キオクノアトサキ
Taika Yamani.
第八話 「女の身体」
女の立場で初めて学校に来た日、女子バスケット部に所属していることになっている翼は、放課後、キャプテンの文月に引っ張られて部室に顔を出した。
男だった時同様、女である元の人格のツバサも、バスケ部に親しい人間は多かった。部活で苦楽をともにしているだけに、特に同学年の面々は下手な教室のクラスメートより仲がいい。後輩である一年生とは少し冷たいが面倒見のいい先輩として付き合っていたし、すでに部活を引退している三年生とも無視できない付き合いがある。
だからこそ余計に厄介な状況だったが、初顔合わせは穏便に済ませることができた。すでに過半数は教室で顔を合わせていたせいもあるし、ここでもみなが気を遣ってくれたおかげもあるが、やはり陽奈と文月がしっかり援護してくれたことが大きかった。もしも一人だけなら、翼は自分から他人との関係を一度すべて絶ち、強い反感を買ったかもしれない。
二人には本当に世話のかけどおしで、翼は感謝もするが、少しだけ気も咎める。それを口にすれば逆に怒られるから、面と向かっては言わないが。
ひととおり挨拶を済ませると、翼はみなが着替えようとしたのを機に逃げ出した。頭の隅で惜しいと思ったが、明日体育の授業があるため、その気ならいくらでも見ることができる。この先もこの身体と立場ならその機会は多いだろう。
だが、「だとしても」と考え出すと気は重い。翼は苦々しい思いを抱きながら、なんとなくそこに立ち寄った。
体育館脇の、バスケットのハーフコート。部活で練習に使ったり、生徒が昼休み遊んだりもする場所だ。翼は壁際にぽつんと置かれたバケツにまっすぐに向かい、その中に予想通りバスケットボールを見つけて、少しだけ笑みを浮かべた。
「やっぱりここにボールがあるんだな……」
本来ちゃんと仕舞われているべきボールがこんなバケツの中にあるのは、この学校のかなり古い頃からの伝統らしい。誰が始めたのかは謎だが、「みなが簡単に遊びで使えるようにとの、歴代の先輩方のありがたい配慮だ」と、翼は部活の先輩から聞かされていた。教師も、直接目にすればちゃんとボールを仕舞うように注意するが、普段は笑って黙認しているのが現状だ。生徒も注意を受けたその日はボールを仕舞っても、後日に遊んだ後は、ちゃっかりバケツにボールを入れてから帰る。
翼としては、誰が始めたかよりはむしろ、この妙に大きくて古いバケツはいったいどこから持ってきたのかの方が謎だった。いっそ学校の七不思議に数えたいくらいだ。もちろん、翼はそんな調査で時間を潰すつもりはなかったし、武蔵も文也も笑うだけで謎の解明に乗り出してくれなかったから、結局謎は謎のままだが。
セーラー服にコートという格好の翼は、上体だけを曲げてボールをつかもうとして、自分の格好を思い出して、思いとどまった。翼のスカートは短すぎたりはしないが、余計に長いわけでもないから、上半身を思い切り前に曲げると、後ろから中が見えやすくなってしまうかもしれない。ため息をついて、翼は膝を折ってしゃがみこみ、鞄を置いて、片手をバスケットボールにのばした。
「…………」
片手では、ボールがつかめなかった。
男だった時には、片方の手の平をボールにくっつけて、手の力だけでボールを持ち上げて振り回すことだってできたのに。だが今は、持ち上げることすらできない。小さく、非力な手。
もう一つため息をついて、翼は両手でボールを持ち上げる。
バスケットボールを過去の記憶よりも重く大きく感じるのも、おそらく気のせいではないだろう。
翼は軽くボールをバウンドさせた。
だむ、というような小気味よい音がして、ボールが跳ね返ってくる。両手でキャッチした翼は、そのまま再びバウンドさせて、ゆっくりと片手でドリブルをしながら歩く。
地面に描かれたフリースローラインまで移動し、ボールを両手でおさえた。
そっとボールを額に運び、片手に乗せて、もう一方の手を軽くそえて、シュートを放つ。
予測はしていても、その結果には例の微笑が漏れた。
ボールは意外にもまっすぐに飛び、きれいな放物線を描いたが、ゴールには届きすらしなかった。地面に落ちて数回バウンドし、体育館の壁にぶつかり、弱々しく転がり返ってくる。
男だった時と同じ感覚で打っても、この身体では届くわけがない。
わかってはいたが、嬉しくない認識。翼にとってはやはり、この身体は、本来の自分とはまったく違う身体。
翼はボールを拾うと、再びドリブルで移動し、また構えて、シュートを放つ。
意識して強く打ったせいもあるのだろうが、今度は少し飛びすぎた。ボードにあたって、ボールは明後日の方向へ。
「即戦力どころか、足手まといになりそうだな……」
今日から再び学校に通うようになった翼だが、部活をどうするかはまだ決めていない。もともと男子バスケ部に所属して熱心に参加していたくらいだから、運動は好きな方だ。だが、激しい運動になればなるほど、身体の違いを意識せずにはすまされなくなる。身体を動かすことで下手な悩みを一時でも忘れることができるかもしれないとも思うが、運動能力の差は明白だし、今の自分の身体を使うことはそれだけで屈折した思いをうむ。文月は「身体を動かすことで思い出すこともあるでしょっ」とか、「身体をなまらせないようにしなきゃだめなんだからっ」とか、色々理由をつけて部活への復帰を強く促していたが、復帰したところでレギュラーの座を獲得するのも厳しそうだった。
もう何度目なのかまたため息をつきながら、再度ボールを回収してきた翼は、ふと思いたって、今度はゴールの真下に立った。
ボールを一度地面に転がし、真上を見上げて、ゴールリングの位置を確かめる。
今の翼の身長は百六十センチに少し届かないから、男だった時と十センチ以上差がある。たかが十数センチだが、されど十数センチだった。腕の長さにも差がでるため、手の届く高さも違う。翼は軽く両膝を折り曲げると、腕を大きく振り、思いっきりジャンプして手を伸ばした。
「くっ」
身に付けたままのダブルのコートと一緒に、プリーツスカートがふわりと広がる。短めだが男だった時より長い髪や、無駄に震える胸の脂肪もじゃまだった。それでも、ゴールネットにさわれただけ、ましだと思うべきなのだろうか。
着地でバランスを崩して、そのまま膝を曲げてうずくまる。
「……吐きそう」
泣きそうだとも思いながら翼はしばらくじっとして、時間はかかったがなんとか自分を律して、ゆっくりとボールを拾う。
助走なしでリングをつかめていたのが、今ではネットにさわるのが精一杯のこの身体。わかってはいても、辛い。
「ネットに初めてさわって喜んだのって、いつだったかな……」
助走付きでさわったのが、中二の時だったことはしっかりと覚えている。助走抜きはいつだったのか。ネットの後はボードさわりが焦点になったから、翼の記憶にはない。翼の身長が百六十センチに乗ったのは中二の冬ごろだったから、中二より後なのは確かで、高校に上がるよりは前のはずだった。
「中学の頃くらいの運動能力、とでも思えばいいのかな……」
ネガティブなことを考えて、翼は重いため息をついた。暗い方向へ考え出せば、際限なくどこまでも落ち込んでしまう。
もう帰ろうと思って、翼は壁際のバケツ前に移動する。
翼がバケツにボールを放った時、部室棟の方から人の声が近づいてきた。男子バスケ部のウィンドブレイカーを着た、四人の男子生徒。翼が彼らに気付くとほぼ同時に、彼らも翼に気付いて口を閉ざし、足を止めた。
陽奈たちによれば、元の人格のツバサも異性に対しては多少冷たく、異性と気軽に付き合うようなタイプではなかったという。学校の男子には近寄り難いとか冷たいと思われていたようで、自分のペースを崩すことなく、冷静に応じていたらしい。ただ、バスケ部は男子部と女子部で比較的仲がいいから、元のツバサも男子部の面々とは他の男子より仲がよかったらしく、複数対複数の時はたまには一緒に遊んだりもしていたようだ。
翼の記憶でも、異性である女子と同じように接していたから、別にそれを非難するつもりはない。だが元の人格のツバサの恋愛話を聞いた時は嫌な気持ちになったし、同時に聞かされた言葉には心から安堵した。翼の男としての記憶同様、元のツバサは中学の終わりに付き合った人がいたが、あいにくと言うべきかこの場合は幸いと言うべきか、一年ともたずに別れているらしい。仮に元のツバサに彼氏などいたら、その彼氏には悪いが、翼は速攻で別れていたことだろう。元のツバサが一人身だったのは、まだ運がよかったと思うべきなのかもしれない。
ともあれ、陽奈や文月は、翼を気にしている男子もいるとか言っていたが、男友達とどうこうしろとは言わなかった。元の人格のツバサを考慮して維持しなければいけないような、大事な付き合いはないらしい。
翼としては、身体の不快感の部分を除けば、普通に男友達がほしい部分もないではない。が、もともと武蔵と文也以外に深い付き合いの人間がいなかったように、対人関係に積極的な方ではない。その上、この身体では性別を気にしない友情というものまで男に求めなければならない。「そう簡単に信用できる男友達はできないだろうな」というのが、今の翼の正直なところだ。
だから翼は、何も言わない男子生徒たちに、自分から声をかけたりはしなかった。鞄を持ち上げて、校門側――彼らがきた部室側とは反対方向――に歩き出した。
それに刺激されたように、先頭の一人が声を出した。
「く、久我山さん!」
翼は、内心どうなることやらと思いながら、足を止めて振り返った。
一月半ほど前まで翼も着ていた、男子バスケ部のウィンドブレイカー。そんな格好をした四人。この時期三年生は引退しているし、先輩付けでもなかったところを見ると、同学年の可能性が高い。翼が彼らの名前を検索するためにじっと彼らを見ると、後ろの三人は態度に困ったように表情を動かし、声をかけた先頭の張本人は、強張った顔で翼を見つめてきた。
「え、えっと、久しぶりだね」
「…………」
久しぶり、と言われても、翼に言える言葉は少ない。頭の中で彼らの性別をひっくり返して、自分の記憶内の人物データベースを探って、もしかしてという対象を見つけることができる相手もいるが、その「男子と女子」としての記憶を、この「女子と男子」という状況に対応させるのはけっこう厳しい。もともと特別に親しくて同性である陽奈や文月の時でさえ最初はもめたのだ。あの時より翼は落ち着いているが、教室や部室と違い文月たちの援護もないし、一人で相手をするのはかなり面倒くさくもある。
相手が女子であれ男子であれ、それなりに配慮すべき相手以外は、完全に初対面の方がまだ付き合いやすい。翼は、まっすぐに相手の瞳を見返した。
「悪いけど、誰かわからない」
「…………」
陽奈が言っていたよからぬ噂のことも知っているのだろう、相手の反応は予想の範囲内だった。怯んだ四人の次の言葉を、翼はじっと待った。
後ろの一人が、すぐに小声で隣の男子に何か言う。「お、おれが知るかよ」というような声が飛んだが、翼に話しかけてはこない。ずっと強張った顔の先頭の彼は、何か言いかけたようだが、言葉が見つからないようで声はない。
彼らが初対面としての態度で接してくるか、陽奈や文月の援護で一歩ずつ進めば、改めて友達にはなれるかもしれない。だが、今の翼に元のツバサを重ねる以上、翼の方から歩み寄る気にはなれない。もともとそれほど親しくもない以上、彼らにどう思われようと気にもならない。
「用がないなら、もう行くね」
翼は静かな口調でそれだけ言うと、相手の反応を待たずに、彼らに背を向けた。
制止の声はかからなかった。
女としての学校生活の二日目、二年C組の二時間目は体育の授業だった。
「つばさ、次体育だよ〜」
一時間目が終わるなり、隣の席の文月が声をかけてくる。翼は「うん」と無造作に頷いたが、内心は微妙な気持ちで一杯だった。
「久我山さん、体育は平気なの?」
「無理をしなければ問題ないよ」
声をかけてきた前の席の女子、西野美穂に、翼は軽く応じる。さらに二言三言会話を交わし、翼は後ろの棚に荷物を取りに行く。バッグを持って席に戻ったところで、隣のクラスの陽奈がやってきた。
「翼、迎えに来たよ」
「わざわざ来なくても逃げないよ」
そう言って歩き出した翼に、陽奈は一瞬複雑な顔を見せたが、すぐに「一緒に行きたいだけだよ」と笑顔で横に並ぶ。前後で他の女子も移動を始めている中、文月も「マラソンやだなー」などとぼやきながら二人に続いて歩き出す。
三人の間では、翼は運動しても大丈夫なのかという話題や、今日はたぶんマラソンだという話はすでにすませている。その時も文月は「まらそんだるいー」と騒いでいたが、翼は「今のおれにはちょうどいいかな」と冷静に応じていた。下手にテクニカルな運動よりも、まずは基礎的な運動からの方がやりやすい。
ちなみに、その言葉遣いに「また口悪くなってるっ」と、文月が笑って怖い顔をしたのは余談だ。
「今日はどう?」
「無理はないよ」
「わたしがバッチリサポートしてるもんね〜」
「うん、助かってる。やっぱり勉強は全然頼りにならないけど」
「むっ」
「あは。じゃあ、今度みんなで勉強会だね」
「なんで期末試験なんてあるんだろー。リフジンだよね〜」
文月が、わざとらしく泣き真似をする。陽奈はちらりと翼を見た。以前の翼なら、「嫌なら学校やめれば?」などとあっさりと言い放っていただろう。陽奈の視線に気付かなかった翼は、その言葉は投げなかったが、さらりと人の悪い発言をした。
「文月みたいな生徒がいるからだね」
陽奈は二度瞬きをし、文月は器用に笑顔で膨れっ面をした。
「つばさ、あんたわたしにケンカ売ってるでしょ〜?」
「さあ、どうかな」
「わたしにもちょっとは甘くしなさいっ。陽奈や飛鳥チンには甘いくせにっ」
「文月と話してると気が紛れるから」
ついていけない会話や退屈な話題もあれば、困る話や落ち込むネタもあるが、陽奈や文月のような女の子たちの会話を適当に聞いているのは、今の翼には充分いい気晴らしになる。男のままなら意識されてかなり居心地が悪かっただろうが、そういう意味で意識されることはない。逆に翼が意識してしまって面倒な面もあるが、いざとなれば口数少なくただ聞くだけという姿勢に逃げられるし、特に文月相手なら「気軽に付き合えるうるさい異性の友人」という感覚でいられた。
「むむ、それ、喜んでイーノ?」
「任せるよ」
翼はそっけなく言っているようでいて、表情は柔らかい。文月はしかめっ面で腕組みなどしたが、やはり彼女も笑っていた。陽奈だけが少し複雑な顔だった。
「二人とも、仲いいね」
先月前半、陽奈や飛鳥だけだった時は、翼はきつい口調やぞんざいな口調をあまりしなかったし、しても二人に向かうことはなかった。だが、翼は文月には容赦なくそんな視線を向ける。
文月も遠慮なく翼に接するから、単に時々うっとうしくなる、という理由もあるのだが、陽奈や飛鳥には決して向けない視線。昔は、元のツバサは、陽奈や飛鳥にも時には容赦なく冷たく振る舞っていたのだが。
「まーねっ。わたしが見張ってないと、つばさなにシデカスかわかんないしっ」
「暴走しそうなのは文月の方だと思うけど」
「む、冷たいつばさに言われたくないもんっ」
「……お互い様なんだね」
陽奈はやんわりと微笑む。文月は頬を膨らませた。
「陽奈〜、あんたはどっちの味方なのよぉ?」
「ん、どちらかというと、今は翼かな?」
「なんでそうなるのっ」
文月が笑いながら、陽奈の首を腕で抱き込むようにしてじゃれつく。陽奈も笑顔だから本気ではなく、翼から見るとこの二人の方がむしろ仲がいいねと言いたくなる。
もちろん、それは悪いことではない。明るく騒ぎながら廊下を移動し、三人、女子更衣室に辿り付いた。
この学校で一年と数ヶ月、男子生徒として過ごした記憶が翼にはある。だが、ここは翼にとって未知の領域だった。翼は覚悟はしていたが、昨日女子トイレに入った時以上に緊張しながら、陽奈の後に続いて更衣室に突撃した。
中を見るなり、一気にいくつもの感想が翼の頭に浮かんだ。
建物の構造上なんとなくわかっていたが、想像していたよりも広い更衣室だった。一部の男子がずるいと騒ぐ気持ちもよくわかる広さで、下手をすると教室の半分くらいの広さがある。しかも、もしかしたら男の幻想を打ち砕いてくれるかもしれないと思っていたが、思っていた以上に清潔な部屋だった。女子のみが集まる場所ならではの香りが漂っているのは予測の範囲内だとしても、清掃が行き届いているのか、男子バスケ部の部室などでは当たり前のキツイ汗の匂いも存在しない。
壁の二面にロッカーが並んでいて、中央にいくつかの長椅子が置かれている。体育の授業は男女別で二組合同だから、C組とD組の女子で一クラス分の人数になるが、半分ほどの生徒が着替え始めているところだった。
「グラウンドに集合だってさ」「あーあ、またマラソンかぁ」「男子はサッカーなのにねー」「いいなぁ」
そんな会話が交わされているが、翼の頭にはキチンと入ってこない。「文也がここにいればむちゃくちゃ喜びそうだな」などと思ったのは、翼の現実逃避かもしれない。
「何やってんの? さっさと入ってよー」
後ろから文月が翼の背を押す。翼は我に返ると、内心の動揺を態度に出さずに、まっすぐに動いた。
ロッカーは出席番号順で使うらしい。陽奈が一つのロッカーの前で振り返って、「翼のロッカー、ここだよ」と、柔らかく微笑む。
「うん、ありがとう」
D組の何人かが翼に視線を向けてくるのは、元のツバサの知り合いなのか、噂を知っているだけなのか。いきなり内緒話が始まる、といった露骨な反応はないが、ちょっとだけ賑やかさが緩んだ。
その中のまだ着替え前の一人が、あれ、と声をあげて近づいてきた。
「久我山さん、体育大丈夫なんだ?」
少し男っぽい物腰の彼女は、佐原美里という名前で、昨日挨拶をすませている女子バスケ部の部員だ。翼には、男しての彼女の記憶もしっかりと存在する女子生徒だ。
「一応ね」
「部活はまだなんでしょ? もういいの?」
「マラソンなら平気みたいだよ」
美里に、同じクラスの陽奈がそう言葉を返す。自分のロッカーの前に立った文月は、「身体はなんともないんだから、部活も出てくれればいいのにね〜」と少し大きな声で騒ぐ。美里はからからと笑った。
「うん、久我山さんレギュラーなんだから、さっさと復帰してくれないとね。ま、久我山さんがいないと、その分わたしにはチャンスがあるんだけどさ」
「だめだよ、サトっち。れぎゅらーはジツリョクで獲得しなきゃっ。翼が戻ってきても空きがないくらいにしとかないとっ」
翼が何も答えずとも、意図してはいないのだろうが、文月がかわりに美里の相手をしてくれる。翼は軽く微笑んで見せるだけで無言を維持し、ロッカーを開けてバッグを放った。
それから数秒目を閉じる。
見ても苦しむだけだとわかっている。わかっていたが、翼は誘惑に勝てなかった。
ゆっくりと改めて、室内を見渡す。
翼にとって、圧巻とも言える光景。
賑やかにおしゃべりをしながら着替えをするたくさんの女子生徒の下着姿が、翼の前に展開されていた。セーラー服の下が直接ブラジャーの子もいれば、Tシャツやスリップのような下着を着込んでいる子もいる。スカートを着たままズボンをはく子もいれば、スカートを脱ぎ捨てて堂々とショーツを隠さずにズボンをはく子もいる。大胆に上を下も脱いで、下着だけになってから体育服を着込む子もいた。この時期なのに脱ぐと日焼けの跡が目立つのは、屋外で運動をする部活に所属している子だろうか。サイズも、大きい子も小さい子もいれば、服の上からではわからなかったようなスタイルを、良くも悪くも晒している子もいる。
壁の反対側の、自分のロッカーの前に移動した陽奈も、同じクラスの子と言葉を交わしながら着替えを始めていた。赤い三角ネクタイをするりと抜きさり、前開き型のセーラー服のファスナーを開いて、スリップのような白い下着を晒す。陽奈によく似合う、大人しめの可愛らしい下着。落ち着いた動きでセーラー服を脱ぐと、陽奈は長い髪をちょっと気にする仕草をしてから、その下着もすぐに脱ぎ捨てた。
翼は自分の鼓動が暴れているのを自覚していたが、斜め後ろから見える陽奈の姿から目を離せなかった。
水玉模様のように小さな星がちりばめられた明るい色合いのブラジャーに、標準服のスカートと、靴下と下履きだけという、その姿。
他の女子生徒よりも色白な陽奈の肌は、翼の目には眩しく映る。長い黒髪との色合いがとても綺麗だった。
陽奈がその姿を晒した時間は短かった。素早く、白い半袖の夏の体育服をさっと着込む。少し一心地ついたように、陽奈は首筋に手を回し、シャツの背中に入ったままの長い髪をさらりと外に出した。
「…………」
思わず無意識に吐息をつく翼をよそに、陽奈は脱いだ服を丁寧にロッカーに仕舞うと、また隣の子と何か言葉を交わして、冬の長袖の体育服を身につける。そのまま陽奈がスカートを脱ぐことを期待する翼の視線の先で、陽奈はスカートのサイドのファスナーに手をかけた。
その動作とともに、陽奈の顔が動く。
陽奈の指先を追っていた翼は、陽奈の視線の方向に、数秒気付かない。
ぴたり動きを止める陽奈の手。それを焦らしのように感じたのは、翼が冷静さを欠いていたせいだろうか。
長いような短い数秒間。
最初は翼に軽く微笑んで動作を再開させようとした陽奈だったが、翼のその視線に何かに気付いたかのように、スカートから手を離した。
翼はその動きで陽奈の視線に気付き、はっとして陽奈の瞳を直視する。
二人の視線が絡み合ったのは一瞬。
翼は慌てる余裕も持っていなかった。
先に目をそらせたのは陽奈だ。陽奈は身体ごと翼に背を向けると、数秒動きを止めてしまう。
今の翼に、そんな陽奈の内心を気にする冷静さはない。
暴れる鼓動を抑えながら自分も視線をはずした翼は、苦しげに数秒目を閉ざした。
わかってはいたが、見なければよかったという強い後悔が、翼の中に存在した。
きれいだとか可愛いだとか、鑑賞するだけですむなら問題はなかった。欲望を抑えるだけだとしても、容易いとは言わないが、よほどの状況ではない限り翼にとって難しいことでもない。
なのに苦しいのは、自分の今の立場を思い知らされるから。
気になる女の子の半裸を見て、喜んで、興奮して、だからどうしようというのか。周囲には無防備な女子の群れ。今の翼はそれを堂々と眺めても、咎められない立場にある。なのに翼は何もできず、それどころか、記憶に焼き付けても後でどうこうすることすらできない。今翼がこの場でいきなり誰かを押し倒して、仮になんの抵抗も妨害もなかったとしても、翼は最後まですることができない。男の欲望を果たすことができない。そのための物理的器官が、今の翼には存在しない。心の中に強い欲望が存在するのに、発散のしようがない。
「もしかしてED、俗に言う勃起障害やインポテンツで、物理的にできない人はこういう心境になるのかな」と、考えない方が幸せなような生々しいことまで考えてしまうと、もう心理的にボロボロだった。
今の自分は元の身体ではないという現実。男ではないという現実。女だという現実。容赦のない現実。
翼は目を閉じたまま、感情を抑え込んだ。
とっくにわかっていたことだ。今の翼の身体は女で、男ではない。このくらいで動揺していたら、この先やっていけない。
……だが、わかっていても落ち込むのを止められない。いつか、男の欲望がなくなる日がくるのだろうか。女の身体を心から受け入れて、男の身体を諦められる日がくるのだろうか。
「久我山さん、大丈夫……?」
不意に、隣の女子、楠木由香の小さな声。翼は少しびくっとしたが、感情を表に出さずに、ゆっくりと目を開いた。冷静さを意識しながら、何気ない声を出す。
「何が?」
「着替え、止ってるし、なんだか顔色悪いから……」
「問題ないよ。ありがとう」
抑えきっているつもりだが、気持ちが顔にまで出ている、ということなのか。上着を脱ぎ捨てていた小さな由香の身体にちょっとドキッとしつつ、翼は軽い微笑を作って見せてから、ロッカーに向き直った。
気付きたくなかった視線に気付いたのはその途中だった。少し離れた位置から、腕組みをしてしかめっつらで翼を睨む、文月の視線。文月は上はしっかりと体育服を着込んでいたが、下はスカートを脱いでいて、健康的な太ももを露出させていた。下着は上着に隠れて、際どい位置で見えない。
いったいいつから文月は、翼を見ていたのか。陽奈の着替えの一部始終をまじまじと見つめていた翼を、どういう目で見ていたのか。
もう感情がオーバーヒート気味な翼は、文月の視線に気付かないふりをしたが、無駄な足掻きだった。文月は翼が自分を認識したことをしっかりと把握しているようで、無造作に歩みよってきた。
「……何じろじろ見てたの?」
「別に何も」
「うそっ!」と断言はしなかったが、文月の瞳は剣呑な光をたたえていた。文月は翼の耳に、身をかがめるようにして顔を寄せて、小声で言う。
「今、陽奈を変な目で見てなかった? まさかとは思うけど、レズっけあるんじゃないでしょうね?」
文月が鋭いのか、それとも翼の視線がそれほど露骨だったのか。
一瞬、言葉の意味を把握できなかった翼だが、意味を理解したとたん、強い嫌悪感と嘔吐感に襲われた。
男の欲望を果たすどころか、女の同性愛を疑われるこの状況。
翼は唇を歪めて、例の微笑を浮かべた。
「元のわたしに、そんな趣味があったんだ?」
「そんなわけないでしょ」
人目を気にしているのか、らしくなく抑えた静かな文月の声。だがその分、余計に文月の感情の深さを思わせるその声。
「翼の身体で変なことしたら許さないからね」
「……わかってるよ」
したくてもできないしな、という辛い認識を、翼は口には出さない。男の快感を感じることができないこの身体。かといって女の感覚は嫌悪感を伴う上に、吐き気混じりの物理的苦痛をもたらす。どちらにも転ぶことができず、男の欲望の行き場がない。今の翼にはどうしようもない。
「文月? そんな格好でどうしたの?」
着替え終えた陽奈が近づいてきた。文月は陽奈をちらっと見て、翼を一睨みして、「なんでもないよっ」と態度と裏腹のことを言って、ぷいっと二人の元を離れる。陽奈は静かに翼を見た。
「文月と何話してたの?」
いつのまにか陽奈は、首のあたりで髪を二房にわけて、赤い輪ゴムでとめていた。体育服姿のせいもあってか、少し活発な印象で、いつもの陽奈と違って見える。先ほどの半裸を思い出してしまうこともあって、翼はここでもドキッとさせられたが、もう感情が飽和状態で態度が荒くなることはなかった。重苦しさを押し殺して、淡々と言葉を返す。
「たいしたことじゃないよ」
「……そう?」
陽奈は首を傾げて、隣の楠木由香に視線を向けるが、翼たちを気にしつつ着替えていた由香は、慌てたように首を横に振ることしかできない。陽奈はそれ以上追求せず、「着替え、全然進んでないんだね」と、翼にやんわりと微笑みを向けた。
「あ、そうだ。わたし、脱がせてあげようか?」
「いらないよ」
どこまで冗談なのかわからない陽奈の言葉を聞き流すと、翼は気持ちを強引に抑え込んで、ロッカーのバッグを漁った。バッグから体育服と靴下を取り出すと、三角ネクタイをはずし、オープンファスナーを開いて、セーラー服を脱ぎ捨てる。
「……ね、翼くん」
陽奈はそんな翼を見つめていたが、不意に、学校なのに翼をくん付けにした。
「……さっき、わたしのこと、見てた?」
「…………」
翼の動揺が、動作に影響を及ぼしたのはほんの一瞬。セーラー服の下に無地の半袖Tシャツを着ていた翼は、そのまま冬の体育服をかぶった。
「うん、なんとなくね」
服を着てから、さらりと翼は事実を告げる。陽奈は横から、じっと翼を見て視線をはずさない。
「……もしかしてだけど」
「…………」
陽奈ちゃんまでレズとか言い出すんじゃないだろうな、と少し警戒しつつ、翼は目で陽奈の言葉を促し、上履きを脱ぐ。
「まだ、自分のこと……」
陽奈は少し躊躇ったように、身を寄せてきた。小さな声。
「男だと、やっぱり思ってるの……?」
「…………」
陽奈の着替えの一部始終を観察したこの状況で、肯定すればどういう結果になるのか。文月の非難はまだわかりやすかったが、陽奈が何を考えてその言葉を発したのか、翼には相手の心が読めない。
翼は、嘘はつかなかった。
「身体は女だね」
次の瞬間の陽奈に浮かんだ表情は、混濁していた。不満のような、困惑のような、怒っているような、哀しんでいるような、翼には判断できない色。結局何か言いかけたようだが、陽奈は口を開かなかった。翼がタイツを脱ぎ捨てる様子を、黙って見つめ続ける。
こうまじまじと見られては翼も落ち着かないのだが、自分もさっきやったことだから非難はできない。陽奈の心理がよくわからないままに、無言で着替えを進めて、スカートは脱がずにズボンをはく。男だった時とは違う形で着替えをしていることまでも意識させられて、翼の感情も複雑に、不安定に揺れていた。
ざわめきが残る更衣室の中、微妙に気まずい空気を破ってくれたのは、準備を終えて戻ってきた文月だった。
「つばさ、なにちんたらやってるの! 時間なくなるよっ」
怒ったような態度だが、さっきのような深刻な色はない。陽奈はすぐに、いつもの口調で文月に言葉を投げる。
「文月、急かしちゃダメだよ」
「でもほんとに時間なくなっちゃうもん。さっさと外にいくよっ」
「そんなに早くマラソンしたいの?」
陽奈がくすくす笑う。そんな二人に、翼は「女の態度はすぐ変わるんだな」と頭の隅で偏見を抱いたが、口には出さない。無意識に翼も肩の力を抜き、スカートのサイドホックをはずし、片手を押さえたまま、もう一方の手でファスナーを下げた。
横で着替え終えた楠木由香が、翼たちの様子にほっとしたように笑って、「先に行ってるね……」と他の面々と合流して離れていく。文月は「あ、うん!」と言葉を投げ返して、「ほら、マラソンはしたくないけど、急ぐったら急ぐの!」と翼と陽奈を怒る。スカートを足から抜いた翼は、ウエスト部分を改めて整えてから、スカートをバッグの上に放り投げて、かわって靴下を取り上げた。
「まだ靴下はいてないよ」
「もうっ! ほんとになにちんたらしてんのよっ」
「翼、脱いだらちゃんと仕舞わないとダメだよ」
無駄に急かす文月と、笑顔の陽奈が対照的だった。翼は「だからまだ着替えが終わってないんだって」とは言い返さずに、素足に上履きを引っ掛けて少し移動した。じょじょに人が少なくなっている更衣室で、長椅子に座って靴下を広げる。
陽奈は翼のロッカーを簡単に整理しに動く。文月はしばらくじーっと翼を見おろしていたが、ゆっくりと翼の横に腰掛けた。
「陽奈と何話してたの?」
顔を正面に向けたまま、密やかな文月の声。翼は数秒その言葉の意味が理解できなかったが、すぐに言葉どおりに解釈して、思わず少し笑ってしまった。気が抜けたような笑顔になった。
「気になるなら聞いてればいいのに」
「わたしだって着替えあるもん」
陽奈が振り返った。
「文月、また内緒話なの?」
笑顔だが、あまり目が笑っていない。文月は「まーねっ」と胸を張る。
「陽奈だって、さっきこそこそ話してたじゃんっ」
「ん、ちょっと、ね」
「むむ」
文月が唇を尖らせる。
そんな二人に、翼は頬を緩ませていた。感情がいっぱいいっぱいのせいもあって、笑うしかないという心境だった。
陽奈と文月の先ほどの言葉は、二人ともお互いを気にしたのではなく、第三者を気にしていたのだということが、翼にはわかっている。だが相手の発言を耳にしていない二人には、それがわからないらしい。内容はどちらも似たような物だっただけに、翼にはなんだか可笑しな二人だった。
「ナンデ笑ってるのヨォ?」
理不尽なことに、文月の矛先が翼に向く。
「なんでもないよ。二人って実は似てるのかなって思っただけ」
「え、わたし、陽奈みたくマジメじゃないよっ」
「……文月と似てる……」
驚いたような文月と、どこか遠い目をする陽奈の視線が、バッチリと交差した。文月はむっと陽奈を睨んだ。
「陽奈、その目はなぁに?」
「ん」
陽奈は二度瞬きをして、文月から露骨に視線をそらせた。
「あ、翼、もう準備OKだね。行こうか」
「ひーなー」
立ち上がり、怖い笑顔で陽奈を睨む文月。陽奈は、彼女も笑って小さく舌を出すと、バタンと翼のロッカーを閉めた。そんな陽奈の首に、文月はあーだこーだ言いながら腕を回す。
翼から見ると、やはり仲がいいねと言いたくなる二人だ。
だが、二人がこんなふうにじゃれあってくれていると、翼としても気が紛れて楽になる。翼は自分が待たせていたことを棚に上げて、武蔵や文也によくそうしたように、黙って先に歩き出した。
「あ、こら、つばさ待ちなさい!」
文月はすぐに追いかけてくる。陽奈もワンテンポ遅れて、笑顔で文月に続いた。
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初稿 2004/10/28
更新 2008/02/29