Boy's Emotion
Taika Yamani.
第一話
二 「自分の望む自分」
七月の終盤に身体の変調を自覚し始め、八月上旬に病院に行き、中旬に入院、下旬に症状が進行し、終わったのは九月の初頭。
退院したのは予定通りの十三日で、やや気温の高い蒸し暑い火曜日だった。しとしとと雨が降りしきる中、貴子はお昼過ぎの時間に、約一ヶ月ぶりに自宅であるマンションに帰ってきた。
母親は退院に付き添いたがっていたが仕事で都合がつかず、貴子も無理をさせなかったから、近所に住む母親の友人――貴子にとっては、絶対に頭が上がらないと同時に、こういう時は母親よりよっぽど頼りになる専業主婦の女性――に付き添われての帰宅だ。が、まだ身体は本調子には程遠いから、貴子は家でのんびりくつろぐつもりだったが、四階建てのマンションの三階にある3LDKの我が家は散らかり放題で、帰宅するなり掃除をして過ごすはめになった。
いつの頃からか、仕事で忙しい母親にかわって幼い子供が家事を担当するようになっていたが、それでも限度がある。新聞や雑誌の束が乱雑に積み上げられていたり洗濯物が放置してあったり、ゴミ袋がいくつも転がっていたりしたら、貴子でなくともげんなりする。夕方、さすがに早めに帰ってきた母親の雪子に、貴子がしっかりとお小言を言ったのは当然である。
数週間前と変わっていないはずの自分の部屋で、その空間に残っている男だった時の自分の匂いを妙に意識してしまい、また少し鬱っぽくなったりもしたから、掃除で気が紛れた部分もないではないが、それは結果論でしかない。貴子としては、自分が家を空けた時くらいはしっかりして欲しかった。
「だって、お母さん、いつもお仕事で疲れてるのよぅ。タカちゃんのお見舞いにも毎日行きたかったしぃ」
可愛い顔と声でお説教をする我が子に、雪子はわざといじけたようにそう弁明し、最後にはしおらしく謝ったが、すぐにニコニコと余計なことも付け加えた。
「タカちゃんって、しっかりしたいいお嫁さんになりそうよね」
「……そーいう冗談はやめてくれないかな」
貴子は不快げに腕組みをしようとしたが、腕が胸部の柔らかい部分を押してしまい、瞳を暗く揺らして腕を下ろした。今の貴子の身体では、その位置で腕組みをしようとすれば豊かなふくらみにぶつかって当たり前なのに、まだまだ慣れていない貴子だった。
「今度そんなこと言ったら、本気でご飯抜きにするから」
「えー、おうぼうだわ。お母さんは断固抗議します!」
そんな風に久しぶりの我が家を満喫した翌日、水曜日の夜には、母親の友人たちも退院祝いに来てくれて、色々と思い悩む貴子本人の気持ちをよそに、貴子の帰宅後の穂積家は少し賑やかだった。
そしてその数日後。
敬老の日を含む三連休の初日、晴れたり曇ったりな天気の土曜日。
私立の樟栄高校は土曜日も授業があるが、貴子はこの日までは学校を休んで、祖父母への贈り物と日用品をそろえるために、母親と一緒におでかけをした。
きちんと薄くお化粧をした、ミディアムショートヘアのきれいなお母さんと、化粧っけはないが素顔で充分に可愛い、セミロングの髪の十六歳の娘。母親は大人の女性を感じさせるスタイリッシュな服装で、娘はシンプルな飾り気のない服装で、自家用車は使わずに電車で移動だ。
電車の定期券の氏名と性別の書き換え手続きも必要だったから、「今日は電車で行きましょう」という母親の提案に、貴子は深く考えずに付き合ったが、車ではなく電車なのは、雪子なりの思惑があったらしい。ハンドバッグを持ってシックな婦人用帽子をかぶった母親に連れられて、貴子は電車の女性専用車両を初体験した。
貴子としては内心複雑な心境だったのだが、いざ乗ってみれば特別何かが違うわけではなかった。女性だらけなせいで精神的な居心地はよくなかったが、この時貴子が気付いたことと言えば、なぜか祖母と姉と一緒らしき小学校低学年くらいの男の子の姿があった点と――女性専用車両は文字通り「女性専用」と一般的に認知されているが、厳密には貴子が知らないだけで、小学生程度までの男児や身体障害者や介護の男性などの乗車も建前上は広く受け入れている路線が多い――、広告が女性向けで埋まっている点だけだった。後は、貴子の先入観から来る錯覚かもしれないが、デリケートな母親の香水の香りに混じって、他人の香水やお化粧の匂いが他の車両より余計に漂っている気がした程度だ。
「タカちゃん、学校に行く時って、いつもどのくらい混む? ギュウギュウに混む?」
「日によるけど、普通につり革はつかめるくらいが多いかな? 後になるほど混んでくるけど、ギュウギュウってほどでもないよ」
電車が動き出してすぐ。
声量を抑えた母親の何気ない言葉に、貴子も片手でつり革をつかんで電車に揺られながら、繊細な可愛い声でやんわりと応じる。
貴子は無造作に言葉を発しているが、声を出すたびに、自分の身体が変わってしまったことをいつも感じさせられて、心が少しきしむ。
世の中の意見には、不慮の事故で身体不随になったり手足をなくしたりといった状況や不治の病を引き合いに出して、「五体満足健康な身体で生きていけるのだから、性別が変わった『だけ』で不満を抱くのは贅沢だ」などという声もあるが、当事者にとっては他人との比較自体ナンセンスでしかない。
ただでさえ肉体感覚的には、声だけではなく他の部分も四六時中意識させられているし、例えば豊かな胸や腰のあり方も男だった時とは違いすぎて、歩く時のバランス感覚などもまだどこか微妙にズレがある。他にも、つり革や母親の背の高さを感じて身長が縮んでいることを思い知らされたりと、些細なきっかけで今の自分の身体を強く意識させられることも多い。胸部を覆っている肌触りの良い下着も、母親が買ってきた「優しくフィット」などという謳い文句のハーフトップブラなのだが、ブラジャーを着用し始めたばかりの女の子はだれでもこうなのかどうか、それとも貴子の心の問題なのか、または単にまだ暑い季節のせいもあるのかもしれないが、その下着の中の自分の肉体の質感や変な重みとともにどうしても気になる。ボトムに穿いている男物のトランクスも、退院後にSサイズの物を購入しなおしたのだが、そのサイズでもウエストは余裕がある上に、お尻の方が妙に張り付くようになってゆとりがない。母親が買ってきたようなぴったりとフィットする女物のショーツよりは多少ましだが、新品なせいか皮膚感覚の違いのせいか、どこか少しゴワゴワしているようにも感じる。
今はすべてを一まとめにして少しずつ慣れていくしかないから、貴子は意識して深く考えないようにしているが、一つ気になり始めると他のすべても際限なく気になり始めて、一歩間違うと歪んだ性的欲望まで簡単に湧き上がって来て、気にすればするほど鬱っぽい気分になる。
「んー、今度からタカちゃん、いつも専用車両に乗った方がいいかもね? 今のタカちゃん、可愛くて大人しそうに見えるから、痴漢に狙われちゃいそうだし」
「…………」
「あ、でも、女にも痴漢はいるから、油断しちゃダメよ? 電車の中だけじゃなくて街中も。女同士だからって油断を誘う手口だってあるし、今の世の中、いつどこに変な人がいるかわからないんだからね?」
「……痴漢は、女の場合は痴女になるんじゃない?」
貴子はわざとずれたことを言ったが、そういう配慮も必要になるのかと思うと、鬱っぽさが強くなると同時に、ちょっとうんざりしそうになった。子供の頃だけではなく、女の身であればこの年齢になっても――むしろこの年齢であればなおさら――、余計な犯罪を警戒をする必要があるらしい。恋人がいればまた違っていたのかもしれないが、男だった時はその手の身の危険を感じることはそうそうなかったから、以前の「貴之」の護身意識は薄かった。
「痴漢も痴女もおんなじよ。いざとなったら、変にカッコつけないで、ちゃんと悲鳴あげるのよ? 悲鳴と涙は女の武器なんだから、ちゃんと利用してね? 今のタカちゃんみたいに可愛い子なら、見て見ぬ振りされなくてすぐ助けてくれる人も多いはずだから」
ある意味女のしたたかさを示すような意見を言いながら、雪子は娘に手を伸ばす。斜めを向いている娘の前髪を、つまむように撫でる。
貴子はそれを少し嫌がって、首をひねって母親の手から逃れた。
「そんな状況にならないように、できるだけ気をつけるよ」
「本人が気をつけるだけですむなら、お母さんもこんなに心配しないんだけどなぁ」
雪子は笑って、可愛い娘から手を引っ込めた。
「タカちゃん、小学校の時学校から防犯ブザー貰ってたよね。どこにやったか覚えてる?」
「懐かしいね、どこだろ。ずっとカバンに入れっぱなしだったから、今もそのままかも?」
「そっか、じゃあ、今日はついでに護身グッズも買いに行こうね? あ、いっそ携帯も、また防犯ブザーつきの奴に買い換えちゃう? タカちゃんの今の携帯って、GPSもついてないよね」
「……いいけど」
貴子はじっと見つめるように、今の自分よりも背が高い母親を見上げる。
「母さんも心配性だね」
「だってお母さんはタカちゃんのお母さんだもの」
雪子は微笑んで、だがしっかりと娘を見返した。
「タカちゃんがいくつになっても、ずっとタカちゃんのこと心配するわ」
「……余計な心配も多そうだなぁ」
「あら、冷たいこと言うのね。お母さん、こんなにもタカちゃんのこと愛してるのに〜」
「ん、おれも母さんのこと愛してるけど?」
「だったらもっと優しくすることを要求するわ!」
真面目だったり照れ隠しだったり、冗談めかしていたり本音だったり。
笑顔で変なことを言う母親に、貴子もちょっと笑って言い返した。
「それは母さんの日頃の行いと相談かな」
母子二人、あれこれ言葉を交わしながら電車に揺られて、身近な繁華街に出る。
そんな母親がまず真っ先に娘を連れて行ったのは、自分の行きつけの美容室だった。
貴子としては美容室には抵抗があり、散髪専用の普通の床屋で充分だったのだが、これまで男として通っていた理髪店に、今の女の姿で行くのはそれはそれで抵抗があった。髪を自分で上手く切ることは難しいし、一からいい店を探すのも面倒だったから、ここでもいちいち母親に逆らわなかった。
「男の子でも、高校生くらいになると美容室に行くものじゃない? メンズカットだけするお店も多いし、タカちゃん遅れてたのよ」
「他人がどうかなんて関係ないよ。髪なんて長さだけどうにかなれば自分でどうとでもできるし。だいたい、美容師が男の髪をカットするだけって、たしか違法じゃなかった?」
「あら、そうなの?」
「いや、よく知らないけどね」
貴子が母親に逆らったのは髪の長さについてで、これまで病院でセミロングに切ってあった髪を、ばっさりとショートな長さに整えてもらい、首や耳周りをさっぱりさせた。事前予約を受けて常連さんのお嬢さんの担当を任された若い女性美容師は、本人の注文に本当にいいんですかと何度も念を押した後に、腕の見せどころとばかりハサミをふるっていた。
「うー、最初は身体が包み込めるくらい長くて、眠り姫みたいに可愛かったのに……。こんなに短くなっちゃって、しくしく」
髪型一つで雰囲気が大きく変わることもあるが、今の貴子は、細いうなじや小さな耳が全開で見えるほどに短く髪を切っても、女の子女の子した印象は消えてくれない。母親のわざとらしい嘆きをよそに、貴子の真正面の鏡の中の、短いボーイッシュな髪のその女の子は、つぶらな瞳で貴子を見つめ返していた。
本人は鬱屈した心理だったのだが、客観的には切なげにちょっと拗ねているようにも見えて、母親は「でもこれはこれで可愛いね」と、現金なことにすぐ機嫌を戻していた。「髪はまた伸ばせばいいものね」と母親は笑って続けたが、とりあえず髪を伸ばすつもりはない貴子である。
美容室を出ると、駅前から続くショッピングモールを歩き、母子で他愛のない話をしながら携帯電話ショップにも寄り道して、近くの大きなデパートに向かう。
いつもはやや大股で颯爽に歩くことの多い雪子だが、この日のペースは少しゆっくりだった。貴子は全く気付いていなかったが、小中学時代に戻ったかのように小さくなった我が子の歩幅に、雪子は合わせていたらしい。
デパートに到着すると、まずは祖父母への敬老の日の贈り物を選び、お昼ご飯にちょっと高くて美味しいものを食べて、二人少しのんびりする。それから改めて、母親の愛用のブランドスーツ売り場にも挨拶に立ち寄ったりしつつ、護身グッズに娘の私服に下着にと、予定通り買い物をしてまわる。
九月の連休初日の午後、穂積母子ご用達のそのデパートはそれなりに混雑していた。秋物の最盛期だけあって、特に婦人服売り場は賑やかだ。さすがに場所柄的に女性客がほとんどで、特に十代二十代向けの売り場は若い女性が多く、こんな場所に初めてまともに来たの貴子から見ると、余計に賑やかに華やかに感じられた。
同行の母親も、十代の少女向けの売り場はずいぶんと久しぶりらしく、少し物珍しげだった。雪子は明るく楽しげに、男の子から女の子になった我が子を先導する。
ちらほらと女性の付き添いの男性の姿も見受けられるが、売り場が売り場なだけに、若い恋人同士だったり家族サービス中の父娘だったりで、母親と年頃の息子、という組み合わせは見られない。穂積母子は、母と息子なら浮いたのだろうが、母と娘になった今では違和感なく溶け込んでいた。
見知らぬ店員さんに「素敵なお嬢さんですね」などと言われて雪子が喜んだり。賑やかに服を見ていた貴子と同年代くらいの少女たちが、貴子を見てちょっと嫌な顔をしたり。――自分たちが容姿や服装や装飾やお化粧に拘っているところに、「化粧っけも飾り気もなく普段着めいた格好なのに、やけに目立つ可憐な女の子が、無造作に服を選んでいる」という印象の貴子の姿が色々な意味で気に障ったのかどうか――。雪子がそれに気付いてこっそり自慢気に、と同時に我が子を守るように娘の背に手をあてるという小さな一幕があったりしつつ、母親が娘を引っ張りまわす形で、親子二人、あちこちを見てまわる。
ちなみに、そんな貴子のこの日の服装は、トップは白いTシャツと濃い藍色のカジュアルなオープンシャツで、ボトムはゆったりとした茶系のチノパンとシンプルなスニーカーだった。襟の開いたシャツは季節に合わせて半袖で、華奢なのに意外にもちもちとしている腕の半分が剥き出しになって、まだ太陽に全然さらされていない、雪のように白いきめ細やかな肌があらわになっている。やや長めの裾はシャツアウトにして、細いウエストや豊かなヒップが描く曲線をさりげなくぼかすように着こなしていたが、貴子の動きによっては時々しなやかに肌に張り付くようにもなり、しっかりとシャツを押し上げている胸のふくらみとともに、隠し切れない女性特有のラインがあらわになっていた。
チノパンは、きちんと試着をせずに母親が大まかに買ってきたせいか、少し丈が短い。貴子のウエスト位置が、身長の割に高いせいもあるのかもしれない。白い靴下に包まれた細い足首が、ちょっと動くたびに鮮明に顔をのぞかせていた。
今の貴子の身体は年齢平均より多少小柄で、肩幅も華奢なせいか一見細身に感じられるが、胸だけでなくお尻もふくよかで、要所要所は平均以上に発育している。短くなった髪や母親が選んだユニセックスな服装のせいもあって、直接的な色気は抑えられているが、その分かえって容姿の端整さが目立ち、大人しげな楚々とした印象が強調されていた。
昨今は少しガサツな女性も珍しくはないものだが、そんな女性たちと比べても、男から女になった場合は、どうしても男臭い雑な動作が抜けきれずに、品性に欠ける場合も多い。のだが、貴子の場合、幼い頃から真剣にスケートに打ち込んでいたせいか、はたまた母親の躾のおかげか、男だった時から基本的な姿勢がよかったのも大きいのだろう。肩にかけているワンショルダーのデイバッグや右手首のシックな腕時計は男物の一品だし、言葉遣いには男っぽさが色濃く残っているのだが、いつも背筋を伸ばしてまっすぐに歩く姿勢のよさと、繊細で清純そうな顔立ちとが、貴子の第一印象を方向付けていた。
その瞳の奥には、「貴之」の持っていた対外的な雰囲気――すべてに一線を引くような冷淡さや排他的な印象といったもの――も確実に宿っているのだが、可憐な容姿の印象が強すぎるだけに、よほど親しくなければ気付けない。無表情を貫いている時はどこかお人形さんめいた硬質さもあるが、母親と一緒にいる時は無意識に自然とガードが甘くなるのか、ちょっとでも笑うとぱっと明るい雰囲気も漂う。時々見せるうんざりした表情も、客観的には少し困っているような、拗ねているような甘えているような顔にしか見えず、本人は以前通り振る舞っているだけなのだが、その第一印象に騙されるものも多そうだった。
もっとも、母親に言わせれば、「タカちゃんは、男の子だった時もおんなじくらい可愛かったよ?」ということになる。親にとっては子供はいくつになっても子供だという意味なのか、それとも貴子の本質的な部分に、そんな要素が含まれるということなのか。後者だとしても、それは一面であってすべてではないのだろうが、貴子は母親のその言葉にいっそう冷淡な表情になって、なぜか母親に笑われた。
「タカちゃん、睨んでるつもりなのかもしれないけど、そんな顔を人に向けると誤解されちゃうよ。今のタカちゃんの目って、ちょっとすがってるみたいにも見えて、なんだか色っぽい」
「…………」
今となっては、母親より十センチ近く背が低いこともその理由の一つなのだろう。本人は顎を引き気味に冷めた横目で母親を見やったつもりなのだが、多少上目遣いにもなっていた。
この母親の発言の結果、貴子は夜に鏡の前で今の自分の表情の練習をしてまた暗い気分を味わうことになるのだが、それはまた後の話であった。
そんな貴子だが、当初、退院前は、今までの男物の衣服も充分着用できると踏んでいた。
だから当面購入を急ぐ必要はないと思っていたが、その判断は大間違いだった。ただでさえ身長が二十センチ以上低くなっている上に、体形も大きく変わっている。多少の身長差だけならどうとでもなったのだろうが、試しに着てみたら、肩や袖や裾や丈は余るしウエストはぶかぶかだし、なのになぜか胸やお尻はあまりゆとりがないしで、普通に着れる服が少なかったのだ。物置がわりの部屋から引っ張り出してきた中学時代のゆったりとしたトレーナーやカジュアルなパーカーなど、中にはサイズが合う服もあったが、変に似合うとでも言えばいいのか、男物の服ではかえって女の身体を強調するような感じになって、着こなしを考え直さなければいけないものが多かった。
その事実に気付いた後、貴子は鬱屈した心理になりつつも、母親にすべて任せて買ってきてもらうことを考えた。以前から母親はしょっちゅう楽しんで息子の服を買ってきていたから、そのセンスは信頼している。病院でちゃんとサイズは測っている――母親の手で上から下までしっかりと採寸された――し、入院中に当座必要なものを買ってきてもらったように、貴子の要望に合わせた実用性重視のシンプルな服を買ってきてもらえばそれですむ。
が、貴子がそれを告げると、母親はニコニコと「タカちゃん一緒に来ないなら、ふりふりのワンピとか、可愛いのばっかり買ってくるけど、それでもいい?」とのたまってくれた。
「ちゃんと試着して身体にあうのを選ばないといけないし、タカちゃんがどういうの気に入るのか、どういうのが似合うのかも、しっかり確かめないとね?」
雪子としては、息子から娘になった我が子と一緒にお買い物に出かけることも楽しみだったらしい。貴子は「変な服買ってくるとご飯抜きにするよ」と可愛い声でいつもの脅し文句を口にしたが、「最初くらい、自分の着るものは自分で選びなさい」と、笑いながらもちょっと真面目な顔をした母親に、結局根負けしてしまった。
思春期を迎えると変な意地がでてきて家族に素直になれない時もあるが、なんだかんだで、母親とおでかけするのは、貴子も嫌いではない。
が、いざ服を選ぶ段階になると、自分で選べという発言はどこに言ったのか、雪子は新米女の子の我が子にひらひらした服ばかり着せたがった。
「可愛い娘と一緒に可愛い服を買いに来るのって、お母さん、ずっと憧れてたのよね〜」
と雪子はご機嫌そうに笑っていたが、その言葉を雪子の友人が聞けば、「雪ったら、結局どちらでもいいのね」と笑ってつっこみを入れただろう。時々通信販売のカタログを眺めて、「カッコいい息子にカッコいい服を着せるのは母親のロマンよね!」と母親が主張していたことを、貴子も充分に知っている。
「選ぶならもっと動きやすそうなのを選んでよ。スカートなんかいらないって」
「えー、せっかく似合うのにもったいないじゃない。あ、こっちのピンクのレースの奴はどう? 今のタカちゃんなら、こんな細やかな柄も合うよね」
「だからさっきから、なんでそんなのばっかり選ぶのさ」
男だった時はどんな服を買ってこられてもそれなりに着こなしていた「貴之」だが、今のところ自分から進んで女の子女の子した格好をするつもりはない。男物に女性的な服が少ないのと対照的に、女物にはメンズライクな服も多い。そんな格好をしても着こなしが以前とは全然違って見える今の自分に、鬱屈したものを感じてしまうが――相対的にお尻や太ももも大きくなったせいか、ノーマルのジーンズを穿くのも妙に手間取ったりして、鬱っぽさだけが募っていくが――、母親が選ぶようなひらひらした服よりはましだった。貴子は装飾性より機能性重視で、むしろ今の自分の身体のラインを隠すような、ややゆったりとしたメンズライクの動きやすいものばかりを選び続け、母親が持ってくる服の十三分の十一は即座に却下し、サイズの確認以外の目的では試着もしなかった。
その母親は笑顔でぶーぶー不満を言っていたが、娘には内緒でこっそりと、娘が自分からはまず着そうにない服を何着か購入していた。貴子が知れば「また無駄遣いを」と思ったかもしれないが、貴子も貴子で、値段を見ずに物を選ぶという真似をしていたのだから、お金の問題に関してはあまり偉そうなことは言えない。母親の稼ぎがかなりいいおかげでお金の心配をほとんどしたことがない貴子は、もしかしたら結構お坊ちゃま育ちな一面があると言えるのかもしれない。――ちなみに、性転換病には国による助成制度があるし、性転換病オプションのついた保険にも入っていたため、今日の買い物もさほど負担はかかっていない――。
「ジャケット、せめて黒より、こっちの明るいのの方がよくなぁい?」
「んー、いや、こっちでいいよ」
「シャツも黒いの選んでたよね。タカちゃんって黒好きなんだっけ?」
「一点ずつでもあると合わせやすいから」
「そう? 今のタカちゃんに黒は――」
秋物のカジュアルジャケットを選ぶ途中、雪子は娘の発言に疑問を呈したが、言いながら我が子の黒ずくめの格好――凜としつつも細いウエストやヒップラインを隠し切れない黒いスラックスに、開いた襟から白い胸元が微かに覗く黒いオープンシャツ、その上からシャープな黒いカジュアルジャケットを羽織った、小柄だが充分にスタイルのいい十六歳の娘の姿――を想像したのか、言いかけたことをにこやかにくつがえした。
「そうね、なんだか色っぽくなりそうだけど、今のタカちゃんなら、カッコいいっていうより、可愛い感じで似合いそうね」
「…………」
「いっそ白も揃えちゃおうか。白もあると合わせやすいでしょう?」
「白はシャツ以外合わせにくいよ。ジャケットとかパンツで白は目立つし」
「今のタカちゃんなら、黒より合わせにくいなんてことあるわけないわ。とにかく見てまわりましょう」
「……見るのはいいけど、変なのは絶対着ないからね」
「お母さんを信用しなさいって。変なのじゃなくて、可愛いのを選ぶから大丈夫よ」
「それのどこをどう信用しろって言うのさ」
賑やかで明るい母親と、大人しそうな顔立ちと可愛い声ながらもしっかりと自己主張する娘、親子二人あれこれ言い合いながら秋物を中心に一通りも二通りも服を揃えて、靴下やベルトや靴も購入してまわる。
雪子は終始、娘に可愛いものやきれいなものをあてがいたがったが、靴に関してはサイズの問題が発生した。
身長との割合から考えても今の貴子の足は小さく、二十二センチ弱しかない。お店で改めて細かい足型計測をしてもらったが、ワイズも平均比率より小さいらしく、店員さんが在庫なしと言ってくることが多々あった。
「このサイズになってくると、在庫も少なく、どうしても取り寄せになることが増えてしまいますね……」
恐縮そうに頭を下げた店員さんによれば、在庫以前に、そのサイズ自体を生産しないケースも多いらしい。もっと小さなサイズに比べれば二十二センチの在庫はまだましな方だというが、いくつかの売り場を見て回っても似たりよったりだった。雪子は「せっかく可愛い靴あるのに履けないなんて、もっとメーカーも作ってくれればいいのに」と、自分のことのように不満顔をしていた。
女性の足の平均サイズやサイズ別の靴の需要なんて知らない貴子は、鬱っぽさを押し殺して「店側の在庫不足の言い訳かな?」と少しうがったことを他人事のように考えていたが、これは貴子の考えすぎである。
「足がちっちゃいと、バリエーションが厳しくなるのね……。小さい靴の専門店に行くしかないのかしら? 後は、子供向けとか? あ、でも今は子供向けのも可愛いの多そうよね。タカちゃん、ちょっと覗きに行ってみる?」
貴子はちらりと母親を見て、そのまま無言で売り場内を移動した。
『行ってらっしゃい。買ってもおれは履かないけど、一人で勝手に行って来れば?』
と、口には出さないがそういう視線と態度で、雪子は敏感に察して「タカちゃん無視しないでよ〜」とわざと泣き真似をして追いかけてきた。
娘がそんな態度だから、雪子もなんだかんだ言いつつ、我が子の好みを重視して靴を選んでいた。貴子が特定の靴に目を留めると、雪子は横から覗き込んで、素材や履き心地の観点からあれこれと建設的な意見を沿える。毎日履く靴は、ある意味服以上に健康や生活への影響が大きいから、雪子もしっかりと試し履きをさせたし、貴子もちゃんと履き心地まで確認して物を選んだ。
結果的に、貴子が主に選んだのは、多少低年齢から対応しているボーイッシュな運動性重視のスニーカーだった。やはり今の貴子は、「年頃の女の子のオシャレ」などするつもりなどない。冠婚葬祭使えます、というようなシンプルな革靴も買ったが、服と同様、靴も実用性重視だった。
そんなこんなで、靴も数足まとめ買いすると、さすがに荷物になるから服などと一緒に宅配を頼み、親子二人、次は女性用の下着売り場も巡る。
デパートが対応している客層の幅は広い。
雪子が娘を連れて行ったのは、比較的若年層向けの明るい雰囲気のコーナーだった。貴子が見た限り、さすがに男性客の姿はなく、カラフルな下着を手にとって明るくおしゃべりをしている中高生や、大学生や社会人らしき若い女性といった姿が多かった。一人きりの客も少なくはないが、家族や友人と一緒という客も珍しくはなく、ここでも穂積家の母と娘は自然に溶け込んでいた。
その客たちの中に、小学校高学年くらいの女の子と、そのお母さんらしい女性という二人連れの姿があった。
たまたま傍を通りかかった貴子の聞き間違いでなければ、その母子は、ファーストブラやジュニアブラがどうこうと、店員と話をしていた。九月の連休の今日、お母さんと小学生の娘とが一緒に、娘の初めてのブラジャーを買いに来たらしい。その女の子は初めてのブラジャーが少し恥ずかしそうだったが、同時に好奇心に目を輝かせて、商品を手にとっていた。貴子の誇大妄想かもしれないが、その表情には、はにかみと一緒に、大人になる嬉しさが滲んでいるようにも感じられた。
貴子はすぐにその母子から視線を逸らしたが、大人の女性がそんな女の子の姿を見れば、過去の自分を思い出したり、微笑ましさを覚えたりするのだろうか。
が、貴子にはそんな余裕はなかった。「母親と初めてブラジャーを買いに来た」という点だけ見れば、その女の子と貴子とは同じだが、その差は大きすぎる。
大人の女になっていくことをまっすぐに受け入れて、純真で未来への希望に溢れている――ように貴子には見える――その女の子と、女の身体で生きていくことになっただけの自分。
その差を感じたわけでもないし、貴子はそんな自分を卑屈に思ったりもしないが、その女の子のそういう初々しすぎる態度は、なんだか目撃した方が気恥ずかしさをかきたてられてしまった。
と、他人の姿には感情を揺さぶられた貴子だったが、自分の下着選びに関しては、表面上はいつものペースを崩さなかった。
貴子のもっとも身近な女性は、思春期の一人息子の前を下着姿でうろちょろしたり、息子にマッサージをさせたり、顔面パックをしてノートPCをいじっていたり、「うー、生理痛はいくつになっても嫌だわぁ」などなどと、あけすけな言動をとるような女性でもある。そんな母親を見て育ったきた貴子だから、楽しげに娘の下着を選ぶ自分の母親を横目に、半ば開き直って堂々と振る舞った。
女物の下着は、着ることにはまだ全然慣れていないが、洗濯物で母親の下着を扱うのは日常事だから、見ることさわることには慣れている。自分が着ることになると思えば忸怩たるものがあるが、色とりどりの女性用下着が陳列されているからと言って、露骨にいやらしい目を向けるのは下品だと貴子は考えるし、ちらちら恥ずかしそうに見るのもカッコ悪い。男が女性用下着売り場をうろちょろしていれば不審な目で見られるだろうが、身体が女になった以上、下手に焦る方がよっぽど不審で、堂々としていた方がかえって目立たない。
「タカちゃんったら、ちっとも恥ずかしがらないのね。初めてのブラジャーはお母さんも恥ずかしかったのに、平然としててつまんないわ」
母親はそう笑っていたが、そういう理不尽な発言は容赦なく黙殺である。はっきり言って、この間まで男だった自分に喜んで女物の衣類を着せようとする母親の神経が、貴子にはよくわからない。むしろ「元男の癖に女の下着を着るなんて」と反発を抱かれる方が、まだやりやすかっただろう。「お母さんの初めては小学六年生の時でね」などと、聞いてもいないのに自分のことを話し始めた母親の話には少し興味を引かれたが、気を抜くとベビードールやビスチェの下着やシースルーのネグリジェなどを試着させようするから、下手に油断もできないのであった。
実際は、充分気恥ずかしく、女物の衣類を真面目に選んだりしている自分が激しく情けなかったりもしたのだが、それを態度に出すのをよしとしないのが貴子だった。
そもそも、「男として生まれ育ってきた自分が女になって女物の下着を着る」のも情けないが、「男物の下着を着ている『女の身体の自分』」を考えても充分情けない。そしてそれを言い出せば、常に意識させられている「今の自分の女の肉体」を思うだけでまだかなり鬱っぽい気分になる。結局どれも気恥ずかしいのなら、身体が女になってしまった以上、服装は些細な問題だった。生きていく以上は、「現実」に対応していかなければいけないし、利便性を考えた必要に応じた行動という認識もあった。常に冷静沈着でいたいという気持ちは根強いし、本気で拒絶するならともかく、そうでない以上、自分からやってきた場所でいちいち取り乱していたらやっていられない。
女性もブラジャーなんて着けないのが普通という国が少なからず存在するようだが、日本では女性がそれを着用するのは当たり前になっている。貴子には世間一般の女性の気持ちなんてよくわからないが、これだけ普及しているのだから、相当のメリットもあるはずだった。
一度慣れてしまえばその快適さを手放せないのか、美容や健康の観点から拘っているのか、ファッションの一部として楽しんでいるのか、それとも、着用して当たり前という社会的固定観念に囚われているだけなのか。自分がこの先それを体験していくことを思えば、貴子はまた鬱っぽくなったりもするが、いずれにせよ、身体に合わせて服装を選ぶのは、大人でも子供でも男でも女でも当たり前のことだ。身体が変わってしまった以上、つまらないプライドに拘って頭ごなしに拒絶するよりは、冷静に試してみてから判断を下しても遅くはない。
「ついこの間までは男だったくせに」と蔑まれようと、それを深く気にするくらいなら最初からこんな場所には来ない。女の身体になってしまったのはもうただの現実でしかなく、それを変に気する方がよっぽど情けなくて女々しくてカッコ悪いし、むしろ女の身体や立場を利用するくらいの気持ちでいるべきだと貴子は考える。母親も、入院中は貴子の性格や好みに合った衣服しか買ってこなかったように、本気で話せばそれをわかってくれないような親ではないから、真剣に頼んで任せることもできた。貴子が今この場にいるのは、純粋に自分の意思での行動だった。
さらにもう一つ余計なことを付け加えれば、だれにも口に出して言うことはしないが――友人の槙原護などに知られれば「おまえって結構むっつりスケベだったんだなぁ」などと笑われるかもしれないが――、「思春期の男」である「貴之」としては、女性の下着にもしっかりと興味はあった。
男が直接関わることが、あまりない世界。
「男の純情からくる気恥ずかしさより、男のスケベ心からくる好奇心の方が強い」と言えば身も蓋もなくなるが、色とりどりの下着が似合ってしまう今の自分の立場を考えて激しく鬱っぽくなったり、好きな女の子のそんな姿を思い浮かべて桃色の妄想を抱きそうになったりつつ、貴子は好奇心に任せて色々と見物して回り、実用性重視で購入するものを決めていった。
商品を服の上から胸にあてたりして楽しげにふざけあっている、そんな同年代の他の客たちの姿を横目に、穂積母娘の買い物はゆっくりと進む。
トップの下着を選ぶ際、「貴之」はほとんどラフなTシャツですませて、保温性や吸汗性、着心地、デザインを中心に選んでいたが、女性であれば、女性特有の乳房に対する機能性などの問題が出てくる。
「タカちゃん、若い頃からちゃんと気にしないと、年取ってから形崩れちゃうわよ?」
母親は楽しげにアドバイスを口に出していたが、今の自分のその部分を意識するとやはり暗い気分になってしまう貴子は、話半分にしか聞かなかった。母親は他にも装飾性に溢れる凝ったものを選びたがっていたが、そういうのはもっと慣れて本人がその気になってからでも――その気になればの話だが――まだ充分間に合う。
貴子はまずは短期的な実用性を重視して、入院中に母親が買ってきてくれていたような大人用のハーフトップの下着――文字通りトップの半分、胴体の上半分を覆う丈の下着――の機能性を評価した。ブラジャーの軽い代用品になるインナーの種類は多いが、裏地の感触が優しくて二つの乳房をシンプルに軽く押さえて支えて保護をしてくれるそれらの下着は、手軽で使いやすそうだったからだ。ごく普通の飾り気のないブラジャーも、強い恥辱を味わいつつしっかりと試着をして、アジャスターによるストラップの調節やカップのフィット感など母親にあれこれと手と口を挟まれながら、とりあえず購入したが、同じ理由で、タンクトップやスポーツブラの有効性も認識した。男だった時は深く考えたことはなかったが、女性用の下着はちゃんと女性の身体のことを考えて作られているのが、当事者の立場になって少しわかった気にさせられた貴子である。――純粋な機能性より、寄せて上げるとかそういう方向の方が気合いが入っているらしいという歪んだ知識も得たが――。
雪子はすぐに娘の意思を尊重して、娘が気に入りそうなのを一緒に探していたが、できるだけ可愛いショーツがセットになっているものを、こっそりと見繕っていたのは娘には内緒だった。
そのボトムは、今の貴子は男物のトランクスをとりあえず穿き続けているが、自分の今現在の経験から、女の裸に男物のトランクスという格好はきわどい印象だという自覚を、充分に持っていた。昨今は部屋着としてメンズのトランクスを穿く女性も増えているともいうが、好きな女の子がそんな格好をしていれば、普通の下着姿と同じくらい興奮する自信が貴子にはある。
そんな余計な妄想を抱いたりしながら、貴子は結局冷静に女物のボトムも購入した。今の貴子では、男物のトランクスはウエストにサイズをあわせるとお尻の方にゆとりがなくなるから、それを補うようなものを中心に、できるだけメンズライクなものを選ぶ。
当然、と言っていいのかどうか、もともと男だった時からブリーフを避けていた貴子は、股下が切れ上がって腰にぴったりフィットするような、見た目が逆三角形を描く類の下着を敬遠した。貴子が選んだのは、ボーイズレングスやボーイレッグと呼ばれる脚口が水平なタイプのものだった。ホットパンツに近い形状のもので、強いて分類するなら、フレアショーツやタップパンツ、レディーストランクスやボックスショーツと呼ばれる類の下着になるかもしれない。
「お尻をもっとキュッてしてくれるのを選んだ方がいいのに」
とかなんとか母親はまたしても意見を述べたが、若く瑞々しい今の貴子の身体は、その手のことをまださほど気にする必要もない。そうでなくとも、今の貴子は自分の美容にさほど頓着していない。週に二度はフィットネスクラブに通うなど意外に美容と健康に気を遣っている母親は、「後で後悔しても知らないわよ?」などといじけていたが――雪子に言わせれば、男であれ女であれ、どんな生き方であれ身体は人生の一番の資本であるらしい――、貴子としては悪くなければそれで充分だった。健康の問題には留意するが、美容やスタイルの維持向上などを気にする前に、やはりまずは慣れることが先決だった。
が、飾り気のない比較的シンプルなものを中心に選んだが、選択肢が貴子が思っていたよりも多くなかった。男物のトランクスのようにゆとりがあるものは全体的に少なく、ボックスタイプでもぴったりと優しく包み込むようなものが多かった。
「なんだかんだで、これはこれでフェミニンだし、今のタカちゃんには可愛く似合いそうね。かえってそっちの方が変に意識しちゃいそう?」
と母親はすぐに機嫌を直していたが、よりましだと思えるシンプルなものを選んだだけの貴子は、鬱になりそうな気分を抑えて、そんな母親を半ば無視してすませた。貴子にしてみれば、下着以前にその中の自分の肉体自体を無視できないのだから、男物の下着であっても変に意識してしまいそうなのはまだどれも同じだった。
そんなそっけない娘に、雪子はわざといじけて見せつつも、ここでもこっそりと、娘に気付かれないように、スリップやキャミソールなどがセットになっているものを勧めていた。本人はその類の衣服が必要になる時は、男物と同じようなTシャツやタンクトップですませる気だったから、母親が余計なものを買っていることに最後まで気付かなかった。
そんなこんなで、母親の勧めでサニタリーショーツなども数点買ってまわって、下着選びも終了する。
「もう少し早ければ水着も間に合ったのになぁ」
満足半分不満半分で娘の下着選びを終えた母親は、さらに水着売り場やアクセサリー売り場、化粧品売り場にも娘と一緒に見に行きたがったが、歩き疲れと気疲れを感じてきていた貴子は、容赦なくその提案を却下した。とりあえず日常生活に困らないだけあれば充分で、後は必要を感じてからでも遅くはない。
「そうね、今のタカちゃんにお化粧なんていらないものね」
と母親は笑っていたが、すぐに真面目な意見も付け足した。
「でも、せめて日焼け止めくらい、少し見て行かない? 今のタカちゃん、肌強そうには見えないし過敏そうだし、前より気にしなきゃだめよ?」
「……言われなくても、ちゃんと気にしてるよ」
オゾン層の破壊や紫外線量の増加がたびたび問題になっている近年、その影響が大きい国では、親が子供に日焼け止めを塗ることを法律で定めていたり、子供でもサングラスの着用が当たり前だったり、夏場でも長袖シャツを義務付けている学校もあるという。日本ではまだそれほど深刻ではないが、多少過保護な母親を持つ「貴之」は、小さな頃からしっかりと対策を施されていた。
そんな「貴之」だから、三つ子の魂百までと言っていいのかどうか、成長してからもずっと自主的に紫外線対策を行っていた。どちらかというと日焼け後のひりひりする感覚が嫌で、夏場に長時間外で活動する時に日焼け止めを塗っていた程度だが――本格的に紫外線を気にするのなら春夏を中心に曇りの日も室内でも年中対策が必要になる――、紫外線と日焼けと皮膚ガンの関連性は、貴子も知識としてそれなりに認識している。今日は屋内での買い物が目的だから、特に日焼け止めも塗っていないが、「貴之」にとっては価格も手間もたいしたことはなかった。
「そんなこと言って、前の日焼け止めをそのまま使うつもりじゃないでしょうね? もう試してみたの?」
「まだ試してないけど、合わなそうなら近くで自分で探すからいい」
「やっぱり。だったら今見ていきましょうよ。ここでなら肌に合うかチェックもしてもらえるし、用途に合わせてお母さんがちゃんと選んであげるわ」
「今日はもういいって。ほら母さん、後は制服買いに行こう」
「あ、こら、待ちなさい」
母親は少し真剣に忠告をしたが、やや感情的になった貴子は取り合わない。声や容姿は可憐なのに、態度は以前と全く変わらない我が子を、雪子は軽く笑って追いかけた。
「お化粧も、少しずつでも覚えていってもいいって、お母さん思うんだけどなぁ。高校生って言ったら、男の子だって美容に気を遣うお年頃じゃない? 男性用コスメも最近多いし、香水とかお化粧とか、とっくにしててもよかったのに」
娘に並んだ雪子は、また貴子を鬱屈させるようなことを言う。貴子は深く考えたくなくて、強気に母親の相手をする。
「いまさら、男のことは関係ないよ。もう今は――身体は女だから」
「あら、都合のいい時だけ女になるのね。男の子でも女の子でも、若い頃しかできないことも多いんだから、いっぱい楽しまなきゃ損よ?」
「だからそういうのは気が向いてからでいいって」
「その気がなかなか向かないくせに〜」
そんなふうに主導権を握ったり握られたりしながら、母娘二人買い物を続けたが、制服についてはちょっと雪子の機嫌が悪くなるようなトラブルがあって、購入は翌日になった。
学校指定のお店の一つを訪れたのだが、制服は生徒にしか販売しないというのが徹底していて、生徒である証明の提示が求められたからだ。まだ貴子は女子としての生徒手帳を持っていなかったが、それだけなら、男子の生徒手帳と共に性転換病用の身分証明書を提示して本人確認をしてすむはずだった。しかし、お店の人が性転換病に偏見を持っているようで、男から女になったという貴子に対して侮蔑に近いマイナスの反応を示し、我が子を馬鹿にされたと感じたらしい雪子が急激に冷淡な表情になってキレかけたのである。
「母さん、いちいちこんなのに構ってたらきりがないよ」
貴子は母親の腕を軽くつかんで、華奢な抑えた声で無造作に母親を制したが、雪子は許せなかったようで、翌日に別のお店に行くことになったのだった。
雪子はこんな店員がいる店に学用品の販売を任せる学校側にも強い不満を抱いていたが、学校側も店員一人一人の偏見にまで気を配っていたら大変だし、この手の偏見は表面化しづらい上に根強いものだ。貴子は「この先も似たようなことがあるんだろうな」と思うとうんざりしたくなったが、他人にそこまで多くを求めない。そのかわり、その日その後は、自分のかわりに怒ってくれた母親に、無意識のうちに甘くなっていた。気付いたのは甘くされた母親の方で、自分の頬に片手を当てて「うふふふ」と嬉しそうに我が子を見やっていた。貴子はそれが自分のせいだと気付かず、また何を企んでいるのかと警戒してしまい、雪子はそんな娘に声を出して楽しげに笑った。
翌日、日曜日の午前中、母親の運転する自家用車で別のお店に制服を買いに行き、今度は特にもめることなく話が進んだ。
制服は既製服とオーダーメイドから選択できたが、幸いサイズの合う在庫があったから、貴子は既製服で済ませた。フルオーダーを頼みたがった母親はつまんな〜いと主張したが、そもそも明後日にはもう登校だからオーダーメイドでは間に合わない。サイズの合う在庫がなかった場合、学校の許可をもらってしばらく私服で通うことになっていたのかどうか。
ともあれ、近年の樟栄高生の流行に合わせた丈直しもしなかったから、夏服冬服とネクタイにベストにセーターにボックスコート、夏冬の体操服まで、数着ずつすぐに購入できた。他にも、後で学校の購買で買うことになると思っていた上履きや体育館シューズや体育帽、黒いスクールストッキングに冬の防寒用のスクールタイツ――流行っていないのか冬場でも着用する女子は少ないが――も置いてあったから、母親の勧めでとりあえずそれらも一通り揃える。幸か不幸か体育の水泳シーズンはちょうど終わっているから水着の購入は来年に丸投げしたが、体操服を一式買ったから、おまけで新しい体操服袋――体操服とセットのデザインの、大きな巾着のような布製の袋――もついてきた。制服一式にもおまけがあって、ワンポイントのマークの入った夏用の白ソックスと冬用の濃紺色のハイソックスが、ワンセットにつき二足ずつついてきた。
夏冬の体操服や体操服袋、上履き、体育館シューズに入る色は入学年度ごとに決まっていて、今の一年生は赤、二年生は緑、三年生は青になっている。それに加えて、男子は濃い色、女子は淡い色と、性別で色の濃さが違う。貴子が揃えたのは、各種、淡い緑色のものだ。
後は標準指定の通学靴――男女ともに濃褐色のローファー――があれば学校指定の格好が揃うところだったのだが、通学靴だけはそのお店には置いてなかった。いったいどういう基準で商品を置いているのか、貴子は内心小首を傾げたが、当面は昨日買った靴ですませることにして、通学靴の購入は見送った。
多少余談だが、貴子の通う樟栄高校と樟栄中学の制服や体操服のデザインは、名の知れたデザイナーになっている卒業生の手によるもので、生徒たちの評判もなかなかいい。素材や仕立ての割には値段も抑えてあって、それでも並の公立校の制服よりは値が張るが――ちなみに女子の制服の方が男子の制服より若干高い――、このあたりは私立校の強みであり、経営努力といったところだろう。「貴之」が高校を選ぶ際、母親の雪子は学校経営の健全さや人材環境という観点で息子にアドバイスをしていたが、こんなところにも、雪子のアドバイスの正しさの一端があらわれていた。逆の言い方をすれば、むしろ樟栄高校の方が、我が子を預ける場所として厳しいチェックを入れた雪子のお眼鏡にかなっただけのことはあった。
そんな学用品が順調にそろうと、雪子の友人オススメのレストランなどに寄り道をしてから一度家に帰り、昼下がりから改めて、生徒手帳用の証明写真を撮りに出かける。
娘の髪を念入りに整え、買ってきたばかりの新品の制服に着替えさせて、なぜか自分もしっかりと着飾って薄くお化粧をした雪子は、一人で大丈夫という娘を引っ張って写真屋さんに連れて行き、真っ先に大判の記念写真を注文した。
「七五三の子供じゃあるまいし」
高校入学時以来の大仰な写真撮影に、貴子は少しずれたことを口に出したが、母親にとってはそれと同じくらいの感慨があったらしい。「タカちゃんが女の子になった記念ね」と楽しげに笑う雪子に、貴子は鬱屈交じりに「そんな記念いらないよ」と答えたが、なんだかんだで逆らわなかったのだから、母親との写真自体は嫌っていないということなのだろう。
十六歳の一瞬を切り取った制服姿の写真や、笑顔の母親との母子ツーショットの写真。
そんな大判の写真を何枚か撮り終わると、ついでに持ってきたデジカメでの撮影も頼んで、そちらはすぐにセルフサービスでプリントを行なう。「おじいちゃんたちにも送ってあげないとね」と笑って、雪子は余分にプリントをしていた。
大判の写真は仕上がりに数日かかるということだったが、生徒手帳用の証明写真やデジカメの写真は少し待つだけでできあがった。その写真の中には、貴子が知らない間に撮られた入院中の写真もあって、貴子は母親の言う「眠り姫」状態の「自分」の写真を見て、暗い表情をしたりした。制服姿の写真も、やはりまだそれが自分だとは思えない。
多少独特なデザインの半袖オーバーブラウスと、膝丈のタータンチェックのプリーツスカート。ワンポイントのマークの入った白いロークルーソックス――ふくらはぎの半分よりやや短い一般的な長さの靴下――に、学校指定のコインローファー代わりの、シンプルな小ぶりのスニーカー。
男子は夏服でもネクタイ着用だが、女子の夏服にはリボンもネクタイも存在しない。四つボタンの白いオーバーブラウスは、首まわりはややシャープだが、大きめの襟が印象を和らげて、丸みを帯びている袖や裾のラインとともに優しげな雰囲気を作っている。胸部の左ポケットには校章の刺繍が施され、襟と袖と裾とそのポケットには黒っぽい細い二本のラインが走って、少し大きめの淡い褐色のボタンと一緒に、ちょっとしたアクセントになっていた。オーバーブラウスだから当然裾はスカートの中に入れないのだが、短い裾がスカートに少しだけかぶさるのも、どことなく雰囲気を華やかに引き締めている。白黒のタータンチェック――正確には白と濃紺系色――のプリーツスカートは、数種類の色のバランスが明るい組み合わせで、独特なデザインのブラウスと相まって、夏服らしい涼やかさと、高校生らしい清潔な明るさを演出していた。
今の貴子がその制服を身にまとうと、もともとの姿勢のよさと小柄な身体、繊細で可憐な容貌や肌の白さと相まって、楚々とした印象が強まる。と同時に、充分に発育した要所要所が、本人の気持ちに関わりなく、今の貴子が年頃の少女であることを自然に主張していた。
もう言うまでもないだろうが、結局、貴子が選んだ制服は女子用のものである。
好きな女の子の制服姿には見惚れていたくせに、貴子は自分が着る立場になってみれば、「女子の制服って変に男に媚びてるよな」と、強い情けなさとともに皮肉っぽくそう思う。服装の強制による、ジェンダーの押し付け。当事者である女子生徒たちはそんなこと気にしていないのかもしれないが、どんな建前があるにしろ、制服の存在自体が一定の価値観の強制を意味していることまでいまさら気になって、貴子は多少シニカルな気分にもなる。
それでも貴子が女子の制服を選んだのは、身体が女になった以上、世間に合わせた方が総合的に楽だという判断が大きかった。貴子は男らしさや女らしさに拘るつもりはないが、仮に男らしさに拘るとしても、自分の身体が女であることに下手に羞恥を感じたり学校の制服など瑣末なことに拘るのは、貴子の考える男らしさには程遠い。
貴子にとって、自分の身体が女になったという事象は、単に対応していかなくてはいけない目の前の現実だった。世の中には何度でもくつがえる事象もあるが、二度とくつがえせない、くつがえらない事象も多い。今この瞬間の現実を見つめて、それを踏まえて、これからどう動くか。問題は、すでに起きてしまった出来事ではなく、これからのことだった。
覚悟する時間は充分にあったし、自分の身体が女になった現実を受け止めきれずに意味もなく騒ぐほど、感情的な可愛げのある性格でも子供でもない。結局人は自分以外の何者にもなれない。他人に何を言われようとどう思われようと、要は譲れない線をしっかりと自覚してそれだけは守って、自分の望む自分らしく生きていくことが大切なのであって、貴子にとって多少世間に迎合しておくことなど単純な処世術であり、たいした問題ではなかった。おまけで付け加えれば、今の貴子はただ生きているだけでも常に自分の女の肉体を意識してしまっているのだから、服装の影響は相対的に言ってそう大きいわけではなかった。
……とは言え、冷静に判断を下して自分で選んでいることだとしても、やはり貴子も、心の底から平然としているわけでもない。私服はメンズライクなものをいくらでも選べるが、樟栄高校の制服は男女差がはっきりとしている。肉体的にはもう自分の望む自分で在ることはできないし、頭でどんな理屈を積み上げてみても、今の自分の身体が女であることや、女物の下着やスカートを着ること、おまけにそれらがやたらと似合ってしまうことには、やはり苦しくて忸怩たるものがあった。どんなに理論武装してカッコつけてみても、顔にも態度にも出さなくとも情けなさや鬱っぽさや恥辱が存在するし、スカートの布地が足にまとわりつく感覚に苛々したり、人の視線に不快になったもする。「どう頑張っても不細工にしかならない」などというのよりはましだが、女として似合っても嬉しくないし、今の自分の女の身体を強く意識してしまうとすぐ落ち着かなくなる。
さらに言えば、過去の自分の経験から、男が「今の自分」をどう見えるかが想像できてしまい、男にそんな目で見られることへの気色悪さも抑えきれない。そんな想像をしなければいいのだろうが、貴子自身が他の女性をそういう目で見ることがあるし、今の自分の身体の生々しい部分を嫌でも意識して、自分で自分の身体をそんな目で見てしまうこともある。ある意味自意識過剰なだけなのかもしれないが、だとしてもそう簡単にはぬぐうことのできない感情だった。
だから、そんな感情に振り回される自分自身のことがみっともなくて情けないと感じてしまうから、貴子は強く意図して、最大限それを表に出さないように努めているだけだった。
ちなみに、そんな貴子だから、制服のブラウスの中、下着の上にはまだ暑いのに一枚Tシャツを着たし、スカートの中にもしっかりと短パンを穿いた。
「思春期の男子」だった「貴之」は、女子のスカートが翻って太もものきわどい部分が見えた時や、時々制服のブラウスから透けて見える下着の線を見つけてドキッとした経験がある。世の中には女性の制服などに対するフェティシズムが存在することも、まだ十六歳の「貴之」はあまり意識していなかったが、知識としては知っている。自分がその見られる側の立場になっていると思えば暴れたくもなるが、それが今の貴子の現実だった。そんなことを気にすること自体にも淀んだ気分になりつつ、貴子は男の余計な視線を少しでも避けるために予防線を張った。
樟栄高校の女子のブラウスは比較的透けにくくできているらしいが、それでも光の具合によっては透けて見えることがあるから、一枚余計に着ていれば透けることはなくなる。ボトムの方も、スカートだから白い靴下に半分包まれたふくらはぎや足首のラインは嫌でも剥き出しになっているが、短パンを穿いていれば、多少雑に動いてスカートがまくれあがったりしても、少しは余計なことを気にせずにすむ。
スカートは丈直しをしなかったし、ウエストで折り曲げたりもしていないから、膝も時々しか見えない長さで、近年の流行を考えると長めである。貴子に言わせればまだ短いくらいだが、そんな長さのスカートがかえって清楚な雰囲気を強調して、今の貴子にはよく似合っている。なのにスカートを気にする娘を、母親の雪子はこっそりと笑っていた。
実際は、基本的な姿勢がよく粗雑な動きをしない貴子は、スカートが変に乱れたりすることは滅多になかったのだが、スカート初心者の貴子がそれを自覚するには、スカート着用の経験と、その経験を伴う理解が絶対的に足りていなかった。ただでさえ自分の女の肉体を四六時中意識している貴子は、気にしたくないと思いつつも、ビジュアル的にも感覚的にも機能的にも、スカートもしっかりと意識していた。貴子の動作にもそれは現れていて、その雰囲気が他人にどう見えたのか、貴子が気付いていたら、また少し鬱な嫌な気分になったかもしれない。
写真の引き換え券と証明写真を受け取って、セルフプリントも終わった後は、帰りに行きつけの地元のスーパーに立ち寄って、食料品の買い物をしていく。
衣類や日用品雑貨や化粧品、生花や高価な食材なども扱っている少し規模の大きいスーパーで、普段からよく食卓やリビングに飾る一輪挿しの花を買ってくる貴子の母親は、荷物が少ないうちに生花コーナーにまっすぐに向かい、珍しく花瓶に飾る花束を選んでいた。「貴之」も母親に合わせて時々気ままに食卓に彩りを添えたりするが、母親と一緒の時は母親任せにすることが多い。この日もここで別行動をとり、貴子は先行して食料品売り場に向かった。
お店の買い物籠を片手に持って歩き回り、細かい食材を厳選して籠に放り込んでいったが、休日なのに制服姿だったせいか、そんな貴子は妙に目立っていた。小学生の頃からしょっちゅう通っていたから、男だった時も多少目立っていたが、その時とは違う目立ち方だった。貴子の通う樟栄高校は、電車を使っても一時間ほどと近くはないせいもあって、見慣れない制服だったこともその一因だったのだろうか。途中で合流した母親は「さすがタカちゃんよねっ」と鼻高々だったが、貴子はとても同調はできない。今の自分の外見が客観的に可愛い女の子で、周囲の目を引いてしまうらしいことは、あまり認めたくないことながらも嫌でも感じていたが、それで目立ってもやはり全然嬉しくない。
買い物の後は、買い込んだ荷物を持って、花束を持つ母親と一緒に家に帰る。
家に着くと、貴子は荷物の中身を冷蔵庫に移し、母親が花瓶を用意する間に自室に戻った。さっさと制服を脱いで中に着ていたTシャツと短パン姿になると、脱いだ制服はハンガーにつるし、「自分の部屋に女子の制服がつるされている光景」にまた鬱屈した気分になったりしつつTシャツも脱ぐ。残った白いハーフトップブラの上から半袖のカットソーをかぶって、ボトムの短パンもラフなロングパンツに着替える。
洗面所に立ち寄ってからリビングに戻ると、リビングテーブルに花瓶を飾った母親も、ノースリーブのサマーセーターにカプリ丈のパンツというカジュアルな格好に着替えて、隣の和室から出てきた。後は特に予定もなく、リビングで母子二人、のんびりと日曜日の午後を過ごす。
夕方になると、母子共用で使っているノートPCで家計簿をつけたりしていた貴子は、ゆっくりとお風呂や夕食の準備に取りかかる。
食後の「またお母さんと一緒にお風呂入る?」という笑顔の母親の提案は、当然容赦なく却下である。雪子としては、「貴之」の幼い頃のようなスキンシップを繰り返すことで、女の子になった我が子にもっともっと慣れたいという意図もあったようだが、言ってくれなければ貴子はそこまで察することはできないし、察したとしても気軽には頷けない。いい年をしてわざと唇を尖らせて拗ねる母親を適当にあしらって、貴子は入浴前の簡単なストレッチをこなす。
この手のストレッチ体操は、「新しい身体に慣れるのはやはり身体を適度に動かすのが一番」ということで、リハビリとして推奨されている行為だ。慣れない間の無理な運動は、身体の限界を無視して動いて怪我をしやすいらしいから、貴子もまだしばらくは、できるだけ習慣にするようにしている。妙にふにゃふにゃしているように感じる今の自分の身体に、もういつものことながら鬱っぽい気分になったりするが、貴子は昨日の分もしっかりと――昨日は歩き疲れたからサボった――真面目に身体を動かした。
運動の後は、手早くお風呂を済ませ、普段着に着替えてリビングに戻り、母親と一緒に果物を食べる。プリントしたばかりの写真を真新しいアルバムに貼り付ける母親を横目に、貴子はちょっと切なくなりながら、久しぶりに昔のアルバムを見たりした。
今まで、男としての自分の姿が綴られてきた、数冊のアルバム。
そのアルバムに、「貴之」のこれからの写真が増えることは、もう一生ない。そう思うとやはり貴子の胸は苦しくなったが、母親が横から覗き込んできたために、感傷は長く続かなかった。思い出話に包まれた和やかな夜になってしまったのは、母子どちらにとっても悪い夜ではなかった。
趣味は子育てと仕事と旅行と食べ歩きと芸術鑑賞、などと放言する雪子は、まとまった休みが取れれば子供を連れて旅行に行く方で、「貴之」も中学までは「家族旅行に行くので学校を休みます」という手段を頻繁にとっていて、子供の頃の写真は旅行先のものが多い。国内外の一般的な観光名所での写真だけではなく、母親の趣味のおかげで、スキューバやスカイダイビングをやった時などの写真も混じっている。
「今度から旅行も、少し安くあがりそうね」
「? なんで?」
「ハハコ割引――あ、母と娘って書いてハハコね、があるとこって今多いでしょう? 母親と息子でも割り引いてくれればよかったのに、そのあたり気が利かないわよね〜」
「……ああ。男が母親と二人で旅行なんて、あんまり多くないだろうから」
これまでも、子供割引や家族割引を利用することも多かったが、母娘割引も利用できれば確かに選択肢は広くなる。――もっとも、雪子も貴子も勘違いをしているが、母娘割引は娘が十八歳以上という条件が多く、メインターゲットが「大人の母娘」になるから、子供割引よりは割高なことが多い。後日詳細をあれこれと調べてみてから、雪子は「これって、タカちゃんが十八になるまでほとんど意味がないのね」と愚痴をこぼすことになる。約二年後には、「子供割引は使えなくなったけど、母娘割引があるから、タカちゃんが女の子だと少しはお得ね」と再評価することになるが、それはまだだいぶ先の話だ――。
「あは、いい息子さんですねって、お母さんいつも羨ましがられてたもんね〜。タカちゃんみたいな子供で、お母さん幸せね」
「はいはい。さすがにこの年になると、そろそろ変な目で見られそうだったけどね」
現代の風潮として、「母と娘」で仲がいい場合は好意的に扱われて、母娘割引など母娘をターゲットにした商法も広まっているようだが、「母と息子」で仲がいい場合はマザコン扱いされて、ネガティブなイメージで見られやすい。
「そんなの、変な目で見る人の方が変なのよ。度を過ぎなければ、家族は仲いいに越したことないでしょ」
「母さんは充分度が過ぎてる気がするけど」
「あは、冷たいこと言うのね。でも、もうそんな気にしなくていいわよね。今年は秋とか冬にも長めの旅行行っちゃおうか?」
「……いいけど。行くとしたら十一月? 確か連休なかったから、日帰りとか一泊かな?」
「あ、今年そうだっけ。じゃあ冬休みは?」
「ん、冬休みはあんまり時間取れないよ。スキー行きたいし、さすがにそろそろ勉強も本腰入れたいから」
「やっぱり今年も学校の行っちゃうの? スキーならお母さんと一緒に行きましょうよ。学校の旅行なんてやめとかない?」
「……どうかな。まだ決めてない」
「あら珍しい。そうなの?」
「まだ、学校もどうなるかわからないから」
そんな旅行以外の写真は、「貴之」が熱心に通っていたアイススケートリンクでのものが比較的多い。母親の友人の影響でオリンピックに出るなどと本気で考えていた幼い頃の自分と、才能の限界を決め付けてその夢を諦めてしまった中二の頃のことを思い出すと、貴子は今でも苦く切ない気持ちになるが、もう今となってはそれも思い出だった。
翌日、連休最後の敬老の日は、起きた時はちょっとスケートでもして身体を動かしたい気分だったが、貴子の身体は朝から女性特有の現象を見せていた。母親の勧めで購入していたおりものシートを初体験してみるはめになって、貴子はひどく鬱っぽく不快な気分にさせられたりした。深く考えたくなかったから、午前中は小中学時代のスケート靴やプロテクターやヘルメット、母親のお古まで引っ張り出して、小さくなった足や頭のサイズなどを確認して過ごしたが、その鬱屈には、「異性の身体」である今の自分の肉体に対する性的欲情も混じって、どうしても気になってマイナス方向に意識してしまう。
珍しく休日なのに早起きをした雪子は、そんな娘の気持ちにどこまで気付いているのか、おやつに間に合うようにと、午前中のうちから久しぶりに我が子の好物のバニラムースを作っていた。
昼前には、先日の買い物の戦利品が送られてきて、昼食後はクローゼットの整理などをして過ごす。一方的に手伝いを買って出た雪子は、もう二度と着用することがないかもしれないサイズの合わない男物のトランクスなどを一枚一枚整理する娘を見て、こっそりと笑っていたが、明日からのことも考えてかなり憂鬱な気分になっていた貴子は、母親のその視線に気付かなかった。
が、その視線には気付かなかったが、母親が余計な服や下着、スリップやキャミソールなどをいつのまにか買っていたことには、さすがに気付いた。容赦なくクローゼットの奥に封印する娘に、雪子はちょっといじけていた。
夜は、もうだいぶ高齢の祖父母にこちらから電話をして、控えめに敬老の気持ちを伝える。
『おばあちゃんが新しいタカちゃんを忘れないうちに、早く会いにきてね?』
夕方に無事届いたらしい贈り物と電話へのお礼の言葉の後、わざとらしく寂しそうにそんな台詞を言う祖母は、彼女の娘である雪子と、よく似た親子かもしれない。貴子は接近中の台風や昨日撮ったばかりの写真のことをネタにして、何とか話をそらそうとしたが、あまりごまかせていなかった。
地元ではそれなりの資産家で通っている穂積家の祖父母は、長男――雪子の兄で貴子の伯父――の一家と一緒に住んでいるのだが、遠方に住んでいて頻繁には会えない娘の子供を、かなりかまいたがり甘やかそうとする。貴子以外の孫――貴子の従兄の二人――がもう結婚の噂があるほどに成人しているのも大きいのだろう。娘が早くに離婚したせいで、父親を知らない末の孫を不憫に思う部分もあるらしい。貴子本人に言わせればピントのずれた同情なのだが、「今は父親のことなんて全然気にしてませんよ」と本心を語っても強がっているとしか受け取ってもらえないのだから、もうお手上げだった。
ずっと祖父母と離れて育った貴子にしてみれば、会うたびにお小遣いをたくさんくれるそんな祖父母が、嫌いではないが、家族というにはちょっと気持ちに距離がありすぎた。いっそどうでもよければもっと打算的に振る舞うのだが、基本的に好きだったりするから厄介で、はっきり言って苦手意識があった。
もう七十代なのに元気一杯な祖父母としては、そのためにかえって、いっそうかまいたくなるらしい。丁寧語を使って控えめにしか接することができない貴子の中途半端な感情と違って、祖父母の姿勢は、孫に甘いおじいちゃんおばあちゃんだった。特に祖母は、孫息子が孫娘になってもまったく態度が同じで、以前通りニコニコとプレッシャーを与えてくる。
すぐにせっつかれたのか、祖母は祖父に電話を変わったが、祖父も祖父で、この日はちょっとたちが悪かった。「貴之」のことを「タカ坊」と呼んでいた祖父は、病院にお見舞いにきてくれた時は少し気後れしていたようなのだが、すっかり復活していた。これまで孫が男の子ばかりだったから、妻同様、孫娘ができたのを素直に喜ぶことにしたらしい。
『もしもし、タカ坊か?』
「はい、こんばんは。この間はお見舞い、ありがとうございました」
『う、うむ。もうすっかりいいのかね』
以前とは全く違う、孫娘の繊細で甘い少女の声に、祖父はどこか照れたような声を出す。
声だけが強調される電話ごしの会話に、貴子は「今の自分の声」に強く鬱屈したものを感じさせられていたが、祖父と違ってそれを態度に出したりはしない。以前と同じ態度を崩さない。
「おかげさまで、普通に過ごせるくらいには、体調も戻りました。最近暑かったり涼しかったりしてるけど、おじいちゃんたちの方はお変わりないですか」
『…………』
「…………」
『…………』
「? おじいちゃん?」
『う、うむ、いいものだな……』
「はい?」
『あ、ああ! ごほん! なんでもないぞ。あー、なにやら言ってた写真はいつ届くのかね?』
「え? あ、っと、急ぎで頼まなかったから、二週間くらいです」
『そんなにかかるのか。さっき、デジカメがどうこう言ってたようだが?』
「デジカメの写真だけなら、もうプリントしてあるんです。おばあちゃんは後で一緒でいいって言ってましたけど?」
『ああ、うむ、いや、かまわんぞ。そちらだけ今から投函してきなさい。あ、いや、いかんいかん! 女の子がこんな時間に出歩いちゃいかん! 明日でいいぞ、明日で。いや、待ちなさい、今からお母さんに持っていかせなさい』
「さすがに、それは……」
おじいちゃん、むちゃ言いすぎ。
とつっこみたくなった貴子だが、祖父母に対してそんなになれなれしくはできない。露骨に自分を女の子扱いしているような祖父に忸怩たるものを抱きつつも、「まだ封筒とかも用意してないですし」と、穏便に言葉を濁した。
やけにハイテンションな祖父は、話の後半では祖母と同じように『正月にはちゃんと元気な顔を見せに来なさい』『また一緒に釣りに行くぞ』などと孫娘をせっついてくる。貴子は「えっと、受験勉強もあるし、余裕があれば、あと母さんの都合があえば、おうかがいします」と答えて、なんとか言質を与えるのを避け続けたが、その勢いには押されっぱなしだった。
母親の雪子は、ノートPCをいじりつつ横からそんな娘を眺めて、他人事のようにくすくす笑っていた。普段は冷然としていることが多い我が子なだけに、苦手な祖父母とがんばって話をしている様子が、いつものことながらちょっと可笑しいらしい。貴子は祖父母の相手をしながら、横目でそんな母を睨んだが、逆にいっそう笑われてしまったりした。
そんなふうに、退院後の連休は過ぎていく。
いよいよ明日から、貴子の女子生徒としての学校生活の始まりだった。
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初稿 2008/02/26
更新 2014/09/15