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 夢の続き

  Taika Yamani. 

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  第五話 「日常生活」


 どうしてぼくは「話しかける」と言ってしまったのだろう。
 葉山月学園高等部一年、此花希は、過去の自分の言動を思い返してため息をついた。
 「当分キミからは話しかけてくるな。一日に一回はぼくの方から話しかける。そうだね、一年間、キミがそれで我慢できるなら、ぼくはキミのものになってもいい」「守れないようなら、本気でキミを切り捨てる」
 言い寄ってきた同学年の男の子に、きっぱりと言い切った台詞。相手がそれで耐えられるとは思わないし、もし耐え切るようなら本気で付き合ってやってもいい。だからその言葉自体に嘘はないが、よりにもよって「一日に一回はぼくの方から話しかける」と言ったのは失敗だったと思う。相手は毎日話しかけてこいと要求してきたし、そうでなくとも、自分から動かないといけない。
 せめて「一日一回だけ話しかけてもいい」、と言えばよかったと思う。それなら逃げ回ることだってできたし、何よりも自分は何もせずにただ受身でいられたのに。
 つい先日まで、いじめられっ子で登校拒否生徒だった希。そんな希が、高等部のアイドルとも言われている朝宮怜悧と交わした約束。
 昨日までは怜悧が逆に希に話しかけにきていたが、そんなのそっけなくあしらっていればよかった。すでに充分目立っていたが、あくまでも希は受身の立場だった。それが気に入らない女子もいたようだが、そこまで希の知ったことじゃない。今日からは希が自分から声をかけなくてはいけない。
 ただでさえうとまれている希が、ただでさえ目立つ怜悧に自分から声を。考えるだけでうんざりしてしまう。
 土曜日のこの日、大人しく授業を受け終えた希は、放課後になると、無表情で一年一組へと向かった。土曜日の放課後だけあって、校舎内は喧騒に溢れている。やせっぽちでがりがりでいじめられっ子の希に声をかけてくるものはなく、希はすんなりと一組の前に到着した。
 ここまでくれば開き直るのが希の性格で、無造作に中に入る。怜悧は何人かの男子生徒と談笑していた。さわやかな微笑で、柔らかい言葉遣い。猫を被りまくっていることが希からはミエミエだが、そちらの方が似合うとも希は考える。本当にこういう性格のままなら、もっと普通に付き合えたのに。
 教室に残っている生徒たちの視線を感じながら、怜悧の傍に。
 「怜悧くん」
 希が声をかけると、怜悧はとたんに、本当に嬉しそうな笑顔になった。
 「ああ、来たね。じゃ、みんなまたな」
 「あ、ああ」
 周りの男子生徒たちの反応はかなり微妙だった。怜悧が「不細工な女」につきまとっているという噂はすでに学年中に広まっている。本人が回りのみなにどう言っているのかは希は知らないが、釣り合わないと思われているのは明白だ。客観的に見れば、今の自分と怜悧が釣り合わないことは希自身よくわかっている。
 「希」ならそれでも喜んだのかもしれないが、希としては無駄に疲れる状況だった。
 希はその沈黙を意識しながら、怜悧と一緒に教室を出た。廊下でも視線を浴びるが、無視して歩く。怜悧もすぐに隣に並んできた。
 「で、希ちゃん、何の用?」
 「……そんなこと言うならもう帰る」
 「あ、うそうそ。約束を守ってくれたんだよね。ありがとう」
 「……その話し方、気持ち悪い」
 他人にする分にはともかく、自分にされると背中がむずがゆくなりそうな希だった。
 「あはは。ま、まだ学校だしね。希ちゃんももっと可愛く話して欲しいな」
 だれが希ちゃんだ。
 希は無表情を崩さなかった。怜悧はくすくす笑いながら横を歩く。
 「前から聞きたかったんだけど、その鞄を両手で持ってるのは何のつもり?」
 「純粋に重いから」
 「なんだ、ぶりっこしてるのかと思った」
 「ぶりっこなんてする理由がないよ」
 「はは。ほら、じゃあ持ってやるよ」
 ひょいと、怜悧は希の手の中の鞄を持ち上げた。鞄を握り締めていた希の腕ごと引っ張り上げられる。
 「あ」
 「全然軽いね」
 「いいよ、怜悧、離して」
 身長差があるから、手が持ち上げられてきつい。また余計な注目が飛んでくる。
 「今日はどこか遊びに行こう。どこがいい?」
 「離して!」
 自分も鞄から手を離さないまま、希はちょっと大きい声を出す。
 「いいだろ、このくらい。彼女の荷物を持ってやるっていうのは夢だったんだ」
 相変わらずつっこみどころが満載な怜悧の発言だった。希は冷たく睨みつけた。
 「本気で怒るよ」
 人目を集めようがなんだろうが、これで手を離さなければ本気で殴り倒して帰る。
 視線に込めた希の無言の脅迫に、怜悧はさすがに怯んだ。やっと鞄から手を離してくれる。鞄が振り落ちてきた反動で、希はちょっとよろけた。
 「た、たかだか鞄を持っただけじゃん」
 「余計なお世話。だいたいキミは部活だろ。もう行けば?」
 「口が悪くなってるぞ」
 「余計なお世話!」
 希は不機嫌な表情で足を速める。怜悧は慌てて追う。
 「今日はさぼるよ」
 「優等生がそんなこと言っていいの?」
 「優等生だからね、たまにサボってもなにも言われない」
 「昨日もサボったのに、怒られるよ」
 「気にするわけないじゃん、そんなの」
 怜悧の言葉が、ちょっと砕ける。いつものことながら、希の不機嫌をさらりと流して自分勝手なマイペース。ちょっとため息だ。
 「この三つ編みにメガネも何のつもりなんだ? おまえの趣味じゃないだろ、こういうの」
 怜悧の手が、希の髪に伸びた。
 「人の趣味にケチをつけないで欲しい」
 「希ちゃんはどういうつもりだったんだ?」
 「……目立ちたくなかった」
 「ある意味それはそれで目立ってたと思うが」
 「…………」
 いじめられっ子だった「希」が、こんな格好を選んでいた理由。目立たないように地味になるように、というのも嘘ではない。でも本当の理由は、自分を隠すため。本物の自分ではない、偽りの自分。そんな自分なら、いじめられても痛くはない。ある意味の現実逃避。そこまでしなければ生きていくのも辛かった現実。
 「今なら解いてメガネはずした方が目立たないんじゃないか? コンタクトにすれば?」
 「視力は悪くないよ。それにこれもこれでけっこう面白くて気に入ってる」
 「……たまに、おまえの趣味がわからんな」
 少しだけ、希も笑う。
 「余計なお世話」
 こんな世間話なら、普通に笑って付き合える。それができない相手なら昨日の約束もなかっただろう。希としては、こういう何気ない関係なら、全然怜悧の存在は悪くないのだが。
 「おまえ、笑うとやっぱ可愛い」
 すぐこういう発言をするから、希の表情はまた消えるのだ。
 「もう今日は話しかけたよね。わたしまっすぐ帰るから」
 「お。家に誘ってくれるのか?」
 「寝言は寝てから言って」
 「なんだよ〜、また手料理食わせてくれ」
 この発言も周囲の人間に聞かれたようで、視線が飛んでくる。希は内心また嘆息だ。
 「ま、家はダメでもいいから、遊んでいこうぜ。ちょっと行きたいところがあるんだよな」
 「……どこ?」
 変なところなら殴る、という目で、希は怜悧を見る。怜悧はにやりと笑った。
 「ゲーセンだ」
 「キミがゲーセン?」
 意外にチョイスに、希は一瞬きょとんとした。ゲーム好きの三馬鹿に誘われて「望」もたまに付き合っていたが、もともと「望」もそれほどよく行く場所ではない。ゲームセンターの騒音が好きではなかったお嬢様の「怜華」はなおのことで、「望」にくっついて彼女も何度か通っているが、いつもつまらなそうにしていたものだ。
 「パンチングマシーンを叩いてみたい。今なら望にだって勝てるかもしれないから。おれの男らしいところを見せてやろう」
 「……キミは子供だね」
 「はっはっは。常にピュアだからな。希ちゃんも叩いてみるか?」
 「やめとく」
 男だった時と比べると桁違いなことは嫌でもわかる。男女差以前に、女子の平均値も大きく下回るこの身体。テクニックでカバーできる部分もあるだろうが、身体がついていかないことも多い。昨日怜悧を殴った拳もいまだに痛い希だ。
 「その前にメシだな。学食よるか? 駅前で食っていくのもいいぞ」
 「家で食べたい」
 どちらもこの時間では学生が少なくないはず。希としては目立たず大人しくしていたい。
 「じゃ、おれにも食わせろ」
 「いやだ」
 「…………」
 「…………」
 「おまえ、もしかしておれが嫌いか? 泣くぞ?」
 「今のわたしたちだと下手に目立つ。目立ちたくない」
 「その件は諦めろ。もう手遅れだ」
 「それでも自分から目立つことはしたくない」
 「そんなこと言ってるとおれと一緒にいられないじゃん」
 「うん。だからあんまり一緒にいたくない」
 「やっぱり泣くぞ。冷たすぎ」
 「いいよ。げ」
 本気で泣きそうな顔になっている怜悧に、希は慌てた。
 「ほ、本気で泣くなバカ! いつもは怒るくせに!」
 いつもは「望」が冷たくすると手がでていた「怜華」。こう簡単に泣くのは反則だ。
 「だって、おれだって傷つく。自分から話しかけるなとも言われたし、おまえはそっけないし……」
 「お互いの立場を考えれば当然でしょう?」
 「そんな立場知らない。ただ仲良くするだけで、どうして人目をそんなに気にしないといけない?」
 「今のわたしとキミは不釣合いすぎる」
 「そんなの知ったこっちゃない。おれはおまえと一緒にいたいんだ」
 「キミは子供か……」
 まっすぐにぶつかってくる怜悧に、希はため息をついた。
 「そーだね。人目を気にしすぎてもしかたないね」
 とりあえずは単なる友達づきあいだ。お互い嫌じゃないなら、他人を気にするのは意味のない行為。
 「そーだそーだ。というわけで、家に連れてってくれ」
 「それはダメ」
 「…………」
 「…………」
 そんなにふてくされるな。
 希は笑い出した。
 「キミはお気楽だね、ほんとに」
 「どーいう意味だよ」
 「文字通りだよ。じゃ、駅前で食べていこうか」
 「おうっ。おごってやろう」
 「ありがと」
 「貸し一な」
 「帰る」
 「…………」
 「…………」
 「も、もちろん冗談ですよ、お嬢さん」
 だれがお嬢さんだ。
 希は笑いながら話を変えてあげた。
 「なにおごってくれるの?」
 「んー、たまにはジャンクフードがいいな」
 「あ、ごめん、それ食べると吐く」
 「う、そ、そうなのか。厄介な身体だな」
 「量も入らないしね。われながら切ない」
 「おまえ、もっと早くでぶれ」
 「できるものならやりたいよ」
 「今何キロだ?」
 「三十もない」
 「うげ。すごいな、それ。どーりで昨日も軽いと思った」
 「昨日のアレははっきり言って根に持ってるから。いつか借りは返すよ」
 「え、おまえから襲ってくれるの?」
 「…………」
 「…………」
 「一回死んで来い」
 「う〜、おれはいつでもいいのに」
 「はいはい」
 実に他愛もないバカ話。希は基本的にそっけなく、でもたまに笑いながら、怜悧に付き合う。怜悧は相変わらず感情豊かで、表情もよく変わる。
 希にとっては友情感覚。それがいつか恋に変わるのか、今の希にはわからない。でも、怜悧との付き合いは嫌ではなかった。今他に友達もいない希にとって、充分暇つぶしにもなる。
 怜悧が聞けば膨れるかもしれないけど、と、そう思って、希はくすりと笑った。



 十一月に入ってすぐ、希は風邪を引いた。お風呂に入って髪を乾かさずにそのまま寝たのが悪かったらしい。四十度近い高熱がでて、慌てた両親に病院に連れていかれた。すぐに薬や点滴のおかげで小康状態になったが、その日一日、病院のベッドで点滴を受けながら、希は顔を真っ赤にしてうなっていた。
 眠りたいのに眠れない。苦しくて身体が痛くて、泣きそうだった。そんな時、彼はやってきた。外界の様子をほとんど把握できないほど辛かった希がふと気付くと、隣に誰かいる。
 とりあえずその日一日は入院と話がついていて、両親は心配しつつも、お昼から仕事に出かけている。希は「お母さんが戻ってきたのかな?」と思い、なんとか目を開けて顔を動かして、そこに一人の男を見つけた。
 「…………」
 「…………」
 視線が合う。
 「どーしてキミがここにいる?」
 呟き、というよりは、うめき声に近かった。怜悧は優しく微笑んだ。
 「見舞いにきたんだよ」
 「いらない。帰れ」
 「いきなりそれか」
 いまの希に、怜悧に構っている余裕はない。希は不快感に顔をゆがめた。
 「キミがいると落ち着かない。こういう時くらい、そっとしといてくれ」
 「口が悪くなってるぞ」
 「余計なお世話だ!」
 言ったとたん、激しくめまいがした。希は口も目を閉ざした。
 「ただの見舞いだよ。なにもしない」
 「…………」
 キミがそこにいるだけで迷惑なんだ。
 思ったが、もう口には出さない。
 「それに、希から話しかける約束だろ? 破っていいのか?」
 「…………」
 こういう時までキミはそれを言うのか。希は泣きたくなってきた。
 「……今日はもう帰るよ。声も聞けたしな」
 「え?」
 意外にあっさりした怜悧の態度に、希は一瞬苦しみを忘れた。
 「早くよくなれよ。こっちが辛い」
 怜悧の手が、希の髪を、そっと撫でる。
 「…………」
 希は目を閉ざしたまま、動かない。ただ赤い顔をして、浅く乱れた呼吸を繰り返すだけだ。怜悧はどういう顔をしているのか、そのまま手を離すと、静かに病室をでていった。
 「…………」
 希は、「らしくない」と思ったが、今はそれを気にする余裕はない。病身の辛さに、また一人静かに立ち向かった。
 が、その風邪はすぐには治らなかった。おまけに、まともに食事もとれず、食べてもすぐ戻してしまうのだからたちが悪かった。結局一週間も入院するはめになってしまい、希の体重はまた落ちた。この一件は、体調管理に関する教訓を希に植え付けた。悲しいことに、「望」の時のように適当になにやってもめったに病気しない身体とは全然違う。とりあえずまず身体を鍛えなきゃなぁ、と、希はしみじみと実感した。



 噂がいつのまにかかわっていることに希が気付いたのは、風邪が治ってまた学校に通うようになってからだった。「朝宮くんが『不細工な女』に付きまとっている」という噂だったのが、「『不細工な女』が朝宮くんに付きまとっている」と、主客が逆転している。例の賭けの後、怜悧から希に話しかけることはなく、逆に一日に一度は希から声をかけにいくからだろう。客観的に見て今の希は怜悧が手を出すようなタイプにも見えないこともあって、多くの人間はこちらの方を真実と捉えたらしい。その結果、十一月中旬の月曜日の放課後、希は帰ろうとしたところを、校門近くで数人の女子生徒に取り囲まれた。
 「此花希さんね?」
 人数は四人。リボンの色は二年生、上級生だ。先頭の落ち着いた感じの先輩がどうやら首謀者らしい。まっすぐに希の目を見て話しかけてくる彼女に、希は立ち止まって、少し首を傾げて見せた。
 「はい。何かご用ですか?」
 「あなた、最近朝宮くんに付きまとってるらしいわね」
 何の話かと思えばそんな話か、とうんざりしながら、希は身長が百六十前後ほどあるその先輩を少し見上げた。なかなか整った顔立ちのきれいな先輩だ。それなりに男子にももてていることだろう。希と違い、なかなかにナイスバディでもあった。
 「わたしにはそのつもりはありませんけど、そう見えるのなら、そうかもしれませんね」
 「いったいどういうつもり? 毎日話しかけてるらしいじゃない? 昨日は二人で会ってたというし」
 最近の希は休日も怜悧に半ば強引に遊びに引っ張りまわされているのだが、見られたのか本人が言ったのか、見知らぬ先輩にまで知られているらしい。希はやれやれと思いながらも、態度を変えなかった。
 「普通に友達ですから。話したり遊んだりすることもあります」
 「……普通に友達、ね」
 先頭の先輩はじーっと見つめてくる。後ろの先輩方は、何をどう思っているのか、少し顔を見合わせていた。希をそっちのけで、後ろの三人がぼそぼそ会話。
 「朝宮くんはどう思っているのかしら? あなたについてとやかくは言うつもりはないけど、いきなり付きまとわれて迷惑しているのではなくて?」
 充分、とやかく言われている気がする。希は思わず少し笑ってしまった。
 「さあ。それは本人に聞いてください」
 「……あなた、話とずいぶん印象が違うのね」
 どんな話を聞いているのか知らないが、人の勝手な噂にまで責任はもてない。希は軽く肩をすくめた。
 「ご用件はそれだけですか?」
 「……あなた、朝宮くんが好きなの?」
 答える義理もないのだが、隠すようなことでもない。希は簡単に答える。
 「友達としてなら好きですよ」
 「本当にただの友達? 付き合ってるのではなく?」
 「付き合ってはいません」
 先のことはともかく少なくとも今は。という余計な台詞は、心の中だけで付け加えておく。
 「なら、下手な誤解は与えないようにした方がいいんじゃない? あなたはともかく、怜悧くんにとってよくないことよ」
 これは、露骨に希の存在をけなされたようなものだ。希はまた微笑したが、今度は瞳が少し笑っていなかった。
 「それも、本人に言ってあげてください。本人から直接近寄るなと言われたら、わたしも彼には近づきませんよ」
 希は言い捨てると、「それじゃ」と軽く頭だけ下げて、もう無視して歩き出した。我ながら社交性にかけると思ったが、一方的にとやかく言ってくる相手にニコニコ笑っていられるほど大人ではない。その日はまっすぐに家に帰った。



 夜、九時前なのに寝る準備をしっかりとしてから希が携帯電話を見ると、怜悧からのメールが入っていた。ご飯を食べて、ストレッチと柔軟体操をしてお風呂に入って、髪をちゃんと乾かして歯磨きやらなにやらも済ませた後のことだ。
 『話があるんだけど、電話してもいいか?』
 直接話しかけることは禁じているので、怜悧はしょっちゅうメールをだしてくる。まめというべきかしつこいというべきか、希としては判断に苦しむのだが、今の希にはちょうどいい暇つぶしにはなっていた。この身体では、夜は身体が疲労でぐったりになるので、他に集中力のいることをやる気にはなれないからだ。
 それにしても、電話がしたい、と怜悧が言ってくるのは珍しい。部屋の電気も消した希は、メールの時刻が夕食時だったことも確認しながら、ベッドの上でパジャマにトレーナとカーディガン姿で、携帯電話のボタンを押した。
 怜悧はすぐに出たが、こんな時まで、律儀に自分からは話しかけてはこない。希はちょっと笑ってしまった。
 「こんばんは、怜悧」
 『遅いぞ、何時にメール出したと思ってるんだ』
 「うん、いまメールを見たから。何の用?」
 『おまえ、玉木先輩になに言われた?』
 「玉木先輩? 男子テニス部のキャプテン?」
 ほとんどの部活ではもう三年生が引退しているから、いまは二年生がキャプテンをつとめている。「望」はさほど親しくはなかったが、一学年上の「玉木先輩」がテニス部でも慕われているらしいことは情報として知っていた。
 『こっちでは女子テニス部のキャプテンだ。会ったんだろ、今日』
 「あー、あの人、玉木先輩なんだ。言われてみれば面影あるね」
 『面影って……。わかってて話したんじゃないのか?』
 「うんん、全然。何か言われた?」
 『それはおれがさっき言った台詞だ』
 「あはは。わたしがキミに付きまとうとキミが迷惑だから誤解されないようにした方がいい、と、アドバイスを受けたよ」
 『それでおれが好きじゃないとか付き合ってないとか友達だとか嘘を言ったのか?』
 「どこが嘘?」
 『…………』
 「…………」
 『…………』
 妙に長い沈黙だった。希は笑ってしまった。
 「友達としてなら好きだって言っておいたよ」
 『おまえも少しは素直になれ』
 「いまはとても素直なんだけどね。怜悧はなんて言われたの?」
 『付き合ってるのかとか好きなのかとか言われたから全部肯定しておいたぞ』
 「嘘つきだなぁ」
 怜悧が他人にどう思われようと知ったことではないが、嘘はいけないと思う希。
 『どこが嘘なんだよ』
 それわたしがさっき言った台詞だね、と笑いながら、希は事実を指摘する。
 「キミの気持ちはおくとしても、付き合ってはいないでしょう」
 『似たようなもんだ。一年後にはそうなるんだしな』
 「どうだかね。キミが一年もヘマをしないとは思わないけどな」
 『…………』
 なぜここで黙るのか。希の頬は緩みっぱなしだ。
 「ま、キミがだれに何を言おうと勝手だけどね。嘘をつくとわたしの心証が悪くなることは覚悟しておいた方がいいよ」
 『だ、だから嘘なんてついてないだろ!』
 「はいはい。話ってこれだけ? もう眠いからきるよ?」
 『まてまて! って、なんだよ、もう眠いって言うのは。まだ九時にもなってないぞ』
 「身体が持たないから。よく食べて、よく動いて、よく眠る。やっぱり人生これだよね」
 『どこのジジババだおまえは。だいたいよく食べるもなにも、全然入らないくせに』
 「それを言われると痛いな。ま、その分よく眠るということにしておくよ。じゃ、きるね」
 『だーめーだ!』
 「まだなにかあるの?」
 ベッドの上で、希はくすくす笑い。カーディガンを脱いで、布団と毛布を引っ張り上げた。
 『お、おまえは、何してたんだよ』
 「うん、寝る寸前」
 ごそごそと動き回りながら、希は答える。
 『また風邪なんかひかないようにしろよ』
 「うん、気をつけてるよ。二度やりたいことじゃないしね」
 『ま、風邪ひいたらまた毎日見舞いにいってやるけどな』
 「もう来なくていい」
 『おれから行かなきゃ賭けに負けてたくせに』
 希が風邪で入院した一週間、希から毎日話しかけるという約束があったから、怜悧はわざわざ話しかけられるために、毎日毎日お見舞いに来た。希のベッドの横で、希が目を覚まして話しかけるまでずーっと無言で椅子に座っている怜悧の姿は、希は嫌がらせかと思うこともあったものだ。が、不覚にも、時にはそんな怜悧の姿が嬉しいと思ったりもした。人間誰しも病気の時は気弱になるものらしい。
 「あんな時まで約束を強要してくる男に用はない」
 『でも約束は約束だろ』
 「何事も例外もあるよ。それに、それを言い出したら、自分から近づいてきた怜悧もかなり反則だと思うけど?」
 『おれは近づくなと言われた覚えはないぞ』
 「そういうのを屁理屈って言うんだよ」
 『それを言うくらいなら、一日会わずにいて、強引に付き合えと押し切ったぞ。そっちがよかったか?』
 「どっちもいやだ」
 『…………』
 素直な本音だったのだが、沈黙が帰ってきた。希は布団の中で、またくすくす笑う。
 「怜悧はいま何してたの?」
 『ん、ああ、ちょっと資料を見てた』
 「いいの? わたしに構う時間なんてないでしょうに」
 『こっちは趣味だからな。おまえの方が大事だ』
 「お金稼ぎが趣味だなんて嫌味だよね」
 『ま、実益も兼ねてるけどな』
 今の怜悧は、高等部一年生にして、株や債権、企業投資に手をだしている。もともと財テクは「怜華」の趣味みたいなものだった。初等部三年時の祖父の死でそれなり財産を相続していて、それを元手に債権や株に手を出しはじめたのだ。最初は両親の監視もあったようだが、高等部にあがる頃には自分だけで相当の額を稼いでいた。元手が大きいから楽という面も否定できないが、その能力そのものも否定できるものではない。こういう点は「望」も素直に感心していた。
 が、それは「怜華」の話であって、こちらではまた事情が違った。まじめな「怜悧」はその方面に手を出すことはなく、怜悧の資産額は相続分と委託運用益のみだったのだ。それをまたはじめようとしているわけで、怜悧は何かと忙しくしているらしい。
 『おまえもやってみるか? いま夜暇だろ?』
 「夜は寝るので忙しい」
 『……本当に体力ないのな』
 「だから何度もそう言ってる。とりあえず今のわたしは、冗談でもなんでもなく、よく食べてよく動いてよく眠るのが一番だから。ある程度身体がついてこないとどうしようもない」
 『はよデブれ』
 「だからわたしもなれるものならなりたいんだってば」
 『でも、こんなに早く寝て、何時に起きるんだ?』
 「六時から七時の間くらいかな。最近、朝ご飯手伝ってるしね」
 『お、いいな。おれの弁当も作ってこいよ』
 「寝ぼけろ。お弁当は自分の分も作らないよ」
 『また学食で頼んでほとんど残すのか?』
 「それが一番楽」
 『今度作ってこいよ〜』
 「却下です」
 『望は、男のくせに料理がうまかったからなぁ』
 これは、両親が共働きで夜は遅くにしか帰ってこないせいで、まともなものが食べたかったら自分で作るしかなかったからだ。「望」の育ち盛りの食欲が料理の腕に繋がった。ちなみに「希」は自分で食事なんて滅多に作ることなどなく、料理もほとんどできなかった。
 「誰かさんも女のくせに料理なんて全然だったよね」
 『お、おれは料理が上手い相手を見つけたからノープロだったんだ』
 「……勝手だなぁ」
 『おう。だから作って来い』
 「しつこい」
 『じゃあ、また明日迎えにいっていいか?』
 「なぜそうなる。それもだめ」
 『おまえは冷たすぎる』
 「キミは甘い顔するとすぐ付け上がるから。というわけで、そろそろほんとに寝るよ。おやすみ」
 『お、おいおい、まてまて!』
 「もう待たない。おやすみは言ってくれないの?」
 『…………』
 「…………」
 言ってくれないらしい。希は笑って、電話を切った。
 電話をベッドの脇において、改めて布団にもぐりこむ。
 とたんに、電話がなった。この着信音は怜悧のものだ。ちなみに、希に電話やメールをくれるのは怜悧の他は両親しかいない。ちょっぴり切ない現実だ。
 「もしもし」
 『いきなりきるなバカ。おやすみ!』
 「うん、お」
 やすみなさい、と言い返す前に、電話が切れた。バカはどっちだ、と思いながらまた電話を置いてきちんと布団を被ると、希は微笑んで目を閉ざした。





 to be continued... 

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初稿 2003/11/22
更新 2008/02/29