夢の続き
Taika Yamani.
番外編その3<下> 「シリアスムードとオトモダチ」
その月曜日、前日とうってかわったような大雨の天気だった。
水が激しく地面を叩き、一足早い梅雨のような湿気が大気を支配している。まだ暑くないのがせめてもの救いだが、それでもすごしやすいとは言えない。歩いてきただけで靴下までぐっしょりになった此花希は、教室に着くなり靴下も上履きも脱いで、素足で自分の席に座っていた。
教室の後ろには、幾人もの生徒の靴下やらタオルやらが干されているという、なかなかにシュールな光景が広がっている。希が「かえの靴下も持ってくればよかった」と思ったのは、一時間目の休み時間に、わざとらしく通りかかった同級生の朝宮怜悧に笑われたからだ。
「むか」
半年ほど前の約束を守って、怜悧は自分からは話しかけてこない。五月の席替えで希の席は中央付近で、怜悧の席は窓側の前の方。希はこの日は朝に挨拶で話しかけていたから、もう今日は二度と話しかけてやるもんかと心に決めた。
怜悧はだんだんといらだたしそうに希の席の近くをうろうろしたが、希の態度が動かないと知ると、わざとらしく落ち込んだ顔で自分の席に戻っていった。
ちくり、と罪悪感がこみ上げてくるあたり、もう負けてるのかなぁと希は思うのだが、甘い顔はしてあげないのである。いつものごとく、読書をしてその休み時間は過ごした。
闖入者の来襲は三時間目の休み時間だった。
希がトイレに行って戻ってくると、一年生らしい二人の女子生徒が、希のクラスを覗き込んで、男子となにやら話し込んでいる。
「あ、きたきた。戻ってきたよ」
男子の一人が希に気付いて、標準以上に可愛い下級生二人に笑いかける。その二人はばっとふりむき、それから一人はどこか泣きそうに、一人はまっすぐに希を見つめてきた。
希は「素足に上履きって気持ち悪いな」などと思いながら、無言ですれ違おうとする。
「あ、此花さん、一年の子が探してたよ」
「そこの二人だよ」
「…………」
余計なことを、と一瞬思うが、必要以上にそっけなくする理由もない。希は足を止めて二人を見た。
ボーイッシュな子は斑鳩渚。清楚そうな子は一ノ瀬蛍。二人とも同じくらいの身長で、渚が少しだけ高いようだが、百五十五前後あるだろう。まだ百四十六センチほどの希とは十センチ近い差があり、希の視線はちょっとだけ上を向いていた。
「こんにちは、渚、蛍。二年の教室まで、何の用?」
「あ、あの、き、昨日はデートのお邪魔をしてごめんなさいでした!」
いきなり、渚が九十度以上腰を曲げた。蛍もその横で同じように頭を下げる。教室がざわめいた。
「此花さんがデート?」「だれとだ? 朝宮か?」「まーな。おれ以外いるわけないだろ」「むか、あの女」「怜悧くん……」「朝宮、羨ましいぞ!」
なにやらよからぬ方向に、教室では話題が発展しているようだ。希は「これはいやがらせなのだろーか」と思って、内心嘆息した。
「いいよ、もう終わったことだし。用件はそれだけ?」
「あ、あの、ボクたち、おじゃまをするつもりはなかったんです……。先輩にかまって欲しくて……」
コクン、と首を縦に振る蛍。
「だからもういいってば。それだけなら行くね」
「待ってください!」
「ノゾム先輩!」
「…………」
身を翻した希は、言葉で不意をつかれた。かわしきれずに、片手を二人につかまれていた。
渚はまだ泣きそうに、蛍はひたすらまっすぐに、希を見る。希はすぐにとっさに教室内をみまわした。
「…………」
教室内はざわついているが、特別驚いている様子の人間はない。ただ怜悧の視線だけが鋭かった。距離があるのだが、聞こえたのだろうか。蛍の「望先輩」という声が。
希と下級生二人の間にシリアスなムードが漂う。だがそれは一瞬だった。
「あの、希先輩、ボクたちとお友達になってくれせんか……!?」
オトモダチ。
「…………」
希は思わずまじまじと渚を見上げた。
「…………」
「…………」
「…………」
渚は視線に耐え切れずに、もう本当に泣きそうに俯く。蛍の表情が笑いをこらえるものになった。
「できれば、わたくしからもお願いしますわ。もしよろしければ、今日、お昼などご一緒にいかがでしょうか?」
希は蛍のことを、口数が少なく大人しいタイプと思っていたが、怜悧が言っていたように違うのだろうか。前日の清楚さはそのままに、蛍の視線に強い意志がこもる。渚はまだ泣きそうだ。
「…………」
不意に、本当に唐突に、希はもう笑うしかないという気分になってきた。
同性の付き合いというのが、希になってからほとんどない。この二人はどうやら希に好意を抱いてくれているし、付き合うのも面白いかもしれない。それになによりも、蛍の発言が単なる言い間違いでなければ、それは「そういう意味」を持つ。
「いいよ。じゃ、昼になったら学食においで。一緒に食べよう」
「は、はい!」
「ありがとうございます!」
「ほら、そろそろ二人とも戻りなさい。時間になるよ」
「あ、あう、は、はい」
「お名残惜しいですわ……」
一時間後にまた会う約束をしたのに、渚など今にも別の意味で泣きそうな風情だ。「こういう妹もいたら面白かったのかな」などと思いつつ、希はまた後でねと言って身を翻した。
教室に戻ると、みなの視線。怜悧の睨むような視線は、これは嫉妬しているのかもしれないし、さっきの蛍の言動のせいかもしれない。男子の何人かが、一年の二人とどういう知り合いなのか気になったようで、その質問が飛んでくるが、希は「昨日ちょっと知り合っただけだよ」とだけ応えて、自分の席へ。
椅子に座ると靴を脱ぎ捨てて、また足をぶらぶら。そのまま本を取り出すと、みな色々訊きたがっているようだが、もう声をかけてくるものはいない。友達と言える友達がいないこの状況がいいのか悪いのか、正直微妙だが、少なくとも嫌ではなかった。希はまた読書をして残りの時間を過ごした。
昼休み、希は怜悧を学食に誘った。
「さっきの二人は何だって?」
「オトモダチになって欲しいって」
「……女ともあんま仲良くすんなよ」
「またそれですか」
「望って聞こえたぞ」
「…………」
しっかりと聞いていたらしい。希は笑みのまま、少しだけ真顔になる。
「言い間違いでなければ、そういう意味なんだろうね。ケイなら、昨日の会話で充分気付けたかもしれないし」
「ケイ」というのは一ノ瀬蛍の、「望」の世界での名前だ。蛍と書いてケイ。男の子だった「ケイ」は「望」の道場の後輩で、「望」ともそれなりに親しかった。
「斑鳩もか?」
「んー、渚はその気配はなかったと思うけど、どうだろうね。昨日きつくしすぎたみたいで、ほとんどあの子泣きそうだったし」
「泣かせとけ」
「あはは。ひどいね」
「斑鳩って、たしかあっちでも渚って名前だったよな」
「名前までは知らないよ。名字の心当たりはあるけど」
斑鳩という名字は珍しいから、それだけでもめぼしはつく。「望」も初等部からの後輩として何度か話したことがある少年で、男の子としては小柄で可愛く大人しいタイプだった。ただ、粗野な「ケイ」ともそんなに親しくはなかったはずで、「望」たちとの接点も薄かった。
「でも、大人しい子じゃなかった? もともとあっちの渚はろくに知らないけど」
「一部の女子には受けてたみたいだぞ。男にしちゃなよなよしてて女におもちゃにされてたからな」
「…………」
男の子の「ナギサ」が女子にどう扱われていたのか想像して、希はちょっとだけ同情した。
「ほんとにあれが渚かな?」
「だと思うぞ、なんとなく顔似てるし」
「だとしたら、こっちと性格が違いすぎない?」
「一ノ瀬も向こうとはずいぶん違うよな」
「うん、でも、ケイはなんだかんだでけっこうしたたかだからね。家も厳しいはずだし、演技かも」
「斑鳩も演技かもよ?」
「ありうるけど、元の大人しさのカケラもないような気がする。いくら記憶があっても、そこまでやれるかな?」
「ふむ。わがままで口も悪いからな、こっちでは」
「キミは嫌われてたよね」
「おれもあいつは嫌いになることに決めた」
「あはは。前からああなの?」
「いや、前はうるさいなりにおれへの態度は普通だったぞ。おまえを気に入ったせいだろ、彼氏のおれに絡んでくるのは」
「誤解なのにね」
「どこが誤解だ」
廊下を歩きながらそんな会話を交わし、とりあえず成り行きに任せるという方針で、この後の昼食にのぞむことにする。学食につくと、下級生コンビは既にいて、テーブルを確保していた。希の姿を見て、渚がぶんぶんと手を振る。希には笑顔を、怜悧には一睨みをくれるのだから、その差は露骨だ。
「殴りたい」
「こらこら」
どうやら下級生コンビはお弁当らしい。その二人にはとりあえず笑顔と頷きで返事をしておいて、希は怜悧と二人、ランチを注文。希はいつもどおり、小食の女子に人気の日替わりサラダ定食を頼む。今日の怜悧は大盛りのマーボ丼だった。
「お待たせ」
「おっす」
「全然待ってないです!」
「ご無沙汰していますわ、朝宮先輩」
「昨日会ったけどな」
「挨拶もろくにできませんでしたので」
「ボク、こんな男に挨拶はいらないと思う」
「渚、怒るよ」
怜悧が口を開くより早く、希が牽制。しゅんとなる渚と実に嬉しそうな怜悧が対照的だ。蛍はそんな二人とはお構いなしに、希に熱い視線を送ってくる。
「とりあえず、希先輩も、まずはめしあがりませんか?」
「うん、そうだね」
「いただきま〜す」
気を取り直したのか、渚も元気よくそう言ってお箸を振りあげた。蛍はお上品に手を合わせてから、希もいただきますを言ってサラダに手をつける。怜悧もすぐにご飯をかきこんだ。
「希先輩はいつも学食なんですか?」
「うん。楽だから」
「おれの分と一緒に作ってくればいいのに」
「また気がむいたら作ってあげるよ」
「いつも作れ」
「イヤです」
くすくすと希は笑う。怜悧もなんだかんだで楽しそうだ。渚はそんな二人に、ちょっとむすーっとなる。少し嫉妬しているような口調で、やんわりと口火を切ったのは蛍だ。
「ずいぶんと、お二人、仲がよろしいのですね。昨年の後半までは、お付き合いがなかったという噂ですし、あちらでも此花先輩は朝宮先輩を敬遠していらしたはずですのに」
ずいぶん遠まわしな、蛍の発言。渚が、ここでずばり切り込んでくる。
「そーですよー。朝宮先輩みたいな人、望先輩には似合わなかったのに。希先輩に朝宮先輩も全然似合ってないですっ」
「やっぱ殴っていい?」
「む〜!」
「ケイだと思うと、蛍の口調は気持ち悪いね」
「あのワルガキが、猫被ってるんだろ、どうせ」
「先輩方、その言い方はあんまりだと思いますわ。わたくしとしては、むしろ朝宮先輩の言葉遣いの方に驚きなのですが」
数瞬、みなの視線が絡み合う。それがわかっているのかいないのか、渚は一人ぷんすかする。
「ほんとだよ! 朝宮先輩と思えないくらい口悪いぞっ! 朝宮先輩も悪かったけど、今はもっと悪いっ!」
「斑鳩はあっちでは大人しい奴だったはずなのに、うるさくなってるよな」
「かわってないのはわたしだけだね」
一人いい子ぶる希。即座に三方向から反撃がきた。
「一番可愛くなっているのは希先輩です!」
「おまえは自覚が足りない」
「あの先輩だなんて、その外見からは想像もつかないですわ」
「見た目の話じゃないよ。見た目ならキミたちも全然違うからね。蛍も渚も可愛い」
渚が顔を赤くした。蛍は心から嬉しそうに微笑む。
「希先輩には負けますわ。うらやましいくらいお美しくて愛らしいですもの」
「そうだ。こいつらより希が絶対可愛い」
「しゃくだけど、オマエは希先輩を見る目だけは確かだな!」
「おまえよりは遥かにな」
「渚は、むこうでもわたしたちのこと知ってたの?」
「え、あ、その、望先輩達は有名でしたから……。ボク、ずっと憧れてたんです……」
「だからと言って、初対面同然でこんな馴れ馴れしくされる筋合いはないと思うが」
「ボクは希先輩と話してるんだ! オマエは黙ってろ!」
「……やっぱ性格悪いな、おまえ」
「そっちこそ! 朝宮先輩も朝宮先輩ももっとお上品だったぞ!」
最初の朝宮先輩は「怜華」で、二度目のそれは「怜悧」のことなのだろうか。渚の発言は微妙にわかりづらかった。
「それは気のせいだね。怜華も本性はこうだから」
「……希、おまえねー」
「む〜、どうしてこんなやつがいいんですか?」
「本当ですわ。希先輩に殿方は似合わないですのに」
「恋は魔物と言うやつだな」
「自分で言うな」
魔物にとり憑かれなければキミを好きになっちゃいけないのか?
そう思って、希はちょっと赤面した。
「あちらではいつかこうなるだろう、とは思っていましたが、こちらでこういう形の光景を見ることになるとは、思ってもいませんでしたわ」
「ボク、想像できてたら逆に怖いと思うぞっ」
「でも、蛍がケイなら、昨日は別に手助けする必要はなかったわけだね」
赤面をごまかすために、希は少し唐突に話題を変えた。あんなに急に懐いてきた理由も、これで納得できる。希が「望」の心をもっていると最初は気付いていなかったとしても、根っこは同一人物のはずという思いがあったのかもしれない。にしても渚のあれはやりすぎだとも希は思うが。
「えっと、そうなりますわね。申し訳ありません……」
蛍が、しゅん、と落ち込む。
「いや、勝手に手をだしてお説教したのはこっちだしね。謝らなくていいよ。わたしがかなり滑稽なだけだから」
「そ、そんなことないです! すごく嬉しかったです! だいたい、蛍は、いつもぎりぎりまでぶりっこだから!」
「あら、渚。ぶりっこではありませんわ。わたくし、これで自然体ですもの」
「嘘つき! 昨日はわざとナンパされて遊んでたくせに」
「おかげで希先輩とお知り合いになれたでしょう?」
「それとこれとは話は別! 蛍は陰険だ!」
「あのクソガキがそう簡単に変わるわけないよな」
「あら、失礼ですわね。朝宮先輩こそ、まだ本性を隠していらっしゃるのではなくて?」
類は友を知るのだろうか。蛍はにこりと微笑むが、その瞳は意味深だ。怜悧は怯むことなく、ニヤニヤと笑った。
「まあな。それを見せるのは希だけだけどな」
「でも、やっぱり、先輩たちもそうだったんですねっ」
ぐす、と、感極まったのか、いきなり笑顔のまま泣きだしそうになる渚。男ならぐっとくる姿だが、この場の唯一の男であるはずの怜悧は冷淡だった。
「男ならそう簡単に泣くな」
「お、オマエに言われたくないぞ! だいたいボクは女の子だ!」
「ほー、なまいきじゃん。前は女子に泣かされてたくせに」
「い、今はそんなことない!」
「わたくし、昨日は本当に驚きましたわ。さっきまで、半信半疑でしたのよ」
「二人はいつからこうなの?」
一瞬だけ顔を見合わせる蛍と渚。応えたのは蛍だった。
「わたくしたちは同じ日でした。去年の十月ですわ」
蛍の言葉に、渚が日付も付け加える。
「朝起きてたらこうなってたんです」
今度は希と怜悧が顔を見合わせる番だ。
「同じだな」
「だね。わたしたちもその日だよ」
「ボク、最初、なにが現実かわかりませんでした。蛍に気付いてもらえるまでは、もうむちゃくちゃでした。記憶もごちゃごちゃだし」
「わたくしも、最初はただの夢だと思っていましたわ。自分が男になった夢を見たのだと」
「え?」
「こっちを夢と思ったわけじゃないのか?」
「はい。わたくしの場合は、あちらの方が夢かと」
再び、希と怜悧はちょっと顔を見合わせた。微妙に、希や怜悧とは考えていることが違うらしい。性格によるのか、それとも他の要因なのか。
「ボクは、どっちがどっちかぐちゃぐちゃでした。今は、あっちを夢と思ってます」
こちらが夢なのではなく、あちらが夢。
「……だったら楽なんだろうけどね」
こちらに馴染んでしまった今となっては、そう思う方がむしろ自然なのかもしれない。が、それでも希にとっては「希」の十六年の方がやはり「客観的記憶」だった。「望」の十六年は、夢というにはあまりにも確実に「主観的記憶」として根付いている。
「単に夢というには、あまりにも現実的ですものね。夢では済まされない知識も多いですし」
「でも、そうならおまえら、もっと早くに会いにこいよな。もう何ヶ月たったと思ってるんだ」
「そんなことおっしゃられても」
「そーだそーだ。ボクたちだって戸惑ったし、まさか先輩たちまでだなんて思うわけないだろ」
「これまで他の人に会ったことは?」
「先輩たちが初めてですわ。それとなく匂わせても気付く人は誰一人」
「ボクのことも、蛍が気付いたんだ。ボク、前は、ちょっと暴れん坊で」
照れる渚。もとが男とは思えないほど、そのはにかむ姿は可愛らしい。
「なるほど」
なんとなく怜悧と希、二人して笑ってしまう。女の子の「渚」は今よりもっとおてんばで、今の渚はその影響を強く受けているのだろう。むしろ、男の子の「ナギサ」に、こうなりたいという願望があったのかもしれない。
基本的に夢の中の体験は、記憶としてしっかりと根付いている。希の感覚的には、元の性格のまま、異性としての人生を追体験したような感じだろうか。希は女としての十六年分の経験を、ひたすら客観的に眺めつづけたが、これを必要以上に感情移入して眺めれば、かなり影響を受けても不思議ではない。
蛍の「あちらの方が夢かと」思ってたという発言も、それを指しているのだろう。年齢が幼く自己が完成していなければいないほど、影響は受けやすいのかもしれない。
「蛍は前からこの性格なんです。でも、あの後もこのままで、ずるいんです」
「わたくし、夢に人格まで影響を受けるほど弱くはありませんから」
「…………」
この発言は希をまた少し考え込ませた。
「こら蛍、コイツはともかく、希先輩が弱いわけないだろ」
「本気でケンカ売ってんのか、おまえは」
「……二人は、このままずっとこうならどうするの?」
「わたくしは特に不自由はしていませんわ。むしろあちらの記憶があるのは有利だと思っています」
「ボクも、もう慣れちゃいましたし、あんまり気にしてません。先輩たちはどうですか?」
「おれも同じかな。いや、おれはもうこっちがいいな」
「こっちがいい、とおっしゃいますと? ああ、今のままでいい、ということですわね?」
「女に戻れなくてもいいってことだ」
「わたしも、そうかな。徒に希望をもちたくもないしね」
「…………」
「…………」
なぜか、渚と蛍が、一瞬押し黙った。二人顔を見合わせる。
「女に戻る? 夢を見る前に戻るのじゃなくて?」
「……なにか根本的に、もしかして話がかみ合っていないのでしょうか?」
「…………」
「…………」
つられたように、希と怜悧も顔を見合わせる。希は視線を戻し、ゆっくりと確認をした。
「基本的には、あちら側の自分の意識が、今の身体に何らかの原因で入ってしまったと、わたしたちは想像してる。キミたちはどう思ってるの?」
「え、え、え?」
「……えっと、おっしゃられている意味はよくわかりませんが、わたくしたちは、単に同じ特殊な夢を見ただけと思っていました。あちら側の記憶を持っているだけだと」
「う、うん。変な夢を覚えてて、ボクの場合は意識にまで影響を受けすぎちゃっただけで。そうじゃないんですか?」
「…………」
「…………」
そうじゃないんですか、と問われても、答えようがない。四人、視線を交わしあう。
「希先輩のことはわからないですけど、朝宮先輩の態度が悪くなったのは、ボクと同じなんですよね? 両方がまざってるんですよね?」
「んなわけないだろ。おれは怜華のままだぞ」
「え?」
「わたしも、望の延長線上だよ。記憶はあっても、希の人格は基本的に存在しない」
「え、え、え?」
「……えっと、希先輩たちのことですもの、色々この状況に対する考察はなさっていますよね?」
「……一応ね」
「そうだな、おまえらの現状に対する推測もちゃんと聞きたいから、放課後までに要点をまとめて来いよ」
「いいですわ。当然、朝宮先輩も持ってきてくださるのですよね?」
「ああ。希が書く」
「…………」
「お、おい、オマエ! こんなに可愛い希先輩をこき使うな!」
「うっさいな。殴るぞこのガキ」
「…………」
この二人はうるさすぎる。希はシリアルなムードを続ける気が起きなくなって、とりあえず笑うことにした。
「渚って、もしかして、男の子としてわたしが好きなの?」
「え。え、え!?」
「わたくし、そういう意味でも希先輩が好きですわ」
慌てる渚と対照的に、にこやかに、瞳を輝かせて真顔で言う蛍。
「…………」
希は精神的に百歩くらい引いた。
「……中身はケイだね、やっぱり」
「ケイは関係ないと思いますが」
蛍は少し拗ねるように、失言をごまかすように、ちょっとだけ視線を横に流した。怜悧が冷たくそんな蛍を睨む。
「なるほど、むしろこいつの方が要注意なんだな」
「ですが、女の子同士ですわ。変なこともできるはずがないですわ」
「希、視姦されないように気をつけろよ」
「蛍、キミはそうなのか!? 希先輩をそういう目で見るなんてボクが許さないぞ!」
「あら、わたくし、渚も好きでしてよ?」
「…………」
なぜか、渚の顔が赤くなる。怜悧と希の視線は冷たかった。
「やっぱり中身はケイなんだね」
「こいつ、最低だな」
「だって、両方の記憶がある以上、両方楽しまないと損だと思いません?」
蛍はもう開き直ったのか、にっこりと笑った。なぜか渚が慌てる。
「ま、まさか、蛍、キミは男とそういうことをしてるの!?」
「いいえ、残念ながら、相応しい殿方に出会えていませんから」
「念のため言っておくけど、わたしにはそういう趣味はないから。二人とも、中身があの二人なら、この先触るだけで殴るからね」
にっこりと、笑顔で。さらりと怖いことを言う希。
「えー、そんなぁ」
「ひどいですわ、女同士ですのに」
「希はおれんだからな」
「どーしてコイツはよくてボクたちはだめなんです!?」
「そうですわ。何か間違っていると思いますわ」
「ま、怜悧は怜悧だしね」
怜悧は「怜華」だから、という発言にも取れるが、彼だけ特別という意味にも取れる。どちらを意図していったのか、希自身もわからない。
嬉しそうになる怜悧に、膨れる渚、本気で嘆く蛍。賑やかにランチタイムはすぎていった。
放課後、希の家を訪れた渚と蛍の推測には、希が考えていなかったいくつかの可能性も追加されていた。しかも渚と蛍の実感はきちんと聞いていくと、その実感はやはり希たちとは完全に逆だった。
希は今でも自分が「望」だと思っている。怜悧も同様で、今の怜悧は「怜華」の延長線上にある。今の希も、あの瞬間までの「希」の記憶を持ってはいるが、あくまでも「望」の延長線上だ。
が、下級生コンビはそうではなかった。蛍は、「蛍」の記憶に「ケイ」の記憶が加わっただけと捉えているようだった。つまりあくまでも、蛍の人格はもとのままの「蛍」の延長線上だ。
渚はまた違い、本人の実感的には、完全に男の子の渚と女の子の渚の、二人の人格が混ざり合っていると感じているらしい。記憶も溶け込んでいて、本人もどちらで体験したことか、本気でわからなくなることがあるとまで言っていた。最初は周囲を巻き込んで混乱した状況になったようだし、四人の中では一番難しい立場と言える。
あの日までの、二つの記憶が同時に存在している――。
四人に共通して言えるのはそれだけだった。あの瞬間に、「別世界の記憶を持った」と考えるか、「別世界の身体の中に入った」と考えるか。蛍たちは「同じ夢を見た」と認識しているようだが、希や怜悧に言わせれば、夢と例えるのならむしろ「同じ夢を今現在見続けている」という認識になる。あちらが夢か、こちらが夢か。単なる主観の問題と言われればそれまでだが、下級生コンビの記憶や人格のあり方は、希にまた一つ考える材料を提供していた。
「でも、二重人格説も面白いですわね。一人だけなら、これが一番現実的だったのかもしれませんわね」
「宇宙人説は笑いました。どうせこれ朝宮先輩の考えでしょ?」
そんなことを言っていた下級生コンビは、希と怜悧も仲間だったことで気をよくしたのか、同じ体験をした他の人間を探すことに意欲的だった。が、希はとりあえずその件は保留にしていた。
そんな二人が帰った後。
希は自宅のキッチンで料理を始めていた。ダイニングのテーブルでは、怜悧が椅子に座って、鼻歌など歌っている。
「ずいぶんごきげんだね?」
「あたりまえ。おまえが部屋に入れてくれたのはあれ以来だからな。おまけに夕食まで。感激だ」
「変なことすると絶交だからね」
「わかってるよ。少しは信用しろ」
「根拠がなさすぎ」
「ま、後五ヶ月だからな。がんばるさ」
「…………」
「で、あの能天気コンビはお気楽に仲間探しをしたがってたが、おまえは反対なんだな?」
「……反対、というわけじゃないよ」
こんな狭い範囲に四人もいるのだから、もっともっといるのかもしれない。局地的な現象でない場合は、広範囲に渡ってかなりの人数がいると考えることもできる。
その推測は正しいのかもしれないが、その分希は慎重になっていた。
下級生コンビにも、希たちのことはだれにも話さないようにとしっかりと言質を取った。本人のことを言いふらすのはかまわないが、人のことは絶対に言ってはいけないと、希はしつこいくらい深く釘をさした。蛍は薄々その理由を察したようだし、渚も絶対服従の姿勢を見せたが、釘はいくらさしてもさし足りることはない。
「ちょっと、失敗したかな。あの二人にこちらのことを話したのはまずかったかな」
「いや、あの二人でよかったと思うべきだろ。むしろあの二人にバレたことで気付けたわけだからな。ばれたのがもっとたちの悪いやつだった可能性もあるし」
「そうだね。ありがと」
「ん?」
励ましてくれたと感じたから無意識に礼を言ったのだが、怜悧は理由がわからなかったらしい。希は、なんでもない、と微笑む。
二人、なんとなく無言。希がかたことと、料理をする音だけが響く。
春の夕暮れ。外は雨だが、なんとなく、穏やかな気持ちになれる静けさ。
「これって、大規模であれば、確実に社会現象になるよね」
「小規模でも知られたら充分盛り上がるだろうな。嬉しくない結果になるかもしれない」
「怜悧の方が正しかったね」
「ん?」
「最大の問題は戻りたいかどうか。戻ろうするかどうか」
「ああ、そんなこと言ったっけ」
本気で忘れているのか、それともたいしたことではないと思っているのか。希は笑う。
「戻りたいと思わないなら、むしろそっとしておくべきなのかもしれない」
「本当に思わないのか?」
「…………」
現在の意識を持ったまま「望」の身体と世界に。希はまだそれを求めているのか?
「……こっちもこっちで悪くないからかな、コストだけじゃなく、リスクが高いように思う」
「ま、そーだな」
「でも、大規模なら、いつかニュースになると思う。わたしたちが手を出さなくても、誰かが話題にする」
「それを考えると、小規模の方がいいのか?」
「いや、それも微妙。小規模でばれたら」
「ああ、少数派への迫害がありうるわけね。大規模ならそれがあたりまえにもなりうるか」
「戻る手段や二度と起こさない手段も、大規模の方が見つかりやすいだろうね」
「サンプルが多い方が、発生状況の分析と発生原因の確立や対策に有利だからだな」
「…………」
「…………」
また、二人、なんとなく沈黙。
二人にとって、いやな沈黙ではなかった。落ち着ける、優しい沈黙。
「一人で悩んでるやつもいるのかな?」
「……それだと不安だろうね」
「じゃ、おれは幸せだな。身近に、体験を共有できる相手がいるからな。それも好きな人だし」
「……勝手に言ってなさい」
「あはは。照れてるだろ」
「…………」
希はプイと背を向けたまま応えない。怜悧は楽しそうに笑う。
会話が、時々途切れながら、ゆっくりと流れる時間。
希は、怜悧が希の後ろ姿にちょっとむらむらしてることには気付かない。気付かないから、とても優しい気持ちだった。
「……とりあえず、もう無理にばらすのはやめた方がいいのかな……」
「もともとおれは無理はしてないが」
「そうだね」
くすっと笑う希。
「キミにはこう言った方がいいみたいだね。少しばれないようにしなさい、って」
「そんなにばれるか?」
「もう遅いかな。今更前の怜悧に戻るとかえって変だから」
「おれは恋をして変わったと言うことにしてるぞ?」
「…………」
「……希も、そうだろ?」
「……そうだね、そういうことにしてもいいかな」
「…………」
「…………」
「……まだ、好きと言ってくれないの?」
怜悧のその口調に、「怜華」の色が強くにじんだ。希は背を向けたまま、優しく微笑む。
「まだ、言ってあげない」
その言葉に含まれてる意味。「まだ」という言葉。
「ふんだ」
「あはは」
二人笑って、また少し、黙る。静かに、柔らかく、時間が流れる。
concluded.
index next
初稿 2004/01/10
更新 2008/02/29