Boy's Emotion
Taika Yamani.
第五話 「二人の距離感」
一 「彼女のホント」
想像していたほどきれいではないが、他の場所と比べて特別汚いわけでもない。
それが、初めて訪れた学校の女子更衣室という空間に対して、穂積貴子が抱いた感想。思えば女子トイレもそうだった。普通にちゃんと清掃がなされていれば、どこも安定した清潔さに落ち着くということなのだろう。
だがそれでも、先入観のせいもあって、その空間は貴子から見れば新鮮であり独特だった。貴子が恋人の脇坂ほのかに手を取られて中に入った時、すでに着替え中の女子がいたからなおのことだ。
男子が入ることの許されていない、男子禁制の、女子が着替えをするための空間。
四限にも体育だったクラスがあるのか、男子更衣室とは絶対的に違う、汗やコロンのような甘酸っぱい匂いも全体に漂っている。女子生徒たちにとっては身近にある自分たちの当たり前の匂いでも、貴子にはなじみが薄い、女子の更衣室の空気。
「貴子、なに顔赤くしてるの?」
恋人といる時の貴子の頬は、いつも緊張のせいでほんのりと赤くなりがちなだけなのだが、ことさらに指摘されて、貴子は慌てた。
貴子はこの部屋の雰囲気以上に、これから恋人と一緒に着替えるということでドキドキしていたのだが、ほのかはそうは受け取っていなかった。先に中に入って振り向いた彼女は、少し視線を鋭くしていた。
「ご、ごめん……」
移動中は着替えのことにはあまり触れずに、生徒会や体育の内容のことなどを話題にしていたほのかだが、貴子のその態度も気に入らないらしい。思わず謝る貴子に、「貴子が謝らなきゃいけないようなことを考えた」と解釈したのか、ほのかはちょっと乱暴に貴子の手を引っ張った。
「ほら、貴子、こっち!」
「ぁっ、うん……」
体操服袋を片手に、ほのかに連れられて、貴子は大人しく歩く。
数歩遅れて松任谷千秋たちも中に入ったが、千秋たちにみな気付かないくらい、前の二人の入室に更衣室はざわついていた。
実は同性愛だったらしいほのか。
一学期までは男子だったのに、二学期になって見た目は可愛い女子になった貴子。
その貴子と突然付き合い始めたほのか。
女になったばかりなのに、同性のほのかと付き合い始めた貴子。
二人の仲がよさそうなのは一目瞭然だが、ほのかが同性愛だとか、貴子が元男だとかは、見ただけでは全くわからない。貴子は緊張感丸出しの顔だが、大人しそうな女の子にしか見えず。ほのかもほのかで、ちょっとテンションは高いようだが、高校生の女子としてありふれた振る舞いの範疇でしかない。
簡単に女子更衣室に入ってきた貴子に対して嫌悪や戸惑いや羞恥を抱いたものもいたようだし、ほのかに対しても同性愛と思えば着替えを見られることに抵抗を感じたものもいたようだが、とっさにどういう目で二人を見ていいのかわからないという視線も多かった。
逆に、性転換病によって男から女になった貴子の肌や裸や態度に興味を持っているものも、中にはいた。貴子がその視線に気付いていれば、相手が女子であっても嫌悪感や不快感をかきたてられただろうから、ある面、気付く余裕がなくて幸いだったのかもしれない。
「貴子ってさ、やっぱり女が好きなんだよね」
ロッカーまで貴子を先導して足を止めると、ほのかはいきなりそんなことを言う。ロッカーはクラス別に出席番号順で使うため、ほのかと貴子のロッカーは隣り合っている。ただでさえ緊張でいっぱいいっぱいな貴子は、華奢な声で反射的に馬鹿正直な本音を言い放っていた。
「違うよ、お、わたし、が好きなのは脇坂さんだよ」
「…………」
性愛の対象はどうなのか、ということを婉曲に確認したつもりのほのかには、貴子のその言葉は予想外だったらしい。ほのかの顔が、急に微かに赤らんだ。
「貴子って、そういう目でぼくを見てるの?」
「え、……え?」
ほのかの言葉の意味がよくわからずに、貴子は思わず問い返す。ほのかは頬を赤らめたまま、ちょっと笑って、貴子の耳元に唇を寄せた。
「貴子って、もしかしてけっこうえっちな女の子なんだ?」
その声の近さと耳にかかる吐息とに、貴子の身体が震える。と同時に、自分の下心を見透かされているように感じて、貴子は慌てた。
「えっちな男の子」と言われるならまだしも、「えっちな女の子」と言われてしまうのはやはり忸怩たるものがあるが、どっちにしろ、それを指摘されるのはかなり情けなく恥ずかしいものがあった。友人の槙原護なら「おう、おれはすけべだぜい!」などと笑って胸を張るのかもしれないが、貴子はそんな性格ではない。
とっさに何も言い返せなくなった貴子に、ほのかはちょっと真剣味を織り交ぜてささやく。
「でも、ぼく以外、見ちゃダメだよ?」
「わ、脇坂さん以外、興味ないよ」
もっと余裕ができればともかく、今はほのかのことを考えるだけで胸も頭もいっぱいだ。これからそのほのかの着替えを間近で直接見ることができる思えば、興奮で身体が熱を帯びる。
貴子のストレートな言葉に、ほのかもまたちょっと照れたように、だがにっこりと微笑んだ。
「うん、ぼくも、貴子しか興味ない。貴子の着替えも、いっぱい見ちゃうからね?」
「…………」
実は、貴子はほのかの下着姿を見る気満々でしっかりと期待しているが、自身の半裸を彼女にさらすつもりはなかったりする。元の男の身体ならともかく、あまりにも変わりすぎた今の身体を、ほのかには見られたくない。他人に見られるのも嫌だが、それとは違う意味で、好きな女の子には特に見られたくない。
だから口篭もってしまったのだが、ほのかはそれを羞恥だと解釈したらしい。
「あは。さ、着替えよっか?」
「う、うん……」
笑って身体を離したほのかに、貴子はなぜか胸に痛みを感じつつ、ほのかにならってロッカーを開けた。
「千秋ちゃん、なんだかここだけ熱いね〜」
「静、それは言わないお約束よ」
「えー、こういう時は、ちゃんと言うのがお約束だよぉ」
ほのかの隣では、女子の十四番と十三番である宮村静香と松任谷千秋とが、着替えに取りかかりながら笑ってそんなことを言っている。ほのかは振り向くと、二人に明るい笑顔を向けた。
「羨ましい?」
「わたしはそんなでもないけどね」
「わたしはとっても羨ましいです!」
千秋と静香の答えが対照的だ。
「あは、貴子、ぼくらが羨ましいって」
「う、うん……」
笑顔のほのかに他にどうも答えようが思いつかず、貴子は体操服袋を広げながら、曖昧に小さく頷く。
もうじき昼休みの終了を示すチャイムも鳴るから、すぐにほのかと静香の間の、遊佐和泉という名前の十五番の生徒もやってくる。昼休みに貴子に話しかけてきた女子の一人で、他の生徒たちもどんどん入室してきていた。
「あの、脇坂さん、ごめん、ロッカー、ちょっといい……?」
十五番のその女子生徒は、貴子には物言いたげな視線を向け、ほのかには申し訳そうな顔をするのだから、その扱いの差は露骨である。もっとも、貴子は全然少しも全く気に止めていなかったが。
「あ、ごめんね」
ほのかは貴子の方に半歩動いて、場所を空ける。貴子もそれにおされるように半歩動いた。
「あれ、貴子、ジャージ?」
体操服袋の中から夏冬の体操服とタオルを取り出していた貴子を、ほのかが見咎めて言う。
「う、うん。中には夏服も着るけど……」
「えー、まだ暑いのに」
「ん……」
返事に困って、貴子はほのかの視線から体操服を逃がす。夏の体操服は、トップの露出量は制服とそう変わらないが、それはそれで独特だし、ボトムのハーフパンツも大腿部の半分くらいを露出する。女子のハーフパンツは男子のものより多少裾が細いデザインで、貴子の知らないところで色々と配慮がなされていたりするのだが、貴子はそんなこと知らないし、知っていたとしてもできれば人前には晒したくない姿だ。
この心理は、貴子が自分の女の身体をしっかりと意識しているということを意味しているが、貴子に言わせれば意識するなという方が無理だった。男が女の身体を見て何を感じてどう思うか、生まれつきの女性が本当の意味で理解することはありえないのだろうが、貴子は「生まれつきの女性」にはあてはまらない。どうでもいい相手であればそう気にならないのだが、ただでさえ今貴子の目の前にいるのは、貴子が恋をしている女の子だ。見る側だとしても見られる側だとしても、どちらの側でも貴子は軽く流せない。
ほのかはさらに何か言いかけたが、ここでまた外野から声がふってきた。
「脇坂さんが女子と付き合い始めたって、本当だったんだ」
貴子がよく知らない、体育が合同になる一組の女子の数名。ほのかは彼女たちとどの程度親しいのか、また振り向いて、にこりと笑った。
「うん、お似合いの二人でしょ?」
「な、ぜんぜん! 脇坂さんに女子は似合わないわ。それも、よりにもよって元男だなんて!」
先陣を切っていたのは結構美人な子で――貴子主観では全然ほのかほどではないが――、彼女はそう言いながら、貴子を嫌悪するような眼差しで睨んでいた。
が、貴子の眼中には入っていない。何事か話し始めるほのかたちをよそに、貴子は『脇坂さんが話しているうちにさっさと着替えて見る側にまわろう……』と、ドキドキしながら下心いっぱいのことを考えて、ブラウスのボタンに手をかけた。
ボタンの位置が男物と左右逆でまだちょっと慣れないが、四つしかボタンがついていないオーバーブラウスだから、手早くやればあっという間だ。少し大きめのボタンを上から順に外すにつれて、無地の白いTシャツに包まれた胸のふくらみがあらわになり、普段はブラウスの短い裾で隠れているスカートのウエスト部も顔を出した。
「脇坂さんって、本当にレズだったの?」
「レズっていうか、貴子が好きなんだ。貴子もそうだよね、ね、貴子?」
「え、う、うん」
他人の声は気にならないのに、なぜかほのかの言葉だけはしっかりと頭に届くから不思議である。ほのかの存在を意識しつつブラウスの袖から片腕を抜き取っていた貴子は、いきなり話をふられて、素直に返事をする。
「あ、貴子、いつも全然ブラの線見えないと思ったら、やっぱり中に一枚着てたんだ」
「ぅ、うん……」
ほのかのその発言は、これまでの彼女がどんな目で貴子を見ていたのかという事実が、一部表れていた。貴子の心に一瞬影が差し、もう一方の袖から腕を抜く貴子の動きは、とたんにぎこちなくなった。
ほのかの発言で、まわりの視線も貴子に突き刺さる。
「あ、何、この子、この間まで男だったくせに、しっかりブラジャーしてるのね」
「うげ、ほんとに?」
どう贔屓目に言っても、嫌悪感のこもった声。
ほのかはそんな声をどこまで意識しているのか、白いTシャツ越しにうっすらと透けて見える貴子の下着のラインを、「ハーフトップ?」と言いながらつんつんとつついた。
「ぁっ……」
ぞくぞくっとしたくすぐったさに襲われて、貴子は思わず身をよじって一歩逃げた。
「あは、うん、可愛いから全然オーケーだよね!」
何が全然オーケーなのか、貴子はつっこみたかったが、鼓動が跳ねまくって言葉がでない。ほのかの言動に良くも悪くもドキドキしながら、逃げるようにロッカーに向き直って、脱いだブラウスを手放す。
薄手のTシャツ越しに表れる貴子の背中のラインのなまめかしさや、貴子が出した妙に艶っぽい声、好きな女の子が至近距離で着替えている姿に、ほのかもドキドキしていたのだが、貴子はそれを察する余裕はなかった。そのことに貴子が気付いていたら、ただでさえ乱れがちな感情はもっとかき乱されていたかもしれない。
「脇坂さん、こんな子に一目惚れだなんて本気なの? こいつ、この間まで男だったんでしょ?」
「貴子は貴子だからね。もちろん、本気だよ」
「でも! 男だった時から好きだったかなんだか知らないけど、女になっても平気な顔してるなんて、最初っから変態なんじゃない?」
この言葉にも、貴子への露骨な偏見と侮蔑が含まれていた。こんなステレオタイプな悪意はありがちだが、本人にではなくほのかに言っているあたり、よりたちが悪い。
まだ着替えに取り掛かっていないほのかの瞳が一瞬凜と鋭くなるが、ほのかが口を開くより早く、ブラウスを脱いで上半身下着姿になりかけていた千秋が横から口を挟んだ。
「何もそこまで言うことないでしょう。穂積さん本人だってどうしようもないんだし、しかたないじゃない」
「うんうん、穂積さんはどこからどう見ても女子だしね〜」
すでに下着姿で白い夏の体操服を着ようとしていた静香も、千秋に続く。間にいる十五番の遊佐和泉は、どちらかというと一組の子たちに同意なのか、口は開かないものの、貴子には納得のいかないような視線を向けていた。
「な、女なのなんて見た目だけじゃない。この間まで男だったくせに、女子更衣室に来るなんてなに考えてるのよ」
「そうよ、元男なのにこんなにネコかぶって、気持ち悪い」
「松任谷さんたちも、着替え見られて平気なの?」
千秋は、この問いには結構本気で笑って、貴子をちらりと見やった。
「本人が全然、平気そうに見えないしなぁ」
貴子は相変わらず微かに頬を桃色に染めていて、一人黙々と新品の夏の体操服を取り上げているところだった。本人は鬱っぽさやら強い緊張やら興奮やらを抑えるので精一杯だったのだが、客観的には「大人しそうな女の子がちょっと恥ずかしそうに着替えている姿」にしか見えない。彼氏の友達ということで多少は「穂積くん」を知っていた千秋も、その「穂積くん」と今の「穂積さん」とが同一人物だとはなかなか思えないせいもあって、貴子が以前どうだったかはほとんど気にならなくなっているらしい。
「あは、可愛い子はどんな顔しても可愛いから得だよね〜」
「な! どんな目でわたしたちのこと見てるか、わかったもんじゃないのに!」
千秋の真似をして貴子を見て笑う静香に、外野はますますムキになったように言うが、ほのかも笑ってやんわりと口を挟んだ。
「それなら大丈夫だよ。貴子の目にはぼくしか入ってないから。ね、貴子?」
「え、う、うん」
夏の体操服を着かけていた貴子は、ろくに話を聞いていなかったが、またとっさにほのかの言葉にだけは反応を示す。それに対するほのかの言葉と、外野の言葉が重なった。
「む、貴子、シャツ脱がないで体操服着るの?」
「でもこいつ、この間まで男だったんでしょ?」
「平気な顔してる脇坂さんも信じられないわ!」
「まだ言うし。更衣室は、まあ気に入らなくとも我慢してもらうしかないけど、恋愛は他人がどうこう言うことじゃないでしょ」
「そうそう、わたしたちで二人を応援してあげなきゃ!」
千秋と静香が援護射撃をしてくれていたが、貴子はちょっと恩知らずなことに、その言葉を聞いていない。ほのかの問いにこくんと頷き、ほのかを露骨にがっかりさせていた。
「でもジャージも着るんでしょ? 暑いよ?」
「その時は、ジャージは脱げばいいし……」
「そうだけどさー」
ほのかもほのかで、外野をあっさりと無視してのける。さらに何か言いあって勝手にヒートアップしていく外野をよそに、ほのかは「暑いからやっぱりシャツ脱ごうよ」と、貴子のTシャツを引っ張った。
「なっ、わっ、きさか、さん……!」
薄手のTシャツに下着だけという格好のところにほのかに密着されて、貴子は身をよじったが、壁際に追い込まれて、このまま押し切られてしまいそうになった。相手がほのかでなければ女子でも殴り飛ばして離れるところだが、ほのかが相手だと、密着されるのが嫌ではないから逃げきれない。
幸い、ここで天の助けがふってきた。昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り響いたのだ。
「わ、脇坂さんも……! 早く着替えないと、時間……!」
「もう後五分か」
貴子が華奢な声でがんばって言うと、ほのかは残念そうだったが、ここはすぐに引いてくれた。「そうだね、機会はこれからいつでもあるもんね」と貴子に笑いかけて赤面させて、まだ何か言い合っているまわりのみなにも声をかける。
「ほら、みんなもさっさと着替えたら? ぼくらに構ってると時間なくなるよ?」
「脇坂さん! 女子が好きでも、よりにもよってなんでそんな子を選ぶの!?」
「そうよ、元男が恋愛だなんて気持ち悪いだけなのに! しかもレズだなんて!」
強い口調で言われて、実にあっさりと、ほのかはなんでもないことのように口を開いた。
「んー、じゃ、ぼくのことも気持ち悪いってことになるね。中一の夏まで、ぼくも男だったんだから」
「…………」
ほのかのその発言に、まわりは数秒静まり返る。
が、ほのかが離れるなり速攻で夏の体操服をかぶった貴子は、動きを止めずに、そのまま体操服を着込んでいた。
ほのかが貴子の為に「元男と恋愛するほのか自身」を卑下してみせたと感じて、胸にちくんと痛みを感じたが、ほのかが後半なんと言ったのかは、ちょうど服をかぶったところでよく聞き取れなかったから、貴子の態度に大きな変化はなかった。男女でラインの色が少し違うだけのはずの体操服なのに、着こなしが以前とは全然違って見える今の自分に、一人でちょっと暗い思いを抱いたりしていた。
首まわりと袖口が淡い緑色で縁取られている白い半袖の上着は、少しゆとりのあるサイズを選んだはずだが、胸の部分はしっかりと中から押し上げられている。逆にウエスト部分は余裕を持ちすぎて、まだスカートに包まれたままのボトムとの落差が腰の曲線を想像させて、かえってそれを強調していた。制服は男女差が露骨だが、男女ほぼ同じデザインの体操服は体操服で、制服とは違う形で女子特有の身体つきを露骨に表現しているように、貴子は感じる。女の身体としてはごく自然なことだとしても、男だった時はそこまで深く考えていなかったから自意識過剰なだけだとも思うが、それが今の自分だと思うと鬱屈した感情を覚えてしまう。
「えーっと、脇坂さん。今なにかさらっと、とんでもないこと言わなかった?」
そんな貴子をよそに、松任谷千秋が真っ先に反応して、みなの気持ちを代弁する。と同時に、ほのかの言葉をそのまま解釈した宮村静香が大きく声を張り上げた。
「えー!? 脇坂さんも前は男子だったの〜!?」
女子更衣室全体に響き渡る、大きな声。
ほのかの傍にいた面々にも、遠くにいた面々にも、声は届いた。
当然、ほのかの後ろの貴子にも。
ほのかにつめよっていた一組の子が、口をパクパクさせながら「そ、それ、ほんとなの……!?」と、驚愕に満ちた声を出す。
「うん、嘘だけどね」
……と、ほのかが答えていたら、また場は混沌としたかもしれないが、さすがにほのかもそんな冗談を言ったりはしなかった。みなの視線が集まる中、ほのかは笑って平然と言い返した。
「こんな嘘をつく気はないよ」
言いながら、ほのかはくるりと振り返る。長い黒髪がふわりと揺れる。
トップは半袖の体操服を着込んでいるが、まだボトムはスカート姿の貴子が、ほのかの傍には立っている。貴子は微かに頬を桃色に染めたいつもの可愛い顔色だったが、ほのかを見上げて、何度か瞬きをしていた。
体操服を整えようとしていたのか両手で裾を握った姿勢で硬直していて、ちょっときょとんとしているようにも見える。ほのかに言わせれば、もう衝動的に抱きしめたくなるような、ずるいくらいに愛らしい表情だった。
「ほら、貴子も、手が止まってるよ?」
「え……、あ、う、うん」
貴子はそう返事をしたが、その声も状況がよくわかっていない声だった。
それをきっかけにしたように、ようやくまわりの緊張が崩壊した。
女子更衣室全体を揺らすような、いくつもの悲鳴じみた声が響き渡った。
「わ、脇坂さんが元男〜!?」
内容的には、静香が叫んだ言葉と何も変わっていない。要約するとその一言にすべてが収束される、驚きの声。
「嘘でしょう!?」「信じらんない!」「マジのマジで?」といったあまり意味のない言葉が飛び交い、あっちもこっちも大騒ぎで、もう収拾がつかなくなる。
「それってデマだったんじゃなかったの?」「中一の夏って、十三歳……?」「脇坂さんの中学の知り合いってだれかいるんだっけ?」「五組の福山さんくらいじゃない……?」
不思議と、ほのか本人に直接何かを尋ねてくる子はいない。突然の暴露に、どう声をかけていいのかわからないということもあれば、ほのか本人が、まるで何事もなかったかのように動いたせいもあるのだろうか。
ぎこちなくロッカーに向き直って冬服のズボンを取り出す貴子の横で、ほのかはみなの大騒ぎを平然と無視して、ブラウスのボタンを外していく。
ただでさえ混乱しかかっていた貴子の思考は、ほのかのその動きにぐちゃぐちゃになった。
ほのかがボタンを一つ外すたびに、彼女の下着と、白い素肌があらわになる。
下着の上にTシャツを着込んでいた貴子と違い、ほのかのブラウスの中はブラジャーだけだった。貴子と一緒に着替えるということを、ほのかは事前にどこまで意識していたのか、飾り気のない白いスポーツブラだったが、ナチュラルなフェミニンさは隠し切れず、彼女の魅力を引き立てこそすれ微塵も損ってはいない。
ほのかは肩をはだけて、片方ずつ、ブラウスの袖から腕を抜いていく。
そんなくしぐさも、貴子が意識しすぎなだけなのかどうか、ものすごく魅力的に見える。自分の身体で女の裸も見慣れつつあるが、好きな女の子の裸を見るのは意味が全然違う。ましてや目の前での脱衣。貴子の胸の奥に突き上げるような衝動が生まれて、身体全体が熱くなる。ブラウスを脱ぐほのかに、貴子の視線は完全に釘付けだった。
きめ細やかなミルク色の肌、細い鎖骨、なめらかそうな肩。白い下着に包まれた、年相当なサイズの柔らかそうな二つのふくらみ。小さなくぼみを見せるおへそに、細くくびれたウエスト。背中や脇から腰にかけての曲線も美しく、そのどれもが、ほのかの動きと一緒に躍動して、生身の存在感をリアルに貴子へと伝えてくる。
まだ成熟しきってはいないが、どんどん大人になっている、瑞々しい身体の十七歳の少女。
こんなほのかは、貴子からはどこをどう見ても、きれいで可愛い女の子以外のなにものにも見えない。さっきの静香の声は貴子の意識の片隅に残っていたが、貴子も信じられない思いだった。性転換病の経験が見た目では判断できないことはわかっているが、それでも、ただ言葉で「以前男だった」と言われても、全然ぴんとこない。間近でこんなにもきれいな半裸を見てしまうとなおさらだった。
「……貴子のすけべ」
ほのかはブラウスを脱ぎ終わると、不意に顔を上げた。貴子の視線にいつから気付いていたのか、にっこりとそうささやく。
よく見ると、ほのかの肌には、ノースリーブの服や陸上部のトレーニングシャツの形に、うっすらと日焼けの跡も見て取れる。焼けにくいのかいつも日焼け止めを塗っているのか、ごくわずかな差だが、焼けていない部分の素肌の白さとのコントラストがきれいで、それがまた健康的な――貴子の目には艶めかしくも見える――色気をかもし出していた。
「そんなにぼくの裸、見たいの?」
「……ぇ、あ! ぅ、わ!?」
自分がほのかの身体に露骨な視線を向けていたことに気付いて、そしてその視線に気付かれたことに気付いて、貴子は焦りまくって視線を逸らした。
実はほのかも色々な意味で緊張しまくっていたのだが、冷静さを欠いている貴子はそこまで気付けない。ごまかすように慌てて冬の体操服のズボンを広げる貴子に、ほのかはくすくすと、わざとおかしそうに笑う。
「貴子は見せてくれなかったくせに。ハーパン穿いてきてたの?」
「ぅ、う、うん……」
もう貴子は顔を上げられない。
彼女に見られながらスカートをはいたままズボンを穿く、というのも、なかなか情けないものがあったが、やめるわけにもいかない。貴子は頷くだけ頷いて、ぎこちなく身をかがめて、ズボンに足を通す。
「あ、スカートも脱がないんだ。ハーパンも見せてくれないんだね」
「っ……」
「いいけどさ、別に。機会はこれからいつでもあるもんね?」
二度目の繰り返しになるこの言葉は、貴子は気付かなかったが、ほのかの願望が言わせた台詞だった。ほのかの過去を知られても付き合いは終わったりしないと、そう気持ちを滲ませた、ほのかの発言。
貴子はそんなほのかの真意を察することなく、文字通りに解釈して、顔をうつむかせたままズボンを穿いた。スカートの裾が自然と左右押し上げられて、数瞬、貴子の真っ白な太ももと体操服のハーフパンツが顔を覗かせたりするが、貴子はそれを気にする余裕も持てなかった。それどころか、やや下向きだった視界の隅に、突然ほのかの手と脱ぎかけのスカートが入ってきて、ほのかがスカートを脱いでいることを察して、また鼓動を跳ねさせた。
スカートをつまんで微かに身をかがめて、スカートから足を抜き去っている恋人の姿を想像して、自然と貴子の顔が熱くなる。
――学校中の男子が見たがっている、と言えば言いすぎかもしれないが、少なくとも学校中の男子が見たくても見れないほのかの下着姿が、貴子のすぐ傍にある――。
もちろん貴子もとても見たい。が、ただの女の下着姿ならともかく、好きな女の子の下着姿をこれ以上見たら、自分が何をしでかすのか、貴子は自分にまったく自信がなかった。見るだけならともかく、理性が焼き切れればすぐに手が出せる距離なのが非常に危険だった。胸に込み上げる感情には激しい欲望も含まれていて、熱い身体も全然冷めてくれない。貴子はなんとか自制してほのかの方を見ずに、ズボンを穿き終えて自分もスカートを脱ごうとしたが、手が震えてファスナーをさげるのにも手間取ってしまった。
貴子の想像とは少し違い、ほのかはスパッツも穿いていたが、貴子がぎこちなく動いている間に彼女はそのスパッツも脱いで、簡単に上下とも下着姿になっていた。ほのかはロッカーに向き直って、夏の体操服に手をかける。
「脇坂さん、さっきの……、ほんとにほんと、なの?」
ようやく外野も口を挟んでくるが、ほのかは非常にあっさりとしていた。
「だから変な嘘をつく気はないって」
体操服をかぶって、ほのかは軽く襟元と裾を整える。
「ほら、みんな騒いでないで、急がないと本当に間に合わなくなるよ?」
「で、でもだって……、男だったって……」
「だってもでももなし! ぼくも着替えてるんだから、じゃましないの!」
長い髪を体操服の背中から出しながら、いつもと同じように、ほのかは明るく元気よくそう言い放つ。
そんな会話は、うっすらと貴子の頭の中にも入ってくる。
貴子はもう我慢ができなくなって、衝動に負けて顔を上げた。
そしてカッと、貴子の頭に血が上った。
貴子が顔を上げると、まだ上の体操服しか着ていないほのかが、目の前にいた。ほのかはちょうどハーフパンツを手にとって、身に着けようと動いているところだった。身をかがめてハーフパンツを身に着ける動きに合わせて、ほのかの身体は色々な表情を見せる。剥き出しの太ももと、体操服の裾から顔をのぞかせている、ブラジャーと同色のショーツが眩しい。
女子生徒たちにとって、更衣室では当たり前の日常的な格好なのかもしれないが、貴子にとっては、刺激の強い、好きな女の子の下着姿。
自分の頬が真っ赤になったのが、貴子は自分でもわかった。
もうどうしようもない思いばかり抱かされる。
頭がぐちゃぐちゃで、貴子は、もうなんでもいいからほのかを抱きしめたくなった。
思考がヒートしすぎて、暴走しかかっていた。
このまま抱きしめて、押し倒してしまいたかった。ほのかにされっぱなしではなく、貴子だって彼女にキスをしたりしたい。抱きしめて、この手に彼女を感じたい。
『脇坂さんをもう全部おれのものにしたい』
言葉にすると、そんな感情。
それはあまりにも強く激しすぎる感情だったために、貴子は寸前ではっと我に返ったが、冷静には程遠かった。
刺激が強いほのかの姿から、貴子はなんとか目を逸らし、またロッカーに向き直る。冬服の上着を取り上げたが、身体がなぜだかやたらと熱かったから、確保するだけにして、とりあえずブラウスとスカートを備え付けのハンガーにつるす。
それでも、頭の中からはどうしても、目撃したばかりのほのかの半裸が焼き付いて離れない。
数分前なら、貴子は自制できなかったかもしれない。
キスまでいかなくとも、抱きしめるまでいかなくとも、劣情に負けてとっさにほのかに手を伸ばすくらいのことはしでかしたかもしれない。そしてほのかに見咎められて硬直して、また赤面させられたかもしれない。
だが数分前には考えてもいなかったことも、頭の片隅に居座っていた。
『こんなにきれいなのに、でも中一の夏まで男だった』
かき乱されっぱなしの中途半端な貴子の理性が、頭のどこかで、微かにそう考える。が、「元男だ」と聞かされても、「だからどうした?」とも貴子は思う。ほのかが「貴子は貴子」と言ってくれたように、過去がどうであってもほのかはほのかだ。貴子が好きになったのは今のほのかで、過去を知ったからといってどうこう言うのは、貴子自身が、自分の気持ちを裏切るようなもの。
だいたい、すぐ傍のこのほのかの姿に、昔は男だったと言葉で言われても、やはり頭でどう考えても全然ぴんとこない。
「貴子、準備できた?」
そうほのかの声がふってきたのは、貴子がロッカーをそっと閉めてからだった。
「え、う、うん!」
夏の白い体操服と濃紺のハーフパンツを身に着けたほのかは、手に青い髪止めゴムを持って後ろに回し、長い髪をポニーテールにしようとしていた。年相当に発育した胸が少し突き出されている姿勢で、間近からよく見ると、白い下着が微かに透けているように見えなくもない。それともそれは、ほのかの下着姿が目に焼き付いている貴子が、勝手に想像してしまっているだけなのだろうか。
至近距離にいる彼女の存在に、貴子は頭がくらくらした。
「じゃ、行こうか」
髪をゴムで止め、ロッカーを閉めると、ほのかはにっこりと笑って、貴子の手を取った。
ほのかは更衣室に入る前とまったく同じように、きれいな瞳で笑いかけてくる。
どこからどう見ても、きれいで可愛い女の子であるほのか。
――なのに、その瞬間の貴子の行動は、本人も無意識だった。
手を取られて、とっさに貴子はほのかの手を払っていた。
その一瞬、貴子は男に触れられてしまうことを想像してしまった。
「ぇ……。え……! え! な、なんで! ごめん!」
貴子は自分で自分の行動に驚いた。
対するほのかの反応は、慌てて謝る貴子とは対照的だった。
ほのかは一瞬視線を鋭くしたが、落胆の表情も軽蔑の表情も見せない。微塵も狼狽を見せない。
すぐにほのかは、軽く笑う。
ほのかが今まで貴子に向けたことのなかった、凜とした中に、少し冷たさのやどった表情だった。それでいて貴子の心を震わせる、きれいな表情。
「ふーん、貴子、そんな態度、取るんだ」
「ち、ちがう、つい!」
なにがついなのか、すでに態度で示した以上、どんな言葉も言い訳にならない。
ほのかはまた、唇だけで少し笑った。なのに瞳は怖いくらいに真剣で、貴子を真っ向から見据えていた。
「いいよ、覚悟はしてたし」
「え……」
ほのかはゆっくりと、貴子の片方の手首をつかむ。
「でもね、貴子」
貴子は今度は、その手を払いのけなかった。ほのかの瞳にのまれて、動けなかった。
ほのかは貴子のもう一方の腕も、しっかりとつかむ。
「絶対、離さないから」
ほのかの瞳が、顔が、貴子に近付いてくる。
「貴子はもう一生、ずっとぼくのものなんだから」
貴子はまた無意識に反射的に身をよじろうとしたが、身体が動かない。ほのかも貴子を逃がさない。
「んっ……!」
四度目のキスも、ほのかから。
女子更衣室は、いっそう大騒ぎになった。
親しく付き合っていく以上、時にはお互いの過去に触れることもある。
ほのかが中一の夏まで男だったという事実も、付き合っていけば、いつかは貴子にも知られたこと。
もっと深い関係になってから聞かせたり、他人の口から言われるよりは、早いうちに自分から言うことを選んだほのか。その選択は、賢明ではあったが、貴子との関係だけに焦点を絞って考えると、相当のリスクも含んでいた。「“元男の女”との恋愛」をどう受け止めるかという、貴子がほのかに突きつけたことを、ほのかも貴子に突きつけ返したとも言えるが、それは今の時代であっても軽い問題ではない。
が、結論から言えば、ほのかとのキスの瞬間の胸の高まりが、貴子の気持ちを象徴していた。
――脇坂さんとのキスは、全然嫌じゃない。
むしろ、逆。
やっぱり、どうしようもなく、嬉しい――。
人前で堂々とキスまでされてしまって、貴子は全身から力が抜けていくのを感じながら、自分の気持ちを再認識させられていた。
結局、貴子にとって今のほのかは女だった。
ほのかの男時代を知らないことも大きいのだろうが、多少身も蓋もない言い方をすれば、ほのかの身体に、貴子は女しか感じなかった。
今のほのかはきれいな女の子で、身体も充分に発育した女の子で、声もきれいで可愛くて。
においも甘くて、男のものとは絶対的に違っていて。
その唇も、とても柔らかくて暖かくて。
性格も、男とか女だとかいうより前に、ほのかはほのかで。
理性的になれば、ほのかが元男だということに対する抵抗感も存在したかもしれないが、感覚的にそう思ったから、貴子にとってはその時はそれですべてだった。
キスの後、ほのかは少し強引だった。
貴子が嫌がらないのをいいことに、午前中以上に貴子に接触して、少しも離れたがらない。
やっと秋が始まった季節の昼下がり、くっつきすぎるとお互いに少し暑いのだが、体育館までの移動も、体育のランニング中も準備運動中も、ほのかは笑顔でにこにこと貴子にさわりたがって、腕を取ったり手を握ったり、横から抱きついたり、傍から見ると非常にイチャイチャベタベタしてくる。
彼女なりの不安がそこには込められていたことに、貴子は気付かなかったが、積極的に触れ合ってくる彼女を嫌いになんてなれなかった。相変わらず緊張させられっぱなしだが、むしろそんな彼女に、ようやく本格的に、貴子はほのかの気持ちを実感していた。
まだまだ貴子にはほのかのことは全然よくわからないが、彼女は貴子に、露骨な執着を見せてくれている。
今の貴子が見目のいい女だからという理由だとしても、好きでいてくれている。
それが未来を保証するものではないと、貴子はよくわかっている。もっと深く貴子を知れば、ほのかの感情も変質してしまうかもしれない。だがそれでも、ほのかが自分に見せてくれる執着が、貴子は素直に嬉しい。
今は自分に夢中になってくれている、と。
少なくとも今は、本当に好きでいてくれている、と。
そう思えて、貴子の心も震える。
ほのかが過去にどうだったのかという問題よりも、未来に対する不安よりも、今この時、ずっと好きだった相手が自分を好きでいてくれているという実感からくる感動の方が、強く大きかった。ほのかの過去は、無視できない問題ではあったが、致命的な問題ではなかった。
この時の貴子の思考は、まだまだ冷静には程遠かった。だから、理性ではなく感情でそう認識していた。理性的になればまた違うことを考えるのかもしれないが、その分、貴子の素直な本音だった。
もっとも、ほのかを避けるような行動を取ってしまった自責の念とともに、ほのかの下着姿を見たことの影響も大きかったのだろう。彼女の身体が押し付けられるたびに、半裸のビジュアルイメージまで脳裏をよぎってしまうのだから、貴子の思考はかなり桃色だった。
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初稿 2008/02/26
更新 2014/09/15