キオクノアトサキ
Taika Yamani.
第三話 「そこにあった日常」
目が覚めそうになっているのを、翼は自覚していた。
夢の残滓が形をとって、次第に一つの時間を再現する。まどろみの中に浮かんだその光景は、夢ではなく記憶。翼にとって懐かしい過去。翼が初めて、バスケットボールのゴールリングを、助走抜きでつかんだ時の出来事。
その日、バスケットのハーフコートになっている体育館脇は日当たりがよく、ぽかぽかしてお昼寝日和だった。高校二年に進級する春休み、翼は友人の蓮見武蔵と松本文也と、午後からの部活に少し早く来て、おそろいの男子バスケ部のウィンドブレイカー姿で、他愛もない話に花を咲かせていた。
話題は次々に移ろい、いつのまにか、もうすぐ発売されるという家庭用ゲーム機のゲームソフトの話になっていた。昔から武蔵はその手の類の物が好きだし、文也もかなり好みが偏っているがたまに熱中する。が、自宅にゲーム機を持っていない翼は、二人の話についていけずに、体育館の壁にもたれかかって半分眠りそうになっていた。夏はとても暑くなる場所だが、春や秋は本当に気持ちがいい。
壁際にぽつんと置かれた大きくて古いバケツの中から、バスケットボールを取り出したのは文也だ。最初は座ったままごろごろと転がして遊んでいた文也だが、夢見ごこちの翼に、いきなりボールを投げつけてきた。
翼の頭の上で、ボールが鋭い音を立てて、壁に跳ね返って飛んでいく。友人たちの声を子守唄代わりにしていた翼は、びくっと目を開けて身体を起こした。
「…………」
何度か瞬きをする翼。文也は笑って立ち上がった。
「今マジで寝てただろ〜?」
「おはよう、翼」
座ったままの武蔵も楽しげな笑顔だ。翼はコートに転がるボールを見やりながら、まだ覚めやらぬ頭で冷淡な声を出す。
「……部活はまだだろ。ほっとけよ」
「いや、ほっといたら絶対そのまま寝てただろ」
「うん、今日は起きないよね、絶対」
二人して笑いながら、翼の未来を断言してみせる。翼は何かきつく言い返そうとしたが、自分でもこの陽気ならそうかもしれないと思い、言葉に詰まった。
「……起こすならもっと普通に起こしてほしいな」
「当てなかっただけありがたく思え〜」
「ごめんね、いきなりだったから、とめられなかった」
「武蔵が謝ることじゃないよ」
翼は傍に座っている武蔵に無造作にそう言って、視線をハーフコートに移す。ボールを拾った文也は、リズミカルにドリブルをはじめていた。
翼は文也に文句を言いかけて、やめた。また壁に寄りかかりながら、あきれたように、ぞんざいな声を出す。
「これから部活だっていうのに、おまえは元気だな……」
「身体動かさんとおれも寝ちまうよ〜」
文也は笑って翼に言い返すと、そのまま動きを早め、一気にゴールに突撃した。
「ひっさつ、だーんくしゅーとぉ!」
斜め横からゴールに向かい、大きくジャンプして、手で直接ゴールにボールを叩き入れる文也。ゴールが激しく揺れて、ボールは地面に叩きつけられる。自分には真似のできない芸当だから、翼はちょっと嫉妬して、無言でボールの行方を追う。武蔵は明るく賞賛の声をもらした。
「すごいね、本番でもそのくらい上手く決まるといいのにね」
「ソレハ言わない約束だぜおっかさん」
「せめてお父さんにしてよ」
武蔵は笑って言いながら、「ぼくらもできるようになりたいね」と、翼を見る。翼は「そうだな」と軽く応じた。文也は陽気な顔で、ボールに向かって歩く。
「武蔵は、がんばりゃできるんじゃねー? リングも余裕でつかめるし」
「ん、でもまだまだだよ」
「翼なんてぎりぎりだからな〜。武蔵はまだ望みあると思うぜい」
「…………」
身長が百九十センチ近い文也と、百七十五センチを超えている武蔵、百七十ちょっとの翼。自分のバランスのいい肉体は気に入っているから、翼はさらに身長がほしいわけではないが、妙にカチンと来る文也の言葉だった。
長い付き合いの武蔵は、そんな翼の心理を敏感に察しているようで、楽しげに笑いながらも穏やかに言葉を紡ぐ。
「そうでもないんじゃないかな? 翼、この間は一回はしっかりつかんでたし」
「……一回だけな」
ボールを回収しながら、文也が少し大きな声を出す。
「それって、去年やった時の話かー?」
「うん。だから翼も、もうつかむのは大丈夫だと思うよ」
「武蔵も、いっぺんダンクやってみねー?」
「ん、いいよ。翼もやってみない?」
「部活前に無駄な体力は使いたくないんだけどな」
と言いつつ立ち上がったのだから、翼もまだまだ若かった。文也が「ジジムセーこと言うないっ」と笑い、ボールを放ってくる。翼はとっさに受け取めて、手を引くように動かしてボールの勢いを殺し、手の平の力だけでボールをつかんだ。そのまま文也に投げ返そうかとも思ったが、眠気覚ましに遊ぶのも悪くないと思い直す。翼は準備運動代わりに、ボールを持ったままぐるぐると腕を回して、ゆっくりとゴールに近づいた。
「いきなりダンクに挑戦してみる?」
「おし、やってみやがれ!」
身長が百七十センチ前後なら、垂直飛びで百センチほど飛べなければダンクシュートは難しい。翼は無造作にボールを額の前に運び、片手に乗せて、もう一方の手を軽くそえて、きれいなフォームでシュートを放った。
「ナンデそのままシュートやねん!」
文也がつっこむ。なめらかな放物線を描いてリングに吸い込まれたボールを見て、武蔵は笑いながら「ナイッシュッ」と明るい声を出す。
「フリースロー勝負なら翼が勝つのにね」
「今はダンク勝負ナノダッ」
ごまかすつもりなのか、それとも何も考えていないのか、無駄に威張る文也である。武蔵はボールを回収しながら、くすくす笑う。
「それだと文也の一人勝ちだよ」
「ほっほっほ」
無気味な声を出す文也を、翼も軽く笑って、無造作にゴールリングの真下に立った。
「床からリングまでって、三メートルだっけ?」
「ん、公式のだと三・○五メートルだよ」
「こまかっ」
翼の問いに対する武蔵の回答を、文也が茶化す。武蔵はボールをバウンドさせながら、楽しそうな笑顔だ。
「おまけで言うと、ボードまでが二・九メートルで、ネットまでが二・七くらいだよ」
「こまかいっちゅうねん。でも、ツーコトハ、翼は百三十センチばかし飛べばリングに届くんだな。あ、でもそれだとさわるだけだから、つかむためには、まあ、余計に十センチくらい多く飛んでみっか?」
「百四十も飛べるわけないだろ。腕の長さを考慮しろよ」
足場を確認して、翼は頭上を見上げる。翼の視線から百数十センチの位置に、丸く赤いバスケットのゴールリングが浮かんでいた。元は白いはずの薄汚れたネットがくっついているが、真下からみると余計に汚く見える。
「腕の長さを加えると、どうなるんだろうね。翼の身長なら、プラス五十くらいしていいのかな?」
「……五十足しても、垂直飛びだと、つかむだけで九十はいるわけか」
靴の分や、武蔵と文也の推測から来る誤差もあるだろうが、平均を大きく上回る数字が必要だ。
「あれ、それっておかしくねー? 翼って、去年は九十も飛べなかっただろ? 前はなんか八百長したのか?」
「ジャンプで八百長って、どうやるのか教えてくれ」
わかっていながら、冗談で文也に応じる翼。二人のやりとりを笑いながら、武蔵はごく簡単に謎解きをして見せた。
「去年はちゃんと助走つけたよね」
「ああ、なるなるー」
垂直とびの公式記録は、世界のトップで百二十センチちょっとだが、助走をつければ百四十以上飛べるという話を翼は聞いたことがある。助走の有無は小さくはない。
「助走なしだと、文也だってダンクはきついんじゃないか?」
「んー、どーかな。助走なしでもいける気がするぞっ」
「翼と文也だと身長差もあるから。できてもあんまり威張れないよね」
「ま、ジャンプ力勝負でもふっくんには負けるけどな」
翼は事実を受け入れて笑みを見せると、少し表情を引き締めた。「ふっくんゆーな!」と反射的に言い返す文也の声を聞きながら、翼は特に予告せずに軽く身をかがめて腕を振って、強くジャンプした。
「あ」
「お」
「っく」
翼が着地すると、頭上ではリングが微かに揺れていた。もう少しというところで、翼の手はリングをつかめなかった。
「惜しい!」
「ほんとにぎりぎりだったなっ! もっかいやってみそっ」
「うん、今の翼なら、何度かやれば絶対つかめるよ」
「……安定してやれないなら、あんまり意味はないんだけどな」
翼は呟くと、もう一度リングを見上げる。リングにぶつけたため、翼の指は少し痺れていた。
「ヨシ、武蔵、翼が何回でつかむか賭けようっ」
「あは、いいよ。ごめんね、翼」
「謝るくらいなら最初からするなよ」
ちょっと冷たく見える表情を浮かべる翼。武蔵はくすくす笑う。
「じゃあ、謝らなくていいなら、謝らないでおくね」
「おれは最初から謝らないぞー」
素直と言えばいいのかどう言えばいいのか、相変わらず遠慮がない二人だ。翼もすぐに表情を柔らかくした。
「どうせならおれも賭けていいか?」
「む、それじゃ八百長し放題じゃん」
「ぼくらより少ない回数にするなら、いいよ」
「おれは次の一回勝負で」
「そう来たか」
「んー、翼が本気になるなら、ぼくはおりようかな?」
軽く両手を上げて、一歩下がる武蔵。反対に文也は前にでる。
「おし、じゃあ、おれは二回目イコウってことで勝負だっ」
「あはは、それむちゃくちゃだね」
「以降っていうのはなんだ?」
「文字通りでいっ」
「要は次で決まるかどうか賭けるってことだね。オッズは三対一くらいかな?」
「……それは、武蔵までダメな確率が高いって思ってるってことか」
武蔵は翼の指摘に小さく舌をだして見せ、文也はそれを理解しているのかいないのか、笑いながら賭けの報酬を口に出した。
「つかめなかったらカラオケ一回おごれー」
楽しげな文也と武蔵を見て、まあいいか、と呟く翼。明るく友人たちを見やる。
「武蔵は本当にいいのか?」
「うん。負けてぼくの分までになったら、かわいそうだから」
「……言ってろ」
翼は冷たく武蔵を睨むが、武蔵は慣れっこだからにこにこ笑っている。翼も本気ではないから、すぐに視線を隣の文也に移した。文也は強気で笑う。
「もう取り消しはなしだぜい」
「おれが勝ったら、当然文也がおごるんだよな」
「う、ま、まあ、シャーナイな」
「どうして急に弱腰なの?」
翼の言葉に態度を変える文也を、武蔵が面白そうにからかう。文也は「なんとなくだいっ」と子供っぽく言い返す。翼も軽く笑うと、リングを見上げ、それから地面を見て、少し深い呼吸をした。
垂直飛びは、瞬発力をベースに、腕の振りによる反動をいかに上手く使うかがポイントになる。
余計な賭けをしてしまった以上、真剣勝負だ。
「滑ってこけていいぞ〜」
「翼、がんばれっ」
野次と応援が飛んでくる中、翼は軽く膝を曲げると、大きく腕を振って、思いっきりジャンプした――。
ほんの数ヶ月前のことなのに、今の翼にとってはまるで何十年も前であるかのような、懐かしくて、哀しくて、切ない記憶。
翼は自分がなぜ泣いているのか理解できないままに、腕で目を覆った。
退院した翌日。肌寒さを感じる十一月上旬の朝。
普段の寝起きは悪くはない翼だが、一生寝ていたかったと心から思う。まどろみの中で再現された過去。目が覚めて、この理不尽な状況に身を置くくらいなら、幸せな記憶の中で永遠に過ごしていたかった。
あれから、もう何回目の目覚めだろう。
何度朝を迎えても、女のままの身体。
男だった時の翼の身体とは、あまりにも違いすぎる身体。
どうしても、嫌悪感と不快感を感じてしまうこの身体。
そして。
「……武蔵も文也も、どこにもいない……」
翼は頬を濡らしたままばっと身体を起こすと、ベッドボードからミニコンポのリモコンを取り上げて、電源ボタンとCDの再生ボタンを押した。
すぐに、聞き慣れない歌が流れ出す。そのまま翼は再びベッドに横になって、目をつぶった。
強い現実逃避の対象があるのはありがたかった。
涙が枯れるまで、翼はじっとそうしていた。
朝の九時をすぎた頃になってようやく、翼はパジャマ姿のまま自分の部屋を出た。トイレや洗顔など日常的な行為を、不快感を堪えながら済ませてダイニングに入ると、隣のリビングでお茶を飲んでテレビを眺めていた母親が反応した。
「あ、翼、起きて大丈夫なの?」
「おはよう。普通の生活で問題ないって医者も言ってたと思うけど? ごはん、ある?」
「……おはよう。今用意するわ」
翼のそっけない口調に顔をしかめながらも、亜美は立ち上がり、長女の朝食を用意する。
エッセイストという肩書きを持つ久我山亜美は、その辛口な文章が一部の読者には受けているらしいが、翼の記憶ではマイナーもいいところだった。その収入は家計の手助けにはなっているようだが、取材と称して使う分も使うから、どこまでプラスなのかは翼には謎だ。だが、自分の好きにやっているようでいて、家のことをほったらかしにしたりはしないから、翼にとって難しい母親ではあっても悪い母親ではない。
この時も、口調は温かいとは言いがたいが、亜美の声には娘に対する気遣いがにじみ出ていた。
「久しぶりの家はよく眠れた?」
「普通」
翼はそう返事をしたが、睡眠薬に頼らなければまともに眠れなかっただろう。目を閉ざしじっとしているだけで、自分の身体が女であることを意識してしまい襲ってくる不快感。眠気を感じても安易に眠りが訪れないのだからたちが悪い。まだまだ、翼にとって平穏は程遠い。
もっとも、昨夜に関しては、初めて聴くCDが何枚もあったことで興奮したせいもあった。後半は自分の部屋を色々調べつつ、結局三時くらいまでずっとCDを聴き続けた翼だ。
「飛鳥は学校よ。お父さんは仕事」
「うん」
平日だから言われるまでもない。自宅が職場の母が食事を用意してくれる間、翼は新聞を手にとって、ゆっくりと眺める。
「あんたはどうするの?」
「……ちょっと外に出てくる」
翼の言葉に、亜美はピクンと眉を跳ね上げた。
「外ってどこ行くのよ?」
「その辺を適当に」
亜美はその言葉を吟味するように黙り、やがて少し怖い顔のまま、翼のごはんをよそう。すぐに温めなおしたお味噌汁と一緒に、翼の前に並べた。翼は新聞を脇において、お箸を手に取る。
「いただきます」
「ちゃんと帰ってくるんでしょうね」
「……ここ以外に帰る場所はないよ」
「……あんた、迷子にならないでしょうね?」
高菜に海苔までテーブルにだして、亜美は娘の向かいに腰をおろす。翼は予想外の言葉に一瞬間を置いて、少し考え込んでから答えた。
「笑えないな。携帯持っていくよ」
「ちゃんと使えるの? 家の電話番号覚えてるわけ?」
母の言葉に、数桁の数字を口に出す翼。翼は違うと言われる可能性も充分考慮していたのだが、理不尽なことに、亜美は唇を尖らせた。
「なんでそう、いらないことだけちゃんと覚えてるのかしら」
「……さあ」
としか言いようがない。翼は短く答えて、ゆっくりとごはんを食べる。亜美はぶつくさ言いながら、娘にお茶を入れた。
「まったく、やっかいよね。いっそ全部記憶がなければ、まだ諦めもつくのに。妄想と二重人格だなんて冗談じゃないわ」
「…………」
本人を前にして言うには問題がある台詞だが、翼は同感だったから、何も言い返さなかった。人格に変化がなく記憶だけの問題であれば、記憶喪失か妄想癖とされただろうが、まわりはまだ翼を扱いやすかったはずだ。逆に記憶に変化がなく人格だけの問題だとしても、今度は翼の方が、まだ今よりは楽だっただろう。その両方が同時に来ているために、翼も、周囲も、どちらも態度の選択に困ることになる。
「昨日はあんた、何時まで起きてたの? CD聴いてたの?」
「三時くらい。ごめん、うるさかったかな」
「あたしはいいけど、飛鳥は隣なんだし、さっさと寝なさいよ」
「……そうする」
翼の返答にはあまり誠意がないが、亜美としても深い意味を持たせた会話ではないのかもしれない。病気の子供を持つ母がするような、どうでもいいような注意の言葉が続き、翼も冷たくはしないが遠慮もしない、家族特有のそっけなさで応じる。すぐに食事が終わると、翼はお茶を飲み干してから立ち上がった。
「食べた後くらいゆっくりしなさいよ。あ、すぐでかけるの?」
「うん、昼には帰ってきたいから」
「……学校どうするか、もう決めた?」
まだ決めてない、と昨夜と同じ言葉を残して、翼は身を翻した。
部屋に戻った翼は、すぐにコンポのリモコンをとって電源ボタンと再生ボタンを押した。深く考え出すと不快感に苛まれる心を、初めて聴く新鮮な曲でごまかしながら、机の上をあさる。
このままCDをひたすら聴いてこの状況から逃避したいが、それをしないのが翼だった。翼は机の脇に無造作に置かれた携帯電話を取り上げて、椅子に腰掛けた。元のツバサどうやら水色が好きなのか、携帯電話の色は水色に近いブルーだ。基本的に青系統が好きな翼は、「センスは悪くないな」とまるで自分のセンスがいいような感想を抱きながら、自分が持っていたのとは違う機種のそれを、なんとなく勘で操作した。
バッテリーは充分にチャージされていた。幸い、使い勝手も機種の違い程度の差で、翼の記憶と大きくは違わない。着信履歴やメール、登録された情報を順に眺める。
翼はその中にある二つの名前を知っていた。母が何度も口にした名前。
「ヒナ」と「フヅキ」。
蓮見武蔵と松本文也。男だった翼の、親友と言える二人の友人。
蓮見陽奈と松本文月。この世界での、二人の名前。翼や飛鳥同様、性別が違うらしい二人。
翼が会いたがらなかったし、両親も気を遣ってくれたこともあって、妹の飛鳥ですら病院での面会にはこなかった。だから翼もまだ二人には会っていないし、本当にその二人が翼の知る二人かどうかもわからない。だが母親が写真を見せながら説明したところによると、ご近所に住んでいる陽奈は小学校に転校してすぐの友達で、文月も中学に上がってからバスケ部で翼と友達になったのだという。その上、親友と言えるほど仲がいいというから、翼の記憶と重なる。
正直、武蔵や文也がこの状況で現われて、彼らまで翼を元から女だと言い出したら、翼はかなり苦しむ羽目になっただろう。だがだからと言って、そんな別人となって現われられても、翼はどうすればいいのか。母親はその二人にはすべての事情を話しているらしいが、夢であれ現実であれ、今の翼は二人が知る元のツバサではないだろうし、逆に二人も翼の知る二人ではない。
医者が学校に対する意見を述べたのも、その観点だった。
医者はこれまでと同じ学校に行くことを止めはしなかったが、完治するまで休学や転校を考慮することもすすめていた。これまでの記憶が抜け落ちている上に人格までかわってしまっているのだから、交友関係に問題が生じるのは目に見えている。それを覚悟して別人格のまま彼らと付き合うのもありだが、治療が上手く行って元の人格に戻った場合、過去の交友関係が壊れているとまた別の問題が生じる可能性もある。
「飛鳥ちゃんも悲しませてるんだよな……」
妹の飛鳥とも、結局ぎこちないままの関係になっている。友人たちも、親しければ親しいほど、おそらく苦しめることになる。いっそ嫌われた方が、翼には本当に気楽かもしれない。
「ふぅ……」
ため息をついて、翼は携帯をさらに操作した。見知っている名前がほとんどない。登録された電話番号のリストには、翼の知る知人たちと似たような名字もちらほらあるが、姓名が書かれている個所ではそのほとんどで名前が違う。まったくの別人なのか、それとも、翼や飛鳥、武蔵や文也のように、性別が入れ替わっているのか。
「……ほんとに、なんだろうな、これ」
不快感を抑えて、翼は口の中で呟く。
自分たち兄弟の性別がかわっていて、自分以外のすべての人間は、それを生まれた時からのことだと捉えている。おまけに、自分や弟と同じように性別が違うらしい友人たち。まだよくは見ていないが、微妙にかわっていた街並み。似てはいるが色々違うような政治状況。翼が聴いたこともなかったような歌の数々に、逆に存在しないアーティスト。
夢ならスケールが大きすぎる夢だし、妄想ならとんでもない誇大妄想だ。
「夢でも病気でもないなら?」
自分の頭をまともとみなしたいなら、その可能性も考慮すべき状況。だが、自分が狂っていると考える以上に、それはあまりにも非現実的だった。とてもではないが受け入れる気にはなれない。
「……どっちも狂ってるだろ」
夢だとしか考えたくない、という心理も働いていた。翼はそこで思考停止すると、携帯電話を置いて、着替えるためにタンスの前に移動した。
昨夜お風呂に入る時や夜中に確認してはいるが、何度見てもタンスの中は女物でいっぱいだ。不快感がこみ上げてくるが、たかが服だ。そう自分に言い聞かせながら、翼はタンスを漁った。昨日着ていたような、無地のTシャツと大き目のトレーナーを見つけると、下は昨日の濃紺のチノパンをまたはくことにして、パジャマを脱ぐ。一枚脱ぐと上半身はもう裸だ。
いつもの瞬間的な吐き気が襲ってくるのを堪えて、翼はタンスから取り出したスポーツブラを手早く上からかぶった。
女物の下着は気に入らないが、つけずに直接服を着たり動き回ったりすると別の不快感も生じるから、必要悪だった。胸の脂肪を物理的に切り取るのも簡単ではないから、容易な手段で安定させることを嫌悪しても始まらない。そもそも、基本的な身体そのものが気に入らないのだから、服装なんて些細な問題で、ある意味五十歩百歩でしかない。
それでも、無駄な脂肪のおさまりを調節する時などは絶望感にとらわれる。
すでに病院で経験済みだし、頭では、この身体ならこれで普通だとわかっている。身内の前では無理をするつもりはないが、世間に対する際には、周囲の認識に見合った服装や振る舞いをした方が軋轢も少なく有利だ。まだ状況もよくわからない以上、自分から立場を悪くすることもない。
だが、理屈ではそうわかっているつもりでも、感情がついてこない。理性で感情を抑え付ける自分が馬鹿に思えてくる。泣き叫んですべてを拒絶した方が、やはり楽なのではないか。
それでも翼は吐き気を堪えて、なんとか着替えた。トレーナまで着込むと、少しは落ち着きを取り戻す。小さな吐息をついて、翼は本棚の前に立った。
本棚の視線の高さの一段に、雑誌くらいの大きさの卓上鏡が置かれている。その横には、大きめの櫛や、香水なのかコロンなのか小さなビンなど、翼にはわけのわからないもろもろが置かれていた。年頃の女の子の、ちょっとしたおしゃれのための小道具。
翼は櫛だけとって、無造作に髪に通した。腰まではないが、背中の半分くらいの長さがある。お風呂の後乾かすのも面倒くさい髪。
必要以上に目立ちたくなければ、最低限度の身だしなみは整えた方がいい。わかってはいても、苦しい。翼は泣きそうな気分でぞんざいに髪をとかすと、すぐに財布と携帯電話を持ち、CDを止めて一階におりた。
一声かけようと母を探すと、亜美はリビングから行き来できる狭い庭で洗濯物を干していた。翼はリビングから直接声をかけ、昼には戻ると告げて家を出た。
冬も近い季節だが、まださほど寒くはない一日。日差しが暖かく、優しい。
朝の十時も近い時間、住宅街にひと気は多くない。散歩をする人や、大学生や社会人の通勤通学途中の姿が、ちらほら見受けられる程度だ。時折、翼に視線を向けてくる人もいたが、翼は深く考えずに無視して歩いた。
「平日の午前中から、荷物も持たずに、私服でゆっくりと歩いている、高校生くらいの年齢の少女」
今の自分が他人にそんなふうに見えることなど、考えたくもない。
母親が心配していたように迷子になることはなく、翼はまずは最寄のバス停に立ち寄った。バスがちゃんと学校までいくらしいことを確認すると、そのまま歩いて通り過ぎて、友人の蓮見武蔵の家へ向かう。
翼の家から徒歩数分の場所にあるそこは、この時間、とても賑やかだった。外部からは覗きにくくなっているが、幼い子供たちが明るく騒ぐ声がご近所まで漏れている。
武蔵の家は、代々幼稚園の経営をしていた。施設の隣の一戸建てが武蔵の自宅で、敷地も広く、ちょっと古いがなかなか立派で瀟洒な建物だ。小学校の時から何度も泊まりに来たことのある家で、翼にとっては勝手知ったる他人の家でもある。
翼は小学校三年の時まで別の町にいたから、この幼稚園に通ったことはないが、弟の飛鳥は数年ここに通っていて、翼は弟も一緒に武蔵の家でよく遊んでいた。その頃は弟も、兄のことを「お兄ちゃん」と呼び、武蔵のことも「武蔵お兄ちゃん」と呼んで懐いてくれていた。翼にとって懐かしい記憶。
見知った建物に過去を振り返りながら、翼は蓮見家の郵便受けに書かれた名前を覗き込む。そして予想はしていたが、胸が苦しくなった。
今時珍しく、家族全員の名前。翼の記憶にある三つの名前と、知ったばかりの一つの名前が、そこには書かれていた。
蓮見奈子。洋介。初瀬。陽奈。
『保育士の資格をとるか、翼と一緒に経営の勉強をするのもいいかもね』
将来のことを聞かれた時、それでいいのか悩みつつも、そう答えていた友人の蓮見武蔵。ここは武蔵の家のはずなのに、その彼の名前は、どこにも存在しない。
翼はゆっくりと息を吐き出して、泣きそうなことは考えまいと、わざといいところを口に出した。
「洋介さんたちは、ちゃんといるんだな……」
奈子、洋介、初瀬というのは武蔵の祖母と両親の名前で、翼の記憶と一致する。どこか子供っぽい蓮見夫妻は、一人息子の友達におじさんおばさん呼ばわりされるのを嫌って、翼には名前にさん付けで呼ぶことを強要していた。最初の頃の翼は、たまにぽろりとおじさんおばさんと呼んで、軽くいじめられたものだ。笑って自分をいじめる蓮見夫妻に、子供だった翼はじたばた暴れて抵抗したが、いつもやられっぱなしだった。今でも武蔵の家族に頭が上がらないのはそのせいかもしれない。
それでも、翼は武蔵の家族が好きだった。夫婦仲も円満で、祖母は元気で息子にはうるさいが、孫とその友人には甘くて。家族の会話が少ない翼の家とは違い、あたたかく陽気で明るい家庭。
だが、両親同様見知った相手であっても、おそらく彼らも翼の知る彼らそのままではない。
「洋介さんたちも、おれを女だと扱うのかな……」
翼はため息をつくと、また歩き出した。
武蔵の祖母や父親は家にいるかもしれないし、幼稚園で保母をしている武蔵の母も、会おうと思えばすぐに会えるだろう。だが会ったところでどうしようというのか。どうなるというのか。会ってみたくもあるが、もしかしたら翼なんて知らないと言われるかもしれず、まだ心の準備もできなければ覚悟も持てない。
翼はゆっくりと、今度は駅へのルートに足を運んだ。
学校にはバスか自転車だが、遊びにででかける時は徒歩十五分ほどの駅もよく利用する。だから見慣れているはずの道だが、大きく違っている場所もあれば、小さく違っている部分も多かった。
特に、新しい建物は見知らぬものが多い。翼が病院に担ぎ込まれてからまだ二週間ほどしかたっていないから、たったの半月で建築ラッシュが起こったはずはない。夢であれなんであれ、明らかに翼の記憶とは違う世界。
諸々の問題を無視することができれば、かなり面白い体験になったかもしれない。だが、翼はいっそう憂鬱になっただけだった。
そのまま駅まで歩いて、やはり違う点を色々感じつつ、駅前を眺める。ほっとすることに、大きな点では違いがなかった。相変わらず朝夕には開かずの踏み切りが生じそうなダイヤグラムや、路線図の地名はそのままだ。改札などのシステムも翼が知るものと同じようだ。
よく行く本屋さんやCDショップも、同じ形で存在していた。が、あいにくまだ時間前で開いていなかった。本屋は十一時、CDショップは午後一時開店らしい。平日のこんな時間にくることは滅多にないからそれを覚えていなかった翼は、そう言えばそうだったなと思いつつ、予定が狂って、ふらふらと歩きながらどこに向かうか考え込んだ。
「文也のおじさんとこのお店はあるのかな……」
もう一人の友人の松本文也の両親は、繁華街の一等地でレストランを営んでいた。値段が高めで高校生が気軽に入れる類のお店ではなく、電車で行くにしても少し時間がかかる場所だ。
文也も文也で、将来は親のような料理人になるか、バスケで食べていきたいなどとよく言っていた。親の帰宅が遅いことが多いから、文也はああ見えてよく姉と一緒に料理を作ったりしているらしく、運動神経と料理の腕だけは確かだった。初めてご相伴に預かった時、翼は正直意外すぎて驚いたものだ。
「誰にでもとりえが一つや二つは、とか言ったら、怒られたっけ……」
今の翼には、どんな記憶も、懐かしく、切ない。
なんにせよ、文月の親が経営するレストランも、今から行ったのでは昼に家に戻るのは厳しくなる。翼は時計を見て冷静に判断すると、この日は近場だけまわってみることにして、駅をぐるっとまわって、来た時とは違う道を使って家の方に歩いた。
その途中、そこに足を向けたのはなんとなくだった。もともと大きな目的があるわけでもない。自分の記憶の中にある場所を、確認して歩いているだけ。
昔通っていた、地元の小学校。小学校三年生の年に引っ越してきて数年間、毎日のように通った場所。
そこは、翼の記憶の中の学校と同じ形で存在していた。同じ名前と、同じ門構え、同じ校舎。格子状の閉じられた門から中を覗き込むと、年季の入った二宮尊徳像が見える。
「金次郎さんは相変わらずだな……」
翼は口の中で呟く。
薪を背負って本を読んでいる少年の銅像。翼の記憶の中のそれと、まったく同じ銅像。
この小学校には、思い出がたくさんつまっている。三年生の時に転校してきてすぐ、後に友人となる蓮見武蔵を、女の子と思って一目惚れしたのは今でも痛い記憶だ。すぐに仲がよくなってからは、二人で色々悪さもしたし、ケンカもしたし、大人には言えないようなお勉強をやったりもした。四年生になると、引っ込み思案でインドアの遊びばかりだった武蔵を無理矢理誘って、一緒にバスケ部に入部し、日々を夢中に過ごしていた。
もう一人の友人の松本文也と知り合ったのは、バスケを通じてのことだ。人より成長が遅めだった翼と違い、文也はいつも年齢平均より高い身長で、早くから隣の小学校でレギュラーとして活躍していた。隣の小学校とはよく練習試合をしていたから、おそらく四年生や五年生の時にも翼は文也を見ていたはずだが、翼が文也を認識したのは六年生になってからだ。「隣の学校のバスケ部のキャプテン」というのが、翼の文也に対する最初の認識だった。
中学に上がってから同じ学校になり、その文也と部活で直接言葉を交わした。お互いの最初の認識は「いけ好かないやつ」といった感じだった。身体だけは大人なのに子供っぽくてうるさい文也と、身体の成長は遅かったが今以上に排他的で他人に冷たかった翼。同じ部活という状況と、武蔵という仲裁役が存在しなければ、一歩間違うと険悪な関係になっていたかもしれない。結果的には、三人それぞれ性格が違ったことはプラスに働いたのだろう。同じ部活の仲間ということもあって、三人の仲は急速に近いた。
部活に熱中し、地区大会で勝っては喜び、負けて一緒に悔し涙を流して。親に黙ってアルコールを口にしたり、文也と二人で一回だけとタバコに手をだしてむせまくって笑いあって、武蔵にばれてお説教されたりもした。子供だけで夜遊びにでかけたのも中学の時が初めてで、いつも三人一緒に遊んでいた。
翼が初めて女の子と付き合ったのは中学卒業間近の頃で、男女交際というものをしてみたくて軽い気持ちで付き合って、一年ともたずに彼女を泣かせてしまったのは、これも苦い思い出だ。
三人で地元の公立高校に進学し、部活に励み、将来は音楽関係に進もうと考えてそこそこ勉強もしたり、アルバイトも始めて、友達と遊んで騒いで。楽しいことばかりではないが、充分充実した毎日を送っていた。
……いつのまにか、翼の目に涙がにじんでいた。
翼にとって、当たり前にそこにあった日常。
それらの記憶のすべてが、嘘だというのだろうか。すべてが翼の妄想で、なかったことだというのだろうか。翼にとってあまりにも理不尽だった。自分の中の記憶が、妄想だなんて思えないし、信じられないし、信じたくもない。こんなの現実なわけがない。覚めない夢のはずがない。
だがだからと言ってどうすればいいのか。本当にここで死ねば目が覚めるのか。
翼は瞳をぬぐうと、もう一度、二宮金次郎像を見やった。
記憶の中とは違う世界。だが、その中にあって、変わらないものも存在する。
両親もそう。弟は妹になってしまっているが、彼女も家族であることにはかわりがない。友人たちも、翼のことを気にしているという。
「……それは、おれじゃない」
翼ではない、別の人間。彼らが気にしているのは、この身体の元の人格のツバサ。
「……でも、これが現実なら、それもおれ、か……」
もうぐちゃぐちゃだな……、と翼は自虐気味に吐き捨てると、また歩き出した。外を見ることで、もっと落ち着けるのだと思っていたが、結果は感情を逆撫でされただけ。それでいながら、受け入れれば楽になれると、理性では理解しているのが最悪だった。感情がついてこないのに、理屈だけが先走る。だから狂ってしまうこともできない。
このまま中途半端に拒絶して苦しむか、この状況をありのままに受け入れて次善の策を考えるか、それとも完全に拒絶して死ぬか狂うか。
「きつすぎるよ……」
だがもう、そのどれを選ぶべきかわかっていた。まずは現実だと仮定して動くべきだと、頭ではわかっていた。どんなに認めたくなくとも。夢だと思いたくとも。現実だなんて、自分が本当に狂っているなんて思いたくなくとも。
翼は自分を抑えながら、目を背けたいこの状況を直視する。
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初稿 2004/10/26
更新 2008/02/29