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 夢の続き

  Taika Yamani. 

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前編 
  最終番外編 「六月の花嫁」 <後編>


 ――純白の花嫁。
 プリンセスラインのドレスは後ろに長いトレーンを引き、花嫁を愛らしく、美しく彩る。花嫁の片手はそっと父の腕に回り、もう一方の手は、ウエストラインよりも少し低い位置に、青い花の混じった白いブーケを捧げ持つ。
 腕の付け根のみ隠すフレンチスリーブの袖に、肘まですっぽりと覆い隠す手袋。横に長いラインのボートネックの胸元は、適度な露出があるが、それは花嫁の美しさを演出する。首には新しいネックレス、ドレスの胸元には年代物のブローチ。ベールは剥き出しの背や肩を大きめに覆い、キメ細やかで柔らかそうな白い肌が、うっすらと透けて愛らしい。きれいにまとめられた漆黒の髪には、小さな宝石のちりばめられたシンプルなティアラ。
 ベールに包まれて、俯きがちの花嫁の表情は窺いづらいが、素顔の魅力を引き立てるための薄化粧に、桃色の頬が栄える。高いヒールで少しだけ普段より高い身長の花嫁だが、それでも隣を歩く父親と比べると小さい。そんな父の腕によりそって、少し顔を伏せて、花嫁はバージンロードをゆっくりと進む――。



 幸せだった幼児期。後に恋人になる少女に出会い、いじめられた学園の幼稚舎。自ら望んで強くなり、幼馴染みの少女にたくさん好きだと言われた初等部。何度もケンカしながらも、友達として過ごした中等部。高等部に進学して数ヶ月、突然迫られた十六歳の誕生日。
 そして、目が覚めたら女の子になっていたあの朝。
 多くの人間の性別が入れ替わっている世界で、女の子として目覚めた此花望。それからの望は、いじめられっ子で、貧弱な身体つきで、登校拒否生徒だった此花希として生きてきた。
 もしも「彼」もそうでなければ、今の自分はなかっただろうなと希は思う。
 幼い頃から望を好きだと言ってくれていた少女、朝宮怜華もまた、怜華の意識をもったまま、少年である朝宮怜悧になっていた。
 痩せてて可愛くない希に、怜悧はあちらの世界と同じように強く言い寄ってきて。
 こちらでのファーストキスも強引に奪われる。あちらでのファーストキスも、初等部の遠足で寝ている間に奪われたことを思うと、希としては苦笑しかできない。「強引に襲ってくるようなやつに優しくできるほど大人」ではなかったあの頃。今も、そんな大人にはなれていない。むしろあの頃以上に、強引にされることに対する抵抗感は強いかもしれない。今は、怜悧がすることなら、それを本気の強引と感じることは、もう少ないから。
 あの時点から見れば、今の自分は想像できなさすぎて希には可笑しい。なぜ怜悧を好きなのか、今ならいくつもいくつも、思いつくことができる。彼にはたまにしか口にだしてはあげないが。
 違った環境であれば違った経過になったのだろうし、もしかしたら二人付き合い始めることはなかったのかもしれない。だが希はそんな希だったし、過去には戻れない。そして何より、今の自分が希は嫌いではなかった。
 今の怜悧との関係も、たまーにやれやれと思うが、嫌いではない。むしろ好きだと思っているし、壊れることを考えたくない程に執着もしていた。
 希の十七の誕生日に、怜悧は正式なお付き合いを自分からちゃんと言ってくれて。希もしっかりと返事をして。それからは何度もデートを重ねて、バレンタインでヤキモチをやいたり、春には自分から素直に甘えようとしてみたり。三年生になると、両親の帰宅が遅い希の家で、二人一緒に夜ご飯を食べて勉強して過ごすようになって。
 ちゃんと身体を許したのは、怜悧の十八の誕生日。
 翌朝、母親からのメールで無断外泊がばれたことを知った時には希は嘆息したが、そんな中で、プロポーズめいたことを言い合って。家に帰ると父親がもう大騒ぎだったが、今となってはそれも懐かしい想い出だ。
 大学に進学すると同時に、また父親にうるさく言われながらも、怜悧と二人、同棲生活を始める。二LDKの高級マンションという、怜悧のチョイスにはさすがに非難の声を上げたが、この先ずっと怜悧の財力を使わずに生活していくのかと言われて、しぶしぶ折れた。希がいやだったり不都合だったりしないことなら、怜悧のお金の使い方は希がとやかく口を出すことではない。
 医者の卵になった希は、ここで二人の特に仲がいい友達と、一人の親友と言える友達ができた。親友になった少女は、可愛い顔立ちなのに落ち着いた性格で、希と似た部分がある少女だった。希が男のままなら、もしかしたら彼女のようなタイプを好きになったのかもしれない。もっとも、希が男のままなら、彼女も男だった可能性は高いが。
 六年間の大学生活は、充実とともに過ぎ去った。大小様々な事件もあったが、勉強や友達付き合いに動き回り、アルバイトを頑張って。大学卒業後、私立の大学病院に研修医として勤め、小児科を中心に経験をつみ、二年後、都心から少し離れた郊外の個人病院に改めて就職した。
 希の大学時代や研修医時代は、怜悧は不平不満を言うことがしょっちゅうだった。特に、ただでさえ忙しかった大学時代後半の後の研修医時代は、さらにとんでもなく忙しく時間も不規則で、希は怜悧の相手をする元気がなかったことも多かった。疲れているところにベタベタされた時などは、希もつい怒ったりして本気のケンカも何度もあった。
 後で甘くすればすぐご機嫌になる怜悧の性格は扱いが楽だったが、それでもケンカが長引いた時もある。和解する時間すら作れないことも多かったのだから無理もない。そんなケンカの後は、怜悧から謝ってくれば希はとても彼に優しくしたし、希の方から謝る時は素直に甘えたから、ケンカの後の二人を見れば、昔の希や外での希を知るものならかなり驚いたかもしれない。
 怜悧が甘いのは昔からだとしても、希が自分から全開で甘えることは今でも多くはない。そんな希がごく稀にとても甘えたり甘えさせたりすることは、怜悧の心をいつもプラス方向に揺れ動かしていたらしい。
 「希ってやっぱりずるいよな」
 怜悧は喜びつつも、いつもそんなことを言っていた。計算ずくではなかったからこそ、お互い自然でいられたのだろうか。希もそんな彼への愛情を、増やすことはあっても減らすことはなく、今に至る。
 希が、それまでずっと怜悧に催促されていたことを自分から切り出したのは、二十六歳の七月、怜悧の二十七の誕生日だった。
 ホテルのレストランを予約して、怜悧を驚かせるために赤いドレスで正装して。
 「わたしと、結婚してください――」
 あなたを愛しています、という言葉とともに、はにかむことなく、まっすぐに。
 希の言葉に、怜悧はいつかのように、まじまじと目を見開いて硬直してくれた。
 その夜は一泊して、後日改めて二人、指輪を買いに行き。怜悧も両親に挨拶に来てくれて、希もきちんと怜悧の両親に挨拶をした。
 日程は再来年の六月と決めたが、まだ何ヶ月も先なのに、式については希の父親を除く双方の家族はかなり派手にはしゃいでいた。
 希は毎日身につけることになるマリッジリングだけには拘ったが、他はすぐに匙を投げて恋人の半ば言いなりになった。が、それはそれで楽しかったのだが、結婚を決めた年の十二月中旬に、怜悧はいきなり前言を覆した。準備が意外に順調に進んだせいか、待ちきれなくなったらしい。再来年の六月ではなく、来年の六月にしようと言い出したのだ。
 「今更変更なんて却下だよ」
 希は冷たい視線で、きっぱりと怜悧の提案を拒絶した。
 「わたしはちゃんと、最初に十一ヶ月で充分だって言ったはずだけど?」
 そんなふうに希は彼の提案を蹴ったが、怜悧もムキなったりなだめすかしてきたりして訴えかけてくる。希としては十八ヵ月後の予定がいきなり六ヵ月後になったわけで、時間的には充分だが、こんな重大ごとを彼のわがままでそう簡単に変えられたくはない。
 と言いつつ、数日間冷戦状態に陥ったが、結局クリスマスまでには折れたのだから、希は「我ながら甘いなぁ」としみじみ思ったものだ。そのイブはとても甘い夜になった。
 その後は、「女のパワフルさ」というべきか、「怜悧のパワフルさ」というべきか。怜悧は希を引っ張りまわし、新婦でありながら「結婚式の準備に引っ張りまわされる新郎」の心理を実感した希だ。むしろ身体が新婦なものだから、余計に連れまわされてくたくただった。
 それでも、希は彼のわがままに困った顔をしたりたまに怒って見せたりしつつも、笑って付き合ってあげていた。個人的にはもっとゆっくりのんびりとした形にしたかったが、一度受け入れた以上、恋人の夢を叶えてあげるためであれば多少の我慢はする。惚れた弱みなのかもしれないが、結婚式に夢中になる彼のことも可愛く見えて嫌いではなかった。五月下旬までは怜悧もいつも傍にいてくれたこともあって、なんだかんだ言いつつ希も楽しんでいた。
 が、式が近づくにつれて、希は落ち着かなくなっていた。怜悧は一ヶ月前までくると希のすべきことを極めて少なく抑えてくれて、必要なこと以外は式までのんびり構えていいと、時間を短縮したわりにはペースをちゃんと考えてくれていた。新婦としての直前の準備に借り出されつつも、希はやっとゆっくりとした時間を持てていた。
 なのに落ち着かなくなっていったのは、逆にその余裕のある時間のせいだったのかもしれない。



 二十七歳の六月。
 結婚式の前夜。
 午後十時過ぎ、一人で実家に泊まりにきている希は、自分の部屋の自分のベッドに横になって、暗い室内でなんとなく天井を見上げていた。
 終始嬉しそうだった母親と、前の日なのにもう泣きそうになっていた父親は、まだ一階で起きているかもしれない。希はそんな二人にはずっと笑顔を見せていたが、もらい泣きしそうになったのは少し困った。二人の態度から、自分が明日結婚するのだということを強く意識させられたことも、気持ちの揺れに拍車をかける。
 明日にそなえて早く寝るべきだとわかっているが、普段より早いせいもあってなかなか思うように寝つけない。怜悧もこの日は彼の実家なので、いつも傍にあった彼のぬくもりがないことも、寝付けない原因なのだろうか。
 「でもなんだかこれって不公平……」
 なんとなく、希は小さく呟いた。明日、新婦である希は早起きしてヘアメイクやらなにやら引っ張りまわされる予定だから、こんな時間の就寝である。が、新郎である怜悧の明日の行動予定は、余計な手間がない分希より余裕があって、早起きする必要は必ずしもない。希は花嫁であることがちょっと恨めしい。
 「……なーんて、そんなことはもうどうでもいいんだよね……」
 自分で呟いたことを自分で否定して、希は目を閉ざした。
 恋人は式自体に夢中になっているようで、この日別れた時もまだなにやら忙しそうにしていた。別れ際なども「じゃ、希、明日は寝坊するなよ!」という軽い台詞で、希が情緒不安定気味になっていることにも気付いてくれず、一人でさっさと行ってしまった。
 希に優しいことは優しいが、ここ一月、一緒にいる時間をあまり作ってくれなくなっていた怜悧。希としては式なんかよりも二人でのんびり過ごす時間の方が大切だと思うのだが、最近の怜悧は希のことをちゃんと見ていないんじゃないかという気さえする。
 前は、希が勤務先であったことなど色々話すと面白がって付き合ってくれたのに、この頃の話題は結婚式のことばっかりだった。希は聞き手に回されることがしょっちゅうで、怜悧は希の日常のことなどすっかりおざなりで。その上、彼は余計なことで疲れているのか余裕が少なくて、やることをやるとすぐに眠ってしまう。
 二人とも一生に一度のつもりのことだから、無理もないと言えば無理もないのだろうか。怜悧から見れば、むしろ希の方が冷めているとも言えるのかもしれない。結婚式に夢中になる彼と、それを手段としてしか捉えていない彼女。希としては、彼と一緒に楽しむことは悪くないが、やはり最近の関係を思うとなんだか複雑な気持ちになる。
 「……これがマリッジブルーなのかなぁ」
 ただ単に、自分に構ってくれない恋人に不満なのか、それとも結婚を控えてナーバスになっているのか。マリッジブルーは男にも女にもあるというが、これがそうなのか、それとも別の要因なのか。
 これまでも似たような感覚があった気もするが、夜はいつも怜悧が傍にいてくれたから、希は深く悩むことはなかった。だが、前日なのに、いや、前日だからこそなのか、胸のモヤモヤが消え去らない。
 「……明日、怜悧に会えば吹き飛ぶかな……?」
 ありえるかも、と思って、希はベッドで一人、少し笑う。
 明日は、余裕があるのは、早起きしてのんびりお風呂に入って、朝ご飯を食べるまでだろう。その後はもう、難しいことを考える暇はなく、あっという間に流れそうな気がする。はじまってしまえば、今のこの気持ちなんて、もう気にならなくなるのかもしれない。
 「……でも、このまま流されちゃうのはいやかな……」
 結婚式の前にお互い着替えて写真をとったりするカップルも多いらしいが、怜悧が妙な部分に拘ったため、明日希が彼に会うのは教会での式の最中だ。こんな気持ちのまま式を迎えるのは、何か間違っている気もした。
 「電話……」
 してみようかな……、と小さく呟いて、希は身体を起こした。床に降り立って、メンズでも通用しそうなワイシャツタイプのパジャマ姿のまま、携帯電話を手に取ってベッドに腰を下ろす。
 「……でも、怜悧も怜悧で、家族水入らずなんだよね……」
 登録データを呼び出し、最後のボタンを押そうとして、希はそこで躊躇った。お互いの家で別々に過ごすと決めたのは希たち自身だ。なにも結婚したからといって家族に会えなくなるわけではないが、本人にとっても家族にとっても、ある意味特別な夜。時間はまだ十時過ぎなので、極端に遅い時間ではないが、もしかしたら寝ている可能性もないではない。
 「こんな時、怜悧から電話をくれたら泣いて喜んであげてもいいのに」
 かなり一方的なことを呟いて、希は携帯電話を持ったまま、ベッドに再び横になった。
 それから約三十分、一向に電話がかかってくる気配はなく、希も自分からかける踏ん切りはつかないままに時間は過ぎ去る。希は電話しようかしないか悩みながら、かかってくることを期待し続けたたが、結局その願いは叶わなかった。
 「……いつものように、開き直るしかないのかな……」
 不意にドアが控えめにノックされたのは、希がそう呟いて少ししてからだ。希はゆっくりと身体を起こした。
 「起きてるよ。どうぞ」
 ドアが開いて、希の母親、此花茜が顔を覗かせる。まだ普段着のままの茜は、ドアを閉めずに一歩だけ中に入ってきた。
 「希ちゃん、まだ寝てなかった……? 眠りかけたりしてなかった……?」
 部屋の電気が落ちているせいか、母親の声は密やかだ。廊下からの光が影を作り、茜の表情は、希からはわかりづらい。
 「うん、どうかした?」
 床に足をつけてベッドに座りなおしながら、希も釣られたように小声で応じる。
 「えっと、ちょっと様子をね。もう寝てるのなら、そっとしておこうと思ったのだけれど」
 母親の勘なのか、女の勘なのか。同じ女性として、心配になる部分があったのだろうか。希は優しい母親の態度に、素直な言葉を口に出した。
 「緊張、してるのかな、なんだか眠れなくて」
 「ふふ、希ちゃんもやっぱり女の子なのね」
 「そうだね」
 少しだけ微妙な仕草で、希は微笑む。
 「お母さんは、どうだった?」
 茜は少しだけ、懐かしそうに笑った。
 「そうね、お母さんも前の日はすぐには眠れなかったわね。でも、疲れてたから、いつにまにか寝ちゃってたわ」
 「お父さんのせいだね」
 希はくすくす笑う。
 希の父、此花蔵人は結婚式の準備をほとんど手伝ってくれなかったらしく、茜は何かと大変だったらしい。その分、娘の彼氏が結婚式の準備に積極的なことを、茜は半ば羨ましがりつつ、素直に祝福してくれていた。むしろ怜悧と一緒に希をおもちゃにしたりもしていて、希はいけないと思いつつ、何度か母にも冷たくしたことがある。
 茜は冷たさには冷たさで応じるところがあったが、尾をひくことは少なかった。基本的にひく時にはすんなりひく母で、他人のいやなところまでは踏み込んでこない。希はそんな母が嫌いではなく、同性の親として色々頼りにしていた。
 「でも、わたしもその方がよかったかも。色々考えなくていいし」
 「あら、色々考えてるの? もしかして不安、とか?」
 「……不安、なのかなぁ……。……怜悧に大丈夫だって頭を撫でて欲しい、とか言ったら、お母さん、笑う?」
 「あらまあ。可愛いこと言うのね」
 「こんな時くらいは、ね。ありがとう、お母さん」
 希は母親が自分を励ましにきてくれたと感じて、改めて感謝の気持ちを伝える。夕食の時にも言ったが、まず間違いなく明日も言うことになる言葉。今なら何度言っても足りない気がする。希の素直な気持ちだった。
 茜は一瞬、言葉につまったようだ。
 「……お母さんも、ちょっと明日は泣いちゃうかも。怜悧くんに嫉妬しちゃうわ」
 「……お母さんまで、そんなこと言うの?」
 茜にまでそんな態度をとられると、希もひどく感傷的になってしまう上に、現実的なことを考えても母親まで泣かれるのは困る。母親には、明日はぼろぼろになるであろう父親を慰める役を期待しているのだから。
 「だって、ね」
 茜は少しだけ微笑むと、後ろを振り返った。
 「そういうことみたいよ。希ちゃんのこと、本当によろしくね」
 茜のその発言は娘に向けてではなかった。
 「え?」
 「ええ、任せてください。ありがとうございます」
 廊下側に一歩下がった母親と入れ替わりに、一人の男性の姿。希の目が丸くなる。
 「れ、怜悧!?」
 思わず希は立ち上がっていた。
 「し〜!」
 母親と恋人が、二人して唇に指先を当てる。あっと思って希も意味なく口を抑えたが、目だけはぱちぱちと何度も瞬かせてしまう。怜悧は笑いながら中に入ってきて、母親もくすりと笑うと「それじゃあ希ちゃん、明日にさしさわりがない程度に、彼にたくさん甘えなさいね」とドアを閉めて去っていった。
 「な、なんでキミがここにいるの!?」
 パタン、とドアが閉まる小さな音で、希の頭に理性が戻ってくる。が、声を抑えてはいるが、その口調は自然に上ずっていた。怜悧は数歩の距離を照れたような笑顔で詰めてきて、そっと希を抱きしめてきた。
 「まー、なんというか、落ち着かなくてな」
 「…………」
 希は色々言いたいことがあるのだが、不意打ちすぎて言葉にならない。しばらく口をぱくぱく動かしていたが、やがて弾けるような嬉しさがこみ上げてきて、希はぎゅっと怜悧に抱きついた。
 「信じられない! 普通前夜に相手の家に来る!? いったい何考えてるの!」
 「しかたないだろ、会いたくなったんだから」
 強くしっかりと、希を抱き返してくれる怜悧。
 「電話だってあるのに! わたしもう寝てたかもしれないのに! だいたい非常識すぎ!」
 「おれに頭を撫でて欲しかったんだろ?」
 さっきの母親との会話を持ち出されて、希の頬が熱くなる。
 「さ、最低! 黙って聞いてるなんて!」
 「はは、声が大きいとお義父さんにばれるぞ」
 「もー、なんでこうなるかな!」
 希の瞳からは、勝手に涙がこぼれそうになっていた。希は堪えたかったが、自制しようとしてもできない感情だった。希は泣きながら、笑いながら、彼の胸に顔をうずめた。
 「来てくれてありがとう! 嬉しい! 会いたかった!」
 ほんの数時間前に別れたばかりなのだが、希の素直な本音。
 「よかった……」
 怜悧は本当にほっとしたように、希の頭に手を当ててきた。
 「追い返されたらどうしようかと思った」
 「追い返すわけないよ! すごく嬉しい。ありがとう!」
 「……すごい、素直だな?」
 「だって本当に嬉しい! こんな時まで意地張りたくない!」
 「……来てよかった……」
 怜悧の腕に力がこもる。
 「あは、うんっ」
 素直な言葉を言い合って、怜悧は希の頭を撫でて、希は優しく撫でられながら、二人ぎゅっと抱きしめあう。
 「怜悧も不安だったの?」
 「不安というか、落ち着かなくてな。希に大丈夫だって頭を撫でて欲しかった、とか言ったら笑うか?」
 真似をしているとわかったが、からかわれているのかもしれないとも思ったが、いやではなかった。彼も自分と同じような気持ちを抱いていたと思うと、さらに嬉しさが溢れてくる。希は満面の笑顔だった。
 「いいよ! じゃあ、してあげる!」
 顔を上げて、背伸びをして手を伸ばして、怜悧の頭を撫でる希。より深く抱きつくような形になって、怜悧は衝動的になったように、そのまま顔を下げてきた。
 「んっ」
 唇と唇が重なり合う。
 二人の心が一つなるような、そんな深い繋がりあい。
 怜悧の片手は情熱的に希の髪をまさぐり、背伸びをした希の両腕は、怜悧の頭を撫でるように、抱きこむように動く。
 「大丈夫だよな?」
 「うん。大丈夫だよね?」
 「ああ、絶対大丈夫だ」
 「うん、絶対大丈夫」
 何度も唇を合わせながら、途切れ途切れに、二人言葉を交し合う。
 怜悧は次第に希の身体を押すように動き、希は押されるように後ろに下がる。
 ベッドにぶつかるまで時間はかからなかった。希はバランスを崩して、怜悧にしがみつく。怜悧はそのまま、口付けを繰り返しながら、希をベッドに押し倒した。
 ベッドに横にされながらも、希は怜悧から離れない。
 が、怜悧の手がパジャマ越しに胸のふくらみに触れた時、急激に希の理性が戻ってきた。
 「ちょ、ちょっと待った」
 「待たない」
 「ま、待って待って!」
 「待たない!」
 うるさい騒ぐな、とでも言いたげに、怜悧は希の口をまたふさいでしまう。希は流されたいと強く感じながらも、怜悧の肩を押し返そうとした。が、怜悧は片手で希を強く抱きしめてきて、もう一方の手で希の胸をなでまわしてくる。すぐに唇も少しずつ下に動きだし、首筋にまでキス。
 やっと口が解放されて大きく息を吸いながら、希は弱々しく抵抗した。
 「お願い、待って。今日はいやだ」
 「ここまできてやめられるか」
 「明日はキミが大事にしてた日だよ。それをキミがぶち壊していいの?」
 「結婚式なんかより、希が何倍も大事だ」
 「…………」
 胸にジーンときた。希は一瞬抵抗を忘れた。怜悧は希が抵抗しないのをいいことに、さらに大胆に動く。希のパジャマのボタンを片手で外そうとしながら、胸元にまでキスの雨を。
 「んっ、だ、だめだってば!」
 希はすぐに我に返った。どうして自分がこんなに抵抗しているのかわらかなくなりながらも、怜悧の腕から逃れようと動く。
 「キミが衝動に流されてるように見えるよ。そんなことで明日をおじゃんにしたくないでしょう?」
 「希に感じる気持ちは全部正しいんだ。いざとなれば式なんていくらでもやり直せばいいし」
 「…………」
 怜悧に感じる気持ちは全部正しい。だとしたら、流されてもいいのだろうか。流された方が楽だ。希だって、今彼を求めている。
 希はもう抵抗を放棄しかけたが、なぜか不意に、結婚式の準備の記憶が走馬灯のように蘇ってきた。
 「って、よくない!」
 希の理性は完全に戻ってきた。もう一度準備を一からするなんて、考えただけで気が遠くなりそうになる。
 「わたしが本当に大事なら、今は抑えなさい!」
 希はまた強く抗うが、怜悧は希を抱きこんで離さない。唇が希の全身を愛撫しようと動く。
 「別にしたからって寝坊さえしなければ大丈夫だ」
 「そーいう問題じゃない!」
 久しぶりに、希の手が出た。こみ上げてくる笑いに身をゆだねながら、希は怜悧の頭に自分の額を強く叩きつけた。
 「ってぇ!」
 「いったぁ〜」
 自分からぶつけておきながら、希も涙目になる。怜悧の片手は自分の頭に動き、希の身体がある程度自由になる。希もおでこを抑えながら、やっぱりずっと笑っていた。
 「まったくもう! キミはぜんっぜん、進歩ないね!」
 「希だって! なんでこんな日に抵抗するんだよ!」
 怜悧も、不満げな顔だったが、希に釣られたように急に吹き出した。
 「まったくな! 進歩ないな、おれたち!」
 笑いながら、怜悧は希をぎゅっと抱きしめてくる。希はベッドに押し倒されている体勢のまま、笑顔で恋人に抱きついた。
 「ほんと、そうだよ! 明日結婚するんだよ? 信じられない」
 「なんか、最近あわただしかったしな。おれもあんま実感ないかも」
 「なにそれ?」
 希はまた吹き出す。
 「わたしが信じられないのは、実感ありすぎて、キミの態度が信じられないんだよ?」
 「うーん、なんかどたばたしてたし。準備準備で、ゆっくり考える余裕なかったし」
 怜悧も笑顔だが、どこか子供っぽい照れたような顔だ。希は笑いを抑えきれなかった。
 希が怜悧に距離を感じていたのも、無理もなかったのかもしれない。人には考える時間を与えておきながら、自分は夢中になって自分のことすら見えていない。希はそんな怜悧が可愛く思えて、その頭を乱暴に撫でた。
 「怜悧らしいね、もうほんとに!」
 怜悧は少し拗ねるみたいに唇を尖らせる。
 「どーいう意味だよ?」
 「もう、ずっと大好きだっていう意味だよ!」
 キスをするとまた衝動的になりそうだったから、希は笑顔のまま彼の頭を強く抱きしめる。強く強く抱きしめる。怜悧は一瞬硬直したようだが、そのまま素直に、されるがままに希の胸に抱かれていた。
 「明日、キミはわたしのお婿さんなんだよ? わかってる?」
 「……希は、おれのお嫁さん?」
 「そうだよ。明日から、わたしはキミの奥さんで、キミはわたしの旦那さん。ちゃんと実感しなさい。嬉しいでしょ?」
 「う、嬉しいに決まってるだろ」
 「うん、実はわたしも嬉しい」
 「希!」
 希の手を振り切って、怜悧がそのまま希にキスをしてくる。
 希は笑いながらもまたかと思ったが、怜悧のキスは一度だけだった。キスをしたまま、希の身体を抱きこんで身体を回転させて上下入れ替わって、希を上に持ってくる。
 「っ!」
 次の瞬間、希は脇に手を入れられて、高く捧げあげられていた。
 「はは! 希はもうおれのものだからな!」
 怜悧は子供っぽい表情で、本当に嬉しそうに笑っていた。
 「こ、こら! だれがだれのなの!」
 手でとっさに怜悧の腕をつかみながら、希も空中で笑う。
 「希がおれの!」
 「わたしはものじゃないよ!」
 「いーんだ、それで! 希はもうおれのだ! 絶対に離さん!」
 「まだ明日までは違うからね!」
 「はは、明日がほんとに楽しみになってきたぞ!」
 怜悧が腕の力を緩める。希の身体が怜悧の胸に飛び込んだ。
 「怜悧だって明日にはわたしのなんだから!」
 希は一杯の笑顔でぎゅっと抱きつく。怜悧も希を抱きしめる。
 怜悧はそのまま、急に動きを止めた。
 真剣な声。
 「希、愛してる」
 希も、彼に身をゆだねたまま、動くのをやめる。
 心からの言葉。
 「わたしも、怜悧を愛してる」
 もう言葉はいらなかった。
 二人、静かによりそい、ただただお互いの存在を感じる。









 いつのまにか眠ってしまったらしい。
 朝、目覚めると、希は一人で自分の部屋のベッドの上だった。きちんと横になって、枕に頭を乗せて、しっかりと身体も毛布に包まれていた。
 希はすぐに、誰が毛布までかけてくれたのかしっかりと理解したが、恥ずかしいような幸せなような、そんな心境だった。結婚式前夜に熟睡する花嫁。彼のおかげだということがわかっているから、なんだかくすぐったい気持ちになる。
 希はすぐにお風呂に入りに行った。すっきり目が覚めてしまえば、この日は早手回しに動いて損はない。その途中で母親が起きだしてきて、浴室のガラス越しに朝の挨拶をする。
 怜悧はあの後、母親に挨拶をして十二時になる前に帰ったのだという。しかも父親も、娘婿がよりにもよって結婚式前夜にやってきていたことに気付いていたようで――あれだけ騒げば無理もないと希は思った――、帰り際に一悶着ありかけたようだ。母親が上手くまとめてくれたようだが、問題がないわけではないらしい。母は「少し、お父さんのご機嫌を取っておいた方がいいわよ」と、笑ってアドバイスをしてくれた。
 お風呂から上がると、できるだけ自然にと意識しつつ、誰かの妻ではない一人の娘として、希は両親との最後の朝食を取る。母親のアドバイスに従って父親には優しくしたが、父の涙腺はもうこの時から緩みっぱなしで、希は予定通り困ってしまった。
 その後は早め早めに動いたが、もうあっという間だった。早起きしたからといって、結婚式当日の花嫁にそれほど余裕があるわけではない。義母や義姉にも応援され、約束通り大学時代の親友たちも会いに来てくれて、白いレースのハンカチを借りて、誉められたり、面白がられたり、羨ましがられたり、からかわれたりもしつつ、時間が迫る。
 父親は娘の花嫁姿に感動しつつも、娘の友人たちの前なのに、この期に及んで「まだ遅くないぞ!」などとほざいていた。希は笑ってしまったが、この父は思いっきり本気だった。おかげでまた泣かせてしまったが、この時ばかりはそれも仕方がない。冗談めかすことなく、希はそっと父の手を取る。
 そして今。
 そんな父に連れられて、花嫁となって、バージンロードを歩いている――。
 何度も練習させられていたのに、父の動きはぎこちなかった。涙をこらえる様子が必死で、見ている方が気の毒になるくらいだ。式本番では緊張のあまり早足になる父親も多いというが、この父は逆で、身内から見れば「娘を嫁になんかやりたくない!」という露骨な態度に溢れている。
 が、客観的には、じれったいくらいのゆったりとした演出になっていたようで、教会は荘厳な雰囲気に包まれていた。父親の赤い目も、ムードを盛り上がらせはすれ、後はともかく、この場で笑うものもいない。
 そんな父親の横で花嫁も涙腺を緩ませていた……かというとそうでもなく、演出上少し俯きがちに歩きながら、ただ静かに感慨にふけっていた。
 花嫁としてバージンロードを歩く、「望」だった希。
 花婿としてその先で花嫁を待つ、「怜華」だった怜悧。
 望だった過去。「希」の記憶。それからの希。
 これまでの過去が、一つずつ、希の頭に浮かんでは消える。
 その記憶の中に、いつも相手の姿があるように思うのは、気のせいなのか、それとも希がそんな記憶ばかり思い起こしてしまうからなのか。
 過去は消えない。未来もわからない。
 今、希は、怜悧の花嫁として、ここにいる。
 そして怜悧は、希の花婿として、希を待ってくれている。
 希の夫になる怜悧と、怜悧の妻になる希。
 希が否定できない、否定するつもりもない現実――。
 希と彼との距離が、少しずつ縮まる。
 好きな人が、この先で希だけを待っている。
 怜悧は緊張して出迎えてくれるだろうか? 真剣なまじめな表情? それとも、嬉しそうな笑顔?
 どれもありそうだし、どれでもないかもしれない。
 希の胸の鼓動が、だんだんと高鳴る。
 彼と二人で選んだ、優しいウェディングマーチの音色に包まれながら。
 純白のドレスを身にまとって。
 希は父に連れられ、ゆっくりと彼の元へと歩いた――。








 Congratulations. 

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初稿 2004/03/31
更新 2014/09/15