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Boy's Emotion

  Taika Yamani. 

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  第五話
   二 「緊張の糸」


 火曜日の五限、二年の一組と二組合同の、男女別の体育の授業。
 穂積貴子にとっては、女として初めてまともに参加する、女子に混じっての体育の授業。
 女子は先週同様、体育館でのバレーボールだった。
 もうバレーボールの授業は後二回ほどで終わりらしく、ランニングと準備運動の後すぐにゲームになだれ込んだが、一組との混合チームに加わることになった貴子は、たびたびぼっとして、同じチームの恋人に笑顔で叱られた。試合中の貴子のその態度は、至近距離で揺れる恋人のお尻や太ももや、彼女が飛び跳ねる時に体操服の裾から垣間見える白い素肌などにも原因があったのだが、馬鹿正直にそれを言うわけにもいかず、貴子はもう内心わたわたしまくりだった。普段ならそうそう変な意識はしないのだが、さっきの今だからか、どうしても思考が歪む。
 まわりも落ち着いていなかったから貴子一人がポカを連発していたわけではないが、ほのかが貴子に構いたがるために、ただでさえ目立つ二人はここでも目立っていた。
 笑顔のほのかに叱られて、貴子は後半はなんとかがんばったが、おかげでかなり汗をかいてしまった。冬のジャージは結局最初から最後まで着なかったが、それでも少し暑かった。
 ただ、久しぶりに身体を思いっきり動かしたことは、貴子にプラスの効果も与えていた。活発な運動に合わせて、男だった時にはなかった胸のふくらみが敏感に揺れて震える、そんな肉体感覚には鬱っぽい心理にもなったが、適度な運動それ自体は、色々なものを吹き飛ばす力にもなってくれた。
 ほのかの内心は貴子にはまだよくわからないが、それでも、貴子への執着だけはうかがえる。貴子は相変わらず緊張ばかりしていたが、心のどこかにちょっとだけ、ほのかに対するゆとりが生まれ始めていた。好かれているという認識から一時的に湧き上がってきたささやかな自信、とでも言えばいいのだろうか。まだまだ緊張いっぱいになってしまうのはどうしようもなかったが、積極的に全力で好意をぶつけてくるほのかを、貴子は自然に受け入れていた。
 体育が終わるまでは、そんな調子で、時は流れる。
 が、そのゆとりが、貴子の感情の抑制をかえって甘いものにすることになる。慣れきれていない身体での運動による肉体的疲労のせいや、汗で下着が少し肌に張り付いて、今の自分の身体を強く意識させられていたせいもあったのかもしれない。良くも悪くも、貴子の感情が揺れやすい状況が生まれていた。
 体育の後、もう一度着替えの時間があったのが致命的だった。体育の前後に着替えがあるのはごく当たり前のことだが、たったの一時間の間に二度も半裸のほのかを目撃するという状況に、貴子はもう感情がいっぱいいっぱいだった。
 「貴子、ちゃんと着替え持ってきた?」
 「っ……」
 上の体操服を脱いだところで、Tシャツごしに汗ばんだ背中をつつかれて、貴子はビクンとなって身体を逃がした。
 貴子をつついたほのかは、髪を解いて先に体操服を脱いで、上半身下着姿になっていた。スポーティなタオルを片方の肩にかけているが、ボトムはハーフパンツのままという格好で、貴子の目にはやたらと艶っぽくうつる。
 鼓動を跳ねさせた貴子は、そんなほのかの全身を視野に入れてしまい、さらに慌てて視線を逸らした。
 「も、持ってきてない……」
 「あ、そうなんだ。でもシャツは脱がないとね? 汗かいたままだと風邪引くよ?」
 にこにこにこと、邪気のない笑顔で、ほのかは言う。一時間前も拘っていたこと考えると、ほのかに本当に邪気がないのかどうかは謎だが、貴子には自然に聞こえる、きれいな声。
 「い、いい……。汗はすぐ乾く」
 ざわついて落ち着きのない、女子生徒たちの汗やコロンの匂いが漂っている女子更衣室。
 そんなほのかと貴子を気にしている生徒も多いが、女子生徒たちにとってはなにも特別なところはない日常的な行為が、この時も繰り広げられている。日によっては下着の話題などで盛り上がることもあるようだが、年に何十回も繰り返されている行為だから、みなの着替えは無造作だ。中には汗が不快なのか、ブラジャーまで着替えて堂々と裸をさらしている女子もいて、男子生徒が見れば鼻血でも出してしまいそうな光景かもしれない。が、同性しかいなくとも少しは隠す生徒は多く、ほのかのように簡単に上下とも下着になる生徒も少数派だった。下着を着替える場合でも、友達にもしっかりと隠すようにしながら、さっと手早く着替える女子が多い。
 正直に言えば、貴子も自分の胸部を覆っているハーフトップブラまで少し着替えたい気分だったが、着替えを用意していないし、ほのかの前で下着姿や裸になるのはやはり抵抗があった。ボトムのハーフパンツも少し着替えたかったが、ハーフパンツなしでスカートというのも抵抗がある。
 「でも汗臭くなっちゃうよ? 貴子の汗なら、ぼくは嫌じゃないけどね?」
 ほのかは上半身下着姿のまま笑うと、貴子の身体に顔を寄せる。
 そう言われて貴子は自分の体臭が少し気になったが、ほのかを押し戻そうとして、ほのかの素肌の肩に触れる寸前でためらって、持ち上げた手のやり場を無くしてしまった。
 ほのかは無造作に、貴子のTシャツごしにわき腹辺りに手を置いて、笑って鼻先を貴子の胸元に近付ける。
 「うん、やっぱり、なんかいい匂いする……」
 「っ……」
 貴子の身体の健康的な甘い香りを吸いこんで、ちょっと嬉しそうに言うほのか。
 貴子は息が止まりそうだった。
 持ち上げた手の位置が微妙で、その気になれば、下着姿のほのかを簡単に抱きしめられる。ほのかがさわっているわき腹もくすぐったいし、ほのかの吐く息が肌を撫でるし、ほのかのきれいな長い髪が前に流れて、Tシャツ越しに貴子の胸のふくらみにも触れている。
 もう感情が壊れそうになる。
 「ねえ、貴子」
 貴子が感極まってほのかを抱きしめそうになる寸前、ほのかは冗談半分だったのか、軽く笑って、身を離した。
 まわりの視線を、ほのかは気にしたのだが、貴子はそこまで気付けない。ただの友達同士ならまだしも、女の同性愛であり、元男同士であるらしい二人に、無数の感情のこもった視線が飛んできていた。まわりはざわつきっぱなしで、マイナスの視線だけではないが、良くも悪くも注目の的だった。
 「そんなに意識されちゃうと、ぼくまで恥ずかしくなっちゃうよ。女同士だし、恋人同士なんだし、ちょっとくらい見られたっていいんじゃない? 体育は週二回あるんだし、そんなんじゃこれから大変だよ?」
 「…………」
 女同士というには、貴子は自分の身体が女であること自体にまだ慣れていない。恋人同士というにもそうだし、仮に慣れていたとしても、他人の前で堂々とお互いの下着姿を見たり見られたりというのは、普通の男女の恋人ならまずありえない。
 「ね? シャツ、脱いじゃおうよ」
 「脇坂さん、は……、平気、なの……?」
 「ん、今日はスポブラだしね、気にならないよ。もう慣れちゃったし、女子しかいないしね」
 「お……わたし、が、どんな目で、見ても?」
 「ん……、貴子なら、いいよ」
 さすがに、ほのかも、ちょっと照れたような顔を見せる。
 貴子にとっては、そういう台詞とそういう表情は反則だった。二人きりの密室で聞かされたら、貴子の理性は即座に蒸発したかもしれない。
 「意地でも脱がない気なら、ぼくが脱がしちゃおうかな?」
 ほのかは照れくさくなったのか、それをごまかすかのように明るく笑った。
 「……え?」
 「うん、そうしちゃおう!」
 ほのかは笑顔のまま、えいっとばかり、大胆に動いた。貴子のTシャツの裾辺りを左右からつかむと、思いっきり上に引っ張り上げてしまう。
 「な、わ、ちょっ……!」
 か細い声を上げて貴子は逃げようとしたが、ほのかは逆にいっそう距離を縮める。
 貴子は壁際に追い込まれた。
 Tシャツの裾が首近くまで持ち上がって、貴子の清潔感溢れる白いハーフトップブラが顔を覗かせる。ほのかはわざとなのかそうでないのか、さりげなく両手のひらで、貴子の二つのふくらみをハーフトップごと押さえた。
 「っ……」
 この状況を擬音で表現するなら、むにゅ、という感じだろうか。
 だが貴子の心理を表現するなら、ぷつん、という擬音の方がふさわしかった。
 後になって、貴子はこの瞬間に自分の緊張の糸が切れたのだと、深く反省することになる。
 「貴子って、けっこうおっきいよね。すごい、あったかい……」
 ほのかの嬉しそうな、笑みを含んでいるような、どこか艶っぽい声が、駄目押しだった。
 貴子の身体が強い熱を帯びる。身体が勝手に動く。
 ほのかの背中に、貴子はぎゅっと手を回していた。
 「わっ?」
 ほのかは、貴子がまたあたふたするとでも思っていのだろうか。突然の貴子の行動に、驚いたような声を出す。
 そのほのかの素肌の肩に、貴子は顔を押し付けた。
 コロンなのか、シャンプーや石鹸の残り香なのか、ほのか自身の香りなのか、甘酸っぱい匂いが貴子を包み込む。
 二人の胸の間にはほのかの手があって、力を込めなければ完全には密着できない。貴子の方が身体が小さいから、ほのかを抱きしめるというよりは、ほのかに抱きついているような形だった。貴子の手は、ほのかのブラジャーのストラップと、彼女のなめらかな素肌の背中と、背の半ばまである艶やかな長い髪に触れていた。
 「た、貴子?」
 「脇坂さん、全然、わかってないよね……」
 繊細な少女の声で、貴子は呟く。
 傍にいるだけで緊張して、話しかけられるだけでドギマギして、触れられるたびに鼓動を跳ねさせて。
 貴子がどんな気持ちでいるか、ほのかは全然わかっていない。
 「おれはずっと、男だったんだよ」
 おれ、という一人称を、この時の貴子はまったく考慮せずに使った。
 可愛い声と容姿に不釣合いなその言葉に、ほのかの身体が強張った。
 「だ、だからなに。貴子は女の子だよ。ほら、こんなに柔らかい」
 ほのかの手のひらが、触れっぱなしだった貴子の胸のふくらみを二度三度と包む。貴子は身体を震わせたが、逃げない。逆にほのかを強く抱きしめた。
 二人の身体が強く密着し、むしろ貴子の胸がほのかの手に押し付けられているような体勢になった。ほのかの手の甲は、ほのか自身のふくらみも押し返す。
 同時に、貴子の片方の太ももがほのかの足を割って入って、貴子の冬服のズボンとほのかのハーフパンツ越しに、二人の下半身も密着する。貴子の顔は、ほのかの顔の横に来ていた。貴子は少し顔を上向きにして、ほのかの耳に唇を近付けて、小さいが鋭い声で言う。
 「そんなに、襲って欲しいの?」
 ほのかの身体が、ビクンと揺れた。
 貴子本人は無自覚だったが、繊細で甘い響きを持つ、恐ろしく艶めいた濡れた声だった。
 「いいよ、脇坂さんなら、いつでも。おれだって、さわりたい、抱きしめたい。キスだって、その先だってもっとしたい。もうずっと好きなんだ。一生離さないのはおれの方だよ」
 この時の貴子は、自分が何を口走っているかよくわかっていなかった。
 無意識に太ももを下半身ごと押し付けながら、貴子は衝動のまま恋人を強く抱きしめて、その背と髪を撫でた。恋人の吸い付くような肌と甘い体臭が貴子の理性をさらに狂わせ、貴子は彼女の首筋に、横から唇を触れさせる。
 「っ!」
 その瞬間、貴子は胸に衝撃を感じた。
 男だった時に感じたどの痛みとも違う痛み。
 乳房の芯が鈍く痛い。
 ほのかが手で強く押しやったのだと、貴子が気付くまで、数瞬、時間がかかった。
 「あ! ごめん! 大丈夫!?」
 思わず片手で胸の中央を押さえてうつむいた貴子に、自分でやっておきながら、ほのかがさっきの貴子のように慌てる。
 貴子は、自分の腕に手を置こうとしたほのかの手を、反射的に払った。
 「え」
 「ごめん、きつい……」
 胸を押さえて、背を少し曲げてうつむいたまま、貴子は言う。
 また貴子の思考はぐちゃぐちゃになっていた。
 貴子が男のままならありえなかったはずのこの状況と、自分がしでかしてしまった言動と、それに対してほのかが見せた反応と。
 「脇坂さん、なれなれしすぎだよ……。まだお互いのこと全然よく知らないのに」
 「なっ」
 貴子はいつもいっぱいいっぱいなのに、ほのかは距離感がなさすぎる。ただの女の友達同士なら冗談ですむことも、今の貴子には冗談ではすまない。ほのかが取った行動は、相手が男であれば、それは男を挑発するようなもの。
 なのにそれでいながら、ほのかは貴子を拒絶した。
 「脇坂さんは、おれのこと、全然わかってない」
 持ち上がっていたTシャツの裾を下に引っ張って、貴子はゆっくりと顔を上げた。
 貴子のこの時の瞳も、今までほのかに見せたどの瞳とも違っていた。普段の大人しげな顔立ちの印象をかき消すような、可憐な意志の強さと、激しい熱さと、それでいて泣きそうな衝動と、様々な想いがこもった瞳。
 ほのかは驚くより先に慌てていた。
 「い、今のは貴子だってやりすぎだよ! ここどこだと思ってるの!?」
 「そういう問題じゃないよ」
 艶やかな唇を動かして、繊細な少女の声で、貴子はどこかささやくように言う。
 「脇坂さんは全然、おれの気持ちを、考えてないよね」
 「な、なんでそうなるの! いつも貴子のことばっかり考えてるのに! だいたい、ぼくがさわると嬉しそうにしてるくせに。ぼくが男だったからそんなこと言うの?」
 「そんなの今は関係ないよ。さわられるのも嫌じゃない。でも、きつい。きつすぎる。脇坂さんと一緒にいるのがこんなにきついなんて、今まで知らなかった」
 「っ……!」
 下手に非難されるよりも、これは痛い発言。貴子が自分の本音を口に出していると、今のほのかにはそうとしか受け取れない。
 「き、きつくて悪かったね!」
 普段のほのかであれば、「さわられるのも嫌じゃない」という言葉の方に反応したかもしれないが、この時はほのかにも余裕がなかった。表面上は平気そうに振る舞っていたが、ずっと隠していたことを自分から暴露したことが尾を引いていたのだろうか。売り言葉に買い言葉、ほのかも感情的に言い返していた。
 「どうせぼくはこんなだよ! でもじゃあどうしろっていうの? そんな思いしてまで一緒にいなくていいとでも言えばいいの!?」
 「なっ。ほら、やっぱり全然わかってない! それでも一緒にいたいからきついのに!」
 『元男なんて関係ないし、どうでもいい。今は女』
 そう言うのは簡単だし、そう思うのも簡単なのかもしれない。
 だが、それだけではなにも解決しない。男ならどう思うのかではない。女ならどう思うのかでもない。もちろん、元男ならどう思うのかでもない。
 『貴子は貴子』
 そう言ってくれるのなら、貴子ならどう思うのかを、今の貴子の気持ちを、もっと考えて欲しかった。
 「か、勝手なことばっかり……! 貴子だって、ぼくのこと全然わかってないくせに!」
 ほのかが叫び、貴子も甲高い声で反射的に叫び返した。
 「わからないから、もっとゆっくりいきたいんじゃないか!」
 「わからないから、本音でぶつかってるんだよ!」
 貴子が色々なことをどう感じて、どう思うのか。考えるだけでそれがわかるのなら、ほのかも苦労はしない。
 それがわからないから、体当たりでぶつかる。
 それが、ほのかの選んでいること。それで衝突することがあるとしても、お互いのことは、お互いに本音で接していくうちに、少しずつ知っていくしかない。
 良くも悪くも、ほのかは貴子とは違う。
 「貴子はぼくに我慢しろって言うの? やりたいことをやるなって!? 貴子に気を遣って遠慮ばっかりしてろって!?」
 「な、そうは言ってない! おれだって抑えがきかなくなるって言ってるんだよ!」
 「おれって言うな! 全然似合わない! 抑えなきゃいいじゃないか! だれも抑えろなんて言わないよ! 貴子も本音でぶつかってきてよ!」
 「い、いま拒絶したくせに……! 押し付けようとしてるくせに!」
 「こんなとこで人前であんなことされたら、だれだって拒絶するよ、ばか! ぼくにだって嫌なことはある! 嫌なことは嫌って言うのがいけないわけ!? 貴子がやることは全部無条件に受け入れろとでも言うつもりなの!?」
 「わ、脇坂さんが全部受け入れさせようとしてるじゃないか!」
 「ばか! ほんとにばかだね! 貴子も嫌なことは嫌って言えばいい! むしろどんどん言ってよ! 好きなことも嫌いなことも、嫌なことも嬉しいことも、なんでも話してよ! でないと、いきなりこんなぁ――」
 何の前触れもなく一方的に感情を爆発させられたら、ほのかだってきつい。
 「――っくしゅん!」
 言葉の途中で、ほのかは大きなくしゃみをした。
 「――――」
 『そんなこと簡単にできたらだれも苦労しないよ! おれは脇坂さんとは違う! 好きだから、好きだから脇坂さんの気持ちが、ただでさえ怖いのに!』という、かなり恥ずかしい貴子の絶叫は、寸前で止まった。
 「でないと、ぼくだって辛くなる!」
 ぐすっと鼻を鳴らして、ほのかは貴子を睨む。その瞳が、潤んでいたように見えたのは、貴子の気のせいなのだろうか。
 感情が溢れすぎて、胸の奥が苦しくなって、貴子は胸の中央を片手で押さえて、数秒目を閉ざした。
 「おれは、脇坂さんとは違う……」
 今にも泣きだしてしまいそうな、幼い子供のような声で、貴子は呟く。ほのかは即座に怒鳴った。
 「おれって言うなってば! 当たり前だよ、そんなの! ぼくと貴子は別の人間なんだから!」
 「……うん……、……ごめん……」
 貴子はささやくようにそう言うと、もう一度、衝動的に動いた。
 息を呑んで傍で見ていたものたちにとって、状況の変化は急激だった。ほのかにとっても、貴子のその行動はまったく考えてもいないものだった。
 貴子はそっと、ほのかを抱きしめていた。抱きついていた。
 貴子はもうこの場を逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。いたたまれなかった。
 臆病で、好きな相手のことも自分自身のことも信じきれないのに、今の自分に納得もできていないのに、欲望だけは一人前で。自分がよくわからないし、ほのかのこともよくわからないし、自分の言動もほのかの言動も感情的で、頭ももうぐちゃぐちゃで。
 だが、逃げ出してしまいたいが、逃げ出したくもなかった。
 思考が矛盾していた。
 今逃げ出せばだめになる。そう思ったわけではない。
 逃げ出しても悶々とするだけで何かが解決するわけではないと、そう考えたわけでもない。
 逃げ出してしまいたいが、逃げ出したくなかった。
 だからほのかをつかまえた。
 自分が逃げないように、逃げられないように。
 ……本人は情けなさを感じるだろうが、すがった、と言い換えてもいいかもしれない。
 もし、ほのかがそれを拒絶していたら、二人の関係に致命的な傷が入っていたかもしれない。が、抱きついてきた貴子を、ほのかは驚きつつも、そのままそっと抱き返した。
 貴子の肩から、力が抜ける。
 貴子はほのかの素肌の肩に顔を預け、ほのかは貴子の髪に頬を触れさせる。
 「……ぼくも……、ごめん」
 「…………」
 ほのかの呟きに、ほんの小さな頷きだけで、貴子はほのかに応える。
 ほのかは強く、ぎゅっと貴子を抱きしめた。
 貴子もそっと、ほのかに抱きつく腕に力を込める。
 ――泣いている子供を宥める時は、抱きしめて優しく包み込んであげること。
 それは子供を泣き止ませる手段の一つで、必ずしも的確に作用するとは限らないが、上手く状況に作用すれば、とても大きな効果が期待できる。
 この時、相手をあたたかく包み込んでいたのは、貴子とほのか、どちらだったのだろうか。より大人で、より子供だったのは、どちらだったのだろうか。
 こうして触れ合っていれば、大丈夫だと。信じられると、そう感じられる、あたたかさ。
 お互いのぬくもりが、とても優しく、お互いに浸透していった。



 その後――。
 貴子がほのかに抱きついて首にキスをした時には悲鳴が上がりかけていたし、貴子とほのかが言い合いを始めた時は静まり返っていた女子更衣室。原因の二人が落ち着いたことで、まだ浮ついているが、更衣室は普段のざわめきを取り戻していた。
 「これって〜、雨降って地固まるって、言っていいのかな〜?」
 「んー、本人たち次第?」
 「ある意味、なんにも解決してないんじゃ?」
 手早く着替えを済ませた宮村静香と松任谷千秋、藍川志穂たちも、ひそひそとそう言葉を交し合う。
 「だいたいさ、なんであそこで抱きついて落ち着いちゃうわけ?」
 「すっかり二人の世界だよね〜……。見てる方が照れちゃうよぉ」
 「ん、静たちにはまだ、恋愛の機微はわからない、かな?」
 「うわ、なんかもっともらしいこと言ってるし」
 「千秋ちゃん、自分だけ恋人いるからって〜」
 好き勝手なことを言うみなの視線の先で、騒ぎの元凶である二人は、ちょっと頬を赤らめて、お互いの顔を見ないようにしながら――それでいてお互いをちらちらと見やりながら――着替えをしていた。貴子はブラウスのボタンをはめる前に、ブラウスの合わせ目から、持参のタオルでこそこそと汗を拭いたりしている。
 「あ、貴子、ちゃんとタオル持って来てたんだ」
 「う、うん……」
 一時間前までのような極端な明るさのない、穏便な口調でほのかは尋ね、貴子は逆に一時間前までとあまりかわっていないような、おずおずとした態度でそれに答える。
 結局、貴子は素直にTシャツを脱いでいた。が、さっとブラウスを羽織ったから、貴子の半裸がさらされたのはほんの短い間だけだった。ちらりちらりと貴子を見ていたほのかは、貴子の半裸の下着姿をしっかりと目に焼き付けたようだし、貴子も貴子でほのかに見られたことを意識しまくったり、ほのかがスパッツを穿いていることに初めて気付いたりしていたが、二人ともコメントは差し控えていた。制服のブラウスを着た後も、光の具合によってはうっすらと透けて見える貴子の下着の線のことも、ほのかは話題にしたりしない。
 「汗はちゃんと拭かなきゃダメだよ?」
 「うん……。脇坂さんも、さっき、汗ばんでたよ……」
 午前中のほのかなら、「貴子を抱きしめてると熱いくらいだったからね」とでも少し冗談めかしたかもしれないが、今は「うん、お互いちゃんとしないとね」とだけ、微笑んで貴子に応じる。その言葉に貴子はまたうつむいて、小さく頷く。
 よくよく観察すれば、貴子の緊張の種類が体育の前とは少し違うことと、ある種の羞恥が襲っていることに気付けるかもしれないが、そこまで見抜けるのは、今この場にいない貴子の母親くらいだろう。貴子は自分のしでかした言動を思い返して、ほのかの顔をまともに見れていなかった。
 「でも痴話ゲンカかぁ。いいなぁ、わたしも彼女欲しいなぁ」
 そんな元凶の二人を見ながら、さりげなく静香まで爆弾発言をした。
 「……やっぱり、静って、そうだったんだ」
 「……薄々思ってたけどね」
 千秋と志穂は一瞬黙った後、しみじみと頷きあう。
 「思い切って、志穂とでも付き合ってみたら?」
 「えー、わたし、志穂ちゃんみたいな子より、脇坂さんや穂積さんみたいな、可愛い子がいいなぁ」
 「どうせあたしは可愛くないよ。静はあの二人が元男なの、気にならないの?」
 「可愛くてぇ、他の子と違ってこの先男になるなんて不安がなくてぇ、包容力も期待できてぇ、子供も産めてぇ、一粒で四度お得って感じかなぁ?」
 「はは、あんたそれ色々間違ってるよ、絶対」
 「そうよね、脇坂さんって、見た目はどっちかって言うと美人系だしね」
 「え、そう?」
 「あれ、志穂はそう思わない?」
 「あたしは、脇坂も可愛い系だと思うけど」
 「穂積さんといる時の脇坂さん、すっごく可愛いもんね〜」
 「それはまた違うでしょう、意味が」
 三人あれこれ言い合いつつも、今学校中の話題を独占しているカップルから視線を外さない。
 貴子もそうだがほのかも、二人ともお互いの前では、今まで人前で見せていなかったような顔をたくさん見せている。のちに「見た目だけは完全な美少女同性愛」「ガールズラブ萌えっ」などと不躾で嫌らしい視線を浴びたり、悪意のある人間からは「精神的にはホモカップル」「なまじ可愛い分、余計に気持ち悪い」などと陰口を叩かれたりするのだが、好意的な視線で見れば、静香でなくともお似合いだと言いたくなる二人の初々しい態度だった。
 もっとも、「なんか見てらんないくらい、駄々甘バカップルになりそうだけどね」などと、志穂などは付け加えるだろうが。
 本人たちは、他人の視線や思惑をほとんど意に介さずに、貴子は、自分が男でほのかを女とみなしたような恋人関係を想定していたし、ほのかもほのかで似たようなことを考えていたのだが、そのあたりはお互いに知らぬが花ということかもしれない。もしくは、貴子が素顔の一面を垣間見せたように、これから少しずつ知っていくことになるのだろう。
 なんにせよ、この一件は、お互いの身体を自然に受け止める同性の友達のような関係ではなく、お互いの身体も強く意識しあう関係に、良くも悪くも、貴子は自分で自分たちを追い込んだとも言えた。もともと貴子の方が意識しすぎていたせいもあるのだろうが、貴子が隠そうとすることでほのかの方まで強く意識させられてしまうということを、貴子は全然考えていなかった。
 この一件で二人の距離は縮まり、ほのかもいっそう貴子を意識するようになったのだから、悪くはないと言えるのかもしれないが、ほのかが意識しているのは「女の貴子」なのだから、貴子にとっては微妙な結果とも言える。もっとも、貴子も貴子で、「ありのままのほのか」というよりは、「女のほのか」を意識しているのだから、お互い様と言えるのだろうか。
 いずれにせよ、まだ付き合い始めて丸一日もたっていないのにこれなのだから、先が思いやられる二人かもしれない。
 付き合い始めたばかりのせいなのか、二人がまだお互いのことをよく知らないせいか、元男だからなのか。二人の容姿が目立つせいなのか、ほのかが有名人だからなのか、そのほのかが突然元男発言をしたせいか。同性愛のためか、それとも単純に二人の性格や相性の問題なのか。
 どんな理由であれ、初日からコトが多い二人だった。





 to be continued. 

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初稿 2008/03/10
更新 2014/04/15