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Boy's Emotion

  Taika Yamani. 

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  第二話
   二 「友達」


 落ち着きを取り戻すにつれて、学校の女子トイレという場を改めて意識する。
 これから卒業するまでに、数え切れないほどお世話になるであろう日常的な空間。病院やデパートの女子トイレを経験しているからいまさらだが、貴子はそれでもちょっと悶々と観察してしまい、また鬱っぽさを感じさせられてしまった。
 一日に何度も来たくないから、ついでに用を足そうと思ったが、もう既に毎日何度も繰り返している行為なのに、心は余計に複雑にかき乱された。ショートパンツとボックスショーツを膝まで下して、スカートを少し気にしつつ便座に座り込んだものの、特に尿意があったわけではないからほとんど出なかった。初めての時のような強い恥辱感は、少しは薄れてきているが、根本的な部分で以前とは全然感覚が違うし、温水洗浄便座のビデ機能を使うのも自分のその部分をトイレットペーパーで拭うのも、今の自分の女の身体を自覚させられるようなこういう行為は、ネガティブな感情ばかりを連れてくる。いっそ欲望にまみれることができたら楽なのかもしれないが、貴子の精神はそれをよしとはしない。
 おかげで、なんとか感情を整えて教室に戻る頃には、時間ぎりぎりになっていた。貴子が教室に入ると、もうクラスの全員が登校していて、いっせいに視線が飛んできた。
 内心少し怯んだが、気持ちは立て直している。その視線の中に片想いの相手のものも混じっていることを意識しつつ、貴子は表面上は平然と自分の席に動いた。
 脇坂ほのかの席は、ベランダ側から三列目の、前からは四番目の席。貴子の席から見るとの一列右横の二つ後ろという位置になり、近すぎることはないが遠くもない位置だった。席に座って友達と話しているほのかの姿が目に入ってきて、貴子の感情はまた少し揺れた。
 「穂積さん、ほんとにごめんね……」
 貴子の席の傍には松任谷千秋が待っていた。いきなりそう声をかけられて、貴子は一瞬千秋が何を謝ってきたのか理解しそこねたが、さっきの藍川志穂の発言をまだ引きずっているらしいことを、すぐに察した。
 「気にしてないよ。藍川さんの気持ちもわかるし」
 男子が女装をして女子に混ざろうとすれば、仮に見た目が女にしか見えなくとも、それに嫌悪感を抱く女子は少なくないだろう。今の貴子も、「元男の“女”」ではなく「身体が女になった“男”」という見方もできるから、「女装の男」と同じような感覚で受け取るものがいるのも無理はない。社会的にはその手のことは各方面で問題視されているのだが、貴子はそれを責めるつもりはなかった。貴子自身、性転換した男や女に対して偏見が全くないとも言いきれない。
 なにより、男だったくせにうんぬん、と言われることより、好きな子のことばかり考えていた貴子にとって、千秋が気にしているようなことは大きな問題ではなかった。
 「そ、それならいいけど……」
 「うん、気にしてくれてありがとう」
 貴子は意図的にほんの少しだけ、柔らかい表情を作って見せる。
 「え、あ、う、うん! 全然!」
 千秋はなぜかちょっと慌てて、何度も首を横に振った。
 「病院でも言ったけど、ほんとに、何か困ったことがあったら頼ってくれていいから!」
 貴子も病院の時と同じように、短く「その時はよろしく」とだけ答える。
 ここで担任教師が入ってきた。ワンテンポ遅れて、朝のホームルームと読書の時間の始まりを示すチャイムが鳴り響く。
 「みんな、席に着きなさーい」
 千秋は、「あ、じゃあまた後でね!」と小声で言うと、急いで自分の席に戻っていく。立ちっぱなしだった貴子も自分の席に着いた。
 やってきた担任教師は教壇の上に立ち、ざっとみなを見回す。男子の日直が号令をかけて、起立礼着席の手順を踏み、担任教師も「おはようございます」と挨拶を返す。
 席の埋まり具合とその顔ぶれを見れば出欠状況は判断できるから、担任教師が生徒の点呼を取ることはあったりなかったりだが、この日は律儀に点呼が行なわれた。十六番の脇坂ほのかに続いて女子の最後に名字を呼ばれた貴子は、好きな相手に今の自分の声を聞かれることに対しても鬱屈した気分を感じつつ、緊張まじりに、みなと同じように「ハイ」とだけ返事をした。
 全員そろっていることを確認すると、教師は連休明けのみなの調子を話題に乗せた後に、連絡事項を口にする。今週木曜日に迫っている生徒会役員選挙のことや、十月下旬の生徒総会のこと、十一月上旬の樟栄祭のクラス企画をそろそろ考え始めなくてはいけないこと。
 そして、秋の大会が行われている運動部のこと。
 「昨日と一昨日に行なわれた陸上の地区大会で、女子三千メートルで脇坂ほのかさんが見事優勝、女子百メートルで菊地愛梨さんも四位入賞しました。みな、拍手〜!」
 教師に促されるまでもなく、みな騒いでほのかたちを褒めはやす。
 貴子も華奢な手をたたき合わせて一緒に拍手をしたが、胸に痛みを感じて、ほのかの方を振り向く勇気がなかった。
 生徒会選挙のポスターを見た時にも感じたことだが、貴子の状況がどうであれ、世界も、学校も、ほのかも、みな日々動いている。なのに今の貴子は、やるべきだと考えることは最低限やっているつもりだが、ただ日常を生きているだけで目標と言える目標もなく、自分から積極的に動かずに停滞し続けている。今回の件は病気なのだからどうしようもないが、それ以前からその傾向はあった。卑屈になりたくはないが、それでもそんな自分とほのかとを比べると、貴子の胸は鈍く痛む。
 「二人とも十月の都大会に出場するとのことなので、あいてる人はまた応援に行ってあげてください」
 「いつあるんですか?」
 手も上げずに女子の一人がそう問いかけて、教師は「脇坂さん、どうなの?」と、ほのかの方を見る。みなの視線を受けながら、ほのかは笑顔でそれに応じた。
 「三千は、九日が予選で、勝てば十日もです。えっと、百は予選も本線も九日だっけ?」
 「うん、そう。六位まで入れば関東大会ね。あたしは厳しいけど、ほのかさんはまた期待できるよ」
 ほのかに話をふられて、廊下側半ばの席の菊地愛梨も笑って頷く。ほのかは「とゆーわけで、みんな、暇なら応援よろしくねっ」と、みなに笑顔を振り撒いた。
 それに答える声が飛び交い、またちょっと賑やかになる。「どこであるの?」というような声が飛んだかと思えば、他の部の生徒が「その日はうちも試合だー」などと騒いだり、男子の陸上部員とその友達の間で「関東大会に勝てば全国大会なのか?」「いや、秋は関東大会までだな」などという会話が交わされたり。
 教師はそんな教室の雰囲気にやんわりと笑みを浮かべて、「詳しくは後で本人たちに確認しなさい。みんな静かに。連絡を続けますよ」と、すぐにみなを制した。生徒たちが静まり返るのを待ってから、他の運動部の成績も紹介する。
 貴子の友人の槙原護の野球部も勝ち残っていて、後一回、ブロック大会の決勝戦に勝てば十月の本大会――二十チームによるトーナメント戦――に出場らしい。後で貴子が友人から聞くところによると、本大会で決勝まで進めば春の選抜甲子園出場がほぼ確定するようだが、次の試合は強豪校との戦いらしく、トーナメント戦への出場自体かなり厳しいようだった。
 そんな話の後、教師はゆっくりと、きれいな姿勢で椅子に座っている無垢そうな一人の女子生徒に視線を向け、なんでもない連絡事項の一つだというようなさりげなさで、今日から再び学校に通うようになったその女子生徒のことを切り出した。
 「すでに伝えていた通り、みんなももうわかっているでしょうが、穂積貴之くんが男子から女子になりました。名前もかわって、貴子さん、穂積貴子さんです」
 みなの注目が貴子に自然と集まる中、担任教師は「彼女」の新しい名前を紹介してから、出席番号が変わることも改めてみなに告げる。男子の十二番が欠員になるが、日直や掃除の班でも、そのまま男子の十二番の穴を埋めること。男子の図書委員もいなくなったが、図書委員なら女子二人でも問題ないので、これもそのまま続投してもらうこと。まだ身体は本調子ではないから今週いっぱい体育は見学になること。
 などなど事務的なことを言い聞かせてから、教師は最後にこう付け加えた。
 「穂積さんはもう女性なのだから、彼女がついこの間まで男子だったからと言って偏見を持たないように。もちろん、穂積さんはこれから学校でも女子として過ごしていくことになりますが、まだまだ不慣れなことも多いでしょうから、できるだけ本人の気持ちも尊重してあげてください。みんなも先生も、男子はいつ女子に、女子もいつ男子になるのかわらないんですからね」
 そんな教師としての良識に溢れる言葉に、生徒たちは神妙になるものとそうでないものと半々だった。男子の一人が「センセーはもう女子って年じゃねーじゃん」と茶々を入れて、教室内の緊張が微かに緩む。
 本人である貴子は、無表情――少なくとも本人はそのつもりの表情――を貫きつつ、みなの視線を黙殺し騒ぎも聞き流していたが、自分の身体のことや好きな女の子のことばかりを意識して、唐突に、彼女が男になってしまう可能性を考えたりしていた。上手く想像できなかったが、貴子だって女になってしまったのだから、今まで以上に現実的な可能性として、貴子は受け止めることができる。
 『……脇坂さんが男になったりすれば、男同士になってたら、たぶん好きのままではいられなかっただろうな……』
 しばらくして貴子の頭に浮かんだのは、やけに暗く冷めた思考だった。
 もうありえない仮定の話でしかないが、この認識は、今の自分の可能性を否定するような認識でもあった。ほのかとの恋愛の可能性は、やはり男と女の異性のままなら多少はあったかもしれないが、女と女の同性になったことで全くなくなったと、感覚的に思わされれる。貴子が構わなくとも、ほのかの方が受け入れないだろう。女になった今、男だった時より友達にはなりやすいかもしれないが、それだけだ。
 『ほんとに、もう諦めるしかないのかな……』
 もしも今ほのかが男になったりすれば、再び異性同士になれば、また別の可能性もあるのだろうが、それはそれで貴子としてはあまり考えたくなかった。簡単に答えの出るような問題ではないが、その場合、やはり貴子の方がほのかを好きのままではいられないかもしれない。
 自分の性別が変わっても可能性が欲しいくせに、相手の性別が変わることにはネガティブな思いを抱く。
 虫のいい身勝手な自分と、やはりゼロになったと感じる可能性に、貴子は泣きたくなるような鬱っぽい気分にさせられてしまった。



 五分ほどで朝のショートホームルームが終わると、教室はざわつきを取り戻す。建前上は、さらに約五分間、一限の授業が始まるまでは朝の読書の時間ということになっているが、律儀に守っている生徒は少ない。
 その少数派に属する貴子は、担任が出て行くなり一限の授業の用意をし、文庫本を広げたが、この時も目は文字を追っていなかった。あまり建設的とは言えないとりとめもない思考だけが、ぐるぐると脳裏を駆け巡る。
 「よ、よお、穂積、久しぶりだな。元気だったか?」
 そんな貴子に、声をかける度胸を持った男子生徒がいた。
 去年も同じクラスだった、高杉満――たかすぎみつる――という名前の男子生徒。いつも遅刻ぎりぎりにやってくるから、貴子がトイレに立つ前には教室にいなかったらしい。
 「……普通だよ。久しぶり」
 男に声をかけられた時、一瞬下心の存在を想像してしまう貴子は、やはり自意識過剰なのか、それとも男としての自分の経験からくるその認識は必要な警戒なのか。どちらにせよ、貴子は一瞬の感情を表には出さない。顔を上げてちらりと満を見ると、それだけ言って視線を本に戻した。
 かなりそっけない態度だが、これは別に昨日今日始まった態度ではない。この時は本に目を向けても読んではいなかったが、読書中に話しかけられたからといって、用件を切り出されるまで本を閉じたりしないのは昔からのことだ。
 「あ、ああ。マジでむちゃくちゃ変わったな」
 「……まあな」
 今度はちらりとも視線を向けずに、貴子は短くそれだけを言う。
 声をかけてきた高杉満は、多少調子に乗りやすいせいか教師に注意されることもしょっちゅうだが、さっき教師を茶化した出席番号五番の桜井雅樹とともに二年二組の中では目立つタイプで、「貴之」と違って友達も多い男だった。「貴之」から見れば二人とも考えなしで騒がしいだけという印象もあるが、公平に言って「貴之」よりも何倍も社交的で、みなの受けもいい。貴子の片想いの相手にも結構気さくに話しかけたりするような男子生徒たちで、特に高杉満は去年のクラスメートの槙原護ともそれなりに親しく、「地味」「暗い」「冷たい」「そっけない」などと受け取られがちな「貴之」とも、敬遠するでもなく接していた。
 そんな性格だから、高杉満は普段の振る舞いの延長線上で、好奇心と興味本位とで声をかけてきたのかもしれない。もし「貴之」が男のまま普通の病気でしばらく休んでいたとしても、満はこうやって声をかけてきたのだろう。
 だが、性転換病はやはり少し特殊だ。性別とともに、見た目や声や身体つきが変わってしまうと、どうしても別人にしか見えない場合も多い。その上、ただ女になったというだけならまだしも、今の貴子の容姿はかなり人目を惹く。満もやはり、今の貴子と「貴之」とを簡単に同一視はできないようで、その声は少し上ずっていた。
 「ほんとに、穂積、なんだよな……?」
 「……そうだよ」
 違うように見えるか? と貴子はつい言いたくなったが、言えば「違うようにしか見えない」という言葉が返ってくるだろう。いつまで他人に意識させられるのか、いつまで自分でも意識してしまうのか、先の長さを思うとため息をつきたくなる貴子だった。
 「だ、だったら本なんか読んでないでさ? ちょっとはみんなとも話したら? ほら、注目浴びまくりじゃん」
 「……いいよ、別に」
 「な、そんな強がったこと言わないでさぁ。みんな気にしてるし、喜んで付き合ってくれるって」
 いちいち言い返すのが馬鹿らしくなるような満の発言である。以前と同じような関係を、満に要求するのは無理があるということなのだろうか。貴子は冷めた態度で顔を上げた。
 「高杉さ、おまえ、おれをだれだと思ってるわけ?」
 今の貴子の可憐な容姿や声には、あまりにも似つかわしくない物言い。
 本人は冷めた表情のつもりでも、客観的には思いつめていると解釈したくなるような印象にもなっていて、満は充分怯んだ。
 「そ、そう、だけど、さ! でも、一人でいたってつまんないだろ!?」
 「何も今までと違わないだろ。身体がちょっと変わったくらいで、いちいち態度を変える気はないよ」
 この繊細で可愛い声が聞こえたクラスの面々は、心の中で『どこがちょっとだ!?』とつっこんでいた。『見た目だって声だってむちゃくちゃ違うし!』『そんなこと言ったってあの穂積くんと穂積さんが同じ人だって簡単に思えるわけないじゃない!』というようなことを思ったものも多かったらしい。
 もちろん、そんなの各人の問題であって、貴子の知ったことではない。表面上はどんなに平然と振る舞っていても、貴子にとって自分の身体の問題は大きい。自分の今の声が自分の意図通りの声音になっていないこともよくわかっていて、理不尽で屈辱的な情けなさだってある。貴子には貴子の問題があるから、付き合いの浅い連中のことまで気にしていられない。
 「それが気に入らないならほっといてくれないかな。無理に話しかけなくていいから」
 「な、キ、キミはそれでいいのか!?」
 キミってだれだよ、と今度は貴子が心の中でつっこむ。
 「今までのおれを考えれば、それで普通だと思うけど?」
 「そ、それは……! そう、かもしれんけど……、さ……!」
 理屈ではわかっても、やはり納得できないものがあるのか、満は言葉を濁す。
 貴子はポーズだけだったが、再び読書に戻った。
 満は何か言いたげだったが、結局言葉が見付からなかったらしい。
 「だー!」
 頭をかきむしると、いきなり走り出して、近くにいた男子にエルボーを食らわした。
 「わ、な、なにすんだ!」
 「やーい、ふられてやんの」
 「うっせー!」
 男子たちがふざけて騒ぎ出し、貴子と満の様子をうかがってひそひそ話が飛び交っていた教室に、ざわめきが戻る。
 少し後ろの席の、貴子の片想いの相手も、級友たちと何か言い合ったらしく、貴子の席まで笑い声が聞こえてくる。男子たちのことを笑っているのか、貴子のことを噂しているのか、貴子とは全く関係のない部活や生徒会関連、テレビやマンガのことなどを話しているのか。ちゃんと聞き取れなかったから、貴子は余計にまた落ち着かない気分にさせられた。どうでもいいような相手なら自然体で応じられるのに、彼女の一挙手一投足には簡単に感情をかき乱されるのだから、なかなか重症だった。
 客観的に言って、高杉満は対応を大きく間違えたと言える。
 貴子を元の「貴之」として接しようとしたにも関わらず同一人物だと思い切れず、かと言って貴子の態度に応じて臨機応変にも振る舞えなかったのが、満の敗因だった。中途半端に親しかっただけなのだから無理もないのかもしれないが、彼はもっと態度を徹底すべきだったのだ。以前と同様の態度を貫けないなら、いっそほとんど初対面として貴子に接するべきだったのだ。
 貴子のようなタイプには、男だった時の付き合いが深ければ深いほど態度を変えてはいけないのだろうし、逆に男だった時の付き合いが少なければ少ないほど、最初から初対面の相手だと考えた方がまだとっくみやすいのかもしれない。
 実際、そう感じた人間がいた。
 松任谷千秋は無意識にそう考えたようだし、その友人の宮村静香も、まさに直感でそう思ったらしい。
 ホームルーム前のやりとりで、貴子が「多少そっけなくとも冷たいわけではない」とでも判断したのだろうか。また本を眺め始めた貴子の傍に、宮村静香は素早く近寄ってきた。
 後ろから千秋も、ドキドキしたような態度でついてくる。「ま、付き合ってやるか」という顔の藍川志穂も一緒だった。
 「ほっづみさ〜ん」
 高校の教室という空間では、場違いではないが、今の貴子に声をかけるにしては、ちょっと浮つきすぎた、明るすぎた声だった。教室内がまた少し驚いたようにざわつくのを感じながら、貴子は陽気に声をかけられて、静香にちらりと視線を向けた。
 「穂積さん、わたしの名前、知ってる〜?」
 静香は貴子の机の傍にかがみこんで、横からニコニコと貴子を見つめてくる。千秋は後ろから、友人のアプローチの仕方を、呆れたような困ったような顔で見やっていた。
 「……名前くらい知ってるよ、宮村さん」
 「あ、そうだよね、よかったぁ、わたし、宮村静香っ。よろしくねっ、穂積さん!」
 もともとそう親しいわけではないから、まずは自己紹介から、ということなのだろうか。同じクラスになってもう何ヶ月もたっているのに、いまさらよろしくもないだろうと思いつつ、貴子は今の自分の自然な声で、華奢で繊細な声で、ごく普通に静香に応じた。
 「よろしく」
 「ま、あたしも適当によろしく、穂積」
 静香に続いて、藍川志穂もそう言葉を添えてきた。さっき気持ち悪いと言っていた志穂の内心は窺い知れないが、その表情は無理をしている風ではない。貴子は文字通り解釈することにして、ナチュラルに同じ言葉を繰り返した。
 「よろしく」
 「って、あたしの名前知らないってことはないよね?」
 「知ってるよ、藍川さん」
 「わ、もしかして穂積さんって、みんな名前覚えてるの〜?」
 「……同級生の名字くらい、普通勝手に覚えると思うけど」
 一学期中、毎日のように点呼を受けていたのだから、その気がなくとも名字くらいは自然に覚える。
 「う、わたし、男子で顔と名前一致しない人いる……」
 「はは、あんたソレさりげにひどいね」
 静香の発言を、志穂が笑う。友人たちが貴子に挨拶をするのを黙って見ていた千秋も、ちょっとほっとしたように笑って、貴子に数十枚の用紙を差し出してきた。
 「穂積さん、これ、さっき渡そうと思ってたんだけど」
 「ん、千秋ちゃん、これなに?」
 千秋が貴子に差し出した用紙の束を、静香は横から覗き込む。
 「うん、穂積さんが休んでた間の、授業のノートのコピー。余計なことかもしれないけど……」
 「…………」
 広げたままの本を机の上に置き、五十枚ほどの用紙を受け取った貴子は、ちょっと言葉につまった。欠席中の授業のノートは、以前なら男連中を少しは頼れたのだが、この状況では厄介そうだから、元から彼女に頼むのがベターかなとは思っていた。押しが弱くて男子の学級委員を押し付けられている小野寺尚人――「貴之」との付き合いは薄いが普通にいい奴だ――に頼みに行くことも考慮していたが、高杉満などの反応を見る限り、男連中に以前と同じ態度を期待することはできない。それだけに、先手をとられてしまうと、貴子は嬉しい驚きを感じさせられた。
 「……余計なことなんかじゃないよ。ありがとう。助かる」
 「ひゃー、千秋ちゃん、気が利くぅ!」
 「へー、いつのまに」
 静香と志穂も、感心したように千秋を見やる。千秋は照れたように笑った。
 「そんな、全然たいしたことじゃないよ」
 「コピー面倒だったろ? コピー代も払うよ」
 「あ、先生に言って職員室の借りれたから、気にしないでいいよ。手間もたいしてかかかってないし」
 「そんなこと言って、この量だと結構きつくない?」
 「うん、二週間分だから手間だったろ。ほんとに、ありがとう」
 志穂の言葉に同意して、貴子は率直に感謝の気持ちを込めて、千秋を見上げる。無意識に、ただでさえ可憐な声は甘く優しい雰囲気を帯び、表情も自然に柔らかくなった。
 「い、いいっていいって! もともとは護に頼まれたんだし!」
 千秋がますます照れ、なぜか横にいた静香も少し顔を赤らめた。
 「うわぁ……。穂積さんって、笑うともっと可愛いね〜」
 「…………」
 一瞬にして、貴子の顔から笑みが消えた。が、本人は無表情のつもりだが、客観的に見るとどこか切なげな表情に見えるのだからまた厄介だった。千秋は貴子が落ち込んだと感じたのか、少し慌てて言葉を投げかけてきた。
 「ね、ねえ、穂積さんって、お昼はお弁当じゃなかったよね?」
 「……たいてい学食か購買だよ」
 いきなりなぜそんな話になるのか、貴子は話の飛躍に一瞬ついていけなかったが、問われたことには普通に答える。答えたくないことには答えないし、嫌な話題には付き合う気はないから、言葉が少ないのは相変わらずだが、普通に話しかけられる分には貴子も特に邪険にはしない。さっきの高杉満も「ちょっとはみんなとも話したら?」と口で言うよりは、いっそ自分でどうでもいいようなくだらない話題でも振った方が、貴子とは友好的な関係が築けたかもしれない。
 「わたしたちお弁当なんだけど、よかったら、場所は学食でいいから、今日一緒に食べない? 志穂と静も一緒に」
 「なんなら千秋のカレシも呼ぶ?」
 「わ、千秋ちゃん、また見せつけるのね〜?」
 千秋の友好的なお誘いに、志穂はにやにやと、静香はいやーんとわざとらしく身振りをしながら言葉を付け足す。千秋はちょっと慌てて言葉を重ねた。
 「な、なんでそうなるの! 護は抜きよ!」
 「……せっかくだけどやめとくよ。図書委員も休んでたから、図書室に顔出したいし」
 「あ、そ、そうなんだ」
 「え〜、それだとお昼ご飯はどうするの〜?」
 「図書室なんて食べてから行ってもいいんじゃない? 昼くらい付き合いなよ。女は怖いから、あたしたちを敵に回すと学校通えなくなるよ?」
 「自分で怖いとか言わないでよ」
 脅し半分冗談半分といった態度の志穂に、咎めるというよりは呆れたように、千秋が言う。そんな二人に貴子が口を開くより早く、宮村静香が反応した。「特に怖いのは千秋ちゃんみたいな子だよね〜」とニコニコしている静香を、千秋はじろりと睨んだ。
 「しーずー? だれが怖いって?」
 「千秋ちゃん、やっぱり怖い……」
 ふざけて笑って、静香が上目遣いに千秋を見上げる。千秋はそんな静香のほっぺたを引っ張った。
 「まだ言うか」
 「い、いはい……!」
 静香は「痛い」と言っているらしいが、発音が不明瞭でよく聞き取れない。そんな二人に笑いながらも、志穂は貴子の様子をうかがっていた。
 「ノートのコピーまでとってやったんだからさ、昼くらい付き合うべきじゃない? ジュースくらいおごりなよ」
 「こら、なんで志穂が言うの。コピーとったのわたしなのに」
 「なによ、千秋のかわりに言ってやったのに。女になったんなら女の付き合いってやつを教えてやらないとね」
 志穂の言葉は、嫌味のない口調だが、多少押し付けがましい。そしてそれは意図的なものなのか、志穂は言いながら、少し挑発するように貴子を見やってくる。
 無理にそういうのを教わらなくとも、生きていくうちに勝手に自然に学ぶ範囲で充分だと考えている貴子は、また冷めた言葉を返そうとしたが、ここでも口を開き損ねた。時間切れを告げるチャイムが鳴り響いたのだ。
 すぐに教師も入ってきて、貴子に口を挟む暇を与えずに賑やかだった千秋たちは、「また後でね!」とさっきと同じようなことを言って慌しく散っていく。
 「…………」
 貴子は開きかけた口を閉ざして、小さな吐息を漏らした。
 色々思うところはあるが、他人の反応をいちいち気にしていてもあまり建設的ではない。好きな女の子のことはどうしても意識してしまうが、自分の身体のことも他人のことも気にしすぎないで、貴子は貴子なりに動くだけだ。
 起立、礼、着席、という日直の号令にあわせて挨拶を済ませると、貴子は授業を始める教師の声を聞きながら、千秋から貰った用紙を広げて、まずは一限のノートの写しを探しにかかった。





 to be continued. 

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初稿 2008/02/26
更新 2008/02/29