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 夢の続き

  Taika Yamani. 

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 真夏の土曜日の午後、空席が目立たない程度に混んでいる電車の中で、その女性はショルダーバッグを肩にかけて、ドア際に一人佇んでいた。年齢は学生か、それよりも少し上くらいだろうか。小柄ながらも、少女というよりは大人を感じさせる女性。
 ストレートラインの、一見ジーンズに見える生地のスラックスに、胸元で鋭角を描く襟を持つ白いブラウス。その上から、シャツ感覚でさらりと着れるサマーカーディガン。ブラウスの隙間からはきれいな鎖骨が微かに顔をのぞかせているが、大きめの衿が色気よりも女性らしさを引き立てる。八月中旬のこの季節、冷房対策のカーディガンなのだろうか、そのボタンはすべてはずれていた。動くたびに揺れるカーディガンもまた自然な柔らかさを演出し、女性らしく整った身体のラインを美しく彩る。
 目立つというファッションではない、ありきたりな動きやすそうな格好。それでいながら、その女性には自然な存在感があった。腰までの長さがある艶やかな黒髪のせいでもあり、綺麗な容姿のせいでもあるかもしれない。だが何よりも、その雰囲気が人目をひきつける。
 凛然としていながらも、柔らかい落ち着いた空気。夕暮れに照らされるその表情からは内面は窺い知れないが、その自然な透明感もまた、彼女自身を形作る。
 やがて電車が駅に到着し、その女性は電車から降り立った。夏の暑さにか微かに眉をひそめつつ、そっと左手を持ち上げる。腕時計を確認する仕草。その薬指には、小粒の石がはめ込まれたシンプルなリングが、きらりと輝く。
 都心から少し離れたターミナル駅は、この時間、人は多くもなければ少なくもなかった。その女性はこの駅を充分見知っているのか、迷いのない動きで一方の改札に向かって歩く。決して早足でもないのに、姿勢がよすぎるせいか、躍動的な動きだった。
 すぐに電車が動き出して、風が女性の長い髪をかき乱す。女性は線路から離れながら、かきあげるようにして髪を押さえた。同性でも思わずドキッとするような、そんな自然な振る舞い。何気ない動作なのに、周りにいた何人かが横目で彼女を注目する。
 その女性は足を止めることなく、電車が走り去ると軽く頭を振るだけで、それ以上髪を気にすることはしなかった。自分に自信を持っているのか、髪なんてたいして気にしていないのか。女性の歩みに従って、長い髪が流れるように背中で揺れた。
 そのままカードで改札を抜けたその女性は、駅前にでて一方に向かう。都心から少し離れてはいるが、電車の乗り換えの要所だけあって、外はそれなりに賑やかだ。バスの運行も盛んで、タクシー乗り場も動きがある。
 少し駅から離れると路上駐車の群れにぶつかり、女性が向かったのはその中の一台だった。「実用性重視です!」と自己主張をしている小さな車で、その小回りの効きやすそうなボディは、都心部の住宅街などでは活躍することだろう。
 車の中では、居住性も高そうな運転席で、若い男が一人で本を読んでいた。ガードレールを回り込んで助手席側に立った女性は、コンコン、とドアのガラスを小さくノックする。いつのまにか彼女のその頬は緩み、澄んだ無表情さとはうってかわって、幼い表情になっていた。大人っぽさが消えたわけではないが、きれいというよりは、可愛いという表情。
 男は即座に本をダッシュボードに放り投げ、助手席に乗り出してドアを開けた。
 「早かったな」
 「そっちこそ。まだ来てないかと思った」
 女らしい口調とは微妙に言いずらい、少し子供っぽい物言い。女性は笑顔で、わざわざ男が開けてくれたドアから車に乗り込み、ゆっくりとドアを閉める。
 運転席の彼は、学生に見える女性よりは、少し年上だろうか。きれいな容姿のその女性と並んでも遜色のない容貌の男だが、その表情はどこか飄々としていた。嬉しそうに女性を見るその視線にも、軽く見えてしまう原因があるのかもしれない。女性はそんな男の瞳にちょっとだけ困ったような、照れたような顔をしつつ、そっと顔を寄せた。
 「ただいま、怜悧」
 唇と唇が、ゆっくりと重なる。男は満面の笑顔だ。
 「おかえり、希」
 此花希、二十六歳。
 彼と付き合い始めて、十回目の夏を迎えていた――。






  最終番外編 「六月の花嫁」 <前編>


 十月になると二十七歳になる此花希は、この春にやっと「研修」の二文字が取れた新人医師である。専門は小児科で、大学の友人たちは「よりにもよって小児科?」と天を仰いでいたが、外科や産婦人科を選んだ彼女たちも希に言わせれば五十歩百歩だ。
 「そもそも医者を選んだ時点で、職業の選択を間違ってるよね」
 大学時代など、半分冗談、半分本気で、皆そう言って笑っていた。
 希が選んだ小児科を取り巻く現状は厳しい。もともと総合的な判断を求められる上に、子供の容態は変化しやすい。急患も少なくなく忙しいし、最近は徐々に改善されつつあるとは言え医療報酬体系や少子化の問題からくる不採算の問題もある。多少単純に言ってしまうと、忙しく責任が大きい割に儲からないないために、なりたがる医師も少なく、そうなると数少ない小児科医に負担がかかり、その結果また悪循環的に小児科医が減り、もっともっと忙しくなってしまうというディープな状況だ。
 二十四時間急患を受け付ける市中病院では、四十八時間勤務という無茶な生活を強いられる医師もいるし、一人院長という病院が少なくない開業医も、責任感が強ければ強いほど夜間や休日の急患に備えてしまい気が休まる時間が少ない。
 一朝一夕に解決できる問題ではないだけに、難しい現状だった。
 研修を終えた希が勤めている病院は、都心から少し離れた郊外にある、五十代の医師夫妻が経営している個人病院だった。希も最初は、市中病院でもっともまれた方がいい経験になると考えていたが、色々な理由でその道は選ばなかった。大きな理由の一つは、彼女の恋人にあった。希には十代の頃から付き合っている恋人がいるのだが、希の生活が不規則だと、彼がうるさい。本当にうるさいのだ。
 不規則だけならまだしも、休みが潰れたり何日もろくに話もできなかったりすると、彼はすぐに不機嫌になる。実際六年間の大学時代の後半や、二年間の研修医時代はそんな生活で、何度か二人の関係にヒビが入りそうなケンカもしている。幸か不幸か二人の関係はケンカのたびに強くなってきたが、だからと言って彼のわがままがなくなるわけではない。
 そんな理由もあって、希も忙しい生活をできるだけ避ける道を選んだ。大学入学前から言っていたように「能力的には上を目指したいけど、経済的にはそんなにはいらないから、忙しすぎるのはイヤだな」というのを実践するためというのもある。彼には滅多に言わないが、希だって彼との時間が減るのは嬉しくないという気持ちもある。
 が、就職先を選ぶ際に、希は妥協はしなかった。もし今の勤務先が目の前に転がってこなければ、希はまだまだ忙しい道を選んだかもしれない。
 希が選んだその個人病院は、院長夫妻の名字を取ってシンプルに新見病院という。かつて大学病院に勤めていた新見夫妻が、結婚を機に開業し今に至る。院長の新見氏が小児科の専門医で、副院長の新見夫人は産婦人科の専門医だ。病院の診療科目はそれに加えて内科があるが、急患であれば怪我の治療なども診たりもする、地域密着型の小さな病院だった。
 希が新見夫妻を知ったのは大学時代に新見氏の講演を聞いた時で、個人的に知り合ったのは卒業後研修医になってからだ。希が研修医として勤めた大学病院が夫妻のかつての勤務先で、夫妻は時折そうやって学会以外でも論文を発表したり、若手の育成に協力したりしていたのだ。
 個人的に新見夫妻と話す機会があった希は、夫妻に好感を覚えたし、その能力にも素直な敬意を抱いた。新見夫妻の方も、二人いる子供は医師の道を選ばなかったらしく、熱心な希を気に入ってくれて、機会こそ多くなかったがプライベートでも何度か会う関係になった。
 最初はお互い、ただ医療論議を交わすだけの間柄だった。希は新見夫妻の病院を見学させてもらって、そんな個人病院のあり方に感心したりもしたが、まさか後年自分がそこに勤めることになるとは思ってもいなかった。だから、研修医二年目にその募集を見たとき、希はいくつもの意味で目を丸くした。
 新見夫妻は常々「地域密着型とか言ってたら儲からないのよね〜」などと、自分たちの貧困生活を冗談の種にしていたくらいだから、財政的にたくさんの余裕があるわけではない。また、忙しいとぼやいてはいたが、近くに大学病院があるせいもあってか、必要以上に忙しいわけでもなく二人で充分に回せているような気配だった――もちろんそれなりには蓄えもあるようだし、それ相当に忙しそうだったが。
 なのにこの募集。しかも、「薄給保証!」とか「若手で優秀な医師のみ歓迎!」とか「わがままな上司のしごきに耐えられる人材求む!」とか「美人の女医だとなおよし!」とか、微妙に不真面目だったり不穏当なこともちりばめてある。
 研修先の病院でその募集は紹介されたのだが、給与については本当に薄給で、その点からも友人や先輩医師たちは論外と笑っていた。希が同棲中の恋人にそれを相談してみた時、彼は「美人の女医」という部分に反応して、「スケベ親父が院長をやってる病院なんて論外だろ」などと不機嫌になって決め付けたものだ。希は笑って誤解を解いたが、いくつもの意味で気になる募集だった。
 それからしばらくは忙しく、新見夫妻と会う機会はないままに時は流れ、希から連絡をとったのは冬の始まりの季節。新見氏が「しゃれで募集したのにまさか反応があるとは思わんかったよ、はっはっは」などとのたまってくれたのは、希もさすがに反応に困った。が、すぐに奥さんが希の密かな推測を裏付けてくれた。
 自惚れと思ったが、その募集は自分を目当てにだされたのではないか? 希にそういう心理があったのだ。
 給与が本当に同年代の医師より厳しいという点があるために、親や恋人に財政的余裕がなければ、希ももっとためらったかもしれない。だが、その他の点は希にとって他に望むべくもないくらいいい条件だった。新見夫妻は、自分の技術を受け継がせる対象として希を見込んでくれていたのだ。そのうち希が病院を買い取って後を継いでくれればとまで思っていたようで、さすがにそれは保留したが、希は時間をかけて検討した結果、自分から頭を下げて内定をもらった。――ちなみに、夫妻はなしくずそうと未だに考えているらしい。
 その後、希は郊外のその町に引っ越して、小児科医として勤めつつ、院長夫妻に多くのものを学び、時には夫妻の紹介で大病院の手術に参加させてもらったりして経験を積む生活を送っていた。基本的に平日営業で祝祭日はお休み、土曜日はお昼までだが、病院という性質上勤務時間が延びることはしょっちゅうあるし、急に呼び出されることも少なくはない。
 だが、それなりに忙しいが、充実した毎日だった。やはり時間は時折不規則にもなるが、恋人と頻繁にケンカするほどではない。適度な忙しさや距離は恋人との関係にもプラスに働いているようで、離れている時間の分、お互いにお互いを思いやれる。
 新人医師の此花希は、今はそんな毎日だった。



 「怜悧もおかえり」
 「ああ、ただいま」
 二十六歳の八月の土曜日、駅前で待ちあわせしていた恋人の車に乗り込むと、希は彼とただいまとおかえりの挨拶をする。一度唇が離れた後、改めて顔を寄せてくる恋人のキスを希は甘んじて受けたが、おまけに身体を抱き込もうとしてくるのに気付いて、強く彼を押し戻した。
 「さ、車だして」
 「いいじゃん、もう少しくらい」
 「だめ。ほら、遅くなるよ」
 「ちぇっ」
 希がシートベルトをする横で、同い年の恋人、朝宮怜悧はすぐに車のキーをまわす。
 「腹減ってないか? まっすぐ向かっていい?」
 「うん、大丈夫」
 怜悧はバックを確認し、車を発進させる。
 「なに読んでたの?」
 希は何気なく、ダッシュボードに置かれていた一冊の本を手に取った。
 「……洋服の作り方?」
 「ああ、希のウェディングドレスをおれが作ろうと思って」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 希は静かに、ダッシュボードに本を戻した。
 「えっと、婚約破棄していい?」
 「あほー」
 怜悧のチョップが、希の脇腹に飛んでくる。希は助手席で、くすぐったくて笑顔のまま軽く身をひねった。
 「いったい何考えてるの、キミは」
 「いつだって希のことだけだぞ」
 「ありがと」
 二人が結婚を取り決めたのは先月、怜悧の二十七歳の誕生日だ。ジューンブライドに拘った怜悧が式を再来年の六月と決めたのはその日のことで、先日お互いの両親への挨拶も済ませ、今、希の左手の薬指にはエンゲージリングが輝いている。
 十月には二十七歳になる今、希はもう子供と呼べる年齢ではなくなっている。残念ながら希の身長は百五十センチに乗る前に止まってしまったが、十代の頃と比べると身体つきは大人っぽくなり、もう男装しても女を隠すことは難しい。
 小柄な身体のせいか未だに学生と間違われたりもするが、ばりっとスーツなど着ると年相当に大人びて、バリバリのキャリアウーマンにだって見える。それでいながら、一転、病院で子供を相手にする希は優しいお姉さんだった。少し強い意志のこもりすぎていた瞳も、時とともに柔らか味を増し、可愛いというよりも、美しいと呼ばれるそれになってきている。
 その分「冷たくなった時のキツさは威力を増している」と婚約者は言うが、それは怒らせるようなことをする彼が悪いのである。以前とまったく同じように振る舞っても、経験の差か、外見の年齢の差か、それともその両方のせいなのか。相変わらずの部分も少なくないが、歳月は少女を大人へと成長させていた。
 「で、冗談抜きでどういうつもり?」
 「いや、真剣におれが作ろうと思ってるんだけどな」
 「シンデレラって、灰かぶりっていう意味って知ってる?」
 「ん? なんだいきなり?」
 「現実には魔法使いなんていないから、灰塗れの格好でパーティに行くしかなくなるんだよ」
 「どういう意味だこら」
 車の運転中だから、怜悧は希にあれこれはできない。頭突きでもしたそうな顔で横目で睨まれながら、希はくすくす笑う。
 「裁縫なんて、全然してないでしょ?」
 「ああ、そういうことか、勘違いするなよ。デザインまでだ。後は作らせるから」
 「いや、デザインまでだとか言われても」
 「まあ、まだおれもできるかどうか自信はないけどな。とりあえずやってみて、できそうならやるって感じで、今は魔法の勉強中だ」
 「十二時になったら着れなくなる服なの?」
 「十二時になる前におれが脱がす」
 希の視線が冷たくなった。同時に、視線と裏腹に、頬が少し赤くなる。
 「実家に帰っていい?」
 「明日の夕方な。今日はおれの実家で我慢しとけ」
 「そういう意味で言ったんじゃない」
 「結婚式の夜だぞ。そういう日だろう」
 「……なにがそういう日なの」
 車の中なので、希も逃げ出すわけにはいかない。赤くなった顔をごまかすように、また本を手にとってぱらぱらとめくる。怜悧はそんな希の反応に面白そうに笑っていた。
 この年、希の恋人の朝宮怜悧も、七月に二十七歳になっている。彼は恋人の前では相変わらずだが、十代の頃と比べるとずいぶん落ち着きがでてきていた。現在、大学時代に作った小さな投資会社――財政基盤は大きいが人数は少数の会社――の経営者で、その業界ではかなり名が売れている。もともと家が資産家だし、本人も昔から資産運用を趣味にしていただけあって、その資金力とノウハウは同年代の者たちを大きく引き離す。この分野における怜悧は繊細で大胆で、大学卒業時には、怜悧が失敗した投資などないと噂されていた。
 ちなみに、希の知る限り、彼が失敗した投資もなくはない。ただ、そんな時はあきれるくらい引き際がよく、怜悧の本領は、進退の見極めのよさにあるのかもしれない。
 言うまでもない理由で二年留年した怜悧は、卒業後は自分が作った会社勤めを専業としたが、今ではスタッフも増えてかなり気ままな生活を送っていた。大学の研究室に残った友人たちや、自力で起業した友人たちと、いつ製品化できるかわからないような物や、量産なんかできない上に儲からないような物を作ることに夢中になったりしている。希としては、そんな一見無駄なようなことに夢中になっている怜悧のことは可愛く見えて、けっこう気に入っていたりする。単に惚れた贔屓目なのかもしれないが。
 もっとも、口傘のないものたちからは金持ちの道楽と貶されていたりもするから、世の中は単純ではない。逆にお金に媚びて資金援助を頼んでくるものも後を絶たないのだから、希は良くも悪くもお金の力を実感するだけだ。
 余談だが、希の就職先が決まって引っ越した際に、怜悧は会社の事務所も近距離に引っ越させるという荒業を使っていて、社員に嘆かれたのはまだ希の記憶に新しい。妥協の結果、希の勤務先の町と都心部の中間くらいの位置に収まっているが、希は後でぺこぺこ謝りに行ったものだ。
 この日はその怜悧の勤務先がある駅での待ち合わせで、これから怜悧の実家に向かう予定になっていた。先日怜悧の兄の長女、つまり怜悧の姪の誕生日で、数日遅れだがそのお祝いである。怜悧の実家まで数十分のドライブだ。
 「希は、自作ドレスを作ってみたいとか思わない?」
 「うん、思わない」
 「きっぱりだな」
 怜悧が笑いながら、また横目で希を見る。
 「じゃ、やっぱおれが作ってやるよ」
 「新郎の自作のドレスと言うのは、なんかイヤだ」
 「新郎がデザイナーならどうするんだ?」
 「キミはいつからデザイナーになったの?」
 「ま、そう言うだろうなとは思ったけどな。でもさ、お色直しも五回くらいするならどうだ? ならいろいろ着れるだろ? おれのドレスを着るのはちょっとでもいいし」
 「またその話? 一回で充分だよ」
 花嫁のお色直しは、一回二十分以上かかると見なくてはいけない。その間披露宴会場は主役抜きになるわけで、何度もそれをやりすぎてはせっかく来てくれたお客さんに少し失礼になると考える希だ。もちろんお色直しで楽しませるという考え方もあるのだろうが、それは希好みではない。単に面倒くさいからとか料理を食べる時間がなくなるから、などという理由もある。
 「でも考えたんだけどさ」
 「披露宴の時間をのばすとか言うつもりなら却下だよ」
 「…………」
 「…………」
 長い沈黙になった。希はいじけるふりをする怜悧の言葉を、笑いながら待つ。
 「……せっかくの結婚式なのに。一生に一度なのに。ずっと楽しみにしてたのに」
 「はいはい」
 「自作のドレスは夢だったのに」
 「それは絶対嘘だね」
 「…………」
 「…………」
 「う、嘘じゃないぞ」
 「見え見えすぎ」
 「う〜、希はお手製ドレスに憧れたりしないのか?」
 「遊びで着るのならいいけどね、大事な時に、デキが悪いとわかっているものを選ぶのは嫌だな」
 「デキが悪いかなんてわからないだろ」
 「んー、そうだね、じゃあ作りたいなら作るのは別に止めないよ」
 「え、いいのか?」
 「うん。式で着るかどうかは話が別なだけで」
 「…………」
 「…………」
 「うー」
 「あはは、時間はあるんだし、せいぜい頑張ってみるんだね」
 時間は本当にまだたくさんある。怜悧がジューンブライドに拘ったのはいいとしても、来年ではなく、再来年になっているからだ。もともと早く結婚したいといつも言っていたのは怜悧なのに、希としてはなぜ再来年なのかは謎だった。七月に日程を考えた時に「十一ヶ月では間に合わない!」と怜悧は言い張っていて、その言葉も、どこがどう間に合わないのか希にはさっぱりだった。
 「希はブライダルフェアも全然付き合ってくれないし!」「いいよ、遠慮なく一人でいってきて」「男だけでいけるわけないだろ!」などという会話が交わされたのもその時である。結婚式については、怜悧は色々やりたいことがあるらしい。希はむしろ簡単に済ませたかったのだが、泣き落としの構えまで見せられて匙を投げた。絶対譲りたくない点以外は、結婚式についてはもう半ばイエスマンと化している希だ。
 「まずは予定通り、式場を決めてドレスを試着させまくることからだな。明日も絶対試着だからな」
 させまくるってなんだ、と思いつつも、希は笑みを絶やさなかった。
 今夜は怜悧の実家で一泊し、明日の夜は希の実家に立ち寄る予定だが、明日の日中はブライダルフェアなるものを開催しているホテルに行くことになっている。結婚式や披露宴の開催例を見せてくれるイベンドで、結婚式プランの相談に乗ってくれたりもする上に、最近は疑似体験をさせてくれるところも少なくない。基本的には一月から二月、七月から八月のオフシーズンの休日に開催している所が多いから、この時期を外すと機会は減る。
 まだ二年近く先なのに、と希は思っているが、「六月に式なら一年前に予約を入れないと遅いくらいなんだからな(人気の場所でやるつもりならの話だけど)」と説得されて、やれやれと同意していた。怜悧の心の声は聞こえないし、「式場だけ先に決めておけば後は希がやることは少ないよ」という怜悧の言葉に騙されているのであった。
 この先結婚式の一月前まで、休日のたびに式場めぐりに付き合わされ、ドレスの試着に連れまわされ、ヘアメイクや小物選びに引っ張りまわされる運命にあるのを、この時の希はまだ知らない。
 「約束だから付き合うけど、ドレス選びなんて本当に半年前で充分だと思うんだけどなぁ」
 「作らせるんだし、こういうのは早め早めに、だ。ドレスなんて、とりあえず着てみないとどういうのが似合うかわからんしな」
 「そうなんだろうけど、なかなか面倒くさそうだよね」
 「おれは羨ましいぞ。男なんて選択の余地は少ないし、どうせ女のドレスに合わせる形になっちゃうんだからな」
 「別にキミにあわせてもいいけど?」
 「だめだそんなの。おれが着飾っても嬉しくも何ともないだろ」
 「わたしはキミがかっこいいと嬉しいよ」
 にっこり笑って、希は運転中の彼の太ももを、そっと撫でる。怜悧は身体を震わせた。
 「お、おれも希がキレイで可愛いと嬉しい」
 「ありがと。でも怜悧はどんな服でもかっこいいよね。わたしは幸せだね」
 「……おれが身動きできないと思って、好き勝手言ってるな」
 「あはは、ばれた?」
 「ホテル連れ込むぞ」
 「遅くなるとお義母様たちに泣かれるよ?」
 「…………」
 「こら、真剣に悩むな」
 希はくすくす笑う。
 「とにかく! ドレスはちゃんとおれが選んでやるからな!」
 「キミと一緒だとすごく時間かかりそうだからなぁ。本当に、最後の選択だけ手伝ってもらうとかが嬉しいんだけど」
 「ダメに決まってる。なんで一番の楽しみを奪われないといけないんだ」
 「一番の楽しみって……」
 「ジューンブライドとウェディングドレスは本当に夢だったからな。これはマジで譲れない」
 「……やれやれ。わたしの意見もちゃんと尊重してよね?」
 「ああ、それは大丈夫だよ。希が笑ってくれないドレスなんて選ばない」
 「……ありがと」
 また、希は怜悧の足をそっと撫でる。怜悧は片手をハンドルから離して、希の手に自分の手を重ねてきた。
 二人、少し長く、口を閉ざす。
 黙っていても、不快ではない、むしろ幸せな時間。ただお互いに少し触れているだけで、優しくなれる時間。
 やがて、車の運転にあわせて、怜悧の手が外れる。希も手を戻して、話も一緒に戻した。
 「でも、貸し切りでもないと、男は試着室には入れないと思うよ? それでもついてくるの?」
 大学時代の友人の一人がすでに既婚で、希はその付き添いでドレスショップに行ったことがある。いろいろ勉強になったし興味深かったが、そこで見た光景はなかなかにシュールだった。
 試着をしては試着室の外にいる未来の旦那さんに意見を求める女性も少なくなく、それはそれで微笑ましい一幕なのだが、当然のごとく花嫁のドレス選びは時間がかかる上に、着替えなおすのも服の構造上すぐには終わらない。となると未来の新郎は待たされるわけで、休日で混んでいた事もあって、暇そうな未来の花婿がたくさんぼけーとしていた。
 あの光景は、悪いと思ったが、希は友人と一緒に後で笑ってしまったものだ。
 「もちろん貸し切るさ」
 「また傍迷惑なことを」
 「んー、でも、あっちこっちの店に行ってみたいからなぁ。その辺も含めて、そろそろ真剣に考えないとな」
 「だからまだ早いと思うんだけど」
 「もう二十二ヶ月前だろ」
 「二十二は早すぎだって、どう考えても」
 怜悧は「結婚スケジュールノート」なるものを自作している。希も一通り調べてて色々な準備のタイムリミットは把握しているつもりだが、怜悧の単位は希の単位となぜか大きく食い違っている。時々遠い目をしたくなる希だ。
 「いいんだよ! とにかく何事も早め早めだ」
 「わたし太っていい?」
 「ある程度までならいいぞ。とりあえずデザインに生地さえ決まってれば、三ヶ月前までは作らせるのも余裕だし、その後も微調整は効くからな。あ、さすがに中に子供が入ってると根本的な問題が生じるから気をつけろよ」
 「…………」
 「妊婦だと、ウエストがむちゃできないから、ドレスに制限がかかるからな。エンパイアラインが好みというなら話は別だけど」
 エンパイアラインは、ハイウエストでスカートが直線的なシルエットのラインだ。胸のアンダーあたりで絞り、そのまま裾までまっすぐにラインを描く。
 希は一つため息をついて、子供うんぬんについては突っ込まないことにした。
 「まったくもう、エンパイアラインって、妊婦向けなんだっけ? 妊婦ならAラインかプリンセスラインじゃない? ベルラインとか」
 Aラインは、上半身を小さく裾に行くにしたがって自然なラインで広がっていくアルファベットのA字型のシルエットだ。縦のラインがシンプルに強調され、適度なボリュームもあって着る人の体型を選ばない。縦のラインの効果で背が高く見えるというおまけもある。
 「そうか? ベルとかプリンセスって、ウェスト絞りすぎじゃないか?」
 「マタニティドレスなら、ハイウエストにしちゃうんだと思うよ」
 「ふむ。背が高いと似合いそうだな」
 「ベルラインとかプリンセスラインは、だれでも似合うけどね、もともと」
 プリンセスラインは、上半身はフィットして腰から裾にかけてはフレア状に広がるシルエットのラインで、ベルラインは、文字通りベルのように、腰から裾にかけてスカートがふわっと広がったシルエットだ。Aライン同様、ベルラインとプリンセスラインは、比較的体型を選ばないシルエットと言われている。
 「まあ、チビだとマーメードラインとかスレンダーラインは似合わんっていうもんな、たしかに」
 「……もしかして、わたしに言ってる?」
 「聞き流せ。希はでるとこはでててバランスはいいけど、身長にあわせて全部一回り小さいからな。今のうちにハイヒールに慣れとかないとな? 式でこけると笑えるぞ」
 「式でキミの足を引っかけていい?」
 「あはは。体型はドレス選びでは重要な要素だからな。いやでもちゃんと認めとけ」
 「……別に今の自分がいやなわけじゃないけどね。キミの言い方が全然嬉しくないだけで」
 「美人で可愛いもんな、おれの希は」
 「だれがだれのなの」
 「素直じゃないなぁ」
 「余計なお世話」
 二人、軽口を叩き合って笑いあう。
 「希なら、基本的な狙いめはやっぱAラインかベルラインかプリンセスラインかな? おれとしては一押しはプリンセスラインだが」
 「エンパイアラインも、小柄でも似合うっていうよ。キュートに大人っぽく攻めればいいみたいだし」
 「微妙に矛盾する組み合わせじゃないか? それ」
 「もともとエンパイアラインが大人っぽいからね、小柄な身体の可愛さと上手くバランスをとるってことじゃないのかな」
 「なるほど。ちなみに、それは暗に自分をキュートだと言っているのか?」
 「いろいろな意味で、殴っていいい?」
 「こらこら」
 「あくまでも一般論として、小柄なのは可愛く見えるものでしょ」
 「人によるけどな」
 「ちなみに、それは暗にわたしをキュートじゃないと言っているの?」
 「はは、んなわけないだろ。希はミニもまだまだ充分似合うくらい可愛い」
 「それも嬉しくないなぁ」
 「いいじゃん、若く見えるんだから」
 「まだ年相当に見える方が嬉しいよ。病院でも、お客さんに未だに驚かれるからね」
 希は小児科医だから患者は基本的に子供だが、問題はその親だ。希の一見学生にも見える容姿は子供には有利に働いているようだが、その親には本当に驚かれることが多い。年齢が近い分すぐに打ち解けてくれるお母さんもいるが、逆に希の若さに不安を覚える人もいる。副院長の新見夫人には「実力さえ伴えば時間が解決しますよ」と楽観的に慰められて、前向きに捉えるようにしているが、希はこれは病院にマイナスではと思うことも少なくない。
 「いいよなぁ、ウチのまわりのガキどもは」
 「また言うし」
 「こんなに可愛くてきれいな先生がいるなら、おれは一生病気でいいぞ」
 「キミは頭の病気でしょう」
 「ん、草津の湯でも治らないような病気なら、もうとっくに希が治してくれてるが」
 「一生言ってなさい」
 「はは、でも、冗談抜きでミニもいいかもな?」
 「小柄な人がミニのドレスを着ると、子供っぽくなって花嫁らしくないって言うよ」
 「なるほど」
 「それに、自分のフォーマルな結婚式でミニのウェディングドレスを着る人、さすがに少ないんじゃない?」
 「いや、そうでもないだろ。そうだな、お色直しで着せてみたいな。やっぱりお色直しもっとしないか?」
 「当日に失踪していい?」
 「はは、今のうちに堪能しておかないと、年取ったらむちゃはできなくなるぞ?」
 「そういう無茶はしなくていいです」
 「もったいないなぁ。おれが希ならもっともっと着飾るのに」
 「たまに着飾るから可愛いって言ってくれるくせに」
 「それはそれで本音だけどな。希はギャップがずるい」
 「それがわたしの自然体だからね」
 「おれだけが知る希だな」
 「……勝手に言ってなさい」
 希はそっけない言葉をだしているようでいて、その頬は少し赤くなっていた。怜悧は楽しげに笑っている。
 「でも、なんだかんだでしっかり調べてるんだな。いつの間にって感じだ」
 「自分のことだからね。だれかさんに任せておくと、どうなるかわかったものじゃないし」
 「それだけか?」
 「それだけだよ。わたしはもともと、結婚に思い入れは少ないから」
 「おれは思い入れ強いぞ」
 「やれやれ。逆だよね、わたしたち」
 「……そうだな」
 怜悧の表情が、少し過去を振り返るそれになる。
 数秒、なんとなく、二人沈黙。
 希も恋人と同じことを考えた後に、優しく微笑んだ。
 「二人でやるんだから、準備も当日もその後も、一緒に楽しめればいいよね」
 怜悧も、すぐにいつも通りの態度で、嬉しそうに笑った。
 「そうだな。準備を手伝ってくれない男が多いらしいから、ちゃんと手伝う彼氏で希は喜ぶべきだな」
 「今はそうでもないみたいだよ。逆に女の好きにさせてくれない男も多くて、うざい! という意見もあるみたいだし」
 「おいこら、ここは素直に同意すべきとこだろう?」
 「どちらかというと、キミが喜ぶべきなんじゃない? わたしがキミのわがままに付き合ってあげるんだから」
 「じゃあ、お色直し五回!」
 希は笑い出した。
 「さて、ここどのへん?」
 「わがままに付き合えー」
 「あはは。わたしのこともちゃんと考えてね」
 「希もおれのこと考えてくれるのか?」
 「この件でわたしが譲ってるものは多いと思うよ。明日だって付き合ってあげるんだし」
 「ブライダルフェアに付き合うのなんて当たり前だろ」
 「二十二ヶ月前というのはさすがにどうかと思うんだけど」
 「希が忙しすぎるのが悪いんだ。暇があったらもっと早く行ってみたかったのに」
 「まあ、それは、三月まではあんまりかまってあげられなかったね」
 「そーだそーだ。大学では女だけで遊びまわってたし」
 「待った、大学ではちゃんとかまってあげてたよ」
 「全然足りない!」
 怜悧があーだこーだ愚痴を飛ばす。
 時間と心に余裕がない時のこれは、かなり希も苛立たしくなるのだが、余裕があるときは笑って聞き流せる。怜悧も怜悧で、この日は不機嫌ではないから、半分は単にわがままを言って希に甘えているだけでしかない。ドライブも終わりにさしかかったこともあって、希は笑いながら、素直に彼を甘えさせてあげることにする。
 希は彼氏と仲良く、将来の義理の家族に会いに行った。





 to be concluded... 

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初稿 2004/03/31
更新 2008/02/29