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 キオクノアトサキ

  Taika Yamani. 

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  第十一話 「できることとできないこと」


 両手で軽々と絞め殺してしまえそうな、白くほっそりとした首。きめ細かでしなやかで、肉付きは悪くないが、ひ弱そうな二の腕。なだらかな肩と細い鎖骨、意味もなく整った形の胸の脂肪に、肋骨が透けて見えそうな痩せたわき腹。抱きしめて少し力を入れれば簡単に折れてしまいそうなウエストと、一転、年相当に豊かで無意味に丸いお尻。
 背中からウエスト、腰から太ももへのラインもなめらかに女性特有の曲線を描き、男性的逞しさを感じさせない。二本の足も、すらりとしてひきしまって弾力はあるくせに、筋肉質とは思えない。下腹部には男だった時にあったものがなく、無駄に柔らかいその部分はふっくらと繊細で、お風呂で洗う時は今でも苛立つ。
 翼はお風呂に入るなりいつも通りさくっと、だがちゃんと丁寧に全身を洗うと、顔と髪と頭まで洗ってから、湯船に入った。
 二ヶ月ほど前はカラスの行水もいいところだった翼だが、だいぶ慣れてきたのか、今では普通の入浴には耐えられるようになってきている。身体を洗っている時は嫌でも意識してしまうが、それ以外の時は特別に強い嘔吐感を覚えることももうない。身体を伸ばしきるには少し手狭なサイズの浴槽の中で、翼は片側の縁に頭を預けて、華奢な肩までしっかりとお湯につかった。
 天気予報では夜には雪が降るというだけあって、午後からすっかり寒かったから、この日のお風呂は特に心地よい。ぬるめのお湯に包まれてぼんやりと斜め上を見上げると、天井の白いライトが、湯気に包まれた室内を照らしていた。
 スカイブルーのタイルがきれいに輝いているのは、母親がきちんと掃除をしているおかげだろうか。以前の翼はよく強制的に掃除をやらされていたものだが、この状況になってからは言われたことがない。かつてなら自分からはしたがらなかったが、こうも何も言われなくなると気を遣っているのかなと思えて、たまには手伝わないとな、などと翼は考えた。
 年も明けた、一月四日の夕刻。
 この年末年始、十二月三十一日から一月二日にかけて、翼は家族とともに父方の田舎へと里帰りをした。十一月に母方の祖父母と会った時にすでに疲れていたこともあって、翼はできれば遠慮したかった田舎行きだが、普段は厳しい父方の祖父母も翼のことを心配していたし、翼の一方的な都合で縁を切るほど冷たい関係ではない。年の離れたイトコたちも、会えば一緒に楽しめる間柄だ。結局逆らわずについていき、大晦日とお正月をそこで過ごした。記憶の問題があるためやはり疲れたが、それなりに楽しい田舎行きだった。
 帰ってきたのは二日のおやつ時で、荷解きをする前に、友人の蓮見陽奈と松本文月が遊びに来た。のはいいが、お土産をせがんだ挙句に、初詣に引っ張り出してくれた。年始の二日目だけあってまだ神社も混んでいたし、帰りは陽奈の家にも挨拶に回って、翼はすっかりくたくたになった。この身体のせいなのか、この二ヶ月でなまっているのか、それとも単に精神的なものなのか。いずれにせよ、同行していた妹は家に戻っても元気な様子で、翼は少し釈然としない思いを抱いたものだ。
 三日は家でのんびりしていたところに、また午後から陽奈たちが遊びにきて、翼を今度は買い物に引っ張り出そうとした。さすがにたまには家でゆっくりしたい翼はきっぱり拒絶したが、陽奈たちは膨れつつもそのまま翼の家に居座った。「おれにばっかりかまってていいのか?」とも翼は思ったが、陽奈たちは翼を気にしているというよりは勝手に楽しんでいる風情だし、翼本人も彼女たちと遊ぶのが嫌なわけではない。なんだかんだで、百人一首などしてかなり健全に遊んで楽しんだ。
 そして四日、今日。翼は朝から、学校の女子バスケット部の初練習に参加した。あの日以来、初めての部活への参加だ。
 と言っても、体育の授業でわかっていたからまずは基本的な運動からで、初心者のようなメニューを繰り返しただけだ。文月たちに促されてシュートを試したり一対一の勝負もしてみたが、とっさの判断を強いられるとまだ男の身体のつもりで動いてしまったりするから、完全復帰には程遠い。並みの女子相手に勝てないなんて、今まで鍛えてきた苦労が全部なくなっているような状況で、翼は嘆きたくなったものだ。
 が、そんなのはじめる前からわかっていたことだし、終わってみれば充実した時間だったとも思えた。肉体感覚的に嫌な思いもするが、思い切り身体を動かして汗をかくのは悪くはない。やはりバスケは好きだし、運動それ自体も嫌いではないことを再確認させられた。おかげで少し筋肉痛だが。
 部活の後は文月の家に立ち寄り、文月の手料理をご馳走になったり、ゲームをしたり無駄話をしたりしてすごしたが、ここで陽奈と文月の口からとんでもない提案が飛び出した。翼は断固として拒否したが、それを受け入れていたらどうなっていたか、少し悶々とする部分もある。
 「泊まりになんてこられてもな……」
 陽奈に言わせれば「お泊り会」で、文月に言わせれば「ぱじゃまぱーてぃ」。すっかりお世話になっている二人だから、彼女たちが望むのならできるだけのことはしたいが、陽奈や文月と同じ部屋で眠るなんて、翼は自分の心がどう動くかまったく予想がつかない。いざとなれば薬で強引に寝てしまえるが、落ち着かない夜を過ごすことになるだろう。
 なのに、「陽奈のパジャマ姿は可愛いだろうな」とか、「文月は子供っぽい服だとガキだろうけど、大人っぽい服だと色っぽそう」とか、いらないことを考えてしまうのだからたちが悪い。見てみたいという正直な欲求もあるからなおさらだった。
 男の欲望は発散のしようはないとわかっていても、そんな自分を感じさせられて強く落ち込むとわかっていても、すでに落ち込みつつも、今の翼の正直な気持ち。
 「……やっぱり惜しかったかな……」
 なんにせよ、そう思う部分はあっても、きっぱりと陽奈と文月の提案を拒絶したから、もう関係ない。
 ――はずだったのだが。
 いきなり、浴室のガラス戸が開いた。
 「やっほ〜。つばさ、一緒にはいろ〜」
 「翼、おじゃまするね」
 追い出される可能性をしっかり考慮しているのだろう、二人とも早口で言うと、そう広くない浴室をさっさと近づいてくる。
 驚いて上体を起こした翼は、絶句して、そのまま数秒、動けなかった。
 中に入ってきたのは、文月と陽奈。二人とも、服を着ていない。
 陽奈は慎ましくタオルを持って胸元で押さえて、胸から下を微妙なラインで隠している。それでも露出度が高く、見えそうで見えないのが妙に色っぽいとか思ってしまうのは、翼が悪いのだろうか。長い髪はアップにしてまとめていた。
 文月は何一つ持っていない。彼女らしい、物怖じしない態度。
 翼にはインパクトが強すぎた。予告があれば、内心を隠して観察するくらいのことはやってのける翼だが、さすがに突然すぎてとっさに思考がまとまらない。
 「つばさ、少しどいてっ」
 「文月、入る前はちゃんと洗わないとダメだよ」
 「いいのいいの、うるさいことは言いっこなしっ」
 文月は、すっぽんぽんと表現したくなるような態度で、隠しもせずに、翼の足の方から湯船に入り込む姿勢を見せる。陽奈は胸元でタオルを押さえたまま、床に膝をつけるような姿勢で片手でおけを取って、タオルごと身体にお湯をかけようと動く。
 「いつも言わせないでよ。人様のおうちなんだから」
 「ちょっとくらい気にしないもん」
 「文月以外が気にするんだよ」
 二人の動作に伴って、色々な部分が、翼の目に飛び込んできてしまう。
 翼はめまいを覚えたが、文月が本格的に湯船の中に入ってきて、素足同士が接触した時点でぞくっと反応した。刹那、発作的な吐き気が襲ってきてしまい、翼の感情は一気にすごい速さで移ろった。
 『なんで触れるだけで気持ち悪くなるんだ』『家のお風呂がもっと大きければ距離をとってじっくり観察できたのに』『だけど今は見たってどうもできない』『男の身体でなら色々できたのに』『いや男のままでも我慢させられただけだろ』『でもできるけど我慢するのと最初からできないのは意味が全然違う』『やっぱり辛すぎだろう……』
 そもそもなぜこの二人が家にいるのかとか、なぜ勝手に入ってきたのかとか、疑問は頭をぐるぐる回って、思考はもうぐちゃぐちゃである。泣きたい気分になった。
 「あや、珍しくぬるめだね」
 「翼、前は熱めが好きだったよね?」
 最初はぬるめで最後は熱く、というのが今の翼のお好みのパターンなのだが、そんなことを言っている余裕もない。
 「おれはもう上がるよ」
 翼は声にも身体つきにも不釣合いな口調で言葉を投げると、ざばっと音をさせて立ち上がった。お風呂の熱気のせいだけなのかどうか、翼の全身はうっすらと桃色に上気していた。
 「え、ダメに決まってるじゃん!」
 「う、うん、久しぶりに洗いっことかしようよ」
 湯船に入っている文月と、床に膝をついている陽奈、別の角度からの姿も、翼の理性をかき乱す。
 「もうすんでるから。上がるよ」
 翼の声は、感情と裏腹に落ち着いて響いた。翼は自分も隠しもせずに湯船からでて、素早く早足で歩いた。
 「えー、ずるい! まだいいじゃない!」
 「翼、遠慮しない約束」
 遠慮とかずるいとかいう問題ではない。開けっ放しの戸から、翼は浴室をでた。
 とたんに、翼の身体に柔らかい物がぶつかっていた。
 「きゃんっ」
 「…………」
 翼の腕の中に、すっぽりと妹の小さな身体が。しかも飛鳥も全裸だ。陽奈と同じように胸元でタオルを持っているが、突然の衝突のせいか、隠し切れていない。翼の濡れた胸のふくらみが、飛鳥の身体に押し付けられて、形を変える。
 「飛鳥チン、つばさを止めてっ!」
 「え、え、お姉ちゃん?」
 なぜか顔を赤くしている飛鳥は、上体を少しそらせるようにして翼を見上げる。飛鳥の身体はまだ小学生みたいで子供っぽいが、成長期だけあって、充分に女の子らしく柔らかい。
 「つばさ待ちなさい!」
 翼はまたいらないことを考えてしまった後に、文月の声に押されるようにして、素早く飛鳥と身体の位置を入れ替えた。そのまま、後を追ってきた文月に飛鳥の身体をぶつけて強引に戸を閉めて、悲鳴を背に、用意していたタオルとバスタオルをつかんで脱衣所をでる。
 後ろでさらに何か声が聞こえたが、気にする余裕はない。バタン、と大きな音とともに、脱衣所のドアも閉めた。堪えていた衝動が言葉になって零れる。
 「……おれにどうしろっていうんだ……」
 理性と衝動と廊下の強い冷気に、もう感情が壊れそうだった。翼が男なら、仮に同じ行動に出るとしても三人の態度は違ったはずだ。翼も内心を押し殺して「犯されたいのか?」とでも冷めた視線を作って、脅して追い返そうとしただろう。それでも動かないなら、今のように自分が外に出るのではなく、いざとなれば本当に襲ってしまう手だってある。
 だが今は、それができない身体。
 発散のしようがない欲望の反動なのか、その事実を実感させられることが相変わらずきつい。絶望に近い感情を覚えてしまう。
 同時に現実の寒さに身体を震わせて、それに促されるように翼は動いた。ぬるめのまま上がってしまったから身体があたたまりきっていず、身体も濡れているし廊下はかなり寒い。自分の部屋も寒いだろうから、とりあえずリビングに避難することにする。
 腰にタオルを巻き、バスタオルで髪の水気を取りつつ、廊下を濡らしながら早足でリビングに入る。
 ほどよく暖房がきいたそこは暖かかった。翼は泣きそうな気分のままほっと一息ついて、改めて、バスタオルで身体をぬぐう。
 すぐに、ソファーに座っている父親の視線に気付いた。
 いつのまにか上体だけ翼の方を振り向いていた父親の龍彦は、無表情で目を下に動かし、翼の足元まで辿り付いた時点で、ゆっくりとテレビのニュース番組に視線を戻した。
 「風邪を引くぞ。早く服を着てきなさい」
 「…………」
 全裸で腰にタオルを巻いているだけという十七歳の娘に、表面上は少しも動じていないような、そっけない父の声。今の目の動きはなんだ、と思わなくもないが、子供の成長を実感することはあっても、気にはならないということなのだろうか。翼は深く考えないことにして、とりあえず身体をぬぐい終わったら部屋に戻るつもりで、父に背を向けてとにかくバスタオルを使おうとしたが、まだ騒動は終わらなかった。
 ドタバタと廊下がうるさくなったかと思うと、ドアがバッと開いたのだ。
 「つばさ、なんで逃げるのっ!」
 さすがに、翼も慌てた。
 「文月なんでここに!」
 「つばさが逃げるから!」
 文月はまだ全裸だった。隠さない態度など妙に子供っぽいが、やはり色っぽさも隠し切れない。翼は強く怒鳴った。
 「そうじゃない! ここには父さんもいるんだぞ!」
 「そんなのいいからいっしょにきなさ――え?」
 怒鳴った後に、文月が凍りつき、その視線が翼の後方、ソファーに座る龍彦に向く。龍彦は視線をしっかりとはずしているが、少し顔を動かせば娘の友人のすべてが目に入る位置だ。
 「き、きゃあぁぁぁぁぁあああ!!」
 いったいどこから声を出しているのか、大きな甲高い悲鳴。文月は叫びながら腕で胸と下腹部を覆うと、背を丸めるようにして床にへたり込んでしまった。
 翼としては意外な文月の反応だ。が、翼の脳裏をよからぬ思考がよぎるが、感情がまとまる前に、事態はどんどん勝手に流れていく。ダイニングキッチンの方から、今度は母親の亜美が顔を覗かせたのだ。
 「あんたたち、なんて格好で騒いでるの!?」
 もう誰かどうにかしてくれ、という心境になる翼。なんだって裸で、こんなわけのわからないやりとりをしなければいけないのか。翼はバスタオルを文月の身体に投げると、逃げるようにリビングを出た。
 まだ翼の身体は濡れているから、タオル一枚で廊下はやはり寒すぎる。背後で文月の泣き声と母親が何やら言う声が聞こえるが、とにかく身体を乾かして着替えないと落ち着かない。駆け足で脱衣所に逆戻りし、一瞬ためらってから、ドアを開け放つ。
 ここで飛鳥や陽奈がいたらまた一騒動あっただろうが、二人は大人しく浴室にいるらしい。翼は大きな息を吐き出して、新しいバスタオルを取る。そのまま脱衣所を出る前に着替えも取ろうとしたところで、文月も走って戻ってきた。
 「ふぇ〜ん! おじさんに見られた〜!」
 バスタオルを巻いてしっかりと胸から下を覆っている文月は、本気で半泣きだった。翼は意識して、スタイルのいい文月の身体から目をそらした。見たいに決まっているが、翼が意識しすぎなのかどうか、さっきから文月の姿は扇情的過ぎる。
 「自業自得だ」
 「つばさがあんなとこに逃げるからだもん!」
 「人のせいにするな」
 着替えに用意していた衣服を取り上げると、翼はまたドアの方に向かう。
 「あ、ねー! ほんとに一緒に入ってくれないの!? 前は一緒してくれたじゃん!」
 「知るかそんなの!」
 翼は本気で怒鳴っていた。その語調の鋭さに、文月は怯んで息を呑む。
 「さっさと文月も入れよ」
 投げやりに言い捨てると、翼はまた廊下に出た。
 そして再度、人にぶつかりそうになった。娘たちが何をやっているのかと様子を見にきたのだろうか、母親の亜美だ。
 「あんた、さっきからそんな格好で何してるのよ? ってゆーか、まずちゃんと胸も隠しなさい、胸も」
 「……ふぅ」
 翼は着替えを持ったまま、いったんタオルを解いて、バスタオルを脇の下に通すようにして身体に巻きなおした。男だった時は必要のなかった行為で、もうため息しかでない。いっそ本当に泣きたかった。
 「文月たちが勝手に入ってきたから、逃げただけだよ」
 「ああ、はは、何やってんだか。あんた、前は一緒に入ってたじゃない」
 「そんなに強くない」
 「はぁ? たかがお風呂なのに何言ってんの」
 「たかがじゃないよ」
 本当に風邪を引きそうに寒いから、翼はそのまま歩きだす。幸い、文月はもう追ってはこなかった。
 「だいたいなんで陽奈と文月がいるわけ?」
 「泊まりにきたんでしょ? わざわざお弁当もってきてるみたいよ」
 「聞いてない」
 「飛鳥が言ってたわよ」
 翼がだめだと言ったから、飛鳥を巻き込んで、飛鳥の部屋に泊まるという名目でもこしらえた、ということなのだろうか。翼は嘆きながら、母の傍から離れた。
 「部屋に戻ってるよ」
 「ああ、うん。もうすぐごはんよ。あ、あの子たちの分もなんか作ろうか?」
 「今日は絶対いらない」
 亜美は冷淡な声を出す翼を見て、人の悪い表情で笑った。
 「ま、あんたがそう言うならね」
 翼は母と別れると、自分の部屋に戻ってから暖房をつけて、くしゃみをしながらさっさと私服に着替えた。



 着替えた翼は、ベッドの上で両膝を抱くようにして座って、気持ちを落ち着かせようとしていたが、感情はあまりいい方向には進まなかった。昂ぶる部分を静めれば必然的にそこが残ってしまうのか、どんどん気持ちが落ち込んでいく。
 「……あの子たちはいつも、心の準備ができる前に押しつけてくる……」
 いつもと言っても、まだ出会った時と二度目かもしれないが、翼にとっては多いくらいである。だがこの調子だと、三度目四度目もあるかもしれない。
 「はは……」
 自分の想像に、翼は乾いた笑い声を立てて、最後にため息をついた。
 「……いっそ、女の快感とやらに溺れることができたら楽なのかな」
 口にしたとたんに、翼の身体は震えた。考えるだけで、気持ち悪くなるのはどうにかしてほしい。翼は泣きそうな気分で、膝に額を押し付けた。
 今の翼にあるのは、男の身体で、女とそういうことをしたいという欲求。この身体では絶対に叶うことがない欲求。
 「……一生、こうなのかな」
 今のこの身体に対する反発と不満。理性的には諦めて受け入れているつもりでも、無意識なのかなんなのか、時々どうしようもなくそれが耐えがたくなる。
 時がたてば、この衝動も収まることはわかっている。体育の着替えの時もそうだ。陽奈たちとどうでもいいような話をしているうちに、気がまぎれる。時々夜に理性を放棄して泣くに任せるが、だとしても一晩もたてば、人前で態度に出さないだけの冷静さは取り戻せる。
 結局は、そうやって生きていくしかないのかもしれない。叶えられない欲求を、ごまかしながら生きていく生き方。翼の場合は少し特異だが、人間にはできることとできないことがあって当然だ。その上で、できないことを望んでしまうのなら、その叶わない願望とともに生きていくしかない。意識的に願望を消し去ることはとても難しい。
 だが、どんなに一般論で理論武装しても、感情は簡単にはついていかない。今はそれしか選択肢がないのだとしても、嫌だと思うことはやめられない。
 「生きるって辛いな……」
 しみじみと思って、翼はベッドに身体を倒した。
 だが翼は知っていた。生きるということは、辛いだけではないということも。
 少なくとも、今の翼にとってはそうだった。






 しばらくしてドアが控えめにノックされたが、翼の反応は鈍かった。
 怒る気力はなく、笑っていられる余裕もなく。今陽奈や文月を見ればまた苦しくなることを無意識に実感して、落ち込みだけがひどくなる。欲求不満や鬱屈した気持ちを八つ当たり気味にぶつけるのも間違っていると思ってしまうから、感情的に接してこられたら、翼はどう動いてしまうか自分に自信が持てない。できれば今日はもうそっとしておいてほしかった。
 が、同時に、翼は自覚していなかったが、正反対の感情もあった。
 落ち込んでいる自分を慰めてほしい。かまってほしい。いつものように、どうでもいいような話で気を紛らわせてほしい。
 冷静な時なら、翼は自分のその感情を、極めて主観的に甘えだと認識しただろう。
 翼がノックに応答を返さずにいると、やがておずおずと、ドアが開く。翼はベッドに横たわったまま動かなかったが、予想に反して、ドアを開けた人物の声は弱々しかった。
 「お姉ちゃん……?」
 声の主は妹の飛鳥。翼が顔を上げずにいると、飛鳥はおっかなびっくりという態度で、中に入ってくる。翼はすぐに飛鳥が一人らしいと気付き、ゆっくりと身体を起こした。
 「あの、お姉ちゃん、さっきはごめんなさい……」
 「…………」
 普段はお風呂上りはすぐパジャマの飛鳥だが、翼同様まだ外出もできる格好だった。うつむきがちに上目遣いにじっと見つめてくる妹は、いつも以上に子供っぽくて幼い。
 そんな飛鳥に、翼の思考はめまぐるしく動いた。文月や陽奈に不満をぶちまけられるならまだしも、いきなり妹に一人で謝られるのは想定外もいいところである。結局翼は、ため息混じりに苦笑いを浮かべていた。
 「いいよ。どうせ言い出したのは文月あたりだろ」
 「……怒らないの?」
 「怒ってほしいのか?」
 飛鳥はぶんぶんと激しく首を横に振ると、ほっとしたように笑顔を見せた。
 「お姉ちゃん、先に上がっちゃうなんてひどい」
 「……やっぱり怒ろうかな?」
 「もうだめ」
 飛鳥は子供っぽく笑って、ぴょこんと姉のベッドに膝を乗せてきた。今の翼が使っているものと同じシャンプーの香りが、どことなく飛鳥の色になってそっと甘く漂う。翼は片膝を立てた姿勢で、力なく微笑んで、横に座り込んでくる妹を見やった。
 「陽奈たちは、まだお風呂?」
 「うんと、そうかも。ね、お姉ちゃん、わたしには怒らないって、本当?」
 誰が言ったんだそんなこと、と思いつつ、翼は正直に答える。
 「飛鳥には勝てる気がしないよ」
 正確には、怒れない、と言うべきかもしれない。今の飛鳥は露骨に甘えてくるが聞き分けもいい方だから、翼はよほどのことがないかぎりきつくはできない。
 「じゃあ、わたし、今度、お姉ちゃんとちゃんとお風呂入りたい」
 「それはだめ」
 「どうして?」
 つんと唇を尖らせる飛鳥。
 「飛鳥ももう少し恥じらいを覚えた方が可愛いよ」
 「お姉ちゃんなら別に恥ずかしくないわ。……陽奈さんたちに見られるのは、少し、恥ずかしかったけど……」
 「おれが恥ずかしいってことにしといてくれ」
 「……そうなの?」
 目をぱちくりさせる飛鳥に、翼は微笑を誘われてしまう。
 「そうなんだよ」
 「陽奈さんは、お姉ちゃんは女の子を意識してるんだって言ってた」
 「……ふーん」
 「だから、リハビリさせるんだって。裸の付き合いができるくらいになればいいって」
 「……リハビリ、ね」
 翼は顔には苦笑を浮かべただけだったが、頭の中では陽奈の内心を思ってため息をついていた。翼は本人に直接言ったことはないが、陽奈は翼の気持ちをかなりの部分まで把握しているのかもしれない。なのにこの行動だからたちが悪いとも言えるが、逆にそれが彼女の気持ちの表れだとも言える。ぎりぎりまで翼の気持ちに手出しはしないと口では言っていたが、翼がまだ陽奈に気軽に頼ることをしないせいもあって、どうしても手を出さずにはいられないのだろう。
 遠慮したくないという気持ちを実行に移しているだけだとしても、強引すぎると思えるほどに、前向きな陽奈。
 「わたしは、今のお姉ちゃんも好きだけど……わたしにも気を遣ってるの?」
 「……飛鳥のことは、大事にしてるってことでだめかな?」
 弟の飛鳥のことも想ってたくさん。
 翼は優しく笑って、飛鳥の髪に手を伸ばす。肩くらいの長さの細い髪は、少し湿ってしっとりと艶めいていた。翼と同じストレートの髪質で、さわり心地が柔らかい。そっと撫でると、飛鳥はちょっとだけ身を縮めながらも、嬉しそうに笑った。
 「わたし、そんなに子供じゃないわ」
 と言いつつ、飛鳥はベッドの上で少し大きく動いて、姉に身を寄せる。飛鳥は翼の肩に頬をあて、翼の腕は飛鳥の頭を抱き込むような位置になった。「今陽奈たちにこんなふうに近づかれたらドキドキだろうな」といらないことを考えながらも、翼は妹には冷静に優しくする。
 「大人には遠そうだけどな」
 「それは、まだ身体はぜんぜんだけど」
 「身体の話じゃないよ」
 「でも、早く背も高くなりたい。胸も、お姉ちゃんたちくらいほしい」
 言葉とともに、飛鳥はじっと翼の胸の部分に視線を注ぐ。翼はいつもなら客観視してこの手の話も軽く受け答えするのだが、さっきの今だからか、ちょっと心が乱れた。
 「……飛鳥はこれからだと思うよ」
 「そうなんだけど、お姉ちゃんたち見ると、うらやましい。お姉ちゃん、今サイズいくつ?」
 「飛鳥はまだAAか?」などと余計なことも頭によぎらせつつ、翼は表面上だけは落ち着いて、妹の問いに答える。
 「70のBだったかな」
 「え、陽奈さんと一緒なの?」
 「…………」
 余計な情報を与えてくれる飛鳥だ。理論値としては、トップバストが八十センチから八十五センチの間ということになる。翼は先ほど目の当たりにしたばかりの陽奈のそれを脳裏に浮かべてしまい、もう笑うしかないという感じで例の微笑を浮かべた。
 「お姉ちゃんの方がちょっと大きいと思うけど、Cくらいない?」
 「ないよ」
 「えー、そう? 今度一緒に調べてもらいにいかない? わたしもね、ちょっとはおっきくなってると思うの。一緒に調べてもらいに行きたい」
 「気が向いたらな」
 「約束よ?」
 「だから気が向いたらな」
 「うん、でも約束だからね?」
 翼の言葉を都合よく解釈しているのか、楽しげに笑っている飛鳥。翼は苦笑交じりに肩をすくめた。
 「あ、お姉ちゃん、ごはんはここでいいわよね? みんなで食べるの」
 「飛鳥の部屋でちゃんと面倒見なよ」
 「えー、いやよ、陽奈さんだけならいいけど、文月さんまで面倒見切れないもの」
 「だったら最初から泊めるなよ」とか「ひどい言いようだな」などと、翼の脳裏をいくつもの感想が駆け巡る。翼は今度は作り笑いではなく、自然に笑っていた。
 「今日は飛鳥の客だろ?」
 「そうだけど、わかってるくせに」
 ぷく、とほっぺを膨らませる飛鳥。翼としては、なんとなくつつきたくなるほっぺただ。
 「やれやれ、困った妹だな」
 「だって、今日は陽奈さんがどうしてもって言うんだもの。陽奈さんはね、お姉ちゃんにもっと素直になってほしいのよ」
 その一歩として裸の付き合い、ということなのかもしれないが、翼には壁が高すぎる一歩だ。友情を深めるに際して、同性同士なら悪くはないのかもしれないが、異性同士の場合は、そう単純には話が進まない。
 「……もしかして、お風呂を言い出したの、文月じゃなくて陽奈?」
 「うん。でも文月さんも面白がってたわ。わたしは、止めようとしたんだけど……一緒に入っちゃった」
 飛鳥は甘えるように笑ってから、翼の身体に頬を摺り寄せた。
 「お姉ちゃん、あったかい。いい匂いがする」
 「……まあ、お風呂上りだから」
 「さっきも、つやつやでやわらかかった」
 「……飛鳥もな」
 「ほんと?」
 「嘘はつかないよ。思ってたより成長してた」
 飛鳥は少し頬を赤らめて姉を見上げて、ニコニコした。
 「やっぱり、わたしもちょっとはおっきくなってるわよね」
 「飛鳥は成長期だから」
 「そうよね、お姉ちゃんも中学に入ってからだものね、おっきくなったの」
 「身長はそうみたいだな」
 「胸もそうよ。お姉ちゃん、サイズがAになったの、いつ?」
 「さあ、記憶にないな」
 「あ……」
 「でもきっと飛鳥と同じくらいだよ」
 翼は優しく飛鳥の髪を一撫でする。飛鳥は上目遣いで姉を窺うように見て、それから頬を緩めた。
 「わたしも、高校生になれば、お姉ちゃんくらいになるかな?」
 「……似てるみたいだしな、大丈夫なんじゃないかな」
 「ね、お姉ちゃん、やっぱり今度一緒にお風呂入ろう?」
 「それはだめ」
 「う〜」
 「うーうー唸ってると文月みたいになるぞ?」
 「え、そんなのやだ」
 飛鳥は子供っぽい反応の早さで、しゃきっと姿勢を正した。翼は笑ってしまう。
 「一緒にお風呂に入ってたのって、三年生くらいまで?」
 「そうよ、お姉ちゃん、中学に上がってから一緒に入ってくれなくなったわ。わたし、お姉ちゃんとお風呂で遊ぶの、好きだったのに」
 「子供だったんだな」
 「うん、でも、今も遊ぶの好きよ?」
 今も子供なんだな、と思ったが口に出さない翼。飛鳥は翼の心が読めるかのように、今度は拗ねたように上目遣いに睨んできた。
 「お姉ちゃん、わたしを子供扱いしてるでしょ……?」
 素直ではないまなざしだが、物言いは可愛らしい。翼は明るく笑う。
 「うん、もう少し、飛鳥には子供でいてほしいから」
 飛鳥はスキンシップが好きなようだから、これ以上成長されるとちょっと困る。
 「すぐ大人になるんだからっ」
 飛鳥が元気よくそう答えた時、ドアの方で物音がした。
 「楽しみにしておくよ」
 翼はもう一度しっかりと飛鳥の頭を撫でてから、そっと身体を離した。飛鳥も音に気付いたようで、「陽奈さんたちがきたみたい」と立ち上ってドアの方に歩く。翼は数秒目を閉ざして、外の二人が中に入ってくるのを待った。





 to be continued... 

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初稿 2004/10/28
更新 2008/02/29