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Boy's Emotion

  Taika Yamani. 

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  第四話
   二 「朝」


 ベランダ側の障子とプリーツスクリーン越しの朝の光が、並んでいる二つの布団をうっすらと照らしている。
 九月二十七日、火曜日の朝。穂積貴子は目覚まし時計が鳴る前に、いつも通りの時間に目を覚ました。
 徐々に意識を覚醒させた貴子は、一瞬自分がどこにいるのかよくわからなかったが、母親の和室で客用の布団を敷いて、母親と並んで眠ったことを、すぐに思い出した。なんとなく寝返りをうって身体ごと横向きになると、貴子の真正面の至近距離に、母親の穏やかな寝顔がある。
 旅行先や病院でならともかく、自宅で母親と同じ部屋で眠ったのはずいぶんと久しぶりだった。貴子は昨夜感じたのと同じような気恥ずかしさや照れくささを感じたが、やはり嫌なわけではなく、くすぐったいようなあたたかさも感じた。
 そのおかげだろうか。これまでの朝は、いつも自分の身体が変わってしまったことを意識させられて、不安定な気持ちでの目覚めが多かったのだが、今朝は自然な目覚めだった。
 感情面ではともかく、肉体感覚的には違和感も薄れて、今のこの女の身体が自分の身体だという認識が、確実に定着しつつあるということなのだろうか。
 横でまだ眠っている母親を思って穏やかな気持ちになったり、昨日突然告白してきた好きな女の子のことを考えて「夢じゃないよな」と急に不安に襲われたり、せっかく自然な目覚めだったのに自分の今の肉体を意識してまた鬱っぽい気分になったりしつつ、貴子は数分まどろみ、ゆっくりと身体を起こした。
 「んっ……、ふぁ……」
 その拍子にあくびがこぼれて、貴子は手のひらで口を覆った。もう一方の手の肘を上げるようにして背筋を張り、大きく伸びをする。
 数秒、半袖のパジャマに包まれた胸のふくらみが強調されるようなポーズになって、同年代の男子が見ればドギマギしそうな瞬間が出来上がったが、あいにくと唯一の観客はまだ夢の中だった。そんな母親に小声でおはようを言って、貴子は寝乱れた髪を手櫛でいじりながら、枕元に置いていた携帯電話を手にとった。
 簡単に操作して、昨日登録したばかりの名前を探す。
 すぐに、好きな女の子の名前を、貴子はそこに見つけた。
 脇坂ほのか。
 昨日から貴子の恋人になった少女の名前。
 これまで利用頻度が低かった貴子の携帯には、貴子の好きな女の子の名前がしっかりと登録されて、昨夜のメールの履歴も残っていた。貴子は夢ではないと改めて実感して、じんわりと喜びを噛み締めながら、自分の目覚まし時計のスイッチを切り、静かに布団を抜け出した。
 母親の部屋の隣はリビングで、壁に収納できるタイプの二枚の襖で仕切られている。客用の布団をたたんだ貴子は、携帯電話と目覚まし時計を持ってリビングに出て、小さな足にスリッパを履いてベランダへと続くカーテンと窓を開け広げた。
 一枚残したレースのカーテンが微かに風にそよぎ、初秋の朝の光が、柔らかく室内に入りこんでくる。少し曇りがちだったが、暑くもなければ寒くもない。日中になればまだ気温は上がるのだろうが、過ごしやすい朝だった。
 電気とテレビをつけると、貴子はダイニングテーブルに時計や携帯を置き、冷蔵庫のオレンジジュースで水分を補給してから洗面所に向かう。
 穂積母子の家であるそのマンションの一室は、母子が二人で暮らすには充分な広さを持っている。ベランダを持つ母親の和室とリビング、リビングと一続きになっているが独立したダイニングキッチン。ダイニングと半ば一体化する形で廊下があり、片側に物置代わりの部屋と貴子の部屋である洋間、もう片側に洗面所やトイレやお風呂がある。一部屋一部屋が広めのゆったりとした構造で、もう何年もずっと育ってきた3LDKのこの空間に、貴子は充分愛着を持っていた。
 昨夜は興奮や不安、母親との遅くまでの会話のせいもあってなかなか眠れなかったが、若さのせいか、それともこれからの時間に対する興奮と緊張があるせいか、疲れが残っているようには感じない。トイレや洗顔や寝起きの歯磨きなどを済ませると、貴子はダイニングキッチンに戻った。いつも通りまだ時間の余裕があるから、貴子はゆっくりと、テレビのニュースに耳を傾けたりしながら、パジャマ姿のまま朝食の準備にとりかかる。
 昨日の朝の予定では今日はパンのはずだったが、昨日買い物をすっぽかしたから、パンは切らしていた。「今日はちゃんと買い物しないと」「明日の朝は和食にしよう」「脇坂さんは、朝はパンとご飯、どっちが好きなのかな……」などと考えながら、貴子はこういう時の習慣でホットケーキを用意する。
 レタスとトマトとピーマンときゅうりを洗って千切ったり切ったりしただけの生野菜のサラダと、シンプルなベーコンエッグと、炒めて冷凍保存しておいたオニオンペーストから作る簡単なオニオンスープ。サラダにはお醤油なりドレッシングなりを、ホットケーキにはジャムやバターやメープルシロップなどを各自お好みでつけ、オニオンスープは、完成後に細かく刻んだパセリで軽く風味を添える。
 後は焼くだけというところまで持っていくと、貴子は一度料理を中断して、自分の部屋に着替えをしに行く。
 淡々と、まずはパジャマの上着を脱ぎ捨て、中に着ていたタンクトップも脱ぐ。年齢平均より豊かな胸のふくらみが自然と空気にさらされて、貴子はもう毎日のことなのにやや瞳を暗くしながら、手早くハーフトップのブラジャーを身に着け、胸のおさまりを調節する。肌着代わりの薄手のTシャツも着込むと、パジャマのズボンを脱ぎ、お風呂上りに着用していた男物のトランクスも脱いでシンプルなボックスショーツに穿きかえて、体操服のハーフパンツを穿く。その上から、もうすぐ衣替えになる半袖オーバーブラウスと、白黒チェックのプリーツスカート。最後にデスクチェアに腰を下ろして、ふくらはぎの半分ほどの長さの白い靴下を履くと着替えは終了で、貴子は携帯電話や家のカギなどの準備もして部屋を出た。
 部屋を出ると、キッチンには戻らずに、脱いだトランクスなどを洗面所の洗濯籠に放り込んでから、一度新聞を取りに行く。玄関を出て、階段で三階を降りる。
 貴子の自宅であるこの四階建てのマンションは、それなりに裕福な少人数家族向けのマンションで、設備は整ってセキュリティも充分にしっかりしているのだが、いくつか些細な欠点もある。マンションの入り口がオートロックで、郵便屋さんや新聞屋さんも簡単には中に入れない仕組みで、新聞を回収するのにわざわざ一階に降りる必要があるのもその一つだ。
 途中、パジャマ姿の他の住人に会ったりすることがあるのも、貴子にとって少し面倒な点だった。「貴之」が女になった件については、入院中に母親がいつのまにかご近所に簡単に挨拶にまわっていたようだが、いまだに初めてすれ違う人には興味深げに見られたりする。貴子の母親はそれなりに愛想よくご近所付き合いをしているが、貴子は昔も今も、積極的に彼らと関わるつもりはない。マンション管理絡みの事務的な話し合いに参加することもあるから、もう何年も前から顔は知っている相手というのは多いが、普段はこちらからは会釈をする程度だった。挨拶の言葉が飛んでくれば同じ言葉を返すがそれ止まりで、貴子は最低限礼儀正しくはしつつ、学校と同じでマイペースに少しそっけなく振る舞っていた。
 特に誰にも会わずに一階の郵便受けから新聞を回収すると、貴子はすぐに部屋に戻った。ダイニングテーブルの上に新聞を放って、そのままリビングを抜けて隣の和室へと母親を起こしに行く。
 「母さん、朝だよ」
 客用の布団を押入れにしまって、ベランダ側の障子を開けた後。華奢な声でそう言って、貴子が母親の身体をそっとゆすると、母親の雪子は非常に眠たそうに目を開いた。
 「ぅ〜……、タカちゃん〜……」
 「おはよう」
 「……おはよぉ〜……」
 布団の中で寝返りを打って、うつ伏せになって枕に顔をうずめる母親は、放っておくとこのまま二度寝してしまいそうだが、こう見えても寝起きは悪くない。それを知っているから、母親が二度寝しようがしまいが、貴子が母親を起こすのは一回だけだ。
 『タカちゃんがお目覚めのチューしてくんなきゃ、お母さん起きらんなぁい〜』
 などと時々たわけたことを言ったりする母親は、本当は子供が起こさなくとも、セットされた目覚ましが鳴れば一人で起きてくる。のだが、起こさずに放っておくといじける。夜ご飯が毎日一緒にとれるとは限らないから、「朝くらいタカちゃんといつも一緒に食べたいの!」というのが母親の主張で、「貴之」は「だったらもっと早い時間に目覚ましをかけなよ」とよく言い返したものだが、なんだかんだで毎朝起こしているのだから、充分母親に甘い子供だった。
 すぐには布団から抜け出さない母親と挨拶だけ交わすと、貴子は襖を開けっ放しにしてキッチンに戻った。制服の上からエプロンを着けて、朝の料理を続ける。
 「今日はホットケーキか……。タカちゃん、いくつになっても甘いもの好きなのね」
 やがてパジャマ姿のまま部屋から出てきた雪子は、甘く広がるバニラビーンズの香りにちょっと眠たげに笑ったが、貴子の甘いもの好き辛いもの嫌いは、半分は母親の影響だった。もうずっと前から料理を子供に任せっきりの母親だが、滅多にお菓子作りはしない子供――ホワイトデーや誕生日に母親の好物のモンブランなどを作る程度だった――に、たまにお菓子を作ってくれる。祖母の教育のおかげか、雪子はまだ貴子が勝てないくらい料理も上手いから、母親が作ってくれるお菓子は今でも貴子の好物だ。
 『雪さんはそうやってタカくんを餌付けしてたわけですね』
 『今は雪の方が、タカくんに餌付けされてるみたいだけどね?』
 『あは、雪先輩ずるいです。わたしもたーくんになら餌付けされたいなぁ。たーくん、こんな先輩見捨てて、おねーさんのところにお婿に来ない?』
 この一連の会話は雪子の大学時代からの友人たちの発言で、雪子は「いいでしょ。でもタカちゃんはあげないわよ」と、ご機嫌そうに受け答えしていたものだ。「貴之」が「類は友を呼ぶ」という言葉を知った時に、真っ先に彼女たちを思い浮かべたのは無理もないのかもしれない。
 閑話休題。
 寝惚けまなこで顔を洗いに行く母親に、貴子はテキパキと料理をしながら「もうできるよ」とだけ答えて、母親のためにペーパードリップでコーヒーをいれる。自分の分には牛乳たっぷりのカフェオレを用意して、母親が戻ってきて料理も出来上がると、エプロンを脱いで食卓につく。
 貴子はいただきますを言って食べ始めたが、七時半過ぎには家を出る貴子と違い、八時半に家を出ても十数分後には職場に到着する雪子は、まだパジャマのままで、朝のスタートも遅い。食卓に着いても、コーヒーに口をつけ、ぼんやりとテレビを眺めたり新聞を読んだりするだけで、すぐには食事に手をつけない。
 「タカちゃん。遅くなるかもしれないから、今日は先に食べてていいよ」
 「ん」
 ふと思い出したように言う母親に、貴子はもぐもぐとサラダを食べて、ホットケーキにジャムを塗りながら、小さく頷く。
 「食べてくる?」
 「んー……、今日はちょっとわかんないな。作っておかなくていいよ」
 「そうする」
 短い返事だけをして着々と朝食を取る娘と違い、母親は新聞を広げっぱなしで、反応が鈍い。
 かなり気の抜けた無防備な雪子の態度だが、言い方を変えれば、家族の食卓で気を許しきった自然体だった。昨夜散々騒いだ後だけに、いつも通りの母親に貴子は少しほっとする。
 ぼんやりしていても雪子の姿勢はどこかがきれいで、貴子の祖母や今は亡き曾祖母の教育のおかげか、ナチュラルな育ちのよさも滲んでいる。すべてを自分で選ぶだけの意志と、一人で子供を育ててきた強さと、人としての自然な美しさを持っている女性。なんだかんだで、貴子の自慢のお母さん。
 母子の落ち着いた朝の時間がゆったりと流れ、子供がもう母親の台詞を気にしなくなった頃に、追加の言葉がふってきた。
 「あ、何も食べないで帰ってくるかもしれないから、その時は何か作ってね?」
 「いいけど。できれば食べてきてよ」
 「ふふ、そうね、タカちゃんの負担も減らさないとね。タカちゃんもこれから忙しくなりそうだものね?」
 「……まだ、どうなるかわからないよ」
 そんな会話を交わし、母親がやっと食事に手をつけ始める頃には、貴子の食事は終わっていた。休日ならもっとのんびりするところだが、食事の準備から母親の世話までする貴子の朝は忙しい。それでも少しは余裕を作っているから、貴子はゆっくりと後片付けをし、食器を軽くすすいで食器洗い機に放り込んだ。火曜日は燃えるゴミの日だからゴミをまとめて、もろもろ出かける準備をする。
 準備が終わると、ご飯をのんびりと食べている母親の前に顔を出す。昨夜遅くまで話をしていたせいかいつも以上に眠たそうだった雪子は、娘が行ってきますの言葉を投げると、急に真顔になった。
 「タカちゃん、相手の気持ちがはっきりするまでは、そう簡単に油断しちゃダメよ。キスももうさせちゃダメだからね」
 「……朝からなに馬鹿なことを」
 「馬鹿なことじゃないわ、大事なことよ。相手がタカちゃんを本気で好きなら、ちょっときつくしたってそう簡単に冷めるはずないんだから。タカちゃん、もっと自信を持って、強気で行かなきゃダメ。少なくとも、いつものタカちゃんらしく自然体で行かなきゃダメよ」
 「はいはい、自分なりにやってみるよ」
 それで嫌われたらどうする? と貴子としては思わざるをえないのだが、母親は昨夜すでに「それで嫌うような子ならこっちからふるべきよ」と、その問いに答えている。理屈としてはともかく、感情としては貴子には頷けない発言だった。
 貴子の方が、どうしようもなく相手を求めているのだ。嫌われる可能性は極力排除したいし、ずっと好きでいてもらいたいし、もっと本気で好きになってもらいたい。相手の気持ちにもまだ実感がないし、そう簡単に強気ではいけない。せいぜい、さすがに昨日自分の取った態度は情けないから、せめて「今日はできるだけクールにスマートに行くぞ」と心に誓う程度だ。
 貴子は話を打ち切ると、もう一度行ってきますを言って、母親の傍を離れた。行ってらっしゃいを言う母親の声は、ちょっと不満げであり、心配げだった。



 マンションの部屋は三階だが、貴子はいつもエレベーターを待たずに階段を使う。
 地上に降りてマンションのゴミ集積所にゴミを放った貴子は、落ち着いた雰囲気の中規模マンションが立ち並ぶ閑静な一角をマイペースに歩いて、いつも通り三分ほどで最寄り駅に到着した。定期券を兼ねる乗車カードで改札を抜けてホームの列に並び、学校の図書室から借りた文庫本を広げて少し電車を待ち、やがてやってきた各駅停まりの電車に乗り込む。
 いつも手すり傍を確保することが多い貴子は、荷物――この日はスクールバッグと体操服袋の入ったバックパック――は棚に置けそうなら置くが、その余裕がなければ肩にかけたままだったり、片手で持ったり脇に挟んで支えたりと色々だ。女になって身長が縮んでからは、棚の上に荷物を載せるのもちょっと面倒で、最近は置き引きを警戒しつつ足元に置くことも増えつつある。
 今の貴子がいつも乗っている各停電車のその車両は、空いてはいないが、そう混んでもいない。
 この電車に女性専用車両は一両しかないから、かえって混雑するのではと貴子は思ったこともあったが、今のところ極端な混雑にぶつかったことはなかった。この時間は、貴子がどこの学校かわからない制服の中高生や社会人っぽい女性が多いが、貴子が見たところ、単独のものが多いように思える。連れがいれば痴漢などのリスクは減るだろうから、わざわざ専用車両に乗ることはせずに、そのせいで専用車両の混雑も多少は緩和されているということなのだろうか。まだ一週間くらいしか乗っていないから、経験不足からくる思い込みや偏見や勘違いや気のせいも多いかもしれないが、漠然とそんなふうに思っている新米女の子の貴子である。
 貴子が乗る各停電車は、途中、急行電車との接続駅に停車する。
 この付近では比較的大きな駅で、他の方向に行く電車と乗り換えることもでき、この辺りから徐々に、貴子と同じ学校の生徒の姿も増え始める。
 急行電車を使う生徒も少なくはないようだが、急行は樟栄高校の最寄駅には止まらない。急行の方が混雑するし、学校の手前でまた各停に乗り換える必要もあるから、貴子はいつも通り各停電車を降りなかった。
 電車で過ごす三十分ほどの時間は、なかなか短くはない。ちょっと朝から無駄に疲れたりすることもあるが、普段なら読書もはかどる。が、この日の貴子は普段の心理には程遠かったから、あまりページは進まなかった。
 母親に指摘された余計なことを考えてしまう不安な気持ちと、これから好きな人と会うことへ緊張と期待と興奮と。
 ドキドキするが、嫌なドキドキではない。
 昨日の出来事が夢でなければ、ずっと片想いだった女の子と恋人同士になったわけで。
 どこか気恥ずかしくもあるが、やはり嬉しくもある。
 できれば元の男の身体でこの状況を迎えたかったという思いは根強いが、今は贅沢は言っていられない。彼女とどういう顔をして会えばいいのかよくわからないが、ずっと遠くから見ていただけのこれまでに比べれば、直接傍で言葉を交わせると思うだけで、喜びと緊張が膨れ上がる。
 おまけに、この日は五限に体育がある。女としての初参加になる、男女別の体育の授業。授業自体もどうなるのかという不安があるが、その前後には女子更衣室での着替えがあるわけで、見るとか見られるとか思えば、顔が熱を持ちそうになる。同年代の女子の着替えというだけならまだしも、好きな女の子の着替えを見て平然としていられるほど――と同時に変わり果てた今の自分の身体を見られて平然としていられるほど――、貴子の神経は太くはない。
 そんな色々なプラスとマイナスの思考と下心が渦巻く中、電車は学校の最寄駅に到着した。
 電車を降りた貴子は、学校標準指定の男女兼用のバックパック――デザインがシンプルで女子の受けも悪くはないが、女子が持つには少し無骨な印象のバックパック――を片方の肩にかけ、同じく標準指定のスクールバッグを片手に持って、二階のホームを歩いて一階の改札に向かい、人ごみに混じって改札を抜けた。
 樟栄高校以外にも近くに学校があり、この時間、駅構内も駅前の小さな広場も、中高生の姿が多く見られる。駅の反対側に大学まで一貫の女子校もあるために、男女比は一対二以上だろうか。友達と待ち合わせしているらしい生徒や、足早に学校に向かう生徒。朝から元気な生徒や、けだるげに眠たげな生徒。樟栄高校に隣接する樟栄中学の制服――男子は高校と同系のブレザーで女子はシックなセーラー服――を着た中学生の姿もちらほらとあるが、中学は高校よりも始業が早いらしいから、彼らは遅刻寸前かもしれない。
 学校が運営している無料のスクールバスを待っている生徒もいるが、高校生は今はまだ一本後の電車で徒歩でもぎりぎり遅刻はしない。この時間は、徒歩でちょうどのんびりと行ける。
 駅前はどこかいつもよりざわついている気がしたが、貴子は深く興味を持たずに、これから会う恋人のことばかり考えながら、いつも通り人の流れに混じって、黙ってまっすぐに学校に歩き出した。
 その瞬間、貴子の背中に声が飛んできた。
 「貴子、ストップ!」
 大好きな人の、透き通るような、きれいで可愛い声。
 今の貴子の名前を呼び捨てにする存在は昨日までいなかったから、「たかこ」と女の名前を呼ばれてもまだ他人の名前のように聞こえるが、それでも、貴子は自分が呼ばれたのだとすぐにわかった。
 予想外の声に鼓動を跳ねさせながら、貴子はさっと振り向き、駆け寄ってくる大好きな人の姿を、そこに見つけた。
 今の貴子より六センチほど背が高い、同じ学年の、同じクラスの女子生徒。
 昨日から貴子の恋人になった、脇坂ほのか。
 大人の女性になりかけている身体を白い夏の制服で包み込んでいる彼女は、片手にスクールバッグを持って、長い黒髪を柔らかく揺らして、きれいに整った顔を貴子に向けて、まっすぐな笑顔で駆けてくる。
 昨日はあまり現実感がなかったが、今日の貴子には、そんな彼女の存在が妙にリアルに感じられた。
 その笑顔は嘘じゃないと、もう盲目的な気持ちで思ってしまう。
 貴子は思わず強い衝動で、ほのかを抱きしめたくなった。昨日のほのかは、貴子をもうずっと離さないと言ったが、それは貴子が言いたい台詞だった。
 『脇坂さんはもうおれのものだから。絶対離したくない、離さない。もう誰にも渡さない』
 そう言って彼女を独占したい。彼女の何もかもをすべて自分のものにしたかった。
 「おはよう!」
 ほのかは一気に距離を縮めたかと思うと、するりと貴子の腕に腕を絡める。駅前がいっそうざわついた。
 「っ……!」
 大胆なことを考えていたのに、ほのかに先手を取られて、貴子は簡単に慌てた。無防備な可愛い声が、焦る貴子の唇からこぼれる。
 「ぉ、おはよぅ……!」
 「もうっ、ぼくに気付かないで行っちゃおうとしたでしょ! せっかく待ってたのに!」
 「ぇ、あ、ご、ごめん……!」
 「なーんて、謝らなくていいよ。こんなに人いたら探さないと気付かないよね。朝の駅は今日も混んでるし」
 「え、う、うん……」
 「貴子、いつもこのくらいの時間なの?」
 「うん……」
 「昨日はよく眠れた? ぼく嬉しくて全然よく眠れなかったよ。もう顔が勝手にニヤニヤしちゃって、姉さんには変な子扱いされるし、朝からケンカしそうになっちゃった」
 眠れなかったと言う割に、ほのかは緊張した様子などカケラもなく元気いっぱいだった。貴子の腕を取ったまま、にこにこと明るく話しかけてくる。
 「お――わたし、も、あんまり眠れなかった……」
 対する貴子は、自転車のはずのほのかがなぜここにいるのか理解できずに、鼓動が跳ねまくりだった。道中に自転車で追い越されるか、教室で会うものだとばかり思っていたから、心の準備ができていない。彼女のなんだか柔らかい部分が自分の腕にぶつかっていて、自分の柔らかい部分も彼女の腕に少し押し付けられて、彼女から漂う甘い香りまで感じ取って、貴子の鼓動はほのかにまで聞こえそうなほどドキドキと高鳴っていた。
 「あは、だよね! よかった、嬉しいのぼくだけかと思った」
 「そ、そんなことあるわけないよ」
 反射的に「絶対おれの方が嬉しかったに決まっている」と言いかけて、貴子は辛うじて言葉遣いを制した。
 「絶対、わたし、の方が嬉しかったに決まってる……」
 ほのかも、ちょっと照れたように貴子を見て、にっこり嬉しそうに笑った。
 「うん、じゃあさ、きっと同じくらいだね」
 「……う、うん」
 そのほのかのきれいな笑顔は、まだまだ今の貴子にとっては反則だった。自分の態度を情けないと思う余裕もなく、思わず見惚れて、抱きしめたり、その頬にさわったり、唇に触れたりしたくなってしまう。
 もっとも、貴子はまるっきり自覚がなかったが、頬をほんのりと桃色に染めたそんな貴子の振る舞いの方も、ほのかに言わせれば充分反則だった。容姿には似合った声であり態度だが、我が子をよく知る母親などが見れば、目を丸くして驚いてしまうだろう。そして嫉妬と悔しさを感じつつ、「朝露に濡れる白い朝顔の花のように初々しいね」とでも評するかもしれない。雪子が我が子を見る目には親馬鹿的に色がついているが、客観的に言って、その比喩はあながち的外れではなかった。貴子が感じているのは羞恥というよりは強い緊張なのだが、傍から見ると、はにかんでいるようにしか見えない初々しい態度になっていた。
 「さ、行こっ」
 「あ、あの、脇坂さん……!」
 「あは、なぁに?」
 「ん、っと、目立たない方が、いいと思うんだけど……」
 ほのかと一緒なら貴子自身は全然構わないが、ほのかに迷惑がかかるのは嫌だった。同性愛や元男の恋愛に対して、まわりがネガティブな反応を示すことはよくありがちだ。
 「え? 待ってるの迷惑だった?」
 「そ、そんなことない! そうじゃなくて、見られると色々言われるだろうから」
 「いいじゃない、見られたって何言われたって。貴子はぼくの彼女になってくれたんだよね? 昨日のは嘘なの?」
 「う、嘘なわけないよ!」
 彼女、と言われると忸怩たる思いがあるが、昨日ほのかにぶつけた気持ちは嘘なんかじゃない。
 「うん! じゃあなんにも問題ないよ! もうずっとぼくと貴子は恋人同士なんだからっ。ほら、行こう!」
 「う、うん……」
 貴子の手を引っ張って歩き始めながら、ほのかは腕は絡めたまま、手の位置を下げて、貴子の手を握り締めてきた。夏服で半袖だから、肘から先の素肌同士も密着しあう。健康的に白いほのかの肌と、まだあまり陽にさらされていない貴子の雪のように透き通った肌とが、淡くきれいなコントラストを描く。
 どきんと胸をはずませた貴子は、ほとんど無意識にほのかの手を握り返して、ぎこちなく足を動かした。恋人同士だと言ってくれるほのかの、その肌のなめらかさ柔らかさに、貴子はもう完全にまわりが見えなくなってしまった。
 ちなみに、無理もないことだが、そんな二人はまわりの視線を集めまくっていた。
 ただでさえほのかは学校の有名人だし、貴子も先週の第一印象で顔と名前を売っている。そうでなくとも、二人とも目立つ容姿をしている。高校生くらいの女の子同士が手を繋いで腕を組んで歩くというのは、必ずしも珍しいわけではないかもしれないが、両方見目が麗しいために嫌でも目を惹く。さらに、ふざけ半分で遊んでいるような様子もなく、一方が微かに頬を赤らめてうつむきがちになっていたら、色々と想像の余地が広がってしまう。
 「貴子、バックパック、体操服?」
 歩き出してすぐ、ほのかは貴子の反対側の肩のバックパックを軽く見やった。ほのか本人は、体操服もスクールバッグに放り込んでいるのか、貴子と違ってバックパックは持っていない。
 「あ、う、うん。今週から、体育もでるから……」
 「そっか。じゃあ、あれだね。着替え、いっしょにするんだね」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 思わず黙り込んでしまった貴子と一緒に、なぜかほのかもそこで黙る。並んで歩いているから二人とも目は合わせていなかったが、ほのかの頬もちょっと赤くなっていた。
 「あ、あはは! ぼく当たり前のこと言っちゃったね!」
 「う、うん……」
 もう何日も前から、貴子が意識していた一大イベント。体育は火曜の五限と木曜の二限に毎週定期的にあるからイベントもへったくれもないのだが、さすがにこれを軽く流せるほど貴子は強くはない。
 「貴子、ケーキの匂いがする?」
 自分から言い出しておきながら、ほのかの方も緊張に耐え切れなくなったのか、すぐに話題を変えた。
 急にほのかは貴子の胸元に顔を近付けて、くんくんと、微かに鼻を動かす。そのほのかの顔の近さに貴子の鼓動は跳ね、逆にほのかの香りをいっそう強く感じ取って、貴子はちょっとくらくらとした。
 「うん、やっぱり貴子だ。朝からケーキだったの?」
 「ホ、ホットケーキ! 作ったから……!」
 緊張で声が甲高く上ずり、ただでさえ淡く上気していた貴子の頬はいっそう桃色に染まった。
 「あ、そうなんだ。って、貴子って料理できるの? 自分で作ってるの?」
 「う、うん、うちは、親が忙しいし……」
 「ああ、そっか。すごいなぁ、ぼく料理全然ダメだよ」
 「す、すごくはないよ。必要があって覚えただけだから」
 「えー、ぼくは必要に迫られたって下手な自信あるよ?」
 「…………」
 下手だと胸を張って言われても、貴子としてはどう反応したものやら困ってしまう。
 しばらく料理の話になって、貴子が知っている点もあれば知らない点もある調理部の話題になった。調理部は毎日何か作っているわけではなく、実習日は主に水曜日と土曜日だけらしい。他の日は実習前は何を作るか考えてレシピを勉強し、実習後には反省会をするというサイクルで、陸上部とかけもちのほのかは勉強会や反省会には参加せずに、実習の時だけ参加しているという。
 「“むしろほのかは勉強会の方にだけ参加しなさい”とかあかりにはよく怒られるけど、でもしかたないよね、作るより食べる方が好きなんだから」
 「…………」
 調理部には作る練習が目的で入ったと思っていた貴子は、曖昧に頷いたが、ほのかのその言葉にもコメントに困った。料理が得意ではないという噂は聞いていたが、食べることが目的だと本人の口から子供っぽいことを聞かされると、ちょっとしたギャップも感じる。
 なお、「あかり」というのはほのかの母方の従妹の福山あかりのことだ。貴子はほのかのおまけで、あかりとその妹の「かなえ」のことは少しは知っている。ほのかの従妹なだけあって福山姉妹も端正な容姿をしているし、彼女たちも電車通学だから、たまに電車やホームで見かけたこともあった。
 姉の福山あかりは二年五組で、三年生が引退してからは調理部の部長を務めているらしい。妹の福山かなえは一年三組で、バドミントン部所属らしいが、姉ほどほのかとは仲がよくないようだ。ほのかの方は従妹を気にかけているようだが、かなえの方で従姉に隔意があるという話も、貴子は春頃に聞いたことがあった。
 「貴子も今度来る? 部外者大歓迎だよ、ぼくに何か作って?」
 「う、うん……」
 まだまだ、貴子はほのかに対して軽口を叩けない。『せめて「一緒に作ろう」とか、「食べさせてあげる」とか、そういう台詞を聞きたかったかも……』と頭の片隅で思いながら、貴子は気が早いことに、自分の得意料理の中から彼女に作ってあげる料理のことを、思わずあれこれ考えたりする。
 「ね、明日からも待ってていい?」
 「え? お、わたし、は、いいけど……」
 でも自転車は? という貴子の華奢な声と、ほのかの「じゃあ待ってるから! 貴子も早く着いたら待っててねっ」という明るい声が重なった。ほのかは貴子の声も聞き取ったようで、明るく言葉を続ける。
 「駅までは歩いても十五分くらいだからね。自転車で待っててもいいし、今度二人乗りしようね?」
 「え、えっと……」
 「いや?」
 「い、いやじゃない、けど……! 先生とか、警察に見つかれば、下手すると怒られるだけじゃすまないよ」
 「あは、いいの! 教師が怖くて学生なんてやってられないもんね。警察も、ばれてもごめんなさいすればだいじょうぶだよっ」
 「そう、かもしれないけど……」と、貴子は冷静には程遠い理性で思ったが、強い主張にはならない。
 道路交通法上、自転車は軽車両扱いとされ、二人乗りなど明確に禁じられている行為も多く、それらの違反を犯した場合は刑事処分の対象となる。車などでの比較的軽い違反者に対して反則金ですませる交通反則通告制度が自転車には適応されないため、前科がつくことになる。傾向的には、軽い違反であれば警察も警告ですませるようだが、仮に警告ですんだとしてもお説教はうるさいことになりそうだし、打算的に言って、貴子はあまりオススメできなかった。みなの規範であるべき生徒会長というほのかの立場もあるし、純粋に交通安全の観点から言ってもよい行為とは言えない。さらに言えば、今の時期は毎年恒例の秋の全国交通安全運動期間中だ。最近は自転車事故も増えているから厳しく取り締まることもあり、二人乗りで刑事処分されても文句は言えない。
 と貴子は思いつつ、ほのかと二人乗り、というのは、やはりかなり心惹かれていたが。
 「貴子、自転車乗れるよね?」
 「う、うん。前は、ちゃんと乗れてた」
 「前はって、家にないの?」
 「使わないし、親も車だから……」
 「そっか。貴子、日曜どこ行きたいか考えた?」
 「え、あ、考えた、けど、やっぱり脇坂さんとならどこでもいいかも」
 「あは、主体性がないぞ〜?」
 「……って言われても……」
 昨夜何度かメールのやりとりをして、デートはどこに行くか相談したが、結局場所は直接話して決めようということになっている。ほのかは貴子の好みに合わせてスケートでもいいと書いてきたが、ほのかは完全にスケート初心者らしく、貴子としても初デートで連れて行くことに不安があって保留にしていた。
 「そろそろいい季節だから、サイクリングもいいかなって思ったけど、自転車持ってないなら微妙かなぁ。バイクの免許も、貴子持ってるわけないよね。うーん、十八になったら車と一緒に大型取るの考えてたけど、普通二輪も取っておけばよかったかな。そしたら、もう一年たつし、二人乗りでツーリングとかできたのに」
 「…………」
 女子のバイクの後ろに乗るのはなんかカッコ悪い、と貴子はまた冷静には程遠い頭でなんとなく思いつつ、曖昧に頷く。なぜほのかの発言が断定なのかはちょっと気になったが、確かに貴子はバイクの免許は持ってはいない。あまり興味もなかったから、さすがに原付が十六歳からというのは知っているが、普通二輪やら大型やら一年たつやら言われても、どう制限があるのかよくわからない。
 「貴子って、誕生日いつ? あ、ぼくは六月十五日だよ。忘れないでね」
 脈絡がないように思えるほのかの言葉に、貴子は「とっくの昔に記憶しているよ」とは言えず、真面目な顔で小さく頷いた。
 「貴子はいつ? もう過ぎてる?」
 「す、過ぎてるって言えば、過ぎてる、かな。三月の四日、だから」
 「あ、早生まれなんだ。なんとなく似合うね」
 「…………」
 誕生日が似合うと言われても、これも返答に困る。「一日ずれてればもっと似合ったのにね」と笑うほのかに対して、貴子の脳裏を「三月五日?」というボケがよぎったが、口に出す精神的余裕もなかった。
 「じゃあ車の免許も、卒業ぎりぎりになっちゃうなぁ。ぼくはできれば来年の夏には取りたかったけど、どうしようか? 一緒に行くのも捨て難いよね。貴子は免許取る予定あった?」
 「う、うん。車は、受験が終わって、暇ができてからって、考えてた」
 そんなふうにほのかがどんどんとしゃべり、貴子はそれに緊張しながら受け答えする形で、会話は続く。昨日と同じで、貴子も時々は自分からほのかのことを尋ねたり、ぽろりと本音を漏らしたり、ささやかな自己主張も織り交ぜるが、完全にほのかのペースだった。
 意識すらしてもらえなかった以前とはもう違うが、貴子はほのかの前ではどうしても、強気どころか、普段通りにすら振る舞えない。実はほのかもほのかでかなりハイテンションになってるのだが、冷静には程遠い貴子は気付けないし、むしろ普段通りにすら見える。
 「恋愛はより惚れた方が負けだ」という言葉もあるが、自分だけが緊張しまくっているという認識に、貴子はますます強気に出れなくなる。やっと両想いになれて幸せいっぱいでいいはずなのに、普段の自分が出せず、どうしても緊張感溢れるおずおずとした態度になってしまう。冷静さが戻ってくると貴子自身も情けなさを感じることになるのだが、どう頑張ってもこうとしか振る舞えなかった。
 それはやはり、相手の気持ちにも今の自分にも自信が持てないことが原因なのだろう。
 あまりにも自然に振る舞っているように見えるほのかに、遊びとまではいかなくとも、お試し感覚的な部分も強いようにも、貴子には思えてくる。貴子が知るほのかの性格なら、好きだと感じたなら自分から告白するのは、充分彼女に似つかわしい。が、かえってその大胆さは一時の衝動のようにも見えるし、「好きになった人とは積極的にすぐに付き合ってみるが、その分、少しでも冷めると別れるのもすぐ」というような性格にも思える。
 ……この意見は、ほのかが知れば、少し本気で嘆いて怒りたくなったかもしれない。
 恋は思案の外ということなのかもしれないが、ほのかが「貴之」をふった時に使った言葉には、ほのか自身が告白する時の覚悟も含んでいたのだから。
 まだまだ、お互いのことをよく知らない二人だった。





 to be continued. 

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初稿 2008/02/26
更新 2008/04/05