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 夢の続き

  Taika Yamani. 

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  番外編その6 「デート」


 普段の希は、シンプルなジーンズにシャツを着込んで、適当に上着を羽織るという格好が多い。身体の線を見せるタイプの服を嫌い、ゆったりとしたユニセックスな格好を好む。もともとは男だという意識のせいもあるし、純粋に動きやすいからという理由や、ラフで面倒くさくないという理由もある。
 その更衣室で、希はそんな格好から、ちょっと活発な格好へと着替えていた。膝丈のショートパンツに、多少裾の長いシャツとシンプルなパーカー。普段ストレートに流している髪はポニーテールにまとめ、足元は太ももまで長さがあるオーバーニーソックスと、動きやすい運動靴で固める。
 そんな格好で希がコートに出て行くと、先に着替え終えてコート脇のベンチで素振りなどしていた怜悧は、目をぱちぱちさせた。
 「か、可愛いな」
 「ありがと」
 希は軽く笑って、怜悧に近づく。怜悧も、すぐに歩いてくる。
 「怜悧もかっこいいよ」
 怜悧はきっちりとテニスウェアの上下という格好で、テニスシューズまでばっちりだ。日頃部活で鍛えているだけあって、その姿も様になっている。
 「ま、まあな。うん、マジで可愛いな。昨日の希も可愛かったけど、いつもの希と違った魅力だ」
 照れるからそう何度も誉めるな。
 そう思いながら、希もベンチに荷物を置く。
 四月になると高等部三年になる春休みの一日、此花希は恋人の朝宮怜悧とともに、屋外テニスコートにやってきていた。怜悧の自宅のコートも使えたのだが、昨日の今日なので希は怜悧の家に行くことを嫌がって、チェーン展開してるスポーツクラブの一角だ。怜悧の自宅のコートほど自由には使えないが、希の家からはここの方が近いし、一般の施設としては充分整っているコートだった。
 この日は天気もよく、昼下がりのこの時間、春のお日様が気持ちいい。施設に八面あるコートは二面ずつ区切られていて、隣のコートでは中年のグループが騒ぎながら球を打ちあっていた。
 「希は可愛いんだから、いつも着飾ればいいのに」
 「面倒くさい」
 「昨日は自分からあんなに可愛くしてたくせに」
 「早く忘れなさい」
 「はは。でも、やっぱテニスウェアも見たいな」
 「まだ言う」
 「テニスと言ったら、やっぱプリーツスカートにアンスコだろう!」
 「はいはい」
 「今からでも買いに行かないか?」
 施設内にスポーツウェアを販売している一角がある。その気になれば一式そろえるのは簡単だ。
 「……帰ろうかな」
 「う、うそうそ。ま、その格好の希も可愛いからオーケーだ」
 なにがオーケーなのかはよくわからないが、希は軽く笑って、怜悧が持ってきたラケットの一本を拝借した。
 「でも今度プレゼントしてやるから着てくれ」
 希はラケットを、くるりと回しながら軽く一振り。怜悧の目の前でぴたりととめる。
 「しつこいね」
 「おれが勝ったら着てくれる?」
 「論外。勝負になるわけないよ」
 「わかんないだろ、そんなの。ハンデもあるんだし」
 「はいはい、だから試しにきたんだよね」
 昨日テニスという話題が出た時、希は思い切り渋った。学校の男子テニス部で鍛えている怜悧と、素人でかつ女である希とで勝負になるわけがないからだ。それをものはためしと説得したのは怜悧で、希はその熱心さに「ま、一度くらいなら」という表現で折れた。
 その時つけたハンデというのが、シングルスでの対戦なのに、怜悧はアレーと呼ばれるダブルスで使うコート部分も守るというものだ。端的に言うと怜悧は普通より広いエリアを守らなくてはいけない。希はシングルス用の普通のエリアだけを守り、相手のダブルス用のエリアにまで攻めていいことになる。
 「でも、コートの半分しか使わないとかでないと、絶対勝負にならないと思うよ」
 「それはハンデありすぎだろ。前だっておれよりうまかったくせに」
 「うまくはなかったよ。単に男女差が逆だったからだね」
 テクニックに勝る女の子の「怜華」と、運動能力で勝る男の子の「望」。その時なら実にいい勝負を続けていたものだが。
 「望は手を抜いてたくせに」
 「そんな余裕はなかったよ」
 「嘘つけ」
 「ま、やればわかるかな。ほら、さっさと準備運動して遊ぶよ」
 贅沢なことに、この日の営業終了時間までコートを予約しているため時間は有り余っている。希はゆっくりと、準備運動をはじめた。怜悧もそれにならう。
 「最近希も、肉がしっかりついてるだろ?」
 「前と比べれば少しはね。だけど筋力とかたぶん、まだ平均にも達してないよ」
 「そうか? すっかり丸みがでてて柔らかいぞ」
 色々な意味で、かなり微妙な表現だった。希が生粋の女の子なら「太ってきたと言いたいのか」とつっこみたくなったかもしれない。希は「なんかいやらしい言い方だな」と思ったが、挑発になりかねないのでさらりと流した。
 「肉がついてきたのと、ひ弱じゃなくなるのは話が別だよ。男女差も大きいし。怜悧だって、前と比べて随分違うって自覚してるんじゃない?」
 「それはあるな。筋力とか比べ物にならないしな。希の身体なんて軽々抱き上げるぞ」
 その例えはやめて欲しい。
 希は準備運動で身体を折り曲げながら、内心ちょっと嘆息。
 「しかもこっちもこっちでちゃんと鍛えててくれたからな。希は運が悪かったな」
 「運の問題なのかな……」
 いじめられっ子でひきこもりだった希。高等部一年の十月、十六歳の時点で、百四十ちょっとの身長と、三十キロもなかった体重。ちゃんと三食食べて、日々柔軟体操を繰り返し、週に何度かのプール通いでだいぶ体格も運動能力も向上しているが、まだまだ希が納得できるレベルには程遠い。
 そして一生そのレベルに到達することはないことを、今の希はもうしっかりと把握していた。その分余計に哀しい。男だった時の身体のことなど忘れてしまえれば気が楽なのだろうが、どうしても比較して不満を覚えてしまう。もっとも、比較して女で満足できる面もあるし、嘆いてどうにかなる問題でもないから、今の希はどちらがいいとも一概には言わないが。
 「ま、とりあえず日常生活にはもう困らないからいいよ。無理な運動をしなければ問題もないしね」
 ちなみに、無理な運動をできる、という自覚も希はしっかりと持っていた。ある意味意識に、身体の有効な使い方がしっかりと根付いているからだろう。筋力や体力に無理をさせれば、それなりのアベレージをたたき出せる。例えば水泳なども、今なら二十五メートルに限って本気で泳げば、学年でも上位に食い込める。一度スポーツクラブのプールでそれをやって、下手に無理すると骨が折れそうだとも感じて、さすがに二度はやらなかったが。その後はもうぐったりだったものだ。
 「ラケットは大丈夫か?」
 軽くランニングまで済ませると、希はラケットの感触を確かめる。左右片手でフォアもバックも一通り素振りをして、にっこり笑顔で「大丈夫だよ」と告げる。怜悧が持ってきてくれたラケットはよく手になじんだ。怜悧が昔使っていたというラケットで、使い込まれているのもプラスポイントだ。
 「じゃ、まず軽くラリーからするか」
 「おっけー」
 準備運動が終わると、やっと二人コートで向き直った。希はバックコートで怜悧のサーブを待つ。
 「てりゃ」
 わざとらしいかけ声とともに、怜悧のサーブ。希は一歩動いて、ボールを見送った。
 「…………」
 「なんだよ、打ち返せよ!」
 距離があるから、怜悧の声は大きい。希も声を大きくした。
 「今ので軽いの?」
 「ああ! ん、まさかとれなかったのか?」
 「とれるけど、速すぎ! いきなり全力になるよ。もっとゆるく打つか、もっと近くに打って!」
 「あれ以上ゆるく?」
 「うん!」
 「しょうがないな!」
 怜悧は改めてボールをとりだしてサーブ。今度はさらにゆるい球がかなり近くにきた。希は片手で軽く、相手が打ちやすい場所に打ち返す。怜悧もまたゆっくりとボールを返してくる。
 「こんなもんか?」
 「うん、最初はこのくらいで」
 ラリーをスローペースで続けて、徐々に希は怜悧の前後左右に打ち分ける。怜悧も希に合わせて、スピードは遅いままに、さまざまな打ち方を試せるようにコースを変える。
 「じゃ、ロブいくぞ〜!」
 ポーン、と、怜悧はボールを山なりに跳ね上げた。希は数歩下がって、軽くスマッシュ。
 あっさりと打ち返された。
 「軽いな」
 「非力だしね! ほら、お返し!」
 ゆるりと打ち返されたボールを、希も高く跳ね返す。少し高すぎたようだ。怜悧は数歩下がって、ジャンプしてスマッシュをした。
 コースは甘いが、スピードが速い。希は素早く動いてラケットをふるった。
 「……っ!」
 油断しすぎた。ボールの勢いに負けて、ラケットが希の手からはじけとんだ。
 「おいおい、なにやってるかな」
 「いま、少し力を入れたね?」
 「ん、まあ、多少入ったかもな」
 「……やっぱり勝負にならなすぎかも」
 嘆息しながら、希はラケットとボールを拾った。
 「なに?」
 「やっぱり勝負にならないよ、これ! キミがちょっと本気出せばこっちがもたない!」
 「まだ本気だしてないぞ」
 「だからだよ」
 今のは希も本気ではなかったとは言え、怜悧の本気のボールを片手ではじき返すだけの力がない。握力も手首も腕もどれももたない。常に身体を限界まで使わないといけないとなると、しゃれにならない。
 「とにかく、もっと手を抜いて」
 「はいはい。なんだかおれは準備運動にもならない気がするんだが」
 「…………」
 希は、練習だけ楽しむことにしよう、という気分になってきた。というより、それしか楽しめる気がしない。
 また二人ラリーをはじめる。久しぶりのテニスだから、希は充分にそれだけでも楽しめた。強いボールさえこないなら、打ち返すのに無理もない。ただ、コースを打ち分けだすと、だんだんと走らされ始める。同じように怜悧も走っているのだが、希の方が疲労度は高かった。
 ひとしきり打ち合ってから、今度はネット際でボレー&ボレー。お互いノーバウンドで、軽くボールを打ち合う。これも最初は打ちやすい位置に打っていたが、コースを使い始めると、距離がないだけに素早く走らされる。
 希は楽しんだが、しばらくするとすっかりくたくただった。
 「疲れた〜」
 「おまえ、ほんとに体力ないのな」
 一方怜悧は全然平気な風情。
 「だからそう言ってる」
 「いつもはプールではだいぶ泳げてるじゃないか。まだ今日は全然やってないぞ」
 「ペースが違う。振り回しすぎ」
 「おまえがしかけてきたんだろ」
 「同じことやりかえされたら、わたしだけ疲れるに決まってる」
 「あれくらいで疲れられても……」
 「とにかく休憩!」
 希は上着を脱いだ。ベンチに座ってタオルで汗を拭いて、水筒から水分を補給する。
 「お、水筒なんて持ってきてたのか。気がきくな」
 「キミの分はないよ。勝手に買ってくれば」
 ストローつきの水筒だ。飲みまわしはできない。
 「泣くぞ?」
 「いいよ、ご自由に」
 希は機嫌よく笑って、ストローでスポーツドリンクを吸い取る。
 「……おれにもよこせっ」
 怜悧はいきなり、その水筒を奪った。
 「あ」
 たった今まで希が咥えていたストローに口をつけて、ちゅ〜っと中身を吸う怜悧。
 「泥棒!」
 希はすぐ立ち上がって水筒を奪い返そうとするが、怜悧は背を向けると走って逃げ出してしまう。
 「へっへ〜んだ」
 希は追いかけようとしたが、無駄な体力を使いたくはなかった。やれやれという顔で、そのままベンチに腰を下ろした。
 「ガキだね、相変わらず」
 「ん〜、うまいうまい」
 怜悧はニヤニヤしながら戻ってきた。
 「あんまり飲まないでよ。多くないんだから」
 「お〜。でもこれ、希がまた飲むのか?」
 「飲むよ」
 「おれの唾液付きジュース?」
 この男はどうしてそう品がないのか。希は軽く睨みつける。
 「殴りたくなってきた」
 「じゃ、間接ちゅ〜?」
 「キミは小学生?」
 「はっはっは。じゃ、直接ちゅ〜してやろうか?」
 「殴る」
 予告して、希はパンチを飛ばす。距離があったせいもあって、怜悧は笑いながらすんなりかわす。
 「希って、身体は鍛えてるよな」
 「何度言わせる? 全然非力だよ」
 「そうじゃなくて、使い慣れない筋肉、というのがないだろ?」
 「ああ、それはストレッチで一通り、いつも全方向に動かすようにしてるからかな。たまにちょっと無理をする程度はやりたいからね。急に慣れない筋肉使うと痛くなるに決まってるし。長く使うとすぐアウトだけど」
 「やっぱ普通の女じゃないな」
 「それは誉めてるの?」
 「いや、単なる事実認識だ」
 希はくすくすと笑った。
 「怜悧も鍛えてるよね。ケンカもその気になれば、けっこう上手くなるんじゃないかな」
 「いいのか? おれがこれ以上強くなって」
 「……そうだね、それはそれで困るね」
 力で負けるが、技術で勝る分、これまで一対一なら物理的にも負けてはこなかった。
 「これでいいんだよ。つまり、おれが希になにかしても、最後までやれるなら、全部希が本気で抵抗しなかったっていう証拠だからな」
 また、怜悧はニヤニヤ笑う。希は一瞬言葉に詰まった。
 つまりそういう意味になってしまうのか。あまり嬉しくない気もする希だ。
 「希も、テニスを本気でやれば? 希ならかなりのとこまで行くと思うぞ」
 「筋力も体力も持たない。テニスはさりげなくハードだよ」
 「ん〜、まあ、そうだな。持久力だけはなんとかしたいな」
 「うん、ほんとに。だいぶましになったけど、上を目指すとかいうレベルには程遠い」
 「ひ弱な女も可愛いけどな」
 「キミの好みなんて知ったことじゃないよ」
 「あはは」
 笑いながら、「おれの好みは希だよ」などとほざく怜悧。希は「ふーん」と笑って受け流した。
 「怜悧なんて、新しい顧問にもっとしごかれればいいのに」
 「これ以上になったらサボるな、間違いなく」
 「もう充分サボってるくせに」
 週に何度かは希に付き合ってプール通いをしているのだから、本当にいい加減な部員だ。これで実力がなかったらテニス部からたたき出されているかもしれない。
 「テニス部の顧問、もう決まったの?」
 「さあ、おれは聞いてないな。新しく来る教師が誰かやるんじゃないかな」
 「長崎先生、いい人だったのにね」
 「希も送別会くればよかったのに」
 「……こっちでは全然親しくなかったからね」
 英語教師で三月に定年退職したテニス部の顧問、長崎弥生、性別男は、キングスイングリッシュを自在に操る日本生まれのジェントルマンだった。彼の授業はわかりやすかったし、「望」は一年の時けっこう真剣に彼から英会話を学び取った。ある意味、長崎先生は「望」の語学の実験台にされたわけだが、それを嫌がるどころか面白がって付き合ってくれていた。今の希には懐かしい記憶だ。
 「そういうのはちょっと辛いよな。こっちは覚えてるのに、あっちには最初からなかったことでしかない」
 「……そうだね」
 こんな時は希も「怜悧がいてよかった」と思うが、なんとなく癪だから口には出さない。
 しばらくそんなふうに談笑して、二人立ち上がった。



 「1セット6ゲーム勝負な。コートも選んでいいし、最初のサーブもくれてやる」
 「それはご親切に」
 1セットも体力が持つかな、と思いながら、希は一方のコートを選んだ。歩き出しながら言う。
 「そっちはダブルスコートでいいんだよね?」
 「おう。それでいい勝負になるだろ」
 「……なるわけない」
 「なんか言ったか?」
 「なんでもないよ!」
 ベースラインぎりぎりで、怜悧が構える。
 「ま、やるだけやってみるか」
 小声で呟いて、希もベースラインに立った。一つ深呼吸。
 「いくよ!」
 「おう!」
 ボールを放り投げて、力いっぱいサーブ。
 思ったよりもスピードは出た。コースも思い通りにかなり際どいラインに。が、あくまでも希の今の身体としてはであって、怜悧の動きは素早かった。無理なく追いついて、鋭くライン際に打ち返してくる。
 「く」
 いきなり全力で走らされた。希はポニーテールをなびかせつつ、なんとか追いついて、しっかりとラケットをふるう。
 「っ!」
 ボールが重かった。希の手から、ラケットが弾き飛ばされた。ボールは明後日の方向へ転がって行く。
 「またか」
 「…………」
 「ラケットくらいしっかり握ってろよ」
 「……握ってたよ」
 呟きながら、希はラケットを拾い上げる。今度は腕がしびれていた。
 「やっぱり勝負にならない……」
 「なんだよ、聞こえないぞ!」
 「…………」
 女相手にもっと手加減しろ、と言いたくなるが、それを言い出すくらいならさっさとゲームをやめて勝負などしない方がましだろう。希は「なんでもないよ!」と言い返し、ボールを回収してからまたサーブを放った。
 きつい位置にボールは行くのだが、やはり非力なサーブでしかない。怜悧の動きは素早く、打ち返してくる球も鋭く速い。希は今度は追いつけなかった。
 「ラブ・サーティ、だな」
 審判なしの場合、本来サーバーがセルフジャッジを行うのだが、なにも言わない希にかわって、怜悧がニヤニヤとポイントを口にする。希は軽く睨むようにして怜悧を見たが、なにも言い返さずに、そのまま黙ってボールを回収に動いた。
 よく考えたら、サーブはシングルスとダブルスとでほとんど違いがないから、サーブ権を持っていては、リターンを打ち返せない限り、ハンデの意味がない。希はその事実に気付いたが、元からハンデに頼りすぎるつもりはないから、悔しさが増しただけだった。
 三度目の、希のサーブ。希は今度は、サーブを打つと同時に動いた。センターライン近くにボールを放ち、自分も中央の前方よりに詰める。もともと勝負にならないのだが、勝ち目があるとしたら相手の行動の先読みをするしかない。
 怜悧の動きをじっと見て、半ば勘で動く。ボールが飛んできた。今度はさっきみたいなへまはしない。しっかりと強くグリップを握り締めて、手首を柔らかく使って、無理をしない程度に全身も利用してボールを打ち返す。
 「っ!」
 やはり重かった。はじき返すのがやっとだった。コントロールなどつけようがない。
 へろへろな玉が、怜悧のコートに。けがの巧妙か、ネット際の微妙なポジションに落ちる。怜悧は前方にダッシュ。希も腕の痺れを我慢しながら、ロブを警戒しつつ前に走る。怜悧は軽く掬い上げるようにボールを返してきた。しかもそのボールは完璧にコントロールされていて、ネット際寸前にちょこんとボールが返ってくる。
 希も全力で前にでる。予測の範囲内だったから驚くことはないが、身体の動きが怜悧とは比べようがない。拾うのがやっとだった。前につめている怜悧の頭を越すために、高く遠くにロブを放った。つもりだった。
 「あまーい」
 ネット際で、怜悧がジャンプ。希が体勢を立て直すより早く、怜悧のスマッシュが希の横を抜けていった。
 「…………」
 「ラブ・フォーティ〜っと」
 「……もう充分だと思わない?」
 「ん? まだまだこれからだろ。反撃もせずに泣き寝入りするのか?」
 「…………」
 この言われようは妙に悔しかった。希は表情を消して、ボールを拾いに行った。
 「もっと手加減して欲しいか?」
 「……もっと、ね」
 希は小さく呟くと、「いらない!」ときっぱりと言い返した。とりあえず数ゲームは捨てるしかない、と考える。怜悧のパターンを読んで先読みできる体勢を作るとともに、ボールをまともに打ち返す手段を考えなくてはいけない。負けるのはしかたない。だが手加減されっぱなしで一矢も報いないのは悔しすぎる。
 希は今度はサーブ&ダッシュで責めてみた。サーブを打って、すぐに前方に走る。怜悧はその希に軽く笑って、希の逆をついてきた。
 前にでている分、裏をつかれるとつらいが、辛うじてボールを取れた。バックのボレー。が、やはりへろへろ玉が相手のコートに。怜悧は鋭く、それを打ち返した。
 反応するのが精一杯で、もうボールに手が届かない。あっさりと希は合計4ポイント取られて、1ゲーム落とした。
 「なんだなんだ、弱すぎだぞ」
 言いながら、怜悧はボードに1ゲーム先取を書き込む。「余計なお世話」と言い捨てて、希はまたボールを回収してきて、怜悧にパス。
 「さて、一ゲームを先取した朝宮選手のサーブですっ」
 「黙って打て!」
 「はっはっは」
 怜悧のサーブ。鋭いが手加減が伺える、甘いボールがきた。希は片手でしっかりとラケットを握り締めて、ボールを打ち返す。が、やはり思うように打てなかった。しかも毎回腕がしびれる。
 打ち返したボールは、甘く相手のコートに落ちる。
 怜悧は冷静に打ち返してきて、希は無理をすれば追いつけたが、ボールに触れずにそれを見送った。
 「まさか、ちゃんと打ち返せないのか?」
 「…………」
 希は黙ってボールを回収して、そのままネット際に近く。
 「怜悧」
 「なんだ?」
 怜悧も近づいてくる。
 「残りのゲーム、4ゲームだけわたしにサーブ権をくれない?」
 「ん? かまわないけど、リターンもまともに打ち返せないなら、ハンデの意味がないぞ。逆におれがずっとサーブ権をもった方がいいんじゃないか?」
 「サーブもまともに打ち返せないから勝負にならないとは考えないの?」
 「……ほんとに非力なんだな」
 「それに、そっちに主導権があるとすぐに負ける」
 「なんだなんだ、まさか勝てる気でいるのか?」
 キミは絶対負けないゲームで人をいたぶるつもりだったのか?
 希はそう思いながら、まっすぐに、怜悧を見据えた。
 「1ゲームはとる」
 「……ほ〜」
 怜悧はにやりと笑う。
 「面白い、自信がありそうだな」
 「あるわけない。単なる意地だよ」
 「はは、意地張っても勝てないもんは勝てないぞ?」
 「…………」
 希が無言で睨むと、怜悧は楽しげににこにこした。
 「じゃあ、サーブ権やるから、そのかわりなんか賭けよう」
 「なんでいきなりそうなる?」
 「なんか賭けた方が燃えるだろ?」
 「……キミは、わたしに1ゲームとられたらどうする?」
 万に一つくらいは1ゲーム取れる可能性もないではないが、女の武器でも使わない限り希が負けるのは目に見えている。そうとわかっていながら希がそう言ったのは、そうでもしないと怜悧が手を抜くのをやめないと思ったからだった。負けるのはしかたがないが、黙って手加減されるのは悔しいし、黙って手加減された上に負けたらもっと悔しい。
 「ん〜、一日おまえの言いなりになってやろう」
 「別にそれ嬉しくない」
 「おいおい、泣けること言うんだな」
 「けど、まあ、いいよ。それで」
 「お。いいのか? のってくるとは思わなかったぞ」
 「じゃあやめる」
 「こらこら、まてまて。まだ希が負けたらどうするか決めてないだろ。誰も同じ条件にしろとは言わないからさ。やっぱ妥当なところで、テニスウェアかな?」
 こいつは自分が負けるとは微塵も考えてないな、と思いつつ、希は少し考えて、極めて微妙な条件を提示した。
 「……1ゲームも取れなければ、三十分だけ、何かしてあげてもいいよ。わたしがしたくないことは絶対にしないという条件で」
 前半部分を聞いて驚きつつも喜びかけた怜悧だが、後半部分の言葉に複雑な顔をした。喜んでいいのかどうなのか、悩む顔つきだ。
 「…………」
 「…………」
 妙に長い沈黙になった。
 昨日の一件があるだけに、希には怜悧の想像の内容が容易に推測できてしまう。希が軽く恋人を睨むと、怜悧はわざとらしく咳払いをした。
 「まあ、微妙なレートだが、その条件でいいぞ」
 詳細な条件をつめてこないのは、この場合怜悧の計算高さを示しているのかもしれない。希はそれを察していたが、希にもしたたかな思いもあったし、後でどうとでも言いくるめようがあるとも思っていたから、深くは追求しなかった。
 「……じゃ、4ゲーム、サーブ権もらうから」
 「おう。フィフティーン・ラブだから、ラブ・フィフティーンからな」
 「うん」
 怜悧が最後まで手を抜いたら殴ろうと思いつつ、希はベースラインに戻った。
 それからの4ゲーム、希は半ば練習のつもりで、ひたすらサーブを打った。左右打ち分けたりスピンをかけたり、打った後にダッシュをして見せたり平行移動して見せたり、小細工をしつつ怜悧の様子をうかがう。サービスエースが狙えればいいのだが、地力の差は歴然だ。賭けのせいもあってか、怜悧も露骨には手を抜かなかった。希は体力温存のためにわざと打ち返さない予定だったのだが、実際に打ち返す余地がなかったことも少なくなかった。
 途中隣のコートにボールが入って隣の中年グループに謝ったり、逆にボールが転がってきてゲームを中断してやりなおしたりしつつ、希は15ポイントをあっという間にとられて、4ゲームを失った。
 「次が最後の1ゲームだな。サーブ以外ボールが飛んでこないぞ」
 「……最後と決めつけてるんだね」
 「あたりまえ」
 「その前にちょっと長めに休憩欲しいな」
 「いいぞ」
 二人、ベンチに向かって歩く。希はあの後サーブしかボールを打っていないのにけっこうくたくただ。肩も腕も背も胸も腰も足も張ってきている。
 「なんなら最後もサーブ権やるぞ」
 「いいよ、サーブはキミで」
 「なんだ、もしかして、わざと負けたいのか?」
 「すっかり余裕だね……」
 「はっはっは。この状況でどう焦れと?」
 「あと1ゲーム残ってるからね。勝負だよ」
 「ま、お手並み拝見といこうかな」
 またジュースを飲んで汗を拭いて、希は少し腕と足を揉み解す。怜悧は「おれが揉んでやろうか?」という顔をして、実際口にも出したが、希は冷たい目で睨んで黙殺する。
 二人、そんなふうに戦闘意欲を高めあって、またコートに戻る。希はバックコートで、ラケットを両手で持って、怜悧のサーブを待った。
 「いくぜいっ」
 怜悧はふざけたようにそう言うと、ボールをトスして、鋭くラケットをふるう。コースが甘い。油断がある。希は素早く動き、この日初めてダブルハンドで、ダブルスコートのサイドラインいっぱいいっぱいめがけて鋭く打ち返した。
 鋭く速い球がコートを通り抜けた。
 「え!」
 完全に距離がある。サーブ後の動作に手を抜いていた怜悧は、全然追いつけなかった。
 「よしっ!」
 リターンエースだ。希は小さくガッツポーズをとる。
 「の、希、今まで手を抜いてたな!」
 「さあね! ラブ・フィフティーン、あと3ポイントだよ!」
 希は冷たく言い捨てて、また、バックコートの左中央でサーブを待つ。
 「く、もう絶対にやらん!」
 基本的にテニスはサーブ権を持つ方が有利なのだが、希が怜悧にサーブ権を譲ったのはもちろん相当の理由がある。希のサーブは怜悧相手には弱すぎて、主導権をとるどころか、ほとんど自在に返球されてしまうからだ。レシーバーである方が最初の守備範囲をサービスコートのみに絞れる分、まだやりようがある。
 その分、最初の一発をミスすればそれだけで勝負が終わる。希の神経は何倍にも研ぎ澄まされる。
 怜悧は右サイドラインぎりぎりで、ボールをトス。希は一瞬、露骨に右に動くそぶりを見せる。怜悧の腕のふりと、希の左へのステップが同時だった。
 ボールは左サイドに飛んできた。隅からの角度のある速いボールで、希は事前に動いていたにもかかわらず、もう少しで追いつけないところだった。怜悧も左前方に移動しているのを横目に見ながら、希はまたダブルハンドで、飛んできた方向にドライブをかけて、思い切り斜めに鋭い角度のクロスボールを打ち返した。
 怜悧の足が急ステップを踏んで方向転換する。そのまま怜悧はダッシュして真横にジャンプ。ボールはラケットにあたり、怜悧は器用にはじき返す。が、ボールは希のコートの、シングルスサイドラインの外に落ちた。対応して横に走っていた希は、打ち返せずにボールを見送ったが、鋭く声を張り上げた。
 「アウトだね!」
 「……く」
 怜悧は立ち上がると、希がボールを回収するのを待たずに、ポケットから新しいボールを取り出した。
 「ほら、さっさとかまえろよ!」
 なにやらムキになりつつある怜悧だ。希は皮肉っぽく笑って、すぐに右中央でサーブを待った。
 怜悧がボールをトス。わざと、希はまた左に動くそぶり。今度もまた、怜悧の動きと、希の左へのステップが同時だった。ある意味ジャンケンをするような駆け引きだったかもしれない。裏を狙ったのか、裏の裏を狙ったのか、裏の裏の裏を狙ったのか、それとも単に偶然か、怜悧のボールも左、センターライン付近に飛んできた。
 怜悧はサーブと同時に中央前にダッシュしてきている。それを視界に捉えながら、希は鋭く両手で、右サイドへボールを返した。怜悧の動きは素早い。が、希のボールも速く、さらにダブルスコートの際どい位置を狙っている。
 怜悧は辛うじて追いつき、バックのボレーできれいに打ち返してくる。
 「くっ」
 希は反対方向に振り回された。が、ここで幸運の女神が味方した。なんとか返したボールが、ネット上端にぶつかり、怜悧のコートへころんと落ちたのだ。怜悧は前方にダイブしようとしたが、間に合わない。希は、よしっ、とラケットを握りしめた。
 「ラブ・フォーティ、だね」
 希の落ち着いた言葉に、ボールを拾った怜悧の視線が、急に睨みつけるふうにきつくなった。
 「これハンデありすぎだろう!」
 「なにをいきなり」
 「だってダブルスコートまでインにされたら守備範囲が広すぎる!」
 「今のは運でしかないよ。だいたい最初からそういうハンデだし、まだ余裕でキミが勝ってる」
 「このゲームはもうとられそうになってるだろ!」
 「このゲームをとっても5対1。はっきり言ってわたしの身体もこのゲームが限界だよ」
 本気のサーブを何発も打ったこともあるし、かなり走り回っているし、ダブルハンドにしてからは両手も身体も限界を超えて全力で、自分でも無理をしているとよくわかる。すでに痛みを覚えているし、明日全身がパンパンに痛くなってても驚く気はしない。せめて筋肉痛ですむことを祈るばかりだ。
 「ずるい!」
 「なに言うかな。もともとこの男女差がずるいんだってば」
 「く、もう本気でやるからな!」
 「やっとその気になったの?」
 希の視線が目に見えて冷たくなった。怜悧が瞬時に焦る。
 「げ」
 「……なめられたものだね」
 コースの打ち分けはそれなりにしっかりしていたものの、ただ力任せに打っているだけ。しかもそれすらも手加減があった。それで希が気付かないとでも思っていたのだろうか。手を抜かれるだけでも悔しいのに、それを気付かれないと思われていたのだとしたら癪すぎる。
 「ま、無理もないけど」
 希はそれですらいっぱいいっぱいだったのだから。
 「い、いや、さすがに、希」
 「言い訳は男らしくないよ」
 「え、えっとだな……」
 「ほら、あと1ポイント守りきりなよ。話はそれからだね」
 希は冷たく言い捨てると、ネット際から離れた。怜悧はさらに何か言いたげだったが、嘆息して自分もネットから離れる。
 「…………」
 ここからが本当の真剣勝負だった。たったの1ポイントをめぐる真剣勝負。
 怜悧は軽くボールを地面でバウンドして、サーブを構える。希はもう小細工せずに、バックコートの左中央で身体をゆったりと揺らしてボールを待つ。
 右サイドからセンターへ、怜悧は鋭いボールを放ってきた。今まで以上に速い、回転のきついサーブ。希はぎりぎり追いついたが、とっさに打点がずれる。希の返したボールは思うようなコースに飛ばなかった。センター付近に流れる。
 勢いだけはあるが甘いコースに飛んできたボールに、怜悧が冷静に対処する。希はその怜悧の動きをほとんど勘で読んだ。勘ででも先に先にと動かなければ、まともに打ち返せる体勢を作れない。
 右サイドラインいっぱいいっぱいへ振り回してくる怜悧のボール。先に動いていなければ確実に追いつけなかっただろう。追いついて、そのままなんとか、希は右サイドへと打ち返す。が、威力は弱く、返しただけのボールだった。怜悧はそれを落ち着いてさばいた。
 「フィフティーン・フォーティ!」
 希がボールを見送ると、怜悧がポイントを大きな声で宣告する。
 「あと2ポイントか……」
 嘆息して、希はボールを拾いにいった。テニスの1ゲームは、先に4ポイント先取するだけではだめで、勝つためには同時に2ポイント以上差をつけなくてはならない。もともと無理な勝負だったということはわかっているが、あと2ポイントとられてデュース(同点)に持ち込まれれば、希の負けは決まったも同然だろう。本気になった怜悧からさらに2ポイントもとる自信は、さすがに希にもない。
 「玉拾いは後でしろよ! このゲームくらいは手持ちで持つ」
 「……あと1ポイントだしね!」
 「いや、お望みどおり、もう4ポイントで終わらせてやる」
 「…………」
 希がどこに不機嫌になったのかをしっかりと把握しているようで、怜悧は真顔だ。たしかに希が望んだ展開ではあったが、これはこれでやたらと悔しかった。希はコートに戻ると、無言で構えた。
 怜悧も位置につき、まっすぐに希を見る。
 ボールをトス。怜悧は鋭く身体をしならせて、腕をふるった。
 パーン! という、怜悧のラケットがボールをはじくきれいな音。希は反応したが、ボールは希の元まで飛んでこなかった。怜悧がサーブをした次の瞬間、ざしゅっ、とでもいうような、ボールがネットにぶつかる音が響いたのだ。
 「う」
 フォルト、つまり怜悧のサーブミスだ。希は人の悪い笑顔を浮かべた。
 「力みすぎたね! ダブルフォルトしてもいいよ!」
 「だ、だれがするか!」
 怜悧はネットに引っかかったボールを拾って、また後ろに下がる。希は軽く笑って、改めて構えた。
 サーブを二度ミスすると相手の得点になるため、この状況ではサーバーも慎重になることが多い。もちろん油断はできないが、もともと勝つ見込みの少ない希にとっては充分チャンスだった。
 希がしっかりとレシーブの体勢を作っているのを見届けてから、怜悧がまた構え、綺麗なフォームでサーブを放つ。
 クロスに鋭いボールがきた。
 「こいつ、神経ないのか」
 思わず希がそう呟いたくらい、迷いのないサーブだった。左のベースライン中央からの怜悧のサーブに、希は対応できなかった。反応するのがやっとで、打つ体勢が作れない。
 ボールは希のコートでバウンドし、そのまま、後ろのバックネットに吸い込まれた。
 「サーティ・フォーティ! どうしたどうした? おれが本気になると手も足もでないのか?」
 「このやろ……」
 反撃とばかり調子にのって軽口を叩く怜悧を、希は半分本気で睨みつける。わかってはいたが、本当に手加減していたことをこうやって見せ付けられると、充分無駄に腹も立つ。
 「次でデュースだな。ここが勝負かな」
 「いいからさっさとこい!」
 「口が悪くなってるぞ」
 「余計なお世話!」
 「はは」
 笑いながら怜悧はサーブ位置に立ち、それから表情を引き締める。真剣な表情。いつも真剣な顔してればとてもかっこいいのに、と希は頭の隅で思うが、悔しさ倍増だから口に出すことはしない。
 右サイドからのサーブ。希もぐっと身構える。
 センターラインぎりぎりにボールは飛んできた。希はかなり危ういところだったが、今度はやっと、ちゃんと追いつけた。きれいにしっかりと、左サイドにクロスボールを放つ。
 それとほぼ同時だった。隣のコートから、ボールが入ってくる。
 視界にそれを捉えながらも、希は最後の賭けとばかり、大胆にネット際にダッシュ。やや前方にでていた怜悧はクロスボールを素早い動きで拾い、そのままクロスに返してくる。
 「レット!」
 打つと同時に、怜悧が声を出す。希は賭けに勝った。打ちやすい位置に飛んできたボールを、ノーバウンドで鋭く、ダブルハンドボレーではじき返す。
 怜悧もその動きに対応しているが、間に合わない。ボールはコートで跳ねて、そのままバックネットへ――。
 「…………」
 よし、と希は喜びたいところだが、怜悧の一言が余計だった。レットはやり直しを意味する用語だ。他のコートからボールが飛んできた場合などに、プレーを止めてやり直す時などに使う。
 「すまないね! ボールをとらせてもらうよ」
 隣のコートの中年男が、軽く頭を下げて、コートに入ってきてボールを回収。表情を消してそれを見守った希は、男が去るのにあわせてネットに歩み寄る。難しい表情の怜悧も、すぐに近づいてきた。
 「今のはレットだからな」
 「わたしの勝ちだよね?」
 二人の声は同時だった。
 「レットって言っただろ」
 「じゃあどうして打ち返したの?」
 また声が重なる。少しだけ唇を尖らせる希。怜悧もちょっと希を睨んでくる。
 「打ち返したのはなんとなくだ。そっちが打つ前にちゃんと言っただろ」
 「その後もボールを拾おうとしてたくせに」
 「身体が勝手に動いた」
 「なら取れなかったからわたしの勝ちじゃない?」
 「だからその前にレットって言っただろ」
 「…………」
 一方的にレットを宣告してきた怜悧に希は不満を抱く。が、あの状況は勝負がつく前だったから、レットを無効とまでは言い切れない。ボールが隣から入ってこなければ、怜悧のあのボールももっと厳しいコースにきた可能性もある。希はしぶしぶ、頷いた。
 「おし、じゃ、サーティ・フォーティのファーストサーブからやりなおしな」
 「…………」



 ――空が無意味に青かった。勝負が終わると、希はコートにごろんと、大の字に横になった。
 続く3ポイントを、希はあっさりと取られた。デュースにされた時点でやる気をなくし、さらに1ポイントとられるともうだめだ。最後の怜悧のサーブは、希は一歩も動けなかった。
 「おしかったな」
 怜悧が笑いながら、ネットを軽く飛び越えてやってくる。
 「勝てるわけないよ」
 お日様が怜悧の身体で遮られる。希の小さなおなかにボールが降ってきた。
 「後1ポイントまでがんばったのにな」
 「あれがもう限界。全身痛い」
 「マッサージしてやろうか?」
 「玉拾いでもしてきなさい」
 希は寝転がったまま、怜悧を睨む。怜悧はくすくす笑いながら、お姫様の言いつけに従う。希は少しぼんやりと、空を見上げた。
 「…………」
 軽く手を掲げて、グーパーグーパーと、手を動かす。
 空にのんびりと浮かぶ白い雲を、そっとつかもうとする仕草。
 「小さな手……」
 白くて細くて小さな、女の子の手。
 もう一年以上たっていやというほどわかっているはずだが、肉体的能力の差をまざまざと見せ付けられてしまうと、改めて思い知らされる。
 女として振る舞うのは充分楽しいし、恋人に甘えるのもそれもそれで気持ちいい。基本的に怜悧は強引なくせに希に甘いから、かなり好き勝手もできる。女として好きに生きて、好きと思える相手がいて、甘えたり甘えられたり、時には強引にされたり強引になったり。
 今の状況も悪くない。女であることに大きな不満もない。
 でも、時折男のままだったらと思う。男のままなら、この日も怜悧にこうも簡単には負けなかったのに。男のままなら、昨日だってあんなふうには甘えなかったのに。男のままなら、抱かれることでなく、抱くことを考えることができたのに。
 「人なら、誰でも似たようなことを考えるのかな……」
 もしも男なら。もしも女なら。
 他愛もない想像。普通は空想だけで終わってしまうはずの、現実にはありえない仮定。
 「戻ったら戻ったで、やっぱり思いそう」
 希は少しだけ笑った。
 もしも男に戻っても、もう女であったことを忘れることはできないだろう。この日と同じように、「女のままだったら」と思う日が来るかもしれない。人という生き物は勝手な生き物だ。
 でも、どちらも間違っていない。他愛もない想像。ただ希の場合は、ちょっとだけ経験値が、人より違う方向に多いだけ。知っているから、普通の人よりたくさん想像が現実的になる。
 「ま、贅沢なだけなのかな」
 どちらかしか楽しめないのなら、今ある姿を楽しむことが正しいのだろうなと思う。今の希はやっぱり女で、男になったらなったで男を楽しむのだろうが、女だから女を楽しむ。自分にそれができないとは思わないし、そして今楽しんでいる自分を、充分に希は自覚していた。
 「まだ寝てるのか? 疲れた? 大丈夫か?」
 怜悧が戻ってきた。しかもいきなりなぜか心配そうな口調だ。
 「大丈夫だよ。ちょっと考え事」
 希は微笑んで、恋人の方に手を差し出す。怜悧は笑って、希の手をひいて彼女を起こした。
 「希は軽いな」
 そのまま、希を抱き寄せる怜悧。希は、まったくこいつはところかまわず、と思いながら、そっと身体を離した。怜悧も拘らずに手を離してくれる。
 「考え事って?」
 「なんでもないよ。今のわたしは女なんだなぁって、思ってただけ」
 「おれのカッコよさに惚れたか?」
 「もうとっくに惚れてるよ」
 「…………」
 怜悧の顔が赤くなった。希はくすくすと笑い、歩きだす。怜悧は慌てたようにくっついてきた。
 「ま、まあ、おれよりいい男なんて存在しないからな」
 「うわー、すごい自信」
 「少なくとも、希にとっては絶対にいない」
 「うわー、いやな自信」
 「こら、どういう意味だ?」
 「あはは。その通りっていう意味だよ」
 振り向いて、彼の肩に手を置いて、背伸びをして、その頬に小さくキス。最近キスなんてもうしょっちゅうなのに、怜悧の動きがとたんにぎこちなくなった。
 たまに不意打ちすると、まだ怜悧は簡単に落ち着きを無くす。希はくすっと笑って、ベンチに向かって歩いた。








 concluded. 

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初稿 2004/03/17
更新 2008/02/29