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 ガールフレンド

  Taika Yamani. 

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  第四話 「女の子同士」
   I


 今年二十五歳になる長身の兄と、その兄が運転する車の助手席できちんとシートベルトをして座っている、大きな男物の服を着た十七歳の小柄な妹。約二ヶ月前までは「兄弟」の身長差は後一歩というところまで縮まっていたが、今は四年前の頃のように、兄の方が二十センチ以上背が高い。
 六月十七日、土曜日。性転換病で入院し、男から女になって退院した高槻初瀬は、社会人の兄に付き添われて帰宅した。
 「ごめんな、にーちゃん。せっかくの休みに手間かけさせて」
 「いいさ。いつものことだろ」
 「ぅん、さんきゅ」
 入院中何度もお見舞いに来た兄の高槻綾人は、やんちゃな弟が妹になって感慨深かったようだが、内心はどうであれ、いつも落ち着いた対応だった。
 昔から両親が共働きで忙しかったから、幼い弟の面倒を見るのは兄の役目で、八つも年の離れた関係はもう親子みたいなものである。初瀬たちの父親の高槻雅彦が、ある意味父親らしくない軽い性格をしているという理由もある。
 兄の態度があまりにもいつも通りだったから、初瀬はなんだか幼い頃に戻ったかのような気恥ずかしさも覚えたが、もともとお兄ちゃん子の部分がある初瀬にとって、兄のその態度は嫌なものではなかった。
 ともあれ、そんな兄の運転する車で、初瀬は数週間ぶりに我が家に帰ってきた。
 多少出発が遅れたから、家に着いたのはお昼時だった。両親の帰宅予定時間に合わせて兄がチキンオムライスを作ってくれることになって、初瀬はリビングでくつろいだ。ずっと生まれ育ってきた我が家で、初瀬は柱の傷を見上げて鬱屈したりと色々思うところもあったが、少し眠たくてぼーっとして、深く考えないようにしてのんびりと過ごす。
 やがて両親が順次帰宅すると、家族四人そろってお昼の団らん。
 そうこうするうちに、予定通り佐藤美朝がやってくる。
 「こんにちは〜」
 「おう、みあちゃんいらっしゃい」
 「こんにちは。いらっしゃい」
 「おとうさん、おにいさん、おじゃまします。初瀬くんも、こんにちはっ」
 「おーっす」
 玄関に出迎えた初瀬の母親の高槻香澄と一緒にリビングに入ってきた美朝は、明るく挨拶をして、高槻一家に自然に混ざる。
 高槻家の次男――今は長女――の初瀬と同い年で、赤ちゃんの頃からの付き合いの美朝は、初瀬の家族にも気に入られて可愛がられている。美朝も美朝でよく懐いていて、いつも陽気な父親を初瀬は適当に邪険にしていたが、美朝はにこにこと応対していた。
 初瀬の体調のことや最近の美朝のこと、今日来ていないもう一人の親しい女の子のことや、長男の恋人の倉橋こころももうすぐ退院祝いに来てくれることなどなどの話題の後、そんなふうに子供たちの様子がすっかりいつも通りだったからか、父親が調子に乗ってカメラを持ち出してきて、彼は記念撮影だと笑って「娘になった息子」にレンズを向ける。
 初瀬は今の自分の姿をまた強く意識させられて、ネガティブな衝動を抱かされて、そんな父親を余計に大げさに疎ましがりつつも、写真を嫌ったりはしなかった。楽しげな美朝に促されるまま、二人のツーショット写真を撮ってもらったり、美朝に家族四人の写真を撮ってもらったり、タイマーで全員一緒の写真を撮ったり、途中でやってきた兄の彼女も交えて、賑やかに時を過ごす。初瀬は内心『今エリナもいればいいのに』と、今日来てくれなかった女の子を想って胸が痛くなったりしたが、『またあいつが来たら一緒に写真撮ってもらおう』と今日の不満を明日への希望に変えて、今は今を純粋に楽しむ。
 写真撮影が一区切り付くと、夜に退院祝いにやってくる母方の祖母一家の話がでて、美朝はそれに誘われたが気配りをして断って、だったらちょうどいいから明日の夕食に佐藤一家を招待するという話になって、母親はさっそく美朝の母親に電話を入れていた。
 話は自然に移ろい、時事ネタの近所の神社の縁日やお祭りの話になったりもする。
 専業主婦の美朝の母親が何かと手伝いに出向いたりしている、毎年数回定期的に開催される小さな縁日や八月下旬の大きなお祭りで、なぜか初瀬用の浴衣がどうこうという流れになった。
 女性陣は純粋に楽しげな笑顔だったが、父親は何を想像したのかニヤニヤしていた。「今度買いに行かないとな?」と面白がる父親を、初瀬は鬱陶しそうに見やって「欲しくなったら勝手に買うから金だけクレ」と主張して、あーだこーだ言い合った挙句に却下されたが、縁日で充分遊べるだけのお小遣いをせしめることには成功した。少し機嫌の良くなった初瀬の横で、父親は「みあちゃん、コイツが無駄遣いしないようにしっかり見張りを頼むぜ」と昔から家族同然に可愛がっている女の子に話を振って、美朝は「うん、任せて」と笑顔で大きく頷いていた。
 「その分、コイツにおごらせていいからな。たっぷり楽しんできなよ」
 「あは、うん、そうするね。ありがとう」
 好き勝手なことを言うガールフレンドと父親と、横でくすくす笑う母と兄と未来の義姉とに、初瀬はもうあまり口を挟まずに、ぶすっとした表情でまったりとお茶を飲んでいた。
 そんなこんなで、久しぶりの家族の時間を過ごすと、初瀬は美朝と二人で二階の自分の部屋に引っ込んだ。
 初瀬の部屋はフローリングの洋間で、子供部屋としては広くも狭くもなく、物の配置など初瀬なりにカッコつけているが、初瀬的にはごく普通の部屋のつもりである。ベッドに勉強机に本棚に、兄のお下がりのミニコンポに、備え付けのクローゼット。片側にはサッシ窓があってベランダに続いている
 男の子の部屋らしく、と言っていいのか、床の一角には筋トレ道具が転がっている。同じ片隅にある客用の座布団などは逆に少女趣味なファブリックに包まれているが、これはしょっちゅうやってくる二人の女の子が犯人である。十七歳の男の子が長年寝起きしてきた生活の匂いに入り混じって、女の子の一人が定期的に持ってくるポプリのさわやかな香りも、ほのかに漂っている。
 本棚や小物箪笥の上には、黒髭と翼の生えた子ブタの貯金箱や、地球儀や小さなウクレレや、オフロード仕様のごついラジコンホバークラフト。壁には、四季折々の写真の一月ごとに破る大きなカレンダーと、パネルに入った3000ピースのジグソーパズル――七十七センチ×百七センチの日本の初夏の滝の写真――。このジグソーパズルは初瀬が小学三年生の頃に父親に買ってもらったものだが、初瀬の手は三分の一入っていればいい方で、ガールフレンド二人の手もかなり入っている。当時は小学校低学年の三人、学校から帰ってくるなり、うんうん頭をつつき合わせて組み立てていたものだ。
 ちなみに、ラジコンは初瀬の小学校時代の趣味の一つだ。ガールフレンドの二人と近場の公園をめぐっては、ラジコンと一緒にあちこち動き回っていた。幼い頃は両親や兄が一緒なことも多く、美朝の両親に大きな公園に連れて行ってもらったりということも頻繁にあって、初瀬が今でも公園めぐりが好きなのはこの頃の影響が大きい。成長とともに行動範囲も広がって、三人で小学校から帰ってくるなり自転車でやや遠い公園にまで遠征して、アスレチックな遊具に夢中になったり、サイクリングに夢中になった時期もある。
 さらに余談になるが、幼い初瀬は、ラジコンカーやラジコンホバークラフトだけではなく、本当は父親が持っているラジコンヘリも欲しかった。が、父親は自分の分だけキープして、子供には買ってくれなかった。とーさんだけずるいずるいと騒ぐ次男に、父親は「自分で稼げるようになったら買うんだな、はっはっは」と大人げなく主張して、母親に困った顔で笑われていた。幼い初瀬は拗ねてぶーぶー言ったが、なんだかんだで父親がヘリを飛ばすのは子供が一緒の時だけだった。単にそれほど暇ではなかっただけかもしれないが、その際には長男にも次男にも操縦させてくれていたから、今となってはいい思い出と言えるのかもしれない。
 小学校時代の初瀬は「こっそり黙って持ち出しちゃおうかな」と何度も思ったが、同い年のガールフレンドたちにたしなめられて、実現にはいたっていない。中学にあがる年齢になると、父親のラジコンヘリは子供のおもちゃにはそれなりに高価なことも学んでいたし、漠然と「親父もなにかしらの思い入れがあって大事にしているらしい」とも気付いている。初瀬の父親は今年ちょうど初瀬の三倍の年齢だが、男性も女性も、幼い頃の憧憬のようなものは、いくつになっても一生残るものなのかもしれない。
 閑話休題。
 美朝が初瀬の家に遊びに来るのはもう長年の日常ごとで、やることも日によって色々だ。たいていは、もう一人の別の女の子も一緒なことが多い。
 初瀬の遊びに女の子たちを付き合わせて、初瀬も女の子たちの遊びに付き合わされて、その時々のマイブームを中心に、好きなことにひたすら熱中したり、ただごろごろしたり、単におしゃべりをしたり。初瀬の少年誌や女の子たちが持ってくる女の子雑誌を読んだり、外に飛び出したり、時には真面目に勉強をしたり、学校の科目とは無関係な勉学に励んだり。他にも、幼い頃のおままごとの延長線上で、自分たちの両親の真似をして膝枕で耳かきをしあったり。
 小学校の頃は、スイミングスクールで競技水泳に打ち込んでプール通いをしたり英会話教室に通ったりする傍ら、三人で人気アイドルグループの歌や踊りを一所懸命練習して遊んだりもしていた。家族旅行で買ってきたウクレレに初瀬が熱中したのは小学四年生の頃で、今でも時々弾いて、それなりに上手い。中学の一時期は、幼児期の絵画教室の頃からお気に入りだった「絵しりとり」がマイブームになったりもして、三人の絵が順番に描かれた絵日記のような歴代のスケッチノートは今でも初瀬の部屋のどこかに埋もれている。おまけで付け加えると、幼稚園の頃に父親が買ってきた当時の初瀬よりも大きいゾウさんのぬいぐるみも、クローゼットの上の収納の中に眠っている。
 さらに付け加えると、お泊り会をしたり、ケンカをしたり、お医者さんごっこをしたり、その他の若気の至りもいっぱいつまっている。これまでもこれからも、たくさんの記憶を積み重ねていくことになるのだろう。
 そんな初瀬の部屋で、初瀬が男ではなくなって女になって退院した今日は、この日の美朝は、以前初瀬も一緒に選んだ護身グッズを持ってきていて、女の子の護身についてあれこれと初瀬にレクチャーしてくれた。
 初瀬は小中学時代に美朝たちと一緒に、地元の合気道場が定期開催している短期集中の護身術教室に通って、「危険な場所には近づかない」「逃げる」「大声を出す」「助けを呼ぶ」「人に頼る」「迷わず警察に連絡する」「民家の傍なら火事だと叫ぶ」というような基本を学んでいるが、以前と今とでは初瀬の立場は大きく違う。初瀬も知識としては少しは知っていたが、ひったくりなどに狙われるのも痴漢などの性犯罪の被害にあうのも、女性の方が多い。ぽかぽか陽気の真っ昼間に公園でうとうとするだけでも、女性は男性以上のリスクを伴う。
 美朝は以前初瀬が美朝にしたような注意をそのまま注意し返して、初瀬がこれまで意識していなかったような点も色々と付け加えて、「だからいつもわたしと一緒にいなきゃダメなんだよ」「今度一緒に悲鳴あげる練習しに行こうね」「今の初瀬くんすごく美人さんだから、一歩間違うとストーカーとかされそうだし」などなどと、真顔で主張していた。
 初瀬は、女性の護身を自分のこととして改めて真剣に考えさせられながらも、半分茶化した。「今だっていっつも一緒にいるじゃん」「悲鳴の練習ってただ大声出すだけか?」と笑って応じて、ふざけてキャーッと黄色い声を出してみせて、あまりにも甲高い声に自分でも内心びっくりして、父親に何事かと駆け込まれたりしつつ、美朝との時間を賑やかに過ごした。
 すぐに父親を追い出して、二人で笑ってキャーキャー悲鳴をあげる練習をして、初瀬は少しずつ眠だるくなってきていたが、変顔をしてふざけたりして明るくじゃれあう。
 ひとしきり騒いだ後は、荷物整理をして、夏物の服や中学時代の服を引っ張り出して、昔の服を見て懐かしがって。
 女性が男物の服を流用するのは、逆に比べればはるかに容易い。成長して着れなくなっていたお気に入りをまた着れるのかなとちょっとだけ喜んだり、お気に入り以外をフリーマーケットなどに放出したのを少し後悔したり、今後の買い物の予定を立てたり、初瀬の入院中に美朝が買い物に行った時の話を聞いたり。
 今の自分に合う服や着こなしを考えると、初瀬は内心また複雑だったりもしたが、美朝と遊びながらやると楽しく気は紛れる。おやつ時になると一緒に一階に下りて、二人でお母さんにおやつの催促をして、兄たちも交えて和気藹々とおやつを食べて、お姉さんやお母さんとの間でも初瀬の服装の話などをして、父親も絡んできてまた賑やかに騒いで、二人一緒に二階の初瀬の部屋に戻る。
 部屋に戻ると、初瀬は眠だるさが限界に達して我慢できなくて、美朝に侘びてベッドに横になった。うとうとしながら穏やかに美朝の相手をして、自然な眠りに落ちる。
 一時間半ほどで目を覚ますと、美朝はずっとそうしていたのかどうか、ベッドに肘をのせるようにして初瀬を見つめていた。
 夕暮れの薄明るい室内で、ぼんやりとまばたきをする初瀬に、美朝はどんなことを思って今の初瀬を見つめていたのか、おはようと、柔らかく笑いかけてくる。起きたての初瀬は寝ぼけていたが、言葉を交わすうちに意識もはっきりしてきて、また二人じゃれあって元気を取り戻す。
 初瀬としては、もう一人別の女の子のことも気になるのだが、美朝と二人きりだと自然に美朝を優先してしまう。そうすると、もう二人を止めるものは何もなく、気持ちを伝え合った二人の関係は少しずつ進展していた。まだソフトなキス止まりで、初瀬は元の自分の身体への未練も執着も根強いし、今の女の身体へのネガティブな感情も根深いが、お互いに触れ合ってキスをして、他愛もないおしゃべりをしたりする時間は、初瀬にとって充分満たされた時間だった。
 その日はずっと家でのんびりと過ごし、夜には車で十数分ほどの母親の実家の全員――祖母と伯母夫婦と従兄と従姉――も退院祝いに来てくれて、女になった初瀬と初めて顔を合わせた伯父と従兄は少しぎこちなかったが、みんなで母親たちの手料理のご馳走を食べて、父方の田舎の祖父母にも電話をしたりして、初瀬は久しぶりの我が家を満喫した。
 そろそろ寝ようかという時間には、入院中にも何度かメールのやりとりをしていた中学からの男友達からも電話がかかってきて、『うっわー、すっごい可愛い声になっちゃってるねぇ』などと笑われたが、初瀬はマイペースにぞんざいに応じて、また一歩日常へと復帰した。



 そしてその翌日。
 六月十八日、六月の第三日曜日。
 朝から雨が降りしきる午後、今度は初瀬が、佐藤美朝の家を訪れた。いつもなら中学時代から愛用のクロスバイクに乗っていくところだが、まだ体調が万全ではないから自転車は自重して、徒歩での訪問だ。
 傘をさして美朝の家へと到着した初瀬は、今日も長い髪を青いヘアゴムで首の真後ろで二つ結びにして、昨日と同じようにメンズの服装だった。白と青のボーダーの半袖Tシャツとインディゴブルーのデニムパンツに、白地にライトグリーンの半袖パーカーという、サイズが大きくて小柄に見えるボーイッシュな格好。
 家を出る前の予定では、比較的サイズが合うはずの中学一年の頃の服で無難にまとめようとしたのだが、出掛けに実際に着てみると、丈はちょうどいいくらいなのに変に胸まわりに余裕がなくてお尻まわりもきつくて、あれこれ試すうちに時間がなくなってしまった。とりあえずTシャツだけ、百七十センチに満たなかった中学二年前半のものを選んで、後は去年の夏の服で強引にまとめている。
 サイズの合わない男物の服だから、身体を屈める時などに油断すると胸元の素肌や水色のハーフトップブラが覗けてしまったりするが、しっかりと意識している初瀬のガードは甘くない。そのガードの一部である夏物の明るいパーカーは、今の身体では完全にぶかぶかで、袖は七分丈にも見えて、肩もあまって、裾もひらひらとお尻まで覆っていた。Tシャツの裾をきちんと入れているデニムパンツも、足元は二つも三つも折りこんで、ウエストもベルトで強引に締め付けている。そのせいで少し変なふうにデニムがたわんで、小股部分も上に引っ張られるように密着して、ヒップサイズもゆったりと強調されていた。
 「初瀬くんっ、こんにちはっ」
 そんな初瀬に対して、わざわざ玄関の軒下で待っていた美朝は、珍しく大人びたアップスタイルの髪型だった。服装も、初瀬の入院中に購入した洋服のようで、初瀬が初めて見るものだ。襟まわりが少し広くて鎖骨が見える薄手の半袖デザインTに、ゆったりと胸まで覆う軽やかなワンピースのようなジャンパースカートという、涼しげで夏を感じさせる普段着のおしゃれ。左右二本ずつの細い肩紐で支えられた生地の薄いジャンパースカートは、オレンジがかった黄色と白の明るいギンガムチェックで、膝下丈の裾はレース状になって、大人っぽさと子供っぽさが自然なバランスで同居していた。
 見慣れている相手なのに、初瀬は数秒見惚れかけた。なんだか変にどきどきして照れくさくなって、初瀬は今の自分の自然な声で、無防備な高い声で、軽く挨拶を返した。
 「おーっす。雨降ってんのに、ずっと外で待ってたのか?」
 「ううん、ほんのさっきからだよ。なんだか待ちきれなくて。思ったより早かったね」
 「ああ。まあ、おれも落ち着かなかったからな。今日は珍しい髪じゃん」
 「ぁ、うん……。似合う、かな?」
 「おう、髪も服も、ばっちり可愛いぞ」
 嬉しそうにはにかむ美朝と照れて笑い合って、初瀬は緊張しながら、勝手知ったるガールフレンドの家におじゃました。
 美朝が初瀬の家族と親しいように、初瀬も美朝の家族とはとても親しい。が、初瀬は思春期を迎えたあたりから美朝の家が少し苦手だった。原因はいくつかあるが、大きな理由の一つは美朝の両親の性格にある。特に美朝の母親の佐藤美香子は、娘に似てやや童顔でおっとりとして見えるのに、なのにパワフルな女性で、初瀬はいくつになっても彼女に勝てる気がしない。
 だから初瀬は、しっかりと覚悟を決めてこの日の対面に臨んだのだが、女になってしまった初瀬に対して、美朝の両親の態度は以前とまったく同じだった。
 緊張混じりに挨拶をする初瀬を、美朝のお父さんもお母さんも明るく歓待してくれて、初瀬の体調を気にする話題から始まって。自分を心配してくれる美朝のお父さんとお母さんに、初瀬はちょっと胸を温かくしながら素直に返事をして、改めてお礼を言って。
 そして、美朝のお母さんにいつのまにか距離をつめられて、初瀬は気付くと昔みたいに優しく頭を撫でられていた。
 「初瀬くん、男の子でもカッコ可愛かったけど、とってもきれい可愛くなったね」
 「ぁ、ぅ……、そんなの、全然嬉しくないよ」
 「あは、女の子になっても、初瀬くんは初瀬くんでしょう?」
 美朝のお母さんは、同じくらいの身長に逆戻りした「初瀬」をまっすぐに見つめて、娘と同じことを言って、にっこりと笑う。
 うつむきがちに頬を火照らせていた初瀬は、はっとして顔を上げて、入院前からずっと同じことを言ってくれるお母さんの優しい瞳とぶつかって、真剣な表情で大きく頷いた。
 「うん、女になっても、おれはおれだよ」
 「うん」
 明るい笑顔で見返されて、初瀬はますます頬を火照らせたが、美朝のお母さんが穏便なのはここまでだった。初瀬のそんな幼いような態度に、お母さんは相好を崩した。
 「本音言うと、ママも男の子の初瀬くんにお婿に来て欲しかったけどね。初瀬くんならお嫁さんでも大歓迎だよ。男の子は二人の子供に期待かな?」
 「…………」
 美朝の母親は、良くも悪くも初瀬をとても気に入ってくれていて、昔から初瀬を自分の娘の婿にする気が満々で、いつも簡単にそういうことを言う。「初瀬くんの精子はちゃんと精子バンクとかにとってあるのよね?」「あ、女の子って十六歳からだから、もう美朝も初瀬くんも結婚できるよね。十代の結婚式って憧れない? ママ早く孫の顔も見たいな」などなどと、さりげなく大事な確認を混ぜつつ、彼女は今日もあけすけな言動で、初瀬をとても困らせてくれた。
 ちなみに彼女の一人娘は、「もう、ママったら……」と照れてにこにこと頬を赤くするだけで、そんな母親をいつも止めてくれない。
 『……理解がありすぎるおかーさんっていうのも、考えもんだよなぁ……』
 初瀬も昔は「みーママ」「みーおかーさん」と呼んで元気に懐いて甘えていたずらもして、可愛がられて愛されて叱られたりもしていたが、今はもうそんな無邪気な言動は取れないし、まだ開き直ることもできない。
 二十九歳で身篭ってから専業主婦になった美朝の母親は、主婦業の余暇を利用して中長期的な証券投資で手堅く稼ぐ傍ら、地域のコミュニティ活動などにナチュラルに参加する活動的な女性で――初瀬たちも時々手伝いに引っ張り出されていた――、共働きで忙しい初瀬の母親とも仲がよく、初瀬は色々とお世話になりすぎている。手のかかる幼稚園の頃など、初瀬はいつも美朝と美朝のお母さんと三人で一緒に帰って、夕方に兄や母が迎えにくるまで、美朝の家――小学校入学前に今の家に引っ越すまでは今よりもご近所の中層マンション――で面倒を見てもらうのが日常だった
 そんな昔から佐藤家の一人娘が初瀬べったりで、初瀬も初瀬で我が物顔でその子を連れまわしていたのが悪いのかもしれないが――実際は子供たちをくっつけようと日々教育してそそのかしていた大人たちにも大きな原因があって、初瀬はよく覚えていないが、幼い美朝と初瀬が「わたしはつせくんのおよめさんなの」「みあがイイオンナになったらヨメにしてやってもいいぞっ」などとベタなことを堂々と口にしていたのも半分くらいは美朝の母親の影響である――、なんにせよ、今となってはもう少しそっとしておいて欲しい初瀬だった。
 「いつもすまないね、初瀬くん」
 「え、や、おとーさんが謝るようなことじゃないよ」
 「あ、ひどい。まるでわたしが初瀬くんをいじめてるみたいじゃない」
 美朝のお父さんの謝罪を、初瀬は慌てて否定したが、お母さんが楽しげにひっかきまわす。お父さんは軽く笑って頷いた。
 「初瀬くんもまだまだ大変だろうからね。美朝をあんまり泣かさないようにしてくれれば、今はそれでいいさ。女になったからって、なにも無理して変わることはないからね」
 初瀬が女になったことをどう思っているのか、美朝の父親の佐藤幸太も、娘たちが清く正しく真剣に付き合うのであれば、以前通り交際は認める方針なようだった。彼自身が、妻とは同い年の幼なじみの関係であることも、少しは影響しているのかどうか。昔から気に入って成長を見守ってきた「娘の幼なじみの男の子」が、「見知らぬ可愛い女の子」になってしまって、彼も色々思うところはあるのだろうが、その言動は前向きだった。あたふたと妻の相手をする「女の子の初瀬」と、それを当たり前に受け入れているような妻子の振る舞いを見て、『このままだと女三人に男一人で肩身が狭いな……。初瀬くんが婿、いや、嫁に来たら、本当に男の子の孫が欲しいな』などと気の早いことを考えつつ、むしろ初瀬に同情するような表情をしていた。
 初瀬は正直、今の身体での美朝の両親との対面にかなり緊張していたのだが、美朝の両親は全然マイナスの反応を見せなかった。初瀬の知らないところで、美朝が両親と話し合っていた部分もあるのだろうが、そんな美朝の態度自体ある意味希少だ。この佐藤一家は、「この親にしてこの子あり」と良い意味で言えるような、既成の偏見にとらわれない、大切な価値観を共有し合っている家族なのかもしれない。
 が、初瀬としては、美朝の父親も、どうしても苦手意識が働く相手だった。
 美朝の父親は「最近美朝が冷たいんだ……。初瀬くんからなにか言ってやってくれないか」と娘のボーイフレンドに時々愚痴をこぼすようなお父さんだが、子供が娘一人だけなせいもあってか、初瀬を息子同然に可愛がってくれていた。その男の子が成長とともに距離を取り始めたことにも当然気付いていて、それをちょっと寂しそうにしつつも、「遠慮なんて似合わないことしないで、前みたいにもっと遊びにおいでよ」といつも好意的で、初瀬を自然に見守ってくれていた。初瀬にとって、ノリの軽い自分の父親とは違う美朝の父親は「理想の父親」にかなり近い存在で、自分の父親よりも父親として尊敬していると言っても言いすぎではない。
 だが、だからこそ、むしろ受け入れられて信用されているからこそ、反発のしようもなくかえって付き合いが難しい一面があるのかもしれない。初瀬も昔は無邪気でいられたのだが、我が身の行いを振り返れば、今は合わせる顔がない。
 「最善をつくします」
 きれいに整った顔をひどくかしこまらせて、高く澄んだ繊細な声で、なんとかそう言葉を搾り出した初瀬である。
 「やだもう、初瀬くんたら、女の子になってもカッコつけ屋さんだね。そんなカッコつけなくていいのに」
 「はは、だから無理しないで、のびのびと初瀬くんらしくでいいんだよ」
 「うん、パパに気を遣うことなんて全然ないよ」
 そんな変に殊勝な態度を取る初瀬に、お母さんがまたからかうようなことを言って、お父さんも笑って言葉を足して、彼らの一人娘も一人娘で好き勝手なことを言う。
 初瀬のよく知る佐藤家のありふれた光景。
 遠慮もなければ、無理をする必要もない、家族の温かな時間。
 彼らは頻繁に当たり前に初瀬に話を振ってきて、初瀬はちょっと疲れさせられたが、だが嫌な空気ではなかった。
 明るく会話が発展して、お父さんはここ二ヶ月の娘がいかに初瀬を思い遣っていたかをにこやかに暴露してくれたが、こんなところが多感な時期にいる娘に冷たくされる一因なのかもしれない。美朝は少し恥ずかしそうにムキになってお父さんを怒って、お母さんもお母さんで、そんな娘をネタにして話を膨らませる。当然初瀬にも矛先が向いて、初瀬も美朝たちに会えなくて切なかったことを白状させられて赤面してたじたじになったりしたが、なんだかんだでつい笑顔にさせられることも多くて、自分でも気付かないうちに自然に気持ちが和らいでいた。
 これで女になっていなければと、初瀬はどうしても思ってしまうが、逆に男のままなら、また別の意味で態度に悩んだかもしれない。最近こういう機会がめっきり少なくなっていたことを、初瀬は自覚している。昔は初瀬も楽しんで参加していたものだが、ある頃から無邪気になれなくなって、今もどこか後ろめたくてまっすぐに美朝の両親を慕うことができなくて、ちょっと胸が痛くて寂しい気もする初瀬だった。
 が、寂しさなんて感じていられないほど、お父さんもお母さんも、幼い頃とずっと同じように初瀬に構ってくる。当然のごとく今日の話題の中心は初瀬のことで、今の話になったり昔の話になったり、賑やかに話が弾む。
 そうこうするうちに、色々我慢できなくなったのか、美朝が初瀬の腕を引っ張った。
 「初瀬くん、パパの言うことなんて気にしなくていいからね。もう行こっ」
 「や、おう、そうだな」
 「……また美朝が冷たい……」
 「あは、後でおやつも持って行ってあげるね。今日は美朝の手作りクッキーだよ」
 「あ、うん、ありがとっ。おとーさんごめんっ」
 父の日なのに娘にそっけなくされて落ち込むお父さんと、楽しげに笑うお母さんに見送られて、初瀬はとっさに子供の頃のような幼い表情で返事をして、彼らの一人娘に引っ張られて二階へと連行された。



   ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



 木目色のフローリングに、クリーム色の壁紙と薄桃色のカーペットの美朝の部屋。緑のプランターが置かれている出窓は開け広げられて網戸になって、レースのカーテンごしに、うるさすぎも静かすぎもしない雨音が響いている。
 初瀬が美朝の部屋を訪れるのは、美朝たちが初瀬の部屋に遊びにくる回数よりは少ないが、そう珍しくはない。
 昔はもっと幼い子供の部屋だった美朝の部屋は、ここ数年で余計なものが減って、シックな姿見や法律関係の小難しそうな本やノートPCなどが増えて、だいぶ落ち着いた印象になっていた。まだベッドの枕元に大きなぬいぐるみが鎮座していたり、床の片隅にバランスボールのようなものが転がっていたり、本棚に少女マンガが並んでいたり、初瀬とお揃いの翼の生えた子ブタの貯金箱があったり、初瀬と一緒に取ったゲームセンターのプライズ系の小物が飾ってあったりするが、清潔で明るい雰囲気はそのままに、自然に年頃の少女の部屋になっていた。
 初瀬の部屋よりも広い部屋全体に、美朝が母親と育てているハーブから作ったポプリの香り――美朝が初瀬の部屋に持ってくるものとはまた違う香り――がほのかに漂って、自然な生活の匂いに入り混じって特有の香りになって初瀬の鼻腔をくすぐって、初瀬は床のジャンボクッションにお尻を乗せて座り込みながら、なんだかそわそわと、ちょっと落ち着かない気持ちになった。
 美朝の部屋が比較的女の子女の子しているのは、服のセンス同様今に始まったことではないが、以前とは少し関係が変わった今、冷静さを維持するのが難しくなる。今日は初瀬の退院祝いを兼ねて佐藤一家を夕食に招いてあるから、夕方初瀬も一緒に帰る予定だが、それまで時間はたっぷりとある。美朝と二人きりなんてよくあることのはずなのに、病院でも毎日だったのに、一階には美朝のお父さんとお母さんもいるのに、むしろその二人にからかわれたせいもあってか変に意識して、初瀬はなんだかどきどきしてきた。
 「昨日の夜ね」
 「おう?」
 そんな初瀬に気付いているのかいないのか、電気をつけてドアを閉めた美朝は、穏やかな表情で、真っ先に今の二人の懸案事項を口に出した。
 「エリナちゃんと電話で少し話したよ。今度自分からちゃんと会いに行くって」
 春日井エリナ。美朝にとって親友と言える女の子で、初瀬にとっても大切な女の子。初瀬は月曜以来会っていないが、メールのやりとりだけは何度も交わしている特別な女の子。
 初瀬はなんとなく後ろめたさを感じつつ、小さく頷いた。手持ち無沙汰にさわっていたパーカーの腰のアジャスターの紐から手を離して、無意識に首の肌を軽くつまむように撫でる。
 「おれもメールしたよ。明日おれんちで会う」
 「……もう、約束してたんだ」
 「約束ってほどでもないけどな」
 「そっか」
 美朝はエアコンを弱い除湿モードで稼動させて、初瀬の横に座った。お互いに簡単に触れ合える至近距離で、美朝はじっと初瀬を見つめる。
 そんな美朝がなんだかやたらときれいに見えて、初瀬は少し身じろぎをした。
 二ヶ月前なら美朝を見下ろす形だったが、今は身長が同じくらいだから、まっすぐに顔が近い。
 今日の美朝は、セミロングの髪を結い上げるようにバレッタでまとめて、うなじを出して大人びた雰囲気で、初瀬の目には色っぽくも見える。明るいチェックの服装は少し幼い印象もあるのに、その薄手の洋服にあらわれる身体のラインは、美朝の身体がもう子供ではないことをナチュラルにふくよかに自己主張していた。
 中学入学の頃には百四十センチくらいの身長しかなくて、制服姿でも小学生みたいだったのに、今では年齢平均並に背も伸びて、すっかり女性らしい身体つきになっている美朝。
 唇もどこかぽってりと艶めいて見えて、初瀬はつい先日までは美朝をここまで意識することはなかったはずなのに、一度意識し始めると際限なく意識してしまう。と同時に、美朝を意識すればするほど、今の自分の肉体と性まで、暗い感情とともに強く意識してしまう。
 「話が終わったら、わたしも行ってもいい?」
 「ん? 明日か? 構わないけど、遅くなるぞ? ただでさえ夕方だし」
 「だいじょうぶ。ちょっと顔見るだけでもいいし、話が終わったら電話してね? 待ってるから」
 「ああ、でもあんま遅いようならナシだからな。そん時は夜にでも電話するよ」
 「ん……、わかった」
 そんなに長くエリナちゃんと二人きりでなにを話すの? とは言わずに、美朝は小さく頷いた。
 初瀬は胸がドキドキして、このまま美朝にキスとかしたい心境だったが、ここで美朝は大きく話題を変えた。
 今日の初瀬は、ただ単に遊びに来ただけではない。美朝の両親への顔合わせ以外にも色々な目的があった。美朝は他の女の子の話題から離れて、明るい態度で、早速目的の一つを持ち出した。中央の楕円形のガラステーブルに用意しておいた、三つの品物のうちの一つを手に取って、初瀬にそれぞれを指し示す。
 「んっと、これが今わたしが使ってる化粧水だよ。こっちの二つが乳液。日中用のUVカットのと、夜用の」
 「……三つもあるのか? なんかすげー面倒くさそうなんだが」
 だれを気にしてそんなのやってるんだ? などという鈍い発言を、初瀬はいまさらしたりしない。
 話が微妙な方向に進んで、初瀬は内心複雑な気分になりながらも、深く考えずに率直な感想を漏らした。
 初瀬のその言葉に、美朝は「言うと思った」という顔で笑った。
 「このくらいは基本だよ。エリナちゃんもわたしも、今の時期は外で体育の時とか日焼け止めも使ってるし」
 美朝はまだ本格的なメイクをすることはなく、色付きのリップクリームや制汗デオドラントや軽いコロンを使うくらいだが、スキンケアには気を配っている。今美朝の目の前にいるボーイフレンドは、美朝のことを可愛いと言ってくれるが、美朝は自分を過信していない。だから眉の手入れなども欠かさないし、美朝は彼の知らないところで――初めて眉をいじった時はしっかり気付かれたが――、色々と気を遣ったり努力をしたりしている。
 そんな美朝だから、夜に洗顔フォームしか使っていないという初瀬が気になるらしい。美朝は先日病院でふとした時に初瀬の頬に手を伸ばしてきて、くすぐったそうな初瀬の反応を楽しげに笑って、『初瀬くん、なにかちゃんとケアしてる?』『もう初瀬くんも女子になったんだから、ちゃんと気にしなきゃだよ』『女子は男性ホルモン少なくて、男子より肌を守る皮脂成分の分泌がずっと少ないって聞いたことあるし』『んと、周期、で黄体ホルモンっていうのが活発になって、その時は女子も皮脂の分泌が増えるみたいだけど』などなどと、なぜか時々恥ずかしそうにしつつ、初瀬の肌質のチェックもして、あれこれ世話を焼きたがった。
 初瀬はカッコつけな部分があるから、昔から身だしなみにはそれなりに気を遣っているが、日常的な清潔さやヘアスタイルや服の着こなしといったものが主で、細かいスキンケアがどうとかはさほど気にしていなかった。初瀬がそんなふうだから、美朝はせっかくの初瀬の美容が損なわれたらもったいないとでも思うのか、新米女の子な初瀬にスキンケアを伝授するつもりらしかった。
 「四つもしてんのか? もう聞くだけで嫌になるぞ」
 「最初は、化粧水とUVケアからでだいじょうぶだよ。わたしもまだそのくらいだし。後はゆっくり少しずつ、一緒に勉強しようね?」
 にこにこと笑う美朝に、初瀬は曖昧に肩をすくめた。
 「おまえも、意外にそんなの気にしてたんだな。日焼けくらいしかあんま気にしてないって思ってた」
 「ん、初瀬くんとは、リップの色とかコロンの話しかしたことなかったもんね」
 「言えば付き合ったのに」
 「まだ全然お化粧じゃないもん、なんだか恥ずかしいよ」
 「そーいうもん?」
 「そういうものなの」
 二人顔を見合わせて、なんとなく笑い合う。
 初瀬はテーブルに手を伸ばして、美朝の基礎化粧品の一つを適当に手に取った。
 「こういうの、いつからやってるんだ? 日焼け止めは、小学校ん時からわざわざ学校にも持ってきてたっけ」
 美朝は小学校の頃から、体育の前などエリナと二人でよく塗り合って遊んでいて、初瀬も彼女たちの手で日焼け止めミルク――クリームタイプよりは効果が弱くて肌への負担が少ないものが多い乳液タイプの日焼け止め――を塗り塗りされたことが何度もあった。去年の夏に海に行った時なども、美朝にお節介を焼かれて日焼け止めクリームで肌を撫で回された。「男子でも気にしなきゃダメだよ」と水着姿で初瀬の肌を撫でる美朝に、初瀬はちょっとドキドキして大げさにくすぐったがって、いつも面倒くさいと笑っていたものだ。
 「うん、化粧水ちゃんと使うようになったの、わたしは中学二年の冬くらいからかな?」
 「中二か。はえーのかな?」
 「そうでもないと思うよ? 修学旅行の時にはもうしてる子結構いたし。わたしも最初はママに教えてもらったの。初瀬くん、全然気付いてくれなかったよね」
 非難する、というよりは、どこかいたずらするような瞳で、美朝は初瀬を見やる。初瀬はその笑顔の意味に気付かず、少し怯んだ。
 「あー、うー、だっておまえ、まだ化粧なんていらんし、全然化粧とかしてる感じじゃないじゃん」
 お正月に振袖を着た時など、お母さんに薄化粧をしてもらった美朝を初瀬は何度か見たことがあるが、普段はそんな雰囲気ではない。
 「あは、それはそうだよ。化粧水とか、全然お化粧のうちに入らないし。気付かれたらそっちの方がショックかも」
 初瀬の反応に気をよくして、美朝はくすくす笑う。中学二年生で初めてちゃんと使った時には気付いて欲しかったが、今では逆に細かいスキンケアに気付かれたらそちらの方が嫌な気がする美朝だった。
 「いや、そこからついていけんから。だいたい、化粧水とか乳液? とか、化粧じゃねえの? どう違うんだ?」
 「あ、んっとね、化粧水とか乳液は基礎化粧品っていって、スキンケアのためのものなの。お化粧はメイクだけど、スキンケアは肌のバランスを整えたり、肌を守ったり、肌の健康のためにやるの」
 「……むー、なるほど?」
 「で、化粧水は主に水分補給で、乳液とかクリームで保湿したりする感じかな? でもそんなかっちり区別じゃなくて、栄養補給みたいのとかあるし、メーカーによっても色々あるみたい。わたしが使ってるのも、こっちのは、軽いUVカットのなの」
 「……女はたいへんだ」
 「あは、それ男子だっておんなじだよ。初瀬くんは女子の目とか気にしてなかったみたいだけど、肌が荒れてるとかニキビあるとか、女子はそういうとこちゃんと見てるんだから」
 「げー、影でなにを言われてるのやら」
 「男子の方が、女子がどうとかって、影で色々言ってるんじゃない?」
 「ん、まあ、言ってるのは言ってるけど、たぶん女子とは違うな。細かいとこに気付く甲斐性持ちは少ないんじゃねーの? 少なくともおれのまわりにいた連中は女を大雑把にしか見てなかったな」
 「初瀬くんはどうだったの?」
 中高生の男子としては何も不思議ではないが、男子の雑談には女子の話題が混じることも珍しくはない。美朝たちと親密すぎたせいか、またはガツガツしていなかったからか、初瀬の前で極端な話をする男子はあまりいなかったが、スケベな男を自認する初瀬はその手の話題にもノリよくついていくし、自分たちが絡まない話は面白半分に楽しむし、女子を巻き込んでわーわーきゃーきゃー騒ぐこともあった。
 ここまでは美朝も知っていることだが、男子だけの時はより露骨な話になることもあって、女子本人たちには聞かせられないようなネタもたびたびあった。もしかしたら女子も女子で、男子の知らないところで似たようなことを言い合っているのかもしれないが、それは女子になったばかりの初瀬にはまだうかがい知れない部分だった。
 「――さあ。どうだろうな」
 「あ、逃げた」
 「はは、で、おれはなにからすればいいんだ?」
 深く追求を受ける前に、初瀬はわざとらしく笑って話を変える。美朝は露骨なそれを笑ったが、詮索はせず、初瀬に合わせて話題を戻した。
 「んと、どうする? 特に問題ないみたいなら、わたしと一緒のから、試してみる? わたしが使ってるの、軽いタイプだし、初めてでもオススメだよ」
 「二つも三つもつけるのはどうにかなんねーのか?」
 「ん、今の初瀬くんの肌、とってもきれいだから、まだ洗顔をちゃんとするだけでいいのかもしれないけど……、でも、せめてUVケアはした方がいいよ」
 美朝の知る限りでは、基礎化粧品の目的は肌の状態の過不足を補うことにある。美朝もほとんど母親の受け売りだが、どんな基礎化粧品も人本来が持つ天然素材ではありえず、基礎化粧品も薬品の一種と言えるから、使わずにすむなら使わないに越したことはない。
 昨今は情報が大量に溢れて最適を見極めるのがかえって難しいが、美容と健康の基本中の基本は規則正しい生活で、バランスのよい食事と水分補給に、充分な睡眠をとって、適度な運動をこなし、後は日常的に清潔――洗いすぎもよくない――にしておけば、皮膚の角質層などが自然に適正に維持されて、特に若いうちは余計なケアは必要ない。逆に若いうちから過剰なケアをしすぎると、肌を甘やかすことになって、自然な能力が衰えるとも言われている。同時に、紫外線の問題などが取りざたされているように、配慮をしなさすぎるのも肌を酷使することになる。
 要は何事もバランスの問題だった。なんでもやればいいわけではないのが厄介なところで、個人差も大きいから、自分の年齢や健康状態や肌質、日々の活動や生活習慣などを考慮して、最適を探し求めていくことになる。美朝も自分のケアに完全な自信があるわけではなく、時々悩んで友人や母親たちと相談したりしている。
 「んーと? 日焼け止めだけ塗ればいいってこと?」
 「うーん、長く外にいるとかでないなら、普段はUVケアだけで間に合うと思う。でも、化粧水も試してみていいと思うな」
 「充分面倒くさいって。朝と夜で使い分けてるんだっけ?」
 「あ、使い分けてるのは乳液の方だよ。日中用のUVカットのと、夜用のは、んと、気になる時は使わなくて、日によってつけたりつけなかったりなの。化粧水は朝も夜もおんなじの使ってる」
 「ふむむー?」
 「だから、ね。全然たいへんじゃないよ。別にクレンジングとかいらないし、まずは試してみてから、気に入らないならまた色々変えてみればいいし。試した後に一度やめて、改めて比べてみてもいいし」
 「たいへんじゃないっつーのはどうかと思うが……、まあ、よくわからんし、確かに物は試しか。最初はじゃあ、化粧水と日焼け止めの乳液? でいいのか?」
 「うん、最初はそれでいいかも。強めの日焼け止めとかは、ちょっと様子を見てからかな。どうしても面倒なら、今度一緒にもっとお手軽のも探そ」
 「おう、じゃあ、それで手を打ってやろう」
 「うん、それで手を打って」
 無駄に偉そうに言う初瀬をくすくす笑って、美朝は化粧水を手に取った。
 「じゃあ、初瀬くん、まずパッチテストからだね」
 「おう? ぱっちてすと? テスト?」
 「うん、肌に合わないのを使うと逆効果だから、まずは腕の内側とかに試して、二日くらい様子見て、異常がないかどうか確かめるの」
 「また面倒そうなことを。女ってそんなの真面目にやってんの?」
 女子はその手のものを気軽に貸し借りするものだと初瀬は思っていたが、意外に違うのだろうか。それともちゃんと身体に合ったものを貸し借りしているのか、またはそうそう異常など出ないだろうから、単に美朝が細かいだけなのか。
 「ん、やらない人もいるかもだけど、でも、合わないの使って異常出たりするとヤだから。特に今の初瀬くん、肌すごく繊細そうだし。本当は、もっとちゃんと合うの探して、専門の人にやってもらうのがいいんだろうけど」
 「面倒くさい」
 「あは、わたしやってあげるから、腕出して」
 化粧水の蓋を開けて身体を寄せてくる美朝に、初瀬は笑って逆らわずにぶかぶかのパーカーを脱いだ。半袖のTシャツ姿になって、前に流れそうになった二束の長い髪を軽く払って、ほっそりとした白い二の腕を前に差し出す。
 「内側ってどのへんだ?」
 「んっと、このへんでいいんじゃないかな」
 サイズの大きな初瀬のシャツは、胸部が中から押し上げられて、青いボーダーが柔らかい曲線を描いている。襟まわりも広くて、鎖骨から胸元のデコルテラインの素肌までくっきりと見える。余分な裾はデニムパンツの中に消えて、華奢なウエストから腰へのラインも自然に強調されている。
 美朝はずっとしっかりとそれを意識していたが、態度には出さずに、明るい笑顔で初瀬の腕を手に取ってTシャツの袖をまくった。きめ細やかでしみ一つない、抜けるように白い初瀬の肌を軽く撫でる。
 「こそばいぞ」
 初瀬は少しくすぐったくて、間近に美朝の香りも感じて、微かに肩をくねらせた。
 「TS病って、色白になることが多いのかな? 初瀬くんもそうだし、生徒会長さんとか、彼女さんとか、すごく肌白いよね」
 「ん、どうなんだろーな。会長はまだ普通に白いっぽいけど、あの先輩はかなり白いな。TS病は皮膚が強くなるとか紫外線に強くなるとかも聞くけど、女になってからの時間にもよるのかな?
 初瀬はあまり余計のことは考えたくなくて、学校の三年の有名なTS少女同士のカップルである生徒会長たちを思い浮かべながら、適当なことを言う。
 現代の日本人は、一生で浴びる紫外線の約半分を、十八歳までに浴びると言われている。年齢性別や遺伝的要因もあるから一概には言えないが、TS女性が傾向的に色白なのは、新しい身体になることでその分が軽減されるせいもあるのかもしれない。
 「羨ましいな、白くてきれいなの」
 「みあだって肌きれいじゃん」
 「ぁ……、ありがと……」
 初瀬の瞳が至近距離にある美朝の腕や顔をじっと見て、一瞬首から胸元にも視線が走って、美朝ははにかむように身じろぎした。照れる美朝のしぐさに、初瀬も思わず照れて少し焦る。
 「みあはわざわざ病院で見てもらったのか?」
 「あ、ショップでやってくれるんだよ。わたしは最初はショップの人にやってもらったの」
 「コスメショップ?」
 「んっと、最初は、デパートの一階だった。ママがよく行くとこ」
 「なんでデパートの一階はどこも化粧品売り場なんだろうな」
 「あは、そうだね、なんでだろうね」
 にこやかに雑談を交えて、時々お互いにドキドキしたりしながら、二人のやりとりは進む。
 位置を少しずつずらして三つの基礎化粧品をつけると、美朝は別の日焼け止めミルクと日焼け止めクリームも持ち出してきて、「なんで増えるんだよ」とつっこむ初瀬の腕に塗り塗りする。
 美朝はお姉さんぶって初瀬をあやして、制汗スプレーやコロンも初瀬に試す。
 中学の頃に初瀬も一緒に選んだ、触れ合うくらい間近にいるとほのかにわかる程度の、ふんわりと優しく香るコロン。時間を置くと体温で温まって初瀬の匂いになって漂うのかもしれないが、中高生向けのほんのりとした香りだから、今は美朝の部屋の匂いに入り混じって、意識しないとあまり感じ取れない。くんくんと匂いを嗅ぐ初瀬に、美朝は「おそろいだね」と、ちょっと恥ずかしそうに嬉しそうに笑った。
 その後、美朝は一度お手洗いに行き、母親の乱入を防止するためかどうか、紅茶と手作りのハートのクッキー――父の日と初瀬の来訪に合わせて午前中にお母さんと一緒に作ったらしい――を持って戻ってきた。
 さっそくおやつに手を出す初瀬に、美朝は額や鼻や顎のTゾーンがどうとか、頬や顎やフェイスラインのUゾーンがどうとかこうとか、肌の主な五つのタイプ――普通肌、乾燥肌、脂性肌、混合肌、敏感肌――なども解説して、何か気になるところがないかどうか改めて初瀬に訊ねて、特に気にならないならまだ化粧水とかいらないのかなと自分のことのように思い悩んで、自分の基礎化粧品が初瀬に合うかどうかも改めて考察して、あれこれと女の子になりたてのボーイフレンドの世話を焼く。
 「美朝〜、初瀬く〜ん。ママたち、ちょっと買い物に行ってくるね〜」
 「あ、はーい。いってらっしゃ〜い」
 「いってらっしゃーい」
 途中で一階からお母さんの声が飛んできたが、美朝先生のスキンケア教室は終わらない。
 実際の試用はパッチテストの結果待ちで明後日以降ということになったが、美朝のレクチャーはだんだんと細かく丹念になっていった。UVカット効果もあるリップスティックも持ってきて、紫外線や日焼けや日焼け止めの解説をしたり、唇や首や胸元や髪や頭皮や腕や脚など身体全体の紫外線対策、化粧水や乳液や日焼け止めの使い方、UVカット機能を持つ上着や帽子の推奨や、美容と健康における水分補給の重要性を説いたり、自分が母親に教わったことを中心に、季節に応じた気配りだとか、過不足のない洗顔の仕方、強すぎず弱すぎない洗顔フォームや石鹸選び、ついでに身体や髪の洗い方やぬぐい方、ドライヤーの正しい使い方まで、美朝はしっかりと伝授してくれる。
 少々多岐にわたりすぎて、初瀬は真面目な生徒に徹し切れなかった。途中途中でふざけて茶化して、身体の洗い方の話の時などには、初瀬はニヤニヤと美朝自身のことを聞いてからかって、頬を赤くした美朝にすけべ呼ばわりされてしまった。





 第四話-II 

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初稿 2012/03/05
更新 2014/09/15