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 ガールフレンド

  Taika Yamani. 

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  エピローグ



 月曜日の夕方以来、一昨日も昨日も、高槻初瀬はガールフレンドの春日井エリナと会っていない。
 毎日会っているもう一人のガールフレンドの佐藤美朝は、毎回エリナを誘っているようなのだが、エリナはまだ今の初瀬と直接会うことに抵抗があるらしい。もしかしたらエリナは、美朝と三人で会うことにもまだ逡巡があるのかもしれない。
 だから初瀬は、女の身体になって初めて学校に行くこの朝、バス停で美朝と合流する前に、エリナを捕まえた。正確には、昨日メールで約束しておいたから、エリナがしっかりと待ってくれていた。
 初瀬は昨日のうちから、エリナとの対面のことをあれこれと考えていた。月曜日は強引に押し通したが、ちゃんとした話はろくにできていない。もう気持ちは伝え合っているから、特別話し合うべきことはないと言えばないのかもしれないが、エリナに隔意のある態度を取られるのはイヤだ。
 だから、この日のエリナの態度を見て、初瀬の取った行動は大胆だった。本人に自覚はなかったが、恋人同士になってから初めて会う緊張とおもはゆさが、初瀬にもあった。
 もう夏の気配が色濃く漂う朝の日差しの下、途中よその家の垣根に咲く紫陽花を横目に歩いてすぐ。バス停への道のりの住宅街のT字路、星型の葉っぱが緑にきらめく楓の樹がある、初瀬の家とエリナの家との合流地点。
 青葉がきれいな楓の木陰で、エリナは制服姿で、初瀬と違いベスト抜きの格好で、両手でスクールバッグを持って佇んでいた。
 エリナを視界に捉えたとたん、初瀬は胸を高鳴らせた。バックパックのショルダーベルトを片手で握りしめて、無意識に早足になる。二つ結びの長い髪と膝上丈のスカートを揺らして、最後は駆け足になって、初瀬は明るく声をかけた。
 「おーっす、すまん結構ギリギリになっちまった、待たせたな」
 以前の男の声ではない、今の初瀬の声。言葉遣いは雑だが、容姿に見合う、玲瓏に高く澄んだ女の子の声。
 初瀬の接近に気付いて身体を強張らせていたエリナは、まだ聞き慣れない「初瀬」の声に反応して、ぎこちなく顔を上げた。そして、自分と同じ女子の制服を着ている「初瀬」を見て、ほぼ同じ高さにある「初瀬」の瞳を見て、すぐに目をそらした。
 「……おはよう」
 「おまえは、またそんな態度なのか?」
 初瀬は一瞬胸が痛くなったが、すぐに前向きな衝動に変えて、身体がぶつかりそうなくらいに距離をつめた。
 「まだ見慣れない少女」の急接近に、エリナは思わず怯んだようだが、初瀬は構わずに動く。エリナの頬に片手をあてて、もう一方の手で彼女の腰をぐいっと抱き寄せた。
 「きゃっ」
 「ほら、おれはおれだぞ」
 女になった初瀬をエリナはまだ受け入れ切れていないと、初瀬はそうわかっているから強気だった。小さい声を上げて反射的に身をすくめたエリナに、初瀬は素早く顔を寄せて、そっと優しい口づけをした。
 今は身長が同じくらいだから、前よりも楽に唇を奪いやすい。
 初瀬の瑞々しい唇が、甘く温かく、エリナの唇に密着する。
 T字路の向こう側を歩いていたスーツ姿の男性が、女子高校生同士の突然のそれにギョッとしたように一瞬足を止めたが、初瀬の眼中にはない。今の初瀬には人目なんかよりもずっと大事なことがある。初瀬はただひたむきに、目の前の大好きな女の子だけに集中する。
 朝から過激な行動だという自覚はあるが、このくらいしなければエリナには通じない。
 そう思うから、初瀬の動きに迷いはなかった。
 今エリナの前にいるのは見知らぬ女なんかじゃなく初瀬なのだと、初瀬は言葉と態度と行動で、エリナに強制的に押し付ける。
 優しく触れ合ったのは最初の数秒間。
 初瀬はエリナのなめらかな頬を撫でて、セミショートヘアの彼女のうなじに手を運んで斜めに引き寄せるようにしながら、唇で彼女の唇を愛撫し、そのまま舌をさし入れた。
 「んッ……」
 初瀬のもう一方の手がエリナの腰を強く抱きしめて、二人の胸部も弾力的に柔らかく触れ合う。間に挟まれた制服と下着とその内側のふくよかな感触が、お互いのふくらみを敏感に繊細に刺激する。
 今だけは自分の肉体のやるせなさを忘れて、初瀬もだんだんと頬を上気させて、彼女の香りを胸いっぱいに吸い込んで、全身で彼女のぬくもりを感じて、心からの気持ちを込めて濃厚なキスをする。
 と、エリナの硬直が解けた。
 微かに喉を鳴らしたエリナは、はっと我にかえって初瀬の身体を押しやった。
 「ぁ、朝から、いきなり!」
 二人の唇と唇に繋がる透明な糸が、長く伸びてぷつんと途切れる。
 「こんなとこでなにするの!」
 初瀬は一瞬よろけて半歩下がったが、軽く身体を支えきった。
 頬を紅潮させて手の甲で口を押さえるエリナがやたらと可愛く見えて、初瀬はドキドキしながら、舌でちろりと自分の濡れた唇を舐めた。暗に時と場所を選べばいいと言っているようなエリナに、初瀬も頬を桃色に染めて、わざとニヤニヤと、傍目には艶やかに見える表情で、楽しげに笑う。
 「この間はおまえからしてきたじゃん。メールでも散々嬉しいこと書いてきたくせに、いまさら照れるなよ」
 「そ、そういう問題じゃないでしょ! だいたい、恥ずかしいメールしてきたのは初瀬の方じゃない!」
 「別におれは恥ずかしくなんかないぞ?」
 初瀬の突拍子もない先制攻撃についていけないのか、エリナは初瀬の思惑通り感情的に対応してくる。隔意のある態度を取られるくらいなら、こんなふうに感情をぶつけてもらった方がいい。初瀬はエリナをまっすぐに見つめて、きれいな声で堂々と笑った。
 「全部本音だからな。おまえも、もう離さないでって言ってくれたじゃん」
 とっさに言葉が出ないのか、エリナは顔を真っ赤にして初瀬を睨む。
 初瀬は笑顔で再び右手を伸ばして、そっとエリナの髪と耳に触れた。
 「おれはおれだぞ。いつまでだって追いかけてやるけど、おまえも逃げるなよ」
 「っ……」
 エリナは手を振り払おうとしたようだが、その言葉で動きを止めた。睨むような目のまま、どこか泣きそうな瞳で、「今の初瀬」を直視する。
 初瀬はエリナの横髪を小さく払い、左の耳たぶを優しくつまむように撫でながら、わざとからかうように下からその目を覗き込んだ。
 「なんだよ、また泣くのか? いつもは大人ぶってるくせに、まだ泣き虫のままなのか?」
 「っ、全部っ、全部初瀬のせいじゃない!」
 エリナの手が大きく動く。泣きそうな瞳のまま、初瀬に触れられたまま、エリナは初瀬の左頬に右手を伸ばした。
 「初瀬が勝手に病気になんかなったのが悪いんじゃない! 全部初瀬のせいよ!」
 初瀬の柔らかい頬を、エリナの手がむにゅっとつまむ。
 「なのにすぐ手を出してくるし、わたしの心の準備を台無しにして、もうぐちゃぐちゃよ!」
 痛いといえば痛いが、まだ許容範囲だ。久しぶりのエリナのつまみ攻撃に、初瀬は明るく笑って、お返しとばかり、エリナの耳を軽く引っ張った。
 「おれから近づいてこいって、おまえが言ったんじゃないか。だいたい、おまえが変な態度とるから悪いんだぞ」
 「だからって、もっと違うやり方があるでしょ!」
 「このくらいしないとわかってくれなそうだからな。好きな女にはもうやりたいようにやるって決めたんだ」
 「な、なに勝手なこと言ってるの!」
 「はは、マジで好きだぜ、エリナ」
 「っ〜〜!」
 初瀬がきれいにまっすぐに笑うと、エリナは耐え切れなくなったのか、初瀬の頬をつまむ手にぎゅむっと力を入れた。
 「痛い痛い、ギブギブ」
 ちょっと本気で痛くて、初瀬は顔を引きつらせる。
 「こんなに変わったのに、本人が全然気にしてないし……! わたしだけ気にしてバカみたいじゃない……!」
 「ああ、おまえはバカだな」
 エリナの手が緩んで、初瀬は笑いながら距離をつめた。エリナは赤い顔のまま手を離して、目の前の同じくらいの背丈の「初瀬」の瞳を睨むように見つめる。
 「バカなのは初瀬じゃない」
 「いやバカなのはおまえだけだから」
 「初瀬だけバカなの!」
 笑ってエリナの頬を撫でる初瀬と、怒ったようなエリナ。初瀬が身体を寄せて、二人の顔がさらに近づく。
 「自分で言ったくせに」
 「バカみたいって言っただけです!」
 「はは、そうだな」
 いつのまにかエリナの手は、そっと初瀬の腕に添えるだけになっている。
 初瀬は楽しげに彼女の前髪をいじると、少し爪先立ちになって背伸びをした。
 「おまえが好きでいてくれるなら、おれはバカでもいいや」
 小さく息を呑んだエリナの息遣いが、初瀬の胸元で震える。
 甘やかな声を紡いだ初瀬の唇が、しっとりと柔らかく、エリナのおでこを刺激する。
 エリナの額に、初瀬のキス。
 初瀬が唇を離してかかとを下ろすと、エリナは頬を紅潮させて、真正面からまだ初瀬を睨んでいた。
 「ほら、いい加減機嫌直せよ」
 初瀬も頬を火照らせて、ちょっと照れくさく笑って、自分の腕に置かれたままのエリナの手をつかんだ。
 「そろそろ行くぜ。バスに遅れちまう」
 「……全部、初瀬のせいでしょ」
 「ああ、全部おれのせいだからな。だから責任は取るよ」
 「っ、すぐ、そういうこと言う!」
 エリナは耳まで赤くして叫ぶ。初瀬も頬を上気させたまま、高いきれいな声で恋人の名前を呼んで、元気よくその手を引っ張った。
 「ほら、エリナっ、行くぞっ」
 駆け出した初瀬に手を引かれて、つられたようにエリナも足を動かす。
 走りながら、エリナは数瞬泣きそうな顔をして、くしゅっと笑った。エリナの手を引いて走る、目の前の長い髪の女の子の初瀬を見て、エリナは明るく泣き出すように笑った。
 「もうっ、全然悩ませてもくれないのね!」
 「ハハッ、一緒にいれば悩むことなんてないだろ」
 「まだわたし、あなたが初瀬だなんて思えないわ」
 「おい、まだ言うか」
 初瀬は足を緩めた。華奢な柔らかい手を繋ぎ合ったまま、自然に徒歩になってエリナを見る。
 「だってそうだもの。なんでこんなに可愛くなっちゃってるの。髪もこんなに長いし、女子の制服だし、スカートなんか穿いちゃってるし」
 「似合うだろ?」
 「最低よっ。どうしてそんな平気なの? おれは男だって、そういう態度しててよ」
 まっすぐな感情的な顔で、エリナは初瀬を見る。
 初瀬も真面目に、だが態度は軽く彼女に応じた。胸の奥ではどれほど気にしていたとしても、初瀬はそれを今のエリナの前では見せない。
 「そんなの逆に女々しくてカッコわりーじゃん。もうなに言っても愚痴にしかなんねーし、男でも女でもおれはおれだって、堂々としてる方が男らしいだろ」
 「それはっ、そう、だけど……!」
 初瀬と手を繋いだまま、怒っているように不満げに苛立たしげに、エリナは微かに唇を尖らせる。少し子供っぽい無防備なエリナのしぐさで、初瀬は思わずどきんと胸を高鳴らせた。
 「せめて服くらいは、男物でいいんじゃないの? 初瀬が女装なんて気持ち悪いわ」
 「はは、ひでーな」
 「だってそうじゃない。そういう趣味があったの?」
 「さすがに男のまま女装する趣味はねーよ。男の時そんな格好したって似合わないしただの変態なだけだからな」
 「今だっておんなじじゃない。身体が女になってるだけなんでしょ? 初瀬なら女装なんてしないでよ」
 「似合ってないか?」
 「っ、似合ってるから余計にヤなの! 初瀬だって思えなくなる」
 「男物着たって、エリナのご希望にはそえないと思うぞ?」
 服装を性格に合わせるのか、身体に合わせるのか。「男性の女装」であれば、服装の問題はもっと主題になるのかもしれないが、今の初瀬は身体のすべてが女性だ。どんなに服装を選んでも、もう男性そのものにはなれない。初瀬は今の身体で男物をカッコよく着こなす自信はあるが、どうがんばっても「女性の男装」の域を出ないことをもう自覚していた。
 「それでも! まだましよ」
 「そうだな、おまえがそう言うなら、控えるよ」
 高い声で明るく笑いながらも、初瀬は真面目に頷く。
 「あ、悪いけど、制服は勘弁な。サイズが合わんから買い直さなきゃいけないし、悪目立ちしそうだからな」
 「なんでそんな平気な態度なの。ほんと信じらんない」
 ぶすっと、不機嫌そうな顔で、エリナは言う。
 数日前なら、同じ台詞を言うにしても、泣きながらだったかもしれない。だが今は、少しは以前の調子を取り戻したかのようなエリナの態度。まだ内心は複雑なのだろうが、初瀬に面と向かって言いたいことを言ってくれている。
 初瀬は現実を思い知らされて苦しくもなるが、それでもそんなエリナが嬉しくて、素直に笑った。
 「世の中開き直って楽しんだもん勝ちだからな。ムキになって無駄に反発したり、鬱になってうじうじ悩んだりするより、何倍もましだろ?」
 「っ、開き直りすぎよっ」
 「そのくらいでないとやってられないからな。ほっといたらおまえ近づいてきてくれないし」
 繋いだままのエリナの手の甲を撫でるように、初瀬は優しく指を動かす。エリナはピクンと身体を揺らしたが、拒絶はしない。逆に、きゅっと初瀬の手を握り返してきた。
 「――少しは、支えたり、してあげたいのに。わたしばっかり、迷惑かけて」
 どこか切なげな、だが気持ちに溢れたエリナの言葉。
 初瀬ははっとエリナを見て、強張ったエリナの表情を見て、一瞬泣き笑いのような笑顔になった。
 「アホ。迷惑なわけないだろ。いつも支えられっぱなしだよ。いなくなったら暴れてやるぞ」
 もしもエリナが受け入れてくれなかったらどうだったかなんて、自分が一人だったらどうだったかなんて、初瀬は考えたくもない。
 「だからもっと笑えよ。この間からぶきっちょ面ばっかだぞ」
 「……悪かったわね。どうせわたしはみあみたいに可愛くないから」
 「またなに言ってるんだよ、おまえ可愛いよ」
 「っ、どこがよ! わたしみあみたいに素直じゃないし、意地っ張りだし、きついことばっかり言っちゃうし!」
 「そんなとこも可愛いじゃん。それっておれに甘えてくれてるんだろ?」
 「っ」
 「もっともっと甘えろよ。もう恋人同士なんだしさ。おれはおまえがいないと絶対イヤだからな」
 少し冗談めかしているが、初瀬の率直な心からの本音。
 エリナは何か言いかけて、言葉をつまらせた。目のふちをほんのりと赤くしたまま、少しそっぽを向く。
 「……バカ」
 「ああ、おれはおまえと同じくらいバカなんだ」
 楽しげに笑う初瀬の言葉を、エリナはもう否定しない。ちらりと「今の初瀬」を見る。
 「……初瀬」
 「おう?」
 「…………」
 「…………」
 わたしも――、という言葉を飲み込んで、エリナはまたそっぽを向いた。
 「……なんでもない」
 「こらこら、なんでもないって態度じゃないぞ」
 「なんでもないってば」
 「なんだよ? もったいつけるなよ。言いたいことあるなら言えよ」
 「なんでもありませんー!」
 エリナが何を言いたかったのか、初瀬にはよくわからない。だがそんな彼女がまた可愛くて嬉しくて、初瀬は明るく笑った。
 エリナは、怒っているような照れているような赤い顔のまま、初瀬から手を離す。初瀬は反射的にその手を追ったが、エリナは身体ごと逃げた。
 「もう着くから」
 「あー」
 すぐ突き当たりの大きめの通りに出れば、バス停が見える。もう美朝が待っているはずだった。
 「気にせんでいいのに。右手にエリナ、左手にみあで、両手に花ってことで」
 「……最低」
 「おう、もうこの件では最低男街道を突っ走ることにしたからな」
 「ほんとに最低よ。わたしもみあも、どうしてこんなやつが好きなのかしら」
 ぽろりと気持ちを言葉にするエリナに、初瀬は破顔して調子に乗った。
 「それはあれだな、おまえらを幸せにできるのはおれだけだからだな、うん。おまえらはそれを本能で察知したに違いない」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「――こら、なんか言えよ」
 半分本音の願望だが、冗談めかしているのだから、沈黙を返されると空気が痛い。白い目こそ向けられていないものの、初瀬の方が気恥ずかしくなってしまう。
 「なんかって、なによ」
 「そのくらい自分で考えろ」
 「……初瀬もそうだったらいいのに、とか?」
 「…………」
 「…………」
 「……ぇ?」
 ――初瀬もそうだったらいいのに。
 その言葉の意味を理解したとたん、初瀬は身体がカッと熱を帯びた。
 「おれもっ! そうに決まってるだろ。おまえら以外ありえないんだからなっ」
 頬を桃色に染めて、高く澄んだまっすぐな声で、初瀬は衝動的に本気で言う。
 これが以前の男のままの初瀬なら、エリナはそんな初瀬の姿に素直に笑ったかもしれない。エリナも顔を赤らめたり、逆に照れ隠しに初瀬をからかうような態度を取ったかもしれない。
 だが今のエリナは、きれいな可愛い表情を見せる「今の初瀬」に、切なげに笑っただけだった。ずっと好きだった男の子を信じて、積極的に気持ちを伝えてくれる目の前の彼を信じて、今もずっと大好きな初瀬を信じて、エリナはがんばって笑顔を作る。道を曲がって数十メートル先のバス停に親友の姿を捉えながら、エリナは心の中で呟く。
 『うん。わたしも、初瀬じゃなきゃ、絶対イヤだから』
 「――――」
 そんなエリナの微笑みに、初瀬はすべてを忘れて数秒見惚れた。まだ素直な笑みとは言いがたいが、それでも初瀬にはとてもきれいに見える、エリナの横顔。
 「初瀬、急ぎましょ。みあが待ってるわ」
 「お、おう。って、笑ってスルーかよっ」
 「初瀬のタワゴトにいちいち付き合ってられないもの」
 本音を口に出さず、エリナは明るい澄ました笑みで、恋人に応じる。
 初瀬は見慣れているはずなのに、その笑顔にまた心を震わせた。初瀬が男だった時と同じような、エリナの態度。初瀬は感極まってきて嬉しくなって調子に乗って言葉を紡ぐ。
 「つまらんぞー、おれはおまえのタワゴトにならいくらでも付き合ってやるのに」
 「わたしは初瀬と違ってそんなタワゴトなんて言いませんから」
 「嘘つけ、意地張って心にもないこと言ったりしてるじゃんか」
 「それはあなたのせいでしょ」
 「おれのせいかよ」
 否定はしないエリナに、初瀬は鼓動を跳ねさせつつ笑う。
 さらに言葉を付け足そうとしたところで、もう一人の恋人の声がふってきた。
 「初瀬くん! エリナちゃん、おはよう!」
 待ちきれなくなったのか、バス停から駆けてきた佐藤美朝の声。
 今日の美朝はセミロングの髪を薄桃色のヘアピンでとめて、スクールバッグとミニトートを持って、初瀬たちと同じ制服姿で、初瀬同様スカートと揃いのベストを着ていた。
 そんな美朝の笑顔を見たとたん、初瀬は今日も美朝がやたらと可愛く見えて、変に意識してしまって、また胸が高鳴った。
 「はよーっす、待たせたな」
 初瀬は表面上はいつも通りに振る舞い、エリナも美朝に「おはよう」と挨拶を返す。
 『――最近のおれは、なんかおかしい。みあとエリナを見るだけで、なんか胸がどきどきなる……』
 暴れる鼓動を紛らわすように、初瀬はスカートのポケットから携帯を取り出して現在時刻を確認した。余裕は少ししかなく、もうすぐバスが来る時間だった。バス停には短い列ができている。
 「初瀬くん、制服もやっぱりとっても似合うねっ。すごく可愛い」
 初瀬とエリナが事前に待ち合わせたことを知っている美朝は、少し二人の会話に割り込むように、初瀬に明るい笑顔を向けた。
 「おう、まあな、おまえらほどじゃないけどな」
 「ぁ……ぅ」
 初瀬は歩みの速度を落として軽く笑って言い返し、美朝は初瀬の横に並びながら、少し焦ったように照れる。
 と、いきなりいい雰囲気を作りかける初瀬と美朝に、反対側でエリナが眉をひそめた。
 「みあ、どうして平気なの? 初瀬の女装なんて気持ち悪いだけなのに」
 「え、今の初瀬くんには、すごく似合ってるよね?」
 「似合ってるから、余計にヤなのよ」
 エリナは初瀬に言ったのと同じ言葉を美朝にも言う。
 「女、になったのは、もう、しかたない、けど、けどだからって女の格好することないじゃない」
 「おまえは頭が固いなぁ。自分から選択肢を減らしてどうするんだよ。利用できるのはなんでも利用するのが賢い人間ってもんだろ」
 「え? 賢い人間? だれが?」
 「――こらみあ、どういう意味だ?」
 初瀬が肘打ちの真似をすると、美朝は明るく笑って避けて、両手を背中にまわした。軽く上体をかがめて、初瀬を横から覗き込むようにする。
 「でも、スカート短いよね。ちょっと見せすぎだと思う」
 少し不満混じりの美朝の声に、初瀬は急に羞恥心とやるせなさを刺激されて、それをごまかすように無意識に自分の首の肌をつまむように撫でた。
 「このくらい普通だろ。おまえが真面目すぎなんだよ」
 初瀬のスカートの丈はエリナと同じくらいだが、美朝のスカートは膝が見え隠れする長さだ。これはこれでよく似合っているから初瀬は文句はないが、たまにはもっと短いスカートの二人も見てみたいと常々思う。
 「みあ、スカートが短いとかそういう問題じゃないでしょ? コレは初瀬なのよ? 初瀬がコレなのよ? もっと他に言うことあるでしょ?」
 「ん、女子になっても、初瀬くんは初瀬くんだし。せっかく美人さんになったんだから、似合う服着た方が絶対いいよ」
 「…………」
 初瀬と美朝のスタンスは、エリナにとって受け入れがたいものがあるらしい。エリナは苛立たしそうに、勝気な瞳で初瀬を睨む。
 「なぜおれを睨む」
 初瀬が笑うと、エリナはぷいとそっぽをむく。
 そんな二人をどう解釈したのか、美朝も小さく笑った。
 「うん、すっかりもういつもの初瀬くんとエリナちゃんだね」
 「そーか? こいつまだ拘ってるんだぜ」
 「当たり前でしょ。そう簡単に納得できるわけないじゃない」
 「エリナは重く考えすぎなんだよ。もっと柔軟にお気楽にいかんと」
 「そんなのただ能天気なだけでしょ。簡単に受け入れてるみあの方が変なのよ」
 「え、そんなことないよ。わたし普通だよ?」
 「そんなことあるわよ。みあは絶対普通じゃないわ」
 冗談めかすでもなく、エリナは真顔で言う。美朝はちょっと納得できないという顔で、「そんなことないよね?」と初瀬を見た。
 初瀬はきれいな声で軽く笑って、さらりと二人に応じる。
 「いいじゃん、別に、普通じゃなくったって。二人に同時に惚れるおれも、あんま人のこと言えないしな」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「……そうね、初瀬が一番変よね」
 「うん、初瀬くんが一番変だよね」
 数秒の沈黙の後、エリナは真顔で頷き、美朝はなぜかくすくす笑いだした。
 そんな二人の女心は、初瀬にはよくわからない。
 だが初瀬もなんだか笑いがこみ上げてきて、左右の恋人の背中に両腕をまわした。
 「おまえらもじゅーぶん、同じくらい変だけどなっ」
 「あは、じゃあ、わたしとエリナちゃんが二番だね」
 エリナはぴくんと身体を揺らし、美朝は笑顔で初瀬に身体を寄せる。
 「なんでわたしまで二番なのよ。二番はみあだけでしょ」
 反射的に言い返すエリナに、初瀬は明るい笑い声をたてた。
 「じゃ、エリナが一番変ってことで」
 「な、どうしてそうなるの!」
 「あ、ほら二人とも、バスきたよ」
 「おう、行こうぜ」
 美朝が自然に初瀬の腕をとって、引っ張るように先導する。初瀬もバスの接近を認めて、エリナの背中を押して足を速めた。
 「なによもうっ、訂正しなさい! 一番変なのは初瀬に決まってるでしょ!」
 「いいじゃん、そんなこまいことに拘るなよ。一番も二番も変わらないって」
 「うんうん、一番も二番もおんなじだよね」
 「だからわたしは二番でもないってば!」
 「つーか、バスも久しぶりだなぁ」
 「あ、二ヶ月ぶり? ずっと乗ってなかったの?」
 「病院はいつも車だったからな」
 「っ〜〜!」
 笑って話を変える初瀬と美朝に、エリナは初瀬のむき出しの腕に手を伸ばした。初瀬の白い柔肌をむにゅっと引っ張る。
 「はは、痛い痛い、冗談だって」
 初瀬は甘やかに笑って、無邪気な視線をエリナに向ける。エリナの手が緩んで、自然に寄り添うように残るエリナの指先を腕に感じながら、「確かに、おれたちの中ではエリナが一番常識人かもな」と、率直な感想を口に出す。
 が、せっかくの初瀬のフォローだったが、美朝が笑って覆した。 
 「エリナちゃんも、ちょっとどこかずれてるけどね」
 「みあ! それどういう意味!?」
 「ん、そのままの意味かなぁ?」
 「みあはちょっとどころじゃないけどなー」
 「あ、初瀬くんひどい」
 初瀬が茶々を入れて、今度は美朝がむくれる。
 バスが停車して、乗客の乗り降りが始まる。「だいたい一番ずれてるのは初瀬じゃない!」「おれがずれてるのは今に始まったことじゃないからな」「うん、昔からずっと初瀬くんは変だったよ」「だからみあは人のこと言えねーだろ」などなどと、三人じゃれあいながら、列の最後尾に間を空けないようにバスに乗り込む。
 約二ヶ月前までは、背の高い男の子が一人と、彼よりも小柄な女の子が二人。
 だが今は、同じくらいの背丈の女の子の三人。
 髪の長いきれいな女の子を中心に、顔立ちは優しげなのに少し気の強そうな女の子と、のびやかに明るいやや童顔な女の子。
 他の乗客の迷惑にならないように、三人身体を寄せ合って、声を抑えて他愛もないことを言い合って。些細なことで怒ったり笑ったり、明るくふざけあったり、照れて冗談めかしたり、時にはとても素直だったりまっすぐだったり。
 初瀬の身体は女になってしまったが、拒絶することはなく、拘泥もせずに、かと言って無理をしてなんでもないことのように振る舞うのでもなく、女になった初瀬を意識しつつも、自分たちらしく。
 バスの中では勉強の話にもなって、初瀬はうげーという気分にもさせられたが、今はそんな会話も楽しかった。やっと日常が戻ってきたことを実感して、初瀬は少しハイテンションに、朝から元気に明るく、ガールフレンドの二人と小声でじゃれあって笑い合う。
 身体や立場がどんなに変わっても、この先どんな未来が待っていようとも、三人一緒なら前向きになれる。
 美朝とエリナと過ごす時間は、初瀬にとって当たり前の日常で、だからこそかけがえのない、とても大切な時間だった。








 concluded. 

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初稿 2012/03/10
更新 2012/03/10