ガールフレンド
Taika Yamani.
II
甘く濃厚に、二人の時間が流れる。
エリナがいくつかの深い高みに登りつめて、それでも初瀬は彼女を解放せずに、熱く切ない余韻に浸った後。
さらにエリナの身体を愛する合間に、全身の力の抜けた彼女を撫でて抱きしめて、身体を火照らせたまま優しいキスを繰り返していた初瀬は、自分の腕の中から出ようとする動きを見せたエリナを、反射的に押しとどめた。
「もう、時間……」
まだ目に涙の残るエリナは、微かに身じろぎをして、かすれた声で小さく抵抗する。
とっさに初瀬が目覚まし時計を見ると、いつのまに二時間もたったのか、もう六時が近い。
初瀬の力が緩み、数秒、エリナはきゅっと初瀬に身を寄せてから、初瀬の華奢な腕から逃れた。エリナはタオルケットで身体を覆って、足腰に力が入らないのか一瞬ふらつきつつ、静かにベッドを降りる。
夏至間近のこの時期、日の入りは七時前後でまだ外は明るい。初瀬はエリナを放したくなかったが、六時半頃には母親が帰ってくる。母親には薄々感付かれていたような節もあったが、六時には身繕いをするというのは、以前の二人の、暗黙の了解。
初瀬は熱い吐息をこぼし、身体の火照りと発散しようのない男の欲望をくすぶらせたまま、ゆっくり身体を起こした。ずっと頬を桃色に上気させたまま、小さく頭を振って乱れた二束の髪を後ろに払って、汗ばんだ肌に張り付くハーフトップブラをカットソーとペンダントごと軽く引っ張って、胸の中に空気を入れる。
初瀬の陰でティッシュを使ったエリナは、初瀬に脱がされた衣服を回収して、初瀬の視線の先で、タオルケットをそっとはだけた。以前の彼女なら、初瀬の視線に気付くと「着るとこまでじろじろ見ないで」と羞恥や甘え混じりに軽く睨んできていたが、今日の彼女は後ろを向いただけだった。
白くなめらかな背中を初瀬に向けて、初瀬の目から身体を隠すようにしながら、だが隠しきれずに、ブラ、ショーツ、キャミスリップと、一枚一枚着衣を整えていくエリナ。
そんな無防備な姿を見せてくれる彼女に、初瀬はいっそう愛情が溢れてくる。同時に、中学の頃より大人になっている彼女の姿に愛欲もこみ上げて、胸の奥で衝動がうごめく。さっきは途中精神的な昂揚が小さな頂を越えて、少しは初瀬の肉体も満たされたが、今の自分の身体のある部分が敏感に張りつめて、別の部分もずっとぬるついているのが、初瀬はさわらなくとも自覚できる。
そんな初瀬の熱い視線の先で、下着姿になったエリナは、手櫛でそっとセミショートの髪を整えて、夏の制服を身に着ける。膝上丈のプリーツスカートを穿いて、半袖のオーバーブラウスに腕を通して、四つの淡い褐色のボタンを一つ一つとめていく。
最後に靴下を履いて、身繕いをすませたエリナは、やはりどこかぎこちなかったが、もう涙は止まっていた。
小さな握りこぶしを作って自分の脚の付け根に押しあてていた初瀬は、微かに身体を揺らして欲望と鬱屈を抑え込んで、ベッドを降りた。まだ頬を桃色に染めたまま、テーブルの上の二つのグラスを取って、「ほら」と一つをエリナにさし出す。
「……ありがとう」
エリナは小声で礼を言って、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。グラスを傾けて、すっかりぬるくなっているジュースで失われた水分を補給する。
初瀬の肉体はまだうずいていたが、初瀬はエリナを求める気持ちのまま、心を鎮めて行動した。
立ったままジュースを飲んで、自分のグラスをテーブルに戻し、エリナの左横に腰を下ろす。腕も腰も触れ合う距離で、初瀬は彼女の空いている方の手に片手を伸ばして、しとやかな指に指を絡めるように、そっとその手を握りしめた。
エリナは、ちゃんと「初瀬」を想ってくれているのか、逃げずにきゅっと握り返してきた。
ほっそりとして柔らかい、お互いの手の感触。もう大きさにはほとんど差はないが、身体の火照りのせいか、初瀬の手の方が少し熱い。エリナの太もものプリーツスカートの上で、二人の手と手がしっかりと繋がりあう。
初瀬はエリナが握り返してくれたことに内心ほっとして、少し手に力を込めて、自分の肩をエリナの肩に押し付けた。同じくらいの身長の二人の華奢な肩が、柔らかく温かく密着する。
「おれがいない間、なんか面白いことあったか?」
重い話をするよりも、気軽な話の方がより早く普段の二人に戻れる気がして、初瀬は当たり障りのない話題を持ち出す。
「……別に、なんにもなかったわ」
「なんもなかったってことはないだろ。修学旅行だってあったんだから」
「……初瀬がいなかったから。つまんなかった」
「そ、そうか」
修学旅行の様子はもう一人のガールフレンドからも聞いているが、エリナ本人の口から素直に言われると、なんだか胸にクルものがあった。やけにしおらしいエリナの言葉に、初瀬は彼女をまた抱きしめたくなって、なんとかその衝動を抑えて、無意識にもう片方の手で自分の首の肌をつまむように撫でた。また頬が火照るのを自覚しながら、すぐに照れ隠しの言葉を口に出す。
「バカだなぁ。せっかくの修学旅行なんだから、楽しまなきゃ損だっつーのに」
「……初瀬が、病気になんかなるから悪いんじゃない」
「おれのせいかよ」
もう一人の女の子と同じようなことを、エリナは言う。その非難は理不尽な現実に対してであって、初瀬を本気で責めているわけではないとわかっているから、初瀬はつい笑ってしまった。
愛嬌のある少女の顔と声で笑う初瀬を、エリナは直視しない。片手にグラスを持って、もう一方の手を初瀬と繋いで、じっと正面を見つめていた。
「……ね、初瀬」
「ん、おう?」
「わたしと、初めて会った時のこと、覚えてる?」
「――初めてって、小一ん時か。んー……、すまん、覚えてないかも」
唐突な話題だった。
二人が共有する過去を確認することで、エリナは「目の前のこのきれいな女の子」が「ずっと好きだった男の子」なのだという認識を、少しでも高めたかったのだろうか。
「……帰りの会終わって、みあと教室にいたら、初瀬がみあを迎えにきたのよ。みあはエリナちゃんバイバイって、初瀬と二人で、わたしを置いて帰ったわ」
「あー……」
それを「初めて会った」と表現するのは、初瀬は少し無理がある気がしたが、覚えていない時点で初瀬につっこむ余地はなかった。お互いが初めて同じ場に居合わせたというだけなら、入学式の時などの方が先になるはずだが、エリナが初瀬を初めて認識したのが、その時なのだろうか。
「でもそんなの最初だけじゃね? いつのまにか一緒に帰ってたじゃん」
「……うん。どうしてだろうね、ケンカばっかりしてたのに」
その頃の初瀬と、二ヶ月前の初瀬と、今の初瀬とを見比べるような瞳で、エリナはちらりと、今手を繋いでいる「少女」を見る。
初瀬はエリナの手を指で弄ぶように撫でながら、少し懐かしそうに笑った。
印象深い思い出はたくさんあるが、日々の出来事は時系列が曖昧だ。毎日の登下校や学校生活は、小学校時代に限っても六年間当たり前に続けたことで。
小学校に入学した時、別々のクラスになった美朝が拗ねまくって、毎日迎えに行く約束をして宥めた記憶はおぼろげにあるが、実際に初めて迎えに行った時の様子や、エリナと初めて話した時がどうだったか、初瀬は全然覚えていない。
「小一って、七歳なんだっけ。十年も前か」
「……うん。もう、十年になるのね」
十年前。六歳から七歳になる小学一年生。
初瀬とエリナが出会った年。
初瀬はなんとなく脳裏に別のことが思い浮かんで、唇を甘くほころばせた。
「小一のエリナっていえば、なんか、廊下で取っ組み合いのケンカしたのがやたらと記憶に残ってるなぁ」
「……なんで、そういうのばっかり覚えてるのよ」
「お。おまえも覚えてるか? おまえがおれの前で泣いたのって、たしかそん時が最初だよな?」
「…………」
「あれって理由はなんだったんだろ? おまえがむちゃくちゃ泣いておれを睨んで、おれもおもいっきし泣きながらおまえを押さえてる記憶しかねーや」
――小学校の廊下で、床に倒れこんで泣きじゃくるリボンをつけた長い髪の幼い女の子と、同じく泣き喚きながらその女の子を押さえつける幼い頃の自分。
やがて幼いエリナはめそめそと泣き方が変わって、だが幼い初瀬はエリナを睨んで押さえつけたまま、一方的に言葉を投げつける――。
その時の自分が何を言ったのか、エリナがどう反応したのか、その場がどう収まったのか、そもそもケンカの原因がなんだったのか、初瀬は覚えていない。前後の情景は曖昧なのに、なぜかそのワンシーンだけはくっきりと初瀬の記憶に残っている。もしかしたらいくつかの思い出が合わさって、後になって勝手に脳内編集したイメージなのかもしれないが、その分もやけに鮮明な記憶。
「……そんなの、わたしも覚えてない。きっと初瀬がなにかしたのよ」
「覚えてないのにおれのせいなのかよ」
初瀬は明るく笑う。
「ま、ガキのケンカなんて、理由はあってないようなもんか。あの頃のおまえは、結構すぐ泣いてたしな?」
「――初瀬が、泣かせるようなことばっかりするから悪いんじゃない」
「はは、おれだけのせいじゃないだろ。おまえ、おれがみあといると、いつもつっかかってきてたじゃん」
「…………」
「それってさ、おれの気を引きたかったのか?」
「……そんなこと」
「ないか?」
「……わからない」
ニコニコと無防備な表情で笑う初瀬を見ずに、エリナはどこか遠くを見るような目をして、呟くように言う。
「……最初はわたし、どうしてみあさちゃんこんな子となかよしなんだろって、ずっと思ってたわ」
「おいおい」
「初瀬は、みあにもいじわるだった。いっつも、いじめるみたいなことして」
「あれは、いじめとかじゃねーよ。一緒に遊んでただけじゃん」
初瀬は過去の自分を思い出しながら、か細い声で「たぶん」と小さく付け加える。調子に乗って泣かせたりもあるから、多少やりすぎたことも、少しはあったかもしれないが、本人はいじめのつもりはまったくなかった。
「……うん。いじわるだけど、みあには甘かったよね。みあもいじわるされても喜んでたし」
「だろだろ。子供のふざけあいだ。いじめとかゆーな」
我が意を得たりとばかり、初瀬は高い声で大げさに頷く。エリナと繋いだままの手の甲で、スカートごしに彼女の太ももを軽く叩くように撫でる。
「……いつのまにか、わたしにも、いじわるするようになってた」
「はは、そーだな。なんか、ほんとにいつのまにかだな。別になんもデカイきっかけとかなかったよな?」
「うん……。ほんと、今思うと、いつのまにかって感じ」
「だよなー」
初瀬は楽しげに笑って明るく身体を揺らして、エリナの腕に肩に、自分の腕を肩を柔らかく押し付ける。
最初は、幼い頃からの付き合いの美朝と初瀬の組み合わせと、同じクラスの美朝とエリナの組み合わせ。それがいつのまにか、美朝とエリナに初瀬が交じって、美朝と初瀬にエリナが交じって。そして、エリナと初瀬だけでもなんの不自然もなくなって。
ごくありふれた毎日を、無邪気に子供心のまま繰り返していた日々。
初瀬と美朝と出会った頃のエリナは、今よりも人見知りで他人と仲良くなるのが不得意だったようだが、初瀬たちの前では自然に表情豊かになっていった。本人たちに自覚は薄いが、良くも悪くも影響を与え合って、確実に影響を受け合っているのだろう。初瀬はエリナは最初から泣き虫だったと思っているが、エリナがそんなに泣くようになったのは初瀬と出会ってからで、そんなに泣くのも初瀬の前だけで、エリナが泣き虫になったのも半分くらいは初瀬のせいだった。
衝突もあったしお互いに弱さをさらけ出したこともあるし、嬉しい思い出も楽しい思い出もたくさんあるし、印象強く記憶に残っていることもいっぱいある。
あえて言えば、そんな出来事の一つ一つが、すべて小さなきっかけの一つ一つで。これまで過ごしてきた時間の積み重ね積み重ねで、自然に、今の関係になっていた。
「……ただいつも一緒にいられれば、それでよかったのに……。どうしてこんなに、好きになっちゃったのかな……」
「――悪いことみたいにゆーなよ。おれはおまえらに惚れたのを後悔なんてしないぞ」
「……二股かけるような最低男なんだもの。悪いことみたいなものだわ」
「ぐ」
エリナは表情を消して、そっと立ち上がった。
ぐうの音を出した初瀬は、手を離したくなかったが、とっさに力を込めるのが間に合わずに、軽く手を外されてしまう。
テーブルにグラスを置いたエリナは、ゆっくりと振り向き、ベッドに座る「今の初瀬」を、まっすぐに見下ろした。
「ね。――もしわたしが、本気で初瀬が好きって言ったら、恋人として付き合ってって言ったら、どうする?」
いつかと同じような、エリナの言葉だった。
初瀬は一瞬、一年半前の彼女の姿を思い浮かべた。
初瀬の部屋でエリナと二人きりで会った、最後の日。中学三年の一月、エリナが初瀬に告白して、初瀬がそれを受け入れなかった、あの日の彼女の姿を。
「もうとっくに恋人のつもりだぞ。エリナのことも、美朝のことも」
悩むより先に、ごく自然に、初瀬の気持ちは決まっていた。まっすぐにエリナを見上げて見つめ返して、初瀬は高く澄んだ真剣な声で、自分の中にある想いをそのまま言葉にする。
「……最低」
「ああ、おれは二人に本気で惚れる最低男だからな。もう絶対に譲らないんだ」
「…………」
エリナは凛とした瞳で、初瀬を見つめていた。
まだ涙の跡が残る目のまわりが、少し痛々しい。だがそれでもきれいだと、初瀬は思う。もっと笑顔にさせて、可愛いところもいっぱい見たい。そんな率直な欲望も湧き上がる。
だから、反応できなかった。
次の瞬間、初瀬の頭はハレーションを起こしていた。
エリナの右手が動いて、パシーンッ、と、小気味のよい音が、初瀬の左頬で炸裂していた。
「っ〜〜!」
突然の痛みと衝撃に、初瀬は声にならない声を上げる。
「今はそれで許してあげる」
エリナは小さく呟いて、今の初瀬のなめらかな頬を、両手でそっと挟み込んだ。
「初瀬がどんなに変わったって、絶対に騙されないんだから」
状況がつかめずにいる初瀬に、エリナは上から顔を近づける。
「わたしは初瀬のこと、絶対に、絶対――」
半ば強引に上向かせられた初瀬は、唇に、エリナのぬくもりを感じた。
優しく触れ合うだけの接触。
目の前いっぱいにエリナの顔があって、彼女の香りが、甘く官能的に、初瀬の鼻腔をくすぐる。
しっとりと艶やかなエリナの唇が、繊細に柔らかく、初瀬の唇に密着する。
――そのまま、三秒、四秒、五秒と、静かに流れる時間。
初瀬は状況がよくわからなかったが、イヤなわけがなかった。
叩かれた頬の痛みは残っていたが、彼女の唇の甘い感触に、心が喜びに震え出す。こみ上げてくる感情に任せて、初瀬は恋人を抱きしめようとした。
その寸前、エリナは離れた。
しかも頬を赤く染めたエリナの動きは急だった。
「今日はもう帰る。メールするから」
「ぇ、ぅ?」
「またね!」
身を翻したエリナは、床のスクールバッグを拾って、駆けるように初瀬の部屋を出て行く。
「な、エリナ! ちょ、待てよ! またいきなり逃げんな!」
ベッドから立ち上がった初瀬は、半ば呆然としつつ高い声を出してエリナを引き止めようとしたが、ドアがバタンと派手に音を立てて閉まる。すぐにエリナの足音も遠ざかっていく。
初瀬の頭はぐちゃぐちゃだった。
数秒の硬直の後、初瀬はエリナを追いかけて部屋を出たが、エリナの姿はもう見えない。階段に足をかけたところで玄関の開閉音が聞こえて、初瀬は小さく息を吐き出して、二階の壁にもたれかかった。
「……またね、ってことは、いいって、ことだよな……」
冷静に考えると、二股の最低男なのだから叩かれても当然だが、だがその後の言葉とキスは、今の初瀬を受け入れてくれたのだと、そう思っていいのだろうか。
色々なことを、エリナも前向きに立ち向かっていくだけの覚悟があると。初瀬はエリナに真正面からぶつかっていっていいのだと。
「……でも、むちゃくちゃ痛かったぞ……」
今の身体になってから、まともに叩かれた、初めての痛み。
初瀬の柔らかな頬には、うっすらと赤い手形が残っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
エリナが帰った後、携帯の電源を入れて着信チェックをして、窓を開けて部屋の空気を入れ替えて、グラスやテーブルの片付けが終わる頃には、時刻は六時半に近づいていた。父親や兄の帰宅は早くて七時から八時くらいで――最近の兄は九時より早いことは滅多にないが――、夕食も八時頃だから、まだ少し時間がある。
つらつらと色々なことを考えさせられながら、一通り片付けを終えた初瀬は、ベッドにうつ伏せに横になって、乱れる二束の長い髪をそのままに枕に顔をうずめた。エリナとのやりとりで神経と体力を使った反動もあるのか、疲れてかなり眠だるい。
が、なんだか胸が張っていた。身体全体もしっとりと火照ったままで、腰を中心にモヤモヤした衝動も渦巻いている。こぼれる吐息もどこか熱い。
ベッドの中には、甘く残るエリナの匂い。
自分の服や肌にも彼女の匂いや感触が残っている気がして、初瀬の脳裏に、初瀬の手によって乱れるエリナの姿態や声が、フラッシュバックする。さっきは一方的に愛しただけだから、どうしても思考がそちらに流れがちになる。
『……やっぱりおれも全部脱いで、少しはエリナにさわらせて、させてみればよかったかな……。しろって言ったら、前みたいにしてくれたかな……』
無意識に、初瀬の太ももと太ももに、微かに内向きに力がこもった。
男だった時とは、もうはっきりと違う、今の初瀬の身体。
うつ伏せでベッドに押し付けられている胸部の二房のふくらみが、ベッドにクッションになって弾力的に反発して、うずくようにじれったい。その先端もずっと過敏になって、柔らかなハーフトップの下着ごと押し潰されて、じんわりとした切なさが身体中に広がる。
なのに、同じように押し付けられている腰は、以前ならあったはずのきつい圧迫感や抵抗感がなく、ベッドからの刺激が希薄で。内側の衝動がやるせなく堆積して、ただなだらかな丘の部分が、ベッドに柔らかく密着する。
今の初瀬の身体は、エリナと同じ、女の性を持つ身体。
「……男のままなら……、こんな思い、しないですんだのに……」
初瀬は小さな吐息をこぼして、ゆっくりと身体を起こした。
肉体の欲望がどうしてもくすぶって、愛欲まみれの妄想と暗いネガティブな衝動がこみ上げてくるが、初瀬は深く考えたくなくて、二つの欲求に心をゆだねる。無理に欲望に逆らわずに、素直に夕食まで仮眠をとることにする。
まだ完全には開き直れていない自分と、好きな女の子をプラトニックな気持ちだけで想えない自分に、初瀬は醜さを感じることもあるが、自分の欲望を否定したりはしない。今の自分の身体の現実がしつこく棘になって突き刺さるが、初瀬は心と身体のすべてで、好きな女の子のすべてを求めている。
初瀬は長い髪を後ろに払いのけて、枕の上の目覚まし時計を手に取って、目覚ましのタイマーをいじった。今からだとご飯に寝過ごす気がしたが、その時は両親なり兄なりが起こしてくれるだろう。仮に起こしてもらえなくとも、明日も休みだから問題はない。
が、目覚ましをいじっている途中で、携帯電話がメロディーを奏でた。
登録してあるその呼び出し音は、ガールフレンドの佐藤美朝の携帯電話。
「あー……、電話するって言っといたっけ……」
遅い時は夜にこっちから電話するって言ったのに、と思いつつ、初瀬は性欲と睡眠欲を振り払った。目覚まし時計を置いて携帯を手に取って、片付け中に届いたらしいメールの着信を発見しながら、ベッドにお尻を乗せて座り込み、初瀬は今の自分のナチュラルな声で、高く澄んだ少女の声で、電話に出る。
「おーす。ちょうどさっきエリナが帰ったところだ」
『あ……、そうなんだ。ごめんね、電話して』
「いいさ。とりあえず、エリナの方はなんとかなったよ。まだ色々やっぱきついみたいだけど、エリナもがんばるってさ」
『そう、なんだ……』
この時の初瀬は少し饒舌だった。それに対して、美朝の態度はどこかぎこちない。
『んと、もう、おうち行くの、遅い、かな?』
「ああ、だな。今ちょっと眠いし。悪いけど我慢してくれ」
『……うん。明日まで我慢する』
「あ、明日はおれんちでいいか? おまえんちはおかーさんがうるさいからな」
『……エリナちゃんも一緒?』
「あー、いや、エリナには話してないよ。明日は二人で来てもいいぞ」
どこか後ろめたくて、初瀬は首の肌を軽くつまむように撫でて、高い甘やかな声で美朝に応じる。
『……エリナちゃん、何時頃来たの?』
「ん、四時前くらいかな。制服だったし、家に帰らないでまっすぐ来たみたいだな」
『じゃあ、二時間以上いたんだ……。たくさん話した?』
「たくさんっつうか、どうかな」
初瀬が強引だったせいで、あまり話はできずにあっという間に時間がたったことを、初瀬は無意識に隠した。
「あ、昔話もちょっとしたぞ。小一の時の。エリナと初めて会った時のこと、みあは覚えてるか?」
『え、うんと、教室で話した時が、最初だと思うけど……、なにを話したかは、覚えてない』
「そん時の放課後のことは?」
『放課後……? なにかあった?』
「はは、いや、おまえとエリナが話してるところを、おれが迎えに行ったらしー」
初瀬は軽く笑って、首から手を離した。そのまま下に動かして、なんとなくもやもやしている自分の胸の裾野にさわりながら、陽気に言葉を続ける。
「みあはエリナにバイバイして、そのままエリナを置いておれと帰ったんだってさ。覚えてるか?」
『ん、覚えてないかも……』
「はは、だよな。いつのまにか一緒に帰るようになってたもんな」
『……初瀬くんが、エリナちゃんも一緒にって、言い出したんだよね』
「あれ、そうなのか?」
『そうだよ。“おまえんちどこだ”って言って、“じゃあいっしょにかえるぞ”って』
「そーなのか?」
『うん。……それまでずっと二人で帰ってたから、わたし拗ねてたのに、初瀬くん気付いてくれなかった』
「ぁー、すまん、全然記憶にねーや」
『だと思った。初瀬くん、女心がわかってないよね』
「いや、小一でわかれっていうのは無理だろ。って、今もわからんけどなっ」
『……エリナちゃんと、なんにもなかった?』
初瀬がわざと茶化して笑うと、美朝は不意にぽつんと感情のこもらない声を出した。
なにもなかったと言ってほしそうな美朝の声。
だが初瀬はもう隠さなかった。覚悟を決めてそっと息を呑むと、初瀬は胸から手を離して携帯電話を持ち替えて、真剣な声でまっすぐに言葉を紡ぐ。
「エリナにも、好きだって言った。おまえとのことも、話したよ」
『…………』
「…………」
『……エリナちゃん、なんて?』
「思いっきり叩かれた」
『え』
「でもおれは、みあのこともエリナのことも、もうだれにも渡すつもりはないからな」
『……やっぱり、エリナちゃんも、そうなんだ』
「おれはもう謝らないぞ。みあのことも本気で好きだから。もう恋人だからな」
『…………』
「…………」
『……初瀬くん……』
どこか切なげな、美朝の声。
「ああ」
『……今、会いたい……』
「う? あー、うー」
『…………』
「……飯はまだだし、やっぱり来るか? そんなのんびりはできんだろうけど」
『いいの?』
「ああ、来たいなら来いよ」
『うん! すぐ行く。待っててね』
「ああ、――って、急ぎすぎてコケたりするなよ!」
今にも飛び出しそうな美朝に、初瀬は少し大きな声で注意を促す。その声が届いたのか届かなかったのか、電話は美朝の方から切れた。
初瀬は美朝の気持ちを思って胸の痛みと緊張を感じながら、さっき届いていたメールを確認した。
『叩いてごめんなさい。
もしかしたら、一行目を書いた後に、衝動で続きを書いたのかもしれない。熟考した気配のない、勢いに任せたような印象のメール。感情的な、ストレートな気持ちに溢れる、エリナの言葉。初瀬はかなり強引で一方的だったはずなのに、ありがとう、と言ってくれるエリナ。
わたしも初瀬を好きになったこと後悔なんてしてない。今日はありがとう。』
初瀬は、また微かな後ろめたさを感じつつも、胸に愛情がこみ上げてきて、嬉しくなって小さく笑った。
「後でエリナのやつに見せると、すげー恥ずかしがりそうだな……」
これは永久保存だ、と頬を緩ませながら、初瀬も真面目に、本気のメールを返した。
『おれも、今日はありがとう。もうおまえのこと一生離さないからな。』
すぐにやってきた私服姿の美朝は、明るく振る舞いつつやはり切なげだったが、初瀬はもう自分の気持ちに正直だった。部屋に通すとすぐに向き直って、美朝に対しても、初瀬は堂々と意思表示をする。
二股宣言をしたそんな初瀬を、美朝は責めなかった。
「わたしは、もう初瀬くんの、恋人でいいんだよね……?」
初瀬をなじっても当然の状況なのに、美朝はまっすぐに初瀬を見つめて、目をそらさない。
「ああ、みあはおれの恋人だ」
内心はどうであれ初瀬をまったく責めない美朝の態度に、初瀬はいじらしさを覚えて罪悪感も刺激されたが、無意識に安堵して、愛おしさもこみ上げて、強く優しく抱きしめた。
「好きだ。みあが好きだ。もう一生離さない」
「わたしもっ、好き。大好き。もう、絶対離れないんだからっ……」
初瀬は感情的に美朝を求めて、ぎゅっと抱きついてくる美朝の唇を奪って、態度と言葉と行動で、本気の気持ちを伝える。
最初は切なげだった美朝も、初瀬を求めて頬を紅潮させて、初瀬にたくさんのキスを返す。未来への不安よりも、大好きな人と抱き合う今に夢中になって、お互いに愛情を伝え合う。
まだ初瀬は十七歳。美朝もエリナも、次の誕生日まではまだ十六歳。法律上は結婚もできる年齢だが、常識に拘る大人が今の初瀬たちを見れば、非常識だとか不道徳だとか、若さからくる暴走だとか恋に恋してるだけだとか、たしなめたり咎めたりするのだろう。良くも悪くもまだティーンエイジ、大人の部分と子供の部分がアンバランスに同居する年頃。これからもっと成長する可能性と引き換えに、経験が少なく、視野も狭い。
だがそれだけ純粋でまっすぐだった。二人が同時に好きだなんて普通じゃないとわかっているが、初瀬はもう逃げるつもりはなかった。初瀬の性別が変わってしまったショックから三人とも理性が振り切れている部分もあるのかもしれないが、だとしても、その分も生の本音の感情だった。この先、三人それぞれ感情をぶつけ合って、本気のケンカになることもあるのだろうし、きつく衝突し合うこともあるだろうし、同性になってしまっていることから生じる問題もあるのだろうが、全部乗り越えていく覚悟が、もう今の初瀬にはある。
だから、美朝に対してもエリナに対しても、初瀬は率直だった。
美朝が夕食ぎりぎりまでねばって帰った後、『一生なんて、そんなこと軽々しく言わないで』と返信してきたエリナに、初瀬は堂々とメールを打った。
『めいっぱい本気だ。おまえは一生ずっとおれと一緒に幸せになるんだ』
仮眠を取りそこねたから、眠気も強くて、深く考えずに自然と湧き出てきた本音の言葉。
このメールにはすぐは返事が来なかった。
初瀬の登校が家族の話題になった夕食の後、父親が買ってきた旬のさくらんぼを食べる前に、初瀬が改めて携帯を確認すると、美朝からのメールが先に届いていた。
『恋人になってから初めてのメールを出します』と、嬉し恥ずかしな書き出しの、初瀬の体調が落ち着いたらとさっき約束した初デートの相談も含まれたメール。初瀬はなんだか妙に照れてしまって、無意識に頬を緩ませまくりながら読んで、同じくらい恥ずかしい内容のメールを返した。
エリナからのメールはお風呂上りだった。
長いお風呂から上がった初瀬が、ぽかぽかと身体を火照らせてフローラルな匂いを漂わせながら、気だるい気分で赤いスウェットの半袖パジャマに着替えて、牛乳を飲んで水分補給をして、しっとりと濡れた長い髪をドライヤーで手早く乾かして丁寧に櫛を通して、歯磨きもした後。
『なに変なメール出してるの。恥ずかしくないの?』
相変わらず要点だけで短い、エリナのメール。
初瀬はそのメールに込められたエリナの気持ちを想像して、むしろエリナの方が恥ずかしがってるんじゃないかと推察してにまにまと頬を緩ませて、照れて真っ赤になって強がるような彼女の顔を思い浮かべながら、また正直なメールを返した。
『好きな女に好きだって言うのを恥ずかしがるほど落ちぶれてないぞ。何度でも言ってやるよ。エリナが好きだ』
美朝へのメールといいエリナへのメールといい、もうストレートなメールだが、初瀬は自覚した気持ちを堂々と伝えることのできない男にはなりたくはない。今は身体は女だが、それはそれだ。
このメールの返信もすぐには来なかった。お風呂場でイロイロしすぎて疲労もたまっていたから、もう寝ようとトイレなどをすませて、自分の部屋でソフトブラを脱いでパジャマを着直して、脱いだブラジャーを明日の着替えの中にまぎれさせた時、美朝のメールが先に届いた。
かなり眠だるくて鬱屈した部分が表に出かけていた初瀬は、長文気味な美朝のメールをまた頬を緩ませて読んだが、眠くて返事を打つのが億劫だった。というわけで、初瀬は寝る準備万端の態勢で、美朝に直接電話を入れた。
『もしもし、初瀬くん……?』
「おまえなに恥ずかしいメール出してるんだよ。ちょっとは恥ずかしいとか思わないのか?」
もう美朝もお風呂をすませてパジャマ姿だろうか。
すぐに電話に出た美朝に、初瀬は彼女の姿を想像しながら、挨拶もなしに自分がエリナに言われたことをふざけて言ってみる。
が、初瀬は美朝が照れて慌てるかと思ったが、美朝の反応は違っていた。メールでは明るい雰囲気だったのに、美朝はこの時どういう気持ちでいたのか、もしかしたら初瀬とエリナのことを考えていたのか、切なげな口調でまっすぐな言葉を返してきた。
『だって、いつも好きって思ってて欲しいから……』
普段なら初瀬も少しは照れたかもしれないが、今の初瀬は眠気のせいもあってナチュラルハイだ。以前とはまったく違う高い声で、初瀬もまっすぐに言い放った。
「おれはいつだってみあが好きだよ」
電話の向こう側で、今度こそ初瀬の期待通り、美朝は照れたような、嬉しそうな声を出した。
『……初瀬くんだって、平気で恥ずかしいこと言うよね』
「今のはおまえが言わせたんだろ」
ベッドの上に座り込みながら、初瀬は笑う。お風呂上りからおろしたままの長い髪を軽く後ろに払って、初瀬は電話の相手に集中する。
『うん、わたしも、いつも初瀬くんが好き』
だんだんと明るい態度になった美朝の、甘えた口調の、素直な声。
初瀬もさすがに照れて、自分のなめらかな首の肌をつまむように撫でた。「言われなくても、とっくにわかってるけどな」と強気で言葉を返す。
『うん。ね、いつから、気付いてた? わたしの気持ち』
「ん……、薄々本気で思ったのは、中学の終わりくらい、かな」
『やっぱり、全然遅いよね。初瀬くんひどいよ、わたしずっとずっと好きだったのに。五つの時約束したのに。“はつせくんのあかちゃんうんであげる”って、“はつせくんのおよめさんになる”って、わたしずっと本気だったのに』
「――こらこらこら待て待て。なんだよその約束ってなんだよ」
『覚えてないの? 初瀬くんが言ってくれたんだよ。“みあがイイオンナになったらヨメにしてやってもいいぞ”って、“みあはずーっとおれといっしょだ”って。わたしちゃんと覚えてるんだから』
いきなり五歳の時の話を持ち出されて、初瀬は焦った。
触発されて幼い頃の記憶が湧き上がって、日常的に他愛もなく言い合っていたような情景がおぼろげに浮かんでくるが、当たり前の出来事すぎて薄い記憶になってしまっているのか、曖昧にしか思い出せない。
おそらく自分の父親や美朝の母親の影響を受けてそんなことを言っていたのだろうが、そんなベタな言動を取っている幼い頃の自分を、褒めていいのか、貶して猛省すべきなのか。一方が覚えているのに一方が覚えていないなんて、今の初瀬も悪い方向にベタだった。
初瀬はなんだか顔が火照るのを感じながら、首の肌を強く引っ張った。
「そんなの、今頃持ち出すのはアレだろ。そんなガキの頃のタワゴトなんて、約束のうちに入んねーよ」
『…………』
電話の向こう側で、美朝の雰囲気が少し強張る。
むしろ今だからこそ、美朝も持ち出したのかもしれない。美朝は小学校に上がる前は恥ずかしげもなくそんなことを口にしていたが、成長とともにあまり口には出さなくなっていた。
初瀬はさらに焦ったが、強気を貫いた。
「ま、まあ、なんだ。どうせそんな昔の約束、あってもなくても一緒じゃん。そんな約束なんてなくても、やることは変わらないからな」
――過去の出来事を思い出せなくとも、忘れてしまっていても、育まれてきた気持ちは、二人で育んできた気持ちは、今ちゃんとここにある――。
後になって考えると結構大胆な、それでいて少しずるい言い方をした初瀬は、やたらと気恥ずかしくなってきて、頬が熱いのを自覚しながら、わざと声を大きくした。
「どの道っ、いい女って条件なら、まだもっと大人にならんとダメだろ。ま、今のままでみあは充分可愛いけどなっ」
『……初瀬くんて、いじわるだよね』
そっとささやくような、美朝の声。
初瀬は思わず小さく息を吸う。
いじわる、という言葉を口にしながら、美朝ははにかむように笑った。
『こういう時は、嘘でも、なれてるって、言って欲しいのに』
「ばーか、なに甘ったれてるんだよ」
どこか甘えるような美朝の声に、初瀬は露骨にほっとした。身体を倒してベッドに寝転がりながら、また大げさに言う。
「そんなんじゃいい女への道もまだまだ遠いな」
『やっぱりいじわるだ』
「ハハ。ま、みあなら大丈夫だろ。あと何年かすればちゃんといい女になってるよ」
ほっとしたせいか、初瀬はまた強い眠気を感じながら、本音で美朝の相手をする。美朝はちょっと照れたようだが、素直に嬉しそうに笑う。
『うん、ありがとう。がんばる』
「ぉう」
まっすぐに返されると、初瀬も少し照れる。
「って、何年か後なんて、おれの方がどうなってるかわからんけどなー」
『だいじょうぶだよ。わたしは初瀬くんがイイオンナでなくても平気だから』
「そーいう問題じゃないんだけどな」
初瀬は曖昧に苦笑した。
男ではなくなって女になってしまった今、自分の数年後の姿なんて、まだまったく想像できない。順当に行けば例えば五年後には二十二歳の大学四年生になっているはずだが、初瀬は正直今はまだあまり考えたくなかった。
『ね、初瀬くんは、わたしのこと。……いつから、好きになってくれてたの?』
「ん……。本気で恋愛かもって思ったのは、……やっぱ病院でおまえに言われてから、かな」
『……そんなに遅いんだ』
「や、いや、好きなのはずっと好きだったぞ? ただ恋愛かどうかよくわからんかっただけで。おまえとエリナはもうずっと特別だったから」
『…………』
不満を抱くべきなのか、ずっと好きだったと言われて喜んでいいのか、美朝は数秒沈黙を作る。
「おまえだって、おれがずっとおまえが好きだってわかってただろ」
初瀬はちょっと焦りかけて、また強気でずるいことを言う。
『……じゃあ、今は、もう恋愛?』
「当たり前だろ。でなきゃ恋人とか言うわけないだろ」
厳密には、二人の女の子を同時に好きになった自分のこの気持ちが、恋愛というものに一致するのかどうか、初瀬は今も知らない。だが初瀬は、恋愛という言葉を、今の自分の気持ちに当てはめることにもうためらいはなかった。
『……わたしは、初瀬くんの彼女さん?』
「ああ、みあはもうおれの彼女だ」
『……初瀬くんは、わたしの彼氏さん?』
「おう、おれはみあの彼氏だ」
『……うん。わたしは初瀬くんの彼女さんで、初瀬くんはわたしの彼氏さん』
じんわりと噛みしめるような、嬉しそうな美朝の声。
「はは、なんだよ? おまえはバカップルがやりたいのか?」
『ん、そうじゃないけど』
初瀬が明るくからかうと、電話の向こう側の美朝も、照れたような雰囲気のまま楽しそうに笑った。
『でも、みんな二人の時はこんなじゃないかなぁ?』
「それはどうかと思うぞ。なんかそんな恥ずいこと言わんだろ」
『そうなのかな? 二人しかわからないことなんだから、みんな言ってるかもしれないよ?』
「いや、うーん、どうだろうな? どの道、普通だったとしてもそれはそれでバカップルじゃね?」
『ん……、じゃあ、初瀬くんと一緒なら、わたしはそれでもいいことにする』
「はは、恥ずかしいやつだな」
『だって初瀬くんの彼女だもん』
くすくす笑って、はにかむような口調の、まっすぐな美朝の声。初瀬も、少し照れながらも明るく笑った。
「そーかそーか。おれの彼女は恥ずかしい女だったのか」
『その言い方はなんだかヤだ』
「はは、じゃあ、素直な可愛い女ってことで」
『……ばか』
本気で照れたような美朝の声に、初瀬はみあの顔が見たい、みあを抱きしめて眠りたいと、そう強く思いながら、また楽しげに笑う。その拍子に、小さなあくびがこぼれた。
「ふぁ……」
初瀬は携帯からとっさに口を離す。
美朝はそれに気付かなかったようで、照れたような嬉しそうな態度のまま、甘い言葉を口に出した。
『初瀬くんも、おんなじだからね』
「うん?」
『わたしにとって、初瀬くんは、世界で一番、ステキな男の子、だからね』
「――――」
胸にこみ上げてくる嬉しさと、不思議な気恥ずかしさと、急に泣き出したくなるような暗い衝動と。
愛おしさが溢れて胸が熱くなるが、そんな素直な声ではにかみながら言われたら、初瀬まで照れてしまう。と同時に『男のままで聞きたかった』『やっぱり男のままでいたかった』と、重苦しい感情が胸の奥でくすぶる。
「ああ、サンキュー」
刹那の衝動を抑えて、軽く照れ隠しのように応じた初瀬は、また無意識に首の肌を撫でて、わざと冗談めかした。
「まあ、今は女になっちまったけどなー」
『初瀬くんは、女の子になってもステキでカッコいいよ』
「それはそれでどうなんだろーな。カッコいい女っておれの趣味じゃないんだよな」
『え、そうなの? じゃあ可愛い女の子になるの?』
「いや、見た目はともかく、他は今まで通りいくさ。女になってもおれはおれだからな」
『あ……、うん、初瀬くんは初瀬くんだもんね』
初瀬は「ああ」と真面目に頷き、いい区切りとみなして、ベッドから身体を起こした。
初瀬は外見だけなら飾ったりもしてみるつもりだが、性格改造を試みる必要を感じていない。結果的にカッコよく見えるというのならともかく、自分から「カッコいい女」や「カッコいい男のような女」を目指すつもりもない。ではどういう「女」を目指すのか、まだ何も決めていないから、今のままだとがさつな女と見られるのかもしれないが、今時そんな女性も珍しくはないだろうし、仮に珍しくても初瀬的には問題なしだった。
男として、とは今はもう言えないが、人として、自分を磨くことを怠らずに、自分で自分のあり方を決めて、自分なりにいくだけだった。
『でも、ちょっともったいないかも。初瀬くんが女の子らしくなっても、わたしは絶対ずっと好きだよ?』
「はは、おれが女らしくってどうなんだろーな」
初瀬は軽く笑って、電話の終わりを切り出した。
「みあ、すまん、もう限界だ。むっちゃ眠い」
『あ……、うん。身体、きついの?』
「いや、眠だるいだけだよ。もう切るぞ」
『うん……。明日、学校終わったらすぐおうち行くからね』
「ああ、待ってるよ。おやすみな」
『うん……、初瀬くん、おやすみなさい』
初瀬はそのまま電話を切ろうとして、名残惜しそうな様子の美朝に、衝動で言葉を付け足した。
「まあ、なんだ」
高く澄んだきれいな声で、初瀬はまっすぐに気持ちを言葉にする。
「美朝、愛してるぜ」
『…………。え?』
「じゃあまた明日なっ」
返事を待たずに、初瀬は携帯電話を耳から離した。
自分から言っておきながら、初瀬の頬は桃色に染まっていた。『え、あ、わ、わたしもっ!』という恋人の声が聞こえてきた気がするが、初瀬は自分の言動が猛烈に照れくさくなって、電話を切ってしまう。
「さすがにキザすぎ……!」
初瀬は枕をつかんで顔に押し付けて、十数秒、身もだえしてから、なんとか気を取り直して、メールの着信を確認した。
残念なことに、メールは一通も届いていなかった。
初瀬はエリナからのメールを待ちたかったが、眠気が強すぎて、もう待てなかった。初瀬はエリナあてに、「もう寝る」という件名で、この日最後のメールを書いた。
『愛してる。おやすみ』
一人の女の子に気持ちを伝えたすぐ後に、別の女の子に同じ言葉を送る。
一般的には非難に値するとわかっているが、初瀬はもう自分を偽らない。二人に告げた言葉は、初瀬の素直な気持ちで、正直な本音。
初瀬はまたちょっと羞恥にもだえながら携帯をしまうと、小さなあくびをして部屋の電気を消して、ベッドにもぐりこんだ。
枕に頭を乗せて長い髪の位置を煩わしく整えて、恋人の匂いが残っている気がするタオルケットと夏用の掛け布団を肩までかぶって、両手をお腹の上に置いて目をつぶる。
ここ最近の癖で、つい左手がふくよかな重みのある胸部の裾野に動いて、もう一方の手のひらがふっくらとなだらかな下腹部に移動したが、パジャマごしに軽くあてがっただけだった。じんわりと伝わるぬくもりと柔らかさを感じながら、初瀬は少し身じろぎをして、腕の力を抜いて眠気に心をゆだねる。
自然に今日一日の出来事が思い浮かんで、初瀬の頬が甘く緩む。
特別な大切な二人の女の子のことを想って、幸せな気持ちと明日への期待と、微かな後ろめたさと、そして今の自分の身体への諦念と鬱屈と欲望とを抱えながら、初瀬はゆっくりと淡い心地よさに身を任せて、今日は何もしないうちにすぐに深い眠りに落ちた。
……初瀬が眠ってしばらくしてから、センターは初瀬あてのメールを受信していた。
別々の相手からの、同じ意味の言葉が綴られた、とても甘い二通のメールを。
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初稿 2012/03/05
更新 2012/03/05