夢の続き
Taika Yamani.
番外編その1 「そんな瞬間」
プール監視員の大学生アルバイト、片桐麻衣子にとって、その少女は最初はほんのおまけでしかなかった。彼女が勤めるスポーツクラブのプールに、二月になってからよく通うようになった女の子。週に何度か、夕方四時から六時くらいの間にやってくる中学生に見える少女。
少女は一人でやってくることもあるが、たいていはとても目立つ男性と一緒で、麻衣子が目を止めたのもその彼だ。高い身長と、逞しい肉体、甘いマスクに濃紺の瞳。競泳用の黒いブリーフの水着を恥ずかしげもなく着込んで、堂々とした姿の青年。
麻衣子には大学生に見えるが、その振る舞いは意外に幼い。いったいどういう関係なのか、女としての肉体的魅力に欠けるその少女と、青年はいつもよくじゃれあっている。
妹なのか後輩なのか、それとも他の関係なのか。彼の方は何かと世話を焼きたがっているようだが、その小柄な少女はそんな彼などどこ吹く風とばかり、一人一生懸命に泳ぐ。
見た目どおり筋力や体力がないせいなのだろうが、少女のペースは恐ろしくスローだ。が、クロールのそのフォームはとてもキレイで、意外にも彼女は足を止めずに一時間くらい泳ぎきったりもする。速さでも距離でもなく、時間を泳ぐ泳ぎ方。
青年の方は、フォームは荒削りだが、体力は有り余っているというような泳ぎ方だ。少女の倍以上のペースで、何度も何度も少女を追い越していく。時々、少女の後ろや横で速度を落とすのはいったいなんなのか、フォームのチェックでもしてあげているか、単に休憩なのか。
少女は体力促進が目的なのかひたすら長時間確実に泳ぐことを考えているようだが、青年は時折インターバルを置いては全力で泳ぎ、筋力も含めて全身を鍛えているといった風情。そんな若々しく激しい運動のしかたは、比較的裕福層の、年齢の高い利用者が多いここでは露骨に目立っていて、周りの者たちは自然と彼に注目していた。
すぐに、二人の出入りを見たものたちから噂が流れて、二人とも近所にある名門私立校の制服でやってくることや、利用カードの名字が違うから兄妹ではないらしいこと、高等部の一年生で同年齢らしいことなども知れ渡る。
二人とも高一と知った時は麻衣子は驚いた。が、麻衣子も二人の関係は気になったが、どのみち見ている以上の関係になれるとも思わなかったから、素直にその青年に見惚れるだけですませていた。目の保養になればそれで充分だった。
そう思いつつも、麻衣子はそんな二人は恋人というには不釣合いだと思っていたが、意外にも周りの評価は違った。少女はかなり痩せてるが、身体のラインは悪くはない。いつもキャップで隠しているが髪はキレイだし、顔も充分に愛らしいと言える。多少肌が白すぎて頬もまだ薄く、身体つきもまだまだだが、それは時間が解決するだろう。
「片桐さんも、よく見ればわかると思うよ。今でも可愛いけど、あの子、もっと血色がよくなってふっくらになれば絶対むちゃくちゃ可愛くなるよ」
同じアルバイトの同僚などはそう言うが、麻衣子にはイマイチぴんとこない評価だ。いつも少女はキャップを被ってゴーグルもばっちりなのだが、麻衣子はプールでのそんな少女しか見たことがなかった。そのせいもあるのもしれないが、確かに姿勢や物腰はきれいだし容姿も可愛くなくもないが、やはり、隣にいる青年とつりあうほどに可愛いとは思えない。
それが覆ったのは、ほんの一瞬だった。
三月の始まりかけのとある一日。例の青年と少女は、この日少し早くやってきたらしい。プールの監視員を交代する前に、更衣室の定期チェックをしに行った麻衣子は、翻った長い漆黒の髪に目を奪われた。
スポーツブラとショーツの上から、白いスリップだけを身に付けた少女。その少女は麻衣子の視線に気付いているのかいないのか、きれいな動作でもう一方の三つ編みを解く。
少女の腰まである髪が、また柔らかく流れる。艶めいて美しい、長い髪。
少女は髪に軽く指を通して背に払い、それからナチュラルな動きで顔を横に。
視線が、麻衣子にぶつかった。麻衣子は慌てたが、少女ははにかむことはしなかった。すぐに微笑してちょっと頭を下げただけで、視線を戻す。ぎこちなく仕事をしようとする麻衣子をよそに、少女は無造作に着替えを続ける。
麻衣子の方に背を向けて、髪で身体を隠すようにしながらまずスリップを脱ぐ少女。キレイな姿勢で手早くショーツも脱いで、アンダーショーツとワンピースの水着を身に付け、ブラジャーを脱いでからさっと水着に腕を通す。脱いだ衣類を丁寧にロッカーにしまうと、大人びた仕草で、両手であっというまに髪を結い上げた。そのまま髪と頭を、もともと頭が小さいこともあるのかもしれないが、キャップの中に器用にまとめこむ。
そこにいるのはもう、麻衣子もよく見知った、例の目立つ青年と一緒にいる小柄な少女。
だが、麻衣子の目にはもうなにもかも違って見えた。
確かに、よく見ると本当に愛らしい顔立ちをしている。しかも、麻衣子がはじめて見た頃より、ずいぶんと肉付きがよくなってきているように思えた。学校指定と思われる競泳型のスクール水着がよく似合い、細いウエストのくびれのラインも美しい。細かった身体も胸の膨らみも成長して、女性らしい丸みを帯びてきているようにも見える。
まだ頬も薄いし、肌も異様に白いし、身体も痩せ気味だが、確実に日々成長している少女。
そんな少女の、今まで気付かなかった変化を目の当たりにして、麻衣子の鼓動は高鳴った。すぐに用を済ませて少女より先にプールに向かったが、冷静さを取り戻せない。
やがてシャワーを浴びてでてきた少女は、いつものごとく先に出て待っていた青年につかまる。二人、何か言い合いながら、準備運動。
麻衣子の目には、なぜ今日まで気付かなかったのか、自分に呆れるほど少女が違って見える。それとも、長い夜が明けるような、冬がある日突然春になるような、花の蕾が咲き開くような、そんな瞬間に立ちあったのだろうか。
麻衣子の視線は、この日、少女に釘付けだった。
「どうした?」
スポーツクラブのプールサイドで、泳ぐ前の準備体操をしていた朝宮怜悧は、ガールフレンドが動きを止めて周囲を見回したのに気付いて、彼も動きを止めた。
「ん、なんとなく、見られてるような気がして」
怜悧の同級生、葉山月学園高等部一年の此花希は、この時十六歳と数ヶ月だ。一年の三学期も残り一月ほどとなったこの日も、最近週に何度かの習慣となった水泳をしに、学校帰りに地元のスポーツクラブにやってきていた。
基本的にここは年配の女性が多いのだが、数少ない男性も、怜悧以外今はプールの中。それがわかるから特に見られても不快にはならないが、やはりどこか視線を感じる気がする希だ。
「ああ、それはおれの愛の視線だ」
「…………」
怜悧のぶしつけな視線はいつものことなのでいまさら気にすることはしないが、こういうタワケタ発言には希の視線は自然と冷たくなる。「キミの場合は欲望の視線の間違いだろう」という目で、希は怜悧を見た。怜悧は敏感に察したようで、からからと笑う。
「『愛と欲望はおなじやりかたで表現される』って言うだろ。ばーい、……ばーい? ……だれだっけ?」
「知らない」
そっけなく言い捨てて、準備運動に戻る希。ゆっくりと前屈運動だ。まだ肉感的とは言いがたいがキレイなラインを描く希の小さな身体を、シャワーに濡れた水着が躍動的に彩る。
「それって、欲望に、騙されるなって、言いたい、んじゃない?」
反動をつけて身体を強く折り曲げるせいで、希の言葉は切れ切れになる。怜悧は手を止めて、そんな希をカンサツしている。
「欲望に見えてもそれも愛だってことだろ」
「絶対、違うと、思うっ」
「おまえ、だいぶ身体柔らかくなったな」
自分から言い出したくせにいきなり話を変えるな。と思いつつ、希は前屈運動をやめなかった。
「毎日、ちゃんと、やってる、からねっ」
「希」が運動不足だったこともあって身体も固めだったが、最近手の平がやっと床にぺたんとつくようになってきた希だ。鍛えてもどうにもならない可能性もあったから、希としては素直に安堵したい一面である。体力や筋力などはまだまだ希の納得するレベルには程遠いが、鍛えれば多少なりとも成長する身体が嬉しい。
「ほんとにいいなぁ、それ。おれの身体固くなってるしー」
「キミも、充分、柔らかい、くせにっ」
「もう負けそうじゃん」
身体を起こして、希はいったん運動を止めた。
「男と女で比べる方が悪い。ほら、キミも準備運動ちゃんとしなさい」
「む〜」
怜悧もぶつくさ言いながらも、希にならって動き始める。希は、次の動作に入る前に、また一言反論をした。
「その分、キミには力がついてるでしょ」
「まあ、そう、だけど、なっ」
今度は怜悧の言葉が途切れ途切れに。前屈の後は、希は今度は背中側に身体を曲げる。両手を後ろで組んで、思い切り強く後ろへと。
後ろの後は横に伸ばし、身体をひねり。運動の合間合間に、二人言葉を交わす。
「柔軟性って骨盤の差かな?」
「さあ」
「一般的に、柔軟性は女が有利とかよく聞くだろ」
「力は男が有利とも聞くね、確かに」
「だろ。なんでだ? やっぱり骨盤のせい?」
「やけに骨盤に拘るね。骨盤もかもしれないけど、その他もろもろ構造の差のせいなんでしょ。わたしもよく知らないから、後は自分で調べれば?」
「おまえは自分の身体のことも知らんのか?」
「そっくりそのまま同じ言葉を以下略」
「おれは知ってるぞ。男の身体の方が固い。とゆーか、物理的に固い。希なんて今はぷにぷにだし」
「!?」
水着越しに胸の膨らみをつつかれて、希は身体をひねりながらばっと飛びのいた。とっさに蹴りが出かけるのを、人目を気にして辛うじて抑える。怜悧は一瞬攻撃に備えたようだが、すぐに軽く笑って、何事もなかったかのように運動を続けていた。
「このやろ……」
「ん、どーした?」
「…………」
運動を再開しながら、希は無言で冷たい視線だ。もっとも、セクハラで訴えてやる、などという冗談が脳裏に浮かんでいるから、やられたことのわりには冷静かもしれない。
「そ、そんなに怒るなよ。単なる友情のスキンシップだろ」
「……じゃあ一生友情どまりだね」
「も、もちろん欲望一杯のスキンシップだぞ!」
「…………」
せめて愛情と言ってほしい。そう思いかけて、希は天井を仰いだ。単に欲望をぶつけられるのがいやなのか、それとも?
それにしても、怜悧だってさんざん「自分の身体」で女の身体は慣れているはずなのに、なぜそんなにも希の身体に興味を持つのか謎だ。希は今のところ、精神的な面でブレーキがかかるのか男に性欲を感じないから、「男の心理」は推測できても、「怜悧の心理」ははっきり言ってよくわからない。もともとの性格のせいか、お互いに対する気持ちのせいなのか、それとも単に肉体の男女差のせいなのか。
希のその態度を本気で冷たくなる前兆と見て取ったらしい。怜悧はまたかなり慌てた。
「じょ、冗談だよ」
「わたしの半径十メートル以内立ち入り禁止」
「む、むちゃくちゃ遠いだろそれ。せめて十センチってことにしろ」
「……全然反省してないね……」
「な、なにも悪いことはしてないからなっ!」
「……開き直ってるし」
希はさらに視線を冷たくした。恋愛問題については、怜悧は相変わらず希の気持ちをちゃんと考えてくれない。希の貞操観念が強ければ、今のように触られただけで「もうお嫁にいけない!」なんて泣きたいところだ。「責任をとっちゃる」という反撃が想像できるから、冗談でも言わないが。
「男には性欲ってもんがあってだな。むらむらというか、触りたいというか」
「…………」
何をいきなり言い出すんだこいつは。
希の視線は、冷たさを通り越して無表情に近くなった。
「だってほら、おれ、むっつりじゃないし」
だからちょっとは隠せ……、と、思っても口には出さない希。怜悧はさらにあたふたして墓穴を掘る。
「の、希だって男の性欲くらいよくわかってるだろ?」
「…………」
なにを言わせたいんだ、このバカ!
希はもう怜悧の相手をしないことにして、黙って準備運動を続けた。怜悧はさらに焦ったようにあーだこーだ言ってくるが、全部無視である。その後も希は徹底的に怜悧を無視しつづけ、プールから上がった後は話しかけることもしなかった。
そうなると、例の賭けがあるから怜悧は自分から話しかけてはこない。ずっとふてくされて、おろおろしていた。結局二人無言のまま希の家まで歩き、希はさよならの挨拶もせずに家に入った。
だが、おたおたする怜悧があまりにも情けなく見えたこともあって、家につくよりずっと早くに希のご機嫌は戻っていた。それでも「つーん」という態度を続けたのは、たまにはきつくしておかないと怜悧はすぐ調子に乗るからだ。たまにというよりしょっちゅうきついかも、と希は自分で思わなくもなかったが、それはそれである。
以前なら、例の賭けがなければ、怜悧はさらに一方的な発言をぶつけてきて、希の心の天秤はかなりマイナス方向に傾いただろう。だが今は、希が望めば、一定の距離が作れる。
だから、「許してくれ(TT)」という短いメールに気付いた時には、思わず吹き出して笑ってしまった。返事のメールは出さなかったが、「ま、明日は少し優しくしてあげようかな」などと思いながら、希はその夜を過ごした。
concluded.
※ 「愛と欲望はおなじやりかたで表現される」
アルベール・カミュ(1913-1960。フランスの作家。「ペスト」や「異邦人」の作者)の「幸福な死」より。
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初稿 2003/12/30
更新 2014/09/15