬の感情にかられたかもしれない。
いつの頃からか七美に対してよく使うようになっていた「ありがとうございます」ではなく、子供の頃のように「ありがとう」と、貴子は言う。
「貴之」を幼い頃から知る七美には、その表情は幼い「貴之」と重なるのか、彼女はにっこりと破顔した。
「うん、お安い御用よ。可愛いタカくんのためだもの」
「七美さんまで……、すぐそういうこと言うのはやめてください」
貴子は羞恥を隠そうとしながら、だが隠し切れない無防備な表情のまま、また子供っぽく不満げに言い返す。本人は無自覚だったが、その繊細な声はどこか甘えるような声音だった。
「ふふ、芳乃じゃないけどね、今のタカくん、なんだか小学生に戻ったみたいに可愛いわ? ほんと、雪が恋人なんてまだ早いって、言いたくなる気持ちもわかるな」
自分を小学生扱いするような七美の物言いに、貴子の不満の色が強くなる。
が、それは次の瞬間に霧散した。貴子が受け入れきれていない、忘れてしまいたい現実を、七美はさらりと口に出す。
「わたしたちから見たら、やっぱり、子供って印象がどうしても強いからかな? タカくんは、男の子でも女の子でも、どちらでもかわらないかもしれないわね?」
「……おれは、きついです」
本音がポロリと、貴子の口をついて出た。
泣き言を漏らすような気弱な口調になってしまったが、貴子は自制する気がなくなっていた。七美に甘えているとも言えるし、それだけ七美を信頼しているとも言えるのだろうか。
七美は態度を変えずに、やんわりと貴子に応じる。
「まだ、一ヶ月もたってないものね」
「……いやがってもしかたないって、とっくにわかってはいるんですけどね……」
素直な気持ちを漏らす今の貴子に、「女も悪くはない」などといった言葉は、気休めにもならない。母親や七美たちが言うのならともかく、ろくに親しくない人間が口に出せば、貴子の反感を買うだろう。それがわかるからか、七美はそんな台詞を口に出したりはしなかった。
親友の息子が男として成長していく姿を見守ってきた七美としても、その男の子が女の子になって、まるで別人のような外見になってしまって、それをあっさり全肯定できるほど達観していない。初めて今の貴子と会った時、目の前のその可愛い女の子が、幼い頃から可愛がっていた男の子だと感覚的にわかったから、自然に受け入れることができたが、その分「女の子になってもタカくんは男の子」という意識が根強かったりする。
七美ですらそうなのだから、本人や家族の心理は、もっと割り切れずに複雑であっても不思議はない。七美は友人やその子供のことを思いやることはできるが、二人の気持ちは想像しかできない。
それでも七美は、そんな自分だからこそできることもあると、漠然と知っていた。
「まだ、時間が必要なのね」
「……みたいです。……一生ダメかもしれないけど」
「……なんでもよく考えるのは悪くないけど、考えすぎるのは、タカくんの悪い癖よ」
弱音を吐く貴子に、「嫌なものを好きになるように努力しなさい」とも「ダメなんて言わずにがんばれ」とも、七美は言わない。優しく微笑んで、七美はそっと、子供の頃のように「タカくん」の頬を撫でた。
「ダメならダメで、ゆっくりでいいから、折り合いつけたいね」
貴子はちょっと泣きそうになった。
弱音を吐いたっていいのだと、強がらなくてもいいのだと、七美がそう言ってくれたような気がして、いつも無意識にどこかで張りつめている気持ちが緩む。
が、病院では衝動に任せて母親に泣きついたが、さすがに今は理性が残っていた。十六歳にもなってしまうと、人に甘えて泣きつくなんて、そう簡単にはできない。
泣きそうな気持ちを、貴子は強引に、前に向ける。泣くのを我慢して、現状を真っ向から受け止める。逃げない以上は、あがくだけあがいてみるしかない。どんなに嫌でも、貴子自身が少しずつでも受け入れていくべきことだ。一生ダメかもしれなくとも、七美の言う通り、どこかに折り合えるところがあるはずだった。
「はい、おれなりに、やれるだけ、やってみます」
まっすぐに、澄んだ可憐な声で、貴子は七美に答える。
七美は貴子の頬から手を離し、貴子のそんな瞳を見つめて、うんと頷く。
その七美の瞳には、貴子の思い込みかもしれないが、やはり十代の子供の心なんて見透かしているような、優しい輝きがある。
貴子はなぜか猛烈に恥ずかしくなって、すぐに視線を逸らした。
七美はくすっと笑って、また少しからかうようなことを言う。
「タカくんには、頼れるお母さんもいることだしね?」
「……酔っ払って、子供に世話を焼かせるような母親ですけどね」
「その分、タカくんも世話を焼かせてあげればいいのよ。雪の相手はそのくらいでちょうどいいんだから」
冗談なような、貴子を励ますような、どちらとも取れる七美の言葉だ。なんだか照れくさいが嫌な気持ちではなく、貴子はちょっとだけ笑った。
「そうですね、そうします」
「ふふ、うん、じゃ、タカくん、今日は帰るね」
貴子の自然な微笑みに、七美も頬を緩めると、そう言って玄関の傘立ての傘を手に取った。
「あ、はい。車とか、気をつけてくださいね」
「ええ、ありがとう。タカくんも、あんまり夜更かししちゃダメよ?」
貴子が七美相手なら必要のないようなことを口に出すと、七美も七美で、貴子を子供扱いするようなことを言う。貴子は「もうおれは十六ですよ」と反発することはなく、少し笑って、また素直に「はい、そうします」と頷いた。
「うん、おやすみなさい。またね」
「はい、おやすみなさい」
七美は最後まで貴子に優しい笑顔を向けると、一人でゆっくりと出て行った。
「…………」
玄関先での七美たちとの別れは、いつもなぜか、どこか少し物悲しい。玄関のドアが閉まるまで七美を見送った貴子は、不思議な寂しさを感じながら、玄関のカギをかけた。
なんとなく人恋しくなって、リビングに逆戻りしたくなったが、少し気も抜けて、眠気も強くなってくる。
母親たちが帰ってくる前は、眠くなるまで読書でもするつもりだったが、すぐにでも眠れそうな感じだった。七美たちのことや色々なことを考えながら、いつもより少し早いがもう眠るつもりで、玄関の電気を落として、貴子は自分の部屋に戻った。
貴子の部屋から、タイミングよく携帯電話の着信音が聞こえてきたのは、貴子がドアを開けた直後だった。実際はタイミングがよかったわけではなく、さっきから何度も携帯電話はメロディーを奏でていたのだが、どちらにせよ貴子は少し慌てた。
そのメロディーは、貴子が恋人専用に設定した着信音。
眠気が吹っ飛んだ貴子は、ばっとドアを押して開け放って電気をつけて、机の上の携帯電話にダッシュした。片手で持って、呼吸を整えることを考えもせずに、電話に出る。
「はい、もしもし、穂積です……!」
昨夜同様、緊張に上ずった繊細な少女の声が、貴子の唇からこぼれる。
『貴子、やっとでたー。ごめんね、もしかしてもう寝てた?』
今日は期待通り、大好きな人のきれいな甘い声が、すぐに電話越しに貴子の耳に届いてきた。ただそれだけて、貴子の鼓動は激しく跳ねてしまう。
「う、ううん、まだ起きてたよ……!」
ちらりと時計を見ると、いつのまにか十一時半が近い。いつも貴子が寝るのは十二時過ぎくらいで、起きるのは六時半前くらいだと、彼女には教えてある。だから彼女も、まだ気楽にこの時間に電話をかけてきたのだろう。ついあたふたしてしまう貴子は、「ごめん、部屋にいなかったから……!」と、謝る必要のないことを謝った。
『うん、よかった、そうかなって思ってた。メールもまだ見てない?』
「え、メール? あ、すぐ確認するね……!」
貴子は慌てて携帯のメールを確認しようとしたが、すぐに制止の声が降ってきた。
『あ、いいよいいよ。なにやってるかなーって出しただけだから。貴子って、あんまりこまめに携帯チェックしないんだね』
「う、うん、ごめん……」
『あは、謝るようなことじゃないよ。なんとなく貴子っぽいし。貴子がめるめる言いながら携帯使ってるのって、あんまり想像できないもんね』
「…………」
そんな擬音を実際に口に出しながらメールを打つ人間は、たぶんいない。
彼女は本気でそう思っているのか単にフォローで言ったのか、貴子が返事に困ると、軽く笑って話を続けた。
『ぼくもう寝るとこだけど、貴子はなにやってた? 勉強、じゃないよね』
部屋にいなかったことからの推測だろうか。『お風呂とか?』と続けてくる彼女に、貴子は態度を取り繕う余裕もなく、華奢な声で素直に本当のことを答えた。
「え、えっと、母の知り合いが来てるから、ちょっと相手してた」
『うわ、大変そうだね。もう終わったの?』
「う、うん。慣れてるから、大変でもないよ」
『あは、そうなんだ。あ、もしかして、もう寝るとこだった? まだ早い?』
「あ、ちょうど、もう寝ようかなって、思ってた」
『あぁ、そっかぁ……。じゃあ、貴子もおやすみなさいだね。明日も、雨でも駅で待ってるからね?』
「う、うん」
『うん、じゃ、また明日ね。貴子、おやすみ』
「う、うん、おやすみなさい……」
えもう終わり? と思いつつ、貴子は彼女に同じ言葉を返す。
すぐに彼女の方から、電話は切れた。
電話を見つめる貴子は、ちょっと思考がまとまらない。彼女がなんのために電話してきたのか、さっぱり謎だった。せっかく電話をもらったのだから、もっともっと話をしていたかったのに。
彼女が寝る前に貴子の声が聞きたくなって、おやすみを言うためだけに電話をしてきたのだと知ったら、貴子はとてつもなく喜べたはずだが――それとも自分の今の声を思って鬱屈した気持ちになったのかどうか――、そこまで自分に都合のいい考えは浮かばない。貴子がもう寝るところだと答えたから、彼女も我慢して電話を切ったという事実にも、貴子はまったく思い至らなかった。
あっさりと短く切れてしまった電話に、かえって切なさだけが募ってしまう。
貴子は切なさを押し殺しながら、彼女に言われたメールをチェックした。
ちょうど貴子がお風呂に入っている時間に、彼女はメールを出していたらしい。貴子は自分からメールをだすのに勇気が必要なのに、彼女はそんな貴子とは大違いで、「いまなにやってるー? 雨ふってきたね」という、特に意味のない非常に気軽な内容だった。
貴子は返事を出すべきかもしれないと思ったが、電話の後に返事を出すのもなんだか変な気もした。無駄に悩みながら、貴子はとりあえず開けっ放しのドアを閉めに動いた。
とたんに、貴子はぴたりと動きを止めた。
いつのまにか、着替えを手に持った神田芳乃が、ドアの外に立っていた。
七美との会話や恋人との電話を、いったいいつから見ていたのか。見ていなくとも、どこから聞いていたのか。
貴子と目が合うと、芳乃は一瞬曖昧な顔をしたが、すぐに軽く笑って、「お風呂もらうわね、たーくん、おやすみ」と、貴子の部屋のドアを引いて、さっと離れた。
貴子が口を開くより早く、パタンと静かな音を立てて、ドアが閉まる。
貴子が男のままなら、芳乃は「たーくん、カノジョからおやすみコール?」などとニヤニヤ笑ってからかったのだろうが、それをしなかった芳乃の心理もシンプルではなかった。パジャマ姿で恋人と一生懸命に電話をしていた今の貴子の姿が、芳乃にどう見えていたのか、それを知ったら、貴子はズンとまた鬱になっていたかもしれない。芳乃がからかってきた場合、貴子も冷たく対応したり珍しくムキになったりしたかもしれないが、その機会も可能性のまま失われてしまった。
ドアが閉まると、貴子は自分が何を言いかけたのかよくわからないままに、そっと気を抜いた。芳乃の態度から、少なくとも電話の最後の方は確実に覗かれたことを察していたが、羞恥や情けなさに襲われるには感情は飽和状態だ。
妙に頭ははっきりとしているが、その割に集中力は欠けて、思考はあっちこっちに飛び回ってまとまりがない。身体は疲労を訴えているからそのうち眠れそうだが、すぐにはもう無理そうだった。
貴子は電話を置くと、学校の図書室から借りている文庫本を持って、ベッドに無造作に横になった。わざわざ手に取った本を開かずに、仰向けになって、しばらく天井を見つめる。
好きな人のこと、母親のこと、その友人たちのこと、自分のこと。
電気をつけっぱなしのまま、貴子は片腕で目を覆い、流れる思考に身をゆだねた。
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初稿 2008/05/05
更新 2009/05/08