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 キオクノアトサキ

  Taika Yamani. 

番外編 
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  もう一つのプロローグ 「あったかもしれない過去」


 平日の放課後、左右を建物に囲まれた中庭の隅で、二人の高校生が向かい合っていた。
 一人は黒いセーラー服の女子生徒で、久我山翼の友人だった。もう一人は詰襟の学生服の男子生徒で、どうやら下級生らしく、翼の知らない相手だ。女子生徒の方は少し困ったようにやんわりと微笑んで、男子生徒の方はガチガチに緊張して、何やら言葉を交わしている。そんな二人から少し距離を置いて、翼のもう一人の友人が、木陰から二人を覗き込んでいた。
 公立高校の二年生女子、久我山翼は、その友人の後ろから呆れたような冷たい声をかけた。
 「あなたはまた……、何やってるの?」
 「うぎゅ、翼! もちょと待って! ちょうど今からなのっ!」
 いったい何がちょうど今からなのか、少し怯みながら、小声を出す翼の友人。翼は一つため息をつくと、覗きに夢中になる友人を軽く小突いた。
 「ほら、陽奈にばれないうちに消えるわよ」
 「し〜! これからがいいとこなの! じゃましないでっ」
 「なんなら今すぐ突き出しましょうか?」
 「冗談はヤメテっ」
 「本気だけど?」
 「あ、告ったよっ!」
 男子生徒が真っ赤な顔で、「好きです、ぼくと付き合ってくださいっ!」と、まっすぐな言葉を口にする。こんな光景を面白半分で覗き見ることをよしとしない翼は、少し真剣に友人、松本文月の腕を引っ張った。
 「ほら、文月! これ以上はだめ。行くわよ!」
 「あ、こら!」
 高校生女子としては長身の文月だが、翼も同じ部活で充分鍛えているから、そう簡単に力負けはしない。翼は両腕で文月の腕をつかみ、その場から引き剥がす。文月はちょっと暴れたが、ぶつくさ言いながらも素直に引きずられた。
 「なによ、もー! せっかくいいとこだったのに〜」
 「覗きしてる暇があったら試験勉強でもしてなさい」
 「陽奈を待ってやらないとカワイソウでしょっ」
 「その陽奈を覗いてたくせに何言ってるの」
 「う、ソ、ソレハ、そ、そうだ、陽奈が来ないと勉強にならないじゃんっ!」
 「ならわたしは付き合わなくていい?」
 「それはだめっ」
 無駄にきっぱりと、子供っぽく胸を張る文月。翼はわざときつくしていた顔を、軽い笑みに変えた。
 「はいはい、だったら行くわよ。陽奈もすぐ来るでしょ」
 「ぶーぶー。翼も気になるくせに〜」
 「どうせまた振るんでしょう?」
 「むー、もったいないよねー。わたしなら今の子ならちょっとは考えるのに」
 「止めないから勝手にがんばって」
 「む〜」
 文月は何度も唸るが、すぐに普段の調子に戻っていた。中庭から充分離れ、自転車置き場や校門へと続く道に合流したところで、大きく両腕を突き上げた。
 「あーあ、部活できないとかったるいー。身体動かしたいなー」
 「少しくらい我慢しなさい。テストが終われば嫌でも部活浸けでしょ」
 本年度の二年生の、二学期前半は過密スケジュールだ。九月頭の実力テスト、九月中旬の文化祭、九月終盤から十月初旬にかけては北海道への修学旅行。帰ってきたと思ったら、とたんに中旬の中間試験。その後も球技大会が控えていて、そこでやっと一区切りかもしれない。
 昨年度の二年生、つまり今の三年生は、修学旅行は二月に沖縄に行っていたが、日程を考えるとその方がよかったかなと翼は思う。もっとも、かく言う翼も一年の時、日程をわかっていながら北海道に票を入れた一人だから、あまり偉そうなことは言えないが。
 今はその修学旅行の後、中間試験の前で、部活も休み期間中だ。同じバスケットボール部の三人、翼と文月、そしてもう一人の蓮見陽奈は、この後翼の家で一緒に試験勉強をする約束を交わしていた。
 「ちょっと遊んでいかないー? 陽奈にはメール入れとけばいいでしょー?」
 「だから一人だけやばいくせに何言ってるの? 見捨てていい?」
 「ダメに決まってるじゃん!」
 「だったらまじめに勉強しなさい」
 「むー、中間試験なんて面倒くさいー」
 だらけた口調で言って、文月は翼の両肩にぶら下がるように両腕を預ける。まわりにはまだ下校途中の生徒がいて、三年生らしい男子生徒たちが視線を向けてきたが、この程度のじゃれあいは日常茶飯事だ。翼は重いと思いつつ振りほどくこともせず、「嫌なら学校やめれば?」と簡単に言い返した。
 「またそれ〜?」
 「言われたくないなら毎回毎回ぐちぐち言わないでよ」
 「嫌なら即やめるって、翼みたいに割り切れれば楽なんでしょーねー」
 「割り切れないってことは本気で嫌じゃないってことでしょ」
 「それも単純だー」
 「まあね。でも、実行できなくともそう思ってた方が気楽よ」
 他愛もない話をしながら、自転車乗り場に移動。家が徒歩圏内の文月は、すぐに翼の自転車に荷物を放った。多少家が遠い翼と陽奈は、バスを使うことも多いが、試験期間中はもっぱら自転車だ。翼は自分も荷物を籠に入れると、「文月、パス」と友人に自転車の鍵を放り投げた。
 「またわたしが運転〜?」
 「交換条件だからね」
 「うう、シンユーに勉強を教えるのに、ホウシューを要求するなんてオーボーよっ」
 「じゃあ自転車はいいから、終わったらお好み焼きとラーメンとイタメシおごって」
 「なんでイタメシやねん!」
 「いいから行くわよ」
 笑いながら、翼は歩き出す。なんだかんだ言いつつ鍵を外した文月は、翼の自転車を押してくっついてきた。
 「置いてっていいー?」
 「自転車も置いてってね。文月の荷物は捨てておくから」
 「うわ、ひどーい」
 校門をでて少ししてから、翼は文月の運転する自転車の荷台に横座りに乗り、文月は「へいお客さん、ワンメーター五億兆円ですよっ」などとほざいて、自転車をかっ飛ばす。「文月の顔に数字書いていい?」などと、翼は軽く笑ってやりかえした。翼のストレートの長い髪が、微かに風になびいて揺れていた。
 少しだけ遠回りしてまず文月の家に立ち寄り、文月といったん別れて、翼は自分で自転車を運転してのんびり家に向かう。すぐに文月は自分の自転車で追いついてきた。超特急で着替えて来たようで、ちょっとへろへろだった。
 「勉強する前から疲れた……」
 「身体動かしたいって言ってたから、いい運動でしょう?」
 「む〜……」
 笑ってそんな会話を交わしながら、自転車をこぐ。学校から二十分足らずで、翼の家に到着した。
 「ただいま」
 「おじゃましまーすっ」
 先にあがった翼に続いて、文月も勝手知ったる他人の家とばかり、堂々とあがりこむ。
 翼の家族は四人で、父親は銀行勤めで、母親は雑誌に辛口のエッセイを書く仕事をしている。しょっちゅう出かけている母親は、在宅でも出迎えなどしないから、この日もやはり出迎えはなかった。中学一年生の妹も、在宅なのかそうではないのか、家の中は静まりかえっていた。
 「飛鳥チンはいるかな?」
 「さあ。靴はあったわね。飛鳥も部活は休みのはずだけど」
 翼の妹のことを話題にしながら、文月は翼に先行して、階段に向かう。
 「最近どう? 飛鳥チンは」
 「相変わらずよ」
 「長い反抗期だねー」
 「まあ、難しい年頃なのよ」
 「わたしたちもまだあんま言えないじゃん」
 「はは、そうね」
 階段をあがってすぐが翼の部屋で、隣が妹の飛鳥の部屋だ。文月は翼の部屋の前を通り過ぎて、無造作に隣の部屋のドアを開け放った。
 「おーっす、飛鳥チン! 元気〜?」
 「な、文月さん!? またいきなり!」
 中から妹の、変声期前の幼い声。翼は後ろで思わず微苦笑を浮かべた。
 「まだ反抗期らしいねー。いいかげん素直になったらどー?」
 「文月さんには関係ありません。ほっといてください」
 いったいどんな顔をしているのか、翼からは見えないが、飛鳥の声は冷たい。翼はやれやれと笑いながら、文月の身体を引っ張った。
 「文月、今日は勉強でしょ」
 「姉さん、こんな傍迷惑な人、いつもいつも、ちゃんと鎖につないでおいてほしいわね」
 「ええ。悪いわね、すぐ消えるわ」
 「こら、誰が傍迷惑だ。飛鳥チンのくせに生意気な」
 「……その呼び方はやめてください」
 ますます妹の声に温かみがなくなる。翼は笑って、もう一度「悪かったわね」と声を投げて、文月を追い出した。その姉の背中に、飛鳥が少し躊躇ったように、言葉を投げてくる。
 「姉さん」
 「うん?」
 呼び止められて、翼はすぐに振り返った。
 少し気の強そうに整った顔立ちの、小柄な女の子が、そこには立っている。翼とはよく似ている姉妹と言われるが、すっかり大人っぽくなっている姉と違い、飛鳥はまだまだ小学生に見えて幼い。十二月には十三歳という割に成長が遅い彼女は、どこか不機嫌そうに見えるきつい表情で、むすっとしていた。
 「陽奈さんは、今日はいないんだ?」
 姉に対するのに、やたらと固い飛鳥の声。
 「陽奈はデートだよーん」
 文月が後ろからまた茶化す。翼は後ろ足で、文月の向こう脛を蹴飛ばした。
 「陽奈もすぐに来るわ。何か用なの?」
 「……別に。用はないからもういいわ」
 生意気な妹の態度だが、慣れっこなので翼は肩をすくめるだけで済ませた。ドアを閉めて、文月とともに自室に向かう。
 「飛鳥チンはほんとに相変わらずだねー」
 「まあね。文月もほどほどにしておいてね」
 「はっはっは」
 以前「あなたは人の家に波風を立てたいの?」と尋ねた翼に対して、「こうやって他人が気にしてるってわかると、飛鳥チンもなんとなく嬉しいっしょ?」などと笑っていた文月だ。二つ年上の兄がいる文月も、中学時代は兄に対して反抗的になったような時期があるらしい。翼も中学時代は素直だったとは言い難いから、「経験者は語るって奴?」と応じて、友人が妹にちょっかいを出すことを容認していた。昔はお姉ちゃん子で可愛かった妹だが、今は家族に心を開いてくれないから、度を過ぎないなら、外部からの働きかけは悪くはない。
 「オネーチャンもたいへんだねー」
 「純さんよりましだけどね」
 「なんでそーなるの!」
 「文月が一番わかってるでしょう?」
 ブラコン、という言葉を出せば文月は本気で怒るから、翼はそれを口には出さない。膨れっ面をする文月を笑い飛ばして、翼は自分の部屋に入った。
 翼の部屋は、機能的にまとめられてはいるが、物も多い部屋だった。カーペットが敷かれたフローリングの床に、ベッドと勉強机、ミニコンポにCDラック、いっぱいの本棚や安物のチェスセット。机の横に棚があって、その一段にはコロンやリップスティックや卓上鏡などが乗せられている。
 部屋に入ると、翼はベッドボードのリモコンを手にとって、ミニコンポを操作する。ゆったりとしたイントロが流れる室内で、文月もすぐに床に荷物を放って、翼のベッドに寝転がった。
 「最近、いい歌ない〜?」
 流れ出した曲から、翼がお気に入りの歌を集めたMDを再生させたのだと察したのだろう、文月がごろごろ転がりながら言う。気に入るCDがあればほとんど記憶するまでエンドレスで流し続ける翼だから、自分で編集したMDをかける時は、翼的に最近のヒットがないということになる。
 「うん、最近はちょっと不作かな」
 「翼は好みがうるさいからねー」
 翼は否定せずに軽く笑い、部屋の中央に来客用のテーブルを広げる。文月はすっかりくつろいだ様子で、翼のベッドに片肘をついた。
 「嫌いなのにも、ちょっとは耳を傾けといた方がいーんじゃないー? 売り手になるなら、好みより売れるのを優先でしょ〜?」
 「そうね。全面肯定はしないけど、少なくとも聞かず嫌いはよくないんでしょうね。いろんなジャンルのいろんなのを勉強しておくべきなのかな」
 翼は将来、音楽関係の仕事につきたいと思っている。カラオケBOXなど遊びに行けば歌は上手いと言われるが、自分に作詞作曲や歌の才能があるとは思っていないから、その志望は現実的だ。レコード会社の経営側の仕事か、CDショップ経営のような仕事ができればと考えていた。今のところ、進路の第一志望は経済学部だ。
 「あーあ、わたしもベンキョーどころじゃないんだけどなー。新人戦ももう始まるって言うのに」
 「悪いわね、足引っ張って」
 「まったくよ。ダレカサンはバイトとかしてるしー」
 「毎月CD代くれるならやめてもいいけど」
 「ナンデそうなるのっ」
 笑顔で膨れる文月に、翼はくすりと笑う。
 「試験が終わったらせいぜいがんばるわよ」
 「む〜、試験前だからって練習させてくれないなんて横暴だー」
 「だれかさんみたいに、テストでやばい人がいるから」
 「いいじゃん! 部活をがんばってる奴は、試験も大目に見るベキヨ!」
 「むちゃくちゃね」
 翼は笑いながら、鞄から教科書類を取り出す。
 「全国クラスならともかく、三回戦どまりだから。甘くなりようもないでしょ」
 「この文月様がキャプテンになったからには違う! 来年はインハイも国体もウィンターカップもイタダキよ!」
 「試験が終わったら特訓でもなんでも付き合ってあげるわ。ほら、勉強するわよ」
 ベッド脇に放られた文月の鞄を持ち上げて、翼は友人のおなかに放り投げた。
 「うぐ。もうー?」
 「あなたの場合は、今はお金より時間の方が貴重でしょう?」
 「むー、めんどくさいー」
 ぶつぶつ言いながらも、文月は鞄を持って身体を起こす。
 「オチャガシはないのかね、翼チン」
 「陽奈が来るまでまじめにやったら持ってきてあげるわよ、ふっちゃん」
 「ふっちゃんゆーな!」
 二人笑って言い合いながら、床に座ってテーブルに教科書を広げた。
 もう一人の友人の陽奈は隣のクラスだが、翼と文月は同じクラスだ。だからノートの中身は同じはずだが、文月のノートは感動的なまでに見にくかった。特別字が汚いわけではないのだが、雑に書いているのが致命的だ。
 「ダイタイ、わたしがノートなんて取ったってこれじゃ意味ないのに」
 「わかってるなら最初からちゃんと丁寧に書きなさいよ」
 「わたしはできないことはヤラナイ主義なのだ」
 「ちょっとはしなさい」
 真顔でつっこんでから、翼は問われるままに、試験範囲について改めて友人に話して聞かせる。



 板書を書き写すという行為だけでも、多少は記憶に残りやすくなるはずだから、見づらいノートもまったくの無駄ではないのだろう。授業中寝ているわけではないから文月も記憶に残っている部分もあるようで、地味に勉強は進む。
 そんな勉強をはじめて三十分ほどたった頃、翼の携帯電話が小さくメロディーを奏でる。うんうん唸って漢字の大軍と戦っていた文月が、即座にびくりと反応した。
 「陽奈かな? 遅かったねー」
 「うん。文月は続けてなさい」
 友人専用の着信音がワンフレーズで途切れるのは、陽奈が家にやってきたといういつもの取り決め通りだ。翼は文月を残して一階におりて、玄関のドアを開ける。そこに立っていた陽奈は、一度家に帰ったようで私服姿だった。テレビゲーム好きのせいか視力がよくない陽奈は、普段はコンタクトだが、今はメガネをかけていた。
 「着替えてきたのね」
 「うん、おじゃまします」
 陽奈は穏やかに微笑んで、翼の家にあがりこむ。
 四月生まれの蓮見陽奈は、女子として平均的体格で、ぎりぎり百六十センチには達していないが、翼よりもほんのわずかに身長が高い少女だ。艶のある漆黒の髪は少し癖があるがさらさらで、肌も白く、繊細な顔立ちも優しげに柔らかい。が、チェスやピアノ、読書などといったインドアな遊びが好きな陽奈だが、大人しそうな可愛い顔をしていざとなれば結構大胆でしたたかな性格だということを、小学校三年生の頃からの付き合いの翼はよく知っていた。
 「飛鳥が会いたがってたわよ」
 「飛鳥が? どうかしたの?」
 「別に用はないって言ってたけどね。先に行ってて。ジュース持ってくわ」
 「うん、ありがとう」
 陽奈を二階に上げて、翼はダイニングキッチンに向かう。母親は出かけているのか、一階の仕事部屋にこもっているのか、そこは無人だった。翼はパックのジュースと三つのコップと市販のスナック菓子を確保すると、すぐに部屋に戻った。
 「…………」
 部屋に戻ると、文月が一人で、翼のノートパソコンをいじっていた。「勉強はどうしたの」「人のパソコンを何勝手に」「陽奈はどこに?」などなどと、言いたいことが山ほど頭に思い浮かんだが、翼が最初にとった行動はため息だった。
 「おっかえりー。陽奈はどしたの〜?」
 「それはわたしの台詞よ。飛鳥のところかな」
 とりあえず持ってきた物をテーブルに置き、翼は文月の横に行く。文月は日本バスケットボールリーグの情報を調べていたらしい。画面にはバスケット情報が並んでいる。
 「JBLか。もっと盛り上がれば面白いのにね」
 「そーだよねー。NBAは知ってても、JBLは何それって奴が多いからなー」
 はっきりとしたプロという形が存在しないこともあって、野球やサッカーに比べればマイナーだが、日本にもれっきとしたバスケットボールリーグが存在する。それがJBLだが、アメリカのプロバスケットリーグであるNBAなどと比べると知名度は低く、あいにくと翼もNBAの方が好きだ。
 「翼は、今年はどこが勝つと思う?」
 「どっち? NBA?」
 「JBLのスーパーリーグ」
 スーパーリーグはJBLの一部リーグで、二部リーグを日本リーグという。JBLもNBAもこれからシーズン真っ盛りで、十一月から春にかけて盛り上がる。ちなみに高校バスケは、夏のインターハイ、秋の国体、冬のウィンターカップが三大大会と呼ばれている。全国への切符は基本的に春から夏にかけて争うことになるので、翼たちは今年はもう見物のみだ。これから来年に向けて、まずは秋の新人戦が間近に迫っている。
 バスケの話題に花を咲かせていると、ドアがノックされた。返事を待たずに、すぐにゆっくりと開く。
 「遅かったね〜」
 文月が即座に振り向いて声を出し、翼も振り向き、部屋に入ってきた陽奈に言葉を投げかける。
 「飛鳥のとこに行ってたの?」
 「うん、ちょっとわからないところがあったみたいで」
 「む、ナンデこの文月様に訊かないで陽奈に訊くかなぁ」
 「文月より絶対陽奈でしょ」
 むしろなぜ姉に訊かないのかと、翼としてはちょっと寂しい。陽奈は優しく笑って、床に腰をおろした。
 「勉強は休憩中?」
 「陽奈が来るのを待っててやったのだ」
 「嘘はやめなさい嘘は」
 文月の戯言に、翼が素早くつっこむ。文月はパソコンをやめてテーブルに戻り、いきなり話題をぴゅんと飛ばした。
 「で、また振ったの?」
 内容をすぐに察したのか、陽奈は困ったような微笑を浮かべた。
 「ん、文月、覗いてたよね。翼も」
 「うぎゅ。バレテたのね」
 うぎゅ、と言いつつも、笑っている文月。パソコンの電源を落としながら、翼も笑って口を挟む。
 「わたしは止めようとしただけなんだけどね」
 「うん、だと思った」
 柔らかい顔立ちによく似合う優しげな表情で、陽奈はくすくすと笑う。
 「騒いでるのが聞こえたよ。わたしはいいけど、相手に悪いから、もうちょっと気をつけてね?」
 「ジャマした翼が悪いのっ! わたしは静かに覗いてたのに」
 「覗きなんて悪趣味なことするからでしょう」
 「威張るようなことじゃないよね」
 無駄に胸を張る文月に、翼は即座に言い返し、陽奈も軽くいじわるを言う。文月は少し怯んだようだが、すぐにごまかすように乱暴にコップを取って、自分の分だけジュースを注いだ。
 「んなことはいーから、どーなったのー? やっぱ振ったのー?」
 「……うん」
 「もったいないなー。陽奈も一回くらい付き合ってみたらどー? 今日の子は結構いい感じだったっしょ? わたしなら今日の子ならオトモダチから考えてみるよー」
 「知らない子だし、いきなり言われても困るから」
 「文月はどうせ長続きしないでしょ」
 「む、そんなのワカンナイじゃん」
 「文月はね」
 「文月はね」
 二人一緒に、しみじみと言う翼と陽奈。さすがに「ブラコンだからね」とまでは口に出さない二人だが、言外の台詞までハモっている。文月はぶすっとした。
 「翼だって長続きしなかったくせにっ」
 「あなたはいつの話を持ち出すの?」
 「まだ一年ちょっとじゃん」
 中三の終わりに、別々の高校になってしまった同級生に好きだと告白されて、翼は一時期彼と付き合っていた。が、彼のことは嫌いではなかったから付き合ってみたのだが、もともとの動機が「男女交際をしてみたかった」と不純だったのが悪かったのだろう。結局本気になれずに、相手を傷つけるだけで終わってしまっている。今の翼には少し苦い記憶だ。
 それからの翼は、本気で好きになれる相手ができるまでは、距離を置いて異性と接している。おかげで学校の男子には近寄り難いとか冷たいと言われているようだが、もともと対人関係に積極的な方ではないから、あまり気にはしていなかった。
 「この調子だと、二人とも嫁き遅れそうだよね」
 「だれがイキオクレルのよ!」
 「恋愛に興味ないとか言ってる陽奈にだけは言われたくないわね」
 「そーだそーだ。まだガキンチョのくせに」
 「ん、それは文月も翼も同じじゃないかな? 文月なんかアレだし、翼も、本気になれなきゃ誰とも付き合わないなんて、生真面目で頭固いよね」
 「アレってナニヨ?」
 「誰がなんですって?」
 文月はむっとして、翼は冷たい眼差しで、陽奈を見やる。陽奈は「だから、まだまだ三人とも子供ってことにしておこうよ」と、楽しげに笑う。
 軽い冗談で睨んだだけの翼は、すぐに表情を緩めて、「わたしが子供なら、あなたたちと一緒にいるせいね」とお菓子をつまむ。文月は「こら待て、それはわたしの台詞じゃんっ」と声を荒げた。
 「あんたたちと会う前のわたしなんか、そりゃぁもう、天使みたいたったんだからねっ」
 「見てみたかったね」
 「ふっちゃんには似合わないわね」
 「ふっちゃんゆーな!」
 くすくす笑う陽奈に、素直な感想を口にする翼、反射的に言い返す文月。陽奈なら今でもそんな感じだが、中学で知り合った頃には文月はもう長身だったし、性格が性格だから、イメージが全然浮かばない。
 さらにあーだこーだ雑談を楽しんだ後、改めて三人で勉強を始める。終わる頃には、文月はぐてーっとしていた。
 高校二年の秋、十七歳の久我山翼の、何気ない日常。
 家族とちょっとギクシャクしていたりもするが、友達とふざけあって遊んで、アルバイトに励んで、部活に精をだして勉強もして。目標もあって、何気ない中に少しずつ変化があって、刺激があって。良くも悪くも、一歩ずつ未来に進んでいた日々。
 そんな翼の世界が一変したのは、十数日後、中間試験も終わり球技大会も終わり、練習不足のままバスケの新人戦も間近に迫った、十月下旬のある朝だった。





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初稿 2004/12/04
更新 2008/02/29