Boy's Emotion
Taika Yamani.
プロローグ
二 「失恋」
穂積貴之の母親の穂積雪子は、趣味の一つに旅行や食べ歩きや芸術鑑賞をあげるような女性だが、子供が物心つく前から、暇があると息子と一緒におでかけをしたがる傾向がある。
息子側の立場としては、思春期にもなると母親と二人で出かけるのはなんとなく照れが生まれるが、さすが親子というべきか、雪子と貴之の嗜好はよく似ている。母親が連れて行ってくれるのは美術館やフルートコンサートといったものが多いが、貴之も嫌いではないし、評判のレストランで美味しいものを食べたりするのも基本的に大歓迎だ。だから貴之も、母親に誘われれば、たいてい断らずに気楽に付き合う。母親の友人が一緒のことも多くて変に疲れることもあるが、その母親の友人たちとも幼い頃からの付き合いだ。中学生の頃に母親に大人のフォーマルスーツを買ってもらった時など、「たーくん、カッコイイ!」「タカくん、うん、よく似合うよ」などと笑ってからかわれた経験も数多いが、貴之も彼女たちのことが嫌いではない。
そんなふうに、母親に付き合って時々夜遊びに行ったりもする貴之だが、好きな相手に対しては何もできないまま、時は流れていた。
貴之の片想いの相手、脇坂ほのかは相変わらず目立つ少女だった。
学業成績は優秀なままで、部活も二学期の新人戦で関東大会まで勝ち進み、来年再来年への期待を滲ませた好成績を残す。九月の生徒会役員選挙でも役員に選ばれて、来年生徒会長に立候補すれば当選間違いなしと言われていた。十一月上旬の樟栄祭――正式名称は私立樟栄高等学校文化祭――でも、人気投票で一年女子のトップを獲得して、陸上部に調理部に、生徒会の活動に自分のクラスにといくつも積極的に関わって、いつも楽しげな姿を人前にさらす。十月の球技大会でもクラスの上位入賞に貢献し、十一月の都の駅伝大会でも一人で順位を上げていたし、十二月の期末試験後のマラソン大会でも、上級生を差し置いて女子で一番でテープを切った。
対する穂積貴之は、どんどんきれいになっていくそんな彼女をただ遠くから見ているだけで、特に目立たない学校生活を送っていた。
見た目だけなら、客観的に言って貴之もそう悪い容姿ではない。多少瞳に他人に一線を引くような冷淡さを宿しすぎるきらいはあるが、物腰は落ち着いていて、基本的な姿勢がいいために大人びて見える。美人と言える母親と似て顔立ちも整っているし、身長も平均より高めでスマートで、部活に入っていないわりには身体つきも充分逞しい。
のだが、口数が少なくて態度もそっけなく、悪く言うと暗いと言える性格のために、クラスでも地味な存在だった。必要があれば他人にも冷たいくらいにはっきりとものを言うから、一部の生徒には一目置かれている部分もないでもなかったが、休み時間もいつも読書をして、人前であまり笑わないのも、貴之の印象を良くも悪くも方向付けていた。
有名大学への進学率も高い私立の高校にあって、学業成績は上位と言えるが、クラスでトップというわけでもなく。母親の影響で簿記三級や英検二級の資格をとったが、学校側もそういった資格取得は推奨して一年生でももっと上の資格を取る生徒もいるから、特別に際立っているわけでもない。幼い頃から中二の終わり頃までフィギュアスケートに打ち込んでいただけあって、運動神経も悪くはないが、ずば抜けていいわけでもなく。体育も積極性に欠けて淡々とこなすせいか、時々活躍しても明るい印象にはなり難い。保健委員など押し付けられているが、ほとんど出番はないし、たまにあっても事務的な態度に終始する。テレビなどもあまり見ない方だから、同年代相手についていけない、ついていく気にならない話題も多く、入学当初は見た目で貴之に興味を持った女子生徒もいたようだが、会話はまず弾まない。
男子としては珍しく昼休みに食後の歯磨きをするあたりも、無駄なお堅さの表れと捉えられているらしかった。本気を茶化したり真面目をカッコ悪いと言うような悪しき風潮の中で、貴之は基本的に真面目で、それも地味という評価の一因になっていた。
「地味なんて言う人は見る目がないのよ。タカちゃんは今のままでもカッコいいわ」
そんな母親の親馬鹿な意見は脇に置くとして、貴之本人が、他人にどう思われようがほとんど気にしていないのも大きいのかもしれない。もともと幼い頃からあまり騒がない子供だった貴之は、常に冷静沈着であることを理想とするような性格で、派手なのも騒がしいのも好きではない。友達関係も「作るもの」ではなく「自然と生まれるもの」だと思っているし、特に友達が欲しいわけでもなかった。
恋を自覚してからは、彼女の目に止まりたいという願望が強く湧き上がっていたが、無理に自分を作ってもぼろが出るだけだとも考える。どうすれば彼女とお近付きになれるのか、どうすれば恋人になれるのか、初めての本気の恋にあれこれと思い悩みつつ、貴之は自分なりの毎日を送っていた。
そんな状態のまま、冬がきて、二学期も終わる。
二学期の後半には、人気者の脇坂ほのかの影響なのかどうか、学校で一過性の洋楽ブームが起こっていて、貴之も興味を持ってみたが、一口に洋楽といっても幅は広く、どこからどうとっかかっていいのかよくわからなかった。母親との海外旅行の経験も多い貴之の語学力は、日本の高校生としては高い方だと言えるが、それと好みの問題は話が別だ。誰でも一度は聞いたことがあるような英国の古い有名なグループの歌や、スケートの練習に使っていた歌やスケートリンクでかかっていた歌などから聴いてみて、気に入った曲もあったが、夢中になるというほどでもなく、淡々と時は過ぎ去った。
十二月の下旬も、クリスマスに浮かれる世間に、告白を考えたりもしたが、まだその時はその度胸もない。
冬休みは、片想いの相手が所属する生徒会が毎年主催しているスキー旅行に参加したが、スキーができないらしい脇坂ほのかは、久しぶりに両親に会うという事情もあって不参加だった。「できないならなおさら参加すればいいのに」と思ったものも多かったようだが、自主参加だから他人がとやかく言うようなことではない。スキーやスケートがかなり上手い部類に入る貴之は、「せっかくいいところを見せるチャンスだったかもしれないのに」と内心がっかりしつつも、スキーはスキーで楽しんだ。好きなスポーツをして身体を動かしている間は、色々なことを深く考えずにいることができる。
初日に好きに滑りまくっていたのは少し目立ったらしく、二日目にあまり付き合いのなかった数人のクラスメートたちにスキーを教えるはめになったが、「どうせなら脇坂さんがいればな」と思わずにはいられなかった。
三泊四日のスキー旅行から帰ってくると、大晦日に朝から母親と連れ立って母親の田舎に向かい、娘の一人息子に甘い祖父母にあれこれ構われて疲れるうちに――懐は暖かくなったが――、あっという間に三箇日も過ぎ去る。
自宅に帰ってきて冬期講習に参加すると、すぐに冬休みも終わって、三学期が始まり。
年に何度か恒例になっている生徒会主催のボランティア活動――学校周辺のゴミ拾いといった小さなイベントなど――に、ほのか目当てで参加して、彼女の近くにいる彼女の男友達の連中に一方的に黒い感情を抱いたりするうちに、一月も終わり、二月になる。
その二月の中旬。
十四日の月曜日。
言わずと知れた、バレンタインデー。
放課後、すっかり習慣となった図書室からの帰り道、貴之は告白の言葉とともに、本命チョコを一個貰った。
広崎紗南――ひろさきさな――という名前の、同じクラスの図書委員をしている、大人しい感じの女子生徒。
彼女にそんな目で見られていたなんて、貴之は全然気付いていなかった。
「あ、あの、穂積くんは、今、好きな人、いる……? もし、いないなら、その、わたし、と……」
付き合ってください……! と、真っ赤な顔で言葉を搾り出した紗南に、貴之の胸は痛んだ。
広崎紗南は、身長は百六十五センチ前後と女子としてはやや高めだが、良くも悪くもあまり自己主張をしない控えめな少女だった。いつもうつむきがちで、容姿で目立つようなタイプでもなく、貴之と同じで普段は読書ばかりしている。貴之との接点は、掃除の班が同じだったことくらいなのだが、いつの頃からか、会うと軽く挨拶くらいはかわすようになった。彼女にしてみれば、他の男子のように騒がしくない物静かな貴之は、まだ話しかけやすいタイプだったのだろうか。クラスで男子に用がある時、おずおずと貴之を窓口にしたりしていた。
だがだからと言って彼女にそんな目で見られていたなんて、貴之は全然意識していなかった。
「……ごめん、好きな子がいる。広崎さんとは付き合えない」
ここで泣かれてしまったら、貴之の胸の痛みはいっそうひどくなったかもしれない。だが彼女は貴之にチョコを差し出して、今にも泣きそうなのに、最後は笑顔を貫いた。
「ご、ごめんなさい……。あの、でもこれ、貰ってください……!」
それが強がりだとしても、いつもは控えめなのに、好きな相手に率直に気持ちをぶつることができる、まっすぐな少女。
『もったいないなぁ』
その場に友人の槙原護がいたら、彼はそう言ったかもしれない。そして貴之も、その感想を否定しなかっただろう。
「告白できるだけで、凄いよな……」
夜、甘いものが好きな貴之は、母親が作ってくれたショコラフレーズとともに、紗南からのチョコも味わって食べさせてもらったが、重苦しい気持ちも抱かされてしまった。
ただ見ているだけで何もできずにいる貴之と違い、勇気を持って動いた彼女。クラスの中では他の相手よりは多少ましな間柄とは言え、全然遠い関係だったのに、好きな人に自分の気持ちを伝えることができる少女。
おれとは大違いだな、と考えると、貴之は自嘲しかできない。
それでも、彼女の行動は貴之の背中を押した。
「どうする?」「どうしようか」「……どうしたい?」
自問自答するが、自分がどうしたいのかはもうとっくによくわかっていた。
脇坂ほのかに好きになってもらって、付き合って、お互いにお互いの一番になって。
傍にいたい。もっと彼女を知りたい。彼女のすべてを知りたい。ずっと彼女を見ていたい。
お互いにお互いを独占して、いつも一緒にいて、色々なことをなんでも話して。二人でイチャイチャして、その瞳を見つめて、頬を撫でて、艶やかな髪にも触れて、抱きしめて、そしてキスもして、その先も色々として。彼女と一緒に、幸せに生きていきたい。
今すぐ多くをとは言わないが、一歩ずつでも近付きたい。
「でも、じゃあ、どうすればいい……?」
自分の願望を実現するために、具体的にどうすればいいのか。
相手に顔も名前も知られていないであろう現状で、いったいどう動けばいいのか。
ほのか目当てだと他人にあけすけになってばかにされるとしても、陸上部や女子しかいない調理部に入って接近を図るという手も、ないわけではない。が、性格上、貴之は特に面白い話ができるわけでもないし、他人を押しのけてほのかに近付くことができるほど器用でもなかった。そうでなくとも、ただでさえ人気のある彼女だ。普通の友達ならたくさんいるし、彼女の特別になるまで、おそらく長い時間がかかることになるだろう。時間がかかるどころか、地道に近付いても、彼女の一番には一生なれないかもしれない。
なんらかのきっかけでよく話すような関係になり、特別傍にいるような立場になれれば、少なくともただ遠くから見ているだけより可能性はあるのだろうが、「偶然何かのきっかけがあって彼女との距離が突然縮まればいい」などという考えは、甘すぎる考えだった。自分が何も動かないのに、相手との距離が縮まればいい、相手に好意を持ってもらえればいいなんて、夢の見すぎとしか言えない。
「……まずは、自分の気持ちを伝える?」
が、貴之がほのかに告白したとしても、ふられるのは目に見えていた。よく学園物の物語で、ヒロインが靴箱をあけるとラブレターの山がごぼれ落ちるようなシーンがあるが、今の貴之は、見込みがないのにラブレターを出すような、そんなその他大勢の立場でしかない。兆に一つくらいの可能性ならあるかもしれないが、まともな望みがあるような状況とは言えない。ほぼ間違いなく、貴之が一方的に彼女を知っているだけの関係なのだから。
そうとわかっていながら、そこから始めるしかないのだろうか。
「告白して、ふられて、その後、どうにかなるのかな……」
自問したが、最悪の答えしか思い浮かばなかった。
「望みないよなぁ……」
認めたくない現実。泣きたくなるような現実。
重い吐息と共に小さく呟いて、それでも、貴之は覚悟を決めた。
相手の迷惑になるだけだとしても、自分を知ってもらいたい。気持ちを伝えたい。無謀な行動だとわかっていても、当たっても砕けるだけだとわかっていても、なんでもいいから今自分から動きたかった。
三月七日、月曜日。
四日に誕生日がきて、十六歳になった三日後。
放課後が始まってすぐ、校舎と運動部の部室棟の中間辺りで、穂積貴之は片想いの相手を一方的に待っていた。もうすぐ三月も中旬、先週はまだ寒い日が多かったが、この日は春の到来を感じさせる温かい一日だった。朝晩はともかく、日中はコートも邪魔で、貴之は緊張のせいかブレザーですら暑いと感じていた。
脇坂ほのかはなかなかやって来なかったが、部活が始まる時間ぎりぎりになって駆けてきた。貴之は「今日は部活にでないのかな」「掃除当番だったのかな」「もしかしたらもうとっくに先に行ってるのかも」などと考えて、緊張しすぎてかなりきつい時間を過ごしていたが、ほのかの姿を見るなり、鼓動が跳ねた。
独特の白いオーバーブラウスが華やかな夏の制服と比べると、やや落ち着いた印象の、冬の制服姿の彼女。
シンプルな白い長袖ブラウスと、細く結ばれた赤いネクタイ。白黒チェックのプリーツスカートに、スカートより明るい色合いのベスト、スカートと同じ黒系色のダブルのブレザー。ストレートラインがシンプルな男子のシングルのブレザーと違い、女子のブレザーはウエストをやや絞ったデザインで、丈も少し短い。この日の彼女は、黒いスクールタイツを穿いて、足元はごく短い靴下と活動的なスニーカーで固めていた。
彼女はどこかでおしゃべりでもしていたのか三人の女子生徒と一緒で、部活に遅れるだとか、だれのせいだとか、賑やかに騒ぎながら走ってくる。
貴之の心臓はバクバクと音を立てて動き、手のひらにしっとりと汗が浮かんだが、最後に深呼吸をする余裕すら与えてもらえなかった。あっというまに貴之の前を走りすぎようとしたほのかを、貴之は慌てて声を出して呼び止めた。
「脇坂さん! ごめん、ちょっといいかな!」
「わっ! はいはい!」
駆け抜けようとしたところを横から声をかけられて、ほのかは手に持っていた標準指定のスクールバッグとボックスコートとを振り回しながら、急ブレーキをかけて停止する。
さっと、彼女の視線が貴之のブレザーの襟に走った。
これは、この学校の生徒が初対面の相手に対してよくやる視線の動きだ。指定の上履きや体育館シューズなどは入学年度ごとに色が決まっているし、ブレザーの襟にも学年章をつける決まりになっているため、相手が何年生なのか判断する直接の材料になる。
「えっと、だれ?」
他の三人は貴之に視線を投げつつも、そのまま走り抜けていく。
「ほのかちゃん、また告白か〜」
「先行ってるね。陸上がんばってね!」
「あ、四組の穂積くんじゃない?」
最後の一人は少し驚いたような声で、ほのかは「知ってる人?」と言いたげに三人を見たが、その三人はちらちらと気にしつつもどんどん遠ざかる。「む、みんな冷たい」とほのかは一瞬瞳を鋭くしたが、すぐに気を取り直したように、貴之に向き直った。
「ぼくに何か用?」
女子なのに自分のことを「ぼく」という、ほのかの艶のあるきれいな声が、貴之の耳に甘く響く。
ほのかは適度な距離で貴之と向かい合って、やんわりと微笑み、貴之の母親よりやや低い位置から、まっすぐな瞳で貴之を見上げていた。「また告白?」と友達が言ってたように、こんな風に呼び止められるのは慣れているのか、ほのかの態度には余裕があった。
対する貴之は緊張で喉もからからだった。もっとクールにスマートにカッコよく振る舞う予定だったのに、見られている、とはっきりと自覚した途端、貴之の顔にカッと血が上った。
「お、おれは四組の穂積貴之、です……!」
「うん」
それで? と口には出さないが、軽く頷いて、ほのかは用件を促す。
なぜか丁寧語を使って、声が上ずってしまった貴之だが、告白されたことはあってもすることは初めてで、緊張のあまり頭の中は真っ白だった。とても冷静ではいられず、好きな相手の前であがりまくっている自分をカッコ悪いと思う余裕もない。
今までずっと遠くから見ていただけの相手が、今は自分だけを見て、手を伸ばせば届きそうな距離にいる。
それだけでも鼓動は跳ねまくるのに、そんな相手に、今から自分の気持ちを伝えると思うと、思考が全然まとまらない。
――ずっと遠くから見てた。
――脇坂さんを見ていると胸がドキドキしていてもたってもいられなくなる。
――もう脇坂さんしか見えない。
――今すぐ抱きしめたい。
頭の中を、溢れそうな想いだけが暴れまわる。告白の言葉をいろいろ考えていたにも関わらず、伝えたいことがありすぎて、何をどう言えばいいのかわからなくなる。
「わ、脇坂さんは! たぶん、おれのこと、知らないと思うけど……!」
またつい大きな声で言って、数秒、貴之は無意識に間を置く。
ほのかも数秒待った後、また小さく頷いた。
「うん、はじめまして、だよね」
貴之が冷静な時であれば、ほのかのその言葉が、また話の先を催促するためのものであったことに気付いたかもしれない。が、後になってかなり情けないと落ち込むことになるのだが、今の貴之には相手の心理を気にする余裕などまったくなかった。
まとまらない思考と、ほのかの視線と、二人の間に横たわる微妙な空気が、貴之の緊張をさらに昂ぶらせる。
感情に任せて、貴之は自分の気持ちを、定型文に乗せて口走っていた。
「脇坂さんが好きです! おれと付き合ってください!」
これも、後になって落ち込む要因となる台詞だった。言いたい事は言い切っているが、全然スマートさがない。
「…………」
ほのかは数秒じーっと貴之を見上げてから、ちょっと微笑み、首を斜めにした。
背の半ばまである彼女の長い黒髪が、艶やかに柔らかく揺れる。
微笑んではいるが、彼女の瞳は意志の強さを宿して揺るぎなく、まっすぐに貴之を貫く。
貴之の心はじんと痺れたが、彼女の次の言葉は、完全に貴之の想定外だった。
「ぼくはキミのことよく知らないけど、それって、結婚を前提に付き合いたいってこと?」
「…………」
「…………」
「…………」
ほのかの言葉が貴之の腑に落ちるまで、長い時間がかかった。
ケッコン。
その言葉は、貴之の想像からはあまりにも遠すぎた。
もしもここで即座に返事ができていたら、また展開は違っていたのかもしれない。
が、情けないことに、貴之はとっさに何も言えなかった。おまけに、彼女に先に沈黙を破られてしまった。
「なーんて、どっちでも同じなんだけどね」
ちょっとだけ笑みを浮かべて、ほのかは言う。
「ごめんね、今はだれとも付き合う気ないんだ。好きって言ってくれてありがとう」
ほのかは貴之の目を見つめてにこりと笑顔を見せると、最後に一呼吸置いて、さっと身を翻した。長い髪とスカートを揺らして、彼女は颯爽と走り去る。
その背中はすぐに遠くなり、建物の影に消えていく。
貴之は彼女を呼び止めることもできずに、真っ赤になって立ち尽くしていた。
何の盛り上がりもない、ほんの数十秒の会話。
何日も前から緊張していたにも関わらず、あっけなく終わったやりとり。
部活の時間がピンチだからだろうが、ほのかはとてもあっさりとした対応だった。見知らぬ男子に構っているよりも、部活の方が大事だという、貴之にとってはきつい対応だった。
それでいながら、ほのかの最後の笑顔は、貴之にとって反則だった。
凜とした可愛さを持った、きれいなまっすぐな笑顔。
貴之がはっと我に返った時には、とっくにほのかの姿はない。
泣きたくなった。
告白する前から結果はわかりきっていたはずなのに、残りの三学期中、貴之はずっと悶々鬱々として過ごすはめになった。
真面目に授業を受けて、いくつかの資格取得や大学受験に向けた勉強もして、忙しい母親にかわって家事をして、空いた時間には読書をして、たまにアイススケートやインラインスケートをして身体を動かして、母親や友人に誘われれば遊びにも行き。
そんな生活を送っていたが、前向きにはなれずに、どこか虚脱感に包まれていた。
あの夜、結局貴之は泣けなかった。
ただただ自分の情けなさカッコ悪さに、自己嫌悪に陥って落ち込んだだけだった。
釣り合わない。
嫌でも思い知らされた。
余裕がまったくなかった貴之と、余裕に溢れていた彼女。
あの瞳に、あの笑顔に、ますます惹かれてしまっても、どうしようもない。
彼女の横に立てる男がどんな男かはわからないが、今のままの貴之には無理だった。
なのに、貴之はこの恋を終わらせることができなかった。これから先に繋がるきっかけをもらうこともできなかったのに、彼女への想いは止まらない。
まだ好きなのなら。諦めないのなら。
人格的にも能力的にも、自分をもっと高めて、彼女の目に止まるようになればいい。
世の中が理屈で動くのなら、わずかばかりの可能性はそこから生まれるのかもしれない。告白して一足飛びに恋人になるという道が断たれた以上、少しでも自分を高めて彼女に近付く機会を作って、積極的に動くべきだった。
なのに、前向きになれない。今の貴之は自分に自信が持てなかった。希望も持てなかった。
「死に至る病、それは絶望である」
そんなことを言った古い哲学者がいるが、確かに「望みをもてない」という状況は人の心をじわじわと締め付ける。
人生経験という意味では、絶望や諦めといった感情も一時的には悪くはない。絶望や諦めを、単に人生における過程の一つにできるのなら、そういう経験は人を育てるのだろう。何かに絶望したとしても、それを乗り越えることで得られる強さもある。
逃げや諦めをまるで醜悪とするような風潮もあるが、諦めが肝心という状況は確実に存在する。どんなに切なくとも、人はすべてを手に入れることはできない。常に取捨選択を繰り返しながら生きていくしかない。
だが、わかっていても、貴之は彼女を忘れられなかった。何かを変えたいと思っていたのに、何も変えることができなかった。
自分でも女々しいと、人として情けないと思ったが、自分の感情は自分でもどうしようもない。
心に住み着いた想いは全然消えてくれない。
春休み、彼女の夢を見て夢精した自分に気付いた時には、もう情けなさにいっそ笑い死にしたくなった。
きっぱりと諦めて吹っ切るでもなく、前向きにがんばるでもなく。
煮え切らないような心理状態のまま、春休みも終わる。息子を強引に夜遊びに連れ出した母親たちや、自分の男友達がこっそり心配していることにも気付かないままに、貴之の二年目の高校生活が始まった。
そんな第二学年の始まりに、少しだけ環境が変わった。
ドキドキしながら見に行った、新しいクラス編成表。そこに書かれていた二つの名前。
理系コースの二年二組、十二番に穂積貴之、三十二番に脇坂ほのか。
切なさと、歓びと、どうしようもない苦しさと。
ふられ方があっけなかっただけに、貴之の識域下には「少しでも親しくなればまだチャンスが」という甘い期待が、まだどこかくすぶっていたのだろうか。
が、何かが変わるかもしれないと期待したが、やはり甘すぎる期待だった。
図書委員を押し付けられたり、今年の新入生の中にほのかの従妹がもう一人いることを知ったりしたが、何もできないままに、時間だけがどんどん流れる。授業中にあてられた時など、貴之は好きな女の子に少しでもいいところを見せようとばかり内心気合いを入れたが、彼女の中では特に目立つこともなかったのか、やはり何も変化がなかった。
脇坂ほのかは一度告白されただけの関係である貴之のことを覚えているのかいないのか、他のクラスメートの男子と同じように貴之を扱った。彼女にとってはそれが当たり前だったのだろう。貴之はせめて毎日の挨拶だけでもしようとしたが、たったのそれだけのこともできなかった。いつも人に囲まれているほのかに近付くこともできず、そのくせ、彼女と他愛もない話をする他の男子に、一方的に黒い感情を抱く。ちょっとだけ物理的に近くなった距離から、ほのかをそっと見つめるだけしかできなかった。
それでいながら、夜、ほのかを想って自分を慰める行為をやめることもできない。自分の醜さ弱さ情けなさだけを見つめさせられる毎日だった。
一年の時の友人の槙原護とは別のクラスで、新しいクラスでは特別親しい相手もできない。失恋の影響をずっと引きずっているせいもあるのだろうが、男子にも女子にもそっけない貴之は、本人が自分で思っている以上に気難しい性格なのかもしれない。
それでも、少しだけ距離が近くなった相手もいる。
二月に告白してくれた、広崎紗南。文系の彼女は二年六組で、クラスこそ違ったが、去年と同じで図書委員だった。紗南は基本的に告白前と態度を変えていなかったが、それでも図書委員会で初めて顔を合わせた時は、驚き嬉しそうな顔を見せた。ホワイトデーのお返しもしなかったのに、貴之の自惚れでなければ、紗南の気持ちはまだ貴之に向いていた。
自分がふった相手と顔を合わせるのは、貴之としては少し気まずい。相手がまだ自分を想っているのならなおさらで、貴之はできるだけ意識しないように振る舞った。が、紗南は控えめなのは相変わらずだが、図書委員の経験者ということで少し積極的に話しかけてくる。
その結果、八日に一度回ってくる、昼休みと放課後の当番で一緒の班になった。一クラスから男女一人ずつ、八クラス三学年、四十八人の図書委員が、六人ずつ八班でローテーションを組む。役職上の付き合いとは言え、一緒にいる機会が多ければ、どちらかが邪険にしない限り自然と距離は近付くもので、図書室でだけ話す関係ながらも、貴之は他の図書委員より紗南と少しだけ親しくなった。手空きに時には、たまにお互いが読む本の話などを交わしたりする。
その分、時々見え隠れする彼女の気持ちには胸が痛んだ。
五月に一度だけ、紗南は、貴之の読んでいる本を読み終わったら貸して欲しいと、思い切って口に出したことがある。が、貴之は穏便に、だがきっぱりと拒絶した。
「ごめん、悪いけど、人と貸し借りはしたくないから」
「そ、そうなんだ、無理言ってごめんね……」
紗南は慌てて謝っていたが、貴之の気のせいでなければ、露骨に辛そうな表情も浮かんでいた。だがだからこそ、自分に好意を抱いてくれているように見えるからこそ、貴之は必要以上に仲良くならないし、優しくもしない。好きな人を諦めきれない気持ちは痛いほどわかるが、貴之はほのかを想い続けていたし、紗南の気持ちに応えるつもりもなかった。
四月下旬の体育大会も、五月の中間テストも、その後の高校生活のビッグイベントの修学旅行も、貴之の時間は代わり映えなく過ぎ去る。
そんな一学期の前半、脇坂ほのかは学年トップの成績を維持しつつ、陸上の女子三千メートルで、インターハイ出場をかけて活躍していた。四月の地区予選と五月の都大会とを上位入賞で勝ち進み、六月の最終予選である関東大会に出場する。残念ながら後一歩というところで入賞を逃がしたが、去年の秋も関東大会まで勝ち進んでいたこともあって学校中の期待がかかる中、ほのかはしっかりと自己ベストを更新していた。
陸上部員で関東大会まで勝ち進んでいたのはほのかだけで、部員たちはみな応援に来ていたようだが、学校側の勧めもあって部外の生徒の応援も多かった。インターハイの出場権を逃がして戻ってきて、そんなみなに囲まれたほのかは、いつもの明るい表情で笑って、気を遣うみなを逆に励ましていた。
みなに気を遣って悔しさを隠した笑顔なのか、全力を出し切って悔いのない笑顔なのか、来年に向けた決意を表した笑顔なのか。隣県のその大会会場までこっそりと応援に来ていた貴之は、そんなほのかを、ただ遠くから見つめることしかできなかった。
「なにやってるんだろうな、おれは……」
楽しんで充実した学校生活を送っているように見える彼女と、精神的に停滞して日々をただ生きているだけの自分。一人きりの夜にそう呟く貴之の声は、自嘲と切なさに満ちていた。
別々のクラスになっても交遊は続いていた槙原護に、貴之の気持ちをまた指摘されたのは、六月の終わりの季節。
夏の大会が近い野球部の護の休養日、彼に誘われて出かけた、少し時期はずれの屋内アイススケートリンク。貴之の好みに合わせたからその場所らしかったが、なぜわざわざ貴之の好みに合わせたのか、その理由を知ったのは現地で参加メンバーを知ってからだった。
二年になって貴之と同じクラスになった護の恋人を含む、女子が三人と、男子が三人。六人の男女のうち、貴之と女子の一人を除いて、残りの二組は恋人同士だった。この日は遊びというよりは合コンもどきで、貴之とそのもう一人の女子とを引き合わせるために設定されたことに、すぐに貴之は気付いた。
「穂積くんって、ほんとにスケート上手いんだね」
「幼稚園の頃からずっとやってたからね」
貴之は問われたことには普通に答えたが、その声は少しそっけなかったかもしれない。
貴之とまともに話すのが初めてだったその女子は、貴之のスケートの上手さには感心したようだが、かえってその実力の差に引いてしまったらしい。貴之がマイシューズを持ってきたこともまずかったようだ。手取り足取り優しく教えればまだ盛り上がったのだろうが、貴之は好きでもない初対面の女にそんな真似をするほど八方美人ではない。
「最初は歩くことから初めて、毎日二、三時間くらい、一週間も通えば、バックにクロスに軽いジャンプまで楽にこなせるようになるよ」
今その場を楽しみたいだけの彼女にしてみれば真面目すぎる意見を言う貴之は、結局「ルックスは悪くないけど面白味のない男」という印象だったようで、彼女は後半は、貴之より女友達と遊んでいた。
『穂積さー、おまえもっと愛想よくしろよなー。スケートの後はさっさと一人で帰っちまうしさー、せっかくセッティングしてやったっつーのに』
「だれもそんなの頼んでないだろ」
友人の槙原護から電話がかかってきたのは、その日の夜の早い時間。
お気楽そうに電話をかけてきた護に、貴之は冷たい返事をしたが、護の方が一枚上手だった。貴之は「槙原にとっては、おれは“何人もいる友達の中の一人”という程度」と思っていたが、貴之のその認識以上に、どこをどう気に入ったのか、護は貴之を気にかけてくれていたらしい。少し逡巡した後、護はずばり切り込んできた。
『おまえ、三月に脇坂ほのかにコクったんだろ』
「…………」
なぜ護がそれを知っているのか、貴之は不快感を刺激されたが、冷静に考えると特別不思議なことではない。「脇坂さんは言いふらすタイプじゃない」と、ほとんど恋は盲目と指摘されそうな確信が貴之にはあるが、一緒にいた彼女の友人たちもそうとは限らない。場所も校舎から部室への通り道だったから、たまたま見ていた生徒がいた可能性もある。客観的には「また男が一人、脇坂ほのかに告白して玉砕した」というだけの話だから特に目立った噂にもならなかったが、みな気をきかせて知らぬは本人だけというのもよくあることだ。
『おれとしてはさ、いい加減に忘れて、他の子と付き合ってみたらどうかと思うわけよ』
「ほっとけよ。槙原には関係ないだろ」
誰かを忘れるために、別の誰かと付き合う。確かに、そこから始まる恋もあるのだろう。
だが、他人のそんな行動を非難するつもりはないが、貴之はそれをするつもりはなかった。自分の気持ちを知りながら他の女と付き合うような器用な真似はできないし、自分の今の気持ちを消し去りたいと本気で思えるほど強くも弱くもなかった。
『まあそうなんだけどさぁ。よりにもよってあの脇坂はきついだろ。ろくな接点もないのに、さっさと諦めた方がいいんじゃない?』
「何度も言わせるなよ。おまえには関係ない」
『うー、まあ、そうなんだけどさぁ』
同じ台詞を繰り返して、護は電話の向こうで頭をかく。
『そんな冷たいことばっか言ってると、友達無くすぜ?』
「…………」
率直な護の言葉だった。実際、貴之には友達と言える友達は数えるほどもいない。
ちょっと冷静さを取り戻した貴之は、微かに吐息を漏らした。利き腕から右手に携帯電話を持ち直して、ごめん、と、小さく呟く。
『あ、いや! まあ、馬に蹴られそうなことしてるおれも悪いんだけどな!』
「うん」
『ちょっとは否定しろよ』
「はは……」
少しだけ、貴之も笑う。
「ごめん。でもこの件はほんとにほっといて。悪いけど」
自分でもどうしようもないんだ。と、切ない本音が喉をでかかったが、貴之はその言葉は飲み込んだ。
護もさらに何か言いたげだったが、笑ってうやむやにすることにしたらしい。『ま、いろいろがんばれや!』という言葉を投げてくる。無責任とも、本気の励ましとも取れるが、このくらいの気軽さの方が、今の貴之にとってはありがたい。
夏の大会が近い野球部の話になって、『穂積も応援に来いよ』「ベスト4まで進んだら考えてやるよ」などと、笑って他愛もない言葉を交わす。
キャッチャーで三番を打つレギュラーの護は結構本気で甲子園を目指しているようだが、さすがに甘くはないらしい。ちょっと愚痴めいたことも零した。
『まぁ、言っちゃ悪いけど、今年はピッチャーがなぁ。来年になれば活きのいいのが入ってくる予定なんだけど、もう一、二年遅く生まれりゃよかった』
これまでも護との話で何度かでていたが、「活きのいいの」というのは護の恋人の弟のことだった。昔は強い時期もあったという樟栄高校の野球部は、近年はよくて三回戦止まりだが、護の出身校でもある樟栄中学の野球部は、去年後一歩で全国大会に進めそうなほど活躍し、今年はかなり期待されているらしい。そのため、高校では来年以降、その持ち上がり組の戦力が待望されているようだった。
とは言え、護は今の戦力でもそう簡単に負ける気はないようで、『おまえも応援に引っ張り出しちゃるよ』などと陽気に笑っていた。
「目指せ甲子園!」と頑張っているそんな護と比べると、貴之はちょっと劣等感も感じるが、スケートに熱中していた昔はともかく、今はどうしようもないほのかへの気持ち以外、本気になれるものがない。しばらく無駄話をして電話を切ると、貴之は重いため息をついて、自分の未来に思いをはせた。
今のままでいいとは思わない。だが、いくつもの願望は存在するが、どうすればその願望を実現できるのか全くわからない。この先どうなるのか、自分のことなのにさっぱりわからない。
……もしもこのまま何事もなく時が流れれば、そのうち脇坂ほのかに恋人ができて、貴之は今以上に辛く苦しい思いを抱かされたかもしれない。ほのかとの距離を縮めることができずに、そのまま卒業して、彼女のことは思い出になっていったのかもしれない。何年もたった後に、自分の高校時代の恋に、甘酸っぱい思いを抱いたのかもしれない。
だが、このまま何事もなくは進まなかった。
この先どうなるのかさっぱりわからないまま、貴之は人生の転機を迎えることになる。
七月の終わりに母親と恒例の夏の旅行に出かけて、帰ってきてからすぐ。
貴之の貴重な高校二年の八月のほとんどは、病院で潰れた。
特発性性転換症候群、俗に言う性転換病にかかり、貴之は男から女になってしまったのだ。
※ 「死に至る病」
セーレン・キルケゴール(1813-1855. デンマーク)。
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初稿 2008/02/26
更新 2012/11/16