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 キオクノアトサキ

  Taika Yamani. 

番外編 
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  「久我山家のとある日曜日」


 九月下旬の日曜日の夜、もう外は完全に暗いような時間。
 久我山翼は自室に戻ってくるなり、荷物を床に放り、どさっとベッドに身体を倒した。
 疲れた……、と声に出すことはしないが、態度がそれを表現していた。
 最近、自動車教習所通いや先週行なわれた文化祭の準備などで忙しかったから、一日中遊び倒したのは久しぶりだった。
 朝から電車に乗って出かけて映画を見て、遅めのお昼ご飯を食べて、本屋さんやCD屋さんやカバン屋さんなどをぶらぶらとし。ペットボトルのジュースを買ってゲームセンターに突撃して散財して、エアホッケーでの対戦に燃えて。
 友達の蓮見陽奈と、二人で遊び歩いた一日。
 当初は映画だけの予定で、翼としては映画の後は陽奈を先に帰してもよかったのだが、陽奈は当然という態度で翼と行動を共にした。
 陽奈は翼に付き合いつつも、彼女も彼女で翼を引っ張りまわしてくれたが、翼は嫌なことは嫌だと言うし、本気で付き合いたくないところには付き合わない。コスメショップなどにも連れて行かれたが、他人事のように扱えば付き合いと割り切れる。そうそう頻繁にやることでもないし、お互いの行きたいところに行き、お互いに付き合って付き合われて、翼も素直に楽しんだ。が、充実した一日だったが、やはり疲れた。それがどこか心地よい疲れであっても、少しぐったりだ。
 帰ってくるなり妹の飛鳥に膨れっ面を向けられたことも、その疲れに拍車をかける。翼の両親は娘たちに無尽蔵にお小遣いを与えるほど甘くはないから、この日の飛鳥はお小遣い不足で一緒に行けなかったのだ。元々飛鳥はお小遣いを使ってまで見たい映画ではないと言っていたから、お小遣いの入金日を待たずに置いて行ったのだが、彼女はそれがお気に召さないらしい。翼のもう一人の友人の松本文月はこの日は兄とお出かけということだったのだが、にも関わらず置いていかれたことも、飛鳥は気に入らなかったようだ。「せっかくじゃまな文月さんがいなくて三人でお出かけできたのに」と一人でプンプンしていた。
 昨日予定を話した時からこの調子で、一晩たったらなんとかなると思っていたが、朝も全然なんともなっていなかった。今日は飛鳥も友達の家に遊びに行くと言っていたから、翼はもう大丈夫だろうと飛鳥の不機嫌のことなどすっかり忘れていたが、全然大丈夫ではなかった。翼の帰宅が飛鳥より遅く、夜ごはんの時間ぎりぎりまで帰ってこなかったのもまずかったらしい。クレーンゲームの景品をお土産に渡してみたが、それもあまり喜んでは貰えなかった。――ちなみに、翼はその手の類は得意ではないから、お土産を獲得したのは陽奈で、翼は横で応援していただけである――。あまりにも露骨に不満顔を向けてくるから、陽奈と撮ったプリクラを飛鳥のオデコにぺちっと貼り付けてやったのだが、それが致命傷になってしまい、結果、飛鳥のご機嫌は斜めなままなのであった。
 一緒にお風呂に入ったり、夜同じ部屋で眠ることを許せば、すぐに飛鳥の機嫌は戻るが、最近は逆にそこまでしなければずっと不満顔が続いたりする。懐いてくれているのは嬉しいが、翼としてはちょっと困ったりもする妹だった。拗ねたり不満顔だったり不機嫌だったりするだけで、格別翼に食ってかかったりするわけではないのも、ある意味始末に悪い。つっかかってこられたら、怒りようもあるのだが。
 しばらく着替えもせずにベッドに横になったまま、翼はぼんやりとしたが、五分もたたないうちにゆっくりと再起動した。部屋に戻る時、妹にもうご飯だと言われていた。このまま寝たい気持ちもあるが、すぐに呼びに来るだろうからそれはできないし、二学期真っ只中だから下手に生活リズムを壊すわけにもいかない。散々遊び回ったせいか、翼のお腹も充分空いていた。
 疲れを振り払うように、大きく一つ伸びをすると、翼は立ち上がった。左手首にはめっぱなしだった腕時計を外して机の上に置き、着替えずに一階に下りる。
 ダイニングキッチンでは、父親がすでに椅子に座って待っていた。母親は翼が顔を見せると、隣のリビングでテレビを見ていた次女にごはんよと声をかけて、長女には料理を並べる手伝いを強要してくる。翼は素直に指示に従ったが、飛鳥はぎりぎりまでテレビの前から離れず、母親にお小言を貰っていた。
 父親と母親と、娘二人と。
 家族四人そろったところで、いただきますを言って、お箸を手を取る。
 飛鳥はまだプンプンしているようだったが、翼はやれやれと思うだけで、あえてご機嫌取りはしない。翼が映画を見に行ったことを知っている母親に、映画の感想を聞かれたりして、父親もごく稀に口を挟んできて、ゆったりと夕食時間を過ごす。
 飛鳥は聞き耳を立てている様子が露骨で、しょっちゅう口を挟みたそうな顔をした。「素直に話に混ざればいいのに」と思うと、翼としてはちょっと可笑しい。そう思いつつ飛鳥に水を向けないのだから、なんだかんだで翼のその態度は、好かれているという自信からくる、無意識の余裕のあらわれなのかもしれない。
 食べ終わると、翼は遊び疲れもあったから、妹に乱入しないように釘をさしてから、お風呂の準備をする。飛鳥は不機嫌を隠そうともせずに、「……姉さんとなんか入らないもん」と、強がった発言をしていた。その一瞬の間はなんなのか、翼はつっこまなかったが、そのかわりに笑って飛鳥の髪をちょっと撫でてから、家族の元を離れた。飛鳥は抵抗せずに撫でられたが、頬は子供扱いに膨れると同時に、ちょっと緩みかかっていた。
 お風呂に入ると、翼は一人手足を伸ばして、ゆっくりとくつろぐ。
 相変わらず手早いが、疲れた身体を癒すように、いつもよりは少し長めのお風呂。
 ふっくらとした手足を柔らかくマッサージしながら、陽奈と出かけた今日の出来事を振り返って、思い出し笑いをしたり、一転、考えない方がいいようなことを考えて暗い気持ちになったり落ち込みかけたり鬱になりかけたり。
 お風呂上りはラフな私服に着替えて、タオルで髪の水気を取りながらリビングに向かい、家族にお風呂があいたことを伝える。入れ替わりにお風呂に入る飛鳥を横目に、デザートに梨が剥いてあったから頂いて、翼も自室に戻った。



 部屋に戻るといつも通りCDを再生させて、頭にタオルを載せたまま椅子に座って、少しぼんやりとする。
 ――こうやってると、すっかり前と同じような生活だな。
 翼はたまに、半ば強引に、そう思うことがある。そう思うことでかえって切ない気持ちになるのは、無意識のうちに、そうとでも思わなければ辛いと自覚しているからかもしれない。
 翼が自分自身で選び、実践してきたこと。
 今の翼の身体は男ではなく女で、周囲も、男だった時の翼の記憶と色々な部分で違う。どうしてもそれを意識させられることも多い。親友と言えるほど仲が良かった男友達の武蔵も文也も、弟の飛鳥も、どこにもいない。
 それでも、取り戻せた生活。男とか女とか、違う世界だとか無関係に、同じような生活。
 取り戻せていないもの、一生失ってしまっているものも少なくはない。悩みは尽きないし、考え出すと落ち込むこともあるし、苦しいこともなくなったわけではない。
 まだ高校生だから、家族や友人たちが環境を作ってくれているから、無理をしないですんでいることも、翼はよくわかっている。この先、翼もさらに大人になり、子供ではいられなくなる。受験に合格して大学で新しい交遊関係を築けば、性差をもっと意識させられることも増えるだろう。社会に出る時も出た後も、今はまだ想像しているだけの現実を見つめさせられて、色々な違いを実感させられるはずだ。職業選択や就職への男女差の影響は大きいし、例えば恋愛や結婚、子供といった問題も、それらを拒絶して生きるとしても、性別によって大きな違いが出る。
 将来の為の行動は取りつつも、その将来とは、まだ真っ向から向きあっていない今。
 家族や友人に恵まれて、守られている今。
 それでも、無理をせずに、自然に毎日を過ごせるようになっている今。
 それがかえって辛いと思う時があるが、だとしても、こんな平凡な時間が、何事もなかったかのように流れていく日々が、どれだけ自分にとって必要でかけがえのないものであるか、翼は無意識に自覚していた。
 自分が自然な自分でいられる時間と、相手と。
 この先どう転ぶにしても、強さと覚悟とを、育てるためにも使える時間――。



 そうこうしていると、一階で電話が鳴り出した。子機は二階にはないから、子供たちの部屋には辛うじて聞こえるかどうかという音量で、CDをつけていると気付けない。翼が反応したのは、一階から飛んできた母親の声にだった。
 「翼ー、陽奈ちゃんから電話よー」
 なんとなく反射的に時計を見ると、まだ八時半過ぎである。陽奈の電話は予測の範囲内だから、「何の用だろう」とは翼は考えないが、少しだけ意外に思った。翼の家族に配慮してか、普段の陽奈は一度翼の携帯電話にかけてから、でない場合に家の電話にかけるというパターンが多いからだ。
 「そういえば映画館からずっと携帯の電源切りっぱなしだったかな」と頭の中で考えつつ、翼はすぐに部屋を出た。
 「翼ー、陽奈ちゃんから電話ー」
 「聞こえてるよ、すぐ行く」
 階段下から再び飛んできた母親の声に、階段を下りながら翼も少し大きな声で言い返す。
 こんな母子の様子は、翼の思うように以前と同じような情景であると同時に、翼の男としての記憶とはあきらかに違う光景だった。自覚しても辛いだけだから翼はほとんど気にしないようにしているが、翼の声も身体も十八歳の女のそれで、客観的に見れば、母親と息子ではなく、母親と娘以外のなにものでもない。
 「あんた、まだ髪乾かしてないのね。ちゃんと乾かさないと風邪引くわよ」
 階段下での母親の言葉に、一階に降りた翼は適当に頷いて、コードレスの電話機を受け取った。保留になっていない電話を耳と口に当て、そのまま母親を置いて階段を逆戻りしながら、「もしもし、陽奈?」と定番の言葉を口にする。
 それに対する陽奈の言葉と、母親の言葉が重なった。
 『こんばんは。今電話、平気だった?』
 「あんまり長電話して、陽奈ちゃんに迷惑かけるんじゃないわよ」
 長電話をしたがるのは陽奈の方だから、ちょっと理不尽な母親の発言だった。翼は「わかってるよ」と、家族特有のそっけなさで言い返してから、『翼?』と翼の名を呼ぶ陽奈に注意を戻した。母親は、娘への用がすむと、再び夫とくつろぐためにリビングに戻っていく。
 「時間は大丈夫だよ。部屋でごろごろしてただけだから」
 『あ、携帯の電源切ってるでしょ』
 「映画館からずっとね。遊んでる時電話かかってきてもじゃまだから」
 『ん……、そうだね』
 なぜか陽奈は、一瞬照れたように口篭もった。
 『もうお風呂とかすませた?』
 「うん、陽奈は?」
 『わたしもすませてゆっくりしてるとこ。お父さんたちも傍にいるよ。翼は部屋?』
 「今戻ってるとこだよ」
 二階にも子機を置いてもらえばいいのに、と武蔵が翼に提案したのは、もうずいぶん前になるだろうか。翼がそれを却下した理由は簡単で、家の電話は両親あてであることが多いから、いちいち翼が対応していたら面倒くさいからだ。急ぎなら携帯にかかると思っているから、二階にいる時は両親が不在でも、わざわざ電話に出たりもしない。
 世間話を交わしながら部屋に戻り、翼はデスクチェアに手をかけた。
 椅子を机から少し離して、背もたれに背を預けるようにして腰掛け、両足を机の上に放って、片方の足首の上にもう一方の足首を乗せて軽く組み合わせる。椅子が自然に傾いて、少し不安定な体勢になる。くつろいだ姿勢ではあるが、あまりお行儀がいいとは言えない姿勢だ。
 『今日は楽しかったね』と、陽奈が口にしたのは、それから少ししてからだった。
 武蔵もそうだったが、これはいつものことで、陽奈は一緒に出かけたのにその日のうちにその日を振り返るような電話をかけてくる。翼としては「デートの後のバカップルじゃあるまいし」と胸の痛みとともに思わなくもないが、そんな陽奈の電話が嬉しい時点で、翼に文句を言う権利はまったくなかった。陽奈も陽奈で時折「たまには翼からもかけてよ」と催促をすることを考えても、翼の立場は弱くはないが強くもないかもしれない。
 ほんの数時間前まで一緒にいたのに、直接顔を合わせている時とは少し違う視点での会話になるせいか、それとも相手によるだけなのか、自然と会話も弾む。翼は自覚がなかったが、昼間同様、気づかないうちにテンションが少し高めだった。家に帰って来て疲れを感じたのも、この無意識の高揚感の後遺症もあった。
 しばらく談笑を楽しむと、あっというまに九時が近くなる。翼は話が一区切りついた時点で、「そろそろきるよ」と別れを切り出した。陽奈はいつものごとく電話を切りたくなさそうな様子をみせるが、明日も朝から会うことになる。たまにひどく拘って無理矢理にでも話を続けてくるが、この日は陽奈もすぐに折れてくれた。おやすみの挨拶をして、二人電話を切った。
 翼はしばらくじっと陽奈のことを考えていたが、やがて一つ大きく伸びをした。携帯電話の電源を入れたりともろもろの用を済ませて、電話を返すために一階に下りる。
 リビングでお風呂上りの飛鳥に遭遇したが、飛鳥は翼にはまだ不機嫌そうな様子だった。父親が「これから勉強でもするのか?」と尋ねてきたから短く返事をしてその場を離れると、翼はタオルを洗濯籠に放り込むなど所用を済ませて、部屋に戻った。
 このままごろごろと過ごしたり、寝たい気持ちもあったが、そう簡単に誘惑には負けたりはしない。疲れている時は、物事が面倒くさくなったり、意欲が減退してだらけたくなったり、集中力がなくなったり、苛つきやすくなったり怒りっぽくなったりするものだが、なんとか気持ちを切り替えて、机に向かう。
 こんこん、という小さなノックの音が響いたのは、勉強を始めて十分もたたないうちだった。
 母親ならノックと同時にドアが開くし、父親ならノックと同時に声が降って来る。普段の飛鳥もそうなのだが、意地っ張りモードの時の飛鳥は、じっと無言で翼の返事を待つという行動に出る。
 昼間の疲れもあって翼は面倒くささを感じたが、妹を無視できるほど冷たくはなれない。
 「どうぞ、開けていいよ」
 翼が声を返すと、すぐにドアが開いて、飛鳥が中に入ってきた。
 「わたしも、一緒に勉強する」
 ちょっとぶっきらぼうで、素直ではない飛鳥の物言いだ。まだご機嫌を直すつもりはないらしい。お風呂上がりの飛鳥は、もうパジャマ姿で、手には勉強道具を持っていた。艶めいた髪は、二房にきつい三つ編みにしていた。
 「いいよ、好きにしな」
 翼は苦笑気味に微笑んで、机に向き直って勉強に戻る。
 「…………」
 翼のその対応に、飛鳥は何か言いたげにちょっと不満げな顔をしたが、口は開かない。かけっぱなしのCDの音がゆったりと席巻する室内で、飛鳥は無言で脇に置かれていたテーブルを広げて、座布団も用意した。部屋の隅に放られている陽奈愛用のクッションも確保してテーブルの前に座り、なぜかクッションを膝の上にのせて、テーブルに勉強道具を広げる。
 それからの約一時間、飛鳥が口にした言葉はほんの二言三言だけだった。「お姉ちゃん、ここ、教えて」とそっけなく、だが強気で言い、翼が教え終えると、礼も言わずに勉強に戻る。これがしょっちゅうであれば翼は苛々したかもしれないが、一時間でそう何度もないから、純粋に優しくしていられた。素直ではない飛鳥の態度には、ちょっと苦笑だが。
 その一時間で、飛鳥は勉強を放棄した。
 姉の翼同様、元々飛鳥の学校の成績はいい方だし、将来のためでもなく受験のためでもなく、姉がやっているから真似をしているという姿勢だから、姉の部屋での飛鳥の勉強はいつも長続きしない。少し落ち着かない様子になって、何しようかなという顔で、視線をあちこちさ迷わせる。
 もう夜の十時を回っている。「やることないなら寝ればいいのに」と、翼の背中に目があれば思ったかもしれない。
 やがて飛鳥は立ち上がると、翼の本棚の前に立った。翼はちらりと視線を向けたが、妹のその行動はよくあることだから、特に何も言ったりはしない。そのかわり両手を組んで、後ろに大きく伸びをした。
 「んっ、くっ」
 身体を何度か軽くひねって、大きく伸びをして、刺激を与えて、また勉強に戻る。飛鳥は翼のその行動に反応したようだが、彼女も何も言わなかった。無言で何冊かの本を検分して、一冊確保して翼のベッドに寝転がり、うつ伏せになって肘を突いて本を広げる。
 飛鳥が読み始めた本は、翼が昨年末から今年前半にかけて購入した、精神医学の書籍の一冊だった。翼にとっても難解なものが混じっているそれらの書籍は、翼が自分のために実用の知識を求めて買ってきたものだ。小中学生向けの平易なものも混じっているが、興味を持たない者には面白さを感じさせる要素は少ない。はずなのだが、飛鳥は興味があるようで、最近よく翼の本棚から勝手に持ち出しては、熱心に読みふけっている。
 飛鳥がそんな分野に興味があることを、翼のとある友人が知れば、少しびっくりして飛鳥をからかったかもしれない。翼としても、真面目な顔をしてそれらの本を読む飛鳥というのは、なまじ本の内容を知っているだけに、ちょっとしたギャップを感じる時がある。翼は飛鳥を子供扱いしているが、飛鳥の内面も確実に成長している、ということなのかどうか。
 が、成長していると言い切るには、飛鳥の振る舞いには幼さが残りすぎていた。十時四十五分をまわった頃、集中力が途切れて翼がまた伸びをした時、飛鳥はいつのまにかうつ伏せのままウトウトしていた。
 翼はちょっと微笑んで、何か飲み物でも持ってこようと立ち上がった。
 穏やかな秋の夜長。
 ごくありふれた、なんでもないような日曜日。








 concluded. 


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初稿 2005/09/03
更新 2014/09/15