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Boy's Emotion

  Taika Yamani. 

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  第三話 「爆弾発言」
   一 「九月二十六日」


 気晴らしに久しぶりにインラインスケートに出かけ、小中学時代の知り合いに遭遇して、ちょっとへこんだ気分になった秋分の日の金曜日。
 母親に強引に約束を取り付けられ、昼に制服のまま待ち合わせをして、母親の友人たちも一緒に車で半日連れまわされた土曜日。
 特に予定もなく家でのんびりして、そのためにかえって余計なことをあれこれと考えたり、ブロック大会の決勝戦だった野球部の友人から負けたというメールがきて、返事に少し気を遣ったりした日曜日。
 そして月曜日。
 近くを台風が通過していった先週の火曜や水曜とは違い、朝から気持ちよく晴れた、明るい秋晴れの一日だった。
 太陽の下にいるとまだ暑さもあるが、初秋のさわやかな風が心地よく、影にいればとても過ごしやすい。教室の窓もほとんど開け広げられて、特に午後の五、六限などは、普段真面目な生徒でも舟をこいでしまいそうなほど心地よい天気だった。
 二年五組の野球部の某男子がいきなり頭を丸坊主にして登校してきて、一部の生徒たちを驚かせたこの日、二年二組の穂積貴子はクラスの日直だった。貴子は以前通り女子の十二番の藤岡愛――ふじおかめぐみ――と一緒に日直をしたが、元から少し無口なタイプの藤岡さんは、貴子に対してかなりぶっきらぼうな態度になっていた。彼女のその態度が、少し気になっていた男子が女子になったことに対する戸惑いだと気付いていたら、貴子はまた違った感慨を抱いたのだろうが、これまで事務的に安定していた彼女との関係も少し変わってしまった形で、貴子はちょっと気疲れを感じさせられてしまった。
 そんな月曜日の放課後。
 女としての初登校からとりあえず一週間ということで、貴子は担任と学年主任の教師に、進路指導室に呼び出された。かなり待たされた後、遅れてやってきた定年間近の学年主任は、気難しい表情で何か問題はないかと貴子の近況を確認してから、「女になった以上、女として将来をどうありたいか、しっかり考えなくてはいかんぞ」などというような、いまさらなことを貴子に言った。
 自分の性別が変わったことをなかなか受け止めきれない例や、逆に過剰に性的な方向に走る例もあるからだろう。学校側としては、メンタルケアのつもりであり、生徒の動向をいち早く察知するためのこの対話なのだろうが、貴子としては言われるまでもないことだった。
 平均寿命から考えればれからまだ何十年も続く人生、貴子はできれば女の身体になるというイベントは避けたかったが、元から3%程の確率があることは知っていたし、なってしまったものはどうしようもない。「肉体的には自分の身体は女」という前提で、もうこの先を考えるしかない。どんなに辛い気持ちがあってもその前提条件は覆せないから、それを踏まえて、薬物投与や手術で男の身体に近付くといった選択肢も含めて、すべて自分で選ぶのは貴子にとって当たり前のことだった。
 定年間近なのに厳しいと評判の学年主任は、反発の言葉も考慮していたようだが、冷静な貴子の様子に、すぐに態度をトーンダウンさせた。今の貴子は、口を開かなければ純真無垢で大人しそうな少女にしか見えないのだが、その見た目の下の落ち着きを長年の経験から察したようで、いちいち言い含める必要がないと気付いたらしい。学年主任は最初の険しさを和らげて教科書通りのことを言うに留め、「わかりました」とか「ハイ」としか言わない貴子を、手短に解放してくれた。
 「冷静に受け止める生徒というのも、かえってやりにくいものですなぁ」
 「そうですね。もともと、穂積くん――穂積さんは手のかからない生徒でしたから。多少は戸惑ってくれた方が、見た目とのギャップは減って楽なんでしょうけど……」
 「自分のことは自分で考えることができるのか、下手に他人に頼れない性格なのか、はてさてどちらなのでしょうな」
 などなどという会話が、貴子が席を立ったあとに、担任と学年主任との間で交わされていたが、貴子の関知しないことだった。
 ともあれ、貴子にとって予想の範囲内の学年主任たちの訓示だったが、もっともな部分も少なくはなかった。
 毎日学校に通ってただ生きていくだけなら、どうとでもなっているが、もう高校生活も半分を過ぎようとしている。男であっても女であっても、真剣に将来を見つめるべき時期にさしかかっていた。短期的に言っても、漠然と受験勉強をするのではなく、そろそろ本格的に志望大学や志望学部を絞るべきだった。男だとか女だとか恋愛だとかということも小さなことではないが、そればかりを気にしてはいられない。
 恋に、進学に、将来のことに。そしてやはりそれらすべてに関わってくる、自分が女になってしまったという現実に。
 貴子は改めて色々考えさせられながら、スクールバッグ片手に進路指導室を出て昇降口に向かった。
 もう教室の掃除も終わって部活も始まっている時間、校舎内は昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。放課後すぐには賑わっていたであろう昇降口周辺も、貴子の視界に入ったのは一人の女子生徒だけだった。
 昇降口の柱に背を預けるようにして佇んでいる、長い髪の女子生徒。スクールバッグを床に置いて、どこか考え事をしているように虚空を見据えて、凜としたきれいな姿勢で佇んでいる少女。
 その女子生徒の姿を見たとたん、貴子の鼓動は跳ねた。
 いきなり取り乱しかける。
 貴子が気付くとほぼ同時に、その女子生徒も貴子に気付いた。
 彼女はこんな時間にこんな場所で何をやっていたのか、不意に顔を上げて、まっすぐに貴子を見つめ、ゆっくりと柱から背を離す。
 ごくなんでもない姿であり、自然なしぐさのはずなのに、貴子の目に映る彼女はとてもきれいだった。
 と同時に、見られている、と感じて、貴子の動きはいっそうぎこちなくなった。
 貴子はがんばって足を動かし、そのまま彼女を素通りしようとする。
 「あっ」
 そんな貴子の動きに、その女子生徒、クラスメートの脇坂ほのかが、なぜか慌てたような声を出す。貴子の華奢な肩がぴくんと揺れた。
 「穂積さん、待って」
 はっきりと、貴子の名前を呼ぶ声。
 まさか呼び止められると思っていなかった貴子は、心臓が止まりそうな思いを味わいながら、反射的に足を止めて身体ごと振り向いた。
 対する脇坂ほのかは、彼女もどこか少しぎこちなかった。床のスクールバッグを持ち上げて、艶のある長い黒髪を揺らしつつ、ゆっくりと、貴子に近付いてくる。
 いったい何の用なのか、貴子にはさっぱりわからないが、口がからからに渇いていく。ほのかを直視できずに、横を見たり、うつむきがちになったりと、視線が泳いだ。好きな女の子にただ声をかけられただけで、自分が露骨に変な態度を取っていると自覚する余裕もない。
 「穂積さん」
 「な、なに?」
 自分の名を呼ぶほのかの声の近さに、貴子の鼓動がまた跳ねる。ただでさえ高域な声が、上ずったように甲高くなった。貴子は情けなさに自分の頬が熱くなるのを感じた。
 それでも、後二歩の距離で足を止めたほのかに、貴子は思い切って顔を上げた。
 こんなに間近で見るのは、三月にふられた時以来かもしれない。
 貴子の片想いの相手が、目の前に立っていた。
 あの時は冬服だったが、今は夏服。少し大きな襟のついた半袖オーバーブラウスに、白黒チェックのプリーツスカート。今の貴子が着ているものと基本的に同じはずの制服が、貴子の主観では、ほのかにはことさらよく似合う。この距離ではわかりづらいが、ほのかのスカート丈は貴子より少し短く、いつもぎりぎりで白い膝小僧が顔を覗かせていることを、貴子はよく知っていた。
 三月の時と比べて、ほのかの姿は半年分成長しているだけのはずだが、なのに違って見えるのは、やはり貴子の方が変わってしまったからだろう。以前は見おろすようにしていたのに、今では逆に六センチほど差があり、少し見おろされるようになっている。見上げると、ほのかの頬が、なぜかほんのりと赤いのがわかった。
 普段は、貴子はほのかのことを凜としてきれいで可愛いと主観全開で思い込んでいるが、この時の彼女は少し凜とした印象が薄れていた。どこか緊張したような顔なのが、贔屓目もあって貴子の目にはとても愛らしく思える。先週の生徒会選挙の演説でも堂々としていたほのかなだけに、ちょっとしたギャップがあって、貴子は状況も忘れて思わず見惚れかけた。
 「えっと」
 ほのかは何か言いかけて、一度そこで言葉を切った。
 貴子ははっと我に返ったが、ほのかのその態度は拷問に近かった。ただ話しかけられただけなのに、緊張でどうにかなってしまいそうになる。
 貴子はうつむいて、細く浅く、息を吸い、そっと吐き出す。
 『どうせたいした用はない。こんなに緊張するだけ馬鹿みたいだ』
 微かに残った理性でそう考えるが、頭の中は真っ白に近く、心臓はバクバクいっている。今の女の身体でのほのかとの対面に抵抗を感じる余裕もなく、緊張から脱することもできない。少しでも顔を上げようとすると、彼女のすらりとした白い喉や、白い制服に包まれた胸の曲線や、艶やかで柔らかそうな質感を持つ唇も目に入ってきて、一層ドギマギしてしまう。
 頬を桃色に染めてうつむき、視線を泳がせている貴子を、ほのかはどう思っているのか。彼女は少しそわそわと声をかけてきた。
 「穂積さん、ぼくのこと、知ってるよね?」
 「…………」
 ほのかの艶のあるきれいな声に、貴子は質問の意図がわからないままに、無言で小さく頷いた。
 ただでさえほのかは目立つ上に、つい先日に生徒会役員選挙があったばかりだ。新生徒会長に選ばれたほのかのことを知らない人間など、ほぼ間違いなくこの学校にはいない。
 コクンと頷いた貴子に、ほのかも一つ頷いて、それから彼女は突然、大きな声を出した。
 「穂積貴子さん、一目惚れしました! ぼくと付き合ってください!」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 ほのかの言葉が貴子の腑に落ちるまで、長い時間がかかった。
 長い長い、長すぎる時間だった。
 ヒトメボレ。
 その言葉の意味が、とっさに貴子の頭の中に浮かんでこない。どう考えても聞き間違いとしか思えないような言葉だったせいか、『付き合うって、何に付き合えばいいんだろ? 生徒会の仕事?』と、ありがちでかなりボケた思考が、貴子の脳裏をよぎる。
 先に沈黙に耐え切れなくなったのは脇坂ほのかだった。まだ何を言われたのか理解しきれていない貴子に、ほのかはたたみかけるように言葉を紡いだ。
 「いきなりに思えるかもしれないけど、でも、今のキミに一目惚れしたんだ! キミがこの間まで男だったってことも知ってる。でも、今は女同士だけど、そんなの関係ないよね? 穂積さんだって、男より女の方が好きだよね!?」
 貴子が冷静な時であれば、そのほのかの言葉はいくつもの意味で衝撃的だっただろう。
 「……三月に、ふっちゃってたのは、言い訳もできないけど……、穂積さんは、その、ぼくのこと、もう、好きじゃなくなってた……? 女になったら、どうでもいいの……?」
 「な、そんなわけない!」
 ばっと、貴子は顔を上げ、甲高い声で反射的に言い返した。未だにほのかの言葉はよく理解できていなかったが、自分の気持ちを否定されるのはたまらない。
 ほのかはほっとしたような顔になって、バッグを床に放って急に距離をつめてきた。焦る貴子の片手を両手でつかみ、ぎゅっとスカートの前で重ね合わせる。
 頬をほんのりと赤く染め、だがまっすぐな凜とした瞳で、ほのかは貴子を見つめていた。
 「穂積貴子さん、好きです! ぼくと付き合ってください! 恋人になってください!」
 「…………」
 貴子の頭の中に、徐々に、ほのかの言葉の意味が浸透していく。
 彼女の発言は色々と無視できない要素が多かった気もしたが、この時の貴子はそれを整理して考える余裕などなかった。至極シンプルな点だけが、頭の中に入ってくる。
 ほのかは貴子を好きで、恋人になって欲しいと思っていて。
 そして貴子もほのかが好きで、恋人にしたいと思っていて。
 貴子はほのかの勢いに押されるように、もうほとんど無意識に、コクンと頷いた。
 『はい、おれでよければ、喜んで』
 理性が残っていればそんな言葉が口を出たかもしれないが、そんな冷静さには程遠い。とても現実とは思えなかったが、まるで夢の中にいるような気分だったが、嫌なはずがなかった。顔がやたらと熱くなって、鼓動もいっそう激しくなって、彼女の顔が見れない。
 「やったぁ! よかったぁ!」
 ほのかは本当に嬉しそうな感極まった声を出して、うつむきっぱなしの貴子をぎゅっと抱き寄せた。
 「っ……」
 身体ごと引っ張られたから、貴子はほのかの方に少し倒れこむ形になった。身長差のせいで、ほのかの肩に、うつむいていた貴子の顔がうもれる。
 なんだかものすごくいい匂いが貴子の胸いっぱいに広がって、貴子はくらくらっとよろめきかける。ほのかの両腕はそんな貴子を支えるようにしっかりと背にまわり、二人の胸のふくらみがお互いに少し押し付けられる。
 ほのかの身体の柔らかい感触が、現実感を伴わずに、貴子にあたたかさを伝えてくる。お互いの鼓動の早さに気付けないほど、二人の胸は激しく高鳴っていた。
 「こんな気持ち、初めてだよ……! もう、すごく嬉しい……! ふられたらどうしようかと思った……!」
 ほのかは貴子の背を撫でて、貴子のさらさらの短い髪に頬を寄せる。
 「う、うん……」
 自分を抱きしめる彼女の身体を意識しまくり、その彼女の動きに身体を強張らせつつも、貴子も小さく頷く。
 急激に進展しすぎる状況に、貴子の頭はついていけない。
 ほのかが女の同性愛を肯定していて、貴子が元男というのも受け入れていて、その上一目惚れだなんて、あまりにも貴子に都合のよすぎるこの状況。
 思考が飽和状態で、自分の今の感情もさっぱりだった。前方にあった貴子の手は、どう動けばいいのかわからずに、そのままスカートの前でぎゅっとバッグを握り締めて、ほのかのスカート越しの太ももにぶつかっていた。
 「ね、貴子って呼んでいい?」
 耳元で囁かれて、貴子の身体が震える。
 今まで貴子を名前で呼ぶ相手は少なかったから、「たかこ」という女の名前にはまだ違和感がつきまとうが、他の相手ならともかく、ほのか相手に拒絶できるわけがなかった。
 繊細な少女の声で、貴子はゆっくりと、だがはっきりと言う。
 「……脇坂さんが、そうしたいなら……」
 「ぼくのことも、ほのかって、名前で呼んでいいよ」
 「…………」
 「いや?」
 「い、い、い、いやじゃ、ない、けど……」
 後になって自分の態度をカッコ悪いと落ち込むことになるのだが、貴子は全然いつも通りには振る舞えなかった。緊張のあまり声はかすれてどもりまくってしまう。
 ほのかはもう一度、貴子の耳に囁いた。
 「じゃ、名前、呼んでみて?」
 「…………」
 「…………」
 「……ご、ごめん……。すぐには、無理……」
 妄想の中でなら呼び捨てにしたこともないではないが、ただでさえいっぱいいっぱいでわけがわならないのに、そう簡単に名前の呼び捨てなんてできない。
 「……そうだね」
 ほのかは、先走っている自分に気付いたのかもしれない。ちょっと興奮を抑えるように、ゆっくりと深呼吸をした。
 「ごめんね、いきなり言って」
 「わ、脇坂さんが、謝るようなことじゃないよ……!」
 「うん、ありがとう。ゆっくり、いくね。今日から、貴子はぼくの彼女だもんね?」
 「…………」
 それは何かが違う、と貴子の頭の片隅を思考が走ったが、声にはならない。
 ほのかは「いつか、名前も言ってもらえるようになるから」と優しく笑って、やっと貴子から身体を離した。真正面から貴子を見つめて、真剣な笑顔で言う。
 「ほんとに、貴子のこと、好きだよ」
 「……おれも、ずっと、脇坂さんが好きだよ」
 頑張って声を出して、貴子も甘い声で囁き返す。
 今のこの状況がよくわからないけれど。
 どうせなら男のままこの時を迎えたかったけれど。
 今の自分が女だという状況は苦しいけれど。
 変わり果てた声も身体も辛さをかきたてられるけれど。
 この気持ちだけは、変わらない。
 ……もしもほのかがこのまま甘い雰囲気を持続させていたら、貴子はこの日はもう冷静になんかなれなかったかもしれない。
 が、ほのかはここで顔をしかめた。
 「ね、その話し方、やめない?」
 いきなり甘いムードが壊れる。何を言われたのかよくわからず、貴子は思わず何度か瞬きをした。
 「キミにそんな言葉遣い、似合わないよ」
 「…………」
 これがほのかからでた発言でなければ、「おれは気にしないよ」「他人には関係ない」などと貴子は言い放っていただろう。ほのかのその言葉は、貴子の興奮を少し冷やしていた。現実味のない高揚感はそう簡単に消えてくれないが、普段の理性が多少戻ってくる。
 今のほのかが好きだと言うのは、「貴之」ではなく「貴子」。男の自分ではなく、女の自分。
 そう思って胸に痛みを覚えながら、これは本当に現実なのか、夢なんじゃないかと疑いながら、貴子は真剣にほのかを見上げた。
 「……こんな話し方してたら、嫌いになる、かな……?」
 「え、あ、そんなことはないけど!」
 本人は緊張のあまり無自覚にやっているだけだが、その貴子の態度にはほのかの方が慌てた。
 頬を桃色に染めて、ちょっと上目遣いで、声も可憐で繊細で。
 自覚すれば貴子本人は激しい情けなさを感じるだろうが、今の貴子はかなり、恋の緊張感に溢れる初々しい姿になっていた。
 「でも、可愛く話した方が絶対似合うよ。ぼくもきっともっと好きになる」
 「…………」
 悪魔の誘惑というものは、こんな天使のようなきれいな姿をしてやってくるのだろうか。
 言葉遣いについて「必要を感じたらそれに応じて考える」と以前友人に答えた貴子だが、好きな女の子に気に入られるために言葉遣いを変えるというのは、貴子の美意識でもってしても、あまりカッコいいとは思えない。
 が、一度ふられているという現実があるだけに、彼女の機嫌を損ねることに対する不安は根強かった。嫌われたくないから、強気には出れない。実際は、ほのかの方は「一度ふった男子」と「目の前のこの可憐な少女」とが同一人物とは思えないだけに、貴子の方が不利なわけでもなかったのだが、想い続けてきた期間の長さ分も、貴子は臆病だった。
 「……わかった。脇坂さんがそう言うなら……」
 「え、ほんと? いいの?」
 「……拘りなんて、本当に大事なもの以外、さっさと捨てていくべきだから」
 「……貴子って、可愛い顔してそんな考え方するんだ」
 ほのかは一瞬、驚いたように貴子を見やる。貴子はその視線に気付かず、少し傷つきつつ「顔は関係ないと思うけど……」とついぽろりと、いつものキレのない控えめさでつっこみをいれる。
 「あ、あは、そうだね」
 ほのかは少し慌てたように表情を崩して、ちょっとだけ笑った。
 「えっと、とにかく、言葉遣いは変えるんだよね。まずはあれかな、やっぱり、わたしって、言うことからかな?」
 「……わたし?」
 「うん、わたし! ぼくの前では、今度からそう言ってね?」
 「……そうする」
 社会に出れば、男性であっても「わたし」という一人称を使う機会はいくらでもでてくる。『脇坂さんだって、自分のことをぼくとか言ってくるくせに……』と、頭のどこかでちょっと思いながらも、貴子は小さく頷く。
 ほのかは笑って、そんな貴子の手を取った。
 もういったい何度目なのか、貴子の鼓動が跳ねた。
 ほのかは無造作に貴子にさわりすぎだった。貴子はただでさえドキドキしてるのに、ほのかに触れられるたびに、鼓動は暴れまくってしまう。『女子の手って、なんでこんなに柔らかいんだろ……!』と、今の自分を棚に上げた思考も駆け巡り、どう頑張っても冷静になんてなれない。身も心もどうにかなってしまいそうだった。
 「貴子、まだ時間、平気?」
 「う、うん。平気だけど……」
 「じゃあいろいろ話していこう」
 「……脇坂さんは、部活は……?」
 「今日はさぼり! やっと貴子と両想いになったのに、部活なんてやってられないよ」
 告白されたんだよな……、と、貴子は現状をちらっと見つめなおしたが、どこか地に足が着いていない。ほのかと両想いになって、恋人同士になって、これから付き合っていく。日々夢想していたことではあるが、やはり非現実的で夢の中のようだった。ほのかの内心もさっぱりわからない。
 「ここだとあれだし、ちょっと教室でも行こうか」
 「う、うん……」
 床のバッグを拾ったほのかは、貴子の手を引いて、三階の二年二組まで貴子を先導する。
 貴子は何か言いたかったが、感情が飽和状態で、上手い言葉が見つからない。ほのかも似たような心理があるのか、二人手を繋いだまま、沈黙の中で階段と廊下を歩く。
 学内の清掃は業者が入っているが、学校の方針で教室や廊下やトイレの掃除だけは生徒たちでやることになっている。各クラス男女約四人ずつで四つの班を作っていて、今週は出席番号一番から四番の第一班が当番だった。ショートホームルーム後のその掃除はとっくに終わって、二年二組の教室は無人になっていた。ベランダ側では西日が射しているが、まだ夕焼け色というよりは、黄色い、明るい光が世界を照らしていた。
 そんな放課後の教室にたどり着くと、ほのかは貴子の席に向かい、荷物を机の上において、貴子を椅子に横座りさせた。手を離したほのかも横の席の椅子を引っ張り、膝と膝が触れ合いそうな位置で座って、貴子と真正面から向かい合う。
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 じっと見つめてくるほのかに、すぐにそわそわと貴子は落ち着かなくなる。
 ほのかもちょっと落ち着かなかったようだが、貴子よりは余裕があった。にこっと笑って、両手を伸ばし、また貴子の片手をそっとつかむ。
 貴子の肩が、ピクンと揺れる。ほのかの素肌の膝も、貴子のスカート越しに、貴子の膝とそっとぶつかっていた。
 「……貴子の手、柔らかいね」
 「……わ、脇坂さんも……」
 「うん、ぼくの手、少し冷たいかな? 貴子の手、あったかい」
 貴子の身体全体が、緊張で熱を持っているせいもあるのかもしれない。だが貴子にとってもほのかの手はあたたかく、その柔らかい感触がとても心地よかった。両手で包まれた片手と、そっと触れ合う膝もどこかくすぐったくて、貴子の身体は震えそうになる。
 頬をうっすらと桃色に染めて小さく頷く貴子を、ほのかは明るい笑顔で直視する。
 「何から話そっか? 話したいこと、いっぱいありすぎだよね」
 「……ほんとに……」
 「うん?」
 これは現実? とは、さすがに聞けない。
 「お――わたし、を……、なんで、好きに……?」
 「は、恥ずかしいこと、聞くんだね」
 貴子のか細い言葉に、ほのかはちょっと照れたように、貴子から視線を逸らした。
 「さっきも言ったけどね、一目惚れなんだ。先週、貴子を初めて見た時、胸にビビってきたんだ」
 「…………」
 ほのかのそんな表情に気持ちを昂ぶらせながらも、貴子は少し傷ついたような、かなり複雑な気持ちを抱かされた。要するに見た目で気に入っただけなのかと、しかも今の女の身体の外見をと、中途半端な理性がネガティブなことを考えてしまう。
 「一目惚れするなんて、自分でも思ったことなかったから、わけわかんなくてびっくりしたよ。キミのことが頭から離れなくなって……。でも、何度も話しかけようって思ったんだけど、選挙とかで忙しかったし、どう話しかけていいのかもわかんなくて……。あはは、なんかぼくらしくないよね」
 「…………」
 確かに、物怖じする脇坂さんというのはあまりらしくないかもしれないと、貴子は熱心に話を聞きながらさらに考える。それが自分の女の容姿のせいだと思うと、やはり鬱屈した気持ちになるが、ここ一週間ずっと意識されていたと思えば、じんわりと、いてもたってもいられなくなりそうな、一歩間違うと逃げ出したくなるような、そんな感情も込み上げてくる。
 「貴子ってさ、言葉遣い微妙だし、なんだかそっけなくて冷たいし、でも可愛くて、姿勢がきれいで、真面目で、大人しくて」
 その意見は色々と受け入れ難かったが、貴子はここでも口を挟まない。
 ほのかはそんな貴子をまっすぐに見つめて、そっと微笑んだ。
 「ほんとに、なんでこんなに好きになっちゃったのかな……。声を聞くだけで、貴子を見るだけで、もうすごくドキドキする。目も追っちゃうんだ。見るだけでいてもたってもいられなくなって。こんなの自分でも初めてだよ。もうどうにかなっちゃいそうだった。だから、もう思い切るしかないかなって。今日はずっと落ち着かなかったし、今も、これでもすごく緊張してるんだよ?」
 さすがに自分の発言が恥ずかしくなったのか、ほのかは最後は照れを隠すように、ちょっと茶化すようにおちゃらけて言う。にっこりと笑い、握ったままの貴子の手を少し強く包み込んだ。
 瞬間、また鼓動が跳ねて、貴子はあたふたと視線を泳がせた。ほのかと間近で向かい合って触れられて、彼女の声を聞いているだけで、貴子もどうにかなってしまいそうだった。
 「でも、お……わたし、は、この間まで、男、だよ」
 「ん……、それは、ちょっとは、ぼくも悩んだけどね。でもほら、ぼく、前の貴子のことよく知らないし? だから、先週初めて会ったって思えば全然問題ないよ。それに、いつ男になるかもしれない他の子と違って貴子はもう一生女で、男になったりしないって思えば、悪くないし」
 「…………」
 ほのかのその発言は、かなり酷薄だとも言える発言だった。まるで貴子の過去を根こそぎ否定するかのような発言であり、貴子の人格を見ていないかのような発言。
 貴子がそう思ったことが、直観的に、ほのかにはわかったのかもしれない。ほのかは少し真顔になって、貴子を見返した。
 「……貴子は、こんなぼくとは付き合いたくない?」
 これも、ひどい発言。
 今の貴子がほのかを拒絶できるわけがない。
 絶対手に入らないと思っていたものが手に入る。さんざん想い続けていた願いが叶う。
 貴子がほのかを自分から拒絶するなんて、できるわけがない。
 「どんな、脇坂さんでも……」
 貴子はもう一方の手を、ほのかの手の上に重ねた。頬に熱を持ったまま、真剣に言葉を紡ぐ。
 「嫌いになんて、なれないよ」
 視線を合わせるのは緊張したが、それでも、その言葉を言う時、貴子はほのかから視線を逸らさなかった。
 「ずっと、好きだったから。今もずっと、好きだから」
 静かな夕暮れの教室に、高く澄んだ少女の声が、甘く繊細に響く。
 ――自分たちの気持ち以外の問題は、これからの課題にはなりえても、今は大きな問題にはならない。
 この先にどんなことがあっても。
 今の、この気持ちは――。
 貴子の甘い声と熱いまなざしに、ほのかは数秒、言葉を返さない。きれいな瞳で、凜とした表情で、貴子をじっと見つめていた。
 貴子が冷静であれば、ほのかも自分に見惚れていたことに気付いたかもしれないが、今の貴子にそんな余裕はなかった。
 その数秒の沈黙に、貴子の中に急激に、よくわからない羞恥が込み上げてきた。自分の態度にも身体にも声にも、なんだか激しい情けなさまでも湧き上がってくる。
 貴子はいてもたってもいられなくなって、焦って手を離そうとした。
 が、寸前、それを察したかのように、ほのかの手にぎゅっと力が入った。
 「……うん。やっぱり、好きになったのが貴子でよかった……」
 無意識にこぼれ落ちたような、ほのかの呟き。
 貴子がえっと思うよりも早く、ほのかは花開くように明るく笑うと、真剣に言いきった。
 「貴子のこと、ぼくも本気で好きだからね」
 貴子の胸が、じんと痺れる。
 そのきれいな笑顔に、貴子は感情を根こそぎ持っていかれそうになった。頭が真っ白になる。何度言われても胸が熱くなるその言葉に、何か言いたいのに、感極まって声がでない。
 そんな貴子に、ほのかも感情が溢れてきたのか、ゆっくりと立ち上がった。
 「ぁ……」
 ほのかの手が離れかけて、貴子はさっきとは逆に離したくないとばかり手に力を入れたが、するりと逃げられてしまう。ほのかを見上げる貴子の瞳は、本人は無自覚のまま切なげに揺れた。
 立ち上がったほのかは、そんな貴子の瞳を真っ向から受け止めて、そっと、座ったままの貴子の方に身をかがめた。
 前に流れてきた長い髪を、ほのかは耳元でかきあげて。片手を貴子の腕にそえ、もう一方の手で、優しく貴子の頬に触れる。
 貴子から見れば、突然すぎるほのかの行動。
 貴子の感情はついていけない。自分の熱い頬にある、ほのかの手の柔らかい感触が、貴子の身体を甘く痺れさせる。
 ほのかは少し、彼女もどこか緊張しているように微笑むと、きれいな手で貴子の顔を優しく上向きにし、ゆっくりと、自分の顔を近付けた。
 「貴子のこと、もうずっと、離さないからね……」
 甘く、それでいて強い意志の響きを持った、ほのかのささやき。
 彼女の微かな吐息が、貴子の肌を甘く震わせる。
 まっすぐに貴子を見つめていたほのかは、貴子の柔らかい頬を撫でて、そっと、目を閉ざした。
 ほのかのきれいな肌が、貴子の目の前にある。ほのかの長いまつげが微かに震えているのを、貴子はわけがわからないままに見つめる。
 貴子の唇に、とても柔らかい、何かが触れた。
 貴子は、息ができなくなった。
 長いような、短いような、数秒間。
 パニックに陥りかけた貴子が、状況を飲み込めないままに目を閉じようとした時、ほのかは離れた。
 「ぁ……」
 吐息を漏らして瞬きをする貴子に、ほのかは、彼女も頬を上気させて、照れたような微笑みを見せた。チロッと、ほのかは自分の唇を舐める。
 「レモンの味、しないね……」
 「…………」
 「もう一回、していい?」
 「……え?」
 何をだ、と、貴子は全然働かない頭で考える。今自分が何をされたのかも、現実感がなさすぎてさっぱりだった。唇に残っているとても柔らかくて気持ちのいい感触は、いったいなんなのだろうか。今間近に迫っていたほのかは、いったい何をしたのか。
 「する、ね」
 ほのかはもう一度、今度は素早く、顔を寄せた。
 貴子の桜色の唇に、ほのかの微かに濡れた艶やかなそれが、さっきよりも強く、押し付けられる。
 ほのかの一方の手は貴子の腕を強く押さえ、もう一方の手が頬を撫でて、小さな耳たぶの方にまで触れる。
 「ん……」
 現実感はまるっきりなかったが、今度はさすがに、はっきりと自覚させられた。
 貴子は赤い顔を少し上向かせたまま、ゆっくりと、目を閉ざす。
 ――好きな女の子と、キスをしている――。
 身体と一緒に、心が震えた。





 to be continued. 

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初稿 2008/02/26
更新 2008/02/29