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Boy's Emotion

  Taika Yamani. 

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  第五話
   三 「恋人」


 「貴子、もっとぼくら、話をしよう」
 制服に着替え終えて更衣室を出る時、ほのかは貴子の顔を見ずに、だが真顔でそう言って、貴子の手を握った。
 凜としてきれいな横顔を見せるほのかに、貴子は見惚れながら小さく頷いて、そっと、その手を握り返す。
 体育の授業は、着替えを考慮していつも少し早めに終わるのだが、更衣室で騒ぎすぎたせいか、あまり時間に余裕がなかった。もっと話をしようと言いつつ、なんとなく二人無言で歩いて行くと、到着は六限の始業ぎりぎりだった。
 貴子はほとんど他人を意識していなかったが、六限の体育ために更衣室にやってきていた他のクラスの子たちにも二人は目立っていたし、廊下でも視線を集めていた。教室でも、先に戻った女子の誰かがぶちまけたのだろう、クラスの男子もみな、ほのかの元男発言を知っていた。二人が教室に入ると、一瞬しんと室内が静まり返った。
 が、学校全体は午前中より大騒ぎだったようだが、本人たちのまわりは不思議と平穏だった。
 貴子とほのかの空気が、午前中と明らかに変わってきていたせいもあるのだろうか。貴子は相変わらず緊張感いっぱいだが、朝とはどこかが違う。一方的にハイテンションだったほのかも、態度がぐっと自然になり、いい意味で落ち着いてきていた。
 急がなくてもいいと、焦って貴子にぶつからなくても大丈夫だと、ほのかも無意識にでも察したのかもしれない。そしてそんな二人の空気が、まわりに壁を作っていた。客観的に見ても、今の二人は距離が近付いて、朝と比べるとずっと自然な関係に見える。声をかけにくいと感じたものも多かったようだし、宮村静香でなくとも、「すっかり二人の世界だよね」と言いたくなるような雰囲気だった。
 そんなふうに、どこか浮ついた空気のまま六限を過ごし、帰りのホームルームの時間になる。
 昨日の今日でこんな騒ぎを起している貴子に、担任教師は色々思うところもあったようだが、貴子の行動もほのかの行動も、別に罪のある行動ではない。「多少行きすぎている観はないでもない」と感じていたようだが、恋愛をするなと言うほど堅物ではなかった。
 「色々あるようですが、みんな何事も程々に、節度と良識のある行動を心がけるように。――特定の誰かではなく、みんなよ、みんな」
 貴子とほのかの二人を牽制すると同時に、騒いでいる他の生徒たちにも、軽い牽制の言葉を投げていた。
 そのホームルームが終わって放課後になると、ほのかは部活を休むと言い出した。ほのかは毎朝自主的に走っているから、放課後の部活に頼る必要は必ずしもない。
 が、貴子はその言葉を嬉しいと思いつつも、賛成はしなかった。恋に夢中になるのは甘美さを伴うが、感情に流されすぎるのを、貴子の理性はよしとはしない。たった今教師からも釘を刺されたばかりだ。部活の大会も近いはずだし、貴子と付き合い始めたせいでほのかの生活が乱れた、などと、ありがちなことも言われたくなかった。
 「今までがんばってきたんだから、昨日も休んだんだし、やっぱり、よくないよ」
 まだどこか緊張感が滲んでいるが、だが朝のような極端なぎこちなさの減った声で、ナチュラルに華奢な声で、貴子は言う。今の自分の声や身体に対するネガティブな感情もあるが、言うべきだと思うことを言わずにいられるほど、貴子はほのかの前では感情のコントロールができていなかった。
 「部活なんかより貴子といることが何倍も大事だよ。部活なんて趣味でやってるようなものだし。貴子、真面目すぎだよ」
 「ん……。わたし、は、不真面目になるくらいなら、真面目でいたい」
 放課後の教室で、貴子は椅子に座っていて、ほのかはその斜め前に立っている。昨日と似たような構図だが、まだ教室にはかなりの人数が残っていた。そろそろ掃除の邪魔になるのだが、好奇の視線がちらちらと、ほのかと貴子とに向いていた。
 「はめを外す時は外してもいいけど、でも、自分で決めたことはちゃんとやるべきだよ」
 部活に入っているのなら、きちんとでるべき。きちんとでないなら、きちんと退部するべき。口には出さないが漠然とそう思っている貴子は、率直に自分の考えを言葉に乗せた。
 そんな貴子に対して、ほのかはいきなり、貴子の言葉をちゃんと聞いているのか聞いているのか、どっちともとれるようなことを言った。
 「……貴子、わたしって言うの、もうやめたって思ってた」
 貴子は「え?」という顔をした後、ほのかの言葉を理解して、数秒目を閉ざした。
 目を開くと、ゆっくりと彼女の瞳を直視して、後になって考えるとかなりこっ恥ずかしさに襲われることになる台詞を、貴子は素直に口に出す。
 「……些細な、ことだから。たまにでるかもしれないけど、そんなことに拘るより、脇坂さんが好きでいてくれる方がいいし……」
 「……そこまで言ってくれるのに、ぼくと一緒にいたくないの?」
 「な、そんなわけないよ!」
 ここで簡単に慌ててしまうのだから、まだまだほのかには勝てない貴子である。
 「だったらいいじゃない、今日くらいは」
 「でも……、今日我慢しないと、もうずっと我慢できなくなりそうだから……」
 「その時は我慢しなければいいんだよ」
 「よくないよ、そんなの」
 「よくなくなんてないよ。ぼくはぼくのために部活してるんだから、サボるのもでるのも自分で決めるんだよ」
 貴子は多少、物事に白黒をつけたがる傾向があるのかもしれない。ほのかはそんな貴子よりは柔軟で、「部活に入っているけど、先輩に怒られようが、サボる時には遠慮容赦なくサボる」という選択肢を、当たり前のものとして持っていた。この状況での部活の優先度は低かった。
 「……じゃあ、せめて、終わるの待ってるから、それで、どう、かな……?」
 「遅いと全然話せないよ」
 「一緒に帰るくらいは……」
 「駅までじゃ短い」
 「少しくらいなら、寄り道していっても……」
 「そしたら貴子も遅くなるでしょ?」
 「別に、部活やってるって思えば……」
 「遅くなると貴子のこと心配になる!」
 座っている貴子を、立っているほのかは、数秒じっと睨みつける。
 貴子は少し困ったような気分になりつつ、そんなほのかにちょっと見惚れたりもしていた。これまで人前ではあまり見せていなかったような、貴子の前でだけ見せるような、ほのかの表情。そうでなくとも、間近で見るほのかの表情は、どんなのものであれ貴子にはまだ新鮮だった。
 「……脇坂さんって、意外にわがまま、だよね……」
 「貴子だって融通きかなすぎだよ!」
 ポロリと本音をこぼした貴子に、ほのかは即座に言い返してくる。貴子はちょっと視線を泳がせた。
 「ん……、そうかも」
 「ここで頷くなー!」
 ほのかはつい笑って、貴子の頬に、軽く手を当てた。叩くというよりは、撫でるようにさわる動作。
 貴子の鼓動は、相変わらず敏感に跳ねた。更衣室であんなことがあったばかりなのに、スキンシップが過剰なほのかに、貴子はどうしても振り回されがちだった。
 「わ、脇坂さんだって、否定しなかったくせに……」
 「だってぼくわがままだもん。貴子にはもう遠慮しないの!」
 「…………」
 もともと遠慮してるようには全然見えなかったよ、と思いつつ、それを嬉しいと思う自分に、貴子は少し困った。また頬が熱くなるのを、嫌でも自覚してしまう。
 本人の意図に関わりなく浮かぶそんな貴子の表情は、ほのかの目にはいじらしく見えて、言葉より大きく、ほのかの感情を動かす。ほのかはえーいとばかり、貴子に抱きついた。胸に貴子の頭を抱きこんでしまう。
 「もう! わかったよ、そんな顔しないでよ! ぼくが我慢すればいいんでしょ、我慢すれば! 部活終わってから一緒に帰るので我慢してあげる!」
 「ぇ、う、ぅ……」
 「そのかわり! 今日の夜電話するからね!」
 「え、うん。いつだってしてくれると嬉しい」
 「よし! じゃあ決定!」
 ほのかは貴子の身体を離すと、手を取り直して、頬を桃色に染めている貴子を引っ張った。
 「でも部活終わるまで暇でしょ? 貴子何してるの?」
 「ん、図書室で、読書でも……」
 「んー、ま、いっか。じゃ、途中まで一緒に行こう」
 荷物を持って立ち上がった貴子の手を、ほのかはすぐに握りなおした。ただ単に握り締めるのではなく、指と指を組み合わせるように絡めあう密接な手の繋ぎ方。ドキンとしてまたぎこちなくなった貴子を連れて、ほのかはゆっくりと歩き出す。
 歩きながら、ほのかは通りすがりに、クラスメートたちに別れの挨拶を投げかける。みな慌てたような態度で挨拶を返してくるが、貴子には挨拶をしない辺り、貴子の立場は少し複雑だった。これは以前からのことだし、親しくない相手に挨拶をされても貴子本人がわずらわしさしか感じないだろうが、ほのかの横にいるとちょっと目立っていた。
 だからなのかどうか、この日はそれを見咎めたらしいクラスメートも、中にはいた。
 「穂積さん、ばいばーい! また明日ね〜!」
 廊下側後方の友達の席の傍にいた宮村静香が、教室中に響く声で言う。
 とたんに、ただでさえ集まっていた周囲の視線が、貴子とほのかと静香とに集中する。
 が、当の貴子は、まだほのか以外を気にする余裕がなかった。遠距離からの静香の攻撃に大声で言い返す気にもならずに、ちらりと見て小さく頷くだけで、静香に応じる。無視をせずにちゃんと反応しただけましと言えなくもないが、やはりそっけなくて愛想がよくない貴子だった。
 ここで笑ったのはほのかだ。
 「宮村さんたちもばいばーい」
 繋いでいる方の手を強引に持ち上げて、貴子の手ごと自分の手を軽く振って見せる。
 「ぁ……」
 「あは、脇坂さんもまた明日ね〜」
 恋人に勝手に腕をコントロールされてちょっとあたふたする貴子をよそに、静香も笑顔になって、手を振り返す。一緒にいた松任谷千秋と藍川志穂も、指をひらひらと動かすように軽く手を振ったが、二人の笑みはどこか苦笑気味だった。
 「貴子も、手くらい振ろうね?」
 笑顔のほのかは、手を下ろす途中、繋いだままの手の甲で、貴子の薄桃色の頬を撫でる。
 ぴくん、と、貴子の身体は震えた。思わず繋いでいる手にきゅっと力が入る。
 ほのかはまた笑いながら廊下に出ると、慌てて言葉を捜す貴子が口を開く前に、さっきの続きに話を戻した。
 「図書室ってさ、たしか五時半には閉まるんじゃなかった? 部活六時まではかかるよ? 閉まった後どうするの?」
 「ぇ、あ、えっと、どこかで本でも読むか、……脇坂さんを、見てよう、かな……?」
 「…………」
 可愛い声でぽろりと願望を漏らす貴子に、数秒、ほのかは押し黙った。どこか照れたような沈黙。
 「……貴子ってさ」
 言いながら、ほのかは貴子に顔を近付ける。またぴくっと反応する貴子の耳元に、ほのかは笑ってささやいた。
 「けっこう、恥ずかしい子だよね? 引っ込み思案っぽく見えて、なんか大胆だし」
 「わ、脇坂さんほどじゃ、ないと思うけど……」
 「えー、ぼく引っ込み思案じゃないよ?」
 頬を桃色に染める貴子に、わざとふざけて、ほのかは笑う。「そ、そこじゃないよ」と、貴子は華奢な声で言わずもがなの点をつっこんだ。
 「さっきだってさ、人前なのに、ぼくを襲いそうになってたし?」
 「…………」
 「可愛い顔して、けっこうえっちっぽいし?」
 「…………」
 「否定しないんだ?」
 ほのかはくすくす笑って、貴子の肩に肩をぶつける。ドキッとした貴子は、ほのかに嘘をつけない上に、ここでも馬鹿正直だった。
 「わかってるなら、あんまり、挑発しない方が……」
 「えー、やだ。貴子とやりたいこといっぱいあるんだから。貴子とイチャイチャもしたい。貴子はしたくないの?」
 「し、したい、けど……」
 「でしょでしょ、じゃあ問題ないよ!」
 「でも、抑えがきかなくなる……」
 「…………」
 「…………」
 「……貴子、前科一犯?」
 「ぅ……」
 思わず貴子は怯んだが、さっき堂々と人前でキスをしたり服を脱がそうとしたりしたほのかは、あまり人のことは言えないはずである。
 ほのかは笑って、少し大胆なことを言った。
 「あは、そういうのはさ。いつか、二人きりの時に、ね?」
 「…………」
 とっさに、頭の中で「そういうの」の妄想が駆け巡って、貴子は身体を熱くした。
 ほのかは、自分で言っておきながら、彼女も微かに頬を赤らめて、横目で貴子を見る。
 「でも、ぼくもまだなんか恥ずかしいから、もうちょっといつか、ね?」
 「…………」
 期待して、落胆して、でもやっぱり期待して。
 恋人の赤らんだ表情に鼓動を跳ねさせつつ、貴子はついぽろりと、繊細な甘い声でつっこみを入れる。
 「そう言う割には、全然、恥ずかしがってるふうには見えなかったけど……」
 照れ隠しなのかどうか、ほのかは明るく笑った。
 「えー? それ、えっちっぽく思っちゃうのは、貴子がそんなことばっかり考えてるからだよ」
 「…………」
 「あは、やっぱり否定しないんだ?」
 「わ、脇坂さんは……、全然、考えない……?」
 「ん、ぼくも、たまには考えちゃうけどさ?」
 「…………」
 「って、もう! 何を言わせるかな! 貴子、可愛い顔してやっぱり恥ずかしい子だよ!」
 「わ、脇坂さんだって……」
 「貴子には絶対負けるよ!」
 『二人とも同じくらい恥ずかしい子だよ……』と、二人の会話が宮村静香などに聞こえていたら、そう思ったかもしれない。
 付き合い始めはだれでも浮ついた気分になりやすいものだが、腕と腕を密着させて、スカートも触れ合う距離で手を繋いで、お互いに頬を赤らめて色々言いあっている二人の姿は、声が聞こえなくとも、見ているだけで照れくさくなりそうだった。この年代の女の子同士のじゃれあいはそう珍しいものでもないが、恋人同士と知れ渡っているし、二人の態度は少し露骨すぎだった。
 二人とも見目が麗しいために、見惚れたり目の保養と思ったものもいたようだが、実際に後方から見ていた静香などに言わせれば「独り者には目の毒だよ〜」という感じであり、志穂に言わせても「背中がむずがゆくなりそう」という感じだった。千秋も「あの二人、ほんとに、恥ずかしくないのかな……」と呟いて、もう見てられないとばかり、視線を逸らしていた。
 「千秋ちゃんも、あんな初々しい時、あった〜?」
 「まさか。さすがにこんな人前でやるわけないでしょ」
 「千秋……、語るに落ちてるよ」
 「わ、さすが千秋ちゃん、人前でなければあるんだねっ」
 「う……」
 などなどと、千秋たち三人が後ろで好意的に騒いでいるのにも気付かずに、貴子とほのかはじゃれあいながら歩いて行く。一階の昇降口前で別れるまでずっと、二人の手は、しっかりと甘く繋がっていた。



 以下、少し蛇足である。
 人目をはばからずにいちゃいちゃしている貴子とほのか。そんな二人を見つめる外野の視線は多々あったが、今のところ、驚きや戸惑いや好奇の視線が多かった。ただでさえ、新生徒会長の脇坂ほのかが同性愛で、かつ「元男の女」の恋人を作ったという情報だけでも充分驚きだったところに、そのほのかが元男だったという情報が加わって、すぐにはどういう目で見ていいのかわからないらしい。
 が、外野はそんな視線が多かったが、中には、敵意のある視線も混じっていた。
 そんな敵意のある視線を向けていた一人に、放課後になるなり二年生のフロアにやってきていた、とある一年生の女子生徒がいる。
 今の貴子より背が高いその下級生は、貴子とほのかとをずっと追いかけて、二人が昇降口で別れてから行動に出た。彼女がさらに追いかけたのは、外に部活に行くほのかではなく、図書室に向かう貴子の方。
 学食や図書室がある三号館への渡り廊下の途中で、貴子は鋭い声で呼び止められた。
 「ほづみたかこ!」
 かなりきつい口調と、聞き覚えのない声での、フルネームの呼び捨て。
 貴子はガールフレンドとのやりとりで興奮気味で、一人になって色々余計なことまで考えて、もっと一緒にいたいと思ったり、自分の言動の情けなさに落ち込んだり気恥ずかしくなってきたり、反省したりしかけていたが、瞬時に気を引き締めた。そしてその声が聞こえなかったかのように、毅然としてそのまま歩みを進める。
 いきなり後ろから名前を呼び捨てにするような見知らぬ相手に対する、貴子の当然の行動だった。
 「わぁ! こらぁ、待ちなさいー!」
 やや大人びた容姿のその女子生徒は、見た目にそぐわない少し幼い態度で、慌てて貴子を追いかけてくる。
 その可能性を考慮していたから、貴子は肩をつかまれる寸前に、短い髪とスカートを揺らしてさっと避けた。
 「きゃっ!」
 後ろから強引に貴子をつかもうとしたその下級生は、つんのめりかけたが、なんとかふんばった。さすがに足を止めた貴子に、彼女は慌てて向き直る。
 「な、何するんですか!」
 何かしようとしたのは相手の方で、貴子は何もしていない。
 素早く、まず上履きの色で学年を確認しようとした貴子は、相手の顔を見るなり、一瞬視線を鋭くした。
 話をしたことはないが、知っている相手だった。
 言われてみればという感じで、ほのかと似ているところもある下級生。
 名前は、福山かなえ。
 ほのかの母方の従妹だという、一つ年下の少女。
 身長は貴子より十センチ以上高く、見た目は気が強そうで大人びているが、まだ発育途中なのか、身体のメリハリはさほど大きくはない。長めの髪を、体育の時のほのかのようにポニーテールにしているのが、活動的な印象を作り出している。なぜか彼女は貴子を睨みつけてきていたが、その姿には、貴子の恋人に少し似た凜とした印象が宿っていた。
 ほのかの従妹なだけあって、福山かなえは容姿で目立つタイプだし、男子生徒たちの間ではそれなりに人気がある。中学の頃から熱心に部活を頑張って、一年生ながら団体戦のレギュラーに選ばれて、バドミントン部の方でも活躍しているらしい。が、ほのかはそんな従妹を気にかけているようだが、かなえの方で従姉に隔意があるらしいという噂を、貴子は一学期に聞いたことがあった。
 だから貴子は一瞬態度に迷ったが、無理に自分を飾ってもぼろが出るだけだった。相手の性別と見た目に騙されただけかもしれないが、数を頼らずに一人で上級生に向かってきたのだから、貴子はとりあえず穏便に、自然体でかなえに応じた。
 「何か用?」
 「よ、用があるに決まってるでしょ! じゃなきゃだれがあなたなんかに!」
 少し高低差のある二人の視線が、真っ向からぶつかり合う。
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 なぜか、長い沈黙が生まれた。
 話の先を促すように、貴子は下級生の少女を見上げて、無言で相手の言葉を待ったのだが、かなえもかなえで貴子から何か言ってくると思ったらしい。廊下でじっと見つめあっていたのだから、傍から見たら少し変な二人だったかもしれない。
 そんな貴子の態度を、かなえは余裕の表れと受け取ったのかどうか。
 だんだんと顔が青ざめたかと思うと、視線が下に動き、貴子の胸辺りを見て、急にキッと貴子を睨んできた。
 「なんで、あなたみたいな人に……!」
 胸の前でぎゅっと力んだように二つの拳を作って、ようやく、かなえが口を開く。その後の声は絶叫に近かった。
 「お兄ちゃんが認めたって、わたしは絶対に認めないんだからあぁ!」
 貴子の耳にキーンと響く、甲高い声。
 気の強そうな容姿と裏腹に、どこか幼子のようなかなえの声。かなえは泣きそうな顔でそれだけ言うと、スカートを翻していきなり駆け出していった。
 「…………」
 貴子が振り向いた時には、もうかなえの背中はずいぶんと小さくなっていた。
 とても一方的なかなえの態度だ。貴子がかなえのことを知らなければ、「お兄ちゃんって、だれ?」とわけがわからなかっただろう。または、その発言にちょっとしたショックを覚えなかった場合も、「変な子だな」と、かなり冷めた感想を抱いたかもしれない。
 突然与えられた情報に、貴子は少し嘆息した。
 「お兄ちゃん、か……」
 か細い声で、小さく呟く。
 昼休みまでであればともかく、今の貴子は、それがだれなのかを推測できる。
 かなえにとっては、今でもほのかは、「従姉」ではなく「従兄」ということなのだろうか。かなえが「お兄ちゃん」と呼ぶ相手は、おそらく、ほのかのこと。
 ほのかが中学一年の夏まで男だったのなら、それより前のほのかと親交があるものは、ほのかの男時代を知っていて当然。身近な親戚であるかなえは、その中の一人。ほのかが「お兄ちゃん」と呼ばれることは、貴子には全然ぴんとこないが、かなえの発言は、無視ができないだけの重さを持っていた。
 イトコ同士は、法律上、結婚も認められている。
 貴子のとんでもない勘違いでなければ、かなえの発言は、つまりそういうこと。
 それがいつの頃からの、どれだけ深い想いなのかは、貴子にはわからない。それでも、ふってわいて出てきたような人間に長年好きだった人を奪われたら、かなえでなくとも、ケンカの一つも売りたくなるかもしれない。かなえがほのかに打ち解けていないという件も、もしかしたら、恋心を抱いていた従兄が男から女になってしまったことが影響しているのだろうか。
 なんにせよ、貴子としては、相手がほのかの従妹でなければ全然問題にしないのだが、さすがにちょっと相手が相手だった。
 もちろん、相手がほのかの身内だからと言って、貴子の基本的なスタンスが何か変わるわけではない。貴子はほのかと別れる気など、全然まったく微塵もないから、かなえをどう扱うかは、どちらかと言うと貴子ではなくほのかの問題だ。
 だからこそ、ほのかがかなえのことをどう考えるのか――そもそもほのかはかなえの気持ちを知っているのかどうか?――を思うと、かなえの存在は無視できない。
 ほのかと付き合っていく以上、避けては通れないことなのかもしれないが、ただでさえ思い悩むことも多いのに、また余計な問題が加わった形だった。
 放課後の図書室で、五時半になって締め出されるまで、貴子は悶々として過ごす羽目になった。








 to be continued. 

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初稿 2008/02/26
更新 2008/02/29