ショートショート
Taika Yamani.
「ファミリータイム」
「おぉう、起きろーい!」
威厳ある父親、一家の大黒柱、敬愛される夫、子供が自慢したくなるような人間……。
そんな言葉がまず似合わない態度で、湯上美明は自宅の玄関をくぐった。美明はもう四十の半ば過ぎの中年男である。いっこうにハゲる気配を見せない頭髪は豊かすぎて頭を大きく見せ、やめればいいのに似合わない顎髭はなぜか顔を小さく見せている。おかげで耽美そうな名前とは裏腹に、比較的ごつい容貌をした、そんな中年男だ。
家族は妻が一人に、子供が二人。愛人は残念ながらいない。「ローンもあるけど、家と家族と夢もある」をモットーにした、自称「平々凡々な」サラリーマンである。
「おーい、おいおい、あ、旦那様のぉ、お帰りだぁぞぉーうぃ!」
十一月の午後十一時。サラリーマンが飲んで帰るには、極端に遅いというわけでもないが、それでも喚きながら家に入るのに適した時間とは言えない。歌舞伎役者の真似なのか、手を突きだして片足でケンケンをする美明の声に、妻の鈴子さんがリビングから顔を出した。
「あらあら、あなた、お帰りなさい」
ちょっとおっとりした感じの鈴子さんは、高校生と中学生の二児の母で、自称二十歳である。もちろんそんなわけはなく、美明より二つ年下なだけの、立派なおばさん、いや、お母さんだ。さすがに二十歳は無理だが、まだ三十代で通用するだろう。息子や娘の友人たちからは羨ましがられている、若く見えるお母さんだ。
「おぅい、ただいまーっと。リキとコトリは、どしたぁい!」
酔いのせいか微かに赤ら顔の美明は、足どりは確かだが些細なことまで大声で言う。鈴子さんは慣れたもので、そんな夫に顔をしかめるでもなく、にこやかに告げた。
「二人とももう自分の部屋よ。何かあったの? ずいぶん、ご機嫌みたいだけど」
「おうよ! リンもなんか引っかけて付いてキなぁ!」
「付いてって、どこへ?」
「二階のベランダよう! オーラおらおら、リキ、コトリ、起っきろーい!」
鈴子さんにはいったい何なのかわけがわからないうちに、美明は喚きながら階段を派手に音を立てて上り始める。よくあることなので、鈴子さんはにこやかに、言われた通り何か上に着るものを取りに行った。
美明は二階に着くと、まず階段を上ってすぐのところにある息子の部屋のドアを、ノックもなしに開け放った。
「リキぃ、起きろぉい!」
開けるなり怒鳴ってきた父親に、リキこと湯上力也はゆっくりと振り向いた。力也は高校三年の受験生である。この時彼は眠ってなどいず、赤々と電気を付けて机に向かっていたところだった。勉強を完璧に邪魔された形だが、「父親なら素直に息子の応援をしろよ」などと愚痴る性格ではない彼は、実に冷淡に言い放つ。
「酔っぱらいに用はないんだけどな」
最初から一階の騒ぎを耳にしていたようで、心の準備もできていたらしい。たまたま聴いていたクラシックのCDが、今の親子の雰囲気とは正反対な、たおやかな曲を奏でていた。
そんな息子の態度には慣れっこなのか、それとも頓着しないだけなのか、美明は一人で笑って息子の短い髪をぐちゃぐちゃにした。
「起きてんのなら、返事くらいしろってんだよー、この悪ガキめぇ」
「や、やめろよ、そんなこと悪中年に言われたくはないぞ、おれは」
「わっはっは、おまえもたまには飲め! のまねーから、そんなに頭がカタイんだよ。酒はいいぞー、酒は!」
これは高校生の父親としては問題のある発言だろう。力也はいい加減父親の手を払うと、椅子から立ち上がった。心底煩わしそうに言う。
「なんだよ、さっさと用件を言えよ」
「まあ、そう慌てんなって!」
美明は、ばんばんと力也の肩を叩くと、けたけたと笑う。それから、身を翻し「コトリーぃ!」とまた喚きつつ、ドアも開けっ放しに部屋を出ていった。どうやら説明はなし、場合によっては用件はこれだけらしい。力也は「なんだったんだいったい」と、疲れたように頭を押さえた。勉強をやるより疲れる、父親の相手であった。
その父親は、力也の部屋を出ると、階段をぐるっと回り込んで向かいの部屋へ向かい、力也の時とは違いそっとドアを開けた。今度は部屋の主も眠っているらしく、部屋の中は暗い。廊下からの光が、ドアの隙間分だけ室内に射し込んだ。
中は少女趣味な部屋だった。美明の中学一年の娘、コトリこと、湯上琴美の部屋である。ぬいぐるみやらジャンボクッションやらが無造作にカーペットの上に転がっていて、大きなベッドが壁際に置いてある。ベッドの上には、肩までの髪の女の子、琴美が横向きに丸まるようにして眠っていた。美明は忍び足で歩み寄ると、娘の可愛い寝顔をしばし親ばかな表情で眺めた後で、布団の上からそっとその肩を揺らした。
「コトリー、起きてー。コトリちゃん、おねむの時間は一時中断、今から楽しいファミリータイムですよー」
夜の十一時に帰宅して、眠っている娘を起こしてまですることがあるのだろうか。力也が聞いたら、頭痛を感じたかもしれない。
小声で呟きながらずっと肩を揺らし続ると、娘の身体が寝返りを打とうとした。美明がそれをさせないようにすると、不意にぱちぱち、との目が開く。さっきから美明が外で騒いでいた分、眠りも浅くなっていたのだろう。彼女は美明を視界に捉えると、状況がよくわからないような、寝ぼけた声を出した。
「パパ……?」
最近はお父さんと呼ぶようになっていた娘の言葉に、美明は嬉しくなってにこにこと頷く。力也の時とは大違いな、優しい猫なで声を出す。
「ただいまー、コトリちゃん」
「おかえり、パパ……。ん、お酒臭い」
「そ、そうか? 飲んできたからな」
「寒い……」
琴美は目をこすり、ゆっくりと上半身を起こした。ちょこんとした座りかたが、親ばかな美明にはとっても可愛く見える。
「いま、何時……?」
「十一時ちょい過ぎだ」
「えー、なんなのー? わたし眠いぃ」
その時間を聞いて、逆に覚醒したらしい。一転して不機嫌そうになった娘に、美明は慌てたように言葉を続けた。
「い、いいものがあるんだよ。絶対コトリも喜ぶもんだ」
「うー、その呼び方、やめて。何、いいものって?」
まだ眠気と不快さに包まれているような感じだが、生来の好奇心が琴美の瞳を輝かせる。昔から好奇心旺盛な娘に、美明はほっとして余裕の笑みを見せた。
「はは、慌てない慌てない。暖かいカッコして、リキの部屋においでーな。そうすればすぐにわかるよーん」
「お兄ちゃんとこ?」
いつもならリビングに降りといで、とかなのだから、これはかなり興味をそそられたようだ。もう完全に乗ってきた娘の様子に、美明はその頭を撫でて立ち上がった。
「そ、お母さんもすぐ来るから、コトリも早くおいで。待ってるぞよ」
「えー、なんなのー? 教えてよー!」
「内緒。来ればわかるかんねー」
ぶー、と頬を膨らませる娘の頭をもう一度撫でて、美明は部屋を出る。琴美はまだふくれっ面をしていたが、すぐに頭を振るとダッシュで部屋を出ていこうとした。が、暖かい格好で、と言っていたのを思い出し、何か引っかけるものを探す。確かに、このままでも肌寒い。ちょっと考えて、琴美はクローゼットから厚手のカーディガンを取り出すことにした。
美明が力也の部屋に戻ると、妻の鈴子さんがやってきていた。ベランダへは力也の部屋からしか出られないから、鈴子さんがここへ来たのは当然というところだ。ちょうど今来たばかりらしく、力也が「いったいなんなわけ?」と訊いている。妻が答えるより早く、美明は室内に入りながらまた威張って言う。
「リキ、男ならそんなみみっちいこと気にするなーい!」
「ずいぶん、おれと琴美で対応が違うな」
まるで見ていたかのように言う力也。いつものことだし琴美の部屋に行った父親が静かだったから、おおかたそうだろうと判断したのである。そんなこと気にすることなく、美明はまた力也の髪をくしゃくしゃにした。
「わっはっは、当たり前だろう。可愛がってもらいたいなら、ちっとはそれらしくしろーい。でもまあ、どれどれ、じゃあ、たまには抱っこでもして上げようか」
「じょ、冗談……」
本気で抱きしめられかけて、力也は慌てて逃げた。鈴子さんはこれが親子のコミュニケーションとでも思っているのか、にこにこと夫と息子を見ている。力也の慌てぶりに美明は悪のりしかけたが、どういう理性が働いたのか、すぐに豪快に笑いつつベランダへの窓へと向かった。がらっと大きく開け放つ。
びゅっ、と、強い風が入ってきた。冬の冷気を含んだ、強い風。なんの準備もしていない力也は、思わず身体を震わせた。酔っているしスーツにコート姿の美明は平気な顔で、ゆっくりとベランダへと出ていく。
「お、親父、なんのつもりだよ」
「ベランダに何かあるらしいのよ。リキくんも行きましょ」
夫に言われて厚着していた鈴子さんは息子にそう言って笑って、夫の後へと続く。力也は冗談、と思い、とりあえず窓を閉めてしまおうとした。そこに、重装備の妹が現れる。
「あれ、お父さんたちは?」
可愛いパジャマの上に羽織っているのは、どこで予定を変更したのか、カーディガンではなくピンク色のドテラだった。すっかり冬の格好の妹に、力也は呆れ顔をしつつも答えようとするが、それより早く、琴美の声が聞こえたのかベランダから陽気な声が飛んできた。
「コトリ、こっちだよーん、早くおいでませー」
言うまでもなく美明である。ハーイと明るく返事をする琴美とは対照的に、力也は「近所迷惑なおっさんだな」と冷淡な事を言う。琴美は笑顔で、そんな兄の腕を取った。
「お兄ちゃんも行こっ。何があるの?」
「知るか。酔っぱらいの戯言に一々付き合ってたら身が持たないよ」
「でも、お父さん、いいものがあるって」
「あの酔っぱらい、ここに来た時は何も持ってなかったぞ」
本当に思いっきり自分の父親をこき下ろす力也。が、ここで、力也もベランダの方に気を取られることになる。母親の浮かれた声が流れてきたのだ。
「あら、本当にきれいね」
「え、何、お兄ちゃん、早く行こう」
気を引かれただけの力也と違い、琴美はその一言で完全に捕らわれてしまったようだ。強く力也の手を引っ張る琴美に、力也は肩を竦めてその背を押した。
「先に行きな、おれもなんか着るから」
「早く来てねっ!」
そう言うと、琴美は部屋を飛び出していく。なになに? という琴美の元気な声を聞きながら、力也はハンガーに掛けて合ったジャケットを羽織った。それと同時に、美明は琴美に何をどう言ったか、琴美の感嘆したような、わあ、という歓声が聞こえてくる。こうなると力也もかなり気になってきているが、それを表に出すのはしゃくだった。あくまでも、ゆっくりと歩み寄る。
それを察して意地悪をしたわけではあるまいが、美明はそれを邪魔するようなことを言ってきた。
「リキ、電気を消せ。でもってさっさと出てこいーな。今は楽しいファミリータイムなんだぞー」
何がファミリータイムだ、と思いつつも、力也は言われたとおり回れ右をして電気を消す。そして今度はすぐに、ベランダへと出た。
この日は風が強く、肌寒かった。そんな中、両親と妹はベランダの手すりに手を付いて、空を見上げていた。外に出てきた力也に気付き、琴美が天空に指を向ける。
「お兄ちゃん、見て見てっ、星がきれいだよ!」
雲一つない夜空だった。それだけなら、特別珍しいことでもなんでもない。風が吹き飛ばしたのか、大気がきれいに澄み渡っていた。いつもはほんの数個しか星が見えない都心の夜空が、無数の星に覆われていた。
酷評すれば、満天の星空というわけではないし、昔のような本当の自然の中で見られる星空でもないだろう。それでも、都会の味気ない夜空に慣れた力也には、充分にきれいだと思えた。街灯が少し邪魔だが、地上の夜景も絡めれば、自然とは別の美しさも見いだせる。
「オリオン座が見えるな……」
妹の横に行き、力也は空を見上げて呟く。琴美はすぐにはしゃいだように兄の腕を引っ張った。
「え、どれどれっ」
力也が答えるよりも早く、妻の肩を抱いたりしている美明が空を指さし言う。
「あれだな、あの三つ並んだ星と、それを囲む四つの星」
「あれが、オリオン座?」
琴美は今度は父親の服を、反対側の手で引っ張る。これに答えたのは力也だった。
「うん、冬の星座だ……」
父親に張り合ったわけではないようで、空を見上げたままだ。琴美は左右に首を動かして、それからむぎゅっと両方を引っ張った。特に引っ張られたのは力也で、バランスを崩し極端に琴美の横にくっつく。後ろから見て、左から順に鈴子さん、美明、琴美、力也と、家族四人がくっついて並んだ形である。琴美は何を考えているのか、お父さんの服とお兄ちゃんの腕を取って、にこにこと空を見上げた。力也は何か言いかけたが、肩を竦めてまた空に視線をやる。何か言ったのは美明だった。
「どうだー、リキ。見てよかっただろう。たまには、おとーさんに感謝しろ。感謝感激雨霰ってか」
「教えてもらってよかったとは、思うよ」
輝く星々がそうさせてくれるのか、力也は素直に言う。琴美も笑顔で頷いた。
「たまには、お父さんの酔っぱらいも役に立つね」
思わず、がくっ、美明はとうなだれてしまった。これは、あまりと言えばあまりな言葉である。追い打ちをかけるつもりではないだろうが、鈴子さんもにこやかに笑う。
「どうせなら、もっと早く帰ってきて教えてくれれば、もっとよかったのに」
「し、仕方ないだろー、清原の奴がぁ帰してくれなかったんだからぁー」
「どうせまた親父が帰さなかったんだろ。相手もいい迷惑だよな」
力也までそんなことを言い、美明はいじけてしまった。
今のそれぞれの発言は、まず琴美に邪気はないだろう。力也も穏やかに空を見上げているから、特別悪意はないのかもしれない。何を考えているのかわからないのは鈴子さんだが、美明はおおむね妻を信頼しているから拘ったりはしない。要するに、日頃一番きつい力也にすら悪意がないのだから全然気にすることはない。のだが、トリプル攻撃だったからか酔いのせいか、美明は本当に沈んでしまった。いじいじと、おおげさに俯いて呟く。
「はぁ、せっかく家族のコミニュケーションを取ろうと、おとーさんは日夜努力しているのに」
「コミニュ、じゃなくて、コミュニ、ね」
つっこみを入れつつ、うちはこれ以上どうしようもないだろう、と、いい意味で思う力也。何をしても堪えない陽気な父親に、おっとりと何を考えているのかわからないがおおらかな母親、言いたいことは言うが全体的に家族には甘い息子に、だれにも遠慮をせず屈託のない素直な明るい娘。皆が自然に振る舞える、そんな環境が、すでにある。
「はあ、息子が冷たい」
「寒いからな」
相変わらず冷淡に、だが実は半分冗談で力也。琴美は落ち込んだ父親を慰めるように、それとも何も考えていないのか明るい声を出した。
「でも、こうしてれば暖かいよ」
父の身体と兄の腕を頬にくっつけて、琴美は左右を見やる。鈴子さんも、穏やかに言う。
「そうよ、家族四人、寄り添ってれば、すぐにハートも暖かくなるわ」
「…………」
力也にしてみれば、母親が言ったのでなければ、聞くだけでむちゃくちゃ恥ずかしい台詞だった。が、なぜかこの母親の口から発せられると自然に溶け込んでしまい、素直ににっこり頷く琴美と同じように自然と受け入れてしまう。だから、普段なら絶対に言わない台詞を、口に出してしまった。
「父さん、気にしなくても大丈夫だよ。家はずっと自然にやっていけるさ」
言った後、かっと頬が熱くなった。いくらなんでも、会話の流れとは違いすぎるし、それにこんな台詞ガラじゃない。
琴美はこれもまた、なんだかんだ言いつつ暖かいお兄ちゃんの台詞に、にっこりと嬉しそうに頷く。鈴子さんも静かに微笑んでくれる。一番怖いのは美明の反応だが、予想に反してからかったりはしてこなかった。
逆に次の瞬間、力也は琴美ごと強引に抱き寄せられていた。
「力也、おまえって奴は」
「ぱ、パパ苦しいっ」
間に入った琴美がもがく。絶句した力也が押し戻すより早く、美明は身体を離した。
「あっと、ごめーんっ。大丈夫かー?」
「うん、へーきっ」
琴美は言葉通りの様子で、すぐにまた両手で父の服と兄の腕を取る。力也はそっぽを向いていた。今の父親の態度はいったい何だったのだろうか、と、真っ赤な顔で思ってしまう。その美明は本当に何を考えているのか、すっかり明るい調子で夜空を見やった。
「よーし、今日は、夢を語るぞー!」
「あはは、ゆめぇー?」
「なにをいきなり……」
楽しげな琴美とは違い、力也はため息を吐いて、小声で呟く。さすがモットーは「家は小さいけど夢はでっかい」とほざく美明である。美明は酔っぱらい特有の陽気さで続けた。
「一番、ぼくの夢、四年五組、湯上美明。ぼくはいつか総理大臣になって、日本を操る影の黒幕と戦いたいです」
「あは、お父さん、作文みたい」
「みたいじゃなくって、ちゃんと小ガキ生の頃に書いたんだぞー。ああ、あの頃は若かった」
「あら、今だって若いじゃない」
「そうか?」
「ええ、前から思ってたんだけど、琴ちゃんに弟か妹がいてもいいわよね」
「でへでへ。そうそう?」
「わたし、弟がいいなっ! 可愛い可愛い男の子!」
「はぁ……」
もう勝手にしてくれ、とばかりまたため息を吐くと、力也は空を見上げた。目も慣れてきたためか最初よりさらにキレイに見える天空は、本当に珍しく澄み切っている。美明がこれを気付いたのは、ひょっとしたらすごいのかもしれない、とちらっと思う。少なくとも、今の力也には、夜道を歩いても空を眺める余裕はないかもしれないから。
「まあ、それはそれとして、二番、リキ、行けー」
唐突に三人目の子供の話を終わらせ、美明は力也に話題を振ってくる。わけがわからず、力也は「はあ?」と問い返した。
「はあ、じゃなくて、夢だ、夢。おまえ、夢とか野望とか野心とか妄想とか、ないわけじゃないだろー?」
「なんだよそれ……」
力也は疲れたように呟く。見ると、鈴子さんは穏やかに、琴美はじっと興味深げに見つめてきていた。美明がにやにや笑っているのは、まあこれはいつものことだ。力也は肩を竦めて、ベランダの手すりに片肘を乗せた。
「夢、ね。なんなんだろうな」
そのまま掌の上に顎を乗せ、横を見るようにする。
「琴は、なにかある?」
「え、ずるい、お兄ちゃんが先」
「そうだぞ、お兄ちゃんが先だぞ」
「そうよ、お兄ちゃんが先よ」
父だけならまだしも、母まで悪のりしてくる。力也は笑って、優しく妹を見つめた。
「考えをまとめたいだけだよ。琴のを、先に聞きたいな」
「そう?」
「ずるいぞ、お兄ちゃんちゃん」
「ずるいわよ、お兄ちゃん」
考え込んだ琴美をよそに、また美明と鈴子さんはふざける。鈴子さんなど、完全に楽しんでいるようだ。二人を無視して、力也は妹を促した。
「どう?」
「うん、わたしねー」
中一の割には全体的にまだ幼い琴美は、しかめっ面にも見える真剣な表情で頷いた。
「お菓子屋さんに、なりたいかもしれない。可愛いケーキ屋さんなの」
「え、そうなのかー? おとーさん、初めて知ったぞ」
「おれもだ。まあ、らしいと言えばらしいかな」
「あらまあ、わたしもよ。でも、琴ちゃん、お菓子づくり、好きだものね。素敵な夢だわ」
家族は三者三様に頷く。が、本人はどういうわけか難しい顔をしていた。でも、と、言葉を続ける。
「でも、婦警さんもいいかな、と思うの」
「そ、そりはちょっと危険そーだから、おとーさんはおすすめしないかも」
「ふ、婦警……。な、なんか琴には似合わないな」
「そうかしら? やりたいのなら、頑張ればいいとわたしは思うわ」
鈴子さんの言葉に、男二人はまあそうだけど、ともごもごと頷く。当の琴美は、さらに考え込んで口を開いた。
「OLも、やってみたいかもしれない。お花屋さんも、すてがたいの。あ、お母さんみたいな素敵な専業主婦も、いいな」
「…………」
「…………」
男二人は、ここまで来るともう何も言えなくなってしまった。素敵な専業主婦、と賞された母親だけが、楽しげに笑う。
「あらあら、琴ちゃん、やりたいことがたくさんあるのね」
「うー、だって、どれも楽しそうなんだもん」
「楽しそう……」
力也は呆れたように呟く。が、すぐに良くも悪くもそれはすごい考え方かもしれない、と気付いた。世間知らずとも言えるが、色々な職業を楽しげだと本気で思ってそしてそれが社会にでても持続するのなら、人生を断然得した形で体験できるだろう。ある種羨ましいとも、力也は感じる。力也とって、仕事というのは「生きるための手段」という趣が強すぎて、それを他の利害とは無関係に楽しむなど、もうできそうにないから。
呆れた力也と違い、美明の方はその発言を最初から美徳と受け取ったらしい。愉快そうに笑って、娘の髪に指を通すようにして、その頭に手を乗せる。
「はは、そうか、楽しそうか。まあ、気長に決めればいいわな。コトリはまだ中一だし、人生色々、やっぱ楽しまなきゃねー」
「うんっ! お兄ちゃん、わたしは言ったよ。次はお兄ちゃんの番だからね」
「そうよ、お兄ちゃん。次はお兄ちゃんの番よ」
「おとーさんみたいな、素敵なサラリーマンになりたいんだろ。言わずともわかるぞよ、我が息子よ」
「だれが親父みたいになりたがるかよ。おれはそこまで人生捨ててないぞ」
「どういう意味だ、こらー?」
「文字通りだよ」
そう言い捨ててから、力也は髪を掻き上げた。セットとかをめんどくさがる方だから、力也の髪は短い。おかげで美明に掻き回されても風になぶられても大差はなく、掻き上げるのも全く意味のある行為ではなかった。力也はそれで間をおくと、軽く肩を竦めた。
「夢と言われても、わかんないな。就職して結婚して子供を産んで、平凡でも幸せに暮らせればいい、漠然とそんなふうに思うだけ、かな」
「ふーん?」
具体性がほとんどないからか、琴美はよくわからなそうな声を出す。美明はがっははは、と笑って見せた。
「男の夢としては、みみっちいぞ、我が息子よ」
「あら、でも、あなたのやってる事と同じじゃない?」
「……え?」
「おやっ?」
言われてみれば、と思ったのか、同時にそう声を出す息子と父親。いきなりイメージが沸いたのか、琴美は笑顔を押し上げた。
「なぁんだ、お兄ちゃんは、やっぱりお父さんみたくなりたいんだね?」
「ち、違う! それは絶対違う! おれはもっと子供には優しくして、人にぺこぺこしたりしないでお金も稼いで余裕のある暮らしをして、とにかく、絶対親父とは違う!」
「はは、照れるでないぞ、息子よ。子は親の背を見て育つのだ」
みみっちい、と言っていたのは、どこへ行ったのだろう。力也はさらに顔を真っ赤にして怒鳴った。
「絶対ちがーう!」
「あらあらまあまあ、リキくん、別に恥ずかしい事じゃないわよ。とっても素敵なことだわ」
「だから違うってば!」
「うーん、そんなふうにおとーさんのことを思っていてくれたなんて、おとーさん感激だなあ」
「お兄ちゃんなら、きっと素敵なお父さんになるね」
「あら、琴ちゃんだって、素敵なお母さんになれるわ」
「うー、おとーさんとしては、コトリがおかーさんになるのは、まだ考えたくないぞ」
必死で否定しようとする力也をよそに、他の三人はすっかり話題を移行させていく。力也は疲れたような表情で、微かにため息をついて、半ば投げやりに空を見上げた。
風の冷たさは、慣れたせいか興奮のせいかもう感じない。微かに漏れてくる付けっぱなしになっていたCDの音に混じって、家族のあたたかく楽しげな声が、夜空の下に響く。
この日の星空は本当にきれいだった。
おしまい。
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二稿 2005/10/29
更新 2008/02/29