Boy's Emotion -AFTER STORY-
Taika Yamani.
その二 「地に足の着かない生活」-後編-
一 「調理部」
放課後の学校、外は今にも雨の降り出しそうな灰色の雲に覆われて薄暗いが、調理部が活動している家庭科室は明るかった。陸上部とかけもちの二年生女子が、できたてほやほやの同性の恋人をゲストとして連れて来たせいで、部活が始まる前も、始まってからも、この日の部員たちはどこか浮ついていた。
その原因である女子生徒、学校の新生徒会長でもある脇坂ほのかは、連れて来た恋人の傍を終始離れたがらなかったが、さすがに部活が始まると、せいぜいちょっとさわったりする程度に抑えていた。たまにやりすぎる場面もあったが、「少し仲のよすぎる女の子同士」というレベルにおさまる振る舞いで、ほのかの恋人の穂積貴子も、どこか緊張した様子ながらも、ほのかの接触をされるがまま甘受していた。
そんな調理部の活動は、水曜日は食事系の実習、土曜日はおやつ系の実習らしく、この日と来週の水曜日の二回は秋茄子を使った料理だった。
前日までの部活で作成したという二枚のレシピプリントを元に、四つの班に分かれて作業を行なう。そのレシピプリントには「茄子で簡単ダイエット?」などという項目もあって、部員たちの関心がどのあたりを向いているかが、一部表れているかもしれない。「茄子の即席浅漬け」や「焼き茄子と生野菜の冷サラダ」などのレシピには、「お父さんのお酒のおつまみに最適!」「おねだりに使えるかなぁ?」というようなコミカルタッチなマンガ絵がそえてあったりもして、変なところで凝っていた。
「貴子のママって、お酒飲む方?」
「ん、そうでも、ない。人が来くれば家で飲むこともあるけど、強くないみたいだから」
「あ、うちと似てるね。お母さんは強いけど、お父さんもおじいちゃんもすぐ酔っちゃう方でね、ぼくもお正月のお神酒でもちょっと酔っちゃうし。家系かな。貴子はどう?」
「……どう、なんだろ? 味見くらいしかしたことないから、よくわからない」
健康的な明るさに溢れたきれいな響きを持つほのかの声と、どこか緊張混じりながらも甘く繊細な貴子の声。最前列に並んで座っている二人は、配布されたプリントを眺めながら、ひそひそと小声を交し合う。
「貴子って、お酒飲んだことないの?」
「まだ未成年だから、飲んでる方が問題あると思うけど……」
「あは、真面目だね。フランスでは子供も水みたいにワインを飲むとか言うよ?」
「ここは日本だし、その知識は間違ってるよ」
「えー、そう?」
「う、うん。日本よりは飲む機会は多いんだろうけど、飲むとしても水で割ってるみたいだよ。子供の飲酒の問題は広まってるし……、もともとも、水が美味しくないって言うから、味付けしてただけなんじゃないかな?」
「ふーん? あ、じゃあもしかしたら、昔はアルコールで消毒の意味もあったのかもしれないね」
「あ、うん、そうだね。それもあるのかも」
ちなみにこのレシピプリントは、実習後にコメントを加えて、レシピノートとして各自きちんと保存していくらしい。できたての料理はデジカメで撮影して、樟栄高校調理部のホームページに簡易レシピとともに掲載もしている。歴代の活動で受け継がれているアドバイスも多々混じっていて、貴子にとってもそれなりに勉強になる内容だった。
事前に色々調べているようで、茄子の名前の由来や種類や栄養成分、民間伝承的に伝えられている効能などについて詳しく記述しつつ、秋茄子についての有名な言葉である「秋茄子は嫁に食わすな」という言い回しの由来についても、諸説を簡単に紹介してあった。「嫁に美味しい秋茄子を食べさせたくない姑のいじわる」という説、逆に「茄子は身体を冷やす効果があると言われるため、涼しくなっていく秋に、姑が嫁を案じている」「秋茄子には種が少ないと言われるため、嫁が子宝に恵まれないことを案じている」という説。
「ほんとは、茄子嫌いなお嫁さんが、勝手にことわざをでっちあげたんだったりして」
「あ、それもあるかもしれないね」
茄子が好きではないから出てくる逆転の発想なのだろう、明るくそんなことを言うほのかに、貴子は真顔で頷き、冗談のつもりだったほのかに笑われてあたふたしてしまった。
「茄子が身体を冷やす」という説の真偽については、時間がなかったのか信用できる科学的データは得られなかったようだが、「本当に秋茄子には種が少ないのか?」という点は「実習時に実際に確かめてみよう」と課題として上げられていた。他にも真面目な内容が各所にちりばめてあって、『結構ちゃんと部活をやってるんだな』と、かなり失礼なことも考えたりした貴子である。
「今日も一班八人分ずつをメドに作ってくださいね。珍しく先輩方がみんないらっしゃるそうなので、手を抜くと怖いですよ」
「一学期は、一年生には基礎の基礎と味見しかさせないのが伝統でね、その分、二学期からは引退した三年生の分も作るんだよ。もともと練習用でいっぱい作って食べきれないから、先輩たちを呼んで食べてもらうっていうのもあるんだけどね」
みなに説明する部長の福山あかりの発言を受けて、ほのかは雑談を交えつつ、小声で貴子に解説を付け加える。
最前列のほのかの言葉が聞こえたのか、あかりは「ほのかは基礎の基礎からやり直した方がいいみたいですけどね」という目をほのかに向けたが、ほのかも貴子も気付かない。貴子は先輩と聞いて、『昨日みたいにまたうるさくされるのかな』と内心ちょっと身構えて心の準備をした。
先輩方が放課後すぐにやってきていないのは、「手伝わない先輩は出来上がるまで来ない」という調理部の不文律も大きいが、昨日の放課後のほのかの牽制――「ぼくと貴子の邪魔をしないでください」という言外の圧力――も効いている。それを知らない貴子は、『調理部の三年も、おれにも脇坂さんにもあんまり関わってこなければいいな』と素直な感想を抱いたりした。
なお、部員は二十一人で、五、六人ずつで四つの班を作っているから、三十二人分作る計算になる。すでに引退している三年生が七人と、顧問の先生の味見の分と、ゲスト参加の貴子の分。合計三十人で、ちょっと余る計算になるが、お米は少なめにしか用意していないから、おなかを膨らませるためや味見のためにおかずだけ食べたり、余れば知り合いや残業中の教師にくばったり、中には運動部の友達やボーイフレンドの差し入れにする子もいたり、家にお持ち帰りをしたりするらしい。
そんな説明の途中で、顧問の教師もやってくる。
見た目はちょっときつそうな印象の若い女性教諭だが、生徒が悪いことをしない限り温和な先生で、調理部でもいい顧問として通っているようだった。ゲスト参加の貴子についても、ほのかとあかりから簡単に報告を受けて、「ま、仲良くね」と、のたまってくださった。彼女は挨拶をするだけで深く干渉はせず、すぐにみなから離れた席に座って、持ってきた書類を広げて、別の作業に終始する。刃物などを扱うために一応付き添うが、基本的に生徒任せというスタンスらしい。
プリントの配布と簡単な説明の後は、みなエプロンを着けて準備をする。
部員用の専用エプロンがあるわけではないようで、エプロンは各自私物だった。
事前に知らされていなかった貴子は、笑顔のほのかからピンク色のエプロンを手渡された。大小の苺の絵柄がちりばめられたかなり少女趣味なエプロンで、ほのかの母方の祖母が、「男の子から女の子になった孫が少しでも女の子らしくなるように」という意図もあったのかどうか、去年の春にプレゼントしてくれたものだという。腰の部分がミニ丈のスカートのようなエプロンで、背中でバツの字に交差しているつり紐や、胸当てになる部分や胸元や裾には、白いフリルの縁飾りがふんだんにあしらってある。極め付けに、ウエストの後ろの腰紐も大きなリボンになっていた。
「昨日言ってくれれば、家から持ってきたのに……」
貴子はそう言いつつ、無駄に抵抗はせずに、夏の白い制服の上からそのピンクのエプロンを着けた。「あ、じゃあ今度見せてね」とにこにこするほのかに、貴子は勝てそうもなかった。
貴子としては、少女趣味なエプロンが可愛く似合ってしまう今の自分に鬱な心理にもなるが、『エプロン一つで脇坂さんが喜んでくれるなら安いものかな』とも思うあたり、優先順位ははっきりしていた。笑顔のほのかに「貴子、可愛すぎ!」とか「もう家に持って帰りたい!」などと抱きつかれて鼓動を跳ねさせたが、彼女に抱きつかるのは嬉しいから文句は言えない。とっさに『脇坂さんの家、行ってみたいけど、ご両親に会うのはまだ怖いな……』などと考える貴子は、やはりどこか先走りすぎだった。
貴子に少女趣味なエプロンを押し付けたほのか本人は、貴子の横でシンプルな大人びたエプロンを身に着けていた。貴子はそんなきれいなほのかに見惚れたが、エプロンは取り替えたいとちょっと本気で思ったりもした。自分が苺のエプロンを脱ぎたいというのもあるが、苺のエプロン姿のほのかも見てみたかった貴子だ。
エプロンを着用すると、まわりは賑やかに食材を準備しに動く。
ほのかはその前に、体育の時のように長い髪を束ねようとしたようだが、ふと思いたったように、貴子を見つめた。
至近距離からほのかのエプロン姿を見つめてドキドキしていた貴子は、じぃっと見つめてくるほのかに気付いて、さっと視線を逸らした。
「お、わたし、たちも、そろそろ食材……行かなくて、いいの?」
「うん、ちょっと待って」
甘くか細い声を出す貴子を笑って、ほのかは両手を首の後ろにまわし、何を思ったのか、自分の長い髪を三つの束にして編み込みかかった。
唐突に髪を弄り始めたガールフレンドに、貴子はなぜかなんとなく見てはいけないものを見たような心理になって、また目を逸らした。が、気にするなと言うのは無理な相談で、ちらちらと横目で見て、そんなほのかにまたこっそりと見惚れる。
「あ、珍しいですね、ほのか先輩、三つ編みですか?」
「うん、たまにはね」
後輩に言われて、ほのかは笑って応じる。髪の付け根やもっと高い位置からではなく、やや下方、うなじが隠れるような位置から、ほのかは太めにゆるく一本に、自分の髪を編んでいく。
「先輩が三つ編みって、わたし初めて見るかもです」
「あ、わたしもかも」
部員たちに口々に言われて、ほのかは「そうだね、学校ではやったことないかもね」と笑って受け答えする。「家ではおばあちゃんとかにやられたことはあるけど」と続けるほのかに、みなやいのやいの騒ぐ。
手馴れているわけではないようだが、髪の途中から編んだせいもあって、ほのかの作業は手早く終わった。最後に紺色のヘアゴムで髪を止めて手を離すと、ほのかはさっきからちらちらと自分を見ている貴子に、ちょっと照れたような顔を見せた。
「似合う?」
「う、うんっ……。きれいで可愛い」
「あは、貴子には負けるけどね」
そんなほのかの笑顔も眩しい。貴子は見惚れつつ、一瞬冷静になって複雑な気持ちになったが、言い返して自分の話題になっても嬉しくないから、否定はせずに、ただ曖昧に頷く。
が、ほのかが不意にひらめいたように「あ、しまった!」と騒ぎ出して、貴子はまたすぐにあたふたさせられてしまった。
「貴子にやってもらえばよかった!」
貴子は「えっ」と思ったが、やっていいのならやってみたいと思ってしまうあたり、自分の気持ちに馬鹿正直だった。「ぼくの髪、色々見たいって言ったでしょ?」と続けるほのかの言葉は、「ほのかの髪を貴子が好きにいじっていい」とも解釈できる。さすがにほのかがわざわざ一度髪を解こうとしたのは制したが、「今度機会があったらやってね」と笑うほのかに、貴子は反射的に頷きを返した。
部員たちもわいわい賑やかに、見慣れない髪型のほのかに騒ぐ。一本じゃなくて二本も似合いそうだとか、アクセントとして左右だけ細く編んでみるのも可愛いとか、編み始めの位置がどうこう編み方がどうとかこうとか、ヘアスタイルやファッション関係の話題になったりしつつ、部活は進む。
男子の集団とは質の違うまわりの雰囲気に、貴子はやはり居心地の悪さも感じたが、ほのかが傍にいてくれるからか、それは不満には繋がらない。新鮮な髪型の彼女に振り回されつつも、貴子は可愛い苺のエプロン姿で、彼女といっしょに料理をする。
部長の福山あかりが班長を兼ねる第一班は、ゲスト参加の貴子と、ほのかとあかりと、二年生がもう一人と一年生が三人で、計七人だった。この班は料理が苦手な部員を集めてあるようで、部長のあかりが面倒を見るという形らしい。
各班ごとに作る料理が少しずつ違い、第一班は茄子ピザと茄子の天ぷらと焼き茄子の冷サラダに、天ぷら用の天つゆとサラダ用のドレッシングで、他の班は南欧風の野菜の煮込み料理や、麻婆茄子や、揚げ茄子の餡かけなどを作っていた。
班長のあかりの役割分けに従って、貴子はプリント通りに作業を進めたが、料理に慣れている分作業も早い。本人は自然に振る舞っているだけだが、もともと姿勢がよくて動作もテキパキとしている。包丁捌きなど、他の部員に褒められても平然としていたが、ほのかに褒められた時は、かなり照れさせられたりした。
「穂積先輩って、可愛いお嫁さんになりそうですね」と一年の子に言われた時には、さすがに他人の言葉にも反応し、冷めた鬱屈した心理になったが、「ぼくのための花嫁修業だねっ」などと胸を張るほのかがいるから、他人にネガる余裕はない。
「ほのかさん気が早いね」とみな笑ったが、そんな中で、部長のあかりだけは、ほのかに対してあまり笑みを見せなかった。あかりは少し真面目な態度で、警告じみたことを言う。
「ほのかも、少しはまじめに家事を覚えないと、穂積さんに捨てられてしまいますよ?」
「大丈夫だよ。貴子がぼくを捨てるわけないもん。ね、貴子?」
「う、うん、当たり前だよ。できた方がいいけど、できなくても嫌いになるわけないよ」
「え、できた方がいいの?」
「それは、脇坂さんの手料理も、食べてみたいし……」
「あは、ほのか先輩も、今日から特訓ですか?」
「えー、特訓なんてするより、ぼくは貴子の手料理を食べるだけの方がいいなぁ」
笑ってそうぼやくほのかだが、料理が苦手という割には、包丁捌きは無駄にしっかりしていた。もともと手先も器用な方だからだろう、野菜のカットなど指示通りにきれいにやってのける。
料理をしながら部員たちが笑って教えてくれたところによると、ほのかが作る料理は、不味くはないが特別美味しくもないという、非常に微妙なものが出来上がるらしい。レシピ通りに作っても作らなくてもそうなるらしいから、料理に使う極めて感性的な何かが、ほのかには欠けているのかもしれない。
「だって料理は勘と経験だっておばあちゃんもいつも言ってるし。ね、貴子?」
ね、と同意を求められても、ほのかの祖母を知らない貴子は、返答に困った。
「それって、経験の仕方が間違ってるんじゃ……?」
なんとかがんばってもっともらしいことを言ってみると、まわりの面々には妙に受けたようで、吹き出すように笑われてしまった。
「あは、ほのか先輩、穂積先輩にも言われちゃいましたね」
「最初は教科書通りに経験を積むことも大事なのに、さぼってばかりですからね。ほのかはもっと基礎からちゃんとやるべきなんです」
ほのかの場合、もともと料理に特別な興味がないため、熱心さが足りずに遊び半分なのも悪いのかもしれない。センスに頼らずに「計量器具を使ってきっちりレシピ通りのものを何度も作って少しずつ完成度を上げていく」という手段が有効なのだろうが、本人がその地道さを嫌って、いつもフィーリングで作業を進めるから微妙なものが出来上がる。
「ほのかさんって、調理部員としては猫の手っていったところよね」
部員たちに口々にそんなことを言われても、ほのかは怒るどころか笑っていた。「猫の手だよ〜」と貴子の柔らかいほっぺたをぷにぷにつついて、貴子をあたふたと困らせた。
「麻婆茄子じゃなくて、麻婆豆腐がいいなぁ」とほのかが主張して、みなに笑われたりする場面もあったりしながら、部活動は順調に進む。
班長のあかりは、最初は貴子にも指示を出していたが、すぐに貴子の作業にはあまり口を挟まなくなった。
「穂積さん、プリント通りでなくとも、アレンジを加えてくださってもいいですよ。あ、でも後で、どこをどうアレンジしたか教えてくださいね」
「いや、いいよ、プリント通りにやる」
貴子はほのか以外の相手にはフラットな口調で、無造作に受け答えをする。当り障りのない会話をする分には、口数は少ないが、特別拒絶もしない。
が、以前の男のままであれば、やはりそっけなく聞こえたであろう発言だが、今となっては声や容姿のせいで印象は大きく違っていた。その上、ほのかの前での姿を見知ってしまえば、「大人しい子が無理に強がってがんばっているような印象」と感じるものも多かった。普段の貴子を見知っていれば、ほのかの前での貴子の方にギャップを感じるのだろうが、ほのかの前での貴子しか知らないものにとっては、逆に普段の貴子の方に違和感を覚えるということなのだろうか。「あは、残念、貴子の本領発揮はお預けか」などとしょっちゅう口を挟むほのかに対して、貴子がすぐに緊張混じりの感情的な態度になってしまう分もなおさらだった。
「穂積先輩って、いつ頃から料理を覚えたんですか?」
「……一応、小二の頃から、かな」
作業が進むうちに、そんな貴子に、部員たちも少しずつ話しかけるようになってくる。
宮村静香の発言ではないが、同性だから自分たちのテリトリーへ混じられても気軽に接することができた、という一面は、確かに存在したらしい。元男と思えばひっかかる部分もないではないようだが、貴子が男のままだった場合とは確実に大きな差があった。
ほのかという存在がいたことや、料理という共通の話題があったことも大きかったのだろう。例によってほのかが「わ、そんなちっちゃい頃からやってたの?」などとすぐ口出しするのも、貴子の普段のそっけなさを打ち消す方向に作用して、貴子の口数はやはり少ないのだが、会話が自然に繋がっていた。
「やっぱりママが忙しかったから?」
「あ、穂積さんとこ、お母さんも働いてるのね」
お母さん「も」という言葉を、貴子はいちいち訂正したりしない。初日に話しているから、ほのかは貴子が母子家庭で一人っ子ということをすでに知っているが、ほのかも人の家庭の事情を簡単に口に出したりはしない。
「それもあるけど……、栄養バランスとか、そっちに興味をもったっていうのが、大きい、かな」
「栄養バランス?」
「え、小学生の頃から?」
「わぁ、貴子って、おしゃまな小学生だったんだね」
「…………」
おしゃまな、という少し古風な形容は、男の子に似合う言葉とは言いがたく、貴子には褒め言葉とも思えない。貴子はまたちょっと複雑な顔をし、ほのかに楽しげに笑われてしまった。
多少余談になるが、「貴之」が子供なりに栄養の問題に興味を持ったのは、当時熱心に打ち込んでいたアイススケートの影響が大きい。スポーツや発育の問題に、食の問題は密接に関わりあっている。母親が専業主婦だっらその問題を丸投げしたのかもしれないが、その頃の母親は今以上に忙しかった。もともと小学校に上がる前から自主的に母親のお手伝いしていたが、子供心なりに母親の負担を減らしたいという心理もあったのだから、小学二年生の男の子としては、たしかにませていたと言えるのだろう。
最初は近所に住む母親の友人に教わることから始めたが、本人は栄養面のことばかり考えて、完成品はお世辞にも美味しいとは言いがたかった。にも関わらず、母親は文句も言わずに、息子の手料理をいつも残さずに食べてくれていた。貴子は今振り返ってみれば「よくあの母さんが我慢して食べてたな」と感心したくなるが、母親はさりげなくアドバイスをしたり、ちょっとでもいい点があると欠かさず褒めてくれていたのだから、母親の影響は貴子が思っている以上に大きい。実際、子供のこの行動は最初はかえって親の負担になった面もあるはるはずで、幼い「貴之」少年はそれらを自覚せずに、後ろで心配そうにうろちょろしたりする母親を時々邪険にしていたのだから、親の心子知らずだった。
「貴之」の母親の穂積雪子は、邪険にされた時はわざとらしくいじけたりしつつも、息子と一緒に料理ができるようになったのは嬉しかったようで、そんな息子の成長を最初は素直に喜んでいた。が、ただでさえスポーツに打ち込んで排他的だった息子の人付き合いがいっそう悪くなったのは、雪子にしてみれば計算違いもいいところだった。もともと小さい頃から絵本などが好きだった息子は、料理の本を読むようになったのがきっかけになったのか、普通の本も以前よりよく読むようになり、読書自体は悪くないが、その趣味もどちらかと言うと本人を内向的にしていた。
現状を見れば悪くはなっていないからいいものの、雪子はあまり子供らしくなかった息子の教育には、子供の知らないところで色々と思い悩んだりもしたらしい。中学高校と進学してからも、友達も少なそうであまり自分から遊び回ったりしない点も、ずっと少し気になっているらしい。さらに言えば、今現在、息子から娘になって、おまけに同性の恋人まで作ってしまったことについても、慎重に見守ることを選びつつ色々と複雑な思いがあるらしい。
今のところ、自分のことで手がいっぱいの貴子は、そんな母親の気持ちを理解していない。やはり親の心子知らずと言えるが、それはすなわち、立場と経験の差ということでもある。貴子もいつか親になれば、雪子の気持ちも少しは理解できるようになるのかもしれない。
閑話休題。
作業も終盤になって徐々に料理ができていくと、麻婆茄子やピザのチーズ、天ぷらのサラダ油の匂いなど、食欲を誘う香りが室内に充満し始める。
引退した三年生の先輩方も予定通り続々とやってきて、皿並べなどを担当していたほのかは、さっそく先輩方につかまって、あれやこれやと構われていた。ちょうど茄子と野菜の天ぷらを揚げている最中だった貴子は、みなと一緒に軽く挨拶をしただけでその場を動かなかったが、ほのかは貴子から引き離されて大げさに嘆いていた。
先輩方の中には、昨日教室に押しかけてきた人も混じっていたが、過半の先輩は貴子とは初顔合わせだった。彼女たちは、ほのかが選んだ同性の恋人に興味津々といった顔だったが、大人しめに見える貴子より、やはり慣れ親しんだほのかに構う方がやりやすかったのだろう、貴子にはあまり構ってこなかった。少女趣味なピンク色のエプロンがやたらと似合っているその下級生を見て、抱いた感情は様々だったようだが、ほとんどの先輩方は、ほのかのついででたまに話をふる程度だった。ほのかや貴子が元男という件にも多少触れていたが、ほのかの三つ編み姿も新鮮だったようで、それについてもあれこれ賑やかに騒いでいた。
貴子に積極的に近付いてきたのは、どこかゆったりとした物腰の前部長さんくらいで、「貴子さん、わたしも手伝わせて?」と、その先輩は笑顔で貴子の仕事を少し奪った。
「ほのかちゃんも、遊んでないで手伝ってくれればいいのにね」
「脇坂さんもがんばってましたよ」
前部長さんに話をふられて、貴子は華奢な声で生真面目に言葉を返す。が、恋人をフォローした貴子のその発言は、かえって先輩方には笑われてしまった。
「あら、じゃあ今日は期待できないわね」
「あは、ほのかちゃん、なんでもできるのに、家事だけは苦手だものね」
「ほのかの場合、料理はがんばるとダメダメだからなぁ」
ほのかの料理の腕前を知っているからこそなのだろうが、言いたい放題な先輩方だった。
「先輩たち、なんか貴子にぼくの悪口吹き込んでませんか〜?」
別の先輩につかまっていたほのかが敏感に聞きとがめて口を挟み、前部長さんは「家事以外はなんでもできるのにって、褒めてたのよ」と明るく応じる。他の先輩方もあれこれ言い合い、現役部員たちも混じってわいわい盛り上がる。
そんな面々に、貴子もほんのちょっとだけ、笑みが浮かんだりしていた。
ほのか本人が、からかわれても楽しげに笑っているのが大きいのだろう。貴子はどうなることやらと思っていたが、矛先が自分に向かなければ、こうやって恋人が騒いでいるのを近くで見るのは結構楽しかった。以前は遠くから見ているだけだったのに、今では彼女も貴子を気にしてくれて、離れていても時々目が合ったりする。笑ってくれる彼女に貴子はつい慌ててしてしまうが、心は甘く震えてしまう。
「ほのかちゃんのタイプって、貴子さんみたいな子だったのね」
その笑みに気付かれたのか、前部長さんにそう言われた時はさすがにさっと表情を消したが、ほのかのタイプが自分と言われるのは、嫌な感じはしない。男の自分ではなく女の自分と思えば鬱屈した気分にもなるが、貴子は肯定も否定もせずに作業を続け、先輩と目も合わせないという態度で、その言葉に応じた。
無視したともそっけないとも言えるが、今の貴子では照れて返答に困っているというふうにも見えて、前部長さんは、初対面の可愛い下級生を見やって、「なるほどなるほど」と笑って頷いていた。
「せっかくだから、貴子さんも調理部入らない?」
「いまさら部活をやる気はないですよ」
ほのかと同じような提案をしてきた前部長さんに、貴子は料理の手を止めずに、繊細な声できっぱりと言い切る。可愛い声なのにやけに率直に言い返されて、先輩はちょっと違和感を覚えたようだが、すぐにおっとりと「残念」と笑った。
「じゃあ、せめてまた遊びにおいでよ。貴子さんみたいな子なら大歓迎だよ」
「毎週見せつけられるのは、いやな気もしますけどね」
「あれ、あかりちゃんは反対なの?」
「どちらか一人だけならいいんですけど、二人になると、ちょっと見てられなくて」
「あは、そんなにアツアツなのね」
「そうなんですよぉ! さっきもらぶシーンしてましたからねっ。あかり先輩が止めなければ、もうどうなってたかわからないよねっ」
「うんうん! もうちょー羨ましいです!」
先輩たちの言葉を受けて、一年生たちもキャーキャー騒ぐ。他の三年生も「ほんと、あのほのかがレズだったとわね」「しかもめちゃくちゃ面食いだし」などと笑っていた。
貴子はそんな彼女たちについていけず、ついていく気にもならず、たまにふられる話に言葉少なにだけ応じる。一方のほのかは賑やかに対応して、からかわれても強気で「ぼくと貴子はらぶらぶですからっ」などと笑顔で言い放っていた。冗談めかしているとも言えるが、ほのかの態度は堂々として揺るぎがない。その言葉にはむしろ、貴子の方がさすがにちょっと、嬉し恥ずかしという心理にさせられてしまった。
そんなこんなで、賑やかに騒いでいるうちに、料理もどんどん出来上がる。
「貴子、ちょっといい〜?」
みなを避けて、部長のあかりと一緒に料理を盛り付けていた貴子が即座に振り向くと、ほのかは狙い済ましたようにカメラのシャッターを押した。
突然の閃光に、貴子がえっと思った時には、もう遅い。
ほのかは猫の手以外にも、カメラマンとしても活躍していた。調理部のホームページに載せるための撮影のはずなのに、料理の写真に混じってちゃっかり恋人の写真も撮るほのかに、貴子はまたあたふたさせられてしまった。
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初稿 2008/05/02
更新 2008/05/02