キオクノアトサキ
Taika Yamani.
第二話 「違う世界」
前日雨が降ったようだが、よく晴れたいい天気で、夕焼けがきれいだった。母親の運転する車の助手席で、翼は自分が育った街を眺めていた。
翼の記憶の中の街並みと、同じようでいて、違うところも少なくない街並み。現実であれ夢であれ、翼の認識とは明らかに違う世界。
翼は自分が解離性同一性障害、いわゆる多重人格である可能性を、医者に対して率直に認めた。これが夢だとしたら、夢の中の登場人物に同意を求めても意味がない。夢の中でもすべてが思い通りにいかないことはよく理解したから、何はさておき行動の自由を確保するためには、状況に迎合しておくのは一つの手段だ。仮に現実である場合、この状況では医者に精神状態を疑われて無理もないし、翼自身その可能性を考慮する。
「生まれた時から女なのに、自分が男だと妄想を抱いている人格が現われている。抜け落ちている記憶も多く、同時に男としての記憶を捏造している。男の人格が発生した原因は不明だが、その際のショックでパニックを起こし、自殺までしそうになった」
客観的に見た今の翼は、そんな存在。医者は、翼の治療に際して、当初四つの課題を考慮していたらしい。
一つ、自殺までしようとした翼の身の安全の確保。
二つ、病院内での問題のない生活。
三つ、病院外での問題のない生活。
四つ、解離性同一性障害の本格的治療。
翼が落ち着きを取り戻して数日、病院側は三つ目までの課題はクリアしたとの判断を下した。肉体的には、心因性嘔吐症と見られる症状があるが、それ以外に大きな問題はない。精神的にも、記憶に不整合が見られるが、日常生活に差し障るほどではない。パニックに陥ったのも一時的なものと思われ、振る舞いも人格も安定している。
本人の強い要望もあって、翼は十一月上旬の午後、約二週間ぶりに病院を後にした。
もしも翼がまだ自殺を真剣に考慮していることに気付かれていたら、退院の許可は簡単にはおりなかったかもしれない。
「あんた、なんか食べたいものある?」
ずっと押し黙って車を運転していた母親が口を開いたのは、家への道程も半分をすぎた頃だった。二重人格を疑われている娘にどう接していいのか、まだ決めかねているような、怒ったような母親の問いに、翼は落ち着いて答えた。
「特にない」
「なんかあるでしょ。言ってみなさいよ、退院祝いに作ってあげるから。あ、クリームシチューはどう? 好きだったでしょう?」
「……うん、好きな方かな」
「グリーンピースは今もだめなんだっけ?」
「今も好きじゃないけど、だめじゃない」
「あら、そう? 小学校の時は、いつもわきにのけてたくせに」
「四年の時までかな。おれが好き嫌い言うと、母さんがうるさかったから」
「…………」
十七歳の少女らしい声や身体には不釣合いな、翼の言葉遣い。「おれ」という単語に、ぎこちないながらも和やかになりかけた空気が、とたんに強張った。
今でこそ翼の治療のために気を配ろうとしているが、あの後初めて会った時、気味の悪い生物でも見るような目で我が子を見た亜美。娘の症状について一通り説明を受けて、すでに何度も本人とも言葉を交わしていても、その一人称や男っぽい言葉遣いは、亜美にとっても簡単に慣れることはできないらしい。翼としては無理もないと思う。翼本人にとっても理不尽すぎる状況だが、家族にとっても軽い状況ではない。
医者は家族にも、翼の今の人格をできるだけ受け入れるように示唆している。今の人格があらわれた原因は不明だが、本人が忘れたがっているのなら無理にその原因を追求したり、元の記憶を呼び戻そうとすることはリスクが高い。なんらかの拍子で第三の人格が現われる可能性もあるが、ひとまず人格は安定している。自傷も他傷も大丈夫のようで、日常的生活にも必要最小限度は困らない。
まずは慎重に経過を見守る、というのが医者の基本方針だった。これは、この先は本人次第の領域だから、という理由もあった。多重人格であろうとなんだろうとそれも本人の人格で、誰にも実害がないなら、本人が嫌がることをさせる権利は誰も持っていない。
それでも、家族と医者の説得もあって、翼はこの後の通院は同意していた。今後は、カウンセリングによって今の人格が現われた原因を調査し、これまでの記憶とやらを取り戻す努力をしてみせるということになっている。
が、翼は自分でも自分の頭が異常である可能性を考慮しているが、カウンセリングうんぬんは医者と家族を納得させるための方便だった。何はさておき、行動の自由を確保したかっただけ。楽な手段を選択するためにも、この状況をもっとよく把握するためにも。
「……他には? なんでも言ってみなさいよ」
長くなりかけた沈黙を、また亜美がぶっきらぼうに破る。普段はそっけない母だが、今も暖かい口調とは言い難いが、彼女が彼女なりに子供に気を遣おうとしていることは翼にもわかる。正直翼は自分だけで手が一杯なのだが、自分から母と険悪な関係になりたいとも思わない。翼は小さいがハッキリした声で、素直に今の好みを答えた。
「……かにクリームコロッケかな」
亜美は少し意外そうに娘をちらっと見て、軽く笑った。そのつもりはないのにどこか鼻で笑うような態度になってしまうのは、この母親の悪癖かもしれない。
「あんた、クリームが好きなのね。牛乳は言ないと飲まないくせに」
「牛乳はあんまり好きじゃない」
「のわりには胸はしっかり成長してるわよね。あ」
失言に気付いて、また亜美は黙る。翼は少しだけ、自嘲気味に唇を歪めた。
「……いいよ、気にしなくても。慣れないといけないことだから」
吐き気が襲ってくるが、発言は理性的な判断からの本音だった。
女として年相当に膨らんでいる乳房、男だった時より華奢で細いウエスト、男ではありえない腰周り。元の身体と比べると身体全体が無駄に柔らかく繊細で、感覚そのものが違う。夢であれ現実であれ、狂うつもりがないなら、今の自分の身体が女だという事実からは逃げられない。
「そ、そう? 気分は悪くない?」
「大丈夫」
翼は冷静に嘘をつく。
他人はみな翼を最初から女だと思っているから、翼がこの身体でいることをどんなに不快に思っているか、まともに理解してはもらえない。もう理解してもらおうとも思っていない翼は、前をまっすぐに見つめたまま、それ以上言葉を重ねなかった。
「……記憶はどうなの? 問題はそっちでしょう」
「そっちは、まだどうもできない」
亜美はまた一瞬だけ翼を見たが、それ以上言及せずに、微妙に話をそらした。
「……まあいいけど、飛鳥と陽奈ちゃんたちには、もっと愛想よくしなさいよ」
アスカとヒナ。
弟だったはずなのに妹の名前と、翼の記憶にはない友人の名前。
「……おれは妹に、どうすればいいかな?」
「……無理してもどうせぼろがでるでしょ。最初はきつくしなければそれでいいわよ。できるだけ優しいお姉ちゃんをしてくれれば嬉しいけど、今のあんたはまだそれどころじゃないでしょ。でも、その言葉遣いはやっぱりなんとかしてほしいけど? 本当にどうにもならないわけ?」
「なるけど、どうにかする気はない。たった今、無理してもぼろがでるって言ったのは母さんだろ」
「……言ってくれるわね」
不快げに、亜美は唇を歪めた。
「世話かけてごめん」
「な、何謝ってんのよ! あんたはなんであれあたしの娘よ!」
「……悪いけど、それも喜べない」
「…………」
「…………」
気まずい沈黙。亜美は不機嫌そうに、ぼそっと呟いた。
「わかってるわよ。気長に行くわ」
亜美は少し車の速度を落とした。
「そのかわり!」
きっぱりとした、母の声。翼が母の横顔を見つめると、亜美は娘をちらりと横目で見て、まじめな表情で、顔を正面に戻す。
「二度と自分を傷つけるのはやめなさい」
今まで一度も聞いたことのないような、母の真剣な声。翼は数秒、間を置き、わかった、とだけ、短く答えた。
車が到着した音が聞こえていたのだろう。標準的な一戸建てである自宅にたどり着き、翼が玄関から中に入ると、一人の女の子が駆けてきたところだった。母に先行した翼は、靴を脱ぐ前に、足を止めて彼女を見やった。
十七歳女子として平均的な今の翼より、さらに小柄な、小学校の高学年くらいの女の子。顔立ちはどこか気が強そうだが、来月には十三歳という割に成長は遅めのようで、今の翼より十五センチ以上身長も低く、全体的にまだまだ幼い。女の子の弾んだ呼吸に合わせて、肩までの長さのまっすぐな髪が、柔らかく揺れる。
「……ただいま」
翼が短く言葉を投げると、どことなくきつい視線をしていた女の子は、少し泣きそうにほっとしたように、表情を緩めた。
「おかえりなさい、姉さん」
翼は「姉さん」という単語に内心吐き気を覚えたが、覚悟はしていたから顔には出さない。弟だったはずが、見知らぬ妹となってしまっている飛鳥の視線を避けるように、足元に視線を流して靴を脱いだ。母の亜美もすぐに中に入ってくる。
「ただいま」
「あ、お母さん、おかえりなさい」
「飛鳥は部屋に戻ってなさい」
「でも……」
「いいから戻りなさい」
玄関の鍵を閉めた亜美は、きつい口調で下の娘を促す。靴を脱いであがりこんだ翼は、「部屋に行ってるから」と、そっけなく言ってその場を離れた。飛鳥は強張った態度で動かず、亜美はそうねとだけ頷いて、彼女も靴を脱いだ。すぐに前言を撤回して、「ちょっと来なさい」と下の娘をリビングに引っ張り込む。
翼は妹と母に頓着せずに、階段をのぼって自分の部屋に入った。
久しぶりの自分の部屋。だが、見慣れている物もあれば、まったく違う物もある部屋だった。ベッドに勉強机、ミニコンポとCDラック、本棚。よく友人と一緒に遊んだ安物のチェスセット。
翼は衝動的な吐き気をすぐにこらえた。
自分が女だと強く自覚するたびに、襲ってくるたちが悪い身体の反応。徐々に慣れつつはあるが、翼の感情をそれはすぐにかき乱す。翼は不快感に顔をしかめつつも、トレーナーにゆったりとしたチノパン姿のまま、デスクチェアに腰掛けた。
あるはずのない最たる物は、壁際にかけられた、学校の女子の標準服。冬の黒いセーラー服と、専用のクリーム色の襟なしジャケット。ノートパソコンやジャンボクッションや女性向けの小物類など、翼の部屋にはなかったはずのものがあり、あったはずのものが存在しない。室内の配色も、必ずしも女の子っぽいと言うわけではないが、明らかに元の翼の部屋とは違う部屋。部屋中にどこか漂っている香りも、男の自分の部屋とは違う香り。
改めて泣き叫びたくなるが、今の翼はそれをよしとはしない。強引に気持ちを押し殺して、翼は大きく息を吐き出した。
「自分を傷つけるのはやめなさい、か……」
車の中での、母親の台詞。常識的に考えれば、その気持ちもよくわかる。親しい人間が自殺しようとしたり、自分で自分を傷つけたりする姿を、見たいと思う人間は多くはないだろう。翼も、家族や友人がそんなことをすれば、相手にとってどんなに理不尽でも怒ってしまうかもしれない。
「勝手だよな」
呟いて、机に突っ伏す。
病院に面会にきた父も、あの後初めて翼に会った時、同じようなことを言っていた。
『死ぬのはいつでもできる。まずは自分なりに生きなさい』
むっつりとしたしかめっ面で、きっぱりと言った父。翼を娘だと思っていても、母親同様、翼の知る父親そのままの龍彦。翼は安心もしたが、泣き喚きたくもなった。
身体が女になってしまい、その上自分の記憶と世界が大きく食い違っていて。自分が依って立っていた土台が、すべて崩壊しているような今。楽観的に面白がればいいのだろうが、それができるほど翼は強くはない。そしてこの状況から逃げ出すことも、父にも母にも牽制されてしまった。
いっそ記憶がなければよかったのにと思う。なまじ記憶があるから、他人のことを気にしなければいけない。一人ならこの先、楽な手段だけ探して、衝動で死ぬことだってできたかもしれないのに。
「……もう何もしたくないな」
生きてもいたくない、という言葉は、思っても口には出さない。口にしてしまえば、自制する自信がない。
翼は身体を起こすと、ゆっくりと背中から、ベッドに横たわった。
夢でなければ精神の異常だなんて、今は何も考えたくなかった。
眠りたかったが、眠れないままに、時間は流れる。翼はひたすらぼーっとして、ベッドに仰向けになっていた。考えるべきことは山ほどあるとわかっているが、消えない身体の不快感のせいか集中力を維持することが難しく、思考もまとまりを欠く。
「……ほんとに、これじゃ、精神病だな」
翼が自嘲気味にそう考えたのは、午後五時半近くになってからだった。ベッドからおりて、一階のトイレに向かう。確実に耐えられるようになってきているが、この身体でのこの行為はまだ慣れない。不快感を抑えながら用を足すと、手を洗い口の中と顔も洗って、水分を求めてダイニングキッチンに入る。
母親は買い物でもでかけているのか、そこにはいない。隣のリビングで、女の子がソファーに座り込んで、無表情にテレビを眺めていた。
久我山飛鳥。翼の弟だったはずが、妹になっている十二歳の女の子。
翼から見ればまだまだ幼い子供に見える女の子だが、まったく違う形で出会っていれば、数年後が楽しみだなどと翼は思えただろう。少し気の強そうに整っている顔立ちは、弟の面影があるが、弟にはなかった女の子としての可愛らしさがある。
翼の存在に、すぐに飛鳥も気付いた。飛鳥は少し驚いたように、身体ごと視線を翼に向けてくる。
「……姉さん」
「…………」
翼は、逃げ出すかどうか、かなり躊躇した。相手から見ればずっと一緒に育ってきた姉でも、翼にとっては初対面同然の女の子。今の翼にとってこの可愛い女の子は、やはり見知らぬ他人。
翼は悩みながら視線をそらし、無造作に動いた。冷蔵庫からジュースを取り出して、コップに注いで喉を潤す。飛鳥が立ち上がったのは、翼がジュースを冷蔵庫に戻した時だった。
飛鳥も、どう声をかけていいのかわからないのかもしれない。強い視線だけが、翼を射る。
翼は微かに重い息を吐き出して、覚悟を決めて自分から歩み寄った。一つ屋根の下で暮らすのだから、無視し続けることは無理がある。冷静なうちに、適度な距離は作っておくべきだった。
翼が近づくと、飛鳥の表情は揺れて、それから引き締まった。まっすぐに手が伸びてくる。握手を望む動作。
「わたしは、妹の、飛鳥です」
それは不意打ちに近かった。
彼女の前で立ち止まった翼は、その言葉にかなり驚かされた。まだ幼いのに、凛然とした、きれいな瞳を持つ女の子。姉が二重人格を疑われている状況で、それを真っ向から受け入れるかのように、毅然と初対面の挨拶をしてきた女の子。
「……覚えてる、とは言えない。でも知ってる。よろしく」
翼は自分を飾らずに、妹の手をそっと握る。自分の手も小さいが、妹の手はもっと小さい。その妹のもう一方の手も重なり、ぎゅっと力がこもる。
「わたしを弟だって思い込んでるって、本当なのね」
「……ああ」
「……どうして……」
唇を噛み締めて、飛鳥は呟く。翼は少しだけ顔を歪めて、手の力を抜き、視線をそらした。飛鳥が握りしめているから、まだ手は離れない。
「おれも知りたい」
「…………」
これから知り合いと言葉を交わすたびに、この反応があるのだろうか。今の翼の女の声とは不釣合いな「おれ」という単語に、飛鳥の瞳がきつくなり、同時に泣きそうに揺れる。だが飛鳥は泣かなかった。そっと翼から手を離すと、零れそうになった涙をぬぐって、どこか強がるように笑顔を作った。
「わたし、お兄ちゃんがほしかったこと、あるわ」
この発言は、真実だとしても、この状況で飛鳥が言うにはあまりにも重い発言だった。中学一年生の女の子に気を遣わせている自分が、翼は情けなくなる。正直ほっといてほしいとも思うが、彼女が辛いのもよくわかってしまう。翼は、無理をして、笑顔を見せた。
「おれも、妹がほしいと思ったことがあるよ。飛鳥ちゃん、って言っていいかな?」
「え、何よそれ? そんなのやだ!」
「……悪いけど、そうとしか呼べない」
呼び捨てにすると、弟を思い出す。この見知らぬ可愛い女の子を、弟と同じようには見れない。
飛鳥の瞳が、また泣きそうになる。翼が何か言うたびに、この女の子を嫌でも刺激してしまうのだろうか。翼は嘆息した。
「ごめん」
「ね、姉さんは何も悪くないわ! 姉さんだって、苦しいんだもの。わたしのこと、気にしなくていいから。早くよくなって!」
「……それも、ごめん。一生よくならないことを、覚悟しといてほしい」
「そ、そんな!」
これが現実で、男だった時の記憶が本当にすべて妄想なら、よくなるということは、「今の翼」の人格それ自体を失うことを意味するかもしれない。まわりにとってはいいことだとしても、翼には死ぬのとほとんどかわりがない。いっそその方がましだとも思うが、一瞬で人格を消滅させる方法がわからない以上、翼はよくなろうと努力をするつもりもない。
正直に言えば、まわりの人間には自分が本当に死ぬことも覚悟してほしい。だが、泣きそうな飛鳥を前にしてしまうと、そんな残酷な発言はできない。むしろ翼の方が泣いてしまいそうだった。他人なんて気にしていられるような状況ではないのに、他人を気にしている自分。
笑い飛ばしてしまいたいほど、哀しくて辛くて、苦しい。
「……飛鳥ちゃんが知ってる相手とは、おれは違うから。この先もどうなるか、わからない」
「い、いいわ。それで。姉さんの方が大変だもの。わたし、なんでも手伝うから。なんでも言って。ちゃんと、わたしのことも頼って。わたしは、絶対姉さんの味方だから。わたしのことなんて気にしなくていいから!」
女の子のきっぱりとした優しさが、今の翼にはかえって痛い。冷たくされた方がよかったとまで翼は思う。自分がこの女の子を心から家族と思えるようになるのか、翼には自信がない。だが、この女の子が自分を想ってくれているのは、嫌でもわかった。じゃまなほどに暖かい、妹の感情。
「無理はしなくていいよ、なんなら見捨ててくれてもいい」
そんな言葉を、口に出したくなる。おそらく言えば、泣くか、怒るか、させてしまう発言をしたくなる。
だが翼はその発言をしなかった。素直な心情を吐露して、翼の精神状態に関わる権利と同時に苦しみを与えるか。それとも、表面だけ演技して見せて、希望もあるが、いつか不意の最悪の事態で泣かせる可能性もある道を選ぶか。後者は、裏切った場合の反動はいっそうきついだろう。本当に翼が自殺になど踏み切れば、おそらくとても悲しませることになる。
悲しませたくないなら、前向きになって見せればいい。翼は頭ではそう思うが、感情はそう簡単にはついてこない。だから取り繕う。笑って見せる。
「ありがとう。でも、……ごめん」
翼は言うと、身を翻した。
「あっ」
逃げたのだ。自分から歩み寄っておきながら、今の翼にはこれ以上、妹と名乗る女の子と顔を合わせ続ける強さがなかった。
それはかなり辛い、我が家での生活の幕開けだった。
が、その日の夜、翼は自分でも思ってもいなかった形で、この状況に対する悩みを忘れかけた。これが夢なら、すぐには覚めてほしくないと真剣に思った。これが妄想なら、狂気も悪くないかもしれないとまじめに考えた。
あの日以来初めて味わった、プラス方向の興奮。
この夜、いつもは帰りが遅い父親も早いご帰宅で、久しぶりの一家団欒の夕食だったが、面白いくらいにみなの態度はぎこちなかった。普段以上にむっつりと黙り込んでいる父、ぶっきらぼうに話題をふる母、張り詰めた顔で口数が少ない次女。そして、女の子らしいとは言えない口調で、問われた時だけ言葉を口にする長女。
翼は食べきれるだけ食べると、さっさと席を立った。この状況は自分にもどうしようもないとは言え、自分に起こったことが原因で家族に余計な負担をかけていることは明白だ。とてもではないが、ただでさえくつろげないのに、彼らの前ではもっとそんな気分にはなれない。
「我ながら笑えるな……」
この理不尽な状況で、もう取り乱すこともできない自分。他人のことなど考えている余裕はないはずなのに、家族のことなどを気にしている。根が甘いのか、それとも、それを現実逃避の手段にでもしているのか。
自分の部屋に戻った翼は自嘲気味に呟くと、自然に思いたってミニコンポの前に移動した。現実逃避をするにしろ真剣に状況を考えるにしろ、好きな歌は良くも悪くも、気持ちや身体の不快感をごまかす手段になってくれるはずだった。
だが、その行動ですら、今は暗い気持ちを伴った。
「……立川ナツヒは、いないんだよな……」
退院前、改めて行われた精密検査や診察の合間を縫って、翼は新聞や雑誌などに多少目を通している。翼の記憶とそれらの情報、大きな差異は見られなかったが、泣きたくなったくらい、露骨な違いは乱立していた。政治の世界では、首相や閣僚の顔ぶれが違う。スポーツ界でも、有名プレイヤーの所属チームが違ったり、見知らぬメジャー選手がいたりする。そして将来関わりたいと思っていた音楽業界でも、存在していたはずのアーティストが存在しない。
立川ナツヒ。翼の大のお気に入りだった、少女アーティスト。
翼が調べることができた範囲では、彼女の名前はメディアに存在しなかった。
これが夢だとしたら、翼がどんな情報を作り上げていても不思議はない。翼が本当に二重人格だとしても、彼女の存在も記憶の欠落や妄想の一部ということになるのだろう。どこかで聴いた他人の歌を、立川ナツヒという存在しないアーティストの歌だと、勝手に翼が思い込んでいるだけ。
だとしても、いや、だとすればいっそう、重く辛い状況。
それになによりも、そんなアーティストだけではなく、翼の友人たちまでも、この世界には存在しない。
「…………」
翼は苛立ったように頭を小さく振ると、余計なことを頭から押しやって、コンポの前に座り込んだ。
この身体の本来の人格とされる元のツバサも音楽好きなようで、コンポは翼が持っていたものと同じ比較的高性能のものだった。翼同様、一昔前の中古CDも大漁に買い込んでいるようで、CDの数もかなり多い。
本棚にもCDの山があるが、翼の記憶の通りならそちらは二軍落ちのCD群で、お気に入りはコンポの台を兼ねているCDラックにきれいに並べてあるはずだった。その中からCDを取り出そうとして、翼は手を止めた。
コンポの上に、高価なヘッドホンと一緒に、CDケースが置かれている。元のツバサが、あの日より前に聴いていた曲なのだろう。翼の知らないアーティストのCDだった。
十代の女の子グループで、病院で何度か名前を見た気がするから、それなりに売れているグループなのかもしれない。翼はリモコンを使わず、直接コンポの電源を入れた。ディスクはその中に入っているらしいので、無造作に再生ボタンを押す。
明るいが、ゆったりとしたイントロが流れる。
最初は軽く聞き流そうとした翼だが、めくるめく時間になった。
翼がまったく聴いたことのない、レベルの高い曲。それなりに音楽に詳しいはずの翼が、全然よく知らないグループの、一度も聴いたことのない歌。
翼は感情をかき乱されつつ、すぐに音量を大きくした。
一曲目の途中から、翼はCDケースを取って歌詞カードをぱらぱらとめくり、どれもこれもやはり聴いたことのない曲ということを確認すると、歌に聴き入りながら、CDラックを改めて覗き込む。そして驚いた。
「え、なんだこれ」
自分が好きなアーティストの一人なのに、見知らぬタイトルのCD。翼はそのCDを手にとって、背の曲名リストを見て、少し呆然とした。
翼の記憶では、存在しなかったはずの歌。それが、そこには並んでいた。さらにCDラックを漁ると、見知らぬアーティストのCDも少なくないが、見知っているアーティストのまったく知らないCDがごろごろ転がっている。
「…………」
翼がもし小説好きなら、好きな作家の見知らぬ小説がずらっと並んでいる光景にぶつかったのだろうし、もしマンガ好きなら、好きな作家の見知らぬマンガが、同じように並んでいる光景にぶつかったのかもしれない。
大好きなアーティストこそ存在しないが、他の好きなアーティストの見知らぬ歌が、大漁にそこには存在した。
「……問題は、中身だな」
翼は興奮しそうになる心を鎮めながら、とりあえず今かけているCDを、惜しいと思いながらも停止させて、好きなアーティストの見知らぬCDをコンポに放り込んだ。すぐに再生ボタンを押す。
いきなり、アップテンポな出だし。
タイトルだけではなく、中身もまったく知らない歌だった。
「おいおい、ほんとかよ……」
予期していなかった事態から来る興奮と、好きなアーティストの見知らぬ歌を聴く興奮と、歌自体のよさから来る興奮と。
これまでの鬱屈した日々の反動もあったのかもしれない。翼の思考は半ばパニックに陥り、あの日以来初めて、この状況に対する悩みを忘れた。それどころか、この状況を全面肯定する呟きまで、知らないうちに漏れていた。
「夢なら……」
全部聴くまでは覚めるなよ、と、歌詞カードを見つめながら、翼は真剣に思った。病院なんかに放り込まれたり、下手に悩んだりしているような場合ではなかった。感情を揺さぶらせられながら、翼はCDラックから全部CDを取り出して、一枚ずつ眺めていく。
とりあえず見知らぬアーティストは後回しにして、知っている人のCDから、タイトルを見て聴く順番を決めていく。だがどれもこれもすぐにでも聴いてみたい曲ばかりで、翼は「うわー」と、無意識に呟きまくっていた。
「こんなに何曲も……。全部聴くのに、何時間かかるんだ……」
一日寝ないで聴いても確実に終わらない。すでに興奮状態で思考が麻痺しかかっている翼にとって、その数曲はあっという間だった。
「あ、これは、知ってる……」
数曲目が、タイトルは違っていたが、聴き覚えのある曲だった。やっと知っている曲が流れて、翼は少し肩の力を抜いて、スキップボタンを押そうとする。が、その手は空中で止まった。
途中から、歌がまったく見知らぬものに変化したからだ。
「…………」
普通の人間には、絶対にできない楽しみ方をしている。唐突にその思いが湧いてきて、翼の身体は震えた。
もしも本当に病気で、自分が男だったというのが妄想なら、翼は信じられないようなレベルの妄想を抱いていることになる。もともとこんなベースの曲があるにしても、ミリオンセラーになりそうな歌を、頭の中で勝手に作っていたというのは途方もない話だ。翼は自分にそんな才能があるとは思えないだけに、狂気ゆえだとしたら、人間にはそこまで可能性が秘められているのだろうか。
「……狂ってるのも、悪くないかもしれない」
見知らぬ歌に震えながら、翼は逃避の極めとでも言うべき感想を抱く。
が、浸り続けるには、翼の今の身体はじゃま以外の何物でもなかった。翼は不幸なことに、すぐに落ち着きを取り戻してしまった。翼がそれに気付いたのは、一枚目のCDが終わって気を緩めた時だった。
「……夢でも病気でも、聴いたことがあるのに忘れてるってことか……」
翼がハイレベルな歌を妄想から創造したと考えるよりも、現実的な発想。夢の中であっても、現実の記憶をすべて持っていられるとは限らない。病気で妄想であっても、文字通り記憶が飛んでいるだけ。「立川ナツヒ」を捏造していたように、逆に知っているはずのことを忘れているだけ。
「……やっぱりぼろぼろだな」
翼は吐息をついた。二枚目を再生させてから部屋の照明を落とし、無造作に背中からベッドに倒れこむ。
室内には、CDが少し大きめの音量で流れ続ける。今の翼の耳には、どれもこれも新鮮な歌。
歌に意識を集中させると、すぐに余計なことは頭から消え去った。今の状況のことは何も考えたくない、と強く思っていたせいもあるのだろう。聴き慣れない歌だから、集中がしやすかったということもあった。
だがやはり、身体に対する嫌悪感と不快感だけは、どうしても意識を犯す。
翼はそれすらも忘れようと、聞き慣れぬ歌だけにひたすら意識を集めて、今だけは、それに夢中になろうと試みた。
index
初稿 2004/10/26
更新 2008/02/29