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 キオクノアトサキ

  Taika Yamani. 

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  エピローグ


 一人の男が、高層ビル街を歩いている。ブランド物などにあまり詳しくない翼に言わせれば、「バリッとしたいかにもエリートっぽいスーツ」という格好の若い男。年の頃は二十代の後半か、三十代前半か。若々しい容貌だが、落ち着いた物腰と少し冷たい瞳が、彼の年齢を推測することを難しくする。
 ビル街を早足で歩いてきた男は、迷いのない堂々とした態度で、誰もが知っているようなレコード会社の本社ビルの中へと入っていく。きれいどころのお嬢さんが並んでいる受付前を無造作に通り過ぎて、エレベーターホールに。数台のエレベーター前は、同じように出社してきた社員たちで多少混雑していた。
 『あ、おはようございます、部長』
 冷然とエレベーターを待つその男に、何人かの顔見知りが次々に言葉を投げかけてきた。
 『おはよう』
 『立川ナツヒ発見記念CDの売れ行きは順調みたいですね』
 『ああ、みなのおかげでな』
 『記念コンサートの場所は決まったのですか?』
 『いや、今日あたりに決まるはずだ』
 『武道館が取れるといいですね』
 『そうだな』
 年齢に似合わない冷静さで、男は言葉少なに会話をさばく。
 『部長って……あんなに若いのに? あの人誰?』
 『えー、あんた知らないの? あれが第一企画部の久我山部長よ』
 『あ〜! あの人がそうなんだ!』
 会話の外では、まだ若いのに部長と呼ばれるその男に対する噂話が囁かれる。本人にまで聞こえてきているのだが、本人はさらりと無視して、到着したエレベーターに乗り込んだ。
 一台のエレベーターに乗り切れなかった者たちは、部長と呼ばれるその男がいなくなると、噂話の声を大きくする。まだ三十歳になったばかりの独身。仕事は間違いなくできる男で、ルックスもセンスも悪くはないし、狙っている女性社員は多いと言う。ただ、仕事では冷静に落ち着いているタイプだが、プライベートではかなり冷たいらしい。何人かの女性は彼の寝室までもぐりこんだというが、決まった恋人というものはなく、「自分の結婚を出世の手段にしようとしている」というあまりよくない噂もあった。その噂の出所は、彼を気に入らない男たちからだとも言われているから真偽は疑問だが、やはり若くして高い地位に付いているだけあって敵も多いということなのだろう。良くも悪くも、社員の中では目立つ男だった。
 高層フロアでエレベーターからおりたその男は、廊下を歩き、ドアの前でポケットからIDカードを取り出してセンサーにかざし、自動で開いたドアを通って中に入る。
 フレックスタイムの会社だから、中ではすでに社員が忙しそうに動き回っていた。男が自分のデスクに向かうと、周辺の者たちが口々に挨拶をしてくる。男は普段どおり挨拶を交わしたが、すでにもう臨戦体制だった。通りすがりにさっそく何人かに報告を求め、部下たちにてきぱきと指示を飛ばす。
 自分のデスクまで辿り着くと、男はジャケットを脱いで椅子に引っ掛けて、フロア全体を見渡せる席に腰をおろす。パソコンの電源を入れ、起動までの間にデスクに置かれた資料や報告書を読み、パソコンが立ち上がった時点でスケジュールを確認する。
 そうこうするうちに、一昨年入社の可愛らしい女性社員がコーヒーを持ってきてくれる。以前は自分でいれていたのだが、いつのまにか気を利かせてくれるようになったその娘に、男は『ありがとう』とそっけないくらいの自然な口調で言うだけで、彼女に視線を向けない。彼女は数秒男を見ていたが、すぐに自分の席に去っていった。
 入れ替わりに別の部下がやってきた。
 『部長、蓮見専務がすぐにいらしてほしいとのことです』
 『専務が? わかった、すぐ行く』
 『第二応接室でお待ちです』
 『わざわざいらっしゃってるのか。本当にすぐ行った方がよさそうだな』
 『なんの話なんでしょうね?』
 『やっぱコンサートの件でしょうか?』
 近くにいた口の軽い部下たちが、やいのやいの騒ぐ。冷静すぎて冷たくも見える男だが、落ち着いて穏やかに振る舞うことも巧みで、冷たすぎることはない。部下の信頼はそれなりに得ているようで、フロアの雰囲気は明るい。男は苦笑と取れる形に表情を動かしたが、声に出したのは『かもな』という一言だけだった。
 すぐに彼らに二、三指示を飛ばして仕事に戻すと、男は第二応接室へと急ぐ。第二応接室は、社内で内輪の話をする時によく使われる部屋だ。男がその部屋に入ると、中では高校生くらいの少年が、一人でソファーに座ってお茶を飲んでいた。
 そのカジュアルウェアのスマートな少年は、すぐに顔を上げてにっこり微笑んだ。
 『きたね、翼。おはよう』
 『おはようございます、専務』
 その少年に挨拶をしながら、何か変だぞ、と、頭のどこかで翼は思う。
 『やだな、二人きりの時に専務はやめてほしいな。だいたいぼくなんてお飾り専務なんだから』
 『ほんとにな。なんで武蔵がおれと同じ会社で、しかもおれの上司で専務なんだ?』
 男――三十歳になる久我山翼は、部下たちの前で見せていた落ち着いた表情を柔らかくして、気軽な動作で少年の向かいに腰をおろした。
 『ん、なんでだろうね?』
 十代後半くらいの少年――蓮見武蔵は、楽しげに首をかしげる。
 『おまえは家を継ぐとか保育士とか言ってたくせに』
 『ほんとだよね、どこでどう間違ったんだろう?』
 『まあいいけどな』
 返事をしながら翼は、「相手が信頼できて優秀な上司であれば、補佐に徹するのも悪くはない」などと考えた。さっきは冷たすぎない態度をとっていたが、上が武蔵であればもっと冷たく厳しくやってもいいかもしれない。武蔵と翼であれば、穏やかなトップに冷たいナンバツーという関係が築けるだろう。逆に翼が主体にたって冷たいトップに穏やかなナンバツーという関係もいいかしれないが、なぜかこうなってしまっているのならそれらしく振る舞うだけだ。
 『で、用ってなんだ?』
 『ん、新人を紹介したくて』
 『ほう、どんなやつだ?』
 『これから会えるよ。じゃ、呼ぶね』
 『来てるのか。最初から部屋に置いとけよ』
 『あは、誰か来ると翼はかしこまっちゃうからね。たまには上下関係なしで会社でも話したいよ』
 ピポパ、と内線電話を操作しながら、武蔵が笑う。その笑みは翼が知る高校時代の武蔵そのままだ。容貌もそのままだから、こいつは何十年たっても高校生にしか見えないのか? と、また頭のどこかで翼は考えた。
 『会社で馴れ合うと仕事に影響が出るからな』
 『そうでもないと思うけどな。ぼくと翼の仲だし』
 『どんな仲なんだか』
 翼の言葉に武蔵は軽く笑うと、電話の向こうの相手に、すぐに来るようにとの指示を飛ばす。翼は武蔵が資料を何か持っていないかと軽く視線を走らせたが、武蔵は一切荷物を持ってきていないらしい。電話を切った武蔵に、翼は口頭で情報を求めた。
 『どこの事務所の新人なんだ? 男? 女?』
 『男だよ。事務所は無所属。高校二年生で、バスケをやってる』
 『バスケ? 歌手志望なのか?』
 『ん、純粋なバスケットマンだよ。歌は、カラオケなら人並みかな? 作詞作曲なんて論外でできないと思うな。将来はバスケで食べていくか、お父さんたちみたいな料理人になりたいんだって』
 『なんだそれ、どこかの馬鹿息子なのか? 料理人が下手な歌でも歌うつもりか?』
 『あはは、違うよ。翼に協力してほしいのは次の大会なんだよ。翼が抜けるとやっぱり戦力的に厳しいから』
 『……何言ってるんだ?』
 わけがわからない武蔵の言葉に、翼はさっきから疑問の声を漏らすばかりだ。ここでドアが急に開いて、十代後半に見える背の高い少年が中に入ってきた。
 『お〜っすっ! 翼、武蔵! こんなとこで遊んでねーで、部活するぞ!』
 『…………』
 その少年の名前を、翼は知っていた。松本文也。翼のもう一人の友人。彼はなぜか高校時代のバスケ部のユニフォーム姿で、脇にバスケットボールを抱えていた。
 『おはよう、文也。待ってたよ』
 驚く翼をよそに、武蔵は笑って挨拶などしている。文也はなぜか意味なく胸を張って威張った。
 『おうっ。とゆーわけで、帰ってバスケしようぜ! インハイも国体もウィンターカップも待ってはくれねーぞ!』
 『うん、翼が戻ってこないとインターハイもウィンターカップも無理だよね。早く戻ってきてくれないと』
 『……昨日見ただろ、おれは戻っても役立たずだよ』
 また頭のどこかで、翼はようやく気付いた。
 ああこれは夢なんだな、と。
 昨日、女の身体で初めて部活の練習に参加した翼。初心者と同じようなメニューをこなしていただけの翼。男の身体だった時と比べると能力差は歴然で、女としてもまだまだその身体を使いこなせない翼。
 『身体がついてこないからな、レギュラーにだってなれない。おまえらだけで目指せよ。文也は国体照準が良いんじゃないか?』
 国体は地区からメンバーを選抜してチームを作るから、弱小校であっても個人で実力があれば出場することができる。もともと翼や武蔵は少し厳しいが、文也だけなら、目にとまりさえすれば代表に選ばれる可能性は低くはない。
 『いいんだよっ、それでも! 一緒に鍛えようぜ!』
 『うん、翼がいないと楽しくないし』
 『……まあ、一緒に部活するだけならかまわないけどな』
 翼は笑って、立ち上がる。
 気付くと、翼の服装が文也と同じユニフォームになっていた。しかも翼は十代の少年の姿になっていて、バスケットシューズを履いて、高校の体育館に立っていた。
 夢とはいえ急展開だなと、翼は考える。
 『翼、ぼけっとすんな!』
 普段からは考えられないような、部活の時だけは真剣な文也の強い叱咤。はっと我に返った翼の元に、鋭いパスが飛んできた。バスケットコートに立っているのは敵味方の五人ずつ。練習試合の最中らしい。無意識にパスを受け取った翼は、素早く動いていた。
 翼は身長が高い方ではないから、スピードを活かしたドリブルと正確なシュートを武器としている。速攻の時はボールを持つとゴールに一直線だ。敵が多ければパスも考慮するし、隙があればスリーポイントシュートも考えるが、基本的には確実にゴール下まで動いてレイアップシュートを狙う。
 この時は翼の前にデフェンスが一人残っていた。
 ドリブルで突破しようとするする翼を、敵が両手を広げて遮る。翼は軽いフェイントとターンだけで、瞬間的に抜き去った。そのままスピードを殺さずゴール下までボールを運び、冷静にゴールに放り込む。
 やはり夢だからだろうか、実に完璧に決まった。球技をやっていて気持ちいい瞬間の一つだ。
 ナイッシュー、と、他の部員たちが賑やかになる。
 『試合中にぼんやりしたらだめだよ』
 自陣に戻る翼に武蔵が明るく笑い、文也たち他のレギュラー三人も口々に茶化してくる。翼は言い返そうとしたが、敵はすぐにボールをコートに入れてきた。仕返しとばかり速攻の構えを見せる敵に、翼たちも素早く対処しに動く。
 そのまま試合は一進一退で進み、八十一対八十三という得点差で、終了時間が迫ってきた。この試合は練習試合で延長はない。普通に得点して二ポイント得て同点に持ち込むか、スリーポイントシュートを決めて逆転を狙うか。
 なんだかいいかげんな流れだなぁ、と、ベッドでまどろみながら翼はまた思ったが、なんにせよ勝負は佳境だった。
 武蔵がゴール前にボールを運び、外にいる翼にボールをまわしてくる。フリースローやスリーポイントの成功率は、レギュラーの中では翼が一番高い。敵もそれを察しているのだろう、外からのシュートを警戒して翼の妨害に動いてくる。中にいる文也たちにボールを回すか、翼と同様にスリーポイントを狙える位置で動く武蔵にボールを戻すか、翼自身がそれを狙うか。
 翼は一瞬、ドリブルで中に切り込む姿勢を見せた。
 そのフェイントに、敵の動きが乱れる。
 中に切り込むと見せて隙を誘った翼は、スリーポイントラインぎりぎりの位置で、ジャンプしてスリーポイントシュートを放った。
 きれいなフォームの完璧なシュート。
 と翼は自画自賛したが、決まるかどうかは別である。
 ボールはゆっくりと放物線を描き、ゴールに向かう。ゴール下では敵味方が、シュートがはずれた場合のリバウンドに備える。
 ボールはゴールリングにぶつかり、斜めに跳ね返った。ボールはゴールをそれる。
 がっくりする翼をよそに、リバウンド争いが行なわれ、敵と一緒にジャンプした文也がボールを確保した。両足でがっしりと着地した文也は、そのまま二歩動き、ガツーン! とばかり、豪快にダンクシュートを決めた。
 『うお、生ダンク!』
 『ナイッシュー!』
 『さっすがキャプテン!』
 ギャラリーが盛り上がる。
 八十三対八十三。
 そのままタイムアップになって、その試合は同点のまま終わった。
 夢の中でくらい最後はかっこよく決まってくれてもいいのに、と落ち込む翼の元に、近づいてきた武蔵が不意に言う。
 『翼、腕どうしたの?』
 『え?』
 武蔵の言葉に翼が片腕を見ると、なぜか痺れて感覚がなかった。翼が強引に腕を動かそうとすると、どこからともなく声がふってくる。
 「ん……、やぁ……」
 聞き覚えのある声。妹の飛鳥の声。
 なんで飛鳥の声が聞こえるんだろう、と、頭の隅で翼は思う。夢の中の武蔵たちの声とは、どこか違う声。現実から聞こえてきた飛鳥の声。
 「…………」
 翼はゆっくりと、目を開いた。



 いつもの翼の部屋には、パジャマ姿の少女が四人。
 床に敷かれた布団に二人、その横のベッドの上に二人。カーテン越しに漏れてくる朝の光の中、ベッドで眠っていた翼は腕の痺れを感じながら目を開き、原因に気付いた。一体いつのまにこういう体勢になったのか、翼の細い腕を枕にして眠っている、妹の飛鳥。
 飛鳥は横向きに翼に抱きつくような姿勢で、顔の下半分が掛け布団の中にうずもれている。息苦しくないのかな、と唐突なことを思った翼は、もう一方の手で、布団を少し下げてあげる。翼の華奢な肩が布団の外に出る形になって、翼の身体はちょっと震えた。そう広くない部屋とはいえ、少女四人分の体温は完全にそれぞれの布団の中で、一月の朝の冷気がとても寒かった。
 視線を動かして目覚まし時計を見ると、午前八時すぎだ。
 翼は寝つきの悪さを薬に頼っているが、今使っている薬は睡眠導入効果しかないから、効き目は短時間で切れる。ここずっと六時間も寝れば嫌でも目が覚めていたが、昨日部活に参加したためか、さすがに疲れていたらしい。久しぶりに熟睡した感があった。
 それでもまだ眠気は残っているが、目が覚めてしまえば二度寝は難しい。翼は素直に起きることにして、そっと飛鳥の身体から離れて、自分の腕と枕とを入れ替えた。飛鳥はむずがるような声を出したが、目を覚ます気配はない。布団の中に入り込んだ冷気を感じたのか、小さく丸まるように動く。
 妹のその動きに微笑み、同時に痺れたように痛くて感覚がない腕と寒さに顔をしかめながら、翼は布団の上に乗せていたチャンチャンコを羽織った。
 小さくあくびを一つして、髪をかき上げて大雑把に整え、身体を上体だけ起こした姿勢で床を見ると、やはりまだ眠っている陽奈と文月の姿。二人とも寝相は悪くないようで、陽奈は仰向けに、文月は横向きに陽奈には背を向けて、シングルサイズの布団にきちんと収まって眠っている。軽く編みこんでいる陽奈の髪は、肩にかかって布団の中に消えていた。
 冬休みの一日、強引に翼の部屋に泊まりにきた三人。
 翼にとって、数ヶ月前なら考えられないような状況と言える。翼の部屋に友人二人が泊まりに来ることはあっても、それは男である武蔵と文也だったはずで、弟の飛鳥に腕枕をして眠るなんてありえなかった。翼自身も、女ではなく、男だったはずで。
 「……何時まで起きてたんだろ」
 翼は○時頃に薬を飲んで、三十分ほどで眠りに落ちたから、賑やかに騒いでいた三人が何時に寝たかなんて知る由もない。兄弟がほしいかどうかとかいう話題までは覚えているが、眠りに落ちる前の記憶はけっこう曖昧だった。文月が「雪、もう降ってるかな?」とか騒いでいきなり窓を開けて寒い思いをしたような気がするし、陽奈も陽奈で「翼は男の子と経験、あるかどうか覚えてる?」とか言い出してすごい流れになりかけた気もするし――ちなみに翼の記憶にはないし、陽奈や文月も元のツバサから聞いていたりはしていないらしい――、おまけに飛鳥に何やら身体にいたずらをされたような気までしなくもないが、気のせいだと思いたい。
 ともあれ、昨日の様子では三人が簡単に寝たとは考えにくく、すぐに目を覚ますとも思えない。翼はゆっくりとベッドからおりると、なるべく音をたてないようにして、デスクチェアに腰をおろした。
 痺れている腕を撫でさすり、無防備に眠っている三人の少女たちを見つめながら、我ながら変な夢を見たな、と翼はぼんやりと思う。寝る前に将来の話などをしたせいなのだろうか。翼が男のまま大人になって、大企業の部長になっている夢。高校生のままの武蔵や文也も登場して、わけがわからない流れになるし、本当に変な夢だった。
 「……久しぶりに、武蔵と文也の夢……」
 翼はそっと、自分の頬に指先を触れさせる。そこに涙のあとはない。
 もう武蔵や文也の夢を見ても、勝手に泣き出してしまうことはない。それがいいことなのか悪いことなのか、翼にはわかない。武蔵たちを忘れることは絶対にしない。だがいつか、記憶は過去になり、すべては思い出になってしまうのだろうか。
 「……にしたって、発見記念CDって……」
 切なさを押し殺して、翼は夢の前半部を振り返る。その時点で何かおかしいと気付いてもよさそうなものなのに、そんな変な点を無視して、夢の中の翼は大真面目に動いていた。細部を一つずつ検討すれば、嫌な夢判断ができるかもしれない。
 それでも、曖昧な部分も多かったが、翼が目指していた未来の一例のような夢だったと言える。
 なんでも一人でやって生きていくのなら、翼はそんな大人になりたかった。できるだけ落ち着いていて冷静で、取り乱すことをせずに、常に沈着で些細なことには動じない。それでいながら、親しい人の前では遠慮のない態度で、楽しむ時は素直に楽しむ。翼の理想の形の一つ。
 狭い範囲で責任の少ない生き方ができるのなら、その理想を叶えることも難しくはないかもしれない。人に使われたり人を使ったりということが少なければ少ないほど、自分の望むままにどうとでも振る舞える。だが大企業の幹部ともなれば、相当な能力が伴わなければ、その姿勢を貫き通すことは難しいだろう。現実ではおそらく、翼がその立場に立つまでに、取り乱したりもするし、情けない失敗もするし、他人に愛想笑いをしたりもするし、無駄なところで怒ったり不機嫌になったりもするはずだ。
 が、今すぐには無理でも、まだまだこれからのはずだった。
 失敗したり他者に不必要に媚びて落ち込んだりすることもあるかもしれないが、男として多くの物事を学び、成長していく時間は充分にあったはずだった。今夢で見たのような地位に一生立つことができなかったとしても、そんな将来を目指してがんばることに障害はないはずだった。目指すこと自体は、それが叶わないかもしれなくとも、できるはずだった。
 なのに、今の翼は女。
 翼が失ってしまったのは、過去と現在だけではない。
 未来までも、男のままならありえた未来とは、絶対的に違う未来。
 翼の未来は、大人の男ではなく、大人の女。
 どんなに嫌がっても、今の翼は「どんな大人を目指すのか」と同時に、「どんな大人の女を目指すのか」ということも考えるべき状況にある。大人の男になるという選択肢がないのなら、嫌でもそうなる。
 だが、すでに何度も考えさせられていることではあるが、翼にとって男子高校生だったはずの自分が女子高校生という立場にあるだけでもたちが悪いのに、このまま大人の女になると考えるのは冗談にしても最低だった。自分が大人の女になる将来を真剣に考えるとなると、翼はまたすべてを投げ出したくなる。
 それでも、四月には高校三年、五月には十八歳になる。まだ考える時間はあるが、時とともに進路に対する選択肢は変動する。このまま生きていくしかないのなら、将来どうするかを考えないことは怠慢だった。考えても、落ち込んで苦しくなるだけだとわかっていても。
 「……将来、か……」
 翼は重いため息をついた。
 この先就職するなら、音楽関係に関わりたいという気持ちも、経営側の仕事を目指したいという気持ちも変わっていない。翼が男だった時のその目標は、女であっても叶えることができるものではある。だが、今見た夢と同じような未来を、そのまま女の立場で置き換えることはできないだろう。男と同じことをやろうとしてもやれないことも多いし、同じことをやっても周囲の反応が違うことも多い。男であれば男ならではのしがらみがあるように、女であれば女ならではのしがらみがある。
 まだまだ今の時代、性差の社会的影響は小さくはない。仮に性別は単に環境要素の一つだとしても、翼にとって簡単に無視できる要素ではない。
 学生の間は、人間関係はいくらでも忌避できる。社会に出ても、ただ生きていくだけでいいなら、たぶんどうとでもやりようがある。だが翼が男として求めたような生き方を女の身体でしようと思ったら、どの道を行くにしても楽ではない。恋愛しないでおこうが異性っぽく生きようが個人の自由のはずだが、自分の思いを貫き通すには色々な強さが必要だ。その強さを持てればいいが、持てない場合は、どこかで妥協するか、自分を殺して生きていくことになるだろう。
 「目立つと厄介事も増えそうだから、地味に生きて地味に死ぬのがいいのかな……。ご近所の小さなCDショップの渋いおばさんとか」
 自分の想像に、翼は自分で考えておきながら泣きたくなった。
 「……渋いおばさんって、どんなだよ……」
 翼が「渋いおじさん」になれたかどうかは置くとして、CDショップのちょっと音楽に詳しい渋いオーナー店長、というような地位は翼の目標のもう一つの形だ。こじんまりしたお店で好きな音楽を流して、裕福でもなく多少忙しくもあるが、家族で生活をしていけるだけは稼げて、趣味でバスケを熱心に続けたり、そんな生活。もちろんこれもまずは基礎となる資金を調達する必要があるし、簡単に手に入るものではないが、客観的には平凡と言われそうな生き方。
 翼のかつての想像では、そこにいる自分は、最初は平凡なおにーさんであり、次いで平凡なおじさんであり、あまり真剣に考えたことはないが、最後は平凡なお爺さんだった。なのに今は、将来の自分を考える時、おじさんではなく、おばさんでなくてはいけない。そしていつかは、お爺さんではなく、お婆さんになってしまうのだろう。
 翼の現実感覚は、女としてこのまま生きていかなくてはいけないのなら、女の利点を生かさないのは愚かだと考える。男だった時は、翼はあまり自覚はないが、男の利点を無意識に自然に生かしていたはずだ。今は男の立場は失ってしまっているが、女の立場を手に入れていると言える。短所もあるが長所もあるだろうから、それを利用しないのは、失った物を考えれば愚か過ぎる。現状を踏まえて、より有利な生き方を選択すべきだった。
 が、だからと言って感情を無視するのも、翼に言わせれば同じくらい愚か者の振る舞いだった。
 「……いっそ元の人格とやらを取り戻して、全部押し付けた方が楽かもな」
 現実逃避ここに極まれり、とでも言うべき呟きが、翼の口から零れた。それとも、二ヶ月ちょっとたって、やっとそれを真剣に考慮できる余裕が出てきた、とも言えるのだろうか。
 運がよければ、本当に二重人格なのなら、今の翼のすべての記憶を持ったまま、翼の基本人格とされる元のツバサの人格が蘇る可能性はないではない。逆に今の翼の人格のまま、元のツバサの記憶が蘇る可能性もないではない。
 が、そもそも二重人格になった原因すら、いまだにさっぱりわかっていない。元のツバサに男になりたいという願望があったようでもないし、きっかけとなるような事故や事件の気配もない。元のツバサが人に言えない大きな悩みを抱えていた可能性はあるが、陽奈たちもまったく心当たりがないというし、もしそんな悩みがあったのだとしても、今の翼にはそんな記憶はないし想像しかできない。
 「……もう一度、カウンセリングを、今度はちゃんと受けた方がいいのかな……」
 場合によっては今の翼の人格が消滅してしまってもいい、というくらいの気持ちで本気で。とまで考えると翼としては悩んでしまうが、こんな精神状態では、その方がいいかもなどと真剣に考えてしまう。
 もっとも、二重人格という実感はいまだにないし、本当は精神の病気などではないという可能性も、翼の脳裏から消えているわけではない。現状では精神科医のカウンセリングなど受けたところで、やはり何もかわらず何も解決しない可能性も高いと翼には思える。嫌でも、翼が向き合わなければいけないのかもしれない。少なくとも、本気でカウンセリングを受けるとしても、その覚悟だけは忘れるべきではないのだろう。
 「……ふぅ」
 ため息をついて、翼は椅子から立ち上がった。
 ベッドの上の飛鳥も、床の布団の陽奈も文月も、まださっきと同じ姿勢で眠っている。
 将来を考えるなら、このまま何事もなく生きていくことになれば、いつか陽奈や文月、飛鳥が大人になる姿も見ることになる。当然のごとく、彼女たちに恋人ができるところも。
 三人に恋人ができるという未来は、ごく普通に自然にありえる未来。まだ先のことかもしれないが、これも覚悟しておかなくてはいけない現実。
 翼自身は、もう誰にも恋をするつもりはない。感情の領域だからどこまで実践できるかはともかく、その覚悟がある。恋愛だけが人生ではなく、それを敬遠して生きても、それで悪いなどということはないはずだった。
 そして自分はそうだが、陽奈たちが他の男を好きになれば、それを素直に祝福し、応援して協力してあげたいと思う。こんな今の自分に何ができるかはわからないが、陽奈たちが翼を思いやってくれたように、思いやってくれているように、翼もできるだけのことはしたい。
 なのになぜだろう。
 この件を考えると、翼の胸は痛む。
 「…………」
 翼は意識して感情を抑えると、ゆっくりと着替えに取りかかった。
 やはりまだまだ、考えたくないことも多い。まだあれから三ヶ月もたっていないのだ。色々問題もあるが、生活そのものはとりあえず普通にできるようになっている。今を生きていくだけなら無理も減っている。今は一つずつ一歩ずつ、耐えられることから考えて、できることからこなしていくので精一杯だ。何も今すぐ考えなくていいことも多いはずだった。
 それが問題の先送りであり、現実逃避だとしても。翼自身、その自覚があるとしても。考えたくないことは、まだ考えたくない。
 意外にも、着替えの最中に陽奈が起き出した。
 陽奈は目をこすりながらゆっくりと身体を起こして、半裸の翼に気付き、にこっと笑顔を浮かべた。
 「おはよう、翼……」
 「……おはよう」
 「わたし、夢見てた……」
 寝ぼけているのか、陽奈の物言いは幼く、その瞳は少しぼんやりとしている。他の二人が寝ているから翼はそれ以上言葉を返さなかったが、陽奈の表情は楽しげに緩んでいた。と思えたのは数秒で、陽奈の瞳が哀しげに揺れた。
 「寒い……」
 陽奈はそう呟くと、また布団に横になって、しっかりとあごまで潜ってしまう。翼は一瞬虚をつかれた後、思わず声を抑えて笑ってしまった。
 「……ねえ、翼……?」
 陽奈は寝なおすわけではないらしい。布団のぬくもりを取り戻すと、小声で話しかけてきた。
 「うん?」
 「わたし、どんな夢、見たのかな……?」
 「……おれに訊くなよ」
 「……翼が出てきた気がする……」
 目を覚ましているのかいないのか、よくわからないような陽奈の声だ。翼は笑うだけで何も言わずに、さっさと着替えた。
 しばらく静寂の中に衣擦れの音だけが響き、陽奈が再び口を開いたのは翼が着替え終えてからだった。
 「翼……?」
 「うん」
 「……あったかくなったら、ピクニックに行こうね」
 脈絡がない陽奈の言葉。
 「そんな夢だったのか?」
 「ん、違う……と思う。翼が寝てから、飛鳥と話してたんだよ。翼、すぐ寝ちゃうから」
 翼が寝ている間に、実に平和な話をしていたらしい。翼は机に置いていた薬を取り出しながら、また小さく笑う。
 「何時まで起きてたんだ?」
 「ん……、文月は三時くらいで、わたしと飛鳥は四時半くらいかな? 四時までは覚えてる……」
 「四時半って……全然寝てないんだな」
 「……今、何時?」
 「八時だよ。眠いならまだ寝てな」
 「翼は……?」
 「おれは朝ごはんかな」
 「……わたしも、おなかすいてるかも……」
 「む〜!」
 陽奈の横で寝ていた文月が、突然動いた。うるちゃい、とでも言いたげに身体を反転させて、陽奈にしがみついてくる。
 「んっ、文月?」
 起きたの? というふうに小声を出す陽奈。が、文月はそのままむにゃむにゃと何やら言うが、起きそうな気配はない。翼は少し笑い、陽奈も困ったように笑みを浮かべる。
 陽奈は数秒悩んだようだが、すぐに文月の身体を引き剥がした。文月は何やら唸るが、陽奈は無視して「えいっ」とばかり身体を起こす。そして身体を震わせた。
 「やっぱり寒い……」
 「まだ寝てればいいのに」
 「うんん、せっかく起きたんだから、もったいないから起きるよ」
 陽奈はすくっと立ち上がった。
 「もったいない、ね」
 部屋を出る準備を整えた翼は、優しい笑顔でドアに歩く。
 「先に行ってるよ」
 「あ、うん、わたしもすぐ行くね」
 「ああ。ごはんあると思うけど、用意してもらっておこうか?」
 「ん、そうだね、お願い。でもちょっとでいいかも」
 「りょうかい」
 抑えた小声で会話を交わすと、翼は陽奈と別れて自分の部屋を出た。
 陽奈とのほんの些細な会話で、気持ちが温かく落ち着いていることを、翼は自覚していた。感情は簡単に揺れて落ち込むことも多いが、やはり今の翼にとって、陽奈たちの存在は良くも悪くも大きい。
 生きていれば、悩んだり苦しんだりのすべてを避けることはできない。それは翼だけではなく、たいていの人間にとって同じことだ。それでも、少なくとも今の翼にとっては、苦しいことばかりではない。自分の状況が楽だとはどうしても思えないが、辛いことも多いが、楽しいと思えることがあって、楽しめる時間もある。
 未来が今の延長線上にあり、時間が今の積み重ねであるのなら、今を、その瞬間瞬間を大事にするという、ありふれたことを実践しようとすべきなのだろう。とある状況で、とある環境で、とある身体で生きていくしかないのなら、それを前提にして生きていく覚悟を決めて、自分なりによりよくなるように、より楽しめるように、生きていくべきなのだろう。よく言うと前向きに、軽く言うと開き直って、生きていくべきなのだろう。
 ごくありふれた一般論。
 が、ここで「言うは易く、行うは難し」と現実的なことも考えてしまうのも翼だった。時には生きていく覚悟なんてしたくないと思ったりもするし、前提自体をぶち壊したいと思ったり、すべてから逃げ出したいと思ったりもする。自暴自棄的なことを思う時もあれば、何もかも投げやりに思える時もある。
 そしてそう思うことが悪いとも、翼は思わない。それもまた、自分の素直な気持ちだから。
 まだまだ、些細な刺激で翼の感情はどの方向にも動く。
 現状は、無条件に幸福だなんて思えないが、極端には悪くはないとも今の翼は思える。この先、翼は自分を抑えきれなくなることもあるのだろうし、もしかしたらもっと辛くなることだってあるかもしれない。また死にたくなることだってあるかもしれない。逆に、この状況をありのままに受け止めて、素直に生きていけるようにもなるかもしれない。今嫌だと思っていることも、好きにはならないまでも、受け止められるようになるかもしれない。もしかしたら好きにもなれるかもしれないし、今よりもっと、楽めることだって何かできるかもしれない。
 今の翼は、明るい可能性だけを思うことはしない。それと同じ理由で、暗い可能性だけを思うこともしない。
 可能性は単に可能性に過ぎない。時には個人の力の及ばないところで選択肢は変動し、良くも悪くも可能性のあり方も変わっていく。だがその上で、個人の力が及ぶこともないわけではない。
 翼は、何もしないのも一つの選択だということをよく知っていた。何かをするのも、単にまた一つの選択。生きるのも死ぬのも、何かをするのもしないのも、すべて自分で選ぶしかない。
 「……でも、何をどう選ぶのが一番いいのかな……」
 何を望み、何を諦め、何に拘るか。何ができて、何ができないか。何なら耐えられて、何なら耐えられないか。今の翼には、自らを知ることすら難しいが、それでも。
 「ほんとに、前途多難だな……」
 今の翼は、軽く笑ってそう思うことができた。
 例えそれが強がりであったとしても、迷いながらでも苦しみながらでも、自分なりに、自分の意志で、とにかく今を生きていこうと思える。
 翼がトイレや洗顔などをすませてダイニングに入ると、隣のリビングでは、母親の亜美がいつものように、お茶を飲んでテレビを眺めていた。
 リビングから見渡せる狭い庭では、雪がしんしんと降り続いている。
 優しく舞い落ちてくる、白い氷の結晶。
 いつから降り出したのか積もってはいないようだが、子供であれば傘を持たずに走り回って、雪を身体にまとわりつかせるのが楽しいかもしれない。外に出ればとても寒いとわかっているが、翼も少しだけ、その下に身体を晒してみたくなった。
 「あ、おはよ。早かったのね」
 亜美が気付いて、娘に声をかけてくる。
 いつもと同じような、だが二度と繰り返されることのない、新しい一日。
 今の翼の、今の日常。
 「うん、おはよう」
 翼は穏やかに、母親と朝の挨拶を交わした。








 concluded. 

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初稿 2004/10/28
更新 2014/09/15