prev next


 
Boy's Emotion -AFTER STORY-

  Taika Yamani. 

index 

  その三 「素顔の自分」
   一 「今の自分」


 すっかり秋の夕闇に包まれた、学校帰りの電車の中。
 樟栄高校二年生の穂積貴子の頬は、ずっと微熱を持って淡い桃色に染まっていた。
 貴子の母親が見れば、「タカちゃん、人前でそんな顔したらダメよ」と、笑いつつも少し真剣に忠告したかもしれない。本人は無表情のつもりだったが、感情がどうしても表に出てしまっていた。姿勢や見目のよさもあって、傍から見るとなんとなく目が惹かれてしまう表情で、同性なのに貴子を気にしているらしい乗客も、中にはいた。
 そんな視線に気付かないほど、貴子の感情は複雑に絡みあって、プラスにもマイナスにも心は終始不安定に揺れていた。
 ガールフレンドと一緒の時は気にする余裕がなかったが、一人になると、とたんに気になってたまらない。
 恋人の前でクールにスマートに振る舞えない自分に対する情けなさと、顔から火が出てしまいそうなこっ恥ずかしさと、それでいながら、油断するとつい緩んでしまいそうになる頬の筋肉と。
 そして、男の身体ではなく女の身体で、そのすべてに対応していかなくてはいけないという、今の現実に対する鬱っぽさと。
 『男のままなら、絶対もっとスマートに振る舞えたのに……』
 客観的に言ってあまり根拠がない貴子の思い込みだが、その思い込みが正しいのか間違っているのか、もうだれにも証明することができない。だからこそ、かえって辛いのかもしれない。
 恋人と一緒にいる時の貴子は、自分の身体の問題をあまり気にする余裕がない。まだ付き合いって日が浅いから、緊張して冷静さを欠いてしまうせいもあるが、自分の身体の問題よりも、彼女との関係の方が、貴子にとってそれだけ大事だということなのだろうか。
 なのに、一人になると、すぐに鬱屈した気持ちが強く湧き上がる。
 今の身体が、以前とは違う感覚を持つこの「女の身体」が、「自分の身体」だと、その認識も確実に定着しつつあるから、その自覚のせいで、なおさら揺り動かされる部分もあるのだろうか。わかっているのにどうしようもない理不尽な感情。いい加減に、今の自分の身体が女なのは単なる現実で、意識しても意味がないのに、どうしても勝手に心に影が落ちてしまう。拘るより開き直った方が楽だとわかっているのに、いくら理屈でそう考えても、感情がついてこない。
 ただ、幸い、と言っていいのかどうか、貴子の心はそれだけに囚われてはいなかった。
 貴子の今の思考は、勝手にあちこちに流れ飛ぶ。鬱っぽさも元の身体への拘りも、今の貴子の大きな感情の一つではあっても、貴子のすべてではなかった。
 外見だけではなく、性格や振る舞いにも、スマートさやカッコよさというものは存在する。「身体が男か女かは無関係に、彼女の前での自分の振る舞いが情けないことにはかわりがない」という認識を、なんだかんだで貴子は持っていた。世の中には泥臭くても汗が輝くようなカッコよさというものも存在して、貴子は自分がそんな柄だと思わないしそれを望んでもいないが、今の自分がそんなカッコよさにも程遠いこともよくわかっていた。「クールにスマートにカッコよく、なんて意識すること自体が、全然クールじゃないしカッコよくない」という嫌な自覚もある。そして、自分の中にあるのが、情けなさだけではないことも、貴子はちゃんとわかっていた。
 自分から彼女に人前でキスをしたのはやりすぎだったし、そのキスに半分失敗して鼻をぶつけてしまったのは、どう考えてもカッコ悪すぎる。あーんとか言いあって食べさせあったのも、彼女におちゃめさん呼ばわりされたのも、穴があったら入りたい気分になる。
 なのに頬が緩みそうになるのは、やはり隠し切れない嬉しさの表れで。
 彼女と一緒に笑いあえた、とても大切な時間。
 ドキドキしすぎるし、抑えがきかなくなったりするが、彼女とイチャイチャするのは、正直に言ってしまうとやはり嬉しい。自分の言動が情けないというのも素直な感想だが、彼女との時間が嬉しいというのも、はっきりと自覚している自分の感情。
 だから、貴子は今の自分を否定したりはしない。今の自分の身体が女だと思えばどうしても鬱屈した気持ちも混じるが、男のままだったらどうこうなんて言い訳をする方が、いっそう情けなくカッコ悪いとも貴子は考える。
 が、そう思うからなおさら、彼女の前で情けないのはなんとかしたかった。
 貴子の彼女に言わせれば「貴子は今のままで可愛いんだから、情けなさなんて感じる必要ないのに」ということになって、男だった場合と明白な差をつけて貴子をへこませるかもしれないし、去年からのとある友人も「あれだけカノジョの前ではいつもわたわたしておいて、いまさらカッコつけても手遅れじゃないか?」などと笑いそうだが、だとしても、貴子としては、どんな性別であれ、クールにスマートにありたかった。
 特に、好きな女の子の前では。
 とはいえ、では具体的にどうするかとなると、貴子は悩む。
 元の男のままならどうだったのかではなく、今のありのままの自分で、どう動くのか。現実的問題として、これから先をどう生きていくのか。
 外野から今の貴子を見て、「一度くらいはそこまで夢中になれる本気の恋をやってみたかった」と思う大人は、もしかしたら多いかもしれない。少しうがった大人なら「男であれ女であれ、若い頃の恋は、相手しか見えないような、打算抜きで相手に夢中になるくらいでちょうどいい」と笑うのだろう。貴子の母親は間違っても我が子にそれを勧めないだろうが――むしろ「本気の恋こそ慎重に」と言いたくなる親心もある――、本気で誰かを好きになって夢中になることは、結果がどう転ぶにしろ、貴重な経験になる。
 が、例えそうだとしても、今の貴子にはそんな理屈は無意味だった。今の貴子は、良くも悪くも理屈でそう思えるほどまだ人生経験豊富ではないし、文字通り理屈抜きの恋の真っ直中だ。恋人に嫌われたくないし、彼女の前ではできるだけいいカッコをしていいところを見せたいし、もっと好きになってもらいたい。
 『なんにせよまずは、取り乱したりせず、どんな時も感情的にならずに、いつも余裕を持って冷静沈着に』
 だから貴子はそう思うが、それがそう簡単にできれば、最初からこんな情けなさを味わったりしていない。演技をしてでもスマートに振る舞う手もあるが、貴子は恋人の前でそんなふうに振る舞う自信を完全になくしていた。無理をしても不自然さが漂うだろうし、かえって彼女には笑われてしまうかもしれない。
 感情は、自分のものであっても、自分の自由にはならない。もっと時がたてば、恋人の前でも落ち着いていられるようになるのかもしれないが、今の貴子には無理だった。特に彼女に触れられると、思考はすぐに乱れてしまう。
 となると、彼女に接触を控えてもらって少し距離をとってもらうしかないのだが、彼女がいざそれを実行すると、貴子は身勝手な不満を覚えてしまうだろう。彼女も彼女で、貴子にそんな提案をされると不満を抱くかもしれない。
 やはり、恋人に頼る前に、貴子が自分でなんとかすべきなのだろう。時間が解決してくれる部分もあるのかもしれないが、それに甘えて何もしないでいるのは怠慢でしかない。
 だが、ではどうすればいいのかとなると、色々考えてみても、貴子は有効そうな答えを見付けることができない。なんとかしたい、さすがになんとかしないと、と強く思っても、貴子は具体的にどうすればいいのか見当もつかなかった。



 あれこれ思い悩むうちに、自宅であるマンションに到着する。
 時刻は七時過ぎ、貴子はただいまを言って三階の我が家に入ったが、いつも通り母親はまだ帰ってきていなかった。特に遅くなるとは言っていなかったから、普通に八時までに帰ってくるはずだが、夕食は作らないと言っておいたから、もしかしたら遅いのかもしれない。その場合は、八時前後に恒例の電話がかかってくるのだろう。
 いつもならご飯の準備をするような時間だが、この日の夕食はもう終わっている。悩みは多くとも機嫌は悪くない貴子は、「母さんが早く帰ってくるようならなにか作ってあげるのもいいかな」とちょっとだけ考えたが、なにか買ってくるかもしれず、食べてくるかもしれず、母親次第のことだった。ガールフレンドのことを考えたり、彼女への自分の態度のことなどを色々悩みながら、貴子は手洗いうがいや着替えなど、まずは日常への対応をこなす。
 今までの習慣なら、水曜日は早めに帰ってきて簡単に掃除をする日だ。今日は帰りが遅かったから、「今週は土日に一度だけにしようかな」と思わなくもなかったが、もう長年の習慣だから、なんとなく落ち着かない。今週に入ってから毎日の習慣が完全に乱れている――大きく変わり始めている――ことを感じつつ、貴子は先にお風呂の準備をして、乾燥機を覗いて、母親の部屋に洗濯物を確認しに行った。
 洗濯機を回すことは週に三、四回だが、親子二人分だから、一回の量はそれほど多くはない。万が一盗られてもそう困らないようなものは、晴れていれば留守でもベランダに干したりするが、乾燥機を使うと傷みやすいものや陰干しが必要な母親の高い下着などは、母親の部屋に干すことが多い。
 今朝洗濯機を回して、干すのを母親に頼んでおいたのだが、今日の母親は洗濯物を全部干すだけの余裕があったらしく、乾燥機は空で、すべての洗濯物が母親の部屋に干してあった。
 以前は母と息子の二人暮しというのが楽に推測できたものだが、今となっては、母親と年頃の姉弟の、家族三人と推測されそうな洗濯物かもしれない。
 なかなか高価そうな、大人の女性を感じさせる下着類に、サイズはそれなりの成熟を感じさせるのに、飾り気など皆無と言っていい、年頃の少女のシンプルな下着。さらにその中に混じっている、男物のトランクス。
 母親のものだけだったはずの女物の下着の中に、自分のものが混ざっていることに、貴子はまた鬱屈した心理になったりするが、これが今の貴子の現実だった。母親はさすがに下着の手洗いまで息子にさせていなかったが、洗濯ネットの使い方や母親の下着の扱い方しまい方を小学生の頃に熟知した「貴之」なだけに、いまさら洗濯物であれこれ言うほど子供でもない。
 たたまれていた母親の布団を押入れにしまうと、貴子は洗濯物を取り入れにかかった。昨日使った自分の女子の体操服を見つけて、昨日や明日の体育のことを考えて感情を揺らしたりしつつ、一つずつ洗濯物を取り込んでいく。
 その途中、和室にはあまり似合わない母親のオーディオセットが目に入って、貴子はカラオケを提案してきた恋人との会話をなんとなく思い出した。洗濯物を取り入れ終えた後、貴子はあれこれと思考の渦に埋もれながら掃除機を使ってテキパキと掃除をして回り、それから改めて母親の部屋に戻って、オーディオ横のラックに並べられた母親のコレクションを覗き込んだ。
 貴子の母親は、小さい頃はピアノを習わされていたというだけあって、一般的にクラシックと呼ばれるジャンルを好んでいる――厳密にはヴァイオリンやフルートの曲が好きらしい――が、その他のジャンルのものもたまに大人買いしてくることがある。単に気分で買っているのだろうが、「貴之」がたまに買ってくるものもここに並べるせいもあって、古いものから新しいものまで、ジャンル無差別に置いてあった。
 貴子はその中から、比較的メジャーなアルバムCDを選んでセットした。そのまま母親の部屋の畳の上に座り込んで、一つずつ洗濯物をたたみにかかる。
 それなりに印象的な男性ボーカルの歌声が、室内に広がる。
 その歌は、去年友人とカラオケに行った時に「貴之」が選んだ、友人には「渋い選曲」と評された歌で、小学生の頃にテレビCMで流れていたシックなラブソングだった。
 今の貴子の声に自然にマッチする可憐な女性ボーカルの歌ではなく、クールな男性ボーカルの歌を選んでいるあたりに、貴子の指向が表れていると言えるかもしれない。最近は男性が女性の歌をカバーしたり、女性が男性の歌をカバーするケースも増えているから、それを考えると少し気にしすぎなのだろうが、「貴之」としては女性の歌を歌うのは、今となってはなおさら割り切れない。
 貴子は洗濯物をたたみながら、二度小さく咳払いをする。
 妙に高く可愛らしい咳が出て、貴子の瞳は暗くなるが、それでも覚悟を決めて、貴子はボーカルの声に合わせるように、サビの部分で軽く声を出してみた。
 「――――」
 わかっていた。
 わかっていたが、歌ってみたとたんに、貴子はいっそう暗い気分にさせられてしまった。
 歌が上手いとか下手だとか、その歌詞や曲が似合うとか似合わないとか、それ以前の問題。元の男だった時の歌声とはまったく違う女の声。あまりにも繊細すぎる、今の貴子の歌声。
 貴子も徐々に慣れつつあるとはいえ、貴子の頭の中にある自分の声と実際の声とのギャップは未だに大きいのに、歌声となるとさらに強いギャップがあった。低音の男性ボーカルの歌だったから、出しにくい声を無理に出したせいもあるのだが、それを抜きにしても、差は大きかった。
 貴子の恋人であれば、可愛い声で男性ボーカルの歌を歌う貴子に別種の魅力を感じただろうが、本人はそう肯定的に捉える余裕はない。
 望んでもいないのに、こういう時、今の自分の身体は女なのだと、元の身体とは違うのだと、嫌でも強く感じさせられる。だからなんだと言いたい気持ちはある。毎日を女の身体で過ごして四六時中実感させられて、もう嫌というほどわかっている。
 なのに鬱屈した心理になるのは、結局、貴子本人が、まだ受け入れきれていないことの証なのだろうか。
 自分の身体が女だと感じさせられること自体は、単なる現実認識と言えるが、その現実をネガティブに捉えてしまっている。開き直って楽しめもせず、どうでもいいとも思えず、全否定して自殺に走るような過激な真似もできない。口ではなんとでも言えるし、頭でもどうとでも思えるが、感情がついてきていない。
 元の自分の身体に拘るのことに罪はないし、一生拘わって生きていくのもありだということを、貴子はよく知っている。が、何かに拘ることそれ自体に問題はなくとも、その拘りが弊害を生む場合は問題だった。今の貴子にとって、貴子自身で振り返ってみても、元の身体への拘りは確実にマイナスの影響も及ぼしていた。
 積極的に開き直ろうとすべきなのだろう。楽しむまではいかなくとも、自然なこととして振る舞えるように、今の自分の身体を自分から受け入れようとすべきなのだろう。否定的な自分の感情を、肯定的なところまで、少なくともせめて中立的なところまで、持っていくべきなのだろう。
 だが、自分の感情が自分の都合で動けばだれも苦労なんてしない。いったいいつまで気にするのか、弱い自分を感じて、貴子はちょっと自嘲したくなる。考えてもしかたがないようなことを、もう何度も何度もうじうじと考えてしまうことにも嫌気が差す。
 それでも、なんとなく泣きたいような気分になりつつも、貴子は恋人との約束をキャンセルできない場合を考えて、何度か歌にあわせて声を出してみた。一生どんな歌も歌わない、というのならともかく、そうではないのなら、己を知っておくことは無意味ではない。感情に任せて泣き叫んで現実を受け止めない方が楽なのかもしれないのに、貴子の理性の在り方は、貴子の感情にとっては少し冷酷だった。
 一オクターブ声を低くしてみた時は、喉が痛くなりかけた。
 逆に、高くする分には楽に一オクターブ上の声が出せた。が、もう一オクターブ上まで無理なく出せそうだったが、そんな声が出ても全然嬉しくない。
 地声で歌える曲であっても、歌う時にはがらりと声音が変わるタイプの人もいるが、貴子はあまり変化しないタイプらしく、地声と歌声ほとんど差はなかった。その分、余計に気になるのだろうか。歌ってみるたびに、貴子はどんどん鬱っぽい気分になっていく。
 どんなに男臭い歌も、華奢で可憐な声で歌えばがらりと印象が変わる。ましてや、大人しそうな女の子が、一生懸命に声を出して歌う姿が加わればなおのこと。
 昨今の歌は、男性ボーカルの歌だからといって男性が歌い易いとは限らず、女性の方がかえって歌い易い音域の歌も多い。なのに、変に可愛く響くとでも言えばいいのか、今の貴子の基本的な声音は少し華奢すぎるのだ。
 しかも、そんな思いをしてまでがんばってみたのに、「歌えそうな歌」はあったが、「彼女の前で歌ってもいいと思える歌」はまったくなかった。すぐに今の自分の声との相性の問題を嫌々ながら考慮して、ダメだと思ったら即ストップして別のCDにかえたりしてみたが、貴子は今の自分の歌声をどうしても肯定的には思えなかった。



 母親からのいつもの電話がかかってきたのは、午後八時過ぎ。洗濯物もすっかりたたみ終わって、クリーニングに出すほどではない母親の仕事用のワイシャツのアイロンがけなどもすませて、恋人が好みそうな洋楽にまで手を出した頃だ。
 洋楽の方が女性ボーカルであってもさほど気にならないのは、母国語ほど男女の言葉の差が気にならないからだろうか。「英語をちゃんと歌えれば、こっちがまだ気楽に歌いやすいのかな……」と少し重苦しい気持ちで考えながら、貴子はリビングに戻って母親からの電話に出た。
 まだ仕事中だと言う母親の雪子は、後で友人とご飯を食べてくるようで、帰宅は遅くなるらしい。『遅くとも十二時には帰るけど、先に寝てていいからね』と言う母親に、貴子は短く了承の返事をしたが、急に、電話の向こうから心配そうな声が降ってきた。
 『タカちゃん、なにかあった?』
 敏感に、我が子の態度のなにか感じるところがあったのだろうか。電話越しなのに鋭い母親に、貴子は一拍間を置いてから、落ち着いた声を返した。
 「……なにが? 別にいつも通りだよ」
 『ほんとに? なにか声沈んでない?』
 「気のせいだよ」
 『そお? さっそく彼女とケンカでもしたの? だったらお母さん嬉しいんだけど』
 本音なのか、娘を励ます意図があるのか、単なる冗談のつもりなのか。
 笑えないことを言う母親に、貴子はついぽろりと反射的に言い返した。華奢で澄んだ声が、無防備に貴子の口を飛び出す。
 「なんで嬉しいのさ。ケンカなんてしてないよ。ただちょっと今の自分が気に入らないだけ」
 『え?』
 「……あ」
 貴子は自分の失言に気付いたが、こぼれたミルクを嘆いても無駄である。
 雪子も数秒黙ったが、すぐに真面目な声を出した。
 『お母さんは、タカちゃんが男の子でも女の子でも、おんなじように、ちゃんと愛してるからね?』
 「…………」
 『…………』
 「……いきなりなに言い出すのさ」
 普段なら貴子も「はいはい、おれも愛してるよ」などと軽く受け流すところだが、不意をつかれたせいか、頬が微かに朱色を帯びた。
 貴子の母親は、子供に真っ向からこんな台詞を言う。貴子が恋人に対して直球なのも、こんな母親の影響を色濃く受けているのだろうか。好きなら好きだと面と向かってはっきり言う方が男らしいと、「貴之」は誰かにそう教わったことはないしそんな男らしさにも興味はないが、男らしさや女らしさとは無関係に、愛する人にまっすぐに気持ちを伝えることは、人としてとても大切なこと。「貴之」は、そう育ってきた一面があるのかもしれない。
 『あら、ほんとのことを言っただけよ?』
 そんな我が子の表情を察しているのかのように、雪子は明るく笑った。
 『家に帰ったら、もっとちゃんと話してね? 気になってお母さん、夜も眠れなくなっちゃうわ』
 「いちいち言うようなことじゃないよ。自分で解決するしかないことだから」
 『お母さんに話せば、少しは気が紛れるでしょう?』
 気にするだけ無駄だとか、自分らしくいればいいとか、雪子は気休めを言ったりはしない。まずは話を聞くと言ってくれる母親に、貴子は上手く態度を選べなくて、いっそうぶっきらぼうになった。
 「気持ちだけ、貰っとく」
 『む〜、タカちゃん、もっとお母さんに頼ってよぉ。タカちゃん、なんでも一人でがんばりすぎよー』
 「はいはい、親の教育が良かったからね。おれの性格は半分は母さんのせいだよ」
 『う〜、昔は素直で可愛かったのに〜。なんだか今は冷たいわ! しくしく』
 可愛い声で強気な発言をする娘に、雪子は電話の向こう側でわざとらしく泣き真似をする。
 貴子はまたぽろりと「ただでさえ甘えそうになるんだから、そんなに甘やかさないでよ」という言葉がでかかったが、わけもなく気恥ずかしくなって、強引に電話を終わらせにかかった。
 「そうやって子供は成長するってことかな。じゃ、もう切るよ」
 『あ、うん。タカちゃん、いろいろがんばりすぎちゃダメよ?』
 「……わかってる。母さんもね」
 『ええ、おやすみなさい』
 優しく笑っているような母親の声に、貴子は気恥ずかしさを隠すように「まだ寝ないよ」とつっこみを入れて、電話を切った。
 受話器を置くと、唇から微かな吐息が漏れるが、そこには電話に出る前のような暗い瞳はない。もやもやした感情はそう簡単には消えてくれないが、貴子は気を取り直して母親の部屋に戻った。
 すぐにCDを片付け始めたが、なんとなくストレッチ体操をやる気にはなれず、お風呂という気分でもなく、読書でもしたい気分だった。
 『あぁ、でも勉強もしないと……』
 娯楽に逃げるのは簡単だが、自分の身体に対する現実とは別の現実――そろそろ射程に入ってくる中間試験や一年半後の大学受験の問題――もある。貴子はなんとか自分を抑えた。
 『この先、放課後の待ち時間も、学習室で勉強にしとくべきかな……』などと少し考えながら、去年買った洋楽アルバムCD――当時片想いだった相手の嗜好に合わせて買ってきた八十年代の歌を集めたベストアルバム――を確保して、貴子はたたみ終えている洗濯物をしまいにかかった。母親の分はそのまま母親の部屋のタンスにしまい、バスタオル類や洗濯籠などは脱衣所へ、自分の分は自分の部屋へと持っていく。
 自室に入ると、CDを自分の小さなラジカセにセットし、控えめな音量で再生させる。流れ出した陽気な歌を聞き流しながら、洗濯物をクローゼットにしまい、ついでに明日の体育の準備をする。
 先日の女子更衣室での出来事が勝手に頭に思い浮かんで、思考が変な方向に走りそうになったが、とりあえず深く考えないようにする。真新しい体操服やタオルを体操服袋に入れ、それをバックパックに放り込む。
 明日、木曜日は、週に一度の七時間授業の日だ。ほぼ隔週でロングホームルームが行われる曜日だが、先週の生徒会選挙はロングホームルーム扱いだったのか、明日は通常授業の予定だった。
 樟栄高校のロングホームルームの時間は、各界で活躍している様々な職種の現役社会人――主に樟栄高校の卒業生――を招いての特別講座があったり、大学の推薦や就職の面接を睨んだ講義があったり、学年を縦断してテーマを絞った討論会があったりと色々だ。他にも、立ち居振舞いの指導や、主にホームルーム委員が企画立案してクラス独自のテーマを決めた活動や、クラスや学年、学校全体での交遊イベントなどを行うこともある。時期的に、来週あたりには、十一月の樟栄祭のクラス企画の話し合いが行なわれるかもしれない。
 そんなことを少し考えながら、貴子はスクールバッグを取り上げて、デスクチェアに腰掛けた。
 スクールバッグから教科書などを取り出す途中、ちらりと携帯電話が目に入って、恋人の声が聞きたくなったが、相手の迷惑も考えて思いとどまる。彼女は迷惑に感じないかもしれないが、まだ自分から電話をしても、何を話せばいいのか、貴子はよくわからない。ついでにメールをチェックしてみたが、特に着信もない。
 現在時刻だけ確認してきちんと座りなおすと、貴子はざっと頭の中で予定を立てて、勉強に取りかかった。勉強道具を広げて左手にシャープペンを持つと、できるだけ気持ちを入れ替えて、目の前のことに集中する。



 何度も大好きな女の子のことが脳裏に浮かんだり、CDに気を取られたり、いつのまにか降り出した雨に気付いたり。じっと同じ姿勢を続けることで今の自分の身体を意識させられて鬱っぽくなったり、また余計なことも考えそうになったり。
 途中何度も集中力は途切れかけたが、恋人の電話を待ち続けた昨日と違って、今日の勉強は安定して進んだ。色々精神を磨耗することを考えたくないという、現実逃避的要素もあったのだろうか。中断は九時頃に休憩を入れて苺ヨーグルトを食べた程度で、十時過ぎには最低限の予定の範囲まで終わらせることができた。
 「ふぅ……」
 自分の決めたことを、惰性ではなく自分の意志で、予定の時間内にきちんと終わらせることができれば、ささやかな達成感も生まれる。最近は資格取得のための勉強もおざなりになっているから、昨日一昨日のサボり具合を考えるともっとやっておきたいところだが、無理に自分を追いつめてもしかたがない。と自分に言い訳をして、貴子は素直にここで勉強を切り上げた。
 一息ついて大きく伸びをすると、そのまま寝そべるように上体を前に倒す。両腕を曲げ合わせて机の上に投げ出し、その腕に眉間を押し付けるように、くてっと、貴子は机の上に突っ伏す。
 その拍子に、自然と、貴子の胸部が机の縁にぶつかった。
 一瞬、貴子の身体が、ぴくんと揺れる。
 少し角ばった机の縁が微かにふくらみに食い込み、貴子のその部分は、押し潰されるように柔らかく形を変える。
 今の貴子の身体と机の位置を考えれば、ごく当たり前の状況。
 「…………」
 貴子は身じろぎをして、上体を少し乗り出すように、前に倒しなおした。貴子の胸部のふくらみは机の上に乗る形になり、今度は机の表面にそれが軽く押し付けられる。
 貴子は声を出さず、しばらく顔を伏せて、そのままじっとしていた。
 疲れて休憩しているだけのようにも、静かに歌を聞いているようにも、そのまま寝ようとしているようにも、そして、まるで泣いているようにも見える貴子。
 もしも今、貴子の心を覗き込める人間がいたら、そこに混沌とした感情を見たかもしれない。
 かけっぱなしのCDの音だけが、貴子の部屋を控えめに席巻する。
 アップテンポな曲と、女性ボーカルの明るい歌声と、響きはきれいだが訳すとちょっと笑える英語の歌詞と。
 時計の長針が二度ほど動きを見せた後に、CDのその曲が終わる。
 瞬間、貴子はばっと勢いよく立ち上がった。
 ラジカセを操作して、CDを止める。
 静かになった室内で、貴子はテキパキと明日の教科書などをスクールバッグに放り、お風呂に入るための着替えを用意した。まだ新しい男物のトランクスと、ゆったりとした黒いタンクトップと、いつもならお風呂の後は普段着だがこの日はもうパジャマを持って、貴子は電気を消して自分の部屋を出た。



 お風呂場での貴子は、昨夜とは違った意味で、また少し過激だった。本人も自覚があるが、最近の貴子はやや情緒が不安定で、その起伏も多少激しかった。
 脱衣所で服を脱ぎ捨てて浴室に入ると、この日はすぐに髪を洗って、そのまま身体も手早く洗い始める。そして、貴子の手は、昨日と同じような場所で同じようなタイミングで一度止まった。
 この場に母親がいたら、息を呑んで、慌てて娘を制しただろう。貴子の気持ちは、昨日とはまるっきり違っていた。
 衝動、だった。
 貴子は衝動的に、片手におさまりきれない自分のそこを、強く握り締めていた。まるでちぎり取ろうとするかのように、張りのあるふくらみの一つを、自分の手で握り潰す。
 以前は知らなかったような、女性特有の柔らかい弾力的な感触と、痺れるような鈍く鋭い痛み。
 白く豊かな貴子の乳房が、貴子自身の華奢な手に覆われて、歪むように形を変える。
 貴子は泣きそうになる。
 痛みのせいだけではない。今の自分の身体が嫌だからというだけでもない。
 貴子が泣きそうになるのは、結局どちらにも徹底できていない自分を感じるから。
 全否定しないのに、全肯定もできない自分。
 力を込めると、強い痛みが広がる。
 その痛みが、それが自分の身体なのだと、嫌でも貴子に伝えてくる。
 貴子は大きく深く息を吸って、ゆっくりと浅く吐き出しながら、そっと力を抜いた。
 解放された乳房は瑞々しく震え、一瞬で自然な形を取り戻す。貴子は胸から離した手を、強くぎゅっと握り締めた。
 「なにをやってるんだかな……」とは、いまさら呟かない。
 一歩間違うと自傷行為に走れてしまいそうなネガティブな自分に、自嘲的な笑みが浮かぶ。その表情が、今の自分が他人にどう見えるかなんて、考える余裕もない。笑っているはずなのに、まるで泣きだしそうにも見える、今の貴子の表情。
 昨日のように女の快感に走るのも自分なら、今のように不意の破壊衝動に駆られるのも自分。
 いつか気にならなくなるのか、それとも一生引きずって付き合っていくことになるのか、それは貴子にもわからない。どちらにせよ、これが今の貴子。
 貴子の理性は、できることなら性的な感情は素直に受け入れて堪能し、ネガティブな感情も反転させるべきだと考えるが、やはり一朝一夕には感情は動かない。今は自分の身体が女だという現実を、ただ受け止め続けて、少しずつでも気持ちに余裕を作っていくことで精一杯だった。
 「ふぅ……」
 貴子はまた重い吐息を漏らして、スポンジを持ち直して、身体を洗うのを再開させた。
 まだ乳房には痛みが残っている。
 貴子は暗い瞳で、男ではありえないラインを描く、自分のその部分を見やる。
 些細な動作にあわせて柔らかく揺れて震える、年頃の少女の乳房。無意識に自制が働いたのか、深い傷はついていない。が、微かに泡のついたそのふくらみは、つかんでいた指先の位置が少し赤くなっていた。人に見られると変な誤解をされそうな、真っ白な乳房に走る、微かな赤み。
 貴子は無表情にゆっくりと、泡立てたスポンジを手になすりつけた。
 痛い方の乳房は、痛みを和らげるように、手で直接泡を広げるように撫でて洗い、痛くない方の乳房は、普通に表面にスポンジを滑らせる。
 そのまま谷間やアンダーも丁寧に洗って下へ進むと、柔軟に引き締まっているお腹と、華奢なウエストに到達する。そしてさらにその下にある、ふっくらと柔らかい繊細な女の部分。
 「……欲望だけなら楽だったのに」
 お腹を洗いながら、小さく、貴子は呟く。
 もしそうなら、こんなに暗い思いはしなくてすんだのかもしれない。が、現実は、貴子が感じるのは、欲望だけではなかった。今の貴子の身体は、好きな女の子と同性の身体だから、それを好きに弄んでそこから得られる性的快感に耽ることもあるが、その時ですら貴子の感情は強く屈折している。その呟きは無意味な仮定の話でしかなかった。
 大きく息を吸い込むと、貴子は丁寧に手早く、さっと今の自分の身体を洗った。



 いつも以上に手早いお風呂をすませた貴子は、コットンのメンズライクな半袖パジャマに着替えて、リビングのテレビをつけてダイニングキッチンに立った。大きな四つのボタンのついたライトブルーのパジャマ姿で、貴子は明日のご飯のためのお米を研ぐ。母親は手軽に毎朝パンでもいいと言ってくれるが、貴子自身が和風の朝ご飯の方が好みだ。結果的に、穂積家の朝は和食が多い。
 お米研ぎと前後して、貴子は適当に材料を見繕って、簡単な雑炊を作る。寝る前の間食はあまりよろしくないとわかっているが、夜ご飯が普段より三時間近く早かったせいか、ちょっと小腹が空いていた。さっき勉強中にヨーグルトを食べたが、それだけでは足りていなかった。
 人の身体は不思議なもので、食事を抜くと、かえって空腹のせいで胃もたれを感じたりすることもある。この手の雑炊は、忙しさのせいで時々夕食を抜くそんな母親に作ってあげると喜ばれる一品だ。有り合わせのものを使うために何雑炊にするかは日によってかなりまちまちで、この日は旬のキノコと冷凍庫の小海老を中心に適当な野菜を加え、落とした卵を半熟に煮立てて、柚子で風味をつけて仕上げた。
 つらつらと余計なことを考えながらの調理が終わると、貴子はリビングで床に直座りして、テレビを眺めつつレンゲを使って雑炊を食べる。ちょっとお行儀悪く、食べながら新聞も広げ、昨今の政治や経済の問題にも思考をめぐらせる。
 さっきの行為のせいで、まだ胸にジンとした痛みが残っていて、それがまた重く暗い感情を連れてくるが、これは馬鹿なことをした自分を責めるしかない。サイズにゆとりのあるパジャマをしっかりと押し上げているその部分には、痛みだけではない別のうずくような感覚もあって、気にし始めると身体全体まで際限なく意識させられて、お尻の座り心地まで変に気になったりするが、いつものようにできるだけ深く考えないようにして、少しだらだらと、ゆったりとした時間を過ごす。
 十一時が近くなって、週末にかけてぐずついた天気が続く、という、テレビの天気予報を聞き流しながら後片付けをすると、貴子はテレビを消した。母親がいつ帰ってきても暗くないようにリビングの電気はつけっぱなしにして、歯磨きをしに洗面所に向かい、先にトイレを済ませて、洗面台の前に立つ。
 洗面台には母親の化粧品や母子二人分の歯ブラシや洗顔フォームなどが置いてあり、真正面には、上半身を映すサイズの大きめな鏡がある。
 手を洗った貴子は、歯ブラシを軽く濡らした。その歯ブラシに歯磨き粉をつけて、見るともなしに、正面の鏡を見つめる。
 容姿だけ見たら、かなり可愛い、と言える十六歳の少女が、鏡の中にいる。
 黒いさらさらの細い髪は、サイドは小さな耳がむき出しで、襟足も短い。前髪はぎりぎり眉にかかる長さで、無造作に前に流れ微かに左右に分かれて、オデコを柔らかく覆っている。
 細く儚げな線を描く眉のすぐ下には、二重まぶたのぱっちりとしたまなこ。優しげになめらかな頬は健康的に白く、鼻梁のラインはすっきりと整って、艶やかな桜色の唇へと続いている。
 繊細でほっそりとした首、コットンのパジャマに包まれた華奢で小さな肩。浅いV字型の襟から覗く素肌は透き通るようにきめ細やかで、ふくよかに隆起した胸部はパジャマに柔らかそうな曲線を作り出している。
 その鏡の中の少女は、貴子に見つめられても真正面から見返して、無造作に歯磨きを始めた。
 歯ブラシを小さな口にくわえて、しゃこしゃこと。繊細な手で握った歯ブラシを左右上下に動かして、歯ブラシをひねって上向きにしたり、下向きにしたり。半袖のパジャマから剥き出しの白い腕も、一緒になって小刻みに動く。
 同年代の少女の歯磨きの姿というものは、普通の高校生男子であれば、ここまで間近で見る機会はそうそうないだろう。機会があったとしても、こんなに真正面から眺めたりしたら、嫌な顔をされても文句は言えない。
 なのに、鏡の中のパジャマ姿のその少女は、貴子に凝視されても少しも態度を変えない。
 口の中に歯ブラシをつっこんでいるせいで、時々唇が尖るように突き出されたり、頬がちょっと膨れるように歪んだり、口が半開きになってなんだか変な顔になったり。前を洗う時は、「イー」という形に小さな真っ白な歯が剥き出しになったり。大人しそうな可憐な顔を時々コミカルな表情にしつつ、まるいつぶらな瞳を、まっすぐに貴子に向けていた。
 他人事なら、変な顔だなと笑ったり貶したり、そんな顔も可愛いと思ったりするのだろうか。
 だが貴子にとっては、その少女は他人ではなかった。
 その少女は、今の貴子自身であり。
 そして、貴子の恋人が一目惚れした少女。
 もしも普通に他人として出会っていれば、貴子はここまでこの少女に関心を抱かなかっただろう。
 確かにかなり可愛いと言えるのかもしれないが、それは単に造形に対する評価でしかなく、見慣れつつある貴子に言わせれば、ただそれだけだ。「美人は三日で飽きる」という言葉もあるが、見た目だけの存在に対する興味なんて長続きはしない。少なくとも、すでに好きな人がいる貴子にとってはなおさらで、いまさら見た目だけの女に用はない。しょせん、見た目は人の一部ではあってもすべてではなく、顔の造形よりも、その表情の方が人をより印象付けることも多い。
 「この女はどこのだれだよ」と、貴子はいまだに意味もなく呟きたくなる。「くそっ」などと叫んで、目の前の鏡に拳をたたきつけたくなる。
 もちろん頭ではわかっている。わかっているが、その分余計に、今の自分だと思うだけで、評価にマイナス補正がかかる。ある程度自分の容姿に酔えた方が、女としては――男であっても――楽なのかもしれないのに、とてもそんな気持ちにはなれない。恋人が一目惚れした顔という点もプラスには働かない。まだ鏡の前で上手く表情を作れないせいもあるのかもしれないが、鏡に映るその顔はどこか人形めいて、妙に無垢そうに見えるのも気に障る。
 なのに、そんな貴子の自己認識をよそに、「貴子が可愛いとぼくが嬉しい!」と言い切った、貴子の恋人。貴子にしてみれば、こんな今の自分よりも、生き生きとした彼女の方がずっと魅力的なのに、彼女は貴子が笑うだけで喜んでくれて、たかがエプロン姿でもはしゃいでくれて。
 それを頭ではわかっているから、「女の身体になった今の自分の容姿なんて、悪くなければそれで充分。どうでもいい」とは、もう貴子は言えなくなっていた。
 貴子が望むと望まないとに関わりなく、今の貴子の容姿や身体は確実に、貴子の恋人に対して影響力を持っている。そう察しているから、むしろ貴子の理性はその影響力を利用すべきだと考える。今の自分に貴子本人が納得できなくとも、外見や身体で彼女の心をより惹きつけることができるのなら、はっきり言って安いものだ。
 そのはずなのに、心が苦しいのはなぜなのだろう。
 今の外見より内面を好きになってほしいという願望の表れなのか、それとも、男ではなくなっている今の自分が嫌で、この目の前の現実が、やはりまだ辛いせいなのか。
 「…………」
 余計な思考に感情を揺さぶられながら、貴子はいつも通り丁寧に歯磨きをした。
 歯磨きが終わると、うがいをして歯ブラシを洗いコップをゆすぎ、タオルを手に取る。華奢なのに柔らかい手の水気を拭うと、微かに濡れたままの唇にもタオルを運ぶ。
 数瞬、貴子の視界に、タオルをそっと口元に押しあてている少女の姿が入ってきたが、今度はすぐに顔を背けた。
 ――恋人とまっすぐに見つめあった瞳。
 ――恋人のオデコで、コツンとされたオデコ。
 ――恋人に楽しげにつつかれた頬。
 ――恋人の鼻と、不慮の事故でぶつかった鼻。
 ――恋人の唇と、もう何度も触れ合った唇。
 タオルをあてていると、さわっているのもさわられているのも、両方自分だということがはっきりとわかる。わかるのにやはり、細い指先が触れる感触も、触れられる側の感触も、鏡の中に映る姿も、どれもこれも以前とは違う。恋人と触れ合ったのは、見つめあったのは、貴子の心の中に刻まれている男としての自分ではなく、以前の男の身体の自分とはまったく違う、今の女の身体の自分。
 タオルをタオルかけに戻すと、貴子は強引に気持ちを入れ替えるように、小さく頭を振った。
 男のままでいたかった自分。元の身体に執着している自分。今の女の身体が気に入らない自分。嫌ってもしかたがないものを嫌っている自分を皮肉りたい自分。その身体から得られる快感に走ることもある自分。その身体を利用すべきだと判断している自分。そんな感情や理性を浅ましいと感じる自分。
 それでも、こんな状況でも、彼女が好きでいてくれることが嬉しい自分。恋人にもっと気に入られたい自分。今の自分の身体を前向きに受け入れるべきだと、理屈ではわかっている自分。
 やはり、今の貴子の感情は安定していなかった。相反する感情が複雑に共棲している。自分が自分に何を望んでいるのか、貴子は自分を見失いそうになる。
 貴子は微かな吐息とともに顔を上げ、ゆっくりと洗面台の前を離れた。





 to be continued. 

index

初稿 2008/05/06
更新 2008/05/06